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July 31, 2008

2008年7月31日(木)

きょう、自宅の近くにあった煙草の自動販売機が撤去された。タスポ導入後の売上激減によるものらしい。以前は買っている人の姿をよく見たが、導入の六月以後は、二か月で一人しか見かけなかった。午後、ディーラーさんに、自動車の定期点検をしてもらう。異常は特になし。自動車だけではなくてそろそろ自分の点検もしないといけないが、さしあたり、胃のかたちやありかはすっかりわからなくなった。

きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげているのは、米山久美子さんの第一句集『おきなぐさ』(邑書林)と山田公子さんの第二歌集『どこにでもありさうな家』(本阿弥書店)。その他に、短歌誌「新彗星」と俳句誌「翼座」の創刊についても少し触れた。いずれも第二号が出てみないとその動きを展望しづらい面はあるのだが、新しい場が生み出されるときの、上限のない可能性を感じさせてくれるものである。

きょうの一首。七月が終る。にぎやかな場所としずかな場所が二極化すると、夏が頂点に達したのをしみじみと感じる。

 階下からあるいは他のどこかから屋上につどふもの消えて夏/荻原裕幸

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July 30, 2008

2008年7月30日(水)

きのうきょう、気温を数字で見ると真夏日なのだが、なぜかもうこのレベルで暑いとか言っていてはいけないような気分になる。あきらかに感覚が壊れている。午後、所用で外に出たついでに、家人と某ラーメン店に入る。注文して待っていると、家人がそれとなく耳打ちするので、店の隅をそっと見てみる。高校生風の女子が二人、ラーメンを食べながら、鞄からこそこそとハンバーガーを取り出しては、交互に食べていた。あまりにも健やかなその食欲に笑ってしまった。そう言えば、痛みはなくなったが、胃のかたちやありかがまだかすかにわかる。

芥川龍之介、の話が続くのは、先日、河童忌の句をつくろうとして、ひさしぶりに本を手にとったためであるが、その芥川の『侏儒の言葉』の、以前つけた付箋を気まぐれにたどっていたところ、以下のアフォリズムに行きあたった。「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している」(引用は岩波文庫版から)。巧いこと言うなあとあらためて感心する。ただ、この「とにかく一部を成している」は、芥川にしてみれば痛烈な皮肉だったのだと思うが、現代の感覚で読むと、どこか救済的なひびきがあるようにも感じる。何も大したことはできないし、失敗だらけだが、とにかく、俺には俺なりの人生がある、と言っても、今や自虐的な印象はほとんど生じないだろう。

きょうの一首。

 あれはここを孤島なのだと誤解して咲いてゐる玫瑰かも知れず/荻原裕幸

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July 29, 2008

2008年7月29日(火)

軽い胃痛。さして痛むわけでもなく、胃のある場所がわかる、という感じ。家人に伝えると、思いあたることがあるみたいな様子で、食べすぎなんじゃない? と意外なアングルから心配された。暑くなると食欲が落ちるものらしいが、ぼくの場合、暑くなるとむしろ食欲は増すので、食欲の落ちている家人からすると、やたらに食べるように映るらしい。体重は微減しているので、量のことは気にしてなかったのだが、とりあえず少し抑えてみよう。

芥川龍之介『或阿呆の一生』に「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」という有名なフレーズがある。十代のときにはただうっとりと読んだものだが、先日、読み直していて、このフレーズの「一行」ということばに妙なひっかかりをおぼえた。一節であろうと一行であろうと、詩の、部分に、独立した価値を見出すその感覚に、変な具合に躓いてしまったのである。日本の現在の詩(一応/勿論、短歌も俳句も川柳も含めて)は、ボードレールの韻文詩の一行一行が、詩として書かれたようには、書かれていないと思う。書かれてゆく流れのなかのどこかに、詩が詩になる契機が紛れこんでいて、どの部分をとっても詩であるというわけではないのだ。部分は詩の表情をしていないのに、全体がいつの間にか詩の表情になっていると言ったらいいだろうか。人生の価値はたぶんあまり変化していないのだろうが、詩の一行の価値には少し変化が起きているようである。

きょうの一首。

 かしこと淡く結ばれてゐてわたくしの全域に揺れはじめる青葉/荻原裕幸

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July 28, 2008

2008年7月28日(月)

