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April 30, 2008

2008年4月30日(水)

やけに暑い一日だった。名古屋は夏日になったという。午後、桜山の美容室へ。伸ばしっぱなしだった髪をカットしてもらう。美容師さんが、GWの話をしはじめて、もし十連休なんてもらっても何をしていいのかわからない、と言う。ふだんの休日でも過ごし方に迷うのだそうだ。それは、独身で好みの男性客にぜひ伝えるべきではないか、と思ったりしたが、余分なことは言わずにおく。行き帰り、値上げに備えるためなのか、方々のガソリンスタンドにものすごい列ができていた。

 ぴらにあを飼ってこの春やりすごす/原しょう子

第一句集『二十五時』(一九九六年)に収録された一句。やりすごさなければならないほど嫌な春なのか、それほどまでに退屈な春なのか、何にせよ、さまざまな選択肢がありそうなのに、あえてピラニアの飼育をその代償にしたわけだ。この肉食魚をはじめて飼うと、どうしても一度は生餌を与えてみたくなる、という話を聞いたことがある。さらりとした感触のことばの向こう側には、ハードな場面、と言うか、尋常ならざる心境が隠れているのかも知れない。同句集から他にも好みの句を。

 ガム噛んで銀河を渡る駅に佇つ/原しょう子
 拝啓も前略もなし青とまと
 草の実をつけて身のうち静かなり
 葉桜や折り目正しく妊りぬ
 五分だけ泣いて白菜たて割りに

きょうの一首。遊びの道具としての風船は昨今あまり見かけなくなったが、イベントの小道具としては使い勝手がいいのか重宝されているらしい。近所にある結婚式場から飛んでゆくのをときどき見かける。

 風船のゆくのが見えて窓ではなく窗と書きたくなるやうな窗/荻原裕幸

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April 29, 2008

2008年4月29日(火)

昭和の日。この曖昧なネーミングがうまく作用して、かつての「天長節」の印象とはどこか違った、昭和の文化を再考したり懐かしんだりする日、になるのならば、それはそれなりにいいのではないかと思ったりした。GW中のマンションの各戸は、出かけたり客を呼んだりしているらしい。ふだんとは違ったところが騒がしく、ふだんなら騒がしいはずのところが静かだった。夕刻になって栄に出かける。家人と懐かしい店に入ったり新しい店に入ったりする。

短歌誌「みぎわ」5月号、斉藤真伸さんの短歌時評で、このブログの3月29日付30日付の記事のことが扱われていた。先月の斉藤さんの時評への感想に意見をもらうことができた。斉藤さんは、「内面化」について補完した上で、小池光の「生存について」の一連について、ぼくが書いた「受容」の前段階であるはずの「葛藤」を問題にしたいという。「己の心のなかにこのナチス党員に似た非情さを見いだしたときの動揺が、作歌動機になったのではないか」。ぼく自身は、小池の淡々とした文体からそこまで読みとることはできなかったが、斉藤さんが何かの機会にあらためてこの一連について語ってくれるのを楽しみに待ちたいと思った。

きょうの一首。考えもレトリックもきわめて危うい感じだが、昭和の日に寄せてまとめてみた。北原白秋には「仏蘭西のみやび少女がさしかざす勿忘草の空いろの花」があり、石田波郷には「勿忘草わかものの墓標ばかりなり」があるが、これはこれでどうにか一首になり得ていると判断した。

 平和のために平和を捨てたわかものの勿忘草のそらいろの花/荻原裕幸

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April 28, 2008

2008年4月28日(月)

このブログの21日付の記事で、鈴木竹志さんの「桟橋」94号の時評について述べたところ、それについて「竹の子日記」でコメントがあって、鈴木さんがくだんの文章を書いた経緯について説明してくれていた。実証云々は別として、諦めて突き放すようなところと悟って叱咤するようなところとが、鈴木さんのなかに混在しているのかなあと感じる。では自分はどうなのだろうとしばらく考えていた。

午後、家人と買い物に出る。とりあえず必要な食材を揃えたところで、最近ビタミンなんとかが欠けていると家人が言っていたのを思い出した。何か他にも買うべきものがあるだろうかと相談するつもりで、それで、何が欠けていたんだった? と訊ねてみる。真剣な表情で考えていたかと思うと、いきなり、情緒? と疑問符つきで答が返って来た。あまりにも意外な答だったので、思わず笑ってしまう。こちらの質問が唐突だったような気もするが、それにしても、スーパーの生鮮食品売場で、何がどこにどうつながるとそういう答が出て来るのか。妻はもっとも身近な他者、ということばをしばらく思い浮かべていた。

きょうの一首。「夏めく」は、俳句では夏をあらわすと決まっているようだが、日常的には今時分の感じを言うのにも使うなと思いながら。

 夏めいた午後をしづかに座礁してことばの船が入江を抜けず/荻原裕幸

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April 27, 2008

2008年4月27日(日)

午後、家人が外出。留守番。

巷は昨日からゴールデンウィーク。こどもの時分、土曜が休みというのは珍しいことだったし、メーデーは意味がわからなかったし、火曜はもとより月曜の振替休日もなかったし、国民の休日もみどりの日もなかったし、しかも父が日曜や祝日に関係のないシフトで勤めていたので、黄金週間とか言われてもよく理解できないでいた。そのせいなのか、十代までのこの時期の記憶というのがあまりはっきりしない。旅行とか父母の帰省とか行楽とかで出かけたことはたしかないはずなので、たぶんふつうの休日として過ごしていたのだろう。

