February 29, 2008
閏日。暦が帳尻をあわせているだけのことなのだが、四年生きるともれなく一日おまけが付いて来る、と思うことにした。大晦日や年度末や節分と並んで、一応一年の区切りの日でもある。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は18人。詠草は19首。題は「流」。いつものように読解と添削的な講評を進める。いつものように延長となる。
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故郷近くなりて潰せるビール缶の麒麟のまなこ海を見るべし/島田幸典
第一歌集『no news』(二〇〇二年)に収録された一首。帰省の列車が故郷に近づいた頃、飲み終えた缶ビールのアルミ缶を握り潰して、さて、と、故郷に対峙するために何かきもちの整理をしているところなのだろう。その経緯や詳細はわからない、と言うか、経緯や詳細はここでは問題にされていない。風景の描写として引き出されたキリンビールのキリンを麒麟に転じたことで、そこに矜恃や自己愛をないまぜにしたような意識の流れが重なって浮かびあがる。「海を見るべし」は、故郷の海がそろそろ視界に入って来るといった風景の流れであると同時に、故郷との戦闘的なモードに入る一人の青年の姿を感じさせる。青々としていて佳い歌だと思う。
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きょうの一首。きょうの講座で見せた題詠「流」の作例。実際にいままでで一度だけもらったことがある。社会的にどうなのかはともかく、旧暦というのでもない、私的な時間の流れが存在しているのは、何か楽しい。
ゆつくりと濃く流れゆく春をもつひとから届く二月の賀状/荻原裕幸
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February 28, 2008
こどもの頃、父が、出発のことをデッパツと言うのがとても苦手だった。わざと誤読する隠語感が、どこか下品に思われたからだ。後にそれが departure とかけあわせたある種の業界用語なのだと聞いて、なるほど、とは思ったのだが、第一印象というのは強烈なもので、結局なじめないままだった。近年、このことば、目にする機会が増えているような気がする。なぜだろう。
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第57期王将戦七番勝負第五局。先手の久保八段は四間飛車、後手の羽生二冠は居飛車で舟囲いから左銀を繰り出してゆく。羽生は、対振飛車の、かなり懐かしい印象の指手で、久保が美濃囲いを組んでから玉を移動したのを別にすれば、三十年前の棋譜を見ているような印象だった。羽生の仕掛けから角交換が成立すると、以後は攻防が激化する。最後は、どう見ても不詰状態だった局面から、羽生がマジカルな感じで詰ませてしまう。論理上は不詰だったらしいが、久保が応手を間違えたという。羽生善治王将が四勝一敗でタイトル防衛。王座との二冠を堅持。タイトル戦以外も含めた棋戦での優勝回数は100を数えることになった。
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きょうの一首。桜場コハルのコミックとは微妙に空気が違う感じだが、アニメ「みなみけ」の第1クールは、平凡な日常を聖域化する圧倒的な力があったと思う。
南家をみなみけと書く感覚でゆるくほぐれるはるのこんぱく/荻原裕幸
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February 27, 2008
午後、近所の郵便局まで速達を出しにゆく。とても愛想のよい局員さんがいた。公設市場に寄って弁当を買う。いつもとても愛想のよい奥さんがいる。そういう流れでたばこを買うと、酒屋の前の自動販売機までもが愛想のよいように感じられるので不思議だ。公園の前を通るといきなりボールが飛んで来て目の前をかすめる。そのまま車道を走っていた車の窓にあたる。ガラスは割れなかったものの、車は一度止まってのろのろ動いている。車自体が狼狽しているように見えたが、考えてみれば、運転手が驚いたり怒ったりでボールの主を探していたのかも知れない。車が去ったあと、野球のユニフォーム姿の少年がボールの回収にあらわれた。
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「現代詩手帖」3月号、石川美南さんが、穂村弘『短歌の友人』の書評「穂村弘の手からこぼれる」を執筆している。「しかし、常に明快な穂村弘の口調は、九〇年代以降登場した若手の歌に対するとき、一定の理解を示しつつも戸惑いを内包する物言いに留まっているように感じられる」というくだりから展開される漠然とした違和感の表明のようなものを興味深く読んだ。ただ、「時代の空気に歯向かってでも豊かな詩を紡ごうとする立場こそ重要」などといった言挙げは、言おうとする何かへのこだわりの強さは感じられても、具体例をともなわないとかなり空虚にひびいてしまう。できればこの続きが読みたい、と感じた。
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きょうの一首。あるいは、そう見えるこちらが壊れているのか。
日があたるからかどこかが壊れたか陽気に笑ふリビングの壁/荻原裕幸
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February 26, 2008
雪が降って降りつもる前に雨となる。午後、丸の内へ。城の外堀にかかる橋の上に少しだけ雪が残っていた。愛知県産業貿易館で、ねじまき句会の二月例会。参加者は五人。出詠者は七人。今回は題詠「折」と雑詠。もう少し川柳史を参照しながらディスカッションできるように知識を増やしておこうと思うのだが、いつも気づいたら次の句会の日が来ている。ぼくの出詠したのは以下の二句。
二月からはみ出たものを折り曲げる/荻原裕幸
もしかしてこれはわたしの霜ですか
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名古屋の地下鉄の車内では「車内での携帯電話の使用はご遠慮下さい。なお混雑時には電源をお切り願います」とアナウンスが流れる。微妙ではあるが、携帯電話で問題とされているのは、着信や会話の大音量と電磁波のことであるのだから、非混雑時に無音でメールを読み書きしていることが他人の迷惑になるとは想像しづらいし、地下鉄側がそれを禁じているとも思えないわけである。きょう、地下鉄で寝ていたら、地下鉄で携帯電話は禁止だ、と神経質に叫ぶ声がして吃驚した。見たところ六十歳前後の男性が、メールを打っている学生さんやOLさんに文句を言ってまわっている。生じる必要のない歪みがそこに生じているように見えた。名古屋の地下鉄は、もっと明確で説得力のあるガイドラインをまとめた方がいいと思う。
