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May 31, 2008

2008年5月31日(土)

午後、雨のなかを家人と外出する。このところ何かと盥に縁があるらしく、ぼんやりあたりを眺めながら歩いていると、道沿いの、屋外の駐車スペースの真ん中に、金属の盥が置かれているのが見えた。雨水がたまっている。それを見た家人が、急に傘を外して空を見上げた。何してるの? と訊くと、一応確かめておこうと思って、と言う。雨が降っていて、盥が置いてあったので、雨漏りを連想したらしい。真剣な顔で言うのがおかしかったので、笑いながら、ぼくも一応確かめてみた。

本棚の整理をしていたら、日本の古典の現代語訳が出て来た。古典の翻訳は、どうもその存在自体に納得できないところがあって、一度通読したきりだったのだが、ひさしぶりに読んでみると、たとえば中村真一郎訳の「堤中納言物語」とか、意外に楽しめると感じた。ただ、商売柄(と言うのかな)、短歌の部分が翻訳されていなかったり添えられた意訳がやけに平凡だったりするのが気にかかってしょうがない。昭和三十年代のものだし、しかたないと言えばしかたないのだが、どうせ翻訳ならそこもきちんと翻訳してしまえばいいのにと思った。

きょうの一首。

 実りあること何もなくゆふぐれて鳩サブレーの鳩が啼きだす/荻原裕幸

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May 30, 2008

2008年5月30日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「笑」。腹を抱えて笑うというときの、ふつうの笑いはほとんど見られず、作り笑いが頻出した。作り笑いは、他者との接触面がはっきりとあらわれるので、モチーフを引き出しやすいということだろうか。

 わが姪はクレヨンで家を描きそれから炎上させたり/高瀬一誌

第三歌集『スミレ幼稚園』(一九九六年)に収録された一首。まだ幼い姪が、お絵かきをしていて、ほんとに火事の様子を描いたのか、夕焼でも描こうとしたのか、家のまわりがクレヨンの赤で塗りつぶされてゆく。このモチーフ自体はどこかで見たことがあるような気もするが、大胆な字足らずの文体が、高瀬一誌独特の世界の感触を生み出している。字足らずは、短歌から、抒情や諧謔という感情の出入口を奪うことが多い。「炎上」の一語が巧く機能していて、短歌的にまとめてしまうこともたやすいと思われるのに、あえてそれを避けている。「わが姪はクレヨンでまず家を描きそれから家を炎上させる」ならば、類型的とは言っても、憂いや笑いに感情を逃がすことができるのだが、ここには、生な感じで広がる姪の意識だけがある。ニル・アドミラリとでも言いたくなるような文体だ。

きょうの一首。講座で「笑」の題の作例として見せた一首。日本テレビ系「笑点」を題材にしてみた。おいおいこのほとけさん死んでるくせに息してるよ。てやんでぇ歌丸師匠が昼寝してるだけじゃねぇか。という類の定番のネタを想定しながら。

 大喜利にて歌丸師匠がいくたびも殺されて笑ひつくして翳る/荻原裕幸

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May 29, 2008

2008年5月29日(木)

午後、ものすごくひさしぶりに自転車に乗って外出する。タイヤの空気がすっかり抜けていたので、まずは近隣の自転車屋で空気を補充して、ペダルを勢いよく踏みはじめると、いつもの道なのに風景が一変した。歩いているとき見えるものや車窓から見えるものが見えなくなる。坂がとても多い場所で、途中で漕げなくなるかなと思ったが、減速するだけで漕ぎきれた。自転車だから見える風景を楽しみながら所用を済ませる。

本日の朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載されている。今回とりあげたのは、鏡たねさんの詩集『薄暮の道』(書肆山田)と加藤治郎さんの第七歌集『雨の日の回顧展』(短歌研究社)である。鏡さんの詩集に含まれる「押韻定型詩」については、以前やや否定的だったのが、この本を読んで少し印象に変化があった。加藤さんの歌集については、前々歌集や前歌集のどこかに感じられた迷いのようなものが払拭されて、全力で構築した世界が見られたのがとてもうれしかった。機会があればさらに解剖的に読んでみたいと思う。

きょうの一首。家人の誕生日に。

 人の内部はただの暗がりでもなくてあなたの底の万緑をゆく/荻原裕幸

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May 28, 2008

2008年5月28日(水)

午後、中京大学へ。諏訪哲史さんの公開講座があったようで、事務室から勢いよく駆け出してゆく諏訪さんの姿を見かけた。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期七回目。きょうの題は「木下闇」と「夏空」。いつものように添削的批評を進める。講座後、喫茶店で、きょうの題に即して二句。

 木下闇どんと盥が置いてある/荻原裕幸
 夏空しづか百葉箱の南京錠

昨深夜、まるで村上春樹のねじまき鳥の記述そのままのような、まるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な、そんな音が聞こえた。鳥の声にしてはあまりにも規則的かつ機械的で、しかもいつまでもしつこく繰り返されるので、気になって外に出てあたりを見回してみると、マンションの別棟の二階のベランダに出しっ放しの洗濯用ハンガーが、風に吹かれて回るたびに啼いているらしいのがわかった。正体はわかったが、真夜中なのでどうにも手の打ちようがない。ねじまき鳥の啼き声にそのまましばらく悩まされる。

