2013年1月3日(木)/三日籠城
三日。寒中見舞を出すのはまだ早いの? と家人が訊くので、今年はたしか五日あたりが寒の入りだから、たぶんそれ以後がいいと思うよ、と答えた。郵便が配達されるのに数日はかかるだろうけど、寒中じゃないのに出すのはやはりどこか変じゃないかな、というような話をして、節気による寒中と暑中の説明をしたら、そういう小ねたってどこで仕入れるの? と訊かれた。小ねた、と言われれば、まあそういうことになるのかも知れないが、でも、何かちょっと違う気はする。
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表現や感性に新しさがあろうとなかろうと、自分がいいと感じられない短歌は否定する、と言う歌人は多い。その頑固さに閉口することもあるが、私自身もまた頑固な歌人の一人であり、自分の短歌観を捩じ曲げてまで、新しいだけの作品を諾う気など毛頭ない。ただ、問題は、自分の短歌観をどこまで固定的なものとするか、である。あるとき出会った作品や批評によって、短歌観が大きく変化したという経験は誰しもあるのではないか。個人の短歌観が固定的なものではないということは忘れたくない。歌歴が長くなると、自分の変化が許容しづらくなる。自分の感覚や思惟に基づいて構築したはずの短歌観が、いつの間にか自分の感覚や思惟の変化を抑制する枷になることもある。自分の短歌観を変化させてくれるような作品に出会ったとき、それを見落とさないだけの敏感さや柔軟さは失いたくないものである。
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きょうの一首。知らぬ間に日が暮れていた。聞くところによれば、箱根駅伝は今年も大いに盛りあがったらしい。午後の名古屋は雪がちらついたらしい。正月休みと言うけれど、歌人にとって、短歌から離れている日が休みなのだろうか、短歌と向きあっている日が休みなのだろうか、どちらなんだろう? そんなことをぼんやりと考えながら三が日を終える。
三日に妻が行つたカフェも駅伝の順位も雪も知らずに過ごす/荻原裕幸
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