May 06, 2008

2008年5月6日(火)

振替休日。祝日法の改正で、火曜の振替休日がはじめて生じた。来年は、この五月の火曜の振替休日の他に、九月としてははじめての国民の休日が生じるらしい。日付の動く祝日が多いせいか、祝日法の条文を読んでいると、国民の祝日に関する法律、と言うよりは、どこか、公共機関の休日についてのお知らせ、のように感じられる。

 子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に/菊池裕

第一歌集『アンダーグラウンド』(二〇〇四年)に収録された一首。「子をなさぬつがい」は、ディンクスのことを言っているのだろう。自虐なのか風刺なのかが判然としないが、抑制のきいた皮肉のような、こうした語調から生じる摩擦感のようなものは、都市生活者の日常にある鬱屈とした感覚を巧く浮かびあがらせていると思う。菊池さんの文体を構成する核になっているようだ。同歌集から他にも好みの歌を。

 二十九時まで残業のあかつきの始発で帰るひとのゆくえに/菊池裕
 千代田区の路上は禁煙だと云うが今しガム吐き踏む人の過ぐ
 バリのテロには関心があるらしい香水入りのメールが届く
 放送で使っちゃいけない語彙などを反芻しながらアクセルを踏む
 モザイクをかけて音声変換をしてピー音でわたしを消して

きょうの一首。観察と想像の間にはどんな違いがあるのだろうかと考えながら。

 ためらひののち情動の新緑がにはかに枯れたやうなしぐさで/荻原裕幸

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May 05, 2008

2008年5月5日(月)

こどもの日。端午の節句。立夏。雨。行動エリアの問題なのか、飾る家が減っているのか、今年は、屋根より低くて小さな鯉幟をいくつか見かけたが、屋根より高い本格的な鯉幟はついに一度も見なかった。粽を買って来るつもりだったが、伊勢神宮のおみやげだという赤福を一箱もらったので、粽が赤福になる。菖蒲湯に入る。

先に、十代までのGWの記憶があまりはっきりしない、と書いたあと、ちょっと思い出してみたのだが、やはり些細なことしか浮かばない。少年時、粽が好きで柏餅があまり好きではなかったので、粽が売り切れる前に買いに行ってね、と母に執拗に頼んだのに、粽は売り切れだったよ、と柏餅を見せられて母と喧嘩した、とか。あと、飾る庭はなかったのだが、鯉幟だけはあって、一度見せてほしいと頼んで家のなかに広げてもらって、鯉の口からなかにもぐりこんで遊んだ、とか。そんなところ。

きょうの一首。中日ドラゴンズが、一昨日あまりにもひどい試合だったので、その印象から書きはじめたのが災いしたのか、今日もひどいことになっていた。

 口論のつづくゆふべをあざやかに敗ける野球がテレビに映る/荻原裕幸

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May 04, 2008

2008年5月4日(日)

みどりの日。暑い日だった。毎日新聞の題字は、みどりの日だけは緑色で印刷されるという。直に見てみようと思いながら、今年も忘れていた。午後、義姉と家人と三人で星ヶ丘三越へ。ふつうの休日といった感じのにぎわい。パスタを食べてお茶をして買い物をする。行き帰りに眺めた東山公園周辺の新緑がきれいだった。

 にがきにがき朝の煙草を喫うときにこころ掠める鴎の翼/寺山修司

第二歌集『血と麦』(一九六二年)に収録された一首。「鴎の翼」が発する海の匂いは、水夫への憧憬のような、どこか通俗的な感触をもっているのだが、この人の手にかかると、それが何か「かっこいい」ものに見えて来るから不思議だと思う。初句はやや情感的だが、以後がシナリオ内の演出メモみたいに乾いた文体で、その効果ということだろうか。気怠さだけがあってどこにも抜け出せないこの感じ、そこから先の見えて来ない不透明感には、懐かしさをおぼえるが、現在の感覚にそのまま通じるところもあるようだ。

きょうの一首。一日フライングをして夏の歌。

 ハムエッグも朝のあなたも夏雲も同じかたちを二度は見せない/荻原裕幸

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May 03, 2008

2008年5月3日(土)

憲法記念日。朝日新聞が憲法をめぐる世論調査の結果を載せていた。他と違ってこの調査は、新聞社毎の誤差がかなり大きい印象があるので、一社の数字だけでは何とも言えないのだが、朝日の内訳を見ると、改憲は必要だが第九条改正には反対と答えた人が30%もいることになる。少なくとも十人に三人が、第九条以外のどこかを変える必要があると考えているわけだ。あるいは現内閣への不満が強く反映されたのかも知れないが、この数字には少し驚いた。

