« October 2007 | Main | December 2007 »

November 30, 2007

2007年11月30日(金)

午後、新瑞橋へ。歌人のMさんと所用で会って、珈琲を飲みながら話をする。と言うか、もっぱらMさんの話に耳を傾けていた。歌壇、としてぼくが認識している領域は、その全体からすればほんの一部にすぎない、と感じさせるくれるような話。夕刻を過ぎて、家人とDIYショップその他へ買い物に行く。週末かつ月末のせいもあってか、あちらもこちらも人でいっぱいだった。

きょうの一首。散文的には、蓋然性よりも、信頼性や正確性や正当性とするのが妥当性が高い気もしたが、それではどうにも一首にならない感じだったので。ビアスの『悪魔の辞典』をふたたび引用すると、辞典の項には「一つの言語の成長を阻止し、その言語を固定した融通の効かぬものにするため工夫された邪念のこもった文筆にかかわる装置。ただし本辞典はきわめて有益な作品である」などとある。現在のウィキペディアはどうだろうか。

 蓋然性よりも霜夜のうすあをき歪み求めてひくウィキペディア/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 29, 2007

2007年11月29日(木)

終日、なぜか、静かだな、と感じていた。夕刻を過ぎてから、近所のスーパーで買い物をする。ふだんの同時刻に比べると極端に客の数が少ない。静かだなという気分が異常に広がって、もしかするとこの静かさの裏ではインフルエンザが大流行していてそれで人がいないのか、とかいろいろ変なことを考えてしまう。それにしても静かな一日だった。

ものすごくひさしぶりにビアスの『悪魔の辞典』をひらく。一九七五年が初版の角川文庫版(奥田俊介・倉本護・猪狩博訳)。結婚の項に「主人一人、主婦一人それに奴隷二人から成るが総計では二人になってしまう共同生活体の状態または情況」とあって苦笑する。以前にもこの項を読んだはずだが、そのときはまだ独身で実感がなかったか、と思ってふたたび苦笑する。きょうの一首。

 結婚をして化合した習慣のひとつがベランダにて揺れてゐる/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 28, 2007

2007年11月28日(水)

午後、中京大学へ。キャンパスをスーツ姿で歩く男子学生を何人か見かけた。就活の学生だろうか。初々しくはあったが、すでに着慣れた感じでもあった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」秋期の十一回目。きょうの題は「湯豆腐」。夕刻から栄へ。来名している枡野浩一さんと穂井田卓志さんに会う。錦三の名古屋めしの店で食事をして、ブレインストーミングのような打ちあわせのような話をした。夜の錦三、好況とは聞いていたが、たしかに一時期よりもかなり人出が多くなっている。××パブどうですかぁ、××××いかがすかぁ、といった呼びこみの声をすり抜けて帰宅。

きょうの一首。むろん現在をイメージしているのだが、どこかに昭和テイストが雑ざるのは、ドロップのせいなのか、作者の年齢のせいなのか。

 白く翳るドロップ舌でひからせて寒きひぐれの懈怠をきそふ/荻原裕幸

| | Comments (3) | TrackBack (0)

November 27, 2007

2007年11月27日(火)

晴れるでもなく何かが降るでもなく、どこかはっきりしない天気。薄曇りと言うよりは暗い青空がひろがっている感じ。午後、ねじまき句会の十一月例会。丸の内の愛知県産業貿易館へ。この場所での句会は七月以来。ひさしぶりに丸山進さんが参加。参加者は四人。出詠者は八人。今回は題詠「縦」と雑詠。「縦」という題は書きやすいかと思って出したのだが、意外に書きにくかった。その旨、出題の非を認めない口調で朗らかに言ったら怖い顔をされてしまった。

ぼくの出詠したのは以下の二句。雑詠に出すつもりで「済んだことばかり写真に撮ってある」という句も書いたのだが、類想があるような気がしてやめた。

 縦の線から冬らしくなってゆく/荻原裕幸
 眼の奥のたがいの桃をたしかめる

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 26, 2007

2007年11月26日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の九回目。小説の続き。彼、彼女、などと三人称で書き進めて、彼の内面は完全に透明な状態として描写するのに、彼女のことは彼の視線と彼の推測による描写しかしない、というのは、三人称小説のスタイルであっても一人称小説としくみは同じなのだ、という話などする。帰りに喫茶店でぼんやりとスポーツ紙を読む。