きょうの一首。名古屋市の地下鉄路線図を見ながら。この地名は、平清盛に左遷された藤原師長=妙音院の蟄居先がこの近くにあったことに由来しているという。師長に由来する地名は他にもいくつかあるようだが、これは特に美しいと思う。

 妙音通とは薫りたつ駅の名であるがさしたる乗り降りはなし/荻原裕幸

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May 27, 2008

2008年5月27日(火)

きょう、家人に訊ねられたとき、実家の郵便番号の末尾の四桁がしばらく思い出せなかった。単純な記憶力はずっと前から落ちているとしても、長く使い続けていた実家の関連の数字を忘れるなんて、と思って、ふと気づいて調べてみたら、郵便番号の末尾の四桁が設定されたのは、実家を出た頃のことだった。書類に書く機会もほとんどなかったからな、と自分自身で納得しようとしたが、そもそも実家にいたときに郵便番号が何桁だったかを忘れている段階で終っている気もした。

松村由利子さんの『語りだすオブジェ』(本阿弥書店)が刊行された。二年半程前にこのブログでも紹介したことのあるウェブマガジン上の連載を、加筆増補再編集している。短歌鑑賞とエッセイとが巧みにブレンドされた印象の一冊。現代の生活空間のなかにある物に即して章を立てているので、題詠の入門書あるいは歌語の小辞典のつもりで読んでみるのも楽しいかも知れない。「短歌をよく知らない人も楽しめる」ということが、ウェブマガジンでの企画時から強く意識されていたようだが、そういう発想がともすれば陥りがちな通俗性がなく、わかりやすさと良質な楽しさに特化しているのが佳いと思う。

きょうの一首。そんなことにはなりませんように。

 新緑はご覧のスポンサーの提供であなたの窓にお送りします/荻原裕幸

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May 26, 2008

2008年5月26日(月)

家人と二人で名古屋ではないところへ出かける。新緑と寺社と鳥声と商店と歴史と人波とが広がる街を歩く。初見の街で、しばらくふわふわした感じがあったのだが、歩き回っていると、やがてこころもからだも場所になじみはじめた。地名を口にするにもむかしから知っている場所のような口調になる。ただ、それとは違う意味で、自分がいまどこにいるのか、感覚がだんだん失われて、すべてから解放されたような、不思議で快適な気分もひろがりはじめた。

夕刻、すでにかなり歩き疲れていたのに、強くひかれる感じがあって、某稲荷神社に行く。新緑の住宅街を抜けたところに、石段と朱色の鳥居がどこまでも続いているのが見えた。石段がかなりこたえたが、どうにか境内にたどりつく。野生の栗鼠が何かを食べに来ていた。家人が写真を撮ろうと近づいても逃げ出さない。お稲荷様を拝みながらぼんやり休んでいると、近くにいるのか遠くにいるのかわからない感じで、ほととぎすが啼きはじめた。輪唱しないので何羽いたのか見当もつかないが、きょきょっきょきょきょきょっ、というきれいなリズムがかなり長く続いていた。

きょうの一首。

 内部から脆くくづれてゆくやうな啼き声が来てすべて静まる/荻原裕幸

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May 25, 2008

2008年5月25日(日)

午後、家人が外出。留守番。

塚本邦雄『百句燦燦』(一九七四年)が、来月、講談社文芸文庫に入るらしい。現代俳句から六十八人の九十九句と塚本の自作一句とをあわせて百句選出、鑑賞文を付した一冊。未読の人は是非。選出にはかなり偏向があるが、この本はその偏向を楽しむもので、狭義の生活や季節感を少し離れた俳句を楽しませてくれる。どうしても偏向は嫌だと言う人は、同じく塚本邦雄『秀吟百趣』(一九七八年)に収録された近現代の五十人の五十句の選出と鑑賞をあわせて読めば、それなりにバランスがとれるのではないかと思う。

きょうの一首。先日、加藤郁乎の「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」の解釈をしてみようとしてメモをとりはじめたのだが、書けば書くほどゆきづまるため、メモの状態のままで放っておいた。きょう、そのメモを読み直していたら、解釈とはあまり関係のないことを思いついたので、短歌のかたちにまとめてみた。朝焼と朝顔や夕闇と夕顔でもまとまりそうな気はしたが、それでは語感がどうにもならないようだ。

 昼過ぎになるまでそして昼顔になるまで妻が泣いてゐたこと/荻原裕幸

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May 24, 2008

2008年5月24日(土)

夕刻、某所のテレビモニターの前を通ると、大相撲夏場所で、琴欧洲が初優勝を決めたと報じられていた。ヨーロッパ出身力士の優勝ははじめてだという。優勝を決めた一番の録画が流れると、あたりの人がみんな満足そうな表情を浮かべていた。来場所以降の星数次第では綱取りという話になると思うが、優勝の褒美にまずは四股名を再考するというのはどうだろうか。

 ゆっくりと国旗を脱いだあなたからほどよい夏の香りがします/笹井宏之

第一歌集『ひとさらい』(ブックパーク)に収録された一首。物としての国旗を着たり纏ったりする場面は、スポーツの国際試合のときにあるような気がするが、そうだと断定できるだけの材料が一首のなかにない。かと言って、国家に関する考えを象徴的に表現していると捉えるには、文体があまりにものどかだと思う。たぶんそういう詩歌のセオリーを少し逸れたところで、写したのでも造ったのでもない、感覚の波のようなものとしてことばを構築しているのだろう。笹井宏之さんの文体は、読者の恣意を、従来の短歌よりもほんの少し多く引き出す、と言ったらいいだろうか。そこが不安定であり、そこが魅力でもある。不安定の魅力とまとめてもいいかな。じっくり時間をかけて考えてみたい歌人だと思う。

