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March 31, 2008

2008年3月31日(月)

春のはじめに戻ったような感じの寒さとなる。花冷え。

文芸誌「イリプス」(第2次)の創刊号が届いた。詩歌句と批評の雑誌だが、執筆者の比率では現代詩が中心になっている。ぼくは「淋しさに追ひつかれないための五十首」と題して、短歌五十首を出稿した。未発表の近作と題詠マラソンに出詠した作品とをあわせて構成している。印刷メディア的にはすべて新作ということになるか。しばらく抱えていた作品でまとめた一連なので、いまの自分の志向がそれなりにはっきり出ていると思う。

きょうの一首。年度末なので年度末の歌をと思ってまとめた。そこに何としても水を呼ぼうとするのが若さで、涸渇を嘆くか楽しむかするのが老いだとしたら、その中間的な季節はこんな風ではないだろうか。決して若くはないが、一方で青さの抜けていない、何とも微妙な季節である。

 涸れた川にみづの流れのまぼろしを聴きながら越す年度の橋を/荻原裕幸

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March 30, 2008

2008年3月30日(日)

午後、家人が外出。留守番。

きのうの続き。社会詠について「内面化できない他者のいる世界を内面化できないものとして受容する」の、具体例をあげておきたい。小池光の第二歌集『廃駅』(一九八二年)に「生存について」という連作がある。この連作は、ナチ党員でありながら父でもある一人称の内面を推量することを核として構成されている。連作は全部で十二首で、以下の引用はそこからの四首である。便宜的に、ナチ党員の日常を素材にした部分からだけ抜き出した。斉藤真伸さんの想定している社会詠の範疇にこれが入るのかどうかはわからないが、広義の社会詠には入ると思う。

 夜の淵のわが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる/小池光
 ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう
 充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう
 棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう

小池光「生存について」で、注目しておきたいのは、推量の「であらう」という語法である。小池はこの連作で、ナチスをめぐる見解を具体的には何も示さず、推し量ることのできる事態を淡々と描いた。社会詠の視点で考えると、腰のひけた態度にも映る。それでもこの連作は、われわれの知るナチスの「感触」というものを、実に嫌な感じで伝えて来る。それはたぶん、内面化して語り得ないものがこの世界にある、という事態をひとまず受容しているからだろう。自己の内部にとりこめない他者の世界がそこにあるという事態を受容し、自己と他者がどこかで共鳴しながらも同一化されないものとして隣接してゆく。作者の意図か結果かはともかく、この推量の「であらう」が示しているのは、そうした隣接感のようなものだと考えていいと思うし、この嫌な「感触」を剔抉したところには、社会詠としての可能性や成果を見出してもいいのではないかと思われる。

きょうの一首。きょうは京都の某会に出たかったのだが、都合がつかなかった。広さも深さもないような都市に住んでいると、他都市はどこも広く深く見えるが、やはり京都は格別という印象がある。

 京都はつまり広さではなく深さだと深いところに住む人が言ふ/荻原裕幸

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March 29, 2008

2008年3月29日(土)

連日、家人とウォーキングをかねての花見。きょうは弥富公園の周辺を。ここは八分咲きといった感じ。週末なのでさすがに人も多かったが、少し冷えていたせいか、それなりに静かな桜を楽しむことができた。山崎川周辺は全国的な名所、弥富公園も名古屋的には名所である。いずれも自宅から徒歩十分の圏内にあって、構えて花見をしなくてもしっかり満喫できるのがうれしい

短歌誌「みぎわ」4月号が届いている。連載の短歌時評で、斉藤真伸さんが、このブログの2月10日付の記事を引用して、社会詠について言及しているのを興味深く読んだ。個人のブログの文章が、結社誌の時評とつながってゆくことを、素直によろこびたいと思う。斉藤さんの文章で一点気になったのは「『世界』の問題をどう『己の問題』として内面化できるか、社会詠の可能性はそこにしかないのではないか」というくだり。そこで言われている「内面化」とは、たぶん消化して自己の血や肉とするといった意味に近いのだろう。ただ、内面化できない他者のいる世界を内面化できないものとして受容するのもまた、社会詠の可能性の一つではないだろうか。具体例をあげてみる必要があると思うが、それはまたあらためて。

きょうの一首。

 泣きだしてやがて崩れる瞬間を見るやうにゆくさくらの午後を/荻原裕幸

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March 28, 2008

2008年3月28日(金)

午後、家人とウォーキングをかねての花見。少し目を離したすきに一気に咲いて、山崎川周辺の並木は七分から八分に。平日にしては人が多かったが、花見の時期にしては閑散とした感じで、近くのスーパーで弁当を買って、川縁で食べながら、静かな桜を楽しませてもらった。

第33期棋王戦五番勝負の第五局。先手の佐藤棋王は、相矢倉から穴熊に組み換えての雀刺しというわかりやすい布陣に。羽生二冠は、何かこだわりがあったのか、穴熊の堅さをまともに受けて立つ指しまわしになる。見かけ上は羽生から仕掛けてゆくかたちになったが、仕掛けさせられた感が強く、思い切って勝負に出たように見えた角切りの段階で、すでに優劣が決していたらしい。佐藤が間違いのない対応でそのまま最終局を制した。これで佐藤康光二冠が棋王位を防衛。今期はかなり調子を落としていた佐藤だったが、ここというところで地力が出た。

