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June 30, 2008

2008年6月30日(月)

一泊。月曜の朝、出勤する人の流れと逆の方向に歩くのは、何かとても悪いことをしているような気分になるな、と思いながら東京の朝を歩いた。珈琲を飲んで、急いで所用を済ませて、新幹線に飛び乗る。

帰名後、「夜はぷちぷちケータイ短歌」のウェブで、公開された録音を聴く。次回の放送時までは公開されているらしい。以下、雑感。だいたひかるさんは、作者の性別や年齢に拘束されず、テキストから共感できる部分を拾い出すのがとても巧い人だなと感心した。番組の流れとしては笑いのネタになるような感じ(たとえば、何でも会社の上司と部下の関係にひきよせる)で自分の読みを語っていたが、読みでツッコミを入れるならばともかく、読みで意図的にボケるのは歌人にも難しい技だと思う。青井実アナウンサーは、NHKの定番の領域を少し超えたところまで番組の流れを運んでゆけるユニークな人で、自身の短歌を番組に投稿する荒技まで披露した。そうとは知らずに彼の作品を選んで、コメントまでしたわけだが、作意と読みとのずれがどのように生じるかを考える良い例になっていたのではないかと思う。ゲストの富田麻帆さんは、さすがに俳優さんらしい感じで、台本の意図を読み取るように作品を読んでいるような印象を受けた。短歌は中学以来だというので、え? と思ったら、教科書で、ということらしい。余談。放送前、富田さんに「晴れのちハレ!」は佳い歌でしたねと伝えて、アニメの「かみちゅ!」の話を少ししていたところ、ものすごく不思議そうに、でもどうして「かみちゅ!」を見ていたんですか? と訊かれた。四十代の男性がアニメを見るのが不思議だったのか、それとも歌人がアニメを見るのが不思議だったのか。

投稿作品について。ケータイ短歌、の名前の通り、携帯電話で誰かに伝えてみたい日常のちょっとした出来事や気分を、電話やメールや写真ではなく、短歌のスタイルにまとめている、といった印象がほぼ全体に共通してあった。だから、方法や文体ではなく内容そのもので勝負という展開になるのだろう。これが悪い方に転ぶと、笑いや感動を意図して誘おうとするネタ的な作品にもなりかねないが、他の場でも広がりを見せる現代の若い世代の口語の短歌の趨勢と大きな隔たりがあるとは感じられず、この番組を拠点に活動をする、という感覚で投稿する人が、今後も状況によってはさらに増えるのではないかと感じた。いずれにせよ、以前に、ケータイ短歌、の名前で認識されていた世界と、何かが微妙に違って来ている気がする。現代短歌の一部とどこかでなめらかにつながりはじめているのかも知れない。理由はいまのところよくわからないが、注目していたいと思う。それと、出演した自身について。反省をはじめたらきりがないので、ともかく楽しませていただきました、とまとめておきたい。なかなか思うようにことばが見つけられない箇所があったのは、現場では緊張のせいだと感じていたが、あらためて聴いてみると、それは言い訳で、思考の整理がついていなかったためだと思う。さすがにこれは深く反省した。

きょうの一首。東京で一人珈琲を飲むと、そのたびに寺山修司の「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」を思い出す。そしてそのたびに、学生時代のアルバイト先の喫茶店で、味をおぼえろと言われて毎日何杯も飲んだ、モカを基調としたブレンドの酸味の強い味を思い出す。

 モカ珈琲を飲む梅雨の果て適切な酸味をふくむさびしさにゐる/荻原裕幸

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June 29, 2008

2008年6月29日(日)

午頃、携帯電話が鳴る。ディスプレイを見ると父からである。お、二度目の携帯電話か(一昨日の記事参照)と思って出ようとしたら出る前に切れてしまった。こちらからかけ直すと、ただいま電話に出ることができませんとアナウンスが流れる。しかたないので、実家の固定電話にかけてみると父が出た。練習中に操作ミスでかかってしまったのだという。向上心旺盛なのだと思うことにした。

上京。渋谷のNHK放送センターへ。ラジオ第1の「夜はぷちぷちケータイ短歌」に出演する。司会は、だいたひかるさんと青井実アナウンサー、ゲストは、富田麻帆さん。テーマ別に投稿された短歌をめぐってのトーク番組で、他の短歌の場にはない明るく健やかな空気が流れていた。一般人としては少なからず緊張したが、歌人としてはとても楽しい時間を過ごせた。内容については、録音などで聴き直してみないと何とも言えないが、コメントした作品について、リスナーと何かを共有できたり、作者の伝えたかった世界に少しでも近づくことができていたらいいなと思う。

きょうの一首。放送終了後、ホテルにチェックインして、その後、ふらふらと渋谷の坂を歩いていた。家に帰ろうとする人には、独特の匂いのようなものがあって、自分が帰らない夜には、とりわけそれがよくわかるという気がするのだが、すれ違うなかにそんな匂いのする人はほとんどいなかった。もしかしてこの人たちは、誰も家に帰らないのか? などと思いながらまとめた一首。

 帰るひとの放つ匂ひがまづやつて来てからさよならと声が来る/荻原裕幸

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June 28, 2008

2008年6月28日(土)

朝から家人が義母義姉と出かける。留守番。鳥と遊べる場所に行ったので、鳥の写真が次々にメールで送られて来た。鬼大嘴とか鷲木菟とか、それに鴫のような鳥に足をつつかれている写真とか。羨ましい。特につつかれているのが羨ましい。少しからだを動かそうと、夕刻、小雨のなかを歩いて外に出る。近所の中華料理店でスポーツ紙を読みながら食事。大家族の客が来ていてにぎやかだった。

近所の燕の巣のまわりを二羽が飛びまわっていた。雨だというのに親は餌集めで大変なんだろうなと思いながら眺めていると、その巣からさらに二羽が飛び出したので驚いた。親が四羽? とか一瞬かなり複雑な家族構成を妄想してしまった後、あ、そうか巣立ちなのかと気づいた。まわりを飛んでいた二羽も、あるいは先に巣立った兄弟だったのかも知れない。佳いものを見せてもらったが、それにしても、燕には、雨天順延とかそういう感覚はないのだろうか。

きょうの一首。

 こころにもゆめにも空にも底がある曇れば夏つばめが辷りゆく/荻原裕幸

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June 27, 2008

2008年6月27日(金)

午後、桜山の美容室へ。伸びた髪をカットしてもらう。その後、父母とともに某家電量販店へ。先日から頼まれていた携帯電話の購入と新規契約のサポート。購入後、実家で基本的なセッティングをして、初歩的な操作の説明をした。初歩的な、とは言うものの、通話の方法とマナーモードのオンオフがわかれば、それ以上特に必要はないなあとも思う。帰宅後、父からはじめての携帯電話がかかって来た。