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きょうの一首。現代仮名遣いにして末尾に句点を付して、たとえば昨日の日記の冒頭に据えたら、それでそのまま日記として通用してしまいそうである。
二月なのにやたら霊気が濃いやうな気がして一日中換気する/荻原裕幸
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February 25, 2008
羽海野チカさんの『3月のライオン』第1巻(白泉社)を入手して読む。ヤングアニマルでの連載は未見、完全な初見状態で読んだのだが、期待していた以上に楽しめる世界だった。将棋マンガに特有の「勝負師」の典型を求めるような印象がなく、いわゆるチャイルドブランド以降の「研究者」的なプロ棋士の姿を描いているのが、自分の好みにあうみたいだ。それと、先崎学八段の監修力や挿入されたエッセイも卓抜だと思う。むかし盤に並べたことのある名局の棋譜が、そのまま作中で活用されていたのがわかって、ノスタルジア的なくすぐりを感じたりもした。そうした骨格の部分に加えて、第二のハチクロ的な世界がひろがっているわけだから、考えてみれば、かなり贅沢に楽しめる作品だと言える。
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蛇足的な話だが、『3月のライオン』で、桐山零と二海堂晴信が対戦した夏休みの子供将棋大会というのは、名古屋の東山公園でも毎年開催されていて、中学校一年生のときに、ぼくも一度出場したことがある。さして強かったわけでもないが、イベントとなると実力以上のものが出る性質で、ベスト8まで勝ちあがって、準々決勝で敗退した。優勝すると日本将棋連盟から初段の免状がもらえたのだが、実際には二段か三段クラスの力がなくては優勝は無理だと聞いていた。当時のぼくの棋力は、推定で二級か三級程度だったので、先に敗退した将棋仲間が、ぼくが勝つたび、とても不思議そうな顔をしていた。暑さ、と、負けたくない、に満ちた作中の対局シーンを読みながら、かすれにかすれたそんな記憶を辿っていた。
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きょうの一首。自分はいまどんな木だろう、などと考えながら。
影の濃い木と薄い木と見あたらぬ木があるひるの梅園をゆく/荻原裕幸
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February 24, 2008
全国的には雪の多い日だったらしい。名古屋は晴れていた。午後、栄の愛知芸術文化センターでひらかれた杉森多佳子さんの第一歌集『忍冬(ハネーサックル)』(風媒社)の批評会に発起人として出席する。参加者は約60人。盛会だった。ディスカッションは、大辻隆弘さんのコーディネート、島田幸典さん、小島ゆかりさん、黒瀬珂瀾さんというメンバーで進められた。
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歌集『忍冬』は、私的な日常をゆったりとしたフレームにして、事件的な出来事とそうではない出来事とを適宜混ぜあわせながら構成しているように見える。一方、文体について言えば、叙述するよりは修辞的な表現に偏向がある。この種の傾向、日常性と修辞性の共存は、現在の歌集のスタンダードの一つだし、二つのファクターをバランス良くなじませることである種の力量を示す、というスタイルが、第一歌集の目に見えぬセオリーとして存在しているようにも思う。ただ、『忍冬』の場合、日常性と修辞性のバランスは良くない。修辞性への偏向が強いのはこの歌集の個性だし、成果も大きな可能性もそこにはっきり見られるが、そのため、日常性がどこかつくりものめいて見える面もある。島田さん、小島さん、黒瀬さんの三人がともに、この問題をそれぞれ違うアングルから切り開き、賛否こもごもに語っていたのは、必然的ななりゆきだったのだろう。
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前述の問題は、おのずと、では「出口」をどこに見出すか、という話へとつながってゆく。むろん、バランスをとってしまえば、それはそれで一つの小さな解決にはなるのだが、そんな選択があり得るなら、作者ははじめから歌集『忍冬』をこのようなスタイルではまとめなかったはずだ。『忍冬』の修辞性の強さに日常性を劣化させる面があるのは、端的に言ってしまえば、短歌の定型を、分量の問題、としてとらえているところが作者にあるからだろうとぼくは感じている。短歌の定型のエッジに対する意識が少しでも甘くなると、なぜそのようなことばがそこにおかれているのか、についての説得力が減じてゆく。日常性を作品のベースにしていれば、これは比較的表面化しにくい。逆に、修辞性に偏向しているとものすごくめだつのだ。『忍冬』以降の世界に向けて、この件は、作者に一度じっくり考えてみてほしいと思う。
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以下、歌集『忍冬』から、自分の好みの作品を引いておく。
雪暮れに丸いいのちが欲しくなる銀杏を炒り金柑を煮る/杉森多佳子
身のうちに雪の降る場所つねにあり雪降るのみのしずかなる場所
マンションのめぐりの草木秋深む子規の狭庭をしずかに思う
目の中に笑うあなたを呼び出だすひとりで冬を迎えるために
ふゆの字を宋朝活字に表わせば私の好きな冬となりゆく
冴え返る二月の朝は前髪を水平線のように切りたい
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きょうの一首。午前、人を待ちながら。
春光の奥からひびくその音が何なのか知らずに聞き惚れる/荻原裕幸
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February 23, 2008
風の強い一日。日の暮れる頃からかなり冷えはじめる。夜、外に出てみると、皓々とした月あかりのなか、春の雪が、強風に流されて、地面とほぼ水平に降っていた。ものすごくきれいな風景だったが、ものすごく寒くもあった。こういうのは、狐日和や狐の嫁入りではなくて、何と呼ぶのだろうか。
