May 04, 2011

春の終りの石焼芋

オサマ・ビンラディン死亡というニュースが流れた。アメリカの特殊部隊による殺害だそうだ。作戦名「ジェロニモ」って、悪趣味なネーミングだと思うが、命名者の意図を超えて、この状況をわかりやすく象徴している気もする。しかし、これで、テロの被害者や遺族やアメリカ人の何かが晴れるものなのだろうか。終った感じはどこにもない。東日本大震災からすでに五十日を過ぎている。先日、原子力損害賠償法をめぐって、東京電力の社長が、免責が適用されるという理解もあり得る、とかコメントしたらしい。はじめにこの話を聞いたときは、ネットに流布する噂だとばかり思っていた。まさか実際に社長がコメントしたことだったとは。巷はゴールデンウィークである。きょうは、みどりの日。寺山修司忌。まもなく立夏だというのに、しばしば肌寒いと感じる夜がある。つい先日も、冷えるなあと思っていたところ、いーしやぁーきいもぉー、やきいもぉー、という、あの移動販売の独特の節回しが聞こえて来た。

四月十六日、青柳守音さんのお別れの会に出席するために上京。震災後、はじめて東京に出かけた。この日、関東で少し大きな余震があって、新幹線でそれを知ったときには緊張した。東京に着いてみると、照明や自販機で節電されている以外、特にこれと言うほど目に見える変化はなかった。むしろそれが不気味だった。「短歌人」のメンバーを中心とした六十人ほどの歌人が、早稲田界隈の某所で生前の青柳さんを偲んだ。青柳さんの地元から、鈴木竹志さんと大辻隆弘さんと荻原裕幸が参加した。亡くなってから半年近く過ぎているし、それぞれに故人の思い出を語りあうなかに、どこかしらほのかに明るい雰囲気はあった。これから歌人としての彼女をしっかり顕彰してゆこうという論調のなかで会は進んだ。私は、青柳さんが見ていたら何と言うのかなあとぼんやり考えていた。静かに延々と泣き続けていたHさんに、困ったような笑いを浮かべる青柳さんの表情が見える気がした。青柳守音さんをめぐっては、以下の各エントリにまとめている。各タイトルにリンクを施しておく。

 2010年11月9日(火)/青柳守音さん
 2010年11月12日(金)/すみません
 2010年11月13日(土)/次女の夫
 2010年11月19日(金)/器とか枇杷とか
 2010年11月20日(土)/牛乳と餡パン

四月十七日、千種のメルパルク名古屋へ。長谷川径子さんの第一歌集『万愚祭』(本阿弥書店)の批評会に出演する。参加者は四十人ほどだった。パネリストは、田中徹尾さんと水野直美さんと海野灯星さんと荻原裕幸。司会は杉本容子さん。いつの頃からか、歌集批評会は、テーマやモチーフの分析が主流になって、作者に対してとても手厚い展開になることが多いように思う。だったら私は少し違う角度から話をしようと考えて、十首選と以下のような簡単なメモだけをまとめて話をしてみた。「「私」がそこにいる/他者と共有している時間と空間がある/比喩のすべてに現実を投影している感触がある/口語も文語も定型への収まりの良さから選択されている/自意識の外にことばがはみ出さない/理解できないものを作品に持ちこまない/経験を経ずにものごとを認識する態度が見られない」。長谷川さんの、写実とは呼ばれない穏やかなリアリズムは、このメモにある美点と難点を同時に抱えている。それ自体は単純に是非を言えることではないのだが、このメモの範疇を逸れる作品が全く見られないのは、少し淋しいことであると思う。ときには自身の世界を抜け出すように作品をまとめてみてもいいのではないだろうか。以下、十首選から五首、引用しておく。

 消えそうな蛍光灯の点滅を誰も言わずに会議はつづく/長谷川径子
 大空に浮かぶ白雲見るほかに予定をいれぬ冬の休日
 ゆっくりとアッサムの茶葉ほぐれゆき許容範囲がすこし拡がる
 やわらかな炎だなあと見ておりぬ薬缶の底の青き瓦斯の火
 むずかしい議論ばっかりする人よ秋明菊も知らないくせに

四月の第一水曜日から、中京大学のオープンカレッジ「俳句を楽しむ」の春期の講座がはじまっている。今期の受講者は七人。少人数なので、作品の批評に加えて、概論的な話を少し多めにしている。初回はオリエンテーション的な話を中心に。以後の回は題詠。当日見せてもらった詠草について、その場で添削的な批評を進めるというスタイルはこれまでの通り。各回の題は「桜」「長閑」「五月来る」とした。俳句を語りながら、俳句には俳句を書く人にしかわからない機微がある、とあらためて強く感じる。おそらく短歌にもそうした機微があるのだろう。ジャンルの外に向かってそれを言うと、特権的な感じ、優越的な感じ、嫌味な感じを和らげることが難しい。しかし、やはりそれはあるとしか言いようがない。学問の世界でフィールドワークが必要になるのと同じことで、俳句や短歌を理解するのにも、実作というフィールドワークが必要だということなのかも知れない。