 ポケットに在る靴べらの曲線を静かに愛す満員車中にて/高野公彦

第十歌集『渾円球』(二〇〇三年)に収録された一首。携帯用の靴べらを愛用することには、便利を求めると言うよりも、他人と自分の間にきっちり線を入れるという感覚が浮かぶように思う。満員電車の人ごみに圧されて、シャツかズボンか、ポケットのなかの靴べらのあの何とも言えない奇妙なかたちが実感されて、他人と自分の距離の問題としてのあれこれが感覚的につながった瞬間が描かれているのだろう。高野さんの作品には、認識が修辞によってまとめられていると感じるものと、修辞によって認識がひきだされていると感じるものがあって、これは後者。歌集の同ページに「老人がゆるゆるのぼる階段のひややけきかな階段は鈍器」という一首がある。これは前者に入るか。両者の是非は簡単に言えるものではないが、自分の好みは後者に大きく偏っているかも知れない。

きょうの一首。そういう類の声というのは気をつけていてもときどき出てしまう。他人が気づくかどうかはわからないが、いずれにしても自分にはわかってしまって、それがものすごく恥ずかしかったりする。

 嫌だなあとやけに泡だつこゑが出て自らそれが嘘だと気づく/荻原裕幸

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June 26, 2008

2008年6月26日(木)

昨深夜、少し休みをとるつもりでテレビの前に坐ったら、ウィンブルドン女子シングルスが流れていた。二回戦。アナ・イワノビッチ対ナタリー・ドシー。ランキング上は、イワノビッチが無難に勝っても良さそうな試合なのに、かなり苦戦している様子だったので、気になって断続的に見る。第二セット、ドシーのマッチポイントで、イワノビッチのストロークがネットにかかって、わっ、と思ったら、ボールが一瞬迷うように跳ねてドシー側のコートに落ちた。凄いものを見た気がした。タイブレークが二つに最終セットも18ゲームまでの延長だったが、ぎりぎりのところで押し切ってイワノビッチが勝つ。試合後、イワノビッチはネットにキスをしていた。

 他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水/葛原妙子

第七歌集『朱霊』(一九七〇年)に収録された一首。他界からの視点は、それ自体非凡なものではあるのだが、仮定や仮想のものならば、美的な自意識の範疇を大きくは出られないだろう。この歌の凄さは、文法上も文脈上も、仮定と推量の記述であるにもかかわらず、実際にこの「私」が他界からの視野を有しているのではないかと感じさせるところにあると思う。確信的に書かれた仮定と推量は、もしも他界から眺めることができるのならば、という可能性の有無への問いを含まず、いま現在はここから眺めているが、これを他界から眺めたならば、という経験的な視点の一つとして他界からの眺めを提示しているように感じられる。

きょうの一首。

 噴水のはなびらの高さが夏になるたび少しづつ低くなる駅/荻原裕幸

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June 25, 2008

2008年6月25日(水)

晴れもせず、雨も降らず、ただ蒸し暑い曇天が続く。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期十一回目。きょうの題は「夏帽子」と「枇杷」。夏帽子ということばには、句の内容にかかわらず、どこかノスタルジアを感じる。季語の何割かが含むこの種のノスタルジアは、俳句の楽しみでもあり、同時に陥穽でもあるように思う。講座後、喫茶店で、きょうの題に即して二句。

 まあまあまあどうぞどうぞと夏帽子/荻原裕幸
 かたぐるまから枇杷までの空さぐる

家で冷やし中華を食べていたら、家人から、まぜて食べないね? と言われる。反射的に、まぜて食べないよ、と答える。答えてから、そう言えばそうだなと思う。箸を動かす都度、具やたれをからめて食べているのに、あらかじめまぜることはない。パスタを食べるときもカレーライスを食べるときも同じ。まぜて食べると、均質にベストの味になるはずだが、均質だと飽きてしまう気がするので、それでほぼ無意識的にまぜないで食べているのだろうか。ちなみに、しっかりまぜる派の家人は、小皿にわかれた食事のときは一皿ずつ順に空にしてゆく。ぼくは、食べ終える頃にすべての皿が一斉に空になってゆく。飽きない人と飽きやすい人の違いか?

きょうの一首。かたづいていない部屋というのは、部屋自体まるごとタイムカプセルのようなものだなと思う。

 ひきだしの奥の沼から履歴書が出て来てむかしの将来に逢ふ/荻原裕幸

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June 24, 2008

2008年6月24日(火)

午後、メーカーの人に来てもらってエアコンは修理完了。室外機のファンが動かない状態で、室外機内部の基盤が機能しなくなっていたのが原因だという。基盤をまるごと交換した。急に修理や設置の件数が増えたらしく、あと一日連絡が遅かったら何日もお待たせしてしまうところでした、と言われた。きょうは、ねじまき句会の例会に出る予定だったが、このために欠席。ぼくが提出したのは以下の二句。題詠「押」と雑詠。

 押すとこを間違えてまだ朝が来ない/荻原裕幸
 ひらがなのかみさまといてふたりきり

数日前、元プロレスラーのグレート草津さんが亡くなったというニュースを聞く。一九七〇年前後だったか、金網デスマッチのような方向に進んだ、プロレスのショー的な要素が苦手になるまでの少しの間、父とよくテレビでプロレスを見ていた。それがなぜか、新日本プロレスでも全日本プロレスでもない国際プロレスの番組だった。豊登とかサンダー杉山とかストロング小林とか、そしてグレート草津とか、微妙にマイナーだった国際プロレスのエースたちの試合を見て、ぼくのプロレスのイメージが定着した。なので、当時、アントニオ猪木とかジャイアント馬場とか言われてもまったくぴんと来なかったのである。訃報に接して懐かしむというのはなんだか淋しい話ではあるが、そんなことを思い出した。

きょうの一首。明るいタッチで描写しようと思ったのだが、どこかかげりのようなものがあって明るくならなかったか。

 夾竹桃しか見えないが泣きごゑの熟れて笑ひに移りゆく家/荻原裕幸

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June 23, 2008

2008年6月23日(月)

少し涼しい一日。クーラーと言うかエアコンが一台故障したので、メーカーの窓口に相談して修理のだんどりをする。涼しいうちにどうにか復旧してほしい。父がやっと携帯電話を使う気になってくれた。父の要望を確認して、あれこれ調べて、販売店に相談してみると、それに決めようと思っていた「無駄に便利な機能の付いていない機種」が在庫切れで、増産の可能性も薄いと言われた。ふりだしに戻る。