きょうの一首。連日の好天もあってか、花はすでに夏を迎えているらしい。数年前から下句だけがメモのなかにあって、と言うのは、近隣の道路の中央分離帯に鉄線が咲いているのを毎年この時期に眺めていたからで、ただ、それだけではどうにもならなかったのを、今年は某所の蔓が暴れてくれたおかげで、なんとかかたちになったという次第。

 垣ではないだが青空とも呼びづらい妙なところに鉄線が咲く/荻原裕幸

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April 26, 2008

2008年4月26日(土)

未明に降りはじめた雨が、正午を過ぎたあたりでにわかにあがって、爽やかな晴天となる。午後、熱田の白鳥庭園へ。ねじまき句会の吟行句会。参加者は四人。四人で庭園をざっと見てまわって、あとは各自ばらばらに行動、一時間で五句をまとめることになった。その後、場所を移動しての句会。川柳の吟行というのははじめてで、ふだんと少し違う世界を楽しむことができた。

吟行でまとめて句会に提出した五句は以下の通り。属目ということで、扱える素材はたくさんあったのだが、時間が限られていたので、思考を単純化して、水をめぐるモチーフに狭く絞ってみた。吟行句会の結果はこちら→

 降っていたのはほんとうに雨なのか/荻原裕幸
 遠くまで脱け出せそうな水たまり
 映すものを選んで映す池である
 雄か雌かはっきりしない滝である
 橋渡りすぎてふつうの場所に出る

きょうの一首。吟行の残滓をかたちにした。白鳥庭園の錦鯉はかなりしっかりとしたラインアップだった。たまたまテレビの某番組で見て品種を覚えたところで、紅白と大正三色と昭和三色、それに浅黄と秋翠は、きちんと確認できた。

 混沌のやうな何かをまとひつつ鯉がゆくわたしたちもつらなる/荻原裕幸

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April 25, 2008

2008年4月25日(金)

好天。午後、家人と所用で近所のコンビニへ。住宅街を抜けてゆくと、途中に、これまでは気づかなかった一戸建の借家があって、入居者募集の看板が出ていた。転居の予定はないのだが、なんとなくいい感じだったので、二人で外から間取りの見当をつけたり、家賃を推測したりする。

 紺青のスカートの裾たからかに誰のものでもない足がゆく/佐藤弓生

第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのために』(二〇〇六年)に収録された一首。的確な形容が見つからないが、颯爽とか無垢とか無敵とか、そのあたりを微妙な比率でブレンドすると、この一首にふさわしいことばが生まれそうだ。足が、誰のものでもあるかのように衆目にさらされる時代だが、そんな時代に与しない「誰のものでもない」という把握がおもしろい。他の誰のものでもない私の、であると同時に、私でさえ自由にならない、の意味も含まれているのだろう。以下、同歌集から好みの歌を。非現実的な傾向の強い作風ではあるが、現実の空間との接触面が多い作品にとりわけ良質なものがあると感じる。

 青空が折りたたまれてあるまひる曲がり角とはいたましい場所/佐藤弓生
 UFJ、みずほ、あさひをへめぐりてゆく間のまるでたからもの 雪
 これもまた天使 くまなくひらかれてこころをもたぬ牛乳パック
 真夜中の豆電球のこんこんとこの世の泉この世にひとり
 ことのはのあめふるゆめにいくたびもいってきますをいうための部屋

きょうの一首。

 饒舌になるほどむしろしづけさがひろがつてゆく辛夷のほとり/荻原裕幸

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April 24, 2008

2008年4月24日(木)

昨夜から天気が崩れて、そのまま雨が続いていたが、夕刻にはあがる。ウォーキングと買い物をかねて、外の空気を吸いに出る。雨あがりのせいか、連休前のせいか、いたるところ、とても静かな空気が流れていた。

 亡き人の湯呑と春の大空と/岩田由美

第一句集『春望』(一九九六年)に収録された一句。葬儀の後、しかしまだ日常が死者の死を受容していない忌中の風景だろう。すでに使う人がいないのに常用していた湯呑だけが残されている。単なる不在と同じ風景ではあるが、その不在はどこまでも続いて、日常の時間や空間からその人が永遠に抜けてしまったという事実がじわじわと実感される。忌中の印象からはかけはなれた「春の大空」との取り合わせが、そこから先に広がる喪失や欠落の感触を強く伝えて来るようだ。

きょうの一首。死者が何かになるとは考えていないのだが、何かの背後に死者のすがたを感じてしまうことはよくある。笑う、と言うよりも、大きな声をあげるように咲いている、近隣の躑躅の生垣を見ながら。

 けふは躑躅のすがたになつて私を叱咤してゐる伯父かも知れぬ/荻原裕幸

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April 23, 2008

2008年4月23日(水)

午後、中京大学へ。きょうも初夏さながらの気候で、歩くとはじめは快適だが、しばらくして暑くなった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の三回目。きょうの題は「春の夜」「春夕焼」。講座の後、キャンパスのベンチで、学生たちの姿をぼんやりと眺めながら、きょうの題に即して二句。