きょうの一首。

 ヨーグルトとか夏の雲とか笑顔とか大事なものを落として歩く/荻原裕幸

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May 23, 2008

2008年5月23日(金)

真夏のような暑さだったので、Tシャツにハーフパンツという格好で外に出る。近所のコンビニまで歩いてゆくと、ベビーカーを押す若い母親がいて、母親も赤ん坊も暑さにやられたらしく、同じような顔で同じように口をぽかんと開けていた。間が抜けていてかわいらしかったので、思わずふふっと笑ったのだが、笑った瞬間に、自分も同じように口を開けて歩いていたのに気づいた。

午後、父母が遊びに来る。明太子とかハムとか冷麦とかその他、食べものをいろいろ貰う。要冷蔵ものもあるが、そのとりあわせ感が、飽食の時代ではない頃、田舎の親が息子に送った小包、のイメージに似ている気がした。菓子を食べたりお茶を飲んだりしながら歓談。先日書いたこどもの日の粽と柏餅の話も出た。さすがに母は詳しくおぼえていて、学校の作文にも書いてたね、読むなら持って来ようか、と言う。むかし書いた作文がいまでも捨てずに置いてあるのだ。気恥ずかしいので、とりあえず遠慮しておいた。

きょうの一首。最近になって気づいた。追記、一字訂正。

 判然とせぬどこかから街路樹に枇杷の木のある違和感が来る/荻原裕幸

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May 22, 2008

2008年5月22日(木)

昨夜、第66期名人戦七番勝負の第四局が終局。羽生善治二冠が三勝目をあげた。後手の森内俊之名人が一手損角換わりからの振り飛車を選択。中盤の力戦状態は、双方の指手の意味がほとんど理解できなかった。今月の羽生二冠は、名人戦の他、渡辺明竜王とのネット対局でマウス操作をミスって反則負けになるとか、久保利明八段との棋聖戦の挑戦者決定戦で40手近くまで過去の対局と同じ展開を辿ったとか、妙な角度からも話題になっているらしい。

 純潔の時はみじかく過ぎ去らむわれに透過光するどき汀/春日井建

初期作品集『夢の法則』(一九七四年)に収録された一首。十代の作品だそうだ。それにしてもものすごいナルシシズムだと思う。「純潔の時」は、他者の介入なしに過ぎ去ることはないわけで、自身が他者の愛情や欲望の、それも超Aクラスの対象であるという感覚なしには書けないだろう。短歌に虚構はいくらでも詰めこめるが、こういう感覚が想像力や表現力だけで構築できるとは考えにくい。また「透過光」ということばの選択にも驚く。汀で、半裸か水着で、という状況だと思われるが、陽光のなかに、被写体か絵のモデルと同じ種類の視線を浴びているのを感じたのか。中途半端なナルシシズムは鼻につくこともあるが、これほどまで超越していると快い。どれだけ短く過ぎ去ろうと、この一瞬は永遠だ、と感じられる。

きょうの一首。

 緑陰にてわたしの水のどこまでも平凡で他にない音を聴く/荻原裕幸

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May 21, 2008

2008年5月21日(水)

小満。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期六回目。きょうの題は「緑陰」と「夏雲」。講座後、喫茶店で、きょうの題に即して二句。俳句を考えれば考えるほどよくわからなくなってゆくのだが、それでも、まあ、楽しめてはいるので、もう少し考え続けてみようと思う。

 緑陰の重力他所とすこし違ふ/荻原裕幸
 夏雲や珠算の珠のよくひびく

 このなかにかぶとむしがいるのよ
 クリネックスの箱を抱いて
 あなたがそう言い張った
 あの夏/穂村弘

詩集『求愛瞳孔反射』(二〇〇二年)所収「クリネックス」の冒頭の四行。作品ではここから「うそつけ/ほんとよ/うそだね/ほんと」と、やりとりが続き、中身を確かめるためにティッシュペーパーを最後の一枚まで引き抜いてゆくのだが、冒頭のこの四行だけが「事実」で、残りの行のすべてが「選ばなかった時間」に見える。たぶんこの四行のもっているかげりが、他の行にはまったく感じられないからだろう。真に受けないまでも、確かめるためにほんとうに引き抜いていたら、今も「あの夏」が続いていたはずだという、根拠のない、追憶や後悔や愛惜をないまぜにした、悲痛な感じの声が聞こえるような気がした。未来への選択肢は無限に近くあるが、結果は一つしかない。穂村弘らしい感覚が実に巧く展開されている佳品だと思う。

きょうの一首。

 苦しかつた昭和をいつも言ふひとが苦しくなつて昭和に還る/荻原裕幸

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May 20, 2008

2008年5月20日(火)

いまどきの女子だなあと思うような身なりの女子が地下鉄にいた。座席は空いているのに、立ったままで吊革も掴まず、ゆらゆらと揺れながら、重そうなハードカバーの谷崎潤一郎『細雪』をひらいて読んでいた。ちょっと不思議な風景だった。