きょうの一首。「かなしみのかざしも」というフレーズが出て来てあたまをはなれなくなったので、ともかくかたちにしてみた。どこか少しことば遊びの感触が生じているが、モチーフが歪むほどではないと判断してそのままにした。

 かなしみのかざしもしかもふきさらし私のゆくふゆのゆふぐれ/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 25, 2007

2007年11月25日(日)

憂国忌。塚本邦雄的に言えば、奔馬忌。フランス語の詩をみんなで集まって読んでいて、「sept」の意味が「七」以外じゃないと成り立たないと思われるフレーズが出て、ちょっと調べて来ると起きあがって書斎に入って仏和辞典を手にとって、あ、と思う。起きあがるところまでは夢だったのだ。ものすごい寝ぼけ具合だなと笑ってしまってそのまま覚醒。就眠してまだ三時間も経っていなかったので、眠い一日になった。

きょうの一首。日常の一齣、のつもりでまとめたのだが、書きあげてみるとなぜか修辞が過剰な感じになっていて、非日常を志向しているような印象が生じている気がする。力点を間違えたのかも知れない。

 海中で冬のひざしを見るやうなまなざしを卓のむかうに気づく/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 24, 2007

2007年11月24日(土)

日が暮れはじめて、まだこんな時刻なのに、と、勿体ないような妙な気分になりながらカーテンを引くこの頃である。夜、リビングの照明のリモコンが機能しなくなって、電池を交換しようとして蓋をあけてみると、水っぽいものと粗塩みたいにざらざらしたものが……。褐色の液漏れはむかしからよく知っているが、白色のははじめて。水分や結晶がやけに危険物的な雰囲気をただよわせているので慌てて掃除する。最近の乾電池は液漏れしないと勝手に思いこんでいた。

きょうの一首。川崎あんなさんの歌集『あのにむ』(砂子屋書房)を読んで、その稀に見るアノニムな印象に感心しながら。

 誰がそこで吹いてゐるのかアノニムな夜のわたしのなかの土笛/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 23, 2007

2007年11月23日(金)

小雪。勤労感謝の日。夕刻から外出、この冬はじめてコートを着た。

高柳克弘さんの評論集『凛然たる青春−若き俳人たちの肖像』(富士見書房)を読んでいる。各作家の青年期の作品を中心にまとめた二十三篇の俳人論。高橋さんは現在二十代だという。いわゆる「青春俳句」という切口で、寺山修司論が冒頭に据えられて、はじめ、読む側としては不安にならざるを得なかったが、読み進めると、とりわけ、わかっているつもりの「名句」の解釈や鑑賞で、あ、そうか、と気づかされる点が多く、読解という面から俳句に再入門させてもらっているようなきもちのいい感覚を味わっている。

きょうの一首。もしかすると寒かったせいなのか、あるいは別の理由からか、外を歩いているとき、グリコーゲン、ということばがいきなりどこかからやって来たので、題詠のようにまとめてみた。

 電力とグリコーゲンを消費してなにかのどこかがくびれゆく冬/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 22, 2007

2007年11月22日(木)

早朝よりも少し早い時刻、パジャマ姿でごみを出しにゆくと、外気はものすごく冷えていた。日に日に冬らしさが深まってゆく感じ。一昨日、知人から木曜に結婚披露をかねたライブイベントをするからとメールで案内をもらったのだが、急なことでうまく時間がとれなかった。

青磁社のウェブサイトに、19日付の時評として、吉川宏志さんが「『テクスト理論』的読みを超えるために」という文章を書いている。この文章のなかで吉川さんは、このブログの5日付の文章に反応して、一首の言葉に即して読む、とはどのようなことなのかを再確認しようとしている。吉川さんが感じている「対立点」がどこにあるのか、一回前の時評よりも明確になっているが、とても残念なことに、サンプルとして引用された、栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」をめぐって書いたぼくの文章の断片が、別所で引用された断片をそのまま引用した、いわゆる孫引きになっていた。ぼくとしては、前回の時評と同様、そこにずれが生じているのを感じないではいられなかった。「対立点」をより明確にするため、とりあえず、くだんの文章の全文および栗木さんのくだんの一首を含んで同時期に書いた文章二篇を、このブログに再掲載(以下、タイトルからリンク)しておきたいと思う。

観覧車はいつどこで回っているのか?(「教科研究」二〇〇五年一月)
秀歌と愛誦歌とリアリティ(「井泉」二〇〇五年一月)
愛誦性を超えて/栗木京子の言葉の位相(「短歌」二〇〇五年五月)