29日の日曜、NHKラジオ第1の「夜はぷちぷちケータイ短歌」に出演することになった。常連の出演者である穂村弘さんが、朝日新聞(名古屋本社版23日付)の短歌時評で、この番組のことを楽しく紹介している。「和テイスト短歌」の企画への投稿作を評して「ここにはぐるぐるにネジレた『和テイスト』な私たちの姿が正確に写し取られている」等々。そこはかとなくでも的確にでも巧みにでもなく、正確に、なのである。このあたりに、穂村さんのケータイ短歌に対する関心の焦点があるのだろうか。作品との佳い出会いがありますように。

きょうの一首。

 カーテンのやけにまどかで淋しげな波をけふ何度もたしかめる/荻原裕幸

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June 22, 2008

2008年6月22日(日)

午後、家人が外出。留守番。近隣から、珍しく、いろいろな楽器の音が聞こえた。同じところを何度も間違えては繰り返す縦笛の音、弾いていると言うよりはでたらめにピアノの鍵盤を乱打する音、それと、やけに巧い感じのヴァイオリン。なんとなく日曜日っぽい感じだった。岡井隆さんが、中日新聞のコラム「けさのことば」で、ぼくの歌集『永遠青天症』(二〇〇一年)の作品鑑賞をしてくれていた。感謝。

 じゃあまたと手をあげる時ナオユキはなんだかすごくナオユキになる/村上きわみ

第二歌集『キマイラ』(二〇〇一年)に収録された一首。もっと他にも説明のしようがありそうな気のする状況が描かれているのだが、ああ、そうか、でも、他には説明のしようのないあの感じだな、と、その場に居あわせたわけでもないのに、わかるわかるという感覚がどこかからやって来る。「ナオユキ」が「私」とどんな関係にあるのか、「ナオユキ」が社会的にどんな人であるのか、そうした、世界についてぼくたちがさして疑問ももたずに共有している認識のアングルとは違ったアングルがあることを、この歌が気づかせてくれているのだと思う。世界に触り直したような、とても新鮮な気分になれる一首だ。

きょうの一首。もしもこの音を聴かない日があったら、極度の解放感と極度の淋しさがやって来るだろうなあと思う。と言うか、生きていられないか。

 癒される日も嫌だなとおもふ日もその他の日にも水音を聴く/荻原裕幸

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June 21, 2008

2008年6月21日(土)

夏至。二十四節気のなかでもとりわけ爽やかなひびきがあるが、期間中ほとんどが梅雨でじめじめとしている。塚本邦雄が夏至の語を偏愛していたのは、あるいは生来の湿気嫌いによる梅雨払いの呪文のようなものだったのかも、などとこの時期に思い返したりする。「夏至のひかり胸にながれて青年のたとふれば錫のごとき独身」が、どこかこの世の外のように感じられるのは、夏至の一語によるものだろうか。何の話の流れだったか完全に忘れたが、きょう、何か家人に苦情を言ったら、文句があったらベルサイユへいらっしゃい、と返されて、爆笑してそれで何かが終了した。

第79期棋聖戦五番勝負第二局。後手の羽生善治名人が角交換から振り飛車に。先手の佐藤康光棋聖は居飛車穴熊に。羽生がどこかで千日手を誘うのかと思ったら、先に仕掛けたので驚いた。ただし、以後は、佐藤が攻めて羽生が受ける展開に。受けきるかと見える局面もあったものの、結局佐藤が攻めきって二勝目。名人奪取後に、王位戦の挑戦権も獲得した羽生だが、このところ佐藤には相性が悪くて四連敗、最近の十局でも三勝七敗と分が悪い。

きょうの一首。春夏秋冬でかなり環境の変化する場所なので、そういう指定を入れた方がいいのかどうかかなり迷ったのだが、たぶんかえってうるさくなるだろうと判断して入れるのやめた。俳句では書きづらい短歌の特性だと思うことにしよう。

 この世から少し外れた場所として午前三時のベランダがある/荻原裕幸

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June 20, 2008

2008年6月20日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者17人。詠草は18人分で18首。題は「帰」。講座後、喫茶店で、講座で話したことのメモをとったりぼんやりしたり。講座のメモというのは、作品批評をしているときに、ふだん無意識にそうしている経験則のようなものが、ふと口をついて出ることがあるので、それを残しておくために時々とっている。夜、雷鳴。ようやく本格的な梅雨入りか。

短歌で、書きたい事柄がそれなりにはっきりしているとき、調べが整わないかたちで草稿ができてしまうことがある。その草稿の調べを整えるために、初句から順に型にはめるように書き直すと、調べがきれいに整いすぎて事柄の迫真性がどこかに消えてしまうか、もしくは下句で困って辻褄をあわせたような調べになってしまう。破調は概ね下句よりも上句の方が無難に機能するので、調べを整えるのであれば、結句から初句へと逆にたどりながら整えて、もしそうするならば上句で辻褄あわせをするのが得策。そうすれば破調になっても気になりにくい。また、意外な効果が生じることもある。経験則なので理由は不明。というのが、きょう書いたメモの一つである。

きょうの一首。講座で「帰」の題の作例として見せた一首。

 夏草踏めばにはかに足が求めだす帰る方角ではないきのふ/荻原裕幸

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June 19, 2008

2008年6月19日(木)

桜桃忌。忌日は十三日だというし、十九日は誕生日でもあるそうだし、忌よりも祭がふさわしい日だが、桜桃祭、では青果店の売り出しめいて、太宰治には縁もゆかりもなくなりそうである。今年は生誕九十九年目で没後六十年目にあたるらしい。いよいよ暑くなったのでクーラーを始動した。

無記名テキストで進行する句会や歌会を終えた後、誰々さんの詠草はどれなのかすぐにわかった云々という話題が出ることがある。会を運営進行する立場からすると、作者探しは二の次にして純粋に作品だけを読んでね、と言いたくなるところだが、そうした正論とは別に、この、無記名なのにすぐわかってしまう、のが誰のどんな点なのかを知るのは、句会や歌会の楽しみの一つである。とりわけ自作については、他者に自身の日頃からの文体や方法論が伝わっているかどうか、また逆に、自身がどういう点で自家中毒気味になっているか、実験や冒険をしたつもりなのに何も違っていないと思われているのはなぜなのか、等々が、記名で批評をされたとき以上にはっきりわかることもある。

きょうの一首。「かげりに熟す」が伝わりにくいのではないかと気になったが、ここの言い換えをするのはこの一首がなくなるのと同じなので、そのままにした。

 かなしみが決してかげりに熟さない人がゐて紫陽花のある家/荻原裕幸

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June 18, 2008

2008年6月18日(水)