きょうの一首。ひさしぶりの人と話すとき、あるいは緊張感がそうさせるのか、軽い質問に対して、求められていなさそうな答を思いついてしまうことがある。

 いまどこにと軽く問はれて踏切を見ることのない暮らしに気づく/荻原裕幸

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March 27, 2008

2008年3月27日(木)

午前、アップルのサポートセンターと電話のやりとり。かなり長引いて慌ただしく出かけることになった。午後、丸の内へ。外堀のあたりの桜はすでに五分咲きといった感じか。他所はどうなのだろうと思いながら、愛知県産業貿易館へ。ねじまき句会の三月例会。参加者は五人。出詠者は七人。今回は題詠「打」と雑詠。いつも通り、読解を中心にしての合評を進める。ぼくの出詠したのは以下の二句。

 電報を打って春から逸れてゆく/荻原裕幸
 声を出すもの出さぬもの雑ぜて煮る

本日の朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載されている。今回とりあげたのは、後藤昌治さんの第五句集『遠く聴こゆるサラバンド』(沖積舎)と浅井一邦さんの『浅井一邦全句集』(ミネリ書房)である。二冊ともとてもおもしろい句集だったが、手ごわい句集でもあった。専門誌ではない新聞紙面ということもあって、批評をまとめるのにあれこれと腐心した。

きょうの一首。初句の私事的な手放し感には推敲の余地もあると思うが、ここを練りあげたようなことばにすると、全体がのっぺりしてつるつるになりそうなので、そのままにしておいた。

 四人でゐた春をしづかな首府としてひろがる国のひかりを想ふ/荻原裕幸

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March 26, 2008

2008年3月26日(水)

連日、朝から家人が出かける。留守番。

 丸の内ビルディングその美しき三月の影を踏むためにゆく/吉野裕之

第二歌集『ざわめく卵』(二〇〇七年)に収録された一首。「影を踏む」という生活的に無意味な行為のためだけに行ったのだとしたら、どこかに厭世観のようなものが漂うはずだが、ここに厭世観はないと思う。目的が別にあって、結果として影を踏むことになるのを、シンプルに反転させてこう表現したのだろう。丸ビルという場所の指定がうまく機能して、日常が非日常的なひかりのなかへと昇華されている。この歌も含め、歌集『ざわめく卵』には、あ、それをそうすればそこにことばのちからがたちあがるのか、と気づかせてくれる作品が多くある。

 目の前の裸木の群れゆっくりとわれをあふれて風景となる/吉野裕之
 妻のなかに苹果のようなものがあり異物であればそのままにする
 眠りから覚めてふたたび眠るまで枇杷のかたちと色を思いぬ
 怒りにはしないつもりの感情をそっと抱えていたりしばらく

きょうの一首。ボーカロイドの性能と言うよりもたぶん作成者たちの情熱の賜物なのだとは思うが、ここまで調教(でいいのかな?)できるものなんだと感心する。

 初音ミクの声に不覚のなみだして少しふやけたやうなゆふやけ/荻原裕幸

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March 25, 2008

2008年3月25日(火)

朝から家人が出かける。留守番。

青土社の「ユリイカ」4月号が刊行された。この号の特集は「詩のことば」。現代詩を中心に据えてはいるが、もう少し領域を広げて「詩」を考えてみようという狙いを含んだ特集になっている。ぼくも「『詩』と口語の短歌をめぐる断章」と題した文章を出稿した。400字で15枚弱。一九八〇年代から現在まで、俵万智や穂村弘たちがひらいた口語の短歌のスタイルについて、「詩」という概念に少しからめながら概観的なところをまとめてみた。

きょうの一首。日常的なリサイクルの風景。この数年、口語あるいは散文のスタイルを徹底しているのだが、それでも形容詞の連体形が「い」ではなく「き」で名詞につながるかたちなど、日常語に生きている文語テイストの語はそのまま使っている。一時はそれもあえて避けるようにしていたのだが、そこまで刈りこんでしまうとむしろ自分のことばとして不自然な印象が生じると気づいてやめた。

 牛乳パックのしろきくらがりきりひらく耳はさびしき音に悦ぶ/荻原裕幸

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March 24, 2008

2008年3月24日(月)

近所の公園で桜を見ると、それぞれの木に少しずつ花の姿が見える。桜の花のひとつひとつを楽しんで見るのはこの時期だけか。三分まで咲き進んでしまうと、桜色のかたまりだかけむりのようなものになってしまって、それはもう花を超えてほとんど空模様の一部である。そう言えば、公園に、神妙な顔で桜の枝のチェックをしている男性がいた。あの人は誰だったのだろう。桜の係みたいな人がいるのかな。

川柳誌「杜人」の春号、創刊六十周年記念特集号が届く。戦後二年目での創刊、昨年が六十周年だったという。こうした長寿雑誌が果たしている役割は、総合誌が極少である川柳の場合、他ジャンルとは比較にならないほど大きく重いと思う。作品特集では、同人が作品四十句をそれぞれまとめている。以下の句がふと目にとまる。

