夕刻、家人と近所の内科でインフルエンザの予防接種をうける。もうすでに流行がはじまっているらしいし、対応が遅かったかも知れない。ワクチンの効果が出るまで半月ほどだという。
★
このブログの11月22日の記述をめぐって、吉川宏志さんのコメントをもらっている。そこで質問の出た飯田有子さんの一首について、先週、シンポジウムの準備がてら、以前に読解したプロセスを、自身のメモを参考に、思い出して文章化してみた。そこからさらに総合的に論を構築しようと考えたが、どうもすぐには時間がとれそうにないし、現在も意見が変化したわけではないので、とりあえずは、読解のプロセスを文章化したものをそのまま掲載しておきたい。
★
球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう/飯田有子
第一歌集『林檎貫通式』(二〇〇一年)の一首。この歌を解釈しようと意識して読んだときの経緯を思い出してみた。まず、この球体とは何だろうとしばらく考えた。何か得体の知れない球体だろうか。もしもそうだとすると、球体の正体を憶測する様子もないままで「うずまる川面」や「流れっぱなし」という状態に対して「いや(嫌)」と書かれている文脈がうまく成り立たない気がした。説明なしにいきなり「球体」と出ているのは、広い意味での人の生活圏にある何かの言い換えだからだろう。球体が川面をうずめて流れっぱなし、しかも、それが特殊な事件の結果だというようには示唆していない。つまり、この球体が日常的な推測でたどりつける何かであることをテキストは示している。ここは経験的感覚から考えていいところなのだろう。ならば、球技用のボールだと考えてはどうだろうか。ボールの管理が甘くなりがちな競技で、そう言えば、川を汚すごみとなることがときどき社会問題にもなっているゴルフボールであると考えてもいいのではないだろうか。ゴルフ場の近くの川で流れて来るボールを拾い集めて売る人がいると聞いたこともあるし。問題は、ではなぜ「ゴルフボール」等とはっきり記述しないのかである。字が余るからかも知れない。でも、それで誤解を生じさせる可能性があれば、初句を七音にするのが現代短歌のセオリーだ。となると、何のボールであるかがさしたる問題にならないか、むしろ何かをはっきりさせることによって別の誤解が生じるのを避けたのだろうと思った。ゴルフ、テニス、野球、等、もしも競技名が記述されるとすると、この「いや(嫌)」は、競技そのものへと向けられたものだと読まれる可能性も高い。この「球体」はそれを回避しているように見える。たとえばゴルフボールだとしても、ゴルフ用であることが問題なのではなく、ボールであること=球体であることが問題にされているわけだ。この「いや(嫌)」は、球体をめぐる行為、すなわち競技に向けられたものではなく、球体そのものと球体の状態に向けられた生理的嫌悪に近いものなのだろうと判断した。
★
この「球体」をめぐって考えるなかで、あわせて考えていたのは、繰り返してあらわれる「でしょう」についてである。繰り返しは、ここでは、そうであることを強調する、という印象があったので、推量であることはまずあり得ないと感じた。残された可能性のなかで、同意を求める疑問か、疑問を形式的に含んだ押しつけであるか、たぶんどちらかなのだろうと思った。内容を入れ換えてみるとわかるだろうかと、たとえば「軍隊が牛耳る政府いやでしょう撃たれっぱなしよいやでしょう」などとパロディをつくったが、同意を求める疑問か、疑問を形式的に含んだ押しつけか、どちらなのかを判断するには、発話されたのがどういう状況なのかを確定していないと無理だと思われた。発話された状況を考えながら気づいたのは、この歌、何かものすごくモノローグ感が薄い、ということだった。
砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね/俵万智
もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに/加藤治郎
少なくとも近代以降の短歌はモノローグ的である。つまり、誰かが聞いているか読んでいることを前提にしながら、あくまでも直に伝えるのとは違う独白的文体によって書かれて来た。たとえ二人称に向けて書かれていてもこの事態はかわらないし、一九八〇年代に俵万智や加藤治郎が、口語とりわけ会話のスタイルを採用したときも、独白的な、こころのなかのリアルなつぶやき、であったからこそ違和感が軽減されて、短歌の世界に浸透していったのだと思われる。だが、飯田の一首は、このモノローグ感が薄い。具体的にどんな状況で発話されたのかを想定しないと、読めたという感覚が生じにくいのである。従来は鍵括弧のなかに入れて表記していたディアローグ的文体に近いと考えるべきだろう。
★
このように考えを進めて来て、飯田の一首を、以下のようなディアローグを仮想しながら読むことも可能ではないかと思った。
A「川がゴルフボールだらけでいやな感じ」
B「そうかな?」
A「球体にうずまる川面、いやでしょう?
流れっぱなしよ、いやでしょう!」
B「そ、そうかもな……」
ぼく個人は、話者Bの感覚のなかで生きているが、話者Aの主張を否定する気は起きないし、むしろ、他者とはこのように感覚として理解しづらいものなのかとおもしろがるように思う。飯田の一首を読んでも、感覚的にはまったく共感できないのにおもしろいと感じる。たぶんそれは、いまここに生きていることに瞬間的な嫌悪を感じている話者Aの感覚の外に置かれることが、いまここに生きていることに瞬間的な肯定感をもたらすからだろう。逆に、話者Aの共感者も、嫌悪という共感によって瞬間的な肯定感のなかにいることができると思う。作者である飯田自身は、話者Aの感覚のなかにいると考えられるが、この一首は、共感を呼ぶコミュニケーションとして読者に届く場合とぼくのように共感を呼ばない者とのディスコミュニケーションとして読者に届く場合との双方を想定しているのではないか。「いやでしょう」を繰り返す、同意を求めるとも押しつけともつかないこの一首のディアローグ的文体は、その証左のように思われる。
Recent Comments