あいかわらずの暑さだが、午後の雷雨のあと、ひさしぶりに少し涼しくなる。家人と買い物に出ると、花が一度すべて散った近所の凌霄花が二度咲きしていた。道すがら家人が、涼しくなったね、と言う。そうだね、と答える。続けて、夏も終りだね、長かったね、と言うので、調子をあわせて、そうだね、長かったね、と答えてみた。ことばにしたら、ほんとにそのまま涼しくなりそうな気がした。

昨日、批評会の最後に、加藤治郎さんが、第一歌集を出したときに批評会が名古屋であって、それがもう二十年前のことで、と、懐かしい話をしていた。一九八八年二月のことである。当時、出版記念会はしばしば行われていたが、批評会というスタイルはきわめて珍しいものだった。作者が前にいては議論がしづらいという空気がどこかにあったのだろう。穂村弘が角川短歌賞で話題になったとき、次席作の「シンジケート」五十首について、大学系の短歌会で、ぼくがレポートを担当して、メンバーで分析したり賞讃したり批判したりしたことがあるが、作者に連絡を取るという流れにはならなかった。そういう場のセッティングに何かものたりなさをおぼえていたこともあって、加藤治郎さんの第一歌集については、周囲に協力してもらいながら、作者を目の前に据えての批評会を企画した。いまでは一般的な企画となったが、当時は未知数で、ノウハウもなく、話が横道に逸れないように、「俵万智」は禁句ね、とかいう妙なルールのなかでディスカッションをしたのをおぼえている。『サラダ記念日』の話になると、どうにも収拾がつかなくなる時代だったのだ。その批評会の記録は、短歌同人誌「フォルテ」創刊号の特集記事になった。先月のことになるが、光森裕樹さんが、ウェブサイト「tankaful」で、この「フォルテ」のことを紹介してくれている。

きょうの一首。

 考へることをしづかにやめながらあなたに届く夏を見てゐる/荻原裕幸

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July 27, 2008

2008年7月27日(日)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。「未来」加藤治郎選歌欄と東桜歌会のメンバーを中心に集まって、加藤治郎さんの第七歌集『雨の日の回顧展』(短歌研究社)の批評会をした。著者を含めて17人が参加。歌崎功恵さんと細見晴一さんにレポートをお願いして、その後は著者以外の全員でディスカッションを進めた。芸術家の作品や生涯にインスパイアされた連作が多く、議論もおのずとそこが焦点になった。司会をしていて、ほとんど他人の文脈のなかで話をしていたので、自分の意見も少しだけまとめておくことにする。

加藤治郎の、第五歌集『ニュー・エクリプス』(二〇〇三年)や第六歌集『環状線のモンスター』(二〇〇六年)を読んでいて薄々感じていたのは、「私」という枠組を巧く扱いかねて、方法的に揺れている作者の姿だった。あなたとわたしの世界が、現実の世界と共鳴していた「独身/結婚」の季節は、何もかもが自在に描けたと思うのだが、この時期は、家があって家族があって短歌以外の職業があるという「家族」の季節を描きながら、現代感を描き出そうとする折々に、あなたとわたしの世界を、別の次元のものとして引き寄せていた。そこにはおのずと歪みが生じる。「家族」を横に置いたとき、あなたとわたしの世界は、輪郭が不鮮明であれば絵空事めくし、鮮明であれば不倫めくし、方法的にはライトヴァースやニューウェーブの尻尾のようにも見えるわけだ。この乖離が生じたのは、第三歌集『ハレアカラ』(一九九四年)の頃からだが、その時期以後、作品上で、現代の社会問題への関心が極端に高まってゆくのも、ぼくの目には、社会的な意識のにわかな高まりではなく、方法の出口を探してさまよう歌人の姿として映ることが多かった。

最新歌集『雨の日の回顧展』では、前述したような方法的な揺れがおさまっていると感じられた。揺れを収束させたのは、一首一首の「私」を世界という器のなかで有機的に連関させようとするスタイルから、一首一首の「私」を折々に生じる断片のようなものとして捉えて連関にこだわらないスタイルへと変化させたことによるのだと思われる。後者のスタイルを可能にしたのは、芸術家の展覧会をめぐりながら、その作品や生涯から触発されて生じた心象を、意識の流れとして羅列してゆくというシンプルな枠組だろう。一般に短歌は、自己の「内面」を探りあててゆくような感じで書かれて、その集積としての自己像が漠然と提示される。ところが、歌集『雨の日の回顧展』の場合は、一首一首、その都度、自己がばらばらに「内面」を露呈する。あるときはゴッホだったりゴッホの作品を見つめる観覧者だったりゴッホを含む世界を俯瞰する全能者だったりする。ぼくには、このスタイルが、歌集の質感をとても新鮮なものにしていると感じられた。