 いざというとき解凍する昭和/加藤久子

あるある、と思わず反応してしまう。この種のあるある感のある句というのは、それだけのものだと感じることも多いのだが、これはなぜか何かが残る。ノスタルジア的にあるいは金科玉条的に昭和を解凍するという行為のユーモラスな感触に加えて、きちんと清算されずに凍結されただけのナショナリズムの影も浮かんでいるようだ。

きょうの一首。きれいな風景は、色々な意味で、窓をきれいにしてくれる。

 前線が近づいたのでていねいに窓のさくらが拭かれるはずだ/荻原裕幸

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March 23, 2008

2008年3月23日(日)

夕刻、外に出ると小雨がぱらついていた。郵便局やその他で所用を済ませる。この時期、浅蜊がスーパーの棚をにぎわせている。買って帰ると、家人がさっそく砂抜きをはじめた。溌溂として楽しそうなので、砂抜きと言うよりは飼育しているように見える。しばらく飼育された浅蜊たちは、やがてフライパンに放りこまれて、ボンゴレスパゲティになるのだった。おいしく食べて成仏してもらう。

食べると言えば、昨夜は、二人とも食事をつくる気になれず、と言うか、その余裕がなくて、吉野家で牛丼を食べることになった。店内に、主にアメリカ産の牛肉を使用しています、と明記されたポスターがあった。いまスーパーでアメリカ産と明記された牛肉があっても、自分がそれを買うことはまずないと思うが、吉野家では気にせずに食べているのだ。気分だけで行動しているのだなあとあらためて思う。

きょうの一首。

 浅蜊等を両手にさげてやはらかな部位から春を消費してゐる/荻原裕幸

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March 22, 2008

2008年3月22日(土)

連日の陽気で、名古屋でも、桜が開花したという。

珍しく夢の断片が記憶に残っていた。しかも短歌の夢。どこかよくわからない会議室のようなところで、研究会か勉強会か何かそんなことをしていた。文語的な助詞や助動詞をつかわない口語の表現はあまりにも単調ではないかというのが議題。そうは言うけど、と、その逆説的な効用を鮮やかに説明しはじめて、この説明はすごいぞと夢のなかで夢のなかの自分に感心していた。目覚めたあと、これはぜひメモをしておかなければとまっすぐ机に向かったのだが、思い出そうとしても何一つ詳細を思い出すことができない。すっきり解決したという感触だけはリアルに残っているのに。

きょうの一首。なぜ人間は自力で飛べないのだろうかとときどき考える。飛行機でもロケットベルトでも、人間が飛ぶのに変りはないのだが、他の生物が飛ぶときの姿を見ていると、からだを地上にとどめておくための錨のようなものを外す方法が、物理的な法則とは別の次元にあるのではないかと感じられてならない。

 浮くときの蝶と浮かずにゐる蝶がおなじ重さといふのが解せぬ/荻原裕幸

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March 21, 2008

2008年3月21日(金)

午後、栄へ。底が抜けたような明るさをただよわせた、あきらかに新入社員という風情のスーツ姿を多く見かけた。研修の期間なのだろうか。外の風景をしばらく眺めてからスカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は14人。見学者が1人。詠草は16首。題は「揺」。欠席者が多かったので、これは延長せずに終るかも知れない、と思ったが、思っただけに終る。

短歌研究社から「短歌研究」4月号が届く。「数字を詠みこむ」という特集に、数字を詠みこんだ作品三首選と数字の歌の読みどころ400字と数字を詠みこんだ新作三首を寄稿した。各執筆者の数字観がこんなに違うのかと思って軽く驚く。

きょうの一首。講座で「揺」の題の作例として見せた一首。自己の内部の水というモチーフについては、揺らすも零すも濁らせるもそれぞれ先例がある。ただ、無理に類想を抜け出そうとすると、表現のための表現のようなおかしな感じになるので、逆に先例をまるごとつめこんだ。三つの並列される要素があれば、二つは先例で一つはひねるのがセオリーなのだが、変化させるよりもバックスピンをかけるような具合にまとめてみた。

 揺らしたり零したりときに濁らせてわたしの奥のみづの春秋/荻原裕幸

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March 20, 2008

2008年3月20日(木)

春分の日。地下鉄サリン事件の日。十三年が過ぎた。ニュースでの扱いもサブルーチンの一つと化したようで、オウム真理教の後継教団を警戒し、補償の進まない被害者たちの状況を憂慮しながらも、どこかでこの事件だけを特別視するのを避けている印象がある。これも風化の一種だろう。事件は怖ろしいものだったが、歳月はもっと怖ろしいものなのかも知れない。昨日からの雨があがって、少し寒くなった。夕刻から義父義母と義姉夫婦と家人と六人で食事に出かける。平穏な一日。