午後、中京大学へ。学生たちはすっかり真夏の服装である。涼しそうでいいなと思う服装もあれば、見て笑ってしまうほどだらしなさを極めている服装もあり、そういうのをすべてひっくるめて夏なんだなあと感じながら教室へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の十回目。きょうの題は「汗」と「かたつむり」。かたつむりの句のほとんどがメルヘンタッチで、読んでいてなごんだ。講座後、喫茶店で、きょうの題に即して二句。

 はるばると来て東京の汗を拭く/荻原裕幸
 かたつむり離婚直後のひとの掌に

仁平勝の評論集『俳句の射程』(二〇〇六年)に、以下のようなくだりがある。「写生とは、比喩的な効果のある取合せを、比喩のかたちを前面に出さずに、できるだけ自然らしく表現する手法でもある」。きわめて単純なことを言っているのだが、きわめて秀でた認識だと思う。写生句以外も俳句だと認める場から、俳句における写生ととりあわせについて、現在、これより巧く説明することは無理だろう。このアングルから俳句と短歌を比較してみると、両者の差異がうまく見えて来そうなので、先日からいろいろ考えているのだが、まだちょっと整理がついていない。

きょうの一首。死語一歩手前の瀕死語に活路を、と思って書いたのだが、やはりどこか無理があるような気がする。作品そのものが瀕死になったか。

 恋人未満といふせつなげでなつかしい身分で眺めてゐた夏の雲/荻原裕幸

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June 17, 2008

2008年6月17日(火)

暑い一日。最高気温は三十度を超えたという。午後、家のなかがそれほど暑い感じでもなかったので、うっかり自転車に乗って外に出たら、トースターか何かで焼かれているような気分だった。あまり暑いので思わず太陽を睨みつけたが、眩しいばかりで余計に暑くなる。帰ったらクーラーをかけるぞと決意したものの、帰る頃にはすでにそこそこ涼しくなっていた。

夜、第66期名人戦七番勝負の第六局が終局。相掛かりの力戦を先手の羽生善治二冠が制した。これで羽生の四勝二敗。二〇〇三年以来の名人位に即く。また、通算五期獲得で永世名人(十九世名人)の資格を得た。記録も称号ももちろんものすごいものなのだが、そうした積み重ねの結果以上に、このところ羽生さんにとって鬼門と化しつつあった名人戦で、棋士としてのピークを維持しているのだと実証してみせた情熱や野心や執着をないまぜにしたような指しぶりに驚きかつ惹かれた。

きょうの一首。内容によっては「やはらかな」どころではない場合もあるか。

 梅雨曇りの賛意で署名したあとのやはらかなつかれに沈む夜/荻原裕幸

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June 16, 2008

2008年6月16日(月)

この数日、とりわけ早朝に、神経質な感じで鳥が啼くのが気になっていた。どうやら鵯のかなり大きな群がいるらしい。きょう、近所の空地に、百羽レベルの群が来ているのを見た。鵯は、春と秋に渡りをするという。だとしたら、いまはどちらの範疇なのだろう。家人は、地震から逃げて来たのではないか、と言う。野鳥のサイトなどを見てみたが、鵯の渡りについて、あまり詳しくは書かれていなかった。

梅雨だということをすっかり忘れるような気候で、巷では、日傘をさしたり帽子をかぶったり長い手袋をはめたりと、紫外線対策が本格化しているようだ。半月ほど前に全身ほぼ黒ずくめの人を目撃してちょっと驚いたが、きょう、外ですれ違った自転車の人は、ほぼではなく完全に全身黒ずくめで、性別も年齢もまるで見当がつかないほどだった。黒のサンバイザー、黒のフード付きの黒の上着、黒手袋、黒のパンツ、黒靴。さすがに自転車は黒ではなかったが、そこまで徹底されると、もはや不審な印象という段階は超越してしまっている。通り過ぎたあと、大変ですね、と心のなかで声をかけていた。

きょうの一首。

 バスに揺られて行先のない夏にゐてしばし誰でもない人となる/荻原裕幸

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June 15, 2008

2008年6月15日(日)

父の日。父に電話を入れる。いろいろ忙しいらしいので、実家に顔を出すのは後日になった。互いに都合がつかなくて困るケースもあるのだが、それでも、父に、おれは忙しい、と言われると、なんとなく安心する。暇でしかたない、と言われたら、たぶん困るだろうし、無意識に距離を置いてしまうのではないかとも思う。

きのうのメモを少し補足する。石井辰彦さんの批評会の後で、斉藤斎藤さんに「現代詩手帖」2007年11月号の瀬尾育生の時評について、どうなんでしょうね、と訊かれた。瀬尾の時評では、石井さんの連作「ほしいままの心で」について「社会的素材に向かって感性だけをシニカルに横にずらしてみせる現在の『社会詠』には到底実現できないような、定義どおりの公的言論(*原文ではこの四字に傍点有)が形づくられている」と述べられている。ぼくは、たぶん否定ではないが、条件付きの肯定なのではないか、というような返事をした。そのとき斉藤さんに語った、条件付き、のその条件の出典が見つかったので、以下に引用しておく。

 主格の移行・消失、発話者の非人称化……はいますべての詩がさらされている普遍的な「状況」である。そのとき晒される空白を空白のまま持ちこたえること、空白のなかにどんな既成の主格も棲みつかせないこと、空白を空白のままにしておく意志のなかに「あたらしい」主体を作り出すこと、というのが私が積極的に主張できるほとんど唯一のことだ。/瀬尾育生『あたらしい手の種族』(一九九六年)

藤井貞和の詩集評として書かれた「日本語が笑っている」という文章の一節。ここに出て来る「発話者の非人称化」された詩と、石井さんの短歌によって形づくられていると瀬尾が述べる傍点有の「公的言論」というのは、生じた経緯の差はあっても、瀬尾の文脈のなかでは、とてもよく似たものではないかと思う。

きょうの一首。

 夢の匂ひが鼻腔にのこるこの朝にさめて朝食までのしばらく/荻原裕幸

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June 14, 2008

2008年6月14日(土)

上京。神楽坂の日本出版クラブ会館へ。石井辰彦さんの歌集『蛇の舌』の批評会に司会として出演する。出席者は四十数名。歌人は約半数で、多ジャンルの人が集まる鵺的な会になる。他ジャンルの人も歌人も、ともにアウェイだと感じていたらしい。石井さんの交友関係の広さと企画した田中槐さんのフットワークの良さとで構成されたユニークな場になっていたと思う。会はまず、石井辰彦さんの朗読からはじまる。新作の「ケチャップが出て来ない」10首と歌集収録の「歌人に寄す」54首。石井さんは過度に緊張した感じで、それが逆に、声に柔和な印象をもたらしたようだ。朗読の価値判断はむずかしいが、この声は佳い、と感じながら聴いていた。