 煙草喫ふひとの逸れゆく桜かな/荻原裕幸
 ごみ箱に長閑溢れてゐたりけり
 折込のたばにまぎれて五月来る

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April 15, 2011

桜の街の満開の下

震災からすでに一か月を過ぎている。被災地とその周囲では大きな余震が続き、一万人を超える行方不明者は行方不明のままである。福島第一原発については、どれほどの距離を保てば安全なのか、はっきりとしない状態が続くなかで、事故のレベルをどう評価するかが取り沙汰されたりしている。テレビの編成は、常態に戻りつつあるようだが、何か奇妙な清潔感に支配されている。震災の前にはたしかにそこに遍在していた愚痴っぽい感じ(政治不信とか漠然とした不況とか高齢化などを綯い交ぜにして日本の社会に不満を抱えている感じ)が薄れて、震災にダイレクトにつながる報道系の番組と、たとえ被災者へのメッセージを添えようとも震災の具体感を一切連想させない明るい印象の番組やCMとがこもごもに流れている。一つになろう、みんなでがんばろう、等のフレーズが何回も繰り返されている。

先日、友人同士での定例の読書会があって、前回に続き、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(二〇一〇年、鬼澤忍訳)の後半を読み進めた。この本の誕生のきっかけになったサンデルのハーバード大学での講義は大人気で、日本のテレビでも放映されているらしい。政治について議論するためのテキストとしては格好のもので、少し正確さを欠く言い回しになるが、人々の良識の範囲で何とかなるのではないかと感じられる問題が、突きつめると実は何ともならないのだという結論を、これでもかとばかりにぶつけて来る。共同体主義(コミュニタリアニズム)に対して、どこかに偏見がある私には、いささか重苦しくも感じられた。共同体に理想の状態を求めることを、主張としては理解も納得もできるのだが、どうやら、世の中は何ともならない、古風な自由主義のなかで綱渡りを続ける他ない、と感じている私の意識のダークサイドのような部分が反撥してしまうらしい。

先日、所用で泥江町(ひじえちょう、と読む)に行った。泥江町は町名ではなく交差点名である。名古屋駅の側から見ると繁華街の端、那古野の側から見ると下町の端にあたる。いまや名古屋国際センターの交差点と言った方が通りのよくなりつつあるそこには、三つの角にかなり大きな桜の樹があって、とても綺麗な満開の花を見せていた。桜の季節に行ったのははじめてだった。と言うか、何回も行っているのに、そこに桜があることにずっと気づかずにいた。ひるさがりの通行人の多くは、見慣れているからなのか、関心がさほどないのか、中空に視線に向けることもなく、淡々と通り過ぎてゆく。付近のコンビニの前からぼんやり眺めていると、一人の男性が、桜に気づいて立ちどまり、眩しそうな表情で眺めた後、おもむろに携帯電話を取り出して写真を撮りはじめる。しばらくは撮った画面を楽しんでいる風で、やがて満足そうな微笑を浮かべて立ち去って行った。

 ケータイに春は小さく収まつて世はこともなくないのにしづか/荻原裕幸

先日、山崎川にかかる小さな橋に立つと、八分でもない、散りはじめでもない、満開以外の何ものでもない桜がそこにあった。花見に時間を割くだけの余裕がなく、所用で外に出た流れで慌ただしく立ち寄った山崎川は、それでも、桜の名所らしい、例年通りの艶麗な表情を見せてくれた。ほんとにただのひとひらも散ってないなと思いながら眺めていると、にわかに風が吹いて来て、花びらが宙に舞った。風が止むと、時間が止まったように花びらが宙にとどまる。やがてゆっくりと川面に向かって落ちはじめる。それから何秒も経たないうちにもう一度風が吹く。川面に向かっていた花びらが巻きあげられて、今度は橋の上に向かって迫って来る。なかのひとひらはほとんど一直線にやって来て、私の眉間にやわらかくあたった。こどもの指が触れたようなそんな感触だった。

 それ以上でも以下でもなくていまここに桜が咲いて私がゐる/荻原裕幸

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April 06, 2011

四月になれば日本は

震災後、自粛を求める空気があきらかに広がった。たぶんこれはパニックの一種なのだろう。現在の日本人の多くは、生命や尊厳の維持という意味で不可欠なものや、広義の生活の充実という意味で価値のあるものや、それら以外の不可欠でも価値があるわけでもないものに囲まれて暮らしていると思う。何が不可欠で何が価値があって何がそれら以外なのかは、個人によって異なるわけだし、この異なりは、個人の人格や個性や価値観などによるものだと考えられる。私が自粛の空気をパニックの一種だと感じるのは、一時的であるにせよ、あらゆることを不可欠か不可欠でないかという尺度で共同的に判断させて、人々をゆるやかな画一化に向かわせるからだ。気遣いにも個人差があるのが自然ではないだろうか。

三月二十四日の朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、人見邦子さんの第六歌集『春風つかむ』(六花書林)と若山紀子さんの詩集『若山紀子詩集』(新・日本現代詩文庫、土曜美術出版販売)をとりあげた。分量は四百字で四枚半弱である。冒頭、震災に関連する件から書きはじめた。詩歌句の作品は、必ずしも日常をモチーフに書かれるものではないが、作品が書かれる場所はこの日常であり、震災が起きたのと同じ空間である、ということを私のなかの誰かに言い聞かせるように書いていた。ともあれ、作品を作品としてできるかぎり丁寧に読んで、ふだん通りの批評をするためにベストを尽してみた。ふだん通りに何かをするというのは、肩の力を抜くことではなく、全力でそうあろうとすることだと再認識させられた。