補足。「観覧車は〜」は、教科書に採用された短歌について、教える立場の人が読むこつ、を求められて、「秀歌と〜」は、短歌の今を考える、というテーマに即して、「愛誦性を〜」は、栗木京子論として、それぞれまとめた文章である。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

November 21, 2007

2007年11月21日(水)

午後、中京大学へ。きょうもぎりぎりになって地下鉄で動いた。いつもはキャンパスの中庭で学生がざわめいているのに、寒くなったせいか、人影があきらかに少ない。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」秋期の十回目。きょうの題は「山茶花」。郵便局その他で用事を済ませて帰りは徒歩。少し寒かった。

きょうの一首。字音仮名遣いを平仮名で表記するのはできるかぎり避けているのだが、この「さざんくわ」は漢字にできなかった。自分もいつかは死ぬ、と言うときの、いつか、を終点に含んだ時間の流れと、歴史という単位でとらえるような時間の流れとはまるで感触が違うと思う。前者はときにあたたかくときにつめたい実感の範疇にあるが、後者は実感を受けつけない。双方を一首のなかで出逢わせることは可能なのだろうか、などと考えながら。

 死が近くても遠くてもさざんくわといふざわめきに囲まれる午後/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 20, 2007

2007年11月20日(火)

寒い一日。リビングではガスストーブが動きはじめた。きのうの朝から右手の人差し指の第二関節のあたりが少し痛む。理由がよくわからないので、痛みがあるんだけど、と家人に話してみると、痛風? とか言われた。痛みは忘れることにした。夜、ラーメンを食べようとして、卵を茹でて、もやしを湯通しして、冷凍しておいた叉焼を解凍して、麺を湯に放りこんだところで、あ、またやった、と気づく。半割にして入れるんだから、二人で卵一つでいいのに、なぜか無意識に二つ茹でてしまうのだ。半割の卵が二つ浮かんでいるのを気にしながら食べる。

6日の日記に書いたきょうの一首の「銀杏の黄落」に重複感がある旨、先日、Nさんにメールで指摘された。書いたときから気にはなっていたのだが、歳時記的にはともかく辞書的には間違っていないとか、ことばに何らかのバイアスがかかればいいところだからとか、推敲時に自分を甘やかしたのを思い出して反省。あれこれと改案を考えて、イメージしていた風景をできるだけかえずに、とりあえずは以下のかたちにしてみた。

 いまだひとつの政党を支持することのなくてひかりの黄落を踏む/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 19, 2007

2007年11月19日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の八回目。きょうから小説。帰りに喫茶店に寄って一人で珈琲を飲みながらあたまのちからを抜く。何も考えずにいようとしたのに、何も考えずにいることができますか、何も考えていないということも考えずに、というフレーズが誰かの詩にあったなと考えてしまう。谷川俊太郎と寺山修司のどちらだったかなとさらに考えてしまう。何も考えずにいることをあきらめてスポーツ紙を読む。某スポーツ選手の愛犬の妊娠の記事が一面にそれなりのサイズで出ていた。あたまもからだも一気にちからが抜ける。夜、冷えこんだので、この冬はじめて書斎のストーブをつけた。秋にはあけっぱなしだった扉を閉めると、にわかに密室感が高くなった。

きょうの一首。

 にんげんのすがたがときにたもてずに冬の書斎で液化してゐた/荻原裕幸

| | Comments (4) | TrackBack (0)

November 18, 2007

2007年11月18日(日)

昨深夜、ネットのニュースを読んでいたら、F1の年間優勝がキミ・ライコネンに確定したと報じられていた。ルイス・ハミルトンの台頭一色になった今年の展開だったが、終盤四戦、ことに最後の二戦で、一気にライコネンが浮上して、しかも裁判まで起きて、最終的にはコースの外で決着を迎えた。意外なほど楽しめたような、釈然としないものが残るような、奇妙なシーズンだった。

プルースト忌。平凡社カラー新書の中井英夫『香りへの旅』(一九七五年)の裏表紙には、墓石に肘をかけてしゃがんだ中井の写真が載っていて、「1922年に51歳で死んだプルーストの墓の前に1922年に生まれて51歳になった奴がいる。これは偶然の戯画といったものだが、本人にしてみれば思いの深いもので……」とある。はじめてこれを読んだ頃は、こうした文学的コンテクストの上に自分をのせてみるのが大好きで、強いあこがれを感じたものだったが、いつからか(中井英夫たちはともかくも)自分は、平凡で日常的なコンテクストの上にのるときこそ、書くことの動機に出逢える、と考えるようになっていた。