午後、丸の内の産業貿易館へ。ねじまき句会の例会。参加者は六人。詠草は六句。今回は題詠「払」と雑詠。合評のなかで、毎回のように、食べものや恋愛のモチーフについて過剰に話が盛りあがる。誰にも一家言があるわけで、それはそれで自然なことだし、楽しくもあるのだが、自分でも話しながら、なぜそこで表現論から大きく逸れてゆくのだろうか、なぜそれが気になるのだろうかと考えていた。表現史を参照することと日常を参照することとの比率の問題なのかも知れない。ぼくが句会に提出したのは以下の二句。

 薬屋に来て払うものを間違える/荻原裕幸
 ゆれすぎて誰も地震に気づかない

きょうの一首。少年時、草で手足を切ったり蛇に噛まれたりもした場所だが、少し離れて考えていると、とてもおだやかな場所に思われる。

 なだらかな土手のなつくさなだらかな夏を蔑みながら肯ふ/荻原裕幸

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May 19, 2008

2008年5月19日(月)

午後、家人と雨のなかを歩いて外に出たら、どしゃぶりになる。あまりの雨の激しさに思わず笑い出してしまったほどだった。近所の市場で弁当を買って帰る。五百円の弁当を二人分買ったら、ポテトサラダと土筆の卵とじがおまけについて来た。

東郷雄二さんのコラム「橄欖追放」に、西田政史と第一歌集『ストロベリー・カレンダー』(一九九三年)のことが書かれていた。かなり近いところで見ていた歌人なのだが、東郷さんの文章を読んではじめて、ああそうなのか、そう見えるのか、と気づかされたことがいくつかあった。同じ大学の学生として出会って、文芸に詩に短歌にと彼が興味を深めてゆくプロセスをつぶさに見て来たため、逆にわからなくなっていることも多いのだろう。

 珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカとキリマンジャロのほどの差ね」/西田政史

同歌集の一首。東郷さんは「この歌のポイントは虚無感がお洒落なコーヒーに譬えられて、明るくポップに表現されているという点にある」と述べて、バブル景気を背景とした表現方法に眼を向けている。そう読めるのだということに、迂闊にも気づかずにいた。「ミルク」は、いわゆるフレッシュではなく牛乳であって、注ぐ人は豆の味が云々と言うような珈琲好きではなく、従ってこの飲みものも結果として珈琲よりもカフェオレに近いもので、もはや豆の種類の判別などは不可能、にもかかわらずその味の差で何かを語ろうとする、ユーモラスで愛らしいキャラクター、という感じにしか読んでいなかった。テキストではない私的な時間や空間のなかの何かが、勝手にそう読ませていたのだと思う。歌集を再読する必要がありそうだ。

きょうの一首。

 苺熟して思ひだすこと数かぎりなくあるなかの一つに到る/荻原裕幸

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May 18, 2008

2008年5月18日(日)

暑い日。午後、義母と義姉と家人と四人で喫茶店へ。はじめに坐ったテーブルが予約席だからと言われて別のテーブルに移動する。店に一時間以上いたのに、誰一人その予約客の来る気配はなかった。

 向かうから知り人ひとり歩み来るその人である感じと共に/香川ヒサ

第二歌集『マテシス』(一九九二年)に収録された一首。人が近づいて来て、その人に知人のあの人である感じが察知されると、近づいて来た人が知人であるとわかるのだと思う。ここにはそうしたリアルな了解の順序はない。行為や事柄に順序を与えて得るような時間の奥行がない。この時間の奥行は、一般に言われるリアリティの、大半を保証してくれるはずだが、それをたぶん意図的に、大胆に欠落させている。にもかかわらず、こう書かれてみると、そう言えばそんな感じだな、と思えるのが、短歌という定型のおもしろいところでもあり、厄介なところでもあるのだろう。公式の成立しない不思議な型だ。

きょうの一首。どう考えても、他の何か、の方が作品のモチーフとして有効な気がしたのだが、あえて逆らって書いてみるのもいいかと思って書いてみた。

 他にも何かしてはゐたけど麩のうかぶ椀を見てゐた日曜の夜/荻原裕幸

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May 17, 2008

2008年5月17日(土)

昼間、机に向かっていると、何種類もの鳥の声が聞こえる。何の鳥か、わかるものがあまりにも少ないので、気まぐれに、鳥の声を集めたサイトをひらいて、聞き比べてみようとしたのだが、聞いているとすぐに、サイトの鳥の声と外の鳥の声と、どれがどれだかわからなくなって混乱してやめた。静かなときに、まず鳥の声を覚えるところからはじめた方がよさそうだ。

 窓のそとに木や空や屋根のほんたうにあることがふと恐ろしくなる/石川信雄

第一歌集『シネマ』(一九三六年)に収録された一首。「窓のそと」が、一瞬、社会的な現実に対する恐怖心を思わせるが、これは、存在そのものに対する純然たる畏怖を言っているようだ。人間的な理解の及ぶ意味や根拠とは無関係に、事物がただそこに存在する、という事態に畏怖しているらしい。実感としては掴みにくいが、ただそこに存在するもののなかには、そう思う「私」も含まれるわけで、そこに畏怖の源があるのだろう。モチーフの重さを削ぐような、「ハイカラ」でどこかのんびりとした語感に、いかにもこの時期のモダニズムの匂いがある。是非のわかれるところか。