 春の夜のボタン綻ぶどの服も/荻原裕幸
 弁当の残りは春のゆふやけに

第66期名人戦七番勝負の第二局。森内名人の一手損角換わりに対して羽生二冠が早目に銀を繰り出し、手数の進まない段階から駒がぶつかりあう。終始難解で、きょう二日目の夕刻、テレビ中継が終了した時点ではまだ形勢がわからなかった。以後もミスといった感じの指手はなく、しばらく形勢不明のままに見えたが、攻めを巧くつないだ羽生が、反撃の芽を摘みきって、森内の投了となる。これで一勝一敗。

きょうの一首。以前、蜜蜂の生態についてテレビで見たとき、働き蜂の献身性が美談風に語られていたのだが、蜜蜂と人間の関係については何も語られていなかった。

 みつばちの集めたものがにんげんの焦がしたものに拡がつて朝/荻原裕幸

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April 22, 2008

2008年4月22日(火)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は八人。テキストは吉川宏志『風景と実感』(青磁社)。「実感」「風景」という、論の中心となる語の意味するところにわかりにくさを感じたメンバーが多かったので、そのあたりを中心に話が進んで行った。今回、『風景と実感』を再読して気づいたのは、吉川さんが、短歌史の流れ、といった、短歌評論の定番的フレームをやや逸れて、もう少し普遍的に短歌のしくみを掴もうとする姿勢だった。たとえば、時折古典の引用が出るたび、近代以前と以後をほぼ同じ扱いで語り進める理由が見えなかったのだが、普遍的に何かを掴もうとしているのであれば、それも自然なことで、なんとなくこの本の入口が見えはじめた気がした。

 夕焼けがやけどの痕にしみてくる頑張るからね頑張るからね/田丸まひる

第一歌集『晴れのち神様』(二〇〇四年)に収録された一首。「頑張るからね」は親しい誰かに向けての口調で、実際に語りかけるのだとしたら「頑張るからね、応援してね」までを含意するはずだが、ここでは「応援してね」を打ち消すかのように「頑張るからね」を繰り返している。誰かに語りかけていると言うよりも、内的独白として、自分自身に言い聞かせている感触が生じているようだ。一人称が何を頑張ろうとしているのかさだかではないが、頑張る内容よりも、無援の状態のなかで、ひたむきに何かに向かう瞬間がそこだけ切り抜かれて、読者に提示されている。上句の、精神の痛みと身体の痛みを融合するようなレトリックが、下句の繰り返しに切実感や哀切感を巧く宿らせているように思う。

きょうの一首。連日の暑さのなかで。

 白洋舎、白屋、白ばら、白洗舎、白井せんたく、夏が近づく/荻原裕幸

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April 21, 2008

2008年4月21日(月)

初夏のような陽気が続く。午後、杁中から八事のあたりを歩き回る。所用もあって出かけたのだが、このところ食欲が旺盛で、少しからだを動かしておかないと、体重のことが気になるので。もっとも動かすとなおさら食欲は旺盛になるのだが。

短歌誌「桟橋」94号に、鈴木竹志さんが「〈私〉の自由」と題した短歌時評を書いている。吉川宏志さんの評論集『風景と実感』に出て来る、作者と読者が「信じ合う力」のことをめぐって、結社誌の選歌のシステムが、この「信じ合う力」によるものだと記したあと、以下のようなくだりがあった。「最近は結社を敬遠し、無所属のまま新人賞に応募する人が多い。多分、彼らにとって、結社という束縛は煩わしいだけなのであろう。では、彼らはいったい何を信じているのか。言葉を信じているから応募するのだろうか。そうは思えない。多分、彼らは、自分だけを何とか信じようとして応募するのだ。つまり「信じ合う」ことをとうに放棄しているのである」。気になるところは他にもあったのだが、特にこのくだりは、何をもとにこう書いているのだろうかと不思議だった。鈴木さんの文章には、実例はもとより、作品の一首も引用されていない。正体のないものを語っているようにも見える。昨今の新人賞応募者の所属を見れば、無所属が増えているのはたしかだが、具体的に誰が「結社を敬遠」したのだろうか。繰り返される「多分」以下は、何から推量したのだろうか。漠然とした印象から状況を構築することは、時評に求められる一つの要素ではあるが、「信じ合う」ことをとうに放棄した「彼ら」がいるとしたら、具体的なその「彼ら」の実態を語るところからはじめる必要があるのではないだろうか。

きょうの一首。

 わたくしは雲よりも土の側にゐて木立のかげに所属してゐる/荻原裕幸

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April 20, 2008

2008年4月20日(日)

穀雨。暖かいと言うよりも暑いに近い感じの一日。午後、家人が外出。留守番。夕刻になって一人で食事に出る。近所の中華料理店でラーメンを食べながら、新聞や週刊誌をまとめて読む。日曜なので家族連れが多いかと思ったら、珍しく男性一人の客ばかりで、店内にどことなく哀愁に似たものがひろがっていた。

 八月の正岡さんは永遠に早坂くんを好きにならない/枡野浩一

枡野浩一さんの、短歌をタイトルにした掌篇小説集(という理解でいいのかな)『淋しいのはお前だけじゃな』(二〇〇三年)が、集英社文庫に入った。引用したのはそこに収録されている一首。「正岡さん」からは正岡豊を、「早坂くん」からは早坂類を連想するのだが、それはまあ隠されていない隠し味のようなもので、ふつうに文脈をたどって読めば、時は夏休み(たぶん)、早坂くん(男子)は正岡さん(女子)を好きなのだが、どうにも脈がない、といった、淡い恋が浮かぶ。「八月の」と「永遠に」という、点と無限の流れを混在させて時間の感触に歪みを与えているところから妙味が生じているようだ。