例によって留守番。休日ではないが、おだやかな日曜ではあった。家人はクリスマスリースの材料などを抱えて帰宅。きょうの一首。

 わたくしといふ楡の木が平凡な場所でしづかな西日をあびる/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 17, 2007

2007年11月17日(土)

午後、家人に、某DIYショップに行こうと誘われる。室内の装飾用に額をつくるというので、荷物運びをするつもりで一緒に出かけたところ、額の形状とサイズと個数を教えられて、どの材料がどれだけ要るのか、無駄が出ないよう、その場で計算させられた。買った材料を店でカットしてもらうと、小ぶりな手提げ袋にすっきり収まってしまう。つまるところ、荷物運びではなく、計算機がわりに必要だったらしい。役に立ったのならば、それはそれでいいのだが……。

同人誌「レ・パピエ・シアン」12月号の特集は「百人一首を読む」。萬葉集以外の古典和歌を語る現代歌人の文章というのは、近頃ほんとに少なくなった感があるので、珍しさの面も楽しみながら読んだ。各執筆者のエッセイに添えられた本歌取的かつ感想的な作品がおもしろい。引用歌の本歌は実朝と躬恒。

 常にもがもなと思はむ何もなくあなたと目守る鱏の反転/山吹明日香
 霜を瓶にあつめてひとに見せたい花をまぎらわせたその白を/小林久美子

きょうの一首。半ば冗談で書きはじめたのだが、書きながら晩秋初冬的な感覚にひきずられた。どこか抒情っぽい印象に転じたか。

 計算をするとき九九を声にだすひるのしじまににじむその声/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

November 16, 2007

2007年11月16日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは15人の出席。題は「塩」。大幅な延長にはならなかったが、小幅(個人比)な延長にはなった。講座で見せたぼくの題詠は以下の一首。講座の前に地下街の喫茶店で書くつもりが、時間がぎりぎりで店に入るだけの余裕がなかったので、地下鉄のなかで考え、人数の少ない屋外の某喫煙所でまとめて、立ったままノートに書きつけた。

 いつか遺灰をまくかも知れぬゆびさきがサラダに塩をふる冬の朝/荻原裕幸

ブログを再開して約二か月になる。五里霧中だったので、再開直後に、夛田真一さんと山本真紀さんにコメントを書いてもらってとても嬉しかったし、ネットの内外でいろいろな人に声をかけてもらえたのが継続の支えになっている。何かもう少しアクティブに活用したいきもちもあるが、アクセス数も徐々に増えているようなので、しばらくはこの気ままなスタイルで続けたいと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 15, 2007

2007年11月15日(木)

 若ければ、ビニール傘の粉雪をはらって入る結社未来事務所/加藤治郎

第五歌集『ニュー・エクリプス』(二〇〇三年)の一首。初句にいきなりあらわれる「若ければ、」の五音と読点で、この歌のモチーフは出し尽くされていると思う。若いときには行動の選択が高い恣意性を帯びていた、必然的な時間の流れなどはどこにもなかった、けれども現在は、という、およそ例外のない感慨のようなものとして、多くに共有されたフレーズだが、これを一首として成立させているのは、以後の結句にまで連なる非詩的な現実描写である。歌人の多くはビジネス以外の「余暇」を短歌の時間にあてている。若ければ、歌人でなければ、ビニール傘の粉雪をはらって入るのは、おのずと違う場所だったろう。「未来」という結社名も、一首に不思議な力を与えているように思う。

七五三。あ、加藤治郎さんの誕生日、と思って、なんとなく書棚から加藤さんの歌集を抜き出してひらくと、初見では強く印象に残らなかった前述の一首が目にとびこんで来た。歌集はやはり繰り返し読まないとだめだなと思う。夜、家人と名古屋駅のミッドランドスクエアに行く。テナントのほとんどが横文字のブランドで、これ何語だろうとか思ってロゴを見ていると、外国語が苦手なはずの家人が横ですらすらと読みあげてゆくのだった。そこはかとない劣等感とあきらかな危険を感じて歩調を早めた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 14, 2007

2007年11月14日(水)

午後、中京大学へ。時間がぎりぎりになって一駅を地下鉄で移動する。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」秋期の九回目。きょうの題は「冬」もしくは「冬」の字の入った季題。帰りは徒歩で。歩くときもちのいいあたたかさだった。夜、リビングのテーブルの上に、「ケフィア増殖中。」と貼紙されたものが忽然とあらわれた。家人が何かはじめたらしい。