ディスカッションは、藤原龍一郎さん小池昌代さん斉藤斎藤さんの三人に、著者である石井辰彦さんも加わり、荻原が司会、という顔ぶれで進めた。印象に残った点を少しメモしておく。藤原龍一郎さんは、現代短歌大系新人賞(一九七三年)で、二十歳の石井さんがデビューした折の作品と、中井英夫と塚本邦雄による究極の讃辞を紹介してくれた。詩歌に祝福されたようなその出自と才能に、当時は嫉妬を感じないではいられなかったとも、そして、三十五年後の現在、さほど妬ましくはなくなったとも述べていた。いろいろ含みのある発言だが、賞讃や嫉妬は、裏返せば、他者の期待値に(しかも値の一定の領域内に)呪縛されることに他ならない。期待値以下の結果ならばもちろんのこと、期待値以上の結果を出しても、呪いのような圧迫がかかる。石井辰彦が、受賞作「七竃」の世界を自ら裏切ることなく、しかもあきらかに期待値を超越した世界で書き続けていることに、ぼくは強く共感し続けている。藤原さんの嫉妬発言によってそのことが再確認できた。

ディスカッションの司会をするにあたって、いちばん心配だったのは、小池昌代さんの発言を自分がうまく展開できるだろうか、ということだった。すでに五年前のことになるが、黒瀬珂瀾さんの歌集『黒耀宮』の批評会が名古屋で開催されたとき、一緒にパネラーをしていた小池さんが、歌人同士が閉じられた「場」で了解しあっているらしい何かに対して、疑心暗鬼のような、過剰に敵視するような態度をとり続けていたからである。今回それが杞憂だったとわかってほっとした。むしろ、小池さんが短歌の世界に深く踏みこみ過ぎているかも知れないとさえ感じた。要点をまとめておくと、短歌の連作は、次の一首へ次の一首へと何かが運ばれてゆく感じさえあれば成立するものではないか、だから凸凹がたくさんあった方が楽しい、そのために連作全体に身を捧げてしまうような歌があってもいいはずだが、石井さんの連作は凸凹が感じられない、この一首というものが残らない、試しに連作をひとまとまりの多行詩だとして読んでみても、どこか窮屈な感じがある、等々。

斉藤斎藤さんの意見は、面白いものが多かったのだが、批評会の後にいろいろ話をし過ぎてしまって、どこまでが批評会での発言だったか、境界線がわからなくなってしまった。はっきり印象に残っていることが一つあるので、それを少し書いておく。石井さんが、9・11のテロと大辻隆弘さんの作品に対する批判から書きおこした冒頭の連作「ほしいままの心で」に添えた文のなかに「歌人として、教育者として、人間として」というフレーズがあるが、こういう問いかけの条件を出すのは、フェアではないのではないか、と斉藤さんは言う。歌集『蛇の舌』には、歌人であり人間である石井辰彦は登場するのだが、「教育者として」に相当する石井辰彦が登場しない、生活者としての自分をどこかに置きざりにしたまま、生活者としての他者を批判するのは、批判としてその根拠が揺らぐのではないかということのようだ。

会場発言として、高橋睦郎さん黒瀬珂瀾さん林浩平さん菊池裕さん田島邦彦さん都築直子さん田中槐さん岡井隆さんからそれぞれ貴重な意見をもらった。帰名の新幹線のなかでとっているメモなので、雑感をまとめるのはこのあたりが限界か。メモを読み直すと、批判的な意見の部分ばかりを拾っているのに気づいた。これはたぶん、読者がどうやったら石井辰彦の牙城に踏みこめるかばかりを考えていた自分が、無意識にしていることだと思う。あるいは批評会もそんな感じだったろうか。

きょうの一首。

 夜の葉が近づいて来て二度はないけふが静まりつつ消えてゆく/荻原裕幸

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「壮快」の彼方で

*「短歌往来」二〇〇八年三月号掲載
*「石井辰彦『蛇の舌』を語る会」資料として

「壮快」の彼方で/石井辰彦歌集『蛇の舌』書評
荻原裕幸

 ひとまとまりになった短歌は、作者がそれと意識しなくても、無意識のうちに連作を読むようにして読むものだ。現在の歌集の多くは、そのことを踏まえてか、一首と一首の関係が疎にも密にもなり過ぎないように匙加減をして構成されているように見える。疎であると散漫な印象が生じ、密であると読みづらさが生じはじめるからだろう。疎密のバランスがとれた歌集は、その世界を掴んだ実感を得やすく、是非の評価もしやすい。
 だから、石井辰彦のように、徹底して連作を志向する歌人の場合、その稀なるスタイルを、殊に主題が複雑化したときなどは、ぼく自身、これを短歌としてどう読んだらいいのかとかなり悩んだり迷ったりする。つねに興味を惹かれる歌人である一方で、作品の複雑さを前にして、敬して遠ざけたくなるきもちが全く生じないと言えば嘘になる。
 第六歌集『蛇の舌』(書肆山田)を読んでいるときも、そうした、惹かれるきもちと何かを怖れるようなきもちとが雑ざって、どきどきしたのだが、読後、かなり印象が変化した。それはたぶん、石井の短歌の世界の焦点が、現在の社会、二〇〇一年九月にアメリカを襲ったテロ以後の社会へと明確にスライドして、複雑であれ何であれ、この空気はたしかに共有しているぞ、という感触をもたらしたからではないかと思う。

 気に食はぬ国は亡べ、と、言つちやつて、いい、の、か? 鏖殺のニュースに
  *鏖殺/みなごろし
 静寂は憤怒に近し…… あんたらの言ひなりになんかならないからな!
  *静寂/しづかさ、憤怒/いかり
 星の降る夜、爆弾の降る白昼…… いつでも空を仰ぐ眼、が、ある
  *夜/よる、白昼/まひる

 冒頭の連作「ほしいままの心で」から引用した。密をきわめた連作から部分的に引用して読むのは気が引けるが、これは、以前、大辻隆弘が「壮快」という語によってテロを表現したことへの反論に端を発した連作で、テロやテロ以後の社会を生きることをモチーフとしている。釈迢空的な読点、前衛短歌的な破調、さらに現代風な会話体など、調べの面から一首一首に豊饒感をもたらす一方、全体では、私的な悲嘆や憎悪を超えた地点で、同時代の誰かがそう言っているような、強靭な社会的言説を構成している。一首一首の出来が犠牲になる、と言われた連作において、こうした展開が可能になった背景には、一九九〇年代以後の、情報不全的でも思惟の核を捉えている口語文体の隆盛が、どこかで影響しているのだろう。ちなみに、引用だけでもある程度までは感じられると思うが、読点あるいは「……」等の記号に従い、散文のように音読した場合と、あらかじめ短歌だと意識して音読した場合を比べると、一つの作品が二つの文体を有しているという不思議な調べの構造が浮かびあがるのも興味深 い。