きょうの一首。そんな人を見てそんな人になりたいと思いながら。

 深刻なことをさうでもなささうにしづかな沼の眼をして話す/荻原裕幸

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May 16, 2008

2008年5月16日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は16人。詠草は17首。題は「落」。少し早めに教室に入って、受講者がホワイトボードに自身の詠草を書く様子を見ていたところ、ノートではなく、携帯電話に詠草をメモしてある人が意外に多いことに驚いた。詳しく聞いたわけではないが、見た印象では、ノートとの併用派が多いようだ。ぼくも併用派だが、最近ではノートの使用率が少し高くなって来ている。

夕刻、家人と松坂屋美術館で男鹿和雄展を見る。東京では平日でもチケットを買うのに行列ができたと聞いていたが、そのあたりが名古屋なのか、行列はなく、すんなり入ることができた。「絵職人」とうたわれているだけあって、隅から隅まで職人的技巧が全開になった絵を、うっとりしながら、一点一点丁寧に見て行く。自然や生活のモチーフを描いたものについては、視覚の他に嗅覚を刺激される絵もあった。嗅いだことのないはずの匂いがわかるような感じ。出口が見えて、気づいたら、入場から二時間が過ぎていた。展覧会をここまでゆっくり見たのははじめてかな。

きょうの一首。講座で「落」の題の作例として見せた一首。少年期をイメージして心象的なスケッチをまとめてみた。

 どこまでも祭がゆれるポケットの夏を落とさぬやうに歩いた/荻原裕幸

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May 15, 2008

2008年5月15日(木)

少し前の話だが、年初から1クールで放映されたアニメ「狼と香辛料」のヒロインのことば遣いが、くるわことば風で、「わっちは神と呼ばれて長いことこの土地に縛られていたがよ、神なんてほど偉いもんじゃありんせん」とか「わっちはぬしと旅がしたい。ダメかや?」など、はじめに聞いたとき、ものすごく違和感があった。それが声優の力量も作用したのか、数回で慣れて、あとから支倉凍砂の原作を文字で読んでみても、もはや何の違和感もなくなっていた。この種の違和感と慣れというのは、どんなしくみのものなんだろう。

ぼくがはじめに惹かれた現代短歌は、寺山修司と春日井建で、はじめて読んだときには、新鮮な印象と違和感がないまぜになったような妙な感じだった。寺山の一部の作品、たとえば「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」などについては、どこか鼻につくとまで感じたものだが、いつの間にか、慣れた、と言うか、それがいいと思いはじめていた。前衛短歌的な破調に出会ったときも、現代の口語の表現に出会ったときも、これと似たプロセスがあったのを憶えている。変な味だなあと思っていたはずの飲みものや食べものに、いつかしらとりつかれる感覚ときわめて似ているのだが、同列にして考えてはまずいか。

きょうの一首。

 そこに在るはずなのにでも解らない何かの気配して夏が来る/荻原裕幸

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May 14, 2008

2008年5月14日(水)

午後、中京大学へ。八事まで歩いてゆくと、木も花も人もやけに明るくて、いかにも五月らしい風景がひろがっていた。途中、黒揚羽を見かけた。むかしは珍しい蝶だとばかり思っていたが、住んでいる場所によるのか、この頃はよく見かける。烏揚羽もときどき見かける。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の五回目。きょうの題は「新緑」と「虹」。いつものように添削的な批評を進める。

帰宅後、きょうの題に即して二句。俳句らしい感じが少し掴み出せればいい、というきもちで俳句を書くのは俳句に失礼な気もするのだが、非力なのに欲ばりすぎて冒涜するよりは多少ましかと思うことにしている。きょうもおとなしめな感じで。

 本買ひに出て新緑を抜けられぬ/荻原裕幸
 虹のまま夕餉のしたく進みをり

きょうの一首。以前友人から聞いた話だが、急な来客のとき、広げてあったものをあれもこれもと慌てて運びこんで戸や襖をしめてしまうような部屋を「鶴の間」と呼ぶのだそうだ。鶴が機織りをしている=何があっても決してあけてはいけない、ということらしい。そんな話を思い出しながら。

 夏めいた感じの声が鳴いてゐるわが家のどこか深いところで/荻原裕幸

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May 13, 2008

2008年5月13日(火)

結社誌「未来」5月号の短歌時評「本格的よ、本格的」を読む。筆者の黒瀬珂瀾さんが「ユリイカ」4月号の「詩のことば」の特集について言及していた。同誌にぼくが書いた文章にも触れて、黒瀬さんは、現代詩と短歌といった、ジャンルとジャンルの関係のなかでことが論じられるとき、口語の短歌やネット関連の活動など、短歌の側の対象範囲が限られがちなことに、「見えない枠」を感じるという。「短歌界で本格派として顕彰される歌集が、こういう場で語られる事はかえって珍しい」とも述べている。念のために記しておくが、ぼくが口語の短歌について書いたのは、編集部からの依頼の内容が、口語の短歌に限定されていたからである。