 その目は鹹い永劫が
 しなやかにうねり
 割れ
 砕け
 裂け
 散ってしまうところまで細かく見る
 その目はいつも涙に磨かれている
 その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる
 だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
 後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。/安西均

安西均「実朝」の後半部分。詩集『美男』(一九五八年)に収録されている。安西均が歌人をモチーフにした何篇かの詩、たとえば「西行」「人麿」「新古今集断想」、それにこの「実朝」等を読むと、それぞれのモチーフとされた歌人への感情移入は生じるが、作品の「話者」への移入は生じない。「話者」と「私」とが切断された領域で詩が書かれているからだと思う。むろん、そうした切断があるとしても「私」がどこかに消えてしまうわけではないのだが、ここでは、書くことによって生じる「私」が「話者」へは回帰していない、とでも言ったらいいだろうか。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

November 13, 2007

2007年11月13日(火)

水がいちだんと冷たくなって来た。顔を洗うのに気になるほどではないが、食器を洗っているとかなり気になる感じ。夜、どうにも落ち着きの悪い不安定な場所に洗剤の詰め替えパックが置いてあるのを見て、パックが軽業していたよ、と家人に言う。言ってから、ん? と思う。ものすごくふつうの言い回しのつもりで言ったのだが、近頃聞かないものすごく懐かしい言い回しのような気がして、軽業するって近頃聞かない言い回しだよね、むかしの人みたい、とひとりごとのように言っていたら、家人がものすごく同情的な口調で否定するのだった。否定することでも同情することでもないはずなのだが……。

きょうの一首。清澄な光景であると強調したかったのだが、むしろフェチ的視点が強化されただけだったか。

 癒しではなくて萌えでもない何か湧く冬の箸もつゆびを見て/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 12, 2007

2007年11月12日(月)

ひとつのことにあたまを占有されていると他のことが入れなくなる。それでは困るのだがどうにもならないような感じが続く。外へ出るとひとつのことからはあたまが解放されるのだが、外へ出るからには別の何かに占有されるわけで、やはり他のことが入れない。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の七回目。きょうは実際に評論文を書いてもらった。行きに中村公園で、帰りには栄で、所用を済ませる。栄の丼屋でさんまめしと親子丼のセットを食べる。

きょうの一首。市バスの車中でまとめて、未推敲だが、とりあえず。

 最後から二番目のとか言ひたくなる妙にしづかな約束だつた/荻原裕幸

| | Comments (4) | TrackBack (0)

November 11, 2007

2007年11月11日(日)

夜、食器を洗っていたら、ずいぶん水が冷たくなったように感じたので、水が冷たくなったね、と家人に言ったところ、家人がまるで反応しない。そう言えばかなり前に、水が冷たくなったね、と聞いていたような気がして、かなり前から水は冷たかったね、と言い直したら、やれやれという表情をされた。実感しないとピンと来ないのはしかたないにしても、意識に届くまでに日数のかかることばというのは、届くまでの間、一体どこにどうひそんでいるのだろうか。

きょうの一首。

 樹間でも出窓でもないやはらかな通路を抜けて冬のひかりは/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 10, 2007

2007年11月10日(土)

昼さがり、近所の公設市場まで弁当を買いに行く。鶏肉店が日替りで出している買得品で、きょうは、鶏の唐揚とコロッケと海老フライとポテトサラダと卵焼と枝豆とごはんがぎっしり、それで五百円。しかも二人分買ったら紫芋の天麩羅をおまけにつけてくれた。帰り道、桜が紅葉している公園を通り抜けると、男子がサッカーをしたり、若い母親が小さなこどもをブランコに乗せたり、父親が息子に自転車の乗り方を教えたりするのどかな風景のなか、険しい表情でバドミントンをする母娘らしき二人がいた。それにしても険しい表情だなと思ったら、母親の足元にシャトルの山が……。特訓だったのか。

きょうの一首。

 桜紅葉の公園に来てほどほどのざわめきといふしづけさに逢ふ/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 09, 2007

2007年11月9日(金)