 読む者は無言…… しかるに死者たちの声はページを繰るたびに立つ
 波音は誰が立てる? 見よ、眼前の風景は無言のはず、なの、に
  *波音/なみおと、誰/た、眼前/がんぜん

 別々の連作から引用した二首。「無言」の語が重なったのはたまたまだが、作品や歌論を通じて、一般に歌人が言いよどむようなこと、言うべきことを、ずばずばと書く石井辰彦の、書くこと語ること声をあげることへのこだわりが見える佳品だと思う。石井が朗読という発表スタイルを重んじるのも、こうしたこだわりと無縁ではないだろう。

※引用作品に添えた*以下は、該当部分/ルビ、を示している。

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June 13, 2008

2008年6月13日(金)

午後、例によって家人とウォーキングをかねて買い物に出る。表の通りがビルの解体作業で埃っぽい感じだったので、それを避けてふだんあまり通らない道を通る。そういう季節なのか、庭木のせり出している家が多く、ところどころ、道路の真ん中あたりまで、青空が青葉に占領されていた。外に出たついでに、なじみの定食屋で遅い昼食をとる。店のテレビにはネットカフェを利用する生活の特集が流れていた。店主が時折作業の手を止めて、ものすごく興味深そうに見ていた。

何の話の流れだったか、家人が、好きな数字ってある? と訊いて来た。数字に特にこだわりはないよと答えると、わたしは5と7が好きと言う。日本人的だねと相槌を打つと、57とかものすごく萌えるとやけに自信たっぷりに言う。75とか77とかでも? と訊くと、そうそうとうれしそうに答えるので、短歌や俳句にも萌えそうだねと半ばからかい気味に言ってみた。家人はちょっと考えて、それはたぶん何かが違うときっぱり拒絶するように言った。なぜ萌えるのかもよくわからないが、なぜ違うのかもよくわからない。

きょうの一首。十薬、名古屋ではむかしより減ったようにも感じるが、意外な場所に群生しているのをときどき見かける。

 風説流布して駐車場が空きだらけ奥の草地に十薬が見える/荻原裕幸

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June 12, 2008

2008年6月12日(木)

午後、地下鉄に乗ると、その車輛だけ妙に空いていたので、何となく気になって、混んでいた隣りの車輛に移動する。小胆な行動様式に、自分で笑ってしまう。仕事の顔あわせで名古屋駅へ。ホテルのロビーで、珈琲を飲みながら、仕事の話や仕事の話ではない話をする。電話とメールだけの打ちあわせで、そのまま仕事を進めてゆくケースも増えているが、この種の顔あわせをするのもいいものだなと思う。

 ほととぎす迷宮の扉(と)の開けつぱなし/塚本邦雄

第一句集『断絃のための七十句』(一九七三年)に収録された一句。「迷宮の扉の開けつぱなし」がいかにも塚本邦雄テイストで、無用の長物、宝の持ち腐れ、の洒落た言い換えをした箴言的フレーズだと読みたい気もするのだが、それではほととぎすとの取りあわせが疎になり過ぎそうだ。ほととぎすの声がよくひびく、人声も物音も少ない場所で、不用意な感じで開け放たれている扉に、迷宮への出入口のような、何か不可思議な気配を感じとっている、と、読んでおくのが妥当か。

きょうの一首。

 螢のゐない川だが夜を見つめれば螢がひかることのさびしさ/荻原裕幸

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June 11, 2008

2008年6月11日(水)

淡白な梅雨という感じ。蒸し暑い。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の九回目。きょうは題詠「紫陽花」と当季雑詠。前回欠席した二人が旅行の句を見せてくれる。熊野と隠岐。偶然に後鳥羽院ゆかりの二か所が揃う。熊野にもう一度、隠岐にも一度行ってみたいなあと思いながら、批評を進める。講座後、喫茶店で、きょうの題に即して二句。雨粒や雨滴を言うなら、梅雨ではなく五月雨だとは思うのだが、梅の字が消えるとつまらないので。

 紫陽花に午後の影あり影を踏む/荻原裕幸
 梅雨溜まりをりベランダの空缶に

佐藤康光棋聖と羽生善治二冠との第79期棋聖戦五番勝負第一局。後手の佐藤が一手損角換わりから難解な中盤戦を制して、終盤に入る前に羽生の投了となる。羽生の指手の印象がアクティブだったので、勝算があるのかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。全く理解の及ばない中盤戦で、投了図から逆に棋譜をたどっても、どこで優劣の差が生じたのかがよくわからない。

きょうの一首。

 母音のみのしづかな午後にペダル漕ぐ音を雑ぜつつゆく夏木立/荻原裕幸

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June 10, 2008

2008年6月10日(火)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は五人。テキストは菱川善夫『歌のありか』(一九八〇年)。戦後短歌と第二芸術論から前衛短歌まで、年号で言えば一九四五年から一九七〇年まで、その四半世紀の短歌の流れを大胆に解読した一冊。「想像力の犯罪性」、言い換えると、人のこころが社会の規範を超えて自由に獲得した想像の衝撃力、によって前衛短歌を規定している。現在の感覚では、いささか異論の生じる部分もなくはないのだが、塚本邦雄、岡井隆、寺山修司、春日井建を前衛短歌の中心に据える根拠を明確にした数少ない論として、その存在価値を強く保ち続けていると思う。

 しかももとの水にはあらず水中花/櫂未知子

俳句誌「里」6月号に掲載された一句。鴨長明「方丈記」の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を引用している。ただ、水中花の水に流れはない。ものによっては封をなされて取りかえさえできない。「方丈記」の無常観は、ここでは水ではなく、水と水中花を見る人のこころの方に即している。つまり、同じ水も水中花も気分次第で違って見えるということ。どこかに、あんなに美しく見えていたのに、と嘆いているような感触がある。もしかすると、例の類想問題が背景にあるのかも知れないし、もしかすると、少なからずユーモアを含んで書かれたものなのかも知れない。

きょうの一首。

 すれちがひざまひとづまの鼻歌の歌詞にひらいてひまはりの花/荻原裕幸

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June 09, 2008

2008年6月9日(月)