三月二十八日の、砂子屋書房のホームページのコラム「日々のクオリア」で、黒瀬珂瀾さんが、第四歌集『世紀末くん!』(一九九四年)の一首を鑑賞してくれた。短歌史にダイレクトにつながるところのほとんどない作品をめぐって、こんなに自然な筆致で鑑賞を展開しているのに舌を巻いた。秋山参謀のくだりなど、無意識とも自覚的とも判断できないはずなのに、マジカルに作品の背景に定着させていてとても興味深い。黒瀬さん、どうもありがとう。この一首を書いた頃の私は、わからないと言われることにどこかで慣れはじめていた。それでも、わかる人にだけわかってもらえばいい、という心境にはどうしてもなれなくて、短歌を楽しみながらも耐えるような時間が続いた。孤独感、と言うか、孤立感を深めていた時期だったように思う。

三月十八日と四月一日、午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」。十八日の出席者は10人。詠草は10首。題は「大」。大阪府から一字をもらった。一日の出席者は12人。詠草は12首。題は「庫」。兵庫県から一字をもらった。いつもの通り、詠草を一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めた。一日の題の「庫」では、文庫が圧倒的多数で、倉庫、冷蔵庫、車庫がそれに続き、浜口庫之助も登場した。浜口庫之助の作者は、説明もかねて、「大人になれば」(オザケンのではない)をアカペラで歌ってくれた。各回の講座で題詠の作例として見せたのは以下の二首。二首目の、金庫の歌、ホワイトボードに書いて読みあげたらみんなに笑われてしまった。笑われるのは、しかし、悪くない気もする。

 春のひかりに紛れて見えず何かしら大きなものがそこにゐるのに/荻原裕幸
 金庫などといふものはない荻原家はるのひざしのふかみに沈む

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March 31, 2011

寓意のパラダイス

午後、小雨が降る。すぐに晴れる。ベランダから近隣を見渡すと、雨粒が残っていたようで、陽ざしがそこかしこで反射してやけに眩しく感じられた。うららかな風景を見ていてにわかに外に出たくなる。用事のついでに瑞穂区役所まで歩いた。山崎川の周辺ではそろそろ桜が咲きはじめている。やっとあたたかくなるのか。この数日、被災地を発行所とする歌誌や句誌が届いている。震災のために発行を迷ったとか、発行は無理ではないかと思ったとか、添えられた編集者のコメントが、煙のように目にしみた。テレビは震災一色というわけでもなくなって来たが、被災地のその後と福島の原発事故の状況を見守る日々が続いている。原発事故の報道は曖昧をきわめて、名古屋のスーパーとコンビニの棚には、商品の微妙な品薄が広がっている。

川柳を継続的に書きはじめてから七年になる。断続的に習作をしていた時期をあわせると十年を超える。現代の川柳について言及しはじめてからは二十年になった。その間、私の川柳観はかなり大きく揺れた。現在思うのは、川柳とは、定型詩において寓意(アレゴリー)が唯一自由にふるまえる場である、ということだ。短歌や俳句にもむろん寓意的表現はある。ただ、それぞれのジャンルの歴史的事情は、寓意を決してジャンルの中心に位置させない。寓意は、川柳においてだけ、のびのびとふるまっているように見える。これを、川柳が諷刺の表現を展開して来たことにかかわりがあると推察するのは容易だが、伝統または因習として理解できる問題とは少し違っているように思う。

寓意と言っても、私が問題にしようとしているのは、登場する狸は政治家Aを、狐は政治家Bを諷刺しているといった類の表現ではない。具体的なモデルがあろうとなかろうと、書かれたことばが、近代以降のリアリズムの枠をはみ出てしまって、別の意味に転じてしまうような文体のことである。寓意の骨格が見えるのに、それが何だとは特定できない、しかし何かがたしかにたちあがることばの感触のことである。

 妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬

『セレクション柳人・石田柊馬集』(二〇〇五年)に収録された一句。以前にもここで一度言及したことがある。実在の妖精を見たこともないのに言うのもあれだが、その外見も匂いも味も、たぶん酢豚には似ていないだろう。と言うか、似ていてはならないと思う。それをこうして結びつけているところに、既成概念に対する破壊衝動を読むことで、とりあえず一句の解釈は成立する。しかし、読んでいるうちに、これは単にあの妖精のことだけを言っているわけではないのかも知れないという感覚も生じて来る。リアリズムでは、それが、表現の事実性の強度から来る象徴としてあらわれる。ここでは、そもそも妖精そのものが問題にされているのではない、という、寓意の様相を帯びている。具体的事実が語られているとは見えないのに、何かを明確に言い当てている感じがある。妖精は置換可能な対象であり(カリスマ的政治家とか、人気タレントとか、その候補をあげるのは容易だと思われる)、リアリズムはそれを表現上の甘さや緩さとして捉えるが、この句が見せようとしているのは、その置換可能な枠組全体なのである。リアリズムの理屈はここでは通用しないだろう。

