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November 22, 2007

2007年11月22日(木)

早朝よりも少し早い時刻、パジャマ姿でごみを出しにゆくと、外気はものすごく冷えていた。日に日に冬らしさが深まってゆく感じ。一昨日、知人から木曜に結婚披露をかねたライブイベントをするからとメールで案内をもらったのだが、急なことでうまく時間がとれなかった。

青磁社のウェブサイトに、19日付の時評として、吉川宏志さんが「『テクスト理論』的読みを超えるために」という文章を書いている。この文章のなかで吉川さんは、このブログの5日付の文章に反応して、一首の言葉に即して読む、とはどのようなことなのかを再確認しようとしている。吉川さんが感じている「対立点」がどこにあるのか、一回前の時評よりも明確になっているが、とても残念なことに、サンプルとして引用された、栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」をめぐって書いたぼくの文章の断片が、別所で引用された断片をそのまま引用した、いわゆる孫引きになっていた。ぼくとしては、前回の時評と同様、そこにずれが生じているのを感じないではいられなかった。「対立点」をより明確にするため、とりあえず、くだんの文章の全文および栗木さんのくだんの一首を含んで同時期に書いた文章二篇を、このブログに再掲載(以下、タイトルからリンク)しておきたいと思う。

観覧車はいつどこで回っているのか?(「教科研究」二〇〇五年一月)
秀歌と愛誦歌とリアリティ(「井泉」二〇〇五年一月)
愛誦性を超えて/栗木京子の言葉の位相(「短歌」二〇〇五年五月)

補足。「観覧車は〜」は、教科書に採用された短歌について、教える立場の人が読むこつ、を求められて、「秀歌と〜」は、短歌の今を考える、というテーマに即して、「愛誦性を〜」は、栗木京子論として、それぞれまとめた文章である。

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Comments

荻原裕幸様

 お久しぶりです。
 「観覧車はいつどこで回っているのか?」等の全文アップありがとうございました。孫引きで書いてしまって申し訳ありません。
 ただ、荻原さんの論考の全体像をつかむのが最近難しいと感じているので、ぜひ評論集をまとめてほしいと思っています。私も来年には出しますので。

 さて、全文を読んだのですが、私はそれほど荻原さんの言われるような「ずれ」を感じませんでした。観覧車の歌を「一首の言葉に即して」読んでいる部分は、次のところだと思うのですが、


●荻原さん●
たとえば、この一首を読んでみると、「我」が恋愛感情を抱く相手と観覧車に乗っているときの想いを描いたものだというのはすぐにわかる。あえてそう言わずとも観覧車は回るわけなのだが、わざわざ「回れよ回れ」と強調するのは、「君」と過ごすきょう一日が、いつまでも「想ひ出」として強く心に刻みこまれるようにという願いや祈りのきもちがある、と読むのがいいと思われる。そして「君には一日我には一生」は、この二人が永く結ばれることはなく、いずれ別れるという「我」の側のいささか哀しい確信をあらわしている。ここまではたぶんそれほどむずかしく考えなくても、何度か読むうちに感じとることができるのではないかと思うのだが、どうだろうか。
 短歌を読むときの問題は、ここから先にあらわれる。不思議に感じるかも知れないが、この作品で定まった読み方をした方がいいのは、ここまでなのである。あとは自由に読んでもいいのだ。

●吉川●
 今日、君と私は観覧車に乗ったりして楽しい一日を過ごした。しかし、幾年か経ったあと、君は「そう言えば彼女と観覧車に乗った日があったなあ」という形でしか、今日という一日を思い出さないだろう。しかし私は、生きている間じゅうずっと、今日のことをおぼえているだろう。
 つまり、作者は未来のある時点を先取りして、今日という日を振り返っているのである。未来を性急に求めてしまう若さの切実感が伝わってくるからこそ、この歌は読者の心を打つのであろう。単なる「情熱的な恋愛」なのではなく、現在の自分を、未来の自分になって見つめるという時間的な奥行きの深さが、この一首にはあらわれているのだ。リズムがよいので歌謡調に見えるが、重層的な「我」が表現されている歌なのである。
 もっと言えば、「君」と「我」は幾年か経ったころ、別々の人生を送っているだろうという予想がこの歌にはある。そうであるから、戦争によって失われた恋と解釈するのは、いささか無理があるように思われる。死別などの劇的な別れを予感しているのではなさそうである。

        *           *

 こうして並べてみると、読み方には微妙に違いがあるように思います。やはり「当然の共通事項」と括らないほうがいいのではないでしょうか。私はこの歌を初めて読んだときから「想ひ出は君には一日我には一生」は不思議な表現だなあ、と思い、その不思議な魅力をどのように読むのかが重要ではないかと考えてきました。そこが荻原さんの読みでは、さらっと流されているかなという気はします。
 もちろん、荻原さんの「わざわざ『回れよ回れ』と強調するのは、……いつまでも『想ひ出』として強く心に刻みこまれるようにという願いや祈りのきもちがある」というのも、いい批評だなと思います。
 細かいことをいうと、荻原さんは観覧車に乗っているときの場面と読んでいますが、私は(遊園地からの帰りぎわに)観覧車を見上げている場面と読んでいます。観覧車に乗っているときはあんまり回る動きは感じ取れないので、「回れよ回れ」という言葉と少し合わないかな、というのが理由なのですが、ここはどちらで読んでもいいところなんでしょうね。
 やはり、いい歌というのは、「一首の言葉に即して」読んでも、異なった魅力をさまざまに引き出せるものですね。「自由に読んでもいい」以前の段階に、いかに立ち止まるかが大切なのでしょう。それを再確認できたのはよかったと思います。

 さて、問題はここからなのですが、それでは、「秀歌と愛誦歌とリアリティ」で挙げられている、

  球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう  飯田有子

という歌は、荻原さんはどのように「一首の言葉に即して」読んでいるのでしょうか?
 私はこの歌は、どうしてもイメージを結ばないので、評価することができないのです。飯田さんの「春小麦地帯」の歌などはいいなと思うのですが。
 そうした点がいつも疑問なので、ぜひ教えてくだされば幸いです。

Posted by: 吉川宏志 | November 25, 2007 at 04:11 AM

吉川宏志さん、ご無沙汰しています。
コメントありがとうございました。
拙文、読んでいただけて幸いです。

一首の言葉に即して読むのが当然の共通事項だと書いたのは、
だから同じ解釈になると言ったのではありません。
恣意的な解釈をできるだけ排して、
一首の言葉に即して読むことを基本にするからこそ、
言葉に即した部分も、自由に読んだ部分についても、
解釈の相違などを議論することが可能だと考えているのです。

この点で、ぼくは、吉川さんとの間に「対立」を感じません。
だから、吉川さんが、栗木京子さんの一首への読みを提示して、
ぼくの読みとの「差異」のなかに「対立」を見ようとすることに、
吉川さんのぼくに対する誤解のような「ずれ」を感じたのです。
コメントをいただいて、この「ずれ」の件については、
相互にそれなりに確認ができたという気がしましたが、
とても大切なことなので、必要ならば補足します。
何かあればご指摘ご質問いただければ幸いです。

それと、飯田有子さんの一首の件ですが、
これは少し時間をいただいて、あらためて書きますね。
吉川さんが「どうしてもイメージを結ばない」と言うのですから、
この一首は何かとても奇妙なものを抱えているのでしょうね。
再考して、まとまり次第、掲載するようにします。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 荻原裕幸 | November 28, 2007 at 03:20 AM

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