きょうの一首。

 むちやくちやな表情をした人がゐて夕陽のなかを近づいて来る/荻原裕幸

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April 19, 2008

2008年4月19日(土)

爽やかな天気となる。ひざしがあたたかくて、少し風があった。花見のシーズンも過ぎて、山崎川周辺はふだん通りの閑散とした感じにもどっている。染井吉野の並木を見ると、すでにほとんどが蘂と葉、一本あたり一、二の花が残るだけで、葉桜率八割といった感じになっていた。

自衛隊をイラクに派遣するのは違憲、という判断が、一昨日の名古屋高裁での判決に含まれていたという。派遣の差止などを求める裁判で、何よりも違憲の判断を出してほしかった原告側を敗訴としたため、最高裁を経ずにこれが司法的結論になる可能性が高い。ちょっと驚いた。「大人の事情」があって、戦地に類するところに自衛隊を派遣したわけだが、こうした「大人の事情」がからんだときに、司法が明確な判断を出すのはとても珍しいように思う。司法的に何かねじれが生じているにせよ、事態を再考するきっかけができたのは悪いことではないだろう。

きょうの一首。

 魂魄その他がやはらかくなるやうな気がして入りゆく桜の葉陰/荻原裕幸

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April 18, 2008

2008年4月18日(金)

きのうきょうと雨が続いた。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は17人。題は「出」。かなり巧くまとまっていた作品に、それでもあともう一押し、といった批評をしながら、巧くなった人が増えたなあと感じる。この講座、開設から数えて30回となった。

講座の後、一人で時間のずれた食事を済ませて、家人が歯科の治療をうけているのを待ちながら、栄で仕事をしていたのだが、治療の時間が延びて、かなり長く待つことになったので、集中力が落ちてからは、ぶらぶらしたりぼんやりしたり。そばにいても逃げも除けもしない路地の鴉と遊んだり、喫茶店でメールの代筆のやりとりを大声でしている人たちの会話を聞くともなく聞いていたり、デパ地下でバウムクーヘンの店に並ぶ二十人ほどの行列を見たりもした。携帯電話があって外で待つことが極端に減っているので、何かものすごく懐かしいことをしているような気分だった。

きょうの一首。講座で「出」の題の作例として見せた一首。

 浴室を出てゆくやうにわたくしの夜を出てゆくものがゐて春/荻原裕幸

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April 17, 2008

2008年4月17日(木)

舗装された歩道のところどころに、並木のための土を盛ったスペースがあって、この季節、並木の根のまわりに、人が植えたり撒いたりしたのではない草花が色々と顔を出している。外出時の通り道に何箇所か、きれいな雛罌粟が咲いているなと思っていたら、誰かが花だけを毟りとって無惨な感じになっていた。先日、公園や歩道の花が大量に荒らされる事件が続いたりもしていたが、人間のなかの何がそういうことをさせるのだろうか。

 ちづるにはカーブの多しひらがなで夜景の窓に大きく書いて/藤田千鶴

第一歌集『貿易風』(二〇〇七年)に収録された一首。「ちづる」はたしかにカーブの多い名前だが、他と比べてとりわけ多いとまでは思わない。そのことがむしろ、この描写に統覚が作用していないのを感じさせて、自分の半生や名前をつけた人のことをまっすぐに思う情景がリアルに浮かびあがる。歌集内の配置から読むと、父と自分をめぐる時間を思い返している場面のようだ。藤田さんの歌には、悲喜のいずれにせよ、事象のすべてを「一会」として捉えてゆこうとする感触があって、涙腺を刺激されるものが多い。以下、佳いと思ったものをあげておく。

 キッチンの抽斗のように滑らかに納まりてゆく孝子の棺/藤田千鶴
 お互いの時間の先にお互いがもういないのを知っている雲
 新春のかるたあそびに妹のわきに積まれてゆく花のうた
 舌赤く染めて硝子を食べているわたしが夏に産みしいきもの
 「平行」を子に言うときに例に出す線路はつくづく寂しい道だ

きょうの一首。少し整理をすると色々なものが出て来る。

 狭いなりに深さがあつて書斎から身におぼえなき半券がでる/荻原裕幸

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April 16, 2008

2008年4月16日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の二回目。受講者は一人増えていて八人だった。きょうの題は「朧」と「四月」。はじめての人と十年レベルの人とがいるので、作者毎に批評のぶれが出ないよう調整しながら話す。自分が何を話しているのかを自分で聴きながら話すと声にもたついた感じが出るが、きょうは気にせずにそれを続けた。講義のあとで受講者数人と喫茶店に行く。

きょうの題に即して二句。作例として見せたものではない。型がもう少しきちんと身につくと、型の応用でも型の枠内で終らないのだろうが、まだ単に型を求めているだけの状態のようだ。

 終バスの発ちて朧の名古屋かな/荻原裕幸
 爪切と椅子たづさへてゆく四月

きょうの一首。うれしそうに手を振っている一人を見かけると、無意識的にもう一人の方を探してしまう。省略された背景を求めるような、短歌や俳句を読むときの感覚にどこか似ている気がする。すぐに見つかったり、永遠に見つからなかったり。

 二人ゐて手を振つてゐるはずなのに一人がどこにも見えぬ街角/荻原裕幸

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April 15, 2008

2008年4月15日(火)