このような寓意という視点に立つと、現在の川柳の或る領域の作品群が、寓意のパラダイスにも似た状態を見せているのがわかる。短歌や俳句のリアリズムがそれを拒めば拒むほど、寓意は、川柳の大きな特徴として浮かびあがることだろう。共感でも思いでもない川柳のありようを、私はしばらく、こうした寓意のなかに見てみたいと考えている。以下、私の好む寓意的な川柳を列記してみる。

 いもうとは水になるため化粧する/石部明
 この世からはがれた膝がうつくしい/倉本朝世
 立ち入ったことを餃子のタレに聞く/筒井祥文
 よろしくね これが廃船これが楡/なかはられいこ
 永遠に母と並んでジャムを煮る/樋口由紀子
 そこそこの幽霊になりそこいらに/広瀬ちえみ
 空き瓶を持ち上げ雌雄確かめる/丸山進

二月は二十日、三月は二十日に、ねじまき句会の例会があった。二月は東別院の名古屋市女性会館で。出席者は、新しいメンバーを含めて九人。題詠「閉」と雑詠の各一句を提出。無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めた。三月は都合がつかず欠席となったが、題詠「間」と雑詠の各一句を提出。選句でのみ参加した。メンバーがやや増えてかなりにぎやかになった。うれしいことだ。企画者の一人としての使命はそろそろ果たせたのではないか。ただし、小さな達成感や満足感にひたることが、句会にプラスに作用するはずはないとも思う。次のステップを積極的に求める必要はありそうだ。私が句会に提出した川柳は以下の四句。前の二句が二月、後の二句が三月の分である。

 開閉開閉開閉開閉開まだ五階/荻原裕幸
 浴槽が急に苦情を言いたてる
 梅と海との間でなにか音がする
 誤植したみたいに犬が殖えている

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March 27, 2011

永井陽子に導かれて

十六日、午前、長久手の愛知県立大学へ。あいち国文の会の研究会で発表をする。題目は「歌人・永井陽子の世界 ことばとこころの距離」。もっとも、私の場合、発表とは言っても、研究者ではないので、歌人の視点からの講演ということになる。永井陽子さんが生前に自身の手でまとめた六冊の作品集を紹介しながら、方法の変遷をたどるように作品を読解してみせた。出席者は60人超だったという。発表後の総評的な発言のなかで、島津忠夫さんが、言及する対象を六冊に絞ったことを評価してくれた。遺歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』(二〇〇〇年)は、第六歌集『てまり唄』(一九九五年)以後の永井さんの作品の全貌を見せてくれる佳い歌集で、話す側としては題材にしやすいのだが、全貌が見えるというのは、言い換えれば、こだわりが見えにくいということでもある。そのような観点からの評価であった。私は、島津さんの発言を聞きながら、永井さんの全歌集の編集に尽力した青柳守音さんが、遺歌集を全歌集に入れることを永井さんは望まないのではないかと悩んでいたのを思い出した。結局それは、読者的な立場からの判断で収録されることになったのだが、私のなかのどこかに、生前の青柳さんの悩んでいる姿が残っていて、それが今回の話に作用したのかも知れない。

当日配布した資料に、永井陽子さんの歌人としての活動を簡単にスケッチした文章を載せた。若干修整してここに掲載しておきたい。「一九五一年生。二〇〇〇年没。高校時代から短歌を書きはじめた。結社誌「短歌人」に所属する傍ら、他の同人誌、超結社グループでの活動も盛んだった。とりわけ「歌人集団・中の会」においては、一九八三年のシンポジウム「女・たんか・女」にパネラーとして出演するなど、当時の女性歌人の中心的存在の一人として頭角をあらわした。そうした経緯が、永井陽子を現代の女歌の系列の歌人と誤解させている面もあるようだ。フェミニズムに近づこうとした、あるいは、女性であるという人間的属性から出発しようとした一九八〇年前後の女歌の流れは、永井の作風とは縁の薄いものである。永井の特徴は、口語的で軽快な文体、散文的なテーマにこだわらない音楽的な文体にあり、リアリズムを中心とした近代短歌の批判的継承にあると言えようか。一九八〇年代に起きた現代短歌の変容の先駆的存在であるのはあきらかで、その面からの短歌史的位置づけが必要であると考えられる。」

当日話したことに関連して一点だけ。永井陽子さんの第一句歌集『葦牙』(一九七三年)には、短歌百十三首と俳句九十七句が収録されている。初版の刊行部数は三百部だったそうだ。私は、全歌集で復刻されてはじめてその全体を読んだ。とりわけ、それまでは引用を目にすることがなかった、つまり、言及されることが皆無だった、永井さんの俳句が気になっていた。

 クマンバチが私の視線を折りに来る/永井陽子
 乳母車を押そうどこまでもしろい道
 にぎりこぶしを開けば何もない秋野
 消しゴムであしたを消してしまい 雪

引用したのは、順に、春夏秋冬をイメージさせる句で、春秋冬は各季語を含んでもいる。ただ、季語も他の名詞も、時間や空間の具体に向かって作用せず、すべて寓意的に何かを示唆しているように見える。それと、一般に短歌を中心に見たとき俳句に対して感じられる半身性がここにはなく、一句がそれだけでボディ全体であろうとしているように感じられる。ここにあるのは、五七五というフォルムによる詩の試行であり、俳句、川柳、一行詩、のどれにもそれなりに似て、どれにも属さないようなテキストである。短絡的な結論は避けなければならないが、その後の永井陽子の短歌の展開が、ジャンルの表現史に直につながるよりも、定型との対話に重きが置かれているように見えることと、これは深いかかわりがあるように思われてならない。