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第33期棋王戦五番勝負の第二局。後手の羽生二冠はゴキゲン中飛車、佐藤棋王は丸山ワクチンから9筋の歩を突いて8筋の位取りという最近しばしば見かける戦型。左銀を中央に繰り出した羽生が早めの仕掛けに出ると、そのまま攻防が激化し、中盤を端折るような感じで終盤に突入する。ずっと羽生の優勢に見えていたのだが、佐藤がぎりぎりのところで攻めを受け切って逆転。一勝一敗となる。
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きょうの一首。うわ、と叫び声をあげたときはあとのまつり。
なりゆきで付箋が落ちて春の夜をたつた一語のために費やす/荻原裕幸
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February 22, 2008
それほど寒くない日が続いている。
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伊勢谷小枝子さんの第一歌集『平熱ボタン』(あざみ書房)を読んだ。
鼻水も出るのが納得いかなくてあまり泣かないようにしている/伊勢谷小枝子
書いてある通りに読めば、一応そのままわかる歌ではある。が、この歌には、そのままわかる歌にはない、読者を立ち止まらせる感触が何かあるように思う。それが何であるのか、しばらく考えていた。涙とともに鼻水が流れてしまうのが「嫌」なのであれば、そうだよなあ、とは感じても、たぶんこの一首の前には立ち止まらなかっただろう。たぶん「納得いかなくて」に立ち止まっているのだ。世の中には快いことと嫌なこととがある。嫌なことを捨象すると自閉的自慰的になる。嫌なことも受容すると社会的社交的になる。ただ、短歌の上ではどちらも五十歩百歩である。どちらも、快いことと嫌なことととで構成された世界に深く閉ざされているからだ。実に些細なことにも見えるし、文脈のちょっとしたあやのようなものとして生じたのかも知れないが、それでも「納得いかなくて」は、快いことと嫌なこととで構成された世界の外側に、不可知の領域が広がっている感触をふわっとどこかからひきよせて来る。このふわっとひきよせて来る感じが、そのままわかる歌を、そのままわかる歌を超えた何かへと押しあげている。
常習の薬の効果はもうなくて暗示を1錠ずつ摂取する/伊勢谷小枝子
あみだくじ式に散歩を 今月は知らない角を曲がる月間
悲しみは洗濯物を取り込んでたたむときとはちがう痛みだ
食べかけのチーズを保存しておいていざってときにつきつけてやる
引用したのはいずれも同種の感触を得たものである。ありがちな生きざまのなかを生きながらありがちな生きざまを突き抜けてゆくような感触、と言い換えてもいい。私でもリアリティでも修辞でもない場所に、短歌の可能性を見せている気がする。
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きょうの一首。自分専用のキャッチフレーズをつくっているのだろうか。
スーパーに日和を決める独白の主婦がゐてけふはアボカド日和/荻原裕幸
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February 21, 2008
夕刻、桜山の美容室へ。伸ばしっぱなしだった髪をカットしてもらいながら、奈良公園の鹿とか銀閣寺の苔とか嵐山に行ったとか行かないとか、なぜか古都をめぐる話をする。夜、錦三の和食の店へ。編集者三人と文芸評論家一人と歌人一人とで会食。牛鍋その他をつつきながらギョーカイ的な話をいろいろ聞かせてもらう。帰りに本山の台湾ラーメンの店に寄ったが、辛いものを食べて汗をかくとそのあとが寒そうだったので、ふつうの叉焼麺を食べる。
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短歌研究社から「短歌研究」3月号が届く。この号には、穂村弘の歌論集『短歌の友人』(河出書房新社)の書評を出稿した。400字で約3枚。タイトルは「奇抜な見取図」。このおもしろい本のおもしろさは、読めばすぐにわかる質のものだが、ただおもしろがって読むだけではいささかもったいないおもしろさをもった本なので、そのあたりが伝わるようにと腐心した。書評の文章がどことなくかたい表情になっているのは、たぶんそのせいだろう。
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きょうの一首。マンションのすぐ横の梅がきれいに咲いている。
習作として描かれた絵のやうなしかしたしかに触れると梅だ/荻原裕幸
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February 20, 2008
つらら 村上きわみ
くるまれてやわらかくなる内臓をふゆの岸辺にひからせている
あかいもの花のかたちに抜いているおんなのひとをよろこばせたい
ほしいから深く通しておきました 雪をはらってお進みなさい
灯台のおなかを撫でる春風によく似た声でわたくしを呼ぶ
よいつらら育つ真冬をありがとう ひどいことたくさんありがとう
*作者サイト(キメラ・キマイラ)
http://www2.ocn.ne.jp/~chimera/
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JUNCTIONは、不定期に開催するブログ内作品展です。今回は、村上きわみさんの短歌「つらら」五首です。寒い土地のひとだと知っているせいか、文字を読むだけで、寒さや寒さから解放されてゆくからだの感覚がめざめますが、からだ以外の箇所には、ことばが内蔵する熱や緊張感がふりそそぐようにも思われます。どうぞお楽しみ下さい。感想等、コメント欄にいただければ幸いです。
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ある席で、ある知り合いが、そう言えば、知り合いの知り合いが、と言いかけて妙な間をつくるので、思わず、アルカイダ? と訊いてしまった。アルカイダは別に何の関係もなく、知り合いの知り合いが、荻原裕幸を卒論のテーマに選んでいたという話だった。うれしい話だなと思ってにこにこしながら聞いていたら、本人を前に、作家がまだ生きているのでまとめるのが大変だ、というような話の流れになる。そんなことを言われてもまだしばらくは生きる予定だしとか思う。ともあれ、知り合いの知り合いの知り合いさん、どうもありがとうございました。