何かを食べたり飲んだりしたときに、沼みたいな味がする、と言う人がいる。沼の味を知ってるの? とつっこみたくなる。違う人がそれぞれそう言うのを聞くので、慣用表現ではないとしても慣用表現に近づいているような表現なのだろう。もちろん自分でも同じように、知らないはずの何かにたとえて言うことはよくあるし、どう考えてもあり得ないようなたとえも無意識に出てくる。家人の咳がひどかったときに、大丈夫、死人のような咳だね、と言ったら、咳にむせながら、死人は咳をしません、とつっこまれたことがあった。たしかにそう言われてみればそうだ。

きょうの一首。ときどきもらう葉書に。たぶん何かの香料なのだが。

 親しくなくはない知人から洞窟のやうな匂ひの葉書が続く/荻原裕幸

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March 19, 2008

2008年3月19日(水)

ひさしぶりの雨。あたたかい雨だった。

第33期棋王戦五番勝負の第四局。後手の羽生二冠のゴキゲン中飛車を佐藤棋王が上部から押さえこむようなかたちで駒組みが展開される。この駒組みの段階から優劣はかなりはっきりしていたようだ。途中(81手目)、佐藤の駒のほとんどが中段に浮いて、下段に引いた王の周囲に駒が一枚もなくなる局面があった。局面に幾何学的な美しさを感じることはあっても、そうした情感にも訴えるような美しさが生じるのは珍しいなと思ってうっとり見ていた。羽生の粘りで手数はかなりのびたが、結局、佐藤が勝って二勝二敗のタイに。

きょうの一首。寺山修司歌集『田園に死す』(一九六五年)の「干鱈裂く女を母と呼びながら大正五十四年も暮れむ」が、寺山的な平行世界の表現だというのはよくわかるのだが、この「大正」のもっている感触が、その時点の元号の昭和でもなく、百年の区切りに近い明治でもなく、デモクラシーでもノスタルジーでもない、何か奇妙な大正であることがおもしろかったので、ちょっとその文脈にのせてみた。スチームパンクの背景みたいになったのは予定外だったが、それなりに奇妙な空気だけは写しとれたかと思う。

 窓のかなたに蒸気はつねにふきあげて大正九十七年のはる/荻原裕幸

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March 18, 2008

2008年3月18日(火)

日が落ちてから散歩をかねて一人で八事まで買い物に出る。日が落ちてももうさして寒くはならないらしい。あれもこれもと食料品をまとめて買いこんだら荷物がとんでもない重さになっていた。バッグを肩からかけ、腰に乗せるようにして、ほとんど背筋を伸ばせない奇妙な姿勢のままで帰る。日が落ちていてよかった。

某プロバイダがメールサーバの設定を変更するというので、詳細を知るためにウェブの解説ページをひらいたら、レイアウトが大崩れになっていた。しかたなく、別のブラウザでひらいてみたのだが、それでも大崩れ。やむをえず、すでに公式にはダウンロードもサポートも打ち切られているマック版のIEをストックしているサイトを探して、このためだけにインストールしてひらいてみたら、やっと普通に読めた。あいかわらずマックユーザは不便、と言うか、最近では個人サイトでも滅多に体験しないレイアウトの問題を、まさかプロバイダのサイト(しかもマックユーザを対象にしたページ)で体験するとは思わなかった。

きょうの一首。針山ということばをなぜか急に思いついて。女性の髪をつめたりこめたりあみこんだりするもののなかで、針山だけは怖いという印象がない。

 母の母の髪をしづかにつめたといふ針山は母がつかつて終る/荻原裕幸

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March 17, 2008

2008年3月17日(月)

午後、所用で近隣を歩いていると、見たところ六十代ほどの、見おぼえのない女性と目が合う。その人が背筋をぴんと伸ばして深々とお辞儀をしたので、あれ、知っている人だったかなと困惑していたら、ちょっとお訊ねしますが、と、やわらかな口調で道を訊ねられた。丁寧な人だなあと思って敬服する。

 柊は将棋の駒になるといふなるといふこと楽し花咲く/馬場あき子

第十六歌集『青椿抄』(一九九七年)に収録された一首。最初の「といふ」は、聞くところによれば、という意味で書かれているようだが、柊の用途としての駒、駒の素材としての柊は、かなりマイナーだと思う。それなのに「柊も」でも「駒にも」でもないのはなぜだろう。と考えているうちに、こどもが将来何々になると宣言するのに似た、柊の主張を示す「といふ」がうっすらと重なっているのが見えて来た。大人になったら、と言うよりは、死んだら、に近いわけだが、何かに「なる」可能性としての未来は、不安定ながらもいまを肯定する力になる。可能性でしかないからこそ、いまがより強く肯定されるのかも知れない。また、文化や歴史の文脈から掬い出したのではなく、誰かに聞いた話から書きおこした印象も、この歌の魅力の一つか。

きょうの一首。家人に言わせるとこちらが結界をはっているときもあるらしいが、本人にはその自覚がない。むこうも同じなのかも知れない。

 リビングのわづか数歩に結界ははられておぼろなる妻のかほ/荻原裕幸

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March 16, 2008

2008年3月16日(日)