机まわりに積みあげた本や雑誌の山が崩れる寸前だったので、どの範囲まで整理しようかと思案しながら見まわしていたとき、うっかり椅子の背を山のすみにぶつけてしまう。うわぁと叫んだが、叫んでもどうにもならず、山は大音響とともに崩壊したのだった。おかげで、思案するまでもなく、整理する範囲が確定した。

きょうの一首。本当にそうならこんな一首を書かないのではないか、と、モチーフになる感覚と記述の時差について考えたりもしながら。

 わたくしの心音以外のなにものも聴くちからなき休日にゐる/荻原裕幸

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May 02, 2008

2008年5月2日(金)

本を読んでいたら、蜃気楼のことが出て来て、少年期にその種の異空間に惹かれていたのを思い出す。何かきっかけがあれば自分がそこに行けるのではないかとも感じていた。楼閣をつくる「蜃」が巨大な蛤だと知って、その野暮ったい印象にちょっと冷めたのだが、最近ではむしろ、異空間そのものよりも、蛤を幻獣化するむかしの人の感覚に惹かれているところがある。

 恋人よ草の沖には草の鮫/小林恭二

初期句集『春歌』(一九九一年)に収録された一句。句集のあとがきによれば、二十歳から二十三歳の間の作品だという。能村登四郎の句に「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」があるが、小林の句では、陸に見出される「沖」が、恋愛にからんで、ことのほかみずみずしい空間として蘇生している。「草の鮫」は、性愛にまつわる何かと解釈することもできそうだが、恋を掌中にしながらなお生じる不安や疑心暗鬼のようなものだととっておきたい。「草の沖」を駈けてゆく恋人のかたわらに、幻獣の影が見えてしまうのではないだろうか。

きょうの一首。幻獣をモチーフに書きはじめたのだが、いろいろ考えている間に幻獣がどこにもいなくなって、平凡で平穏な時間だけが残ったような感じ。

 ベンチごとわたしを撫でてゐるやうな欅のかげをしばらく纏ふ/荻原裕幸

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May 01, 2008

2008年5月1日(木)

五月となる。天気は崩れたが、きょうも暑かった。北海道のどこかの町では真夏日になったという。歳時記にメーデーの項が見つからない、と思ったら、「夏」を見ていた。暦はまだ春だったか。午後、家人が外出。留守番。ためてあったテレビの録画を少し消化する。

 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる/塚本邦雄

第二歌集『装飾楽句』(一九五六年)に収録された一首。結句の「へだたる」をどう読むべきか。迷う。メーデーに参加する労働者たちと、意図的に一線を画そうというのか、それとも、メーデーに参加できない自分の孤独を嘆いているのか。塚本邦雄の印象から言えば、どこかに「紅旗征戎は吾が事に非ず」的な、社会を斜めから見てそれ以上には踏みこまないところがあるので、前者だと考えるのが妥当なのかも知れない。ただ、第一歌集『水葬物語』(一九五一年)に見られたモダニズム風な社会風刺の世界から、第三歌集『日本人霊歌』(一九六五年)の、リアリズムの要素を含んだ社会詠的な世界への途上にあって、この一首には、社会と自分との距離をはっきりとさせられない迷いのようなものが見える。たぶん、迷っていたのだろう。

きょうの一首。塚本邦雄のことを思いながら。

 夢を出て来たはずなのにまだ夢のみどりのなかにゐて五月来る/荻原裕幸

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April 30, 2008

2008年4月30日(水)

やけに暑い一日だった。名古屋は夏日になったという。午後、桜山の美容室へ。伸ばしっぱなしだった髪をカットしてもらう。美容師さんが、GWの話をしはじめて、もし十連休なんてもらっても何をしていいのかわからない、と言う。ふだんの休日でも過ごし方に迷うのだそうだ。それは、独身で好みの男性客にぜひ伝えるべきではないか、と思ったりしたが、余分なことは言わずにおく。行き帰り、値上げに備えるためなのか、方々のガソリンスタンドにものすごい列ができていた。

 ぴらにあを飼ってこの春やりすごす/原しょう子

第一句集『二十五時』(一九九六年)に収録された一句。やりすごさなければならないほど嫌な春なのか、それほどまでに退屈な春なのか、何にせよ、さまざまな選択肢がありそうなのに、あえてピラニアの飼育をその代償にしたわけだ。この肉食魚をはじめて飼うと、どうしても一度は生餌を与えてみたくなる、という話を聞いたことがある。さらりとした感触のことばの向こう側には、ハードな場面、と言うか、尋常ならざる心境が隠れているのかも知れない。同句集から他にも好みの句を。