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第57期王将戦七番勝負第四局。後手の久保八段がゴキゲン中飛車に。きのうの指了図では、羽生二冠が無理な仕掛けをしたようにも見えていた。二日目のきょう、羽生が攻勢から一転して自陣を固め、ふたたび攻勢に、という具合に自在に展開して、久保を翻弄する。久保も受けに妙手が出て、五分かとも見えたところはあったが、得意の駒の捌きの冴えがまったく見られず、遊び駒がめだっていた。中盤以後は駒の損得差が広がるばかりで、勝負のかたちに持ちこめないままで久保の投了となる。これで羽生の三勝一敗。タイトル防衛まであと一勝となった。
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きょうの一首。たぶん、虚構しているのでも演じているのでも演出しているのでも猫をかぶっているのでもなく、翻訳しているのだと思う。
ともするとひとが脅えるわたくしを雪で覆つてこの世に訳す/荻原裕幸
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February 19, 2008
雨水。午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。風邪その他の理由で欠席が増えて参加者は四人。テキストは柄谷行人『探求』の一部分。昨十月に読んだ続きを読み進める予定だったが、テキストを読み切った四人での討論会状態になる。現実から抽出されたはずの論理が、どうして現実にもどして活用されずに一部の人たちの論理的な砦を構築してしまうのか、等々。延々と。
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俳句誌「鬣」第26号が、特集「西東三鬼への扉」を組んでいる。同人の推薦を基礎にしてまとめた「三鬼百句」や各同人の自在な一句鑑賞を楽しく読んだ。忘れることはない作家だが、それでも懐かしい感じがあって、朝日文庫の『西東三鬼集』で句やエッセイ「神戸」をぱらぱら読み直していた。
中年や遠くみのれる夜の桃/西東三鬼
第二句集『夜の桃』(一九四八年)の表題作。むかし、この句の猥雑な印象があまり好きではなかった。いつからか、猥雑なのは句ではなくこちらの心根だという気がしはじめて、そう思って読むうちに、だんだんこの句が清澄なものに感じられるようになって来ている。たぶん「中年」に対する感覚の変化も影響しているのだろう。
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きょうの一首。え? とききかえすと、あ、なんでもない、と言われたりする。面倒だからそれ以上きかないでおくと、あとで気になって仕方なくなったりする。
あたごなしないときこえてききかへす春の暗渠のやうな電話に/荻原裕幸
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February 18, 2008
未明、ごみを捨てに外に出ると、しんしんと冷えてゆく感じ。二月は寒くてあたりまえと言えばあたりまえだが、今年はことさら寒い気がする。
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とりわけこの数日、東芝のDVDプレーヤーの話題が沸騰している。よりにもよってそんなことで話題にならなくてもいいのに、というのは、荻原家にもくだんのDVDプレーヤーがあるからだ。安価で買ったのだし、基本的にテレビの録画にしか使っていないのだから、と強がりを言ってみても元を取れるわけではない。DVDを買い揃えてなかったのがせめてもの事とでも思うことにしようか。
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きょうの一首。実際のところどうなのかはわからないが、U字溝がL字溝に切り換えられるのは都市化の象徴、という印象がある。いま住んでいる場所の周辺は、やたらにU字溝が多い。過剰だと感じられるほど頻繁に繰り返される道路の舗装工事のたびに、それはもういいから溝を換えてよ、と思う。
ぽつねんとなにもながさぬままひるの草地にU字溝がころがる/荻原裕幸
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February 17, 2008
早朝、外に出ると、あたりにうっすらと雪のなごりがあった。
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世にかたき椎名林檎という林檎/二村典子
第一句集『窓間』(二〇〇一年)に収録された一句。椎名林檎という人物名から林檎ということばが引き出されたのではなく、掌上あるいは俎上の林檎から椎名林檎を連想したと感じさせるところに、この句の味わいが出ているように思う。「世に」は文脈上は「世にも」の意味になるのだろうが、場面として読むと「世には」の意味へも広がってゆく。この句には季語がないと指摘されたことがあるようだが、握るとか切るとか剥くという行為が背景にたちあがるからには、結句の林檎は、冬をそこはかとなく含んだ晩秋のあの林檎、季語としての林檎、だと認識してもいいのではないのだろうか。以下、同句集の「春」の章から。
紙袋二つ重ねに春運ぶ/二村典子
ハンガーと遠い横顔窓二月
菜種梅雨針に残りし糸とりどり
傘の上に傘さしかける花の雨
鳥交る歯磨き臭き息を吐き
いずれも風景と言うよりは情景である。人の輪郭は軽く消してあるが、はっきりとした存在感が滲んでいる。どこか邦画を思わせるような印象であり、情景の情が濁りのない深さを見せていて快い。この句集の特徴の一つだと思う。
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きょうの一首。先日、わ、なんか重大な場面ではないか、と思いながら、うわべは無関心無表情をよそおう、という日本人的反応をしてしまった。
隣席でひとつの鍵が返されてゐるのを見るともなく見て二月/荻原裕幸
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February 16, 2008
夜明に近い夜半、サイレンがマンションのすぐ前で止まる。窓からは救急車と消防車と梯子車が見える。気になっておそるおそる外へ出てみると、マンションの他の部屋の住人も顔をのぞかせたり外へ出て来たりしている。通報主は隣りのマンションの住人のようだが、火事の気配も事故の気配もない。しばらくすると、救急車だけがサイレンを鳴らして動きはじめた。どこで何が起きていたのだろうか。