歌集『ニュー・エクリプス』の「あとがき」に、以下のくだりがある。「たぶん、情報、映像、アート、音楽など現代のイメージのエッセンスを内包することで今を生きる〈私〉のリアリティーが確保されるのだろう。しかし、情報や映像は本質的なことではない。決定的なのは、私自身の現代短歌という言語体験なのである」。この感覚が加藤治郎の作品にはっきり表面化するのに数年かかったのだろうか。歌集『雨の日の回顧展』から、好みの作品を以下に引用しておく。

 うす青いゴム手袋のさきっぽがのびきってめちゃくちゃになれ、俺/加藤治郎
 わたくしはとてもくらくて聴いているあなたの顔のなかに降る雨
 それはときおり墓場のようで青々と製氷皿の十二のくぼみ
 人間はにっちもさっちもいかなくなって入水するそれだけのこと
 重ねて入れた切符一枚吸い取られ在来線のむらさきに行く

きょうの一首。絵心のある人には、たぶんこういうレトリックは書けない、と負け惜しみ的な言い訳をあらかじめ添えておこう。

 画用紙に描けば幹からのびてゆくクレパスの波となるか蝉鳴く/荻原裕幸

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July 26, 2008

2008年7月26日(土)

暑い場所でじっとしていると、いまなら何でもできそうだ、といった万能感がやって来ることがある。ふだん行動を抑制している細かなこだわりがどうでもいいことに感じられたり、あるいはふだんの自分の能力を冷静に考えることができなくなったりしているのだろうか。また、涼しい場所でのんびりしていると、匂いとか音とか手ざわりとか気配とか、ふだんは意識していなかったものごとの意外な奥行に気づいたりする。冷房のきいた場所を往来しながら、きょうはそんなことを思っていたのだが、そもそも「ふだん」という状況はどこかに存在するのだろうか。

水原秋桜子に「瑠璃沼に滝落ちきたり瑠璃となる」という句がある。瑠璃沼は実在する沼である。滝の白いしぶきが沼なり湖なりの色になじんでゆく様子は、見ればわかるわけだし、容易に想像できる風景であって、発見というほどではないと思う。にもかかわらず、末尾の「瑠璃となる」が痛烈にひびく。ふだん何気なく見たり感じたりしているものごとに、ふだんとはあきらかに違う感触を与えている。何かことばの歪みのようなものがそこにあるのだろうか。それ以上の何かを示唆しているわけでもないのに、この世界のしくみが透けて見えていると錯覚してしまうのだ。同じ秋桜子の滝の句では、那智の滝を詠んだ「滝落ちて群青世界とどろけり」が有名だが、こちらには錯覚の生じる感じがない。

きょうの一首。

 待合室のモニターの滝こころなしか滝よりも滝らしく落ちゆく/荻原裕幸

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July 25, 2008

2008年7月25日(金)

文化庁が実施した「国語に関する世論調査」の結果について、ニュースであれこれと報じられている。意外だと感じる点は特になかった。乱れや誤用を嘆く人もいるのだろうが、大筋の情報が伝われば誤用を細かく指摘しないのが大人だ、というむかしからの風潮がなくならないかぎり、日本語はこうした歪みを抱えながら変化してゆくしかないように思う。個人的には、できるだけ乱さないように、というつもりではいるが、文芸表現、とりわけ詩歌句には、意図的な乱れや誤用による日本語からの逸脱みたいなところもあるわけで、つもりがつもりにならない場合が多い。

大相撲名古屋場所十三日目。初日に稀勢の里を枡席あたりまで突き飛ばして、荒っぽい感じだった白鵬が、だんだん落ち着いて来て十三連勝。七回目の優勝を決める。琴欧洲の綱取りが三日目で消えて、朝青龍が六日目で休場、白鵬以外は誰もこれと言うほどには白星がのびず、比較的静かな場所として終りそうな気配。星取とは直接関係ないが、豊ノ島の背中の冗談のようなM字のテーピングが気になってしかたない。