午後、家人が外出。留守番。

ラグビーの日本選手権大会の決勝、40対18で三洋電機がサントリーを圧倒して優勝が決まる。トップリーグはスコアしか見ていないし、準決勝は四チームが小差で並んでいる印象だったので、力を出しきったときの三洋電機がここまで強いのかと驚いた。テレビ中継で、サントリーの清宮克幸監督が「完敗」とコメントしたとリポートがあって、実況のアナウンサーが珍しいコメントが出たという風に反応していた。ネガティブなことばをまず口にしない人なので、ほんとに珍しいなと思って聞いていたのだが、監督の公式ブログによると「完敗と言えば完敗ですね」という微妙な含みのあるコメントだったらしい。やっぱりな。

きょうの一首。この「卵を茹でてゐる」の部分が何にでも置き換えできるのではないかと思ってあきらめかけたが、そうでもないようである。実際に置き換えをしてみると、多くの行為が、外出した人と留守番の人の関係を強く示唆しすぎてしまい、留守番の純粋な留守番性のようなものを削いでしまうし、それをしている最中にいままさに留守番をしているのだと再認識する行為はそれほどたくさんはない。卵を茹でている最中に思いついたという単純な事実性に逆らわない方がいいということか。

 留守番をしながら卵を茹でてゐる留守に含まれない人として/荻原裕幸

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March 15, 2008

2008年3月15日(土)

水道水もそろそろ春らしく温んでいる。顔や手を洗うのは冬もさほど気にならない鈍さなのだが、食器洗いのとき五分とか十分とか水道水を浴び続けていると、この時期はまだ手が痛くなることもある。早朝や深夜はまだ少し冷たい感じだが、昼は延々と洗っていても大丈夫みたいだ。

午後、マンションの大家さんの依頼で、メンテナンスの業者さんが来て、排水管の洗浄清掃と火災報知器の設置をしてくれた。業者さんの一人が書斎を見て、本がいっぱいあるねえ、学校の先生? と言うので、ええまあそんなようなものです、と曖昧に答えておいた。書斎をあらためて見まわすと、たしかに本がいっぱい、と言うか、本でいっぱいである。実に殺風景な部屋だなあと思う。時計とか照明とか、それに設置した火災報知器とか、円が数個程度はあるものの、およそ全体が四角ばっていて、曲線というものが極端に少ない。

きょうの一首。三句目が助詞なしの名詞で終っているこのかたちは、どこか拙い感じがあってあまり好きではないのだが、たとえば「を」を入れてしまうと、そのようなベーカリーがありましてという提示と言うかその店感みたいなものが薄らぎ、そのようなタイプのベーカリーを抜ければという条件付けの印象が強くなるので、落ち着かないながらも助詞なしとしてみた。

 入口と出口がちがふベーカリー抜ければちがふ春に着けるか/荻原裕幸

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March 14, 2008

2008年3月14日(金)

ひとくぎりついたら眠ろうと思ったまま徹夜。眠い一日となる。家人が買って来たスイトピーや鬱金香やその他が玄関で咲いている。家人がことあるごとに顔をうずめては匂いをかいでいる。あまりにも楽しそうなのでこっそりまねをしてみた。

 菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか/櫂未知子

第二句集『蒙古斑』(二〇〇〇年)に収録された一句。「挿すか茹でるか」は、いわゆる主婦的な感覚で、菜の花を俗化する印象だが、「見捨てるか」の一語でにわかに世界に奥行のようなものがあらわれる。天晴な感じ。題詠の場で、季語としての菜の花をどう扱おうかと考えている俳人の意識がそのまま浮かんでいるようでもある。

きょうの一首。挿す派の歌だが、どちらかと言えば自分は茹でる派。この時期、アンチョビと一緒にパスタの具にするのが好き。

 菜の花はひかりもみづも奪ふのでできるだけ遠くに挿しなさい/荻原裕幸

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March 13, 2008

2008年3月13日(木)

友人から届いた葉書に紅梅が咲いていた。葉書は事務信だが、語り出しに「はがきにて失礼いたします」と書かれているのを読んで、しばらく和んでいた。挨拶の丁重さというのは、対面、封書、葉書、ファックス、メールの順になるのだろうか。電話はどこに入るのかな。

生の一回性、ということばがある。人は一度しか生きられない、という実存の問題である。死を悲しんだり過去を悔いたりする文脈のなかで見かけると、ひやっとした気分になるものだが、それでも、0か1かと考えるなら、一度は生きられるのだとポジティブな考えも生じる。ただ、この頃、1か2以上かといった感覚のなかでこの一回性ということばを見かけることが多い。ゲームじゃないのだから、という例の文脈である。1がものすごく淋しいものに感じられる。

きょうの一首。

 死体ではないものがゐる綿パンで四つ折りにした新聞を読む/荻原裕幸

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March 12, 2008

2008年3月12日(水)

午後、曜日も考えずに近所のスーパーに買い物に行って定休日にあたる。少し足を伸ばして別のスーパーに行くことになった。これが寒いときならかなり損をした気分になるのだが、あたたかいとついでに散歩ができて得をしたような気分になるのだからおかしなものである。