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ながらみ書房から「短歌往来」3月号が届く。この号には、石井辰彦第六歌集『蛇の舌』(書肆山田)の書評を出稿した。400字で約3枚。タイトルは「『壮快』の彼方で」。短い書評であればやむを得ないことなのに、この緻密な構築物の輪郭だけしか描けなかった、という気分になるのは、この歌集が細部にも過剰なほどのこだわりを抱えているからだろうか。(付記、誌面をひらいて思わず唸ったのだが、印刷的な手違いなのか、引用歌に付したルビがすべて落ちている。)
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きょうの一首。自分でもよく使う語なのだが、勧誘セールス等おことわり、自転車等放置禁止、野球等禁ず、これらの「等」が何を含んでいるのか、いつも気になってしまうので、短歌等でかたちにしてみたいと思っていた。
犬猫等飼ふべからずの等であるか朧なものがベランダに来る/荻原裕幸
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February 15, 2008
午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は16人。見学者が2人。題は「渡」。動詞系の題はやはり名詞系の題よりも自由度が高くなるようで、詠草全体にのびのびした印象が広がっていた。書きやすい題が望ましいというわけでもないのだが、しばらくは続けてみたい。
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題詠の題は「共有する何か」であり、同時に「他者のことば」でもある。前者に偏向して展開される題詠は退屈を生じやすいが、後者は、題詠を現在に成り立たせる大きな根拠にもなり得るものだと思う。自分で選んだわけではない「型」や「題」は、しばしば自分で選んだわけではない「この世界」とよく似た表情を見せる。
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きょうの一首。きょうは題詠の作例ではない一首。内面的な事情で思わず漏れた声というのはなぜあんなにまぬけで恥ずかしいのだろう。しかもそれを他人に聞かれて事情を察知されたりすると、その場にはいられないような切ない気分にもなる。
青果店のりんごの棚にひとつぶのりんごもなくて妙な声がでる/荻原裕幸
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February 14, 2008
バレンタインデー。午後、事務的な用件で同朋大学へ。バス停で、あ、来たかな、と思うとそのたびに回送のバスが通り過ぎる。十分待つ間に四台も通り過ぎた。何の嫌がらせだろうと思って苦笑する。夕刻、栄とその周辺へ家人と。靴修理店、書店、和食店、洋菓子店、洋品雑貨店などをまわる。洋菓子店にはさすがに気合の入った感じの声がひびいていた。
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スタートして半月が過ぎている「あらたにす」の評判はどうなのだろう。この春にははじめのバージョンアップが予定されているらしいので、評価はとりあえずそれ以後にした方が良さそうだが、新聞の読みくらべを三紙自身が推進してゆくという基本的な方針はとても良いと思う。ただ、いまのところはまだその読みくらべを、読んでおもしろいかたちとして提示できていないようにも思う。本気で比較をするのなら、ぜひ採点表を導入してほしいところだが、やはりその方式は選択しづらいか。
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きょうの一首。一文字を四センチで換算すると二万二千五百字になる。短歌で考えれば、斎藤茂吉の『赤光』を書写できるかどうかといったほどの分量か。
筆記距離九百メートルのペンを買ひ描けるものをおもふ春暁/荻原裕幸
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February 13, 2008
先週の半ばから風邪気味だった。どうにか復調した。薬というものを滅多に飲まないせいか、市販の風邪薬を飲んで効き目があらわれると、それだけで何かタブーを犯したようなうしろめたい気分になる。薬嫌いなわけではないのだが、しくみがきちんと理解できない流れに、自分のなかの何かが違和を感じるらしい。
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佐藤康光棋王と羽生善治二冠との第33期棋王戦五番勝負の第一局。佐藤の一手損角換わりに羽生が早めに仕掛けをしてゆく展開となる。羽生が攻め切れるか攻めが切れるかという感じで、状況が二転三転していたようだが、捨駒や合駒での派手な応酬を見ていても、盤上で何が起きているのかいまひとつ掴めない難解な一局だった。最後は羽生の攻めが切れずに攻め切って佐藤が投了する。
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きょうの一首。推敲しているとどこかから「雪降れば」という初句が降りて来て、これしかないという気がしはじめる。経験的事実ではあるにせよ、ではなぜそれで一首となるのか、自分ではうまく説明できないし、理解もできていない。とりあえずこのかたちでリリースしておく。
雪降れば注記なかばで読みさして飲むカナリアの色の錠剤/荻原裕幸
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February 12, 2008
午後、所用で家人と出かける。用を済ませて、お茶をしてから、徒歩で帰る。歩きはじめると、家人が、歩いて帰るの? と言う。運動不足だし、距離も短いから、と答える。家人は次に、寒い、と言う。歩けばあたたかくなるよ、と答える。ふたたび家人が、寒い、と言う。穏やかに聞き流す。しばらくすると家人が、中島みゆきの「うらみ・ます」をうたいはじめる。笑って聞き流す。無事に家に着く。
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日曜に鈴木竹志さんと話していて、昨今の作家さんには、かつて言われていたような意味での文章が巧い人が少ない、という話題になった。鈴木さんのウェブ日記に堀江敏幸さんの名前が出て来るのはそんな流れからで、堀江さんがきわだって文章が巧いのではないかと意見が一致したのだった。堀江敏幸が凄いのは、表現の現在を通過しながら文章の巧さがまったく劣化しない点だと思うのだが、そこまでは話している時間がなかった。そんな「巧さの劣化のない現在の表現」は、短歌ではいまのところまだ誰にも実現できていないような気がする。