きょうの一首。そんなときが確かにあると思いながらまとめたのだが、そんなときに自分はいったいどちらの表情をしているのだろうか。

 わたくしがもう一方のわたくしの揶揄に毅然とひざかりをゆく/荻原裕幸

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July 24, 2008

2008年7月24日(木)

午後、所用で外出。炎天下をあちらこちら自転車で走りまわる。某公園の前に救急車がとまっていた。信号待ちをしながら、周囲の話を聞くともなく聞いていると、不定住の人、と言うか、公園に定住している人が、この暑さで倒れてしまったらしい。帰りにスーパーによると、店内で鰻の宣伝が流れていた。一回のアナウンスにつき「国産」ということばが三回ほど入る。

第49期王位戦七番勝負第二局。後手の羽生善治名人が、二手目に3二飛と指す。奨励会の今泉健司三段が、升田幸三賞を受賞したという新手だが、実際に指されるのははじめて見た。升田式石田流の序盤で、先手有利になる展開を回避するワクチン的な指手である。深浦康市王位も新手の効果を確かめるかのように応じて、序盤から双方角を打ちあって成りあうという、力将棋を超えた乱戦になる。どうにもまとめようがなく、つかみどころのない局面のままきょう二日目、深浦の攻めをかわしながらかたちをととのえた羽生の優勢が一度はっきり見えたと思ったのだが、どこかで寄せまちがえたのか、終盤で深浦が逆転。一勝一敗となった。

きょうの一首。ぐうの音も出ない。

 影ばかりを見て噴水を見てゐないのだと昨夜の非を誹られる/荻原裕幸

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July 23, 2008

2008年7月23日(水)

午後、近所の公園の前を通りかかると、酷暑をものともせず、少年たちが野球をして遊んでいる。ものすごく暑そうだったが、みんなやけに動きがいい。暑いかどうかなんていうことは、彼等の行動をほとんど左右しないのだろう。所用を済ませて、氷菓を買って帰る。店のアイスストッカーのなかがごっそり減っていて品薄だった。さすがによく売れているらしい。

 頭の中で白い夏野となつてゐる/高屋窓秋

第一句集『白い夏野』(一九三六年)に収録された一句。初出は一九三二年=昭和七年の「馬酔木」だという。俳句史的には、俳句における抽象表現の嚆矢、と理解しておけばいいだろうか。草木の緑とその背景の空の青とが夏野の色彩の基調かと思われるが、ここでは「白い夏野」と言っている。現代の感覚ならば、「白い夏野」とあるだけで、夏野を見ていて夏野に夏野以上の何かを感じて、それで「白い」の一語を得たと解されると思う。実景のなかに抽象化された心象を埋めこむのはそれほど珍しいことではない。それを「頭の中で」と書いて、何かが白い夏野になっている、何かが白い夏野を感じさせる、という文脈をわざわざ露呈しているのは、ただの実景ではないとことわりを入れなければすべてが実景の再現だと読まれてしまうような俳句の場があったということなのだろうか。史的背景をあまり考えないで読むと、この「頭の中で」はちょっとうるさい気もする。

きょうの一首。知人からこどもの話を聞いていると、ときどきそれが自分のむかしの姿と重なって笑ってしまうことがある。

 天花粉まみれになつてすはだかで夏の彼方にかけゆくこども/荻原裕幸

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July 22, 2008

2008年7月22日(火)

大暑。冷房のよほどきいた場所にいないと二言目には暑いと言ってしまう。七月はこんなに暑かっただろうか。昨年や一昨年は、もう少しは息を抜けるような涼しい日があったかと思う。七月よ、何か間違えているのだったら、これまでの行状には目をつぶるので、しばらく涼しい日を続けるように。それから、蝉よ、書斎の窓にへばりついて鳴くのはうるさいから、どこか他所で鳴きなさい。