未明、某新聞配達の青年が、大きな声で歌をうたいながら配達に来る。ときどき耳にするのだが、誰かが襲撃に来たのかと思うような声だ。隣家がとっている新聞の配達人なので、苦情を出すとそちらに迷惑がかかりそうな気がして静観している。朝から家人が外出。留守番。と言うか、早朝まで起きていたので、午前中は睡眠。

 朝刊のトップの記事を予想する時にかすかに国民である/足立尚彦

刊行されたばかりの第三歌集『ねばならず』(喜怒哀楽書房)の一首。この「かすかに国民である」ということばの妙なひびきに惹かれた。この「国民」は、戸籍で自分の存在が確認できる、法的な権利と義務のしくみのなかにいる、等々よりも、国の住人が共有する特徴としての「国民性」の「国民」に近いようだ。「国民」らしくありたいわけでもなさそうなのに、そうでないことにどこかしら引目もある感じ。国から精神的に独立あるいは孤立しているはずの自分だったが、案外そうでもないのかも知れない、と気づく瞬間の微妙な当惑が浮かんでいるように思った。

きょうの一首。戯歌。

 /hidden とコメントをするさびしさの朧ひろがるモニターの庭/荻原裕幸

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April 14, 2008

2008年4月14日(月)

午後、気候がよかったので、ウォーキングをかねて所用で家人と外出。帰路、二人の悪い癖が出て、歩いたことのない道を気分まかせに適当に歩いてゆくと、近所なのに居場所がさっぱりわからなくなる。山歩きのときみたいに、太陽と時計の長針とで方角を確認。しばらく歩くと、やっと知っている道に出た。いい運動になった、ということにしておこう。公設市場に寄る。いつもは入口付近にもならべてある野菜や果物がないのを不思議に思いながら入ると、青果店が店をたたんでいた。がらんとした空間に挨拶文が貼ってある。鶏卵店でいつもの弁当を買う。店の人がとても淋しそうにしていた。

笹公人さんの第三歌集『抒情の奇妙な冒険』(早川書房)が刊行されている。昭和四十年代あたりへの郷愁から現在まで、サブカル体験のクロニクルっぽい感じで構成された一冊。ただ、郷愁、体験、とは言っても、笹さんは一九七五年生まれで、私的体験を超えたところで書いている。ステロタイプになりやすいという、短歌の抒情の特性を逆用して、過去への、まさに「奇妙な冒険」を敢行していると言えようか。そのために生じた、年齢不詳的な、私の揺らぎ、が少し気になるところもあったが、そうした「冒険」の代価も含めて、楽しく読ませてもらった。以下、好みによくあった歌を引用しておく。

 ベーゴマのたたかう音が消えるとき隣町からゆうやみがくる/笹公人
 軒下で裸電球呑みくだすナショナルオオミミズをこのごろ見ない
 電流はゲイラカイトを貫いて子どもを光るガイコツにする
 看板の飛び出し坊やが永遠に轢かれ続ける琵琶湖のほとり
 そのかみにライダーキックでこしらえた襖の穴をぬける秋風

きょうの一首。短歌としては「葉桜」と言えば済むような気もするが、葉桜率が十割ではない感じを言うには、季語的に「花は葉に」の方が妥当だと思った。

 植村花菜のカバーもすでに懐かしくカーテンを開けば花は葉に/荻原裕幸

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April 13, 2008

2008年4月13日(日)

午後、家人が外出。留守番。

黒瀬珂瀾さんの短歌鑑賞集『街角の歌』(ふらんす堂)が刊行されている。二〇〇六年、ふらんす堂のサイトに一年間毎日連載されたコラムを編集した一冊。「街」をモチーフにした近現代の短歌から選んだ一首毎に、黒瀬さんが鑑賞文を付している。現在の地点から見える短歌の風景を、「街」という一つのアングルから切り出して提示したといった印象のアンソロジー。二十代はさすがに少ないようだが(索引をざっと見た感じでは、天野慶さん、石川美南さん、田丸まひるさんは入っていた)、三十代四十代の作品が多く収録されていて、近現代の流れを俯瞰しながら現在の短歌を考えるのに好個の読み物になっていると感じた。既読の歌集なのに読み落としていた佳い歌が選ばれていて、通し読みをしながら楽しい刺激をうけているところである。

きょうの一首。時間があったらしてみたいことの一つに、街角をテリトリーとしている猫の追跡というのがある。実際に追跡してみたら、案外つまらないのかも知れないが、なぜか猫を見るたびに、過度の期待がはたらいてしまうのである。

 街角とどこかはるかなひだまりのつながるみちを猫に訊ねる/荻原裕幸

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April 12, 2008

2008年4月12日(土)

午後、義母と義姉が遊びに来る。義姉が北海道の物産展で買って来てくれた「ねじり大福」をみんなで食べる。その名のままに大福がねじられてスティック状になっていた。美味。なぜねじってあるのかよくわからないが、餅の比率がふつうの大福よりも少し多かったので、切ったり噛んだりしやすくするためか。