塚本邦雄忌。先日、友人のSさんが、塚本邦雄の本は単行本で読みたい、と言っていたのを思い出して、本棚としばらくにらめっこして、歌集を除外して六冊を選んでみた。歌集以外でも百冊ほどあるので、ちょっと迷ったのだが、塚本の世界の核の部分を読むためのオーソドックスな六冊選ではあると思う。各刊行年代が近いのは、この時期、塚本の散文系の仕事のエッセンスが一気に噴出したためである。ブックデザインはいずれも政田岑生。現在古書店等で入手可能かどうかは不明。

 『王朝百首』一九七四年、文化出版局 *平安時代百首選&翻訳詩&鑑賞
 『国語精粋記』一九七七年、講談社 *表記法を中心とした日本語論
 『詞華美術館』一九七八年、文藝春秋 *古今東西名詩歌句選&エッセイ
 『秀吟百趣』一九七八年、毎日新聞社 *近現代俳句短歌各五十作選&鑑賞
 『緑珠玲瓏館』一九八〇年、文藝春秋 *歌集『緑色研究』自選百首&自註
 『ことば遊び悦覧記』一九八〇年、河出書房新社 *詩歌句における言語遊戯論

青磁社ホームページに、週一回ペースで二年間連載された、大辻隆弘さんと吉川宏志さんの交互執筆による短歌時評が終了した。ハイペースで刺激的な話題を提示し続けたこの時評には、短歌観の差異を超えていろいろ楽しませてもらったし、学ぶところが多かった。テキストがこのまま公開され続けるとうれしいのだが、どうなるのだろうか。同時評は今後、別の執筆者によって継続されるという。

きょうの一首。

 梅雨のしづくは傘をながれて私にはたぶん私が合つてゐるのだ/荻原裕幸

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June 08, 2008

2008年6月8日(日)

午後、家人が実家に顔を出しにゆく。タイから帰国している義父を交えて、ひさしぶりに家族揃ってゆっくり話ができたようだ。ぼくは留守番。夜は、義父義母と義姉夫婦と家人と六人で食事に出かける。義父に蟹料理をごちそうしてもらう。食後はコメダ珈琲店で珈琲を飲みながら歓談。とても名古屋的な会食だった。

秋葉原の歩行者天国で、十数人が殺傷される事件が起きた。通行人が無差別に狙われたらしい。ニュースによると、逮捕された男性は二十代で、世の中が嫌になったとか生活に疲れたとか人を殺す目的で秋葉原に来たとか誰でもよかったとか、そんなことを語っているという。厭世感から死にたくなったのではなく、わざわざ人目のある場所に来て、八つ当たり気味に他人を殺傷して、しかも、警察官に拳銃を向けられて凶器を捨てるだけの判断力はあるのだ。やりきれない気分になる。

きょうの一首。公園や運動場の、鉄棒の下のくぼみを見ると、こどものこどもらしい一生懸命さが見えるような気がする。一方、ブランコの下のくぼみを見ると、こどものこどもらしいちょっとだらけた感じが見えるような気がする。もちろん私見であり偏見であるのだが、いつもなんとなくそう思って見ている。

 ブランコの下にだんだんできてゆく夏のくぼみのやうな日曜/荻原裕幸

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June 07, 2008

2008年6月7日(土)

蒸し暑い一日。この時期、例年ならばすでに、書斎でクーラーを動かしはじめているのだが、今年は扇風機の微風のなかで過ごしている。先日、家人が、一台余っているからと、クリップ式の扇風機を本棚の側面に据えつけてくれた。必要がなければ捨てるので一度試してみてね、ということらしい。思いのほか快適だったので、しばらく愛用することにした。

昨夜、第66期名人戦七番勝負の第五局が終局。相掛かり戦を森内俊之名人が制して二勝三敗とする。どこにミスがあったというわけでもなさそうだが、羽生善治二冠は終始優勢になることがなく、森内の強さがきわだつ一局だった。それにしてもなぜ森内は名人戦でここまで強くて他棋戦ではさほど力が出せないのだろう。不思議だ。今年の、名人戦以外での、森内の成績は1勝7敗、羽生は22勝8敗。数字上では「格が違う」ほどに差がある。対局時の力に差は見えない。

きょうの一首。義姉に買ってもらったショッピングカートをデビューさせる家人の姿を見て。四句の末尾の「で」を、「だ」にしようか「で」にしようか、ずっと考えこんでいた。文語で書いていると、こういう語の選択に、どこからか何か必然的な感じが降りて来る。口語だと必然感がきわめて薄くて迷う。

 かなり東の島に花鳥を撮りにゆくやうな姿でけふのあなたは/荻原裕幸

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June 06, 2008

2008年6月6日(金)

午後、栄へ。迷って長袖を着て外に出たら暑かった。講座の前に、地下街で珈琲を飲みながら、作例の一首をまとめる。スカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人。題は「泣」。湿度の高い詠草が揃うかと予想したが、意外に爽やかな印象だった。

 恋うことのいささかも色あせずして樅の木のみをうつせる写真/正岡豊

第一歌集『四月の魚』(一九九〇年)に収録された一首。恋愛の対象がそこにいないことを悲嘆的に言っているのか、あるいは、不在だからこそ褪色しないと言っているのか。どちらともとれそうだ。繊細な感覚とその繊細さにふさわしくない達観とが混在するこの文体は、まだ前衛短歌の磁場のなかにあって新しいものが生まれようとしていた一九七〇年代の匂いをもっている。永田和宏『メビウスの地平』あたりからの移り香のようなものを感じると言ったら言い過ぎだろうか。

きょうの一首。講座で「泣」の題の作例として見せた一首。額の花、が、額紫陽花ではなく、額絵の花とも読めることに気づいたが、とりあえずそのままにした。

 泣くことと涙をながすことの差を滲ませて額の花に降る雨/荻原裕幸

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June 05, 2008

2008年6月5日(木)

芒種。曇ったり降ったり、はっきりしない天気だった。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は11人。今回の題は「北」。前回の「西」に比較すれば書きやすかったようだ(ちなみに、きのうのきょうの一首は、他の方角はどうだろうかと確かめていたときの副産物)。ふだんと同じように無記名での互選と読解中心の批評を進める。歌会終了後は、有志で居酒屋へ。

 話す時わずかにフラットする声のその半音が何か知りたい/佐藤りえ

第一歌集『フラジャイル』(二〇〇三年)に収録された一首。声がうわずる、ということがある。この歌の文脈で言えば、あれは声がシャープしているのだろう。興奮とか緊張とか、理由はさまざまにあるにせよ、その理由は本人にも周囲の人にも見えやすいものだろうし、わざわざ訊ねるまでもないという気がする。意識的にナチュラルをかけて調整できる人は調整できる。だが、フラットする声というのは、何なのだろう。どすを利かせるのだとしたら半音では済まないだろうし、先回りして声のうわずる要因を過剰に抑制したとか、何か妙な意識の動きがそこにあるのが感じられる。小さなことから世界が表情を変えてゆく瞬間が巧く映し出された一首だと思う。