 ガム噛んで銀河を渡る駅に佇つ/原しょう子
 拝啓も前略もなし青とまと
 草の実をつけて身のうち静かなり
 葉桜や折り目正しく妊りぬ
 五分だけ泣いて白菜たて割りに

きょうの一首。遊びの道具としての風船は昨今あまり見かけなくなったが、イベントの小道具としては使い勝手がいいのか重宝されているらしい。近所にある結婚式場から飛んでゆくのをときどき見かける。

 風船のゆくのが見えて窓ではなく窗と書きたくなるやうな窗/荻原裕幸

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April 29, 2008

2008年4月29日(火)

昭和の日。この曖昧なネーミングがうまく作用して、かつての「天長節」の印象とはどこか違った、昭和の文化を再考したり懐かしんだりする日、になるのならば、それはそれなりにいいのではないかと思ったりした。GW中のマンションの各戸は、出かけたり客を呼んだりしているらしい。ふだんとは違ったところが騒がしく、ふだんなら騒がしいはずのところが静かだった。夕刻になって栄に出かける。家人と懐かしい店に入ったり新しい店に入ったりする。

短歌誌「みぎわ」5月号、斉藤真伸さんの短歌時評で、このブログの3月29日付30日付の記事のことが扱われていた。先月の斉藤さんの時評への感想に意見をもらうことができた。斉藤さんは、「内面化」について補完した上で、小池光の「生存について」の一連について、ぼくが書いた「受容」の前段階であるはずの「葛藤」を問題にしたいという。「己の心のなかにこのナチス党員に似た非情さを見いだしたときの動揺が、作歌動機になったのではないか」。ぼく自身は、小池の淡々とした文体からそこまで読みとることはできなかったが、斉藤さんが何かの機会にあらためてこの一連について語ってくれるのを楽しみに待ちたいと思った。

きょうの一首。考えもレトリックもきわめて危うい感じだが、昭和の日に寄せてまとめてみた。北原白秋には「仏蘭西のみやび少女がさしかざす勿忘草の空いろの花」があり、石田波郷には「勿忘草わかものの墓標ばかりなり」があるが、これはこれでどうにか一首になり得ていると判断した。

 平和のために平和を捨てたわかものの勿忘草のそらいろの花/荻原裕幸

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April 28, 2008

2008年4月28日(月)

このブログの21日付の記事で、鈴木竹志さんの「桟橋」94号の時評について述べたところ、それについて「竹の子日記」でコメントがあって、鈴木さんがくだんの文章を書いた経緯について説明してくれていた。実証云々は別として、諦めて突き放すようなところと悟って叱咤するようなところとが、鈴木さんのなかに混在しているのかなあと感じる。では自分はどうなのだろうとしばらく考えていた。

午後、家人と買い物に出る。とりあえず必要な食材を揃えたところで、最近ビタミンなんとかが欠けていると家人が言っていたのを思い出した。何か他にも買うべきものがあるだろうかと相談するつもりで、それで、何が欠けていたんだった? と訊ねてみる。真剣な表情で考えていたかと思うと、いきなり、情緒? と疑問符つきで答が返って来た。あまりにも意外な答だったので、思わず笑ってしまう。こちらの質問が唐突だったような気もするが、それにしても、スーパーの生鮮食品売場で、何がどこにどうつながるとそういう答が出て来るのか。妻はもっとも身近な他者、ということばをしばらく思い浮かべていた。

きょうの一首。「夏めく」は、俳句では夏をあらわすと決まっているようだが、日常的には今時分の感じを言うのにも使うなと思いながら。

 夏めいた午後をしづかに座礁してことばの船が入江を抜けず/荻原裕幸

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April 27, 2008

2008年4月27日(日)

午後、家人が外出。留守番。

巷は昨日からゴールデンウィーク。こどもの時分、土曜が休みというのは珍しいことだったし、メーデーは意味がわからなかったし、火曜はもとより月曜の振替休日もなかったし、国民の休日もみどりの日もなかったし、しかも父が日曜や祝日に関係のないシフトで勤めていたので、黄金週間とか言われてもよく理解できないでいた。そのせいなのか、十代までのこの時期の記憶というのがあまりはっきりしない。旅行とか父母の帰省とか行楽とかで出かけたことはたしかないはずなので、たぶんふつうの休日として過ごしていたのだろう。

きょうの一首。連日の好天もあってか、花はすでに夏を迎えているらしい。数年前から下句だけがメモのなかにあって、と言うのは、近隣の道路の中央分離帯に鉄線が咲いているのを毎年この時期に眺めていたからで、ただ、それだけではどうにもならなかったのを、今年は某所の蔓が暴れてくれたおかげで、なんとかかたちになったという次第。

 垣ではないだが青空とも呼びづらい妙なところに鉄線が咲く/荻原裕幸

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