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February 20, 2008

JUNCTION #3

 
 
  つらら   村上きわみ
 
 
 
 くるまれてやわらかくなる内臓をふゆの岸辺にひからせている
 
 あかいもの花のかたちに抜いているおんなのひとをよろこばせたい
 
 ほしいから深く通しておきました 雪をはらってお進みなさい
 
 灯台のおなかを撫でる春風によく似た声でわたくしを呼ぶ
 
 よいつらら育つ真冬をありがとう ひどいことたくさんありがとう
 
 
 
  *作者サイト(キメラ・キマイラ)
   http://www2.ocn.ne.jp/~chimera/

JUNCTIONは、不定期に開催するブログ内作品展です。今回は、村上きわみさんの短歌「つらら」五首です。寒い土地のひとだと知っているせいか、文字を読むだけで、寒さや寒さから解放されてゆくからだの感覚がめざめますが、からだ以外の箇所には、ことばが内蔵する熱や緊張感がふりそそぐようにも思われます。どうぞお楽しみ下さい。感想等、コメント欄にいただければ幸いです。

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» お知らせ [北緯43度]
荻原裕幸さんのブログ「ogihara.com」の「JUNCTION」に 短歌五首を載せていただきました。 春も近づいているのに冬の歌でごめんなさい。 ご覧いただけたらうれしいです。 こちら↓ http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2008/02/junction_3.html... [Read More]

Tracked on February 21, 2008 at 09:50 AM

Comments

気づいたら、暑くなってしまいました。感想など。
先日、村上きわみさんの『fish』『キマイラ』を読み直していたら、
語と語がわりとごつごつした感じでつながっているのに気づきました。
語と語が、と言うよりも、句と句が、と言った方がいいかも知れません。
ごつごつっていうのは、説明がなかなか難しいですけど、
短歌という器にことばを盛っている感触が
どこかにかすかに残っていたのではないかと思います。
以後の作品、たとえば、この「つらら」にも、
そのごつごつが消えているのを強く感じます。

 くるまれてやわらかくなる内臓をふゆの岸辺にひからせている

「内臓」が、人間の臓器なのか、食材としての動物の内臓なのか、
そのあたりがちょっとはっきりしないわけなんですけど、
まあとりあえずそこは気にしなくてもいいかなと思いました。
一首の意味を考える上ではむちゃくちゃ大切なことなのに、
そこを、気にしなくてもいいかな、と感じるのは、
ことばのつらなり具合が、それだけで「うた」を
一首として成立させているからじゃないでしょうか。
先に言ったごつごつした語感があるとそうは読めません。
意味、因果関係、省略のためにごつごつしているのだと判断して、
そうしたつながりばかりを追い求めてしまうからでしょう。

「うた」としてすでに享受した上で、この一首に向かうと、
特定はできないけど、という留保の条件はつくにしても、
何か防寒具を山ほど身につけられて岸辺に立つこどもの姿とか、
あるいは恋人に「くるまれて」いる「私」の姿とか、
「私」と「他者」の姿がいくつか思い浮かんで来ます。
ここに来てはじめて、食材はないな、と判断しました。
気配のようなもので状況を伝えてゆくというのは、
表現として脆弱な印象にもつながるのですが、
それでも、世界に、正しい方法で触れている、
といった感じを与えているように思います。

 よいつらら育つ真冬をありがとう ひどいことたくさんありがとう

どんなシチュエーションならこんな感謝が生じるのか、
一読してさっぱりわからないのですが、これもまた、
ことばのつらなり具合だけで「うた」になっている、
そういった種類の書き方になっているのではないでしょうか。
下句が皮肉ではなく本気で感謝している雰囲気を出していて、
そこの本気な感じにまずひきこまれてゆきます。
ロジックで読み切ろうとしたら、
しっかり育った氷柱=良い氷柱、
良い氷柱を育てる厳しい真冬への感謝、とパラレルな感覚で、
「私」にひどいことを沢山もたらした何者かが、
「私」に良い氷柱に相当するものを育ててくれた、
といったつながりになりそうですが、
人の心にはそんな理屈で感謝が生じるものでもないわけで、
むしろ、氷柱を前にして、「よいつらら」ということばが生じて、
そのことばの流れで、世界の全てに対する感謝を口にできた、
ことばからこころが生じる瞬間みたいなものがここにある、
そう読んでみたいと感じさせる一首でした。

口語、日常語、で書かれた作品なんですが、
これらが「うた」を感じさせるしくみというのは、
たぶん文語の短歌が培って来た文体に近いものだと思います。
現代短歌には、口語か文語かという問題もありますが、
この一連を読みながら、もう一つ上位の問題として、
型と語の関係があるのだと再認識しました。

Posted by: 荻原裕幸 | June 24, 2008 at 05:20 PM

荻原さん、ありがとうございました。
「ごつごつ」がなくなってきたことが、よいことなのかどうかずっと悩ましく思っています。あるいは「うた」になってしまうことについても、ですね。
そういった変化が、勇敢さを失った結果でなければいいのですが、今はまだ、自分でもよくわからないまま進んでいます。

型と語の関係という話、考えさせられました。
性格的に、考えすぎると失敗するのはわかっているのですが、ゆっくり考えていきたいと思います。
ありがとうございました。

ナオユキの歌もとりあげていただいて、うれしかったです。

Posted by: 村上きわみ | June 24, 2008 at 09:07 PM

村上きわみさん、コメントありがとうございました。
そのむかし、岡井隆さんが「短歌は究極のところうたであり、
『しらべ』であるという考えにわたしが到達するまで、
長い間、迷路をさまよった」と語ったことがありましたね。
これが一般的に「正しい」ことなのかどうかは、
岡井さん自身も、歌人や短歌の読者の誰も、
はっきりしたところは言えないと思うんですが、
この件をめぐって、迷路をさまよう、というプロセスは、
間違いなく価値のあることではないかと感じられます。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 荻原裕幸 | June 25, 2008 at 11:51 PM

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