第二歌集以後の短歌の方法の変遷については、永井陽子論としてきちんとまとめたいと考えているので、機会をあらためることにする。以下、備忘録的に。島津忠夫さんから、永井陽子さんの俳句の作風については、村田治男さんとの交遊が影響していたらしいという情報を得た。詩歌句すべてのジャンルの作家である村田さんの名前を聞いて、なるほどと腑に落ちるものがあった。宮崎真素美さんからは、私が引用した永井さんの作品のいくつかが、『測量船』の本歌取なのではないか、他にも三好達治の影響があるのではないかと意見をもらう。「甃のうへ」と「あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ」については、私も感じるものがあったが、前述の「乳母車」の句はそう言われるまで気づきもしなかった。要チェック事項だと思われる。久冨木原玲さんからは「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」など、永井さんのことば遊び的なレトリックについて、万葉集の無心所著歌や藤原定家の達磨歌につながるものではないかと意見をもらう。古典和歌とことば遊びとのこの話の流れ、どこかで聞いたことがあるような、と思ったまま、数日を経て、はっと気づいて本棚から論文集をひっぱり出してみると、はたして「和歌とことばあそび」と題されたその論文の筆者は久冨木原さんであったのだった。

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March 25, 2011

三月十一日をめぐる私記

十一日、午後、いつもながらの遅い昼食を終えて、リビングでぼんやりとミヤネ屋を見ていたとき、地震速報のテロップが流れた。そこに東北の地名を見た直後、画面のなかでは、中継場所だった都庁や東京のスタジオが揺れて騒然となった。すぐにテレビのこちら側の名古屋もゆっくり大きく揺れはじめた。震度3か4か、ちょっと長いなと感じたのと、大阪もいま相当揺れてますよとテレビから声がしたのが同時だったろうか。どんな規模なんだよと思う。以来、テレビのなかは震災一色となり、地震と津波と原発事故の映像を見る日々が続いた。それらの科学的なメカニズムの解説も繰り返し聞いた。震災報道の合間にはACジャパンのCMばかりが流れて、CMそのものが訴える内容以上に、スポンサー企業がこぞって宣伝を自粛しているという状況がひしひしと伝わって来た。

被災地から遠く離れた名古屋では、静かな時間が流れ続けているように見えた。震災から二日後に名古屋市議選の投票があって、前回を上回る投票率だったという。河村たかし市長を代表とする減税日本が議会の第一党となった。民主党は惨敗した。深夜に少しだけ流れたニュースが淡々とそれを伝えていた。ネットでニュースの一覧を見ると、震災のニュースのなかにぽつんと一つこの記事があって、大切なことのはずなのに、何か場違いな印象をもたらしていた。買い物に行くと、大手のスーパーの棚がところどころがらんとしていた。不安が人を買いだめに走らせているのだろうか。私はできるかぎりふだんと同じ内容の買い物をした。買い物にかぎらず、万事ふだん通りにふるまおうとしてみたが、ふだん通りにふるまうというのは、そう意識すればするほど困難なことだと思った。

巷では開催をとりやめるイベントが相次いだようだ。その要因には、不可能も自粛も萎縮もあったと推察される。この時期に私が講演したとある研究会でも、前日に主催側の一人から電話が入って、原発事故の状況が悪化して動揺している様子と、このような状況のなかでそのまま開催していいものかどうかという迷いとがあきらかに感じられた。自粛すべきことは自粛すべきにせよ、萎縮することはあまり望ましくはないのではないか。そんなことを考えながら、講演の資料をまとめていた。ふだん通りにふるまうことができない日常が続くなかで、短歌その他の表現に向かっているときの私は、たぶんほぼふだん通りだったのではないかと思う。理由はよくわからない。日常はふだん日常的であるが、表現はふだんから日常と非日常が混在した場所だということが影響したのだろうか。

いつかは人が地震のメカニズムを完全に掌握する日もあるのだろう。ただ、現在のところ、地震は、私たちの科学や知識の外側からやって来る。外側からやって来るということは、それが偶然だということである。ふだんはやり過ごせても、ここまで強烈にやって来た偶然は、私が認識している世界のなかに私がいるという安定した感じを奪う。震災に直撃されたわけではないのに、二次的な被害にさらされているわけでもないのに、それでも不安定な気分が生じるのは、多くはたぶんそうしたことに由来するのではないかと思われる。少なくとも私の場合はそうだ。偶然にさらされ続けるということは、生きているということと同義だが、私は非常な事態のなかにいることをふだんは忘れている。私が感じている日常とは、実は、私を安定させるための一つの虚構なのかも知れない。