 綾波レイの髪より青きものありて西1駐車場の青空/生沼義朗

第一歌集『水は襤褸に』(二〇〇二年)に収録された一首。綾波レイ、なので、背景には蝉の声、青空は夏空、たとえば梅雨明けの空を見たときの、何か新しい時間がひらかれてゆく印象だと思えばいいだろうか。青空の青さからアニメの登場人物の髪の青さを思い浮かべて比較している様子はオタク的だが、仮想世界への没入感がなくてどこか冷めている。仮想世界が現実を侵蝕する感覚と、「西1駐車場」のある現実が仮想世界を消し去ってゆく感覚とが、ほぼ同じ力で生じているようだ。現在的な日常感覚の一種なのだと思う。余談だが、この歌をググると、作者のサイトと黒瀬珂瀾さんの日記と自分自身の旧日記との三件がヒットして、ちょっと笑った。

きょうの一首。

 みづいろのウィッグで春をゆく人がゐて健やかな暗がりを曳く/荻原裕幸

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April 11, 2008

2008年4月11日(金)

夕刻、机上だとなかなかまとまらない件を喫茶店にこもって進める。時々行く店なのだが、きょうはママさんがやけに毒舌で、時折常連のお客さんと、某国や某国や某政党や某政党を店中にひびきわたるような大きな声で批判するのでひやひやした。

俳句誌「里」4月号に、仲寒蝉さんと島田牙城さんの対談が掲載されている。内容は同誌2月号の作品批評。二人の俳句に対する読解や鑑賞が、文章とはやや趣を異にする生な感じで出ていておもしろく読んだ。そのなかで、少し不思議に感じたところがあった。以下の一句をめぐるあたり。

 俳諧の果ての鍋焼饂飩かな/媚庵

二人とも「俳諧の果て」を、俳諧に身をかけた末とか俳諧を突きつめるとか、一度誠実な文脈のなかに置いて、俳諧と鍋焼饂飩のとりあわせとして読んだようだった。このとりあわせという理解には、俳人ならではの感応力が見える。ただ、それ以前の問題として、この句は「徘徊」と「俳諧」とが掛けてあるのではないのだろうか。「徘徊の果ての鍋焼饂飩かな」であるならば、寒さのなかをうろうろした後か、飲み歩いた締めか、ということになろう。そんな徘徊的日常と俳諧的営為とを二重にイメージさせるところに、この「俳諧の果て」というフレーズが有する俳諧的味わいが見えるような気がしたのだが、それでは歌人的読解にすぎるのだろうか。

きょうの一首。「とりあわせ」ということを考えながら。

 稲荷寿司のややしほからいあぢつけの母がゐて春夕焼のなか/荻原裕幸

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April 10, 2008

2008年4月10日(木)

曇ったり雨が降ったり。夕刻、もう降らないだろうと踏んで出かけたら降られた。折りたたみ傘をひらくのが面倒で、と言うか、何か悔しかったので、しばらく濡れながら行く。これで風邪をひくとさらに悔しいと思って、小走りで行く。

 カーテンを引くたび死者に近くなる/なかはられいこ

第一句集『散華詩集』(一九九三年)に収録された一句。死が必ずいつかやって来るのなら、何をしたって死に近くはなってゆく。ただ、一日が暮れてカーテンを引くような、くぎりをつける行為は、時折そのことを強く意識させる。日が暮れても帰りたくない、夜が更けても眠りたくない、等々、自分には、くぎりをつけるのを拒みたいきもちがつねにあるが、それはもしかするとどこかで死をかたちとして意識するのが嫌だからかも知れない。雪山で遭難したみたいに、眠ったら負けだ、とか思うのである。「死に近くなる」のは嫌だ感じるほど実感ができないが、「死者に近くなる」のは、たとえそれが生きている証だとしても、実感的で嫌なのだ。あるいはこの川柳作家も同じようなことを感じている人なのかなと思った句だった。

きょうの一首。人の感情は不思議だ、と思いながら。

 大阪で生れたことを悔いてゐるやうに切なく悔いてゐるひと/荻原裕幸

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April 09, 2008

2008年4月9日(水)

午後、八事の中京大学へ。道すがら、いかにも入園式帰りといった雰囲気の母娘を見かけた。そういう時期なんだなと思う。大学のキャンパスも、新学期のこの時期ならではのにぎわいぶりだった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」の講義。きょうから春期の開講である。今期の受講者は七人。きょうはまず俳句の概論。次回からは実作の添削的批評が中心になる。

森内俊之名人と羽生善治二冠との第66期名人戦七番勝負の第一局。一日目は非常にゆっくりした展開で矢倉模様となったが、二日目のきょう、羽生の、結果的にはやや強引とも思われる飛角交換から一気に戦線が拡大して、比較的早い時刻に決着することになった。間違いのない手を最後まで指し続けた森内が先勝。テレビ中継を見ていると、放送事故かと思うほど対局風景は静かだった。先日、アニメ「しおんの王」の対局シーンを見ながら、間がもたないとは言ってもにぎやかすぎやしないか、とか思うところがあって、現実の対局風景の静謐さに妙な納得をしていた。

きょうの一首。今年の百首目。

 媚としてうごくうつくしさを欠いてしづかに若き日の母の眉/荻原裕幸

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April 08, 2008

2008年4月8日(火)

スーパーの出入口付近に愛犬をつないで買い物をしている人が時々いる。その犬が飼主をじっと待っている姿を見るのも楽しいのだが、通りすがりにその犬を見た人の思わず緩んだ表情を見るのはもっと楽しい。不機嫌そうな表情をした人でも、たいてい犬の姿を見つけると顔つきが緩むし、多くの人は犬に無言で笑いかけている。なかには話しかける人もいる。世には犬嫌いという人もいるはずなのに、さほど比率は多くないのだろうか。きょうも喫煙スペースから見ていたところ、その間に出入りした人が九人、そのうちの八人が犬に気づいて笑いかけていた。ここは平和だなと思う。