ケーブルテレビの業者に頼んで回線の工事をしてもらう。線とか管とか電波とか、やたらにつながっている、というのが現在の生活の感覚だと思うが、つながればつながるほどデラシネ感みたいなものに満たされてゆくことがある。人にも場所にも簡単につながるので、自分がどんな場所にでもいられるような錯覚が生じるのだが、それが同時に固定した場所にいる感覚を薄らがせてしまうのかも知れない。

きょうの一首。でもケータイは持っているのだ。つながりたくないのではなく、つながる方法にこだわっているということらしい。

 断固としてメールアドレスはもたぬといふ旧友一人ゐて鳥曇/荻原裕幸

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March 11, 2008

2008年3月11日(火)

それにしてもあたたかい。名古屋は四月下旬の陽気だという。午後、軽い運動のつもりで、家人とぶらぶら歩いて中食を買いに出る。通り道の公園では遊んだり憩ったりする人の数が増えていた。園内の桜が一本だけすでに咲きはじめている。昨年は気づかなかったが、早咲きの品種なのか、気の早い個体なのか。

 ブルゾンを脱ぎつつふかくにくみたり椿に帰属するその青き葉を/岡井隆

第十二歌集『五重奏のヴィオラ』(一九八六年)に収録された一首。下句の字余りは音読しても気づきにくいほどの些細な余剰だが、気づくと「その」が何かを強く主張しているのを感じる。一首のモチーフに即して考えれば、帰属感の拒否、か。短歌というフォルムにきもちよく収まってしまうことを拒んでいるように見える。歌集の配列では、一首前に「かのふかき一言をもてわれを射し官僚制はいま何食ひ居らむ」と同じような字余りがある。ただ、一首後は「一制度一日常のすみずみの帰属してゆくあはき寂しさ」とべたな正調となる。気づくと気づいたことをつい語りたくなるような、読者に向けて仕掛けた遊びの一つなのだろう。

きょうの一首。鷹化して鳩と為る、で俳句を書いてみようと思っていて、気づいたら短歌になっていた。副産物なのか、副作用なのか。

 妻化して鶴となるのを見たやうな悔いが残つてゐる春の部屋/荻原裕幸

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March 10, 2008

2008年3月10日(月)

午後、所用で出かける。暦ではまだ少し早いのだが、鷹化して鳩と為る、が、なんとなく想像できる気候である。本格的にあたたかくなって、心身がどこか緩んでゆくのが感じられた。スーパーで中食を買って帰る。

パソコンは身体の延長部分だという発想がある。たしかに思考や感情と連動してキーボードを打っている感覚はあるし、仕様の違う他人のパソコンで作業をすると、他人のからだみたいだとまでは言わないとしても、度のあってない眼鏡をかけている程度には落ち着かない。それでも、やはりパソコンは道具だと考えることにしているのだが、しばしば、パソコンを起動しないと自分の脳も起動しないような気分になることがあって、さしあたって必要がなくても起動してしまう。病気と言うほどではないかも知れないが、病的ではあるなと思う。

きょうの一首。

 春の夜の闇を齧つてゐる音がしてブラウザやわたしが起きる/荻原裕幸

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March 09, 2008

2008年3月9日(日)

家人が早朝から出かける。留守番。食器を洗ったり、ペットボトルを潰したり、洗濯物をとりこんでたたんだり、名古屋国際女子マラソンの高橋尚子の状況を家人にメールしたりする。陽気に誘われて、少し外に出てみると、春らしい感じがいたるところに充満していた。

 表札の無くて巣箱と芝生かな/上田信治

ハイクマシーンで公開されている「手紙50句」から。初見は一昨年だったか。「表札の無くて」だけでは、入居前なのか転居後なのかがあきらかではないが、句の印象に入居前の新築感は見えない気がする。何の理由からか手ばなされた豪邸の、誰も見なくなった巣箱、誰も手入れしなくなった芝生、それらがもたらす春のけだるさのようなものが、句の背後に広がっているのを感じる。

きょうの一首。前述の句を考えながら昨年の二月にメモした一首。状況をはっきり決めたがるのは、作者の、と言うよりも、短歌のフォルムの性格のようなものか。

 表札が外されてゐて薄日さす池のみどりを何かが揺らす/荻原裕幸

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March 08, 2008

2008年3月8日(土)

午後、先日から頼まれていた家人の髪のカラーリングをする。多少慣れて来たが、やはり何回やっても緊張する。幸いそれなりのしあがりになった、ということにしておこう。夜、弥富通沿いの、中学時代のクラスメイトが経営する居酒屋で、いまも連絡がとれているメンバーが集まってのクラス会。参加者は12人。この集まりに顔を出すのは三年ぶり。その場にいない同窓生の話が出ると、記憶を引き戻すため、みんなでアルバムを広げて顔と名前を確認したりしていた。本腰を入れて連絡をとれば、きちんとした人数が集まるのかも知れないが、何となくこの位の集まりが顔を出しやすいのではないかとも思う。