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March 10, 2011

ブエノスアイレスは午後

夜の闇が苦手だった。小学生の頃、一九七〇年前後、珠算塾に通う時間帯が、級が上がるにつれて徐々に遅くなってゆくと、冬の帰り道は真っ暗だった。コンビニなどなかった時代で、店の類はすべて閉ざされていて、その道には自販機もなかった。公衆電話のボックスが一つ、淋しい光を発していた。街灯や家々の外灯があるにはあったのだが、水銀灯などはなくて、仄暗い蛍光灯か傘のついただけの白熱電球が、ところどころ、その周囲の闇をいくらか緩和する程度で、実家から歩いて十分もかからない道のりが、やけに長く感じられた。灯りのまったくない難所は、俯いたり目を瞑ったりして足早にやり過ごした。昼ならば私の庭だと言ってもいいほど知り尽くした場所なのに、得体の知れない不安に襲われた。当時、夜道は物騒でもなかったし、霊の類が怖かったというのでもない。危険に対する敏感さも霊感もない私には、むしろ、不審者も霊もその他も見あたらない、夜の闇としてどこまでもひろがる、そこに何も存在しない感じが苦手だったのだと思う。

苦手が解消されたわけではないが、十歳を少し過ぎた頃からの私は、いわゆる夜型の生活スタイルにゆっくりと傾きはじめた。きっかけはラジオだった。中波や短波の放送は、昼に比べると夜の受信状況が格段に良好になる。北海道、九州、沖縄など、国内の遠方からの放送、あるいは海外からの日本語放送を受信することにのめりこんでいた。父母から早く寝なさいと言われるのもお構いなしで、午前零時を過ぎてもラジオの前を離れることはなかった。BCLのブームもあって、学校の友人とサークルをつくったりもした。名称は「梟の会」。私のなかで夜のイメージがあきらかに変質していた。周囲のみんなが眠りに就いてもこの世界のどこかで誰かは必ず覚めているのだと、名古屋は真夜中でもブエノスアイレスは真昼間なのだと、そんな風に考えるようになっていた。早寝早起きという健康的な生活スタイルを尊いものだとは思いながらも、夜という時間や空間に含まれている、必ずしも不健康ではない何か、常識の外で育まれる何かに惹かれはじめていたのだった。

むかしの私を書きつらねたのは、先日、私自身の歌集を読み直す必要があって、第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)のなかに、以下のような、夜の時間をめぐる作品を収めていたのを思い出したからである。列べてしまうと書割的な印象もあるが、私にとっては生活上の実感から生じた作品だった。さらに思い出したのは、島内景二さんが、講談社現代新書『読む技法・書く技法』(一九九五年)のなかで、これらの作品をめぐって「一般常識人(社会人)が寝たり働いたりしている時間を数字で明示することで、その時間帯にあやしく生息している「青年」という自由人の孤独と悲しみが強調される」と分析してくれたことだった。たしかに怪しく生息していたし、内実に多少の変化はあっても、怪しく生息しているという点では、当時も現在も大差はないのかも知れない。ちなみにこのテキストを書いている現在の時刻は、午前二時を少し過ぎたところである。

 二十五は午前零時の街路にてバス停ひきずり倒すさびしさ/荻原裕幸
 暴走族も去りたり午前二時の街星の怒りをあびてしづまる
 オリオン座高し初秋の午前四時誰か覚めたりわれは眠らむ
 午前五時燕タクシー泥酔のわれを拒みてつと過ぎゆけり

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March 07, 2011

つれづれなぐさむもの

かつてテキストサイトと呼ばれたもの、またウェブ日記、ブログ、ツイッター、あるいはクローズドな感じのほとんどないSNSの日記なども含めて、ネットは枕草子を次々に生み出している。このブログもそうした一つである。面白いもの、興味深いものもあれば、そうでもないものもあるし、それほど多くに目を通せるわけでもないのだが、私はそれらを読むのが好きで、時間のゆるすときに、新聞や雑誌を読むような感覚で読んでいる。私がそこに求めているのは、主に、日記的に描かれたその時間その空間が、個人的なものとして占有されている感触で、日常ではつねに他者との確執にさらされ続けているであろう一人一人が、日常の抑圧から瞬間的に解放されて、ことばが濁りのないひかりを帯びてゆくのが、読んでいて実に楽しい。文芸など社会的に何の役にも立たない、という意見があるが、ネット上のテキストを楽しんで読むようになってからの私は、文芸は社会的に役に立ち過ぎるのではないか、という奇妙な感覚にとらわれることが多くなった気がする。

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁/斉藤斎藤

第一歌集『渡辺のわたし』(二〇〇四年)に収録された一首である。現代の短歌のなかに置いてみると、この作品を賛美する文脈というのは見つけづらい。それは、この一首が、文芸が既存の何かの役に立ってしまうことを拒むようにして書かれているからではないかと思う。雨の日の、県道と言うからには、たぶんそこを県道だとはっきり意識している土地勘のある場所で、どこかローカルな匂いがあって、海苔弁当がぶちまけられたその光景と、近づきながらそれに気づく私の様子になにがしかの哀感のようなものは生じている。しかしここには、それ以上の何かが足されるのを拒む感じがあって、既存の文脈のなかでは語りづらくなっているようだ。ただ、私には、その拒む感じが、これまでの短歌にあまり見かけなかったいまここ感、誰かがいままさにここにいる、ではなく、他ならぬ斉藤斎藤、作者であり作中の一人称でもある斉藤斎藤が、いままさにここにいる、という感覚を、体験的な事実や表面的な修辞を問うレベルを超えて、強烈に伝えて来るように思われてならないのである。