 いづれ病む精神を抱き歩みたり雨後に裂けたる無花果の下/黒瀬珂瀾

第一歌集『黒耀宮』(二〇〇二年)に収録された一首。自己が「いづれ病む精神」を所有しているのか、自己が誰かを抱きかかえていて、その誰かの換喩として「いづれ病む精神」と言っているのか、文脈上は確定できない。ただ、物語感が薄らいで、現代の社会を通り抜けてゆくときの感触を生じさせる前者の読みの方が、自分の好みではある。無花果にはさまざまなメタファが埋められているようだが、ごく単純に、見えざる場所に花を抱える果実、それが熟して裂けて、見えざる場所があらわになりつつある、と読んでおいてとりあえず間違いはないだろう。歌集で物語的連作の部分として配列されている一首が、こうして思いがけず現代の空間や時間との接触面を見せるとき、黒瀬珂瀾さんの世界はより豊かなものに感じられる。

きょうの一首。

 この夏に蒔きそこなつた朝貌がどこかで蔓をからませる音/荻原裕幸

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July 21, 2008

2008年7月21日(月)

海の日。きょうはひさしぶりに家人と味噌煮込みうどんを食べに行くことにした。おのずと、山本屋総本家にするか、山本屋本店にするか、という話になる。二大名店である。家人の好みはどちらかと言えば山本屋総本家で、ぼくの好みはどちらかと言えば山本屋本店。どちらかと言えばというレベルでの好みなのだが、きょうは譲ってもらって、桜山の山本屋本店で食べた。そこそこ席が埋まっていて、こんなに暑いのになぜ名古屋の人は味噌煮込みを食べに来るのかと思ったりした。名古屋の人のなかにはむろん自分たちも入っているわけだが。

ググる、を、グーグルでググると、数年前のこんな記事が出て来る。商標が一般化することについては、あれこれ難しいこともあるのだろうが、それでも、いささか理解しづらい感覚である。と言うか、一般人からすると、企業的な自意識があまりにも過剰に見える。ただ、実際にいまそうしたように、ググる、とそれだけを書いても検索エンジンが特定されない気がして、つい、グーグルでググる、と書いてしまう。すでに、ググる、は一般語に近いのか。他の検索エンジン名で、ヤフる、百度る、を使う人もいるようだが、いまのところ定着している感じはほとんどない。

きょうの一首。「琉球鉄道」ということばを思いついて、少し空想をふくらませていたのだが、もしかしてと思ってググってみたら、すでに先行者が何人もいた。と言うことは……。

 琉球鉄道と記せばそれさへもググられてここに来る人が出る/荻原裕幸

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July 20, 2008

2008年7月20日(日)

午後、猛暑のなかを、家人が義母と義姉と外出。留守番。荻原家に来てすでに半月ほど経ったウォーターポピーは、葉が出たり枯れたり、育っているのか育っていないのか、いまひとつ状況がつかめない。そのかわりに、と言うわけでもないのだが、鉢のどこかにひそんでいた小さな巻貝たちが繁殖をはじめ、家人はそちらの世話に追われたりもしている。

 湖を背に歩き出すわたしたち end と and 微妙に混ぜて/田中槐

第一歌集『ギャザー』(一九九八年)に収録された一首。湖畔でのどこかドラマめいた場面から推すと、エンドは恋愛の終りと読めばいいのだろう。であれば、アンドは未練ないしはそれ以後ということになろうか。もう一歩踏みこんで読めば、このエンドとアンドは、セットになることで、夢見るような感じの恋愛が、エンド=終りという意識によって物語的な何かに転じるのを抑制している。エンドがアンドに侵蝕されはじめたときの、どうしようもない現実感がここにあらわれていると言えようか。歌集の配列では、この一首の次に「蔓草に絡め取られて自転車はどこへも行けぬ夏を始める」がある。現状を出られない籠の鳥だと言っているのか、もうすでに戻れない泥沼だと言っているのか、そこのところははっきりしないが、ソフトなうわべとは裏腹に何やら凄まじいものが浮かんで見える気がする。

きょうの一首。

 かばんの奥の深い夏からとりだして開けるドアなき真鍮のかぎ/荻原裕幸

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July 19, 2008

2008年7月19日(土)