晴れたり曇ったり雨が降ったりと落ち着かない一日。夜、家人とスーパーに出かける。食料品をあれこれと日用品を少し。珍しく日本酒も買った。

藤原龍一郎さんの「電脳日記・夢みる頃を過ぎても」は、九月末日で終了。二〇〇〇年十月朔日の開設から数えてちょうど七年間の仕事が完結した。併設の電子掲示板「短歌発言スペース・抒情が目にしみる」は、挨拶的なコメントが続いたのでしばらく稼働させていたが、そろそろ潮時かと思って、きょうの午後、コメントの書きこみをできないようにして終了した。日記も掲示板も、ログは公開状態でそのまま保存する予定。

 だからこの韻文としてつらなった文字の抒情が目にしみるだけ/藤原龍一郎

第五歌集『切断』(一九九七年)の一首。短歌をモチーフとした短歌として出色の作品だと思う。ニヒリズムと言うよりはツンデレに近い気がするが、短歌への執心を素直に語れない一人が、作品を読んで涙しながら言い訳をしている姿がほのぼのとたちあがって来る。内心は、短歌との蜜月的期間を過ぎ、抒情への執心は断ったはずなのに、なぜこんなに目にしみるのだろう、という感じか。もじりネタにした「煙が目にしみる」の歌詞を考慮すると、情熱の火が消えてたちのぼる煙のようなものが目にしみる、というニュアンスかも知れない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 08, 2007

2007年11月8日(木)

立冬。荻原家では加湿器が動きはじめている。家人の風邪予防のため。内緒の話なのだが、以前、空気が乾燥すると風邪をひくから加湿器が要ると家人に言われたとき、何かのジョークなのかと思ったことがある。ついでに言えば、家庭用の湿度計は実用性のないインテリアだとずっと本気で思いこんでいたのだった。

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は11人。大谷雅彦さんがひさしぶりに参加。題詠「鯉」ならびに自由詠。鯉がどう料理されるのか予測できなかったのだが、案外イメージが共有されていた。ぼくの出詠したのは以下の二首。鯉の一首はきのうの隼人池での着想を推敲してまとめた。題詠を考えているときにちょうど実物を見たのでいいヒントになった。ドアノブの一首は十日ほど前に実感した日常的な素材から展開してみた。

 ゆつくりと濃くなりながら認識のみづのおもてに真鯉のやうに/荻原裕幸
 あさかげに握るドアノブひえびえとして奪はれてゆくものがある

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 07, 2007

2007年11月7日(水)

今年最後の秋晴。あたたかな一日だった。中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」秋期の八回目。きょうの題は「十一月」。意外に難しい題。講評の他に、邪道かなとは思ったが、この種の題への対応法をマニュアル的に話す。終了後、遅い昼食。外食、と言うか、屋外食(?)。杁中の隼人池の上にある四阿のような場所で、スーパーで買った「22層のやわらかロースカツ弁当」なるものを。池の鯉を見ながら短歌を考えていたら、亀のようなもの(たぶん亀)があらわれた。瑞兆とか思っていたのだが、外来種じゃない? と家人に言われた。

きょうの一首。むこうからすればこちらがそうなのかも知れないな、と思いながら戯歌風にまとめたが、これでは芭蕉のもじりではないか、と気づいた。とりあえずそのままリリースしておく。

 何をしてゐるのかがよくわからない音させてゐる秋の隣室/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 06, 2007

2007年11月6日(火)

家人が外出。家で食事をつくるのが億劫だったので、近所の蕎麦屋で週刊誌でも読みながらと思ったら生憎と準備中だった。考えてみればこんな時間に昼食をとる人はいないなとあきらめ、スーパーで適当なものを買って中食ですます。テレビはやたらに小沢一郎で、ニュース番組は民主党の紹介番組のようだった。結局は元の鞘におさまり、誰がかけひきに勝ったのかがよくわからない、いかにも政治的な展開となった。石が取れる局面でわざわざコウにするような奇妙な政局が続いている。奥が深いのか下手なだけなのか。

きょうの一首。

 いまだひとつの政党を支持することのなくて銀杏の黄落を踏む/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 05, 2007

2007年11月5日(月)

目覚めると右肩は何ともなかった。昨夜、もしかしてと思って枕を低いものに変えたのがよかったらしい。高さがうまくあってなかったようだ。午後、小雨がぱらつきはじめる。同朋大学へ。講義はこれで六回目になる。前回に続き、評論文の解説を進めた。帰りの地下鉄の中吊り広告でアエラの一行コピーを見る。今回は「駅前休学。」。だじゃれではなくもじりになった分だけ大人しいが、たまにはこういう路線もいいと思う。帰宅して、アエラの一行コピーのブログを見てみると「菓子作りはぶきっちょー」とか「まっさか、優勝するとは」など、アエラ十八番のだじゃれ路線の候補が出ていた。次回は小沢一郎ネタか、展開によっては落合博満ネタかな。