岡井隆さんの詩集『限られた時のための四十四の機会詩 他』(思潮社)が刊行されている。詩誌に掲載された四篇と書きおろしの四十四篇。書きおろしの詩には日付が入っている。歌集『二〇〇六年 水無月のころ』(二〇〇六年)と同じように、私事をめぐりながら、やや目の粗いフィルタで漉すように、詩がかたちにされてゆく。遡れば、斎藤茂吉論集『茂吉の歌私記』(一九七三年)のあたりまでつながってゆくスタイルだろうと思う。以下の引用は「他」の方の四篇の「胃底部の白雲について」の一節。言語論のフィルタで岡井家の日常を漉したような印象である。

 母語つていふがその肉襞の奥には
 いくつもの私有言語をかくしてゐて
 たとへば夫婦語もその一つ それが
 今朝は胃底部のしろたへの雲をあげつらつてゐたのだが/岡井隆

きょうの一首。散歩の印象。

 啼きごゑに惹かれて径を決めてゐる行先のない午後だと気づく/荻原裕幸

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April 07, 2008

2008年4月7日(月)

雨。桜を散らす雨になりそうだなと思いながら外を少し歩く。郵便受に投げこまれていたポケットティッシュに「運命の出会いを望んでいる女性。83%」というキャッチフレーズがあった。出会い系サイトの広告である。たぶん、運命の、は、運命だと感じさせるような、の意味も含むのだろうが、それにしても、運命だったら望むも望まないもないんじゃないかと思う。

東郷雄二さんから連絡があって、昨年五月でいったん終了した短歌のコラムをふたたびはじめるという。コラムのタイトルは「今週の短歌」から「橄欖追放」に変更。毎週ではなく、毎月第1月曜と第3月曜、月二回の連載になるらしい。現在すでに「再開の弁」と佐藤弓生さんをとりあげた第1回が掲載されている。以前このブログに書いた紹介文をそのまま引用しておく。「東郷さんのように、まったく違うジャンルの最前線にいる人が短歌を好む、というケースは聞かないこともないのだが、ここまで本格的な短歌論というのは例がない。そもそも歌人にだって、これほどきちんと現在を語っている人が何人いるだろう。必読サイトとして広く奨めておきたい。」

きょうの一首。結句のあたりが夢落ち的かなとも思ったのだが、短歌の場合、夢落ちと夢の残像の表現は紙一重であって、これはこれでよしとすることにした。

 この雨に溶けてくるわと言ひのこし帰らぬやうな雰囲気がある/荻原裕幸

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April 06, 2008

2008年4月6日(日)

5日午後、前登志夫さんが亡くなったという。享年八十二歳。非都市よりも都市、抽象よりも具体が好まれがちな現代短歌の趨勢のなかで、どこかしら読者が限られていたように思うが、第一歌集『子午線の繭』(一九六四年)など、現在の感覚で読んで表現強度にまったく劣化のない作品を多く残している。昨年、萩岡良博さんの前登志夫論集『われはいかなる河か・前登志夫の歌の基層』を読んだ折、同歌集を再読しての抜書をつくったので、そこから好きな作品を引用しておく。

 向う岸に菜を洗ひゐし人去りて妊婦と気づく百年の後/前登志夫
 陽炎のなかから来たる少年の黄のクレパスはわれを塗り消す
 霧の橋わたりくるとき粧ひしか永遠といふ冬の睫毛を
 敵意あるごとくきこゆるピアノあり夕映の高き岩のなかから
 暗道(くらみち)のわれの歩みにまつはれる螢ありわれはいかなる河か
 アンテナの林ある丘きらめきていかなる神を祠らむとする
 岩の上に時計を忘れ来し日より暗緑のその森を怖る

あるテレビアニメの冒頭に「最近インターネット上でのテレビ番組の不正利用が多発しています/番組の権利者の許可なくインターネットなどを通して配信したりすることは法律で禁じられておりますのでご注意ください」とテロップが流れていた。地上波ではじめて見たのだが、他にも例があるのだろうか。このアニメ、放映後にネットで無料配信し、その後に有料配信もする、という企画が発表されていたので、その対策のつもりなのか。あるいは、番宣的な話題づくりの新しい手法なのだろうか。実利を得る以上にコアな人たちの反感を買いそうな気がする。

きょうの一首。俳句的観察をしていて「よく動く」の一語が出て来たのだが、それが気づいてみたら短歌になっていた、といういつものパターンでできた一首。

 春深みつつあるなかによく動くあなたの喉をしばし見てゐる/荻原裕幸

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April 05, 2008

2008年4月5日(土)

午後、家人が外出。留守番。一人になったので、気まぐれに、音楽を流しながら仕事をしてみようとしたのだが、すぐに集中できなくなって音楽を切る。工事などで少々の騒音があっても集中力は落ちないのに、音楽はどうもあわないらしい。音楽と他の雑音がまざっていればむしろ大丈夫なのだが。家人は逆に、騒音や雑音はまったくだめなのに、音楽かテレビが流してあると集中しやすいという。