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きょうの一首。字余りが、ちょっとどうかなあ、という感じだが、ここにひずみを含んだふくらみがないとどうにも一首が成り立たないので、そのままにした。追記、初掲案を改変した。初掲案では「『雪沼とその周辺』のその周辺に」としたが、それでは書架にある印象も生じるので、迷ったが「読む」と明記した。
『雪沼とその周辺』を読む周辺にさやぐ雪沼ではない場所が/荻原裕幸
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February 11, 2008
建国記念の日。けだるい感じの一日。
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菅野耕平さんが、2月7日付の「ボーダーを見つめながら」で拙作を料理してくれている。同日の加藤治郎さんのふらんす堂サイトのコラムと同じ引用歌なので、たぶん加藤さんのコラムを読んで、ということなのだろう。むかし書いた「定年後の父」についての歌には、その頃の自分が「父」をどう考えていたかがダイレクトに映っている。巧拙の問題はともかくとして、二度と書かないし書けない歌でもあるか。
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雪の息聴きつつ籠るこの冬の職退きてより魑魅魍魎も来ず/村上白郎
歌集『無風盆地』(二〇〇〇年)に収録された一首。職によるつながりを失った後に人が孤立してゆく寂しさを読むべきなのかも知れないが、退職前だって魑魅魍魎は来なかったでしょう、と思わずつっこみたくなるのは、たぶんこの一首が底にひめている気丈な印象によるものだろう。達観によるユーモアと寂しさの果ての強がりとの中間あたりに位置する、きわめて微妙な心情が滲み出ているようだ。
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きょうの一首。結局メモは捨てたのだが、何か気になって、歌に残してみた。
ヤポユゴと書かれたメモは自筆だが何か解らずヤポユゴは逝く/荻原裕幸
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February 10, 2008
きのうとは一転して晴天。祭りの名残のような、白い小さなかたまりが、巷に点々と並んでいた。午後、栄の国際ホテルで事前の打ち合わせをしてから、会場の名古屋市短歌会館へ。吉田淳美さんの第一歌集『クレセント・ムーン』(ながらみ書房)の批評会に参加する。参加者は40名弱。コーディネーターは早崎ふき子さん。ゲストのコメンテーターとして鈴木竹志さんとともに意見を述べる。鈴木さんがはじめにきちんとした骨格をつくってくれたので、安心して好きなことを話せた。
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吉田淳美歌集『クレセント・ムーン』は、日常や社会やその他、場所や条件によって表情の変化する「私」のありようを、残らず掬いあげようとする貪欲な構成になっていた。この「残らず」というのがむずかしいところで、そうした豊饒感を求めてゆくと、作者のこだわりというものがとても見えにくくなる。批評をするときも、何々はよくて何々はだめ、という感想が生じやすく、トータルな価値判断につながりづらいのだ。ぼく自身も、そうした、何々はよくて何々はだめ、的な文脈を出て考えることがどうしてもできなかった。
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吉田さんの歌集でいちばん良質な点は、日常詠における意識のありようだと思う。私的な風景を見るときにも社会や世界を見るのと同じように見ている、とでも言ったらいいだろうか。一つのモチーフを通して、その人の「私」的な意識と社会や世界に対する意識とがつねに二重の構造になっていて、こちらが気づかずにいるような何かを日常のなかへと投射してくれている感触がある。以下のような作品にはとりわけそんな感触が強くあった。
ベッドサイドの目覚まし五時にセットされ前泊者どこへ行ったのだろう
一度曲げてまた伸ばしたる針金のような茎してコスモスが咲く
姿見の死角に立ちて着替えれば誰もいない部屋夕焼けていく
表通りのショーウィンドウのひび一本が毎日育っていくを見て通る
裏道に傘を広げる真昼どき積もらぬ雪の立てる音聴く
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蛇足になるが、だめ、と感じたのは、いわゆる「社会詠」だった。「信用が背広に付いてるはずもないがTシャツが何かを語るだろうか」なんていう堀江貴文をモチーフにした歌など、切れ味は悪くないと思うのだが、時事川柳と違って、社会を切ってひらりと身を躱す、ということは短歌にはむずかしい。フォルムのしくみのようなものが作用して、いくら躱そうとしても必ずどこかに「身」が残ってしまうからだ。この残った「身」が「私」を構成してしまうと、社会通念に縛られた類型的な「私」を見せてしまうことにもなる。これは吉田さんの課題ではないかと思った。
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きょうの一首。吉田淳美さんは、よしだきよみさん。わたしのイニシャルはKYなんです、と言っていたのが印象に残っていて、帰りにそれを思い出しながら。
空気を読むよりも空気を書くことが大切だねと梅の木に言ふ/荻原裕幸
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February 09, 2008
正午前後、外がやけに暗かったので、カーテンを閉めて照明で仕事をしていた。気づいたときはすでにあたりが真っ白、大粒の雪が勢いよく降っていた。煙草を買いに外に出ると、マンションの周辺では、雪合戦と雪達磨製作が盛んで、こどもたちは大はしゃぎである。靴の沈む感触からすると、優に十センチ以上は積もっている。大通り以外の道では、歩くのとさほど違わない速度で車が動いていた。
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竜王戦ランキング戦一回戦、王将戦七番勝負第三局、それにきょうの朝日杯将棋オープン戦準決勝、羽生善治二冠が三連敗となる。その前の二十戦が十八勝二敗という高勝率だっただけに、まったく予想できない結果。竜王戦の棋譜は見ていないが、王将戦も朝日杯も、楽しんでいるような指しぶりなのに、あっさり劣勢になってしまうというとても奇妙な展開である。プロ棋戦の勝敗の行方は、つねに紙一重のところにあるのだろう。