二月十八日と三月四日、午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」。十八日の出席者は、見学者1人を含めて14人。詠草は14首。題は「和」。和歌山県から一字をもらった。四日の出席者は、新しい受講者1人を含めて13人。詠草は13首。題は「良」。奈良県から一字をもらった。講座のはじまる直前にホワイトボードに書いてもらった詠草を、いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めた。各回の講座で題詠の作例として見せたのは以下の二首。作例と言っても、講師の模範作品、を見せているわけではない。私が、題詠をめぐって、このように悪戦苦闘しながら、このように突破口を見つけたつもりになって、そしてこのように予期せぬ失敗を繰り返したり、という姿を、作者のありようの一例として見てもらっているということである。笑ったり、首を傾げたりする受講者のさまざまな反応は、私の作歌の大きな糧にもなっている。

 文字が気分と噛みあはぬまま和やかなメールしあがりゆく春の朝/荻原裕幸
 梅がなにやらけむりはじめてなんとなくひとり無印良品にゆく

三月三日に東桜歌会の例会があった。ファックスと葉書とメールで届いた詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。詠草は十二首。参加者は十人。題詠「銀」と自由詠と各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。今月は題詠十二首と自由詠十二首からそれぞれ四首ずつを選歌してもらった。例会は今回で百五十回となった。節目を記念する企画を何か考えようと思っているが、まだ掌のなかにアイデアはない。私が歌会に提出した作品は以下の二首。題詠は五票、自由詠は五票を得た。題詠は、具体的にそれが何かを示唆していないし、何かをはっきりと特定する手がかりがないまま、それが何らかの感興につながることに懸けている。現代の川柳で見られる方法の短歌バージョンであるが、短歌にすると魅力が半減するのは否めないというところか。

 銀の憂ひを含んでゆるくこころ細いものが画鋲でとめられて春/荻原裕幸
 いつまでも寒くてそして春場所がなくてしぶしぶパスタを茹でる

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March 03, 2011

亀を鳴かせて春を愉しむ

私が強い関心をもって短歌を読みはじめたのは、中井英夫のエディター的な視点によるエッセイがきっかけで、その後しばらく、寺山修司や春日井建の歌集を耽読し、塚本邦雄の歌集と歌論を方法の教科書に、菱川善夫の歌論を短歌史の参考書にする時期が続いた。一九七〇年代のことではあるが、同時代の情報をほとんど知らずにいたため、短歌的な昭和三十年代や一九六〇年代を仮想体験するような塩梅になったのではないかと思う。一方、強い関心をもって俳句を読みはじめたのは、塚本邦雄の選んだ近現代のアンソロジーがきっかけだったためか、特定の俳人や時代に焦点をあてることのないまま濫読した。小体で美しいそのフォルムと方法に魅了されながら、好みの句や歳時記に出て来る季題が、名古屋の日常空間のなかに実在するのを見出すことに小さな悦びをおぼえたりもしていた。このようなアプローチの違いは、私の、その後の二ジャンルとのかかわり方の違いに、あきらかに投影されているようだ。

 星空へ店より林檎あふれをり/橋本多佳子

第三句集『紅絲』(一九五一年)に収録された一句。句集の配列を見ると、旅の途上の句のようではあるが、読者がそれぞれの近所の青果店を思い浮かべて読んでも何ら障りはないだろう。一気に暮れた秋の夜空に星がまたたきはじめる。あふれ出んばかりに盛られた青果店の林檎のかがやきが、そのまま夜空に浮かんでゆくようだ、というのである。至上の一瞬が、生活の匂いのする空間のなかに見出されているのが楽しい。昨今、星空にまであふれてゆきそうな場所に商品をならべる店が減って、書かれた時点では想定されていない類のノスタルジアを含んでいるにせよ、その分を差し引いても、この句の珠玉感は揺らがないと思う。この林檎は何かの象徴として読まれそうでもあるが、読み解く必要がないほどそのままで十分に鮮烈ではないだろうか。私が俳句に求めているのは、むかしもいまも、この句が示しているような、シンプルで鮮烈な日常の風景なのかも知れない。

 枇杷啖べて地球空洞説に拠る/伊吹夏生

塚本邦雄選『星曜秀句館・第一輯』(一九八一年)に収録された一句。同書は、サンデー毎日に連載された塚本のコラム「俳句への扉」中の投稿欄「サンデー秀句館」の記録であり、引用句はその第一回の巻頭句である。啖、には、た、拠、には、よ、とルビがあるが、週刊誌的配慮によるものかも知れない。この「拠る」という結びの一語は、一見散文風でありながらいかにも俳句的で、齧って種のぽろんと抜けた枇杷の半球を見ながら、科学的真実はさもあらばあれわがこころの地球空洞説よ、と詠嘆するその詠嘆を抑制して俳句的文体に昇華したものだと思う。時制を含まない、動詞の終止形か原形で、切字的な効果をソフトに含んでもいるようだ。ちなみにこれは、私が口語文体の短歌を書くときの参考にしている用法の一つなのだが、短歌では俳句ほどの効果はないらしい。伊吹夏生さんは、昨年十一月九日に亡くなったという。享年七十五歳。学生時代に出会った俳人の一人で、私に俳句の間口の広さを教えてくれた人だった。

