December 08, 2009

2009年12月8日(火)

早朝、かなり冷えて寒かった。氷点に近い温度だったらしい。名古屋的には真冬の寒さである。ストーブの前に坐っているとき以外は、何をするにも二言目には寒いなあとぼやいていた。きょうは、今年最後の読書会の日だったのだが、どうしても都合がつかずに欠席する。気が置けないメンバーと遠慮なしに意見交換しあうという、精神の栄養剤のような会なだけに残念なことである。

 秋風やここはこの世のどこなのか/冨田拓也

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「八衢」百句の一句。秋風は、人のこころに不安定な感覚をもたらす、あるいは、不安定な感覚をもたらすものだとされている。だから、たしかに「ここ」にいるはずなのに、自身の位置を見失って「どこなのか」と呟くのは、人のこころの秋的な動きの典型だとも言えようか。だが、この句からもたらされる印象は、そうした典型的な詩情とは少し違う気がする。これは、位置を見失っているのではなくて、そもそも位置が特定できない、という位置から発せられたことばではないだろうか。この句からは「この世」のどこかにはいるのだという確信が、逆説的に見えて来るようにも思われる。どこかにはいるのだが、どこにいるのかがさだかではない、だから、わたしたちは、個々のわたしに位置の手がかりを与えてくれる、他者という存在を求めるのではないか。秋風がしみじみと身に沁みるのも、それが理由だろう。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 天の川ここには何もなかりけり/冨田拓也
 花冷えの鍵は鍵穴にて響く
 橋といふ橋より上る春の月

きょうの一首。目的がわからないからこそ列にならびたくなる、という奇妙な心理がはたらくことがある。往々にしてまったく関心のない場所につながっていたりもするのだが。

 この世ではないところまで伸びてゐる気がして巷の列の後尾に/荻原裕幸

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December 07, 2009

2009年12月7日(月)

大雪。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の九回目。俳句について、とりわけ、季語が俳句にもたらす表現上のテクニカルな効用について話す。また、季節とはどのようなものであるのかを、体感の問題としてではなく、純然たる気象条件の問題としてでもなく、暦というアングルから説明してみた。骨格となる二十四節気の説明に多くの時間を費やす。

邑書林『セレクション俳人プラス 新撰21』が届いた。筑紫磐井、対馬康子、高山れおな、三人の共編。二十一世紀にデビューしたか、あるいは、これがデビューとなる、四十歳未満(二〇〇九年のはじまる時点で)の21人を揃えて、自選百句と作句信条と略歴と近影を掲載したアンソロジー的な合同句集である。また、各俳人についての小論や、編者三人と小澤實による合評座談会を併載したりと、楽しんで余りある内容になっている。みごとな青田買い、と言うべきだろう(この、青田買い、は、むろん褒めことばである、念のため)。感想はいずれ気の向くままにまとめようと思うが、さしあたり21人の名前を列挙しておく。越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉。以上(掲載順)。

きょうの一首。

 空気でもけむりでもないもやもやがわが家を占拠してはや三日/荻原裕幸

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December 06, 2009

2009年12月6日(日)

午後、家人が義母と出かける。留守番。一人で家にいても滅多にそうはならないことなのだが、きょうは食事の時間も内容もかなりいいかげんになる。机に向かっている以外に何かをするのが面倒に感じられたからだった。はたと気づくと肩に無駄な力が入っていて、姿勢が猫背気味になっている。どうやら寒くてからだをてきぱき動かす気にならなかったらしい。これはまずいと思ってストーブをつける。

昨日、山口誓子の「スケート場沃度丁幾の壜がある」の鑑賞を書いた後、そう言えばと思い出して、高柳克弘さんの評論集『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(二〇〇七年)を読み直してみた。同句の鑑賞に以下のようなくだりがある。なるほどそこまで踏みこんで読むものなのかとあらためて感心したし、自分が句の背景に人の姿を読んでしまうのは、おそらく歌人としての作品の読み癖が影響しているのだろうとも思った。

 この句は、一見すると、ヨードチンキの存在感を詠った句のようにもみえる。しかし、ヨードチンキは、あくまでスケート場の賑やかさや華やかさを無化させるためのアイテムにすぎない。溢れる光や嬌声とは無縁のヨードチンキに注がれる視線。その空虚さこそ、一句の見所である。(中略)価値観が解体し尽くし、すべてのものが既成の意味付けを完全に失ったときに見えてくるのは、こんな風景なのではないだろうか。不思議と、この句に、世界の終末の風景を思ってしまうのも、そこに理由があるのだろう。/高柳克弘

きょうの一首。他局にも増してそうだと思う。

 NHK的カメラワークは冬ざれに面食ひであることを隠さず/荻原裕幸

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December 05, 2009

2009年12月5日(土)

フィギュアスケートのグランプリファイナル、女子シングルで、安藤美姫選手が2位となって、バンクーバー五輪の出場が内定したという。あんな不安定な履物で、滑りながらジャンプして、しかもくるくる回ったりして、むしろ転ばないのが不思議なわけだが、大舞台で失敗経験のある彼女が、その後もこうして挑み続けるとは、どんな強靭な意志なのか。尊敬と好奇心と半々で、ひそかに応援している。