そう言えば、音のことで思い出した。先日、家人が玄関で靴を履こうとすると、異物が入っていたようで、怪訝そうな顔をして、靴を逆さにしていた。小石かと思っていたら、出て来たのは、どこからどうまぎれこんだのか、耳栓、だった。家人のものではあったのだが、睡眠時しか使うことがないので、まぎれこんだ理由がまるでわからない。靴から耳栓。荻原家の空間は、住人たちにも謎である。

きょうの一首。いまいちばん耳になじんでいる音はこれかも知れない。

 ミスも騙りも律儀にひびく電子音を消化してゐる春のたけなは/荻原裕幸

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April 04, 2008

2008年4月4日(金)

清明。午後、栄へ。地下街の店舗がところどころ夏の色調になっていた。朝からの眠気が残ったままだったので、珈琲を飲んでからスカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は17人。新規の人が1人入った。今回の題は「入」。時節柄、入学や入社が多くなるかなと思っていたら、入院の歌が三首あった。明よりも暗に近いモチーフの方が結晶しやすいということだろうか。

地下街で珈琲を飲んでいるとき、店内に徳永英明のカバー曲がずっと流れていた。音楽的な是非とは別の話だが、この人のカバーは、懐かしい曲ばかりなのに、なぜか懐かしいという感覚がほとんど刺激されない。シンガーの性別を転じているのも大きな要因だと思う。むろんそればかりではなく、アレンジの過程で、少なくともぼくの感じる懐かしさを刺激するファクターが落ちるのだろう。初期のオリジナル曲と違った抑制のきいた歌いぶりも影響しているのかも知れない。

きょうの一首。講座で「入」の題の作例として見せた一首。追記、初掲案の「もはや思ひ出せない」の「もはや」が気になりはじめて、少し改変した。

 夕焼にどのあたりからどうやつて入るのか思ひ出せない窓辺/荻原裕幸

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April 03, 2008

2008年4月3日(木)

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は13人。服部文子さんが初参加。今月もまたにぎやかな会となった。今回の題は「村」。閉塞した共同体と捉えるかある種のユートピアと捉えるかその他か、アクセスの経路はいろいろあるのに到達しづらい、実に書きづらい題だった。自分で出題したのだが、自分でも苦しんだ。メンバーからもやんわりと苦情があって苦笑した。

地下鉄の向かいの席に坐った管理職風な男性が、A4サイズの資料のようなものを読んではときどきメモを書きこんでいた。メモを書きこむ直前ににやりとした表情を浮かべるので、人にあんな表情をさせるものは何だろうとぼんやり考えていた。途中で読んでいた面をこちらに向けたので、それが手書きで拵えた数独だとわかった。初期配置の数字が赤で書きこまれていて22個。ハイレベルだなあ、とか思いながら、無表情を装ってしばらく男性の表情を眺めていた。

きょうの一首。「村」の題詠として歌会に提出した一首。

 村なのだと反論をするひとの目にやどるみどりの午後を眺める/荻原裕幸

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April 02, 2008

2008年4月2日(水)

花曇。曇天とは言っても、太陽のかたちが薄雲の奥に透けて見える曖昧な空模様。午後、家人とウォーキングに出る。山崎川の周辺は花見客であふれていた。桜はぴったり満開という感じで、まだ散りはじめてはいない。女子学生のグループとか子連れの母親の集団とか、きょうは川縁で弁当を食べている人がかなり多かった。焼芋、たこ焼、たい焼の露店が並んでいた。

パソコン上のデジタルカレンダーやデジタル時計の文字盤のデザインで、黒地に白抜きされた数字の中央に、邪魔な横線の入ったものをときどき見かける。現在のマックOSXに標準で装備された日めくりもこのデザインだった。はじめて見たときは、横線の意味がしばらくわからなくて、バグなのかとも思ったが、どうやらLEDや液晶ではない、数字板が回転するタイプ(それも半分ずつ折れて回転するタイプ)のデジタル表示を模してあるらしい。懐かしい。

きょうの一首。背景は少し違うところにあるのだが、視覚的には、昨年まで実家で実際に使われていた600形の黒電話を思い浮かべながらまとめた。

 もはや手の届かないひかりの奥にいつまでも鳴りつづける電話/荻原裕幸

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April 01, 2008

2008年4月1日(火)

万愚節。四月となる。午後、新瑞橋で所用をかたづけてから、堀田の瑞穂生涯学習センターまで歩く。きのうよりも冷えこむと聞いていたが、ひざしのなかを歩いていると、それなりに春の陽気が感じられた。東西句会の四月例会。参加者は四人。各自五句を持ち寄る。句会の後、コメダ珈琲店でお茶をしながら俳句の話を続ける。帰りに実家に寄って父母と話をする。

句会に提出した五句は以下の通り。「誤植」は、初案では初句を「とんでもない」としていたのだが、会場まで歩きながら推敲して、花曇の印象とあわないし、一般と自分の誤植観の差を考えて変えた。合評で、そもそも「誤植」に「些細」なものはないのではないかと指摘されて、しまった、と思う。

 春日和なんでも壜につめる母/荻原裕幸
 さへづりや父の名義の二百坪
 些細なる誤植見つかる花曇
 しばらくは桜の底に集ひけり
 ぶらんこの大きく揺れて無人なり

きょうの一首。俳句のかたちではどうもすっきりまとまらなかったので、やむをえず短歌のかたちにパラフレーズしてみた。元のモチーフとは少しずれてしまった。

 とんでもない誤植があつてあたまからちからが抜けてゆく花曇/荻原裕幸

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