黒瀬珂瀾さんが言うように、ジャンルを超えた場で語られる対象が、限定的になる傾向は、解消可能だとしたら解消されてほしいとは思う。ただ、黒瀬さんが言う「本格派短歌」なるものがあるとしたら、それがどんなものなのか、少し具体的に語る必要があるのではないだろうか。そもそも、ジャンル内においても、本格派という以外の属性の薄い歌集は、書評欄や賞などで顕彰されることはあっても、それ以外の場、ことに状況論の場で、とりたてて論じられることは少ない。規則や格式をまもる、基礎的な力が高くて策を弄したり技巧に頼ったり奇を衒ったりしない、という意味での本格派は、好まれはしても、状況論の俎上にはのせにくいものだろう。

きょうの一首。なんとなく。

 なんとなく値段をつけて見る雲の六万弗のきれはしがゆく/荻原裕幸

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May 12, 2008

2008年5月12日(月)

午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。東西句会の月例句会。今回で四回目。参加者は四人。兼題の「蝙蝠」を含む五句を各自が持ち寄った。無記名で互選、合評。知らない季語が出るともうしわけないと思って、句会の前は歳時記の当季をできるだけ読み直す。俳句はどうもそこで緊張する。

句会に提出した五句は以下の通り。句そのものを名詞化することで、どこかことばが硬直していたため、全体に動詞的な発想でまとめてみた。それと、すべて女性一人称の視点を想定してまとめてみた。短歌と違って、性を転換させてもそんなにややこしいことは起きないようだ。

 姿見の奥にて桜葉となりぬ/荻原裕幸
 蕗煮るや旧き文庫のしをり紐
 新緑の窓いつまでも歯をみがく
 母の日の母のしづかな影を見る
 蝙蝠やまばたきをせぬこどもたち

きょうの一首。本歌というわけではないが、まとめるとき、木下利玄の「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」を思い浮かべていた。

 わたしにもなれぬわたしがいま何に転化しようと佇つ牡丹園/荻原裕幸

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May 11, 2008

2008年5月11日(日)

母の日。今日ではなく一昨日、実家に顔を見せに行き、話をして来た。午後、家人は義母と義姉と出かける。留守番。

留守番で思い出した。読んでいた短歌の本と俳句の本に、続けてよく似た留守番の作品が出て来た。ひとつは、石川啄木の「ある日、ふと、やまひを忘れ、/牛の啼く真似をしてみぬーー/妻子の留守に。」、もうひとつは、加藤楸邨の「蟇の声にて泣いてみぬ妻の留守」である。楸邨の句は一九八〇年代のものなので、啄木の『悲しき玩具』のこの歌を知っていて書いたのだろう。家族の留守における男性の行動というのは、こんなようなものなんだろうなあと思う。以前、家人がその音を嫌うので、留守番のときにペットボトルを潰すことをここに書いたが、その他にも、家人が留守だからという理由ですることは、多くは音か声にかかわることである。

きょうの一首。音声の内容に焦点をあてると、啄木や楸邨の世界に追随するだけの歌になってしまいそうだったので、少しアングルをずらしてみた。以前に書いたこれなどとは対照的で、行為の具体が書かれていないため、つくりあげた、という感じが強く出てしまっているかも知れない。

 妻の留守といふみどりの空間に哀しい音をたててゐる午後/荻原裕幸

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May 10, 2008

2008年5月10日(土)

雨が降って少し涼しくなる。涼しい、と言うよりも、寒いような感じだ。それでも五月としては平年並みの気候らしいが、いったん暑くなってしまうと、平年並みが体感としてわからなくなる。夕刻、雨のなかを家人と外出する。食事をして、買い物を済ませて帰る。

来嶋靖生さんの『大正歌壇史私稿』(ゆまに書房)が刊行されている。結社誌「槻の木」に掲載された文章を加筆補完編集してまとめた一冊。先日から楽しみながら読み進めている。著者は「大正短歌の通史ではなく、大正歌壇の歴史でもない」と、やや謙遜気味に語っているが、大正の短歌や歌壇の輪郭が実に巧く浮き彫りにされているように感じる。同じ時期にどの歌人が何をしていたか、また、現在では「伝統」などと呼んでひとくくりにされる方法論の個々がどんな感じで展開されたのか、そんな関心をかなり満たしてくれる本だと思う。

きょうの一首。七日のきょうの一首にも使ったが、「はつなつ」は、いわゆる塚本邦雄的語彙の一つ。以前は生涯禁じようと考えたこともあったが、最近では少し考えが違って来て、塚本的な匂いの残ったまま使いこなせないかと腐心している。

 傘させば視界がずれるはつなつのこんなところに入口がある/荻原裕幸

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May 09, 2008

2008年5月9日(金)

むかし、某所で化学の講師をしていた人から、ある洗剤の成分表を見たら、ある薬品と混ぜると有毒ガスが出て危険だとわかって、メーカーに連絡して注意書きを入れてもらった、という話を聞いた。その人は、連絡したあとで、そんなことに気づく人はほとんどいないし、むしろ注意書きを入れない方が安全なのかも知れない、と少し悩んでもいた。すでに二十年以上前の話である。このところ頻発している硫化水素関連のニュースを聞きながら、そんなことを思い出していた。

第66期名人戦七番勝負の第三局。相掛かりから力戦模様に。双方ともに好手奇手が続くが、先手の森内名人がぐいぐいと優勢を拡大して、二日目のきょう、かなり早い段階で、羽生二冠の投了は時間の問題、とまで予想されていた。それが、終盤へとさしかかるあたりで、珍しく森内に緩手が出て、状況が徐々に羽生に傾く。粘りに粘る羽生に流れが転じて、終盤、森内にさらに大きなミスが出る。百年に一度とか五十年に一度とか報じられるような大逆転で森内が投了。羽生の二勝一敗となる。

