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March 30, 2008

2008年3月30日(日)

午後、家人が外出。留守番。

きのうの続き。社会詠について「内面化できない他者のいる世界を内面化できないものとして受容する」の、具体例をあげておきたい。小池光の第二歌集『廃駅』(一九八二年)に「生存について」という連作がある。この連作は、ナチ党員でありながら父でもある一人称の内面を推量することを核として構成されている。連作は全部で十二首で、以下の引用はそこからの四首である。便宜的に、ナチ党員の日常を素材にした部分からだけ抜き出した。斉藤真伸さんの想定している社会詠の範疇にこれが入るのかどうかはわからないが、広義の社会詠には入ると思う。

 夜の淵のわが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる/小池光
 ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう
 充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう
 棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう

小池光「生存について」で、注目しておきたいのは、推量の「であらう」という語法である。小池はこの連作で、ナチスをめぐる見解を具体的には何も示さず、推し量ることのできる事態を淡々と描いた。社会詠の視点で考えると、腰のひけた態度にも映る。それでもこの連作は、われわれの知るナチスの「感触」というものを、実に嫌な感じで伝えて来る。それはたぶん、内面化して語り得ないものがこの世界にある、という事態をひとまず受容しているからだろう。自己の内部にとりこめない他者の世界がそこにあるという事態を受容し、自己と他者がどこかで共鳴しながらも同一化されないものとして隣接してゆく。作者の意図か結果かはともかく、この推量の「であらう」が示しているのは、そうした隣接感のようなものだと考えていいと思うし、この嫌な「感触」を剔抉したところには、社会詠としての可能性や成果を見出してもいいのではないかと思われる。

きょうの一首。きょうは京都の某会に出たかったのだが、都合がつかなかった。広さも深さもないような都市に住んでいると、他都市はどこも広く深く見えるが、やはり京都は格別という印象がある。

 京都はつまり広さではなく深さだと深いところに住む人が言ふ/荻原裕幸

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Comments

この日,京都は雨でした。iPodでマッキーを聴きながら,お東さんに行ってきました。拝観料がタダでした。なんだか意外な気持ちがしました。

Posted by: ぴりか | April 02, 2008 at 01:58 PM

ぴりかさん、こんにちは。
重読者的コメント、ありがとうございます。
京都、雨だったのですね。
ぴりかさんのブログの写真、
光が少ないのかなとか思っていて、
さっき見直してみたら、人が傘さしてました。
EX-ICカードの話も参考になりましたよ。
たしかに消しゴムみたいです(そこなのか)。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 荻原裕幸 | April 02, 2008 at 06:54 PM

こんばんは。おひさしぶりです。ちょっとお聞きしたいのでコメントします。小池光さんの連作なのですが、これは恐らく、ヨーゼフ・メンゲレのことを書いているのではないかと思います。
ただ、こうした「良き父親」や「良き家庭人」が、実は「ナチス」であったという図式は、すでにかなりの文学者によって書かれているように思います。例として挙げればペーター・シュナイダーの「パパ」などがあります。

このようなテーマはすでに確立したもののように思えます。ですから、すでに出来上がっている文学的な図式を短歌の形式で試みてみた、というふうに思えるのです。
こうした図式は先行する文学作品によって、すでに「語り得る」ものになっているような気がするのですが、荻原さんはどうお考えですか?

Posted by: 萩原健之 | April 06, 2008 at 11:26 PM

萩原健之さん、こんにちは。
小池光さんの「生存について」の件、ぼくは
モデルを特定して読んだことはありませんでした。
なので、背景の史的事情にからめては言えませんが、
この作品が重きを置いているのは、良き父が実はナチス、
といった図式を作者の世界観から読解して表現することではなく、
読解不能という事態の感触を読者に提示することだと思うのです。
ナチスの意味の読解ではなく、
ナチスが存在したという事実に対する驚き、
とでも言ったらいいでしょうか。
二番煎じ、ということとは別の話のような気がします。
共有化された図式を少し違う角度から検証した、
というようなことになるのではないでしょうか。

Posted by: 荻原裕幸 | April 11, 2008 at 12:47 AM

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