三月一日に東西句会の例会があった。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。今回の出席者は、ゲストの中村正幸さんを含めて五人。雑詠五句を提出。いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。東西句会は、今回の例会で三年間の短い歴史の幕を閉じることになった。諸般の事情によるものだが、名残惜しい。メンバーに感謝しながら最後の句会を終えた。いずれ機会があれば、新しい俳句の場を考えてみたいと思う。句会に提出した俳句は以下の五句。東西句会を一緒に企画した二村典子さんは、私の俳句を根本から否定することはないが、ときどき、作句の総数が少ないのではないかという意味の指摘をする。たぶん経験値の低さから来る甘さがしばしば顔を出すということなのだろう。

 居ないはずの人が来てゐる朧月/荻原裕幸
 読経して菜の花茹でてから帰る
 三色すみれ団地老人ばかりかな
 亀鳴くや画鋲にのこる紙のふち
 囀りやビニール傘がまた増えて

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February 23, 2011

とある言語の超修辞法

先日、地下鉄のホームにとある青年がいた。見たところ二十代で、休日のサラリーマン風な印象だった。彼は、誰に話しかけるという風でもなく、眼前一メートルあたりの何もない空間に向けてずっと何かを喋り続けていた。何となく気になったので、彼の近くで列車を待ちながら、それとなく耳を傾けてみた。内容はこんな感じ。新瑞橋には左回りよりも右回りがはやく着く、右回りに乗ろう、と私は考えている。混雑するのは嫌だ、坐りたい、と疲れたきょうの私は思う。どうやら彼は、いま自分が何をしているか、何を考えているかを、次々と声にしていたようだ。ホームビデオの撮影をする人が、きょうは家族みんなで東京ディズニーランドに来ています、とかナレーションを入れている、ちょうどあんな調子だった。行動の記録を録音しているのかとも思ったが、それらしい機器は見あたらなかった。リアルのツイートなのか?

短歌誌「レ・パピエ・シアン」二月号で、「時代のキーワードを詠む」という特集が組まれていた。同人が同時代的なことばを軸に、短いエッセイと作品一首とを寄稿している。大辻隆弘さんの「なんて言うんだろ」を読んで爆笑する。エッセイの冒頭の一行は「年を取るというのは嫌なもので、最近、若い者の言葉づかいがいちいち気にさわる」。大辻さんは、若い人が自己言及をするときに、自己愛的な溜めのある感触で繰り出される「なんて言うんだろ」がかなり気にさわるらしい。保身感の薄い毒舌の楽しい文章である。しかし、文章の楽しさはともかくとして、なんて言うんだろ的な、省察的なことばの溜めというのは、私もかなり頻繁に用いる。断言すると障りが出そうな何かを、それでも読む人や聞く人に手渡したいときの、止むに止まれぬことばの歪みのようなものだと思う。溜めがなければ独善的になりそうなのでそれを回避しようとしているわけだが、溜めたら溜めたでそれがどこか自己陶酔的な調子になるということだろうか。

大辻隆弘さんの文章を読みながら、村上春樹の『風の歌を聴け』(一九七九年)のことを思い浮かべた。『風の歌を聴け』をはじめて読んだとき、読みながらずっと、語り手である「僕」が何を言いたいのかがわからなくて、かなりうんざりしていた。私が二十代の半ばの頃だったと思う。僕の勿体ぶった感じが、何かとても気にさわったのである。どこがどうとははっきり言えないが(という言い回しも考えてみれば省察的なことば溜めの一つであるが)、大辻さんの「なんて言うんだろ」が気にさわる感覚につながるものがあるような気がした。清水良典さんの分析によれば、『風の歌を聴け』は「うまく語れない、ということを語るための小説」(朝日新書『村上春樹はくせになる』)なのである。爾後、何回か読み直しているうちに、その口調に親しみがわくようにはなったのだが、言い淀むのが好きになったわけではなく、その不可避性が理解できるようになったということだと思う。

「NHK短歌」3月号、東直子さんの「言葉の不思議 フィクションを楽しむ」のなかで、第三歌集『あるまじろん』(一九九二年)の「ビジネスマンの疲労とわれの倦怠とαの麒麟を詰めて電車は」がとりあげられている。東さん、どうもありがとうございました。「そんなことは現実ではありえないことだと思いますが、想像することはできます」等、テレビ講座のテキスト風な語りのなかにさらっと自身の短歌観を滑りこませる、東さんならではの爽快な筆致による解説的な鑑賞がふるっていた。二十年も経てば、この一首が、この比喩が、このように語られるんだなあと、何かタイムマシンでいきなり未来にやって来たような不思議な気分を味わった。ニューウェーブはすでに時間の彼方にあるわけだが、ニューウェーブからこちら側に流れた短歌の時間がわかりやすく可視化されていないためか、私自身当事者の一人でありながら、時間の経過をうまく実感できていないのかも知れない。

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