 スケート場沃度丁幾の壜がある/山口誓子

第一句集『凍港』(一九三二年)に収録された一句。原典では、沃度丁幾、に、ヨードチンキ、のルビ。むかしはちょっとした傷でもすぐに塗られた記憶のあるヨードチンキも、最近ではとんと見かけなくなった。昭和初期のスケート場には、あるいは常備されていたのだろうか。当時の状況をよく知らないまま鑑賞するのもあれだが、遊技場としてのリンクに向かう昂揚感や遊びに来ている人々の喧噪から逸れて、ヨードチンキの壜に目が向くというのが、いかにも俳句的なテイストで、楽しさに手放しでは没入できない人の姿が目に浮かぶ。明るさとかげりの混在したユーモアが、淡々とした文体から伝わって来るようだ。

きょうの一首。きょうの朝が、というわけではないのだが。

 四の五の言ふの四や五のなかに例外なく含まれさうな底冷の朝/荻原裕幸

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December 04, 2009

2009年12月4日(金)

午後、家人が歯医者に行くのに便乗、栄まで自動車に乗せてもらう。道すがら眺める若宮大通の黄葉が実にきれいだった。栄のコメダ珈琲店で軽い食事をしてからスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「痛」。いつものように、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。

 こいびとをくくるおおきなかぎかっこ/なかはられいこ

昨日に続き、第二句集『脱衣場のアリス』(二〇〇一年)に収録された一句。漢字表記が可能な部分もあるのに、こうしてそれを徹底して避けるのは、漢字仮名混じりの表記で見えて来るものとは違う何かを求めているからだろう。「恋人を括る大きな鉤括弧」では、なにやら理屈っぽいだけの恋愛論めいてしまうのを、平仮名表記を徹底することで、もう少しやわらかな、個人的な事件としての恋愛につながってゆく感じがある。たとえば、彼は、一応のところ恋人なんだけど、公然とそう呼ぶには少し抵抗があって、鉤括弧、それも大きめの鉤括弧で「こいびと」と括るような、そんな感じかしら、みたいな、わけあり感とこだわり感が雑ざった微妙な雰囲気が生じているのではないだろうか。

きょうの一首。講座で「痛」の題の作例として見せた一首。どう書いても字が余るため、ひらきなおって、七七七七七、というスタイルにしてみた。どこかしら短歌以外の和歌の形式、たとえば旋頭歌などの印象に近いリズムになったか。

 体温計を振れば冬めく手首にすこし痛み残れば冬深みゆく/荻原裕幸

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December 03, 2009

2009年12月3日(木)

煙草の話題が続いてしまうが、煙草の、とりあえずの増税、と言うか、値上げが、一本あたり二円から三円程度になるとニュースで報じられていた。一箱を千円にしてしまうといった、健康を目的にした増税/喫煙者を減らすための値上げ、という印象は薄らいで、税収を安定させる方向にやや傾いたらしい。丸くおさめるつもりの選択だと思うが、むしろ八方から苦情が出そうな気がする。

 白い雲見てるトイレの窓あけて/なかはられいこ

第二句集『脱衣場のアリス』(二〇〇一年)に収録された一句。屋内の生活空間のなかでも、とりわけ生活的な感じが強いのは、キッチン、浴室、トイレなど、いわゆる水まわりで、リビングとか私室とかは、やや生活的な感じが薄れる。だから、リビングや私室でするようなことをトイレでするというのは、川柳をはじめとした文芸の語法の一つで、形而上の行為を形而下にまでひきおろしての諧謔を目的としているケースが多い。この句がおもしろいのは、そうしたパターンを踏襲しながらも、反諧謔的な世界を見せているところだと言えようか。この句は、リビング的な行為をトイレ的な行為にひきおろすのではなくて、むしろ、トイレをリビング化しているように見える。寺山修司の俳句に「便所より青空見えて啄木忌」という一句があるが、比較して読むと感触の違いがはっきりするのではないだろうか。

きょうの一首。

 月がかはるとそのまま十三月になるやうな感じのある十二月/荻原裕幸

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December 02, 2009

2009年12月2日(水)

早朝、同じマンションに住む某家の、ベランダで煙草を吸っているお父さん、の姿を目撃してしまう。灰皿を片手にもって、寒そうにからだを丸めながら、どこか落ち着かない、慣れない感じが漂っていた。これまで一度も見たことがなかったし、最近になって屋内禁煙を家族から言い渡されたのだろうか。何となくばつが悪いので、目撃したことを気づかれないように、そそくさと死角に入る。

午後、中京大学へ。キャンパスでは、冬になって、彩色の華やかさこそ多少抑えられているものの、垢抜けた感じの服装や髪型の学生(とりわけ女子)が増えたという印象がある。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十二回目。きょうの題は「短日」、それと雑詠。8人出席で詠草は16句。いつものように、読解を中心に添削的な批評を進めてゆく。以下、きょうの題に即して二句。