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きょうの一首。何でも短歌にすればいいというものではない、のだが、何でも何とか短歌にしてみよう、というのが、最近の姿勢。もっとも何でも何とか短歌になっているかどうかはよくわからない。「唸る」か「訛る」か、「一円」か「一面」か、でしばらく悩んでいた。
どえらい降つたなあと思はず訛るほど名古屋一面春の大雪/荻原裕幸
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February 08, 2008
夕刻、栄のアップルストアへ。日頃からオンラインストアばかり見ていたので、巷のストアの客層に少し驚く。アップルがイメージ戦略でつくりあげているそのイメージのままという感じだ。マックユーザだけではなく、アイポッド系の人たちもかなりいると思うが、それにしても、パソコンメーカーの直営店に対するぼくの印象からはかけ離れたものだった。認識を調整する。
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「現代詩手帖」の二月号で、久谷雉さんが「誤解をおそれずに言えば、短歌は「みんな」のものであり、現代詩は「ひとりひとり」のものなのだろう」ということを書いていた。元の文脈を逸れて、このフレーズだけをひとり歩きさせるのはよくないかも知れないが、これは、傾向的な事実としてたしかにそうではないかとぼくも思う。是非の問題はともかく、短歌がつねに、存在理由でもあり手枷足枷でもあるような「ただ一つの姿」を抱えていることともどこかで関連しているのだろう。
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きょうの一首。電車に乗ると、カウントできる程度の混雑のときは、携帯電話とアイポッドの使用率をつい計算してしまう。無益な習慣だとは思うが。
アイポッド率が五割を超えてゐる車輛だけれど春風を聴く/荻原裕幸
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February 07, 2008
ふらんす堂のサイトの、加藤治郎さんのコラム「家族のうた」で、第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)の一首を紹介してもらう。転載するのは問題がありそうなので、できればコラムを直に見ていただきたい。鑑賞文は二十四時間、作品はその月かぎりの掲載のようだ。
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夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は10人。題詠「港」ならびに自由詠。今年は、名古屋市の区の名前からの一文字、を題とすることにしている。詠草は、いつもの傾向だが、全体に口語系のものが多い。ディスカッションは、これもいつもの傾向だが、意味での読解と韻文としての読解にどのあたりで折り合いをつけるか、について迷ったり悩んだりしながら進んだ。
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きょうの一首。歌会に「港」の題詠として提出した一首。ちなみに自由詠として提出したのは、きのうの、きょうの一首、である。いずれも他者とのコミュニケーションが、モチーフとして作品の表面に出ている。意図してそうしたわけではないのだが、歌会という場そのものをスケッチしているみたいだ、とあとから気づくことになった。
近い港を遠い港にするやうなあのひとことの苦みがもどる/荻原裕幸
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February 06, 2008
立春に入って、マンションのすぐ横の梅の木々が、いかにも梅らしい感じになって来た。家人の風邪はほぼ治ったようで、そこそこ動けるようにはなったのだが、咳だけがいまだに残っている。
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午後、所用で出かける。笠寺と高辻で不可解なものを見かける。笠寺では、小さな女の子が「マーボ豆腐」と大きく書かれた紙のようなものを地面に置いて楽しげに笑っていた。高辻では、年齢不詳な感じの男性が「ほとけ」と書かれた名札のようなものを首からぶらさげて歩いていた。見知らぬ相手に、それは? と訊くわけにもいかないと思ったのだが、あとからこんなに気になるのなら、訊いてみればよかったか。それにしても、あれは何だったのだろう。
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きょうの一首。モデルがあって書く、のではなく、書いている途中でモデルに気づく、ということがある。この一首にもそんな感覚があった。
梅の匂ひにまぎれながらも端的に弱みを衝いてくるこのひとは/荻原裕幸
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February 05, 2008
午後、浄心の西生涯学習センターへ。きょうからはじまった俳句の会、東西句会に出席する。初回の参加者は四人。ぼく以外のメンバーは俳人である。句会の方向性を考えながら句会が進む。各自五句を持ち寄るということだったので、以下の句を提出した。
大寒や預かつてゐた印を捺す/荻原裕幸
感冒の舌のやさしくのびてゐる
地下鉄の窓にながるる二月かな
父といふ軒にうつすら雪つもる
寒明のサプリメントの小山かな
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句会からの帰り、隣りの駅で地下鉄を降りて、簡単な買い物を済ませてから喫茶店に寄る。句会の詠草を読み直したり、短歌のメモをとったりする。隣席の三十代くらいの男性が二人、盛んにアニメの話をしていた。聞くともなく聞いていると、ところどころ、正したくなったり質したくなったり糾したくなったりする箇所が出て来て、思わずひとりごとを言いそうになる。もちろん黙っていたが。
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きょうの一首。地下鉄に乗って窓を見ていたら、俳句を通して見たのとは少しまた違った風景が見えたので。
地下鉄の窓に収まるここよりもややひろくくらい春の車内が/荻原裕幸
