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October 16, 2007

2007年10月16日(火)

栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は5人。テキストは柄谷行人『探求』の一部分。何回も読んだテキストだが、読み尽くしてはいないことを確認するような展開になった。終了後、ペギー珈琲店で珈琲を飲んでから中日ビルのとにおに移動して食事をする。歓談と議論の続きなど。

青磁社のウェブサイトに、15日付の時評として、大辻隆弘さんが「ネット短歌の終焉」という文章を書いている。短歌ヴァーサスの終刊および終刊号をめぐる発言である。曰く、終刊号の「全体に流れているのは、歴史的文脈のなかで自分の立ち位置を確認しようとする新人たちの危機意識」だという。そうかそう見えるのかと不思議な気分になりながら読んでいた。

歴史に縛られない浮力感とか。歴史から逸れてゆく暴走感とか。そして歴史のなかに何かを再発見する回帰感とか。新人にかぎらず、歴史をめぐる表現者の側の感覚のありようを考えてゆくと、それぞれにサイクルを違えながら、そうした浮力感、暴走感、回帰感などを何回も経てはそのたびに自身の世界を更新してゆく姿が浮かぶ。ただし、短歌というジャンルには、浮力感や暴走感をめぐるサイクルの極端に短い人やそれが無いように見える人が多い気がする。この観点から言えば、相対的にではあるが、短歌ヴァーサスは、終刊号を含めて、浮力感や暴走感などが回帰感よりもきわだつことで一つの特徴づけができる場だったのではないだろうか。

一九九〇年代の半ばに、ライトヴァース/ニューウェーブに関連する、終った発言、がいろいろとあったように記憶している。そのあたりからむしろ、既成の短歌史には収まりきらないウェーブの拡散が本格化しはじめた。ここから先、ふたたび同じような風景を見ることになるのか、大辻さんの言う「短歌の歴史という巨大なものの前で、ひとりひとりのうたびとが、ちっぽけな営みを続けてゆくという、当たり前の情景だけ」が残るのか、それはわからない。ただ、人が終焉を感じてそれを語るのは、あたりまえではない新たな何かに直面する予感のなかにあるとき、という気もする。

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