猛暑の一日。名古屋も含めて、広域で一斉に梅雨が明けたらしい。海の日がらみの連休に入って、ちょうど学校も夏休みに入ったせいか、マンションはとても静かだ。逆にどこかが賑やかになっているのだろう。午後、父が実家で育てたミニトマトなどを持って来てくれた。感謝しながらも、父が猛暑のなかを出歩くのが気になる。父は暑さがさほどは苦にならないようで、涼しい時間帯に外出するといった柔軟な発想には到らないみたいだ。実家に顔を出しに行く回数を増やすのが解決策だろうかなどとあたまのすみで考えながら父と話をしていた。

きょうの一首をカウントしたら、きのうで今年の二百首目になっていた。年初からどうにか欠かさずに続けているわけだが、一日一首のスタイルで書いて、短歌の文体にどんな変化が起きるているのだろうか。いまのところ、文体の変化については、自分ではよくわからない。変化がはっきりと実感できているのは、短歌を考える場所である。以前は、書斎で机に向かって、ほとんどパソコンのモニター上で考えていたものだが、いまは書斎以外の場所で考えることが多くなった。浪費的に過ごしていた時間の一部が、いつからか短歌を考える時間になっている。

きょうの一首。

 この月見草が花をたためばあすが来て凡てのことが繰り返される/荻原裕幸

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July 18, 2008

2008年7月18日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。教室内の冷房があまりきいていなかったような記憶があったので、ポロシャツ姿で、扇子とハンドタオルを携えて行ったところ、前回までとはうってかわって、風邪をひきそうなほど冷えていた。きょうは出席者17人、詠草17首。題は「泳」。シーズン的にも考えやすいし、自分か他人か動物かはともかく、ふつうに泳ぐ歌が揃うだろうと予想したのだが、目が泳ぐ歌が何首もあった。なるほど、そう来たか。

第79期棋聖戦五番勝負第五局。振り駒で後手になった羽生善治名人が、一手損角換わりから少し変則的な手順での向かい飛車、玉を下段に据えた美濃囲いに。一方、佐藤康光棋聖は居飛車穴熊に。互いに簡素に玉を囲ってすぐに開戦。激しく駒のぶつかる展開になったので、穴熊が有利かと思ったのだが、8筋からの歩攻めで手品のようにあっさり穴熊の蓋が開いてしまって、羽生が優勢となる。佐藤もある程度まで羽生の玉につめよるものの、攻めきれずに投了。羽生名人が三勝二敗で棋聖位を奪取して四冠に。タイトル獲得回数を70とした。

きょうの一首。講座で「泳」の題の作例として見せた一首。水泳と言うよりも除霊かデトックスめいた感じになったかも知れない。

 いやな雨を降らせる雲のひろがりがからだの外に出るまで泳ぐ/荻原裕幸

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July 17, 2008

2008年7月17日(木)

ほぼ終日、どこかで蝉の声がする。ほとんどは油蝉、ところどころ熊蝉、その他はまだ確認できていない。大リーグの野茂英雄投手が現役引退を表明したという。凄いことを成し遂げた人の引退はさみしくもあるが、この数年の苦渋を想像すると、どことなくほっとするような気分にもなる。夜、この話題でアクセスが集中したのか、公式サイトになかなかつながらない状態が続いていた。

 何にでも触れてゆく子や雲の峰/対中いずみ

第一句集『冬菫』(二〇〇六年)に収録された一句。こどもの旺盛な好奇心が、つぎつぎに情報を吸収しようとする姿は、見ていてかわいらしくもあるが、同時にはらはらすることも多いだろう。文字通り何にでも向かってゆくわけで、快か不快かとか安全か危険かとかの事前の判断がそこにはない。入道雲の下で、そんなこどもの姿を見ながら、ほほえんだり、やれやれと思ったり、ときに叱ったり、あるいは自身のこどもの時分をふりかえったりする母の姿が浮かんで来る。この句集を読んでいると、静かな時間、というものがからだのなかを通り抜けてゆくような感覚に出逢うことができる。他にも好みの句を引用しておく。

 花野から帰りし顔のままでゐる/対中いずみ
 かなかなや水減つてゐる硝子壜
 とほくまでゆく秋の靴そろへけり
 さきほどの冬菫まで戻らむか

きょうの一首。マドラーやスプーンの音に比べて、あれはどうも力が抜ける。

 ストローで何かをまぜるたよりなき音がして夏がゆるく傾く/荻原裕幸

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July 16, 2008

2008年7月16日(水)