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February 04, 2008
立春。午後、一人でスーパーに買い物に出る。店内で、近所に住む中学時代の同級生とばったり顔をあわせて立話。ひさしぶりだったせいか長話になる。あとからご近所の主婦同士みたいだったなと思って笑う。もっとも相手は正真正銘の主婦なわけだが。家人の風邪は小康。昨夜いったん高熱が出たものの、それからは熱もさがって、だんだんと諸症状が治まった来た。
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何が書きたいか、ではなく、どんな作品が書きたいか、という理想型を漠然とではありながらもそれなりにイメージできていて、作品を書き進めながらその漠然としたイメージを具体的なかたちにしてゆく、という流れで作品を書いているときは、理想型への近づき具合にかかわらず、書くことが楽しくてしかたないのだが、理想型がまるでイメージできていないときはどう書いていいか迷ってばかりになる。きょう、俳句を書きながらそんなことをいまさらのように実感した。
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きょうの一首。きょうは、俳句を書こうとしてメモをとりながら、これはどうにも俳句にはなりそうにないなと捨てかけた残滓のようなものを元にまとめた。残滓と言うと聞こえは悪いが、そもそも短歌を考えるときと同じように考えてメモをとってしまったために俳句にならなかった素材なのだろうと思う。
立春のひびきに揺れて買ひにゆく牛乳の白きひかりその他を/荻原裕幸
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February 03, 2008
節分。東京は雪で交通網が大混乱だったという。名古屋も朝は降っていたらしいのだが、雪とは気づかなかった。小雨の続く一日。家人の風邪は一進一退という感じ。きょうは義姉からの差し入れがあった。義母からは恵方巻が届いた。太巻の太さと長さと具や舎利の量を眺めながら、みんながほんとに今夜これをまるかじりするのだろうかと訝る。
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数年前にサントリーが開発した青い薔薇が、来年には発売されるというニュースをネットで読む。遺伝子組み換えによるものなので、切花に限定しての販売となるようだが、ともあれこれで、本物の青い薔薇が巷に出まわることになる。青い薔薇と聞いて、反射的に中井英夫の『薔薇幻視』(一九七五年)をひらく。ところどころ読み直しているなかで、次のようなくだりに気づく。「私らの前にあるのは、まだ当分はイン・ヴィトロ(試験管内)の青にすぎない。しかし二十一世紀に、もし輝かしい生きた青のバラを眼の当りにする幸せな人びとがいるというなら、こうした碩学のひとりひとりを、そしてその周りで勝手な夢想に耽っていた無数の人間たちを、チラとでも思い返して欲しいものだ。……」。中井英夫が生きていたら、このニュースを組みこんだ小説をたぶん書いただろうなあなどと何かとても感傷的な気分になる。
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きょうの一首。中井英夫に寄せて「薔薇といふ迷宮」というフレーズで一首をまとめてみようとしたのだが、ことばとして強すぎるせいか、なかなかかたちにならず、気づけばまったく違う歌になっていた。
感情といふ重力に気づかない日がある枝がたわんで気づく/荻原裕幸
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February 02, 2008
家人が風邪でダウン。数日前、怒っているわけでもないのにどこかしら機嫌が悪そうな印象だったのが、昨日あたりから、急にすべてに素直で穏やかになる。これは風邪をひくときのいつものパターンではないかと思ったら、案の定その症状が出はじめた。いまのところ極端に悪化はしていないが、しばらくは安静が必要な感じ。義母が心配して差し入れをしてくれた。
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差し入れ、で思い出したが、先日、差し入れ、ということばをある辞書でひいたところ(と言うか、ぱらぱらと辞書をめくっていてなんとなくそこを読んでみたところ)、拘置所や留置所への、という限定的な定義があって、足元をすくわれたような気分になった。いわゆる缶詰状態になっている人に対して、見舞うのではなく物品だけを渡す、といった意味で広く了解していたし、たぶんもうそれで一般化しているとは思うが、もともとはそちら方面から流れて来たことばということなのだろうか。
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きょうの一首。きのうの題詠「迷」の副産物。この「副産物」の用法はたぶん辞書的にも妥当だと思う。作中の「消去法」の方は微妙だと思う。もっとも、作中の語からは、しばしば気ままに辞書的制約を外しているわけだが。
消去法にて冬のをはりにむかひつつ私を消すかどうかに迷ふ/荻原裕幸
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February 01, 2008
二月となる。冬から春になる月。
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午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席は19人。詠草はおのずと19首。題は「迷」。今回から動詞系の題にしてみた。動詞系にした影響なのか、題そのものの影響なのか、詠草全体の雰囲気にふだんとは少し違う印象をうけた。前回、どこかコメントの切れが悪かったような気がしていたので、きょうは睡眠時間を一時間増やして、はじまる直前に地下街の店で珈琲を飲んでから教室にゆく。たぶん復調していたと思う。
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きょうの一首。講座で見せた題詠「迷」の作例。闇あるいは壁といった迷路の構成要素、すなわち目的に向かう見かけ上の障害になるものが、実は目的をいちばんはっきり教えてくれる、という逆説的なこの世のしくみについて考えながらまとめていた。
十代の闇はそれでもなつかしくひかりのなかに迷ふこの齢/荻原裕幸
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