青磁社のウェブサイトに、5日付の時評として、吉川宏志さんが「〈現象〉読みVS〈言葉〉読み」という文章を書いている。この文章のなかで吉川さんは、荻原裕幸、穂村弘、加藤治郎の順に、発言や文章の引用をつないで、そこに「一首の言葉に即しての批評」をと考える自身との「対立点」を見出そうとしているようである。論の流れはわかりやすいのだが、つながった引用の総体と個人としての意見のずれに、つなげられた本人はとまどいを覚えざるを得なかった。穂村弘さんも加藤治郎さんも、あの引用のつながりにはかなりとまどうのではないだろうか。とりあえずは自分のとまどいについて書いておく。

引用されている短歌ヴァーサス第6号の、吉川宏志さんと荻原裕幸との対談「リアルな〈歌〉のありか」において、ぼくの理解では、吉川さんと荻原との根本的な対立点は、作品を読むことを「一首の背後にいる人間」との対話だと捉えるのか、そのような対話に括れない部分で捉えるのか、であって、「一首の言葉に即して」は、当然の共通事項だと考えていた。それに、そもそも吉川さんが時評に引用した発言は、一首単位の読みと連作単位の読みに差異が生じるという話の流れもあって出て来た部分なのである。吉川さんと荻原に意見の違いはあるが、それは、一首の言葉に即してから後に生じているか、あるいは、前提の違いから生じる一首の言葉への即し方の角度の違いか、のどちらかだと思う。長いテキストになるが、件の対談から以下のようなやりとりを引用しておく。

吉川——僕はやっぱり短歌は、一首をいかに読むか、読みながら一首の背後にいる人間と、いかに対話するか、というところにどうしても重点を置かざるを得ないですね。
荻原——でも、この大石聡美さんの「信号が青になったら別れましょう川が二つにわかれてるから」っていう歌、これがおもしろいのは「信号が青になったら別れましょう」という、いかにもありそうな〈私〉の体験部分ではなくて、そこにかぶせた「川が二つにわかれてるから」ですよね。ここに日常的な散文では説明できないような、短歌の表現としての言葉のひずみと言ったらいいのか、何かバイアスのかかった表現が入ってきているからでしょうね。この部分というのは、フィクションとか私性とかいう意味での一人称の問題には戻せないですよね。
吉川——もともと読者は、作者が歌を私生活を元にして作っているのか、フィクションで作っているのかを、判断しようがないんですよ。いくら私小説的に見えても、実際はフィクションが混じっているケースはあるわけで。けれども一首を読んだときに、読者が嘘っぽく感じてしまったとしたら、やはり歌としてはおもしろくない。
荻原——「川が二つにわかれてるから」というところの解釈を、この一人称が体験しているであろう特定の時間とか特定の場所に還元して読むことはできないわけですよね。ある程度読み手がそこに向かっていって、いろいろ情報を補って読んでいくようなスタイルの文体じゃないですか。そこがやっぱり大事じゃないかなという気がするんですね。たぶんこのスタイルというのは、時期的には俵さん以降、たとえば早坂類さんとか正岡豊さんとか東直子さんの作品などに典型的にあらわれたものです。言葉が断片化していて、何か感じさせるものはあるんだけど、ではその背景にどんな物語があるのかということがぜんぜん見えなくなっています。だけどそれが何か信頼につながってゆく……。
吉川——東さんの場合、言葉の組み合わせの感覚がとてもおもしろくて、その新鮮さがあるために、ある程度文脈がわからなくても、詩として読めるというところがありますね。
荻原——そうするとやはり問題は、〈自己像〉を結んでいくかどうかっていうよりも、一首の中にある表現方法なり、そこに提示されているファクターなりにあるのかなって気がするんです。東直子の歌集を一冊読んだときに、従来のような意味での〈自己像〉を、その作者の内面みたいなものを読み解こうとしても読み解けない。そこから見えて来るのは、〈自己像〉以外の何らかのその人の世界観なり、方法論の提示みたいなものが〈自己像〉の価値にかわるものとして浮上してきている姿じゃないかなと思うんです。おそらく吉川さんが言ってる信頼や不信の問題で現在迷わざるを得ないのは、東さんのようなタイプのああいう断片化された作品のなかにある、信頼してもいい何かっていうものの見つけ方のノウハウがわれわれにまだ確立されてないからじゃないでしょうか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 04, 2007