きょうの一首。「北」の題詠として歌会に提出した一首。素朴になりすぎたかなと気にしていたのだが、自然に見えるようになるまであざとさを積み重ねている、という評があって苦笑した。

 つかはない北の部屋にも枇杷などが飾られて誰かの声が来る/荻原裕幸

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June 04, 2008

2008年6月4日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の八回目。きょうの題は「走り梅雨」と「ほととぎす」。題を出したらいきなり梅雨入りとなってしまったのだが、まあそれはそれということで「走り梅雨」を楽しむ。講義のあとで受講者数人と喫茶店に行く。帰宅してから、きょうの題に即して二句。

 皿の絵の船まつぷたつ走り梅雨/荻原裕幸
 ほととぎす午後の深さに画集繰る

先日亡くなったアナウンサーの川田亜子さんについて、マスメディアが「諸説」を報じているのを見たり読んだりする。結局のところ他者の心の風景は誰も見ることができないという当然の事実を強く感じるばかりだった。「諸説」でなんとなくここだけは違うんじゃないかと思ったのは、しばしば、仕事の岐路について、報道番組以外の仕事が嫌でフリーに転身した、と断定されている点で、嫌だったのではなくてむしろ相性が良すぎたからこそそこから離れたかったのではないのだろうか。某科学系バラエティ番組で軟体動物や棘皮動物を楽しそうに扱っていた川田さんの表情は、演技や演出では出せないようないきいきした印象だったな、などと思い出す。むろんそれもまた憶測でしかないのだが。

きょうの一首。

 南からやつて来るものもろもろのなかにかぞへて梅雨前線/荻原裕幸

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June 03, 2008

2008年6月3日(火)

先日、独居男性宅の押入の天袋に見知らぬ女性がこっそり居候をしていたという事件が報じられていた。居候以外の目的があったわけではないようで、住む場所として天袋に入りこんで、男性の留守中、食品を勝手に調達したり、風呂やトイレも利用していたらしい。しかも一年近く居候していたのだとか。まさかいくらなんでもと思うような場所だから気づかれにくかったのだろうが、よくもまあそんな「隙間」を発見できたものだと驚いた。

高浜虚子に「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」という句がある。一読了解できる句であるし、読む側の個人的な文脈、たとえば、この時期に来客があったときのこと、に接続させやすいので、手軽に楽しめる句なのだが、山本健吉の『現代俳句』は、この句にかなり攻撃的である。小諸に虚子の仲間の俳人たちが集まったときの句という背景を踏まえて、曰く「こういう作品の妙味を解さない人たちは、このグループの仲間たちから見れば、『気の毒な人たち』ということになるだろう。だが、このような特殊なグループの共同経験と共感とを基礎にした作品は、やはり普遍的な芸術とは言えない。自己満足の色が、あまりに濃厚なのである」(引用は角川文庫版から)。何が山本健吉をここまで攻撃的に語らせているのだろうか。

きょうの一首。「見る」という行為について考えながら。

 虹彩による情緒的なるプロセスを経てその奥にすすむ夕光/荻原裕幸

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June 02, 2008

2008年6月2日(月)

東海地方も梅雨入りだという。午後、小雨のなかを東別院へ。地下鉄の出口を抜けて歩きはじめると、タバコあります、とアピールするのぼりが林立していて驚いた。某コンビニだった。愛知県でもきのうからタスポが導入されたので、未入手の人を誘引しようということだろうか。本末転倒という気もする。名古屋市女性会館で東西句会の月例句会。参加者は今回から一人増えて五人となる。兼題の「香水」を含む五句を各自が持ち寄った。いつものように無記名で互選、合評。

句会に提出した五句は以下の通り。「この日傘」の「この」が佳くない、俳句らしくないと指摘を受けた。苦心した箇所だったのだが、苦心の痕が残ったままだったようだ。合評後、その場で語の斡旋の理由を説明しながら、そうか、そもそもすっきり説明できるからだめなんだと気づいた。

 五月尽すずめのはかと書いてある/荻原裕幸
 ひざしではないもの防ぐこの日傘
 爪まるくまあるく磨くアマリリス
 六月来る五臓六腑をゆるませて
 香水が来てゆふやみの角曲がる

きょうの一首。固定電話を使うとき、習慣的に、ボールペンとメモを傍らに置いて話をしている。仕事の話の場合は、ふつうにそれが役に立つのだが。

 電話しながら持て余すゆび欅とか鰹とか繭と書けばよろこぶ/荻原裕幸

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June 01, 2008

2008年6月1日(日)

六月となる。現代詩についてメモをとったら、結局短歌を語ろうとしているだけ、という感じになる。もう少しきちんと作品に踏みこめないものだろうか。

 いくつもの袋小路を発見していく仕事。辛抱づよく、実
 地に歩いて。見つけたらすぐに、口を縛る。都市の秘部
 で、袋同士に針穴ほどの息のかよい路ができるのを、た
 だひたすらに待つ。破裂・連鎖。あとには、紐をといて
 歩くさわやかな仕事が残されているだけ。/平出隆

詩集『胡桃の戦意のために』(一九八二年)に収録された一篇。題/ナンバーは「48」。ここにあらわれる「袋小路」や「仕事」について、それらをメタファとして読んで、現実の社会のなかに何かモデルを見つけることは可能かも知れない。ただ、読者が確定的に読み解くための材料が与えられていないため、読者は自分の視点を包含するもっと大きな視点の存在を意識せざるを得なくなるのではないだろうか。知っているはずの何かを正確に言いあてているという文体の印象と、この話者の視点や意識にどうしてもたどりつけないというもどかしさが相俟って、不安が増殖してゆく。

この種の不安は、しばしば「世界観」によって攻撃される。自分の意識のなかで、世界が緻密に構築されてゆく妨げになるからだ。「表現でしかないはずの言葉」が、現実の世界だと感じている世界を見る視点よりも大きな視点としてあらわれているように見えるからだ。この不安の増殖を、方法の面から否定できれば、読者はやすらぎのようなものを得ることができるだろう。ただ、不安が発生するという事態を、本質的に解消することにならないのは言うまでもない。

きょうの一首。国語辞典をぱらぱらと読みながら。

 定義される淋しさにゐて六月の国語辞典のなかなるわたし/荻原裕幸

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