第33期棋王戦五番勝負の第三局。後手の佐藤棋王のゴキゲン中飛車から超急戦の展開になる。一月の王将戦第二局の羽生二冠対久保八段戦で話題になった、羽生の新手の9六角をわざわざ打たせるように佐藤が誘導してゆく。研究上の勝算があったのだろう。売られた喧嘩は買います、という感じの指手で羽生が応じて、9六角以後さらに盤上は激化した。羽生が龍を切って攻め合い、と言うかすでに寄せ合い、に突入したあたりまでは優劣がはっきりわからなかったのだが、佐藤の寄せに若干強引な部分があったようで、受け切った羽生が二勝目をあげる。

きょうの一首。それを知ったときのものすごいことを知ったような気分は、しかしどうにも個人的な領域を出ないので、少し抽象化してみた。

 匿名ゆゑに揺れる青葉のこの谿をあなたの谿と知らずに渡る/荻原裕幸

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March 07, 2008

2008年3月7日(金)

軽い疲れのような、未整理の思考のような、もやもやとした小さなかたまりが、あたまの芯のあたりにずっと残っている。午後、栄へ。地下街の喫茶店で短歌をまとめてからスカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は17人。詠草は17首。題は「進」。講座をはじめた頃に比較して佳作がかなり多くなった印象がある。テンポよく講評を進めたつもりだったのだが、気づいてみるとやはり延長になっていた。

 見ていないテレビから萩溢れおり/五島高資

第三句集『蓬莱紀行』(二〇〇五年)に収録された一句。どう解釈するのかちょっと迷った。萩が在る=秋=句の現在、を安定させるならば、スイッチを切ったテレビの画面の薄暗い空間のなかに周囲の萩が映っているのを見た、ということになるのだろうが、見ていないのにつけっぱなしだったテレビの画面いっぱいに萩の映像が映し出されているのに気づいた、と捉える方が、ことばの歪み具合なども含めておもしろく読める気がする。ただし、そう捉えると萩の季語性はやや弱くなる。実際、春らしくなりつつある先日、深夜、後者の解釈に似た体験をした。悩ましいところだ。

きょうの一首。講座で「進」の題の作例として見せた一首。無意識に書いていたのだが、明日のクラス会の予定がどこかで作用したのかも知れない。

 縁なしの絹目の擦れて進まない時間のなかで歯を見せてゐる/荻原裕幸

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March 06, 2008

2008年3月6日(木)

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は12人。ひさしぶりに岡井隆さん、加藤治郎さん、斉藤斎藤さんが出席する。にぎやかな会となる。歌会後はいつものように有志で居酒屋に。斉藤さんが「歌会の帰りは淋しい」というようなことを言っていた。その場では否定的に意見を返したが、あまり正直な意見ではなかったかも知れないなと帰りの地下鉄で思う。

プロ野球のオープン戦がはじまって、テレビ中継がローカル枠に時々入る。名古屋の各局は、中日ドラゴンズをえこひいきするし、まだペナントレースがはじまってもいないのに、すでに優勝が確定したような口ぶりになっている。聞いていて恥ずかしくなることもあるが、満更でもないという気がするのは、ファンが得るものは、試合とその結果のなかにだけあるわけではないからだろう。試合の前の、あの無責任なほどに無根拠な全能感は、たとえ試合に負けたあとでも、どこかに残っていて、自分の何かを推進するための動力になっているように感じる。

きょうの一首。東桜歌会に「川」の題詠として提出した一首。

 甘い匂ひの水がせせらぐけふきみは川なのかそれとも罠なのか/荻原裕幸

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March 05, 2008

2008年3月5日(水)

啓蟄。午後、家人と熱田のイオンへ。冬眠から覚める生物のように、この時期になると人も外へ出たくなるのか、平日の店内にしてはやけに混雑していた。食料品類のもろもろがかなり値上がりしていて、買う気の起きないような価格になっているものもある。しかたないと思えるものだけを買い揃えて、残りは他店で探すことに。帰りにコメダ珈琲店に寄る。

 還らざりし英霊ひとりJR舞鶴駅につばさをさめて/塚本邦雄

第二十二歌集『汨羅變』(一九九七年)に収録された一首。たしかこの歌集を出す少し前だったか、塚本邦雄が、歌をわざと下手に書く、というような話を盛んにしていた時期があった。巧さによってリアリティが損なわれるというのだ。むろんそれはことばのあやであり、実際の話の文脈のなかでは、修辞性と日常性のバランスが崩れるとリアリティが損なわれる、という意味にとれた。この「つばさをさめて」は、塚本に下手に書く必要を感じさせた歌のしくみが浮かんで見える歌だろう。これは、下手に書かれてはいない歌、であり、英霊・舞鶴というつながりと舞鶴・つばさというつながりの、後者に少しでも読む意識が傾くと、どこかつくりものめいて見えてしまうという危険をはらんだ、ぎりぎりのバランスの上に成り立っているように思う。

きょうの一首。名古屋市中区の鶴舞駅、舞鶴駅ではない。念のため。

 鶴舞駅の高すぎずまた低すぎぬなかぞらを鳥でないものが逝く/荻原裕幸

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March 04, 2008

2008年3月4日(火)