2007年11月4日(日)

目覚めると右肩がものすごく痛くて驚いた。肩にずっと力を入れていたような変な感覚が残っている。しばらくは気になって肩や腕を回したりしていたが、ふと気づくと消えていた。睡眠中、寒くて無駄に力を入れていたのかも知れない。家人が外出。留守番。こころおきなくペットボトルを潰す。

 砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず/落合直文

遺歌集でもある第一歌集『萩之家歌集』(明治三十九年/一九〇六年)所収。初出は「明星」の創刊号だというので、一九〇〇年である。「砂の上」は、すべてをロマン主義的なものに昇華する装置(当時はたぶん)であり、しかも「わが恋人の名」などというハイカラな語句(当時はたぶん)が出て来ればなおさらにロマンティックが強化されるわけである。典型をつくった一首だと思うし、名歌と呼ぶに吝かではないのだが、当時は機能していた何かが、おそらく現在は機能しなくなってしまっているのだろう。どこかがふかふかと浮いている。

きょうの一首。では、これなら浮いていないのか、浮いているにしても浮いていないにしても、萩之家的システムのどこをどう改変しようとしたのか、という自身の意識をたどることはできるだろう、などと考えながらまとめた。

 秋の砂にたがみゆきえと名を書けばたがみゆきえを波がつれさる/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 03, 2007

2007年11月3日(土)

文化の日。国民の祝日は、「○○日」と「○○の日」と、名前に二つのパターンがある。俗説、と言うか、ブラックジョークだと思うが、前者は、日付が不動でかつその名にふさわしい根拠がある日、なのだとか。元日、憲法記念日、天皇誕生日の三日だけ? 怖い話になりそうなので、以下自粛。

日本シリーズの第五戦最終回に、完全試合の可能性を残していた山井大介投手を降板させて岩瀬仁紀投手を起用したドラゴンズの落合博満監督の継投采配が、プロ野球という枠を超えて話題になっているらしい。ファンとして日本一の余韻を楽しみながら見聞きしていたところ、某スポーツ紙によると某知事の定例会見では「泣いて馬謖を斬る」のたとえまで出たという。さすがにそれはちょっと何かが違うような気がするのだが……。

きょうの一首。

 ゲームなき日の球場にゐるやうな白さのなかでブログを記す/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 02, 2007

2007年11月2日(金)

昨夜、日付が変ってしばらくした頃、エノラ・ゲイのポール・ティベッツ機長の死亡のニュースが流れていた。先日、航空日誌の競売落札のニュースを聞いたばかりだったので、関連があるのかと一瞬思った。死因は心臓病らしい。享年九十二歳だという。何かあと一言が口元まで出かかっているのだが、どうもうまく思考がまとまらない。

栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは16人の出席で、詠草は17首。題は「海」。詠草が少なめだったので、いつものような大幅な延長にはならないだろうと思っていたのだが、終ってみればいつもとほぼ同じ時刻であった。時間というのは不思議なものである。にわかに寒くなった感じだったが、ドラゴンズの祝勝セールの影響か、人出が多かった。セールとは関係なく、家人に頼まれた文房具とか弁当などを買って帰宅する。講座で見せたぼくの題詠は以下の一首。

 高気圧あをくひろがる静けさに島浮くけふのあなたの海は/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 01, 2007

2007年11月1日(木)

十一月となる。天気のはっきりしない一日。午後、父が在所のみやげの蕎麦その他をもって来てくれた。そう言えば、萩原朔太郎『絶望の逃走』に「父は永遠に悲壮である」という警句があるが、個人的には、父は「悲」でも「壮」でもないような何かやわらかなざらつきをずっと抱えている気がする。ざらつきなのにやわらかなところがくせものである。夜、プロ野球日本シリーズを中日ドラゴンズが制して、テレビには祝勝番組が続々と組みこまれていた。祝日本一。あすは名古屋各所で一斉に祝勝セールが開催されるらしい。

きょうの一首。目覚めたとき、ときどき、昨日までの記憶の世界と今日の世界とがきちんと繋がっているのかどうかが気になることがある。たぶん深い眠りから急に目覚めたときのぼんやりした感覚によるものだとは思うが。

 見たことのない船影にしばらくは脅える入江として朝をゆく/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« October 2007 | Main | December 2007 »