きょうの一首。先日、葉桜をしばらく眺めていたときのメモをもとに。

 淋しい木とはやや違ふ木であるが他にことばもなく淋しい木/荻原裕幸

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May 08, 2008

2008年5月8日(木)

所用が重なって、どうやっても歌会は遅刻だなと思っていたのだが、電話の用件をすべて歩きながら済ませたら、なんとか予定の時刻に完了した。携帯電話って便利だなあとしみじみ思う。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は11人。今回の題は「西」。歌会終了後、有志で居酒屋へ。やけに話がはずんで、帰宅が遅くなる。

穂村弘さんの評論集『短歌の友人』(河出書房新社)が、第19回伊藤整文学賞を評論部門で受賞した。佳い本が佳い賞に決まったと思う。慶祝。

きょうの一首。「西」の題詠として歌会に提出した一首。「関西」というのがいかにも大雑把な把握で、この歌の場合はそれ以外どうしようもないにしても、少し気にかかっていた。愛知と岐阜と三重のメンバーだけだったせいか、その点を強くは突っこまれなかった。合コンの会話を思い浮かべたという評もあった。

 関西の訛りがあるのかやはらかな草をときどき踏むやうな声/荻原裕幸

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May 07, 2008

2008年5月7日(水)

午後、中京大学へ。連休明けのせいか、キャンパスがかなりにぎやかだった。ベンチに坐っていたら、横を通り抜けようとした女子学生に大きな鞄をぶつけられる。すみません、と言うので、やせがまんして、大丈夫、と答えたのだが、鞄に何か固い機材のようなものを入れていたらしく、実はかなり痛かった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の四回目。きょうの題は「五月」と「葉桜」。

講座後、喫茶店で珈琲を飲みながら、きょうの題に即して二句。あいかわらず習作然とした句だが、書き記しておく。

 天地無用どこが天かと問ふ五月/荻原裕幸
 葉桜やはたと止むホチキスの音

きょうの一首。むかし、父母から、長電話ばかりして、とよく小言を言われた。どれくらい長いと長電話なのか、と訊いたら、用事が済んでも話しているのが長電話、と言われた。それなら大半は、かけた瞬間から長電話だ、と思ったのだが、立場がさらに不利になりそうだったので黙っておいた。そんなことを思い出したりしながら。

 話すでにすべて尽してなほ切れぬはつなつの長電話のみぎは/荻原裕幸

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May 06, 2008

2008年5月6日(火)

振替休日。祝日法の改正で、火曜の振替休日がはじめて生じた。来年は、この五月の火曜の振替休日の他に、九月としてははじめての国民の休日が生じるらしい。日付の動く祝日が多いせいか、祝日法の条文を読んでいると、国民の祝日に関する法律、と言うよりは、どこか、公共機関の休日についてのお知らせ、のように感じられる。

 子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に/菊池裕

第一歌集『アンダーグラウンド』(二〇〇四年)に収録された一首。「子をなさぬつがい」は、ディンクスのことを言っているのだろう。自虐なのか風刺なのかが判然としないが、抑制のきいた皮肉のような、こうした語調から生じる摩擦感のようなものは、都市生活者の日常にある鬱屈とした感覚を巧く浮かびあがらせていると思う。菊池さんの文体を構成する核になっているようだ。同歌集から他にも好みの歌を。

 二十九時まで残業のあかつきの始発で帰るひとのゆくえに/菊池裕
 千代田区の路上は禁煙だと云うが今しガム吐き踏む人の過ぐ
 バリのテロには関心があるらしい香水入りのメールが届く
 放送で使っちゃいけない語彙などを反芻しながらアクセルを踏む
 モザイクをかけて音声変換をしてピー音でわたしを消して

きょうの一首。観察と想像の間にはどんな違いがあるのだろうかと考えながら。

 ためらひののち情動の新緑がにはかに枯れたやうなしぐさで/荻原裕幸

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May 05, 2008

2008年5月5日(月)

こどもの日。端午の節句。立夏。雨。行動エリアの問題なのか、飾る家が減っているのか、今年は、屋根より低くて小さな鯉幟をいくつか見かけたが、屋根より高い本格的な鯉幟はついに一度も見なかった。粽を買って来るつもりだったが、伊勢神宮のおみやげだという赤福を一箱もらったので、粽が赤福になる。菖蒲湯に入る。

先に、十代までのGWの記憶があまりはっきりしない、と書いたあと、ちょっと思い出してみたのだが、やはり些細なことしか浮かばない。少年時、粽が好きで柏餅があまり好きではなかったので、粽が売り切れる前に買いに行ってね、と母に執拗に頼んだのに、粽は売り切れだったよ、と柏餅を見せられて母と喧嘩した、とか。あと、飾る庭はなかったのだが、鯉幟だけはあって、一度見せてほしいと頼んで家のなかに広げてもらって、鯉の口からなかにもぐりこんで遊んだ、とか。そんなところ。

きょうの一首。中日ドラゴンズが、一昨日あまりにもひどい試合だったので、その印象から書きはじめたのが災いしたのか、今日もひどいことになっていた。

 口論のつづくゆふべをあざやかに敗ける野球がテレビに映る/荻原裕幸

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May 04, 2008

2008年5月4日(日)