 短日や喫煙エリアまで五分/荻原裕幸
 赤札の総菜にひとだかり冬

きょうの一首。夜ふかしが現代の日本人の属性だとしても、三十時近くまで前日の時刻で考える生活というのは、あまりふつうのことではないような気がする。

 午前三時を二十七時と言つてしまふどこか歪んだ十二月です/荻原裕幸

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December 01, 2009

2009年12月1日(火)

きょうから十二月。家中のカレンダーが一斉にクリスマスの雰囲気になる。玄関にも知らぬ間にクリスマスの飾りが施されていた。家人の会心作のようで、とても楽しげな感じにレイアウトされていたのだが、マンションの玄関ドアにそこまでしちゃっていいの、という一抹の不安も生じた。出来栄えを褒めながら、念のため不安を口にすると、簡単に元に戻るよ、たぶん、と言う。たぶん、なのか。

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。東西句会の例会。参加者は五人。きょうは、題詠「です」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評、楽しいディスカッションが進められてゆく。今年最後の例会だったが、そうは言ってもまだあまりぴんと来ないのだった。提出した五句は以下の通り。題詠の句だけが少し異質な感じになったのは、出題にいささかの異存を抱えながら書いたことが影響したのかも知れない。

 棚の奥までたつぷりと十二月/荻原裕幸
 広告にくるめば葱が何か言ふ
 蛍光灯の端真つ黒で褞袍着て
 ベランダの履物しづか冬の月
 正夢を見ないタイプの布団です

きょうの一首。

 ものがたりの外伝のさらに外にあるつながりのない冬の一日/荻原裕幸

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November 30, 2009

2009年11月30日(月)

朝食をとりそこねる。お腹が空いてなさけない気分になる。たかが一回の食事のことなのに、きょうは碌なことがないのではないかとか思いはじめる自分がいて、いよいよなさけなく感じられたが、昼食をとったらネガティブな気分があっさりリセットされた。気分とはとても単純な構造をしているものらしい。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の八回目。ひきつづき評論について。

評論(この場合、たぶん短歌評論)を書いていると、その間は短歌を書けない、あたまが短歌のモードにきりかわらない、という話をときどき聞く。一つのことに意識を集中していると、他のことにうまく集中できないのは、あたりまえと言えばあたりまえだが、そこで言われているのは、評論はロジックで、短歌はロジックではない、ことばを繰り出す方法が根本から異なる、だから同時進行しづらい、ということであるらしい。しかしながら、評論とは、ロジックであっても、ことばで科学したり数学したりするものではない。研究論文のように、一から十まで根拠があって語ってはいないはずだ。むしろ、論文では根拠がなくて語れないところに、何とかしてことばの水脈を通わせるのが文芸としての評論なのであって、その意味では、論文よりずっと短歌に近いものだと言えよう。同時進行は難しいとしても、根本から異なるわけではないと思う。

きょうの一首。

 なぜあれを棄てたのかといふ後悔のやうな白さを含んで雲は/荻原裕幸

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November 29, 2009

2009年11月29日(日)

未明から家人が友人たちと出かける。留守番。岐阜の某所に、人気のある有名な占い師がいて、一日で見てもらえる人数に制限枠があるのに、電話やネットで予約がとれないため、早朝から列んだり走ったりする必要があったらしい。努力の甲斐があったようで、友人ともども夕方には占ってもらえたそうだ。それだけの情熱があれば、きみたちの未来は必ず明るくひらけるよ、と、ひそかに思う。

 鼻濁音がきれいだなあと誉めらるる訳のわからなさに恋をしき/梅内美華子

昨日に続き、第三歌集『火太郎』(二〇〇三年)に収録された一首。発声の訓練をしたのでなければ、鼻濁音がきれいにひびくのは、出身地によるものだろうか。どちらかが他郷に来ているか、あるいは、ともに他郷に来ているのか。いずれにしても、相手はその声を洗練されたものだと感じ、一方はそんなことがなぜ褒められる対象になるのかという「訳のわからなさ」を感じたわけだ。恋愛のきっかけの多くは、そうした思いがけない角度から射して来るひかりのようなものなのだと思う。むろんこれだけが理由でもないのだろうが、恋愛に落ちる不思議を、自身も未だに不思議に感じている様子を残しながら、読者の側に巧く披瀝しているようだ。同歌集で他にも惹かれた作品を以下に引用しておく。

 蝉を生む青葉の深さ仰ぐとき流涕のごとおちてくる声/梅内美華子
 水鳥が水を叩きて立ちあがり君よりはがれてゆくわれの見ゆ
 借り物のような若さをなだめ来ぬくさかげろうやうすばかげろう
 てのひらの窪におちつくおにぎりを握りおわれば朝月白し
 竹林は女を蔵うと思うまでささめきやまず葉の散りやまず

きょうの一首。ときどき「ハレ晴レユカイ」があたまのなかで流れはじめる。

 手と手をつなげばなぜ無敵かと問ひながらゆく夕焼の巷の冬を/荻原裕幸

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