午後、浄心の西生涯学習センターへ。東西句会の三月例会。参加者は四人。各自五句を持ち寄る。互選と批評の後、メンバーの作成したテキストで、主要季語の感覚を確認するための、ある種の勉強会をする。日頃、机上で考えることが多いので、俳人の感覚を生なかたちで聞けて楽しかった。句会に提出した五句は以下の通り。

 バス停に空のバス来る二月尽/荻原裕幸
 紅き梅見に来て白き梅を見る
 白梅や力を抜いて立つてゐる
 春浅きからだを夜のポストまで
 春めくや受話器を顎にはさむ人

型を利用すること、と、類似や類型や類想、との境界の見きわめが、短歌と俳句とではずいぶん違うと感じる。短歌では、一般に、境界からある程度は離れた感じが求められると思うのだが、俳句では、ぎりぎりの見きわめのようなものにも一つの価値があるようだ。その方向でまとめると、失敗したときに悲惨なことになるのだが、それでも、何かそこに、スリリングな楽しみがあるような気もする。

きょうの一首。先日、家人が手相について覚えたことをいろいろ教えてくれた。自分の手相を見てみたところ、ふくらみや皺の入り具合に、きわめて佳い運が出ているようではあるのだが、何と言うか、その運が自分に届いた気配はない。

 てのひらの丘と小径がほのめかす佳きなりゆきにならぬ春寒/荻原裕幸

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March 03, 2008

2008年3月3日(月)

桃の節句。かなり広い範囲で黄砂が降ったらしい。

第66期将棋名人戦A級順位戦の最終日。NHK衛星第二で、午前と午後と深夜に中継があって、持ち時間からの推定で、全対局の投了が、深夜の枠にぴったりはまるはずだったのだが、肝心の羽生善治二冠と谷川浩司九段の対戦が、予想外に早く、深夜の中継直前に決着してしまって、番組的にとても苦しい展開になっていたのが気の毒な感じだった。後手の谷川の一手損角換わりで展開したこの対局、優劣が決したとは言ってもまだ中盤という段階で谷川が投了。67手という短手数だった。この段階で挑戦者は羽生に決定した。森内俊之名人と羽生善治二冠の名人戦での対決はこれで五回目。過去は五分の結果である。

きょうの一首。上句だけで俳句にならないものかと考えていたのだが、饒舌にならないと語調のもたらす感触があまりに不安定で、どうにも作品として成り立たない感じがして、あれこれ考えて短歌のかたちに。自分の考えていることを知らないもう一人の自分がいて、読者として作品をチェックしてくれたら都合がいいのに、と思う。

 ぶらんこを漕いでゐるのは風なのだその他の何かではないはずだ/荻原裕幸

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March 02, 2008

2008年3月2日(日)

断続的に軽い頭痛。と言うか、集中力がないので、どうしたのだろうと、しばらくからだの様子を考えてみて、もしかしてもしかすると、これは頭痛というものではないのかと気づいたような次第。なかなか治まらないし、夕刻、買い物などで出歩いていたら、夜になって少し寒気もしたので、風邪薬を飲んでみる。飲んだら頭痛も寒気も一応治まった。

集中力がなかった流れで、たまり続けているテレビの録画を少し消化する。噂だけは耳にしながらも数か月遅れで見るドラマとかアニメというのは実にわびしいものである。また、録画を見ている途中でニュース速報のテロップが流れて、思わずリアルタイムのことと勘違いして首をひねってしばらくして気づくというのも実にわびしいものである。

きょうの一首。きょうのスケッチ。

 頭痛するわたしを頭痛に気づかないわたしが連れて歩く春日/荻原裕幸

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March 01, 2008

2008年3月1日(土)

三月となる。午後、ウォーキングをかねて実家に顔を出しに行く。いかにも春らしいひざしがふりそそいで、歩を早めると汗ばむような感じ。ぽかぽかというオノマトペがぴったりの陽気だった。父母と少し話をする。手みやげに桜餅をもらって帰る。

川柳誌「MANO」第13号が届く。小池正博さんが「樋口由紀子・鏡像の世界」と題した樋口由紀子論をまとめているのを興味深く読んだ。「思い」の表現としての川柳からそうではない場所へと転位する樋口の試行を丁寧に分析している。その樋口由紀子さんも同号で「時実新子の川柳」と題した時実新子論をまとめている。時実の仕事の軌跡を検証したものだが、時実を位置づけると言うよりも、むしろ、時実に影響を受けた自分自身や現代の川柳が、いかにして時実の「思い」や「情念」の世界から脱け出すべきかを考えている。この二篇は、現在の川柳全体を論じたものではないのだが、現在の川柳全体を俯瞰しようとする強い意志に貫かれているのを感じた。佳い文章だと思う。同号掲載の作品では以下の一句がことにおもしろかった。不気味なのにどこか愛らしさもあるくうせきさん。空席に坐りづらくなりそうだ。

 空席にくうせきさんがうづくまる/佐藤みさ子

きょうの一首。郵便とメール便の山を整理をしながら、手紙でも本でも雑誌でもときどき封筒の外にまでただならぬ気配をただよわせているものがあるなあと思う。

 ものすごい剣幕が透けて見えたので三日遅れて封書をあける/荻原裕幸

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