みどりの日。暑い日だった。毎日新聞の題字は、みどりの日だけは緑色で印刷されるという。直に見てみようと思いながら、今年も忘れていた。午後、義姉と家人と三人で星ヶ丘三越へ。ふつうの休日といった感じのにぎわい。パスタを食べてお茶をして買い物をする。行き帰りに眺めた東山公園周辺の新緑がきれいだった。

 にがきにがき朝の煙草を喫うときにこころ掠める鴎の翼/寺山修司

第二歌集『血と麦』(一九六二年)に収録された一首。「鴎の翼」が発する海の匂いは、水夫への憧憬のような、どこか通俗的な感触をもっているのだが、この人の手にかかると、それが何か「かっこいい」ものに見えて来るから不思議だと思う。初句はやや情感的だが、以後がシナリオ内の演出メモみたいに乾いた文体で、その効果ということだろうか。気怠さだけがあってどこにも抜け出せないこの感じ、そこから先の見えて来ない不透明感には、懐かしさをおぼえるが、現在の感覚にそのまま通じるところもあるようだ。

きょうの一首。一日フライングをして夏の歌。

 ハムエッグも朝のあなたも夏雲も同じかたちを二度は見せない/荻原裕幸

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May 03, 2008

2008年5月3日(土)

憲法記念日。朝日新聞が憲法をめぐる世論調査の結果を載せていた。他と違ってこの調査は、新聞社毎の誤差がかなり大きい印象があるので、一社の数字だけでは何とも言えないのだが、朝日の内訳を見ると、改憲は必要だが第九条改正には反対と答えた人が30%もいることになる。少なくとも十人に三人が、第九条以外のどこかを変える必要があると考えているわけだ。あるいは現内閣への不満が強く反映されたのかも知れないが、この数字には少し驚いた。

机まわりに積みあげた本や雑誌の山が崩れる寸前だったので、どの範囲まで整理しようかと思案しながら見まわしていたとき、うっかり椅子の背を山のすみにぶつけてしまう。うわぁと叫んだが、叫んでもどうにもならず、山は大音響とともに崩壊したのだった。おかげで、思案するまでもなく、整理する範囲が確定した。

きょうの一首。本当にそうならこんな一首を書かないのではないか、と、モチーフになる感覚と記述の時差について考えたりもしながら。

 わたくしの心音以外のなにものも聴くちからなき休日にゐる/荻原裕幸

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May 02, 2008

2008年5月2日(金)

本を読んでいたら、蜃気楼のことが出て来て、少年期にその種の異空間に惹かれていたのを思い出す。何かきっかけがあれば自分がそこに行けるのではないかとも感じていた。楼閣をつくる「蜃」が巨大な蛤だと知って、その野暮ったい印象にちょっと冷めたのだが、最近ではむしろ、異空間そのものよりも、蛤を幻獣化するむかしの人の感覚に惹かれているところがある。

 恋人よ草の沖には草の鮫/小林恭二

初期句集『春歌』(一九九一年)に収録された一句。句集のあとがきによれば、二十歳から二十三歳の間の作品だという。能村登四郎の句に「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」があるが、小林の句では、陸に見出される「沖」が、恋愛にからんで、ことのほかみずみずしい空間として蘇生している。「草の鮫」は、性愛にまつわる何かと解釈することもできそうだが、恋を掌中にしながらなお生じる不安や疑心暗鬼のようなものだととっておきたい。「草の沖」を駈けてゆく恋人のかたわらに、幻獣の影が見えてしまうのではないだろうか。

きょうの一首。幻獣をモチーフに書きはじめたのだが、いろいろ考えている間に幻獣がどこにもいなくなって、平凡で平穏な時間だけが残ったような感じ。

 ベンチごとわたしを撫でてゐるやうな欅のかげをしばらく纏ふ/荻原裕幸

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May 01, 2008

2008年5月1日(木)

五月となる。天気は崩れたが、きょうも暑かった。北海道のどこかの町では真夏日になったという。歳時記にメーデーの項が見つからない、と思ったら、「夏」を見ていた。暦はまだ春だったか。午後、家人が外出。留守番。ためてあったテレビの録画を少し消化する。

 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる/塚本邦雄

第二歌集『装飾楽句』(一九五六年)に収録された一首。結句の「へだたる」をどう読むべきか。迷う。メーデーに参加する労働者たちと、意図的に一線を画そうというのか、それとも、メーデーに参加できない自分の孤独を嘆いているのか。塚本邦雄の印象から言えば、どこかに「紅旗征戎は吾が事に非ず」的な、社会を斜めから見てそれ以上には踏みこまないところがあるので、前者だと考えるのが妥当なのかも知れない。ただ、第一歌集『水葬物語』(一九五一年)に見られたモダニズム風な社会風刺の世界から、第三歌集『日本人霊歌』(一九五八年)の、リアリズムの要素を含んだ社会詠的な世界への途上にあって、この一首には、社会と自分との距離をはっきりとさせられない迷いのようなものが見える。たぶん、迷っていたのだろう。

きょうの一首。塚本邦雄のことを思いながら。

 夢を出て来たはずなのにまだ夢のみどりのなかにゐて五月来る/荻原裕幸

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