2008年4月11日(金)
夕刻、机上だとなかなかまとまらない件を喫茶店にこもって進める。時々行く店なのだが、きょうはママさんがやけに毒舌で、時折常連のお客さんと、某国や某国や某政党や某政党を店中にひびきわたるような大きな声で批判するのでひやひやした。
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俳句誌「里」4月号に、仲寒蝉さんと島田牙城さんの対談が掲載されている。内容は同誌2月号の作品批評。二人の俳句に対する読解や鑑賞が、文章とはやや趣を異にする生な感じで出ていておもしろく読んだ。そのなかで、少し不思議に感じたところがあった。以下の一句をめぐるあたり。
俳諧の果ての鍋焼饂飩かな/媚庵
二人とも「俳諧の果て」を、俳諧に身をかけた末とか俳諧を突きつめるとか、一度誠実な文脈のなかに置いて、俳諧と鍋焼饂飩のとりあわせとして読んだようだった。このとりあわせという理解には、俳人ならではの感応力が見える。ただ、それ以前の問題として、この句は「徘徊」と「俳諧」とが掛けてあるのではないのだろうか。「徘徊の果ての鍋焼饂飩かな」であるならば、寒さのなかをうろうろした後か、飲み歩いた締めか、ということになろう。そんな徘徊的日常と俳諧的営為とを二重にイメージさせるところに、この「俳諧の果て」というフレーズが有する俳諧的味わいが見えるような気がしたのだが、それでは歌人的読解にすぎるのだろうか。
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きょうの一首。「とりあわせ」ということを考えながら。
稲荷寿司のややしほからいあぢつけの母がゐて春夕焼のなか/荻原裕幸
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