午後、丸の内へ。地下鉄に乗っていたら、とある駅で停車したとたんに駅員さんが一人飛びこんで来て、こわばった表情で網棚をすみずみまでチェックして、またすぐに飛び出して行った。危険物を探しているような印象でひやひやさせられた。直後に車内アナウンスが流れたので、何か説明があるのかと思ったら、座席は譲りあってご利用下さいとか言っている。あれは一体何だったのだろうか。

愛知県産業貿易館で、ねじまき句会の七月例会。参加者は四人。出詠者は五人。今回は題詠「投」と雑詠。少人数で、のどかな句会となる。詠草をまとめる前、感触を掴みなおすため、何冊かの川柳誌や句集を読みなおす。ぱらぱらと読んでいると、はじめはあまりぴんと来ない。やがて、おもしろいなと思う句が見つかりはじめる。それから雑誌も句集も閉じておもむろに練りはじめたのだが、もう少し他に何かあたまを川柳的に活性化させる方法はないものだろうか。ぼくが句会に提出したのは以下の二句。

 投げるものがなくなったので海にゆく/荻原裕幸
 地図を買った匂いをさせて帰宅する

きょうの一首。戯歌。「日本語でおk」ということばは、しばしば嫌な空気を生んでしまうこともあるわけだが、敬意と苦笑と揶揄とが雑ざったような感じで使われるときには、何かあたたかい感じが生じるようにも思う。

 犬のことばで犬にかたれば日本語でおkとどこかで笑ふ声する/荻原裕幸

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July 15, 2008

2008年7月15日(火)

朝、書斎のカーテンを開けたら窓のすぐ外のあたりに燕のような鳥の影が見えた。しばらくホバーリングして、窓辺の様子をうかがっているようだった。燕がホバーリングするのかとか、まだ巣作りをする時期なのだろうかとか、眠いあたまでぼんやりと考えていて、ふと、ワイルドの『幸福の王子』を思い出した。午後、ひさしぶりに中食にしようと思って、近所の公設市場まで弁当を買いに行く。市場の人にひさしぶりだねと言われる。通り道の公園では蝉が大合唱をしていた。

深浦康市王位と羽生善治名人との第49期王位戦七番勝負第一局。後手の深浦の一手損角換わりから、両者腰掛け銀に構える。二日目のきょう、封じ手直後のあたりは深浦の方が指しやすそうに見えたのだが、羽生がとても妙な感じのする攻防の角を中段に打って以後、その角を攻撃目標にされながらも、形勢はゆっくりと羽生に傾く。最後まで強く攻め続けていた深浦だったが、あとわずかのところで届かずに投了。羽生名人がまず一勝をあげた。

きょうの一首。朝の時間をスケッチした、と言うか、クロッキーしてみた。動詞がいずれも「来る」になっているのは、小池光さんの「回転寿司『トリトン』」が意識のどこかにあったのかも知れないし、少し乱暴な気もするが、動詞を丁寧に書きわけると流れのようなものが消えて、結句の「わたくし」がぼやけてしまうので、とりあえずそのままにしておく。

 朝刊が来てエンジン音が二つ来て妻のこゑ来てわたくしが来る/荻原裕幸

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July 14, 2008

2008年7月14日(月)

午後、外へ出ると、ただひたすらに暑かった。名古屋の最高気温は三十五度を超えていたらしい。いつもは冷房が強すぎると感じる場所も、きょうはあまり冷えていないように思われた。所用を済ませる間、小一時間ばかり、自転車を日除けのない場所にとめておいたら、サドルが異常な熱をもっていて、坐って思わず、あぢぃ、と変な声が出た。梅雨明けとかもうどうでもいいという感じの暑さだった。

きょう、大野晋さんが亡くなったという。享年八十八歳。大野さんの共編著『岩波古語辞典』の序文(正しくは「序にかえて」)に以下のくだりがある。「だれしも、日本人であれば、知的世界に目覚めたとき、眼前にヨーロッパ・アメリカの学芸と技術とを見るであろう。それを学び取ることが日本の将来をきりひらくと多くの人は考える。しかし、ヨーロッパ・アメリカに学ぼうとする主体である日本とは一体何であろうか」。いたってシンプルな発想だが、なぜ日本や日本語にこだわってそれを考えようとするのか、理由として、これほど明確な発想はないと思う。十代で、まだ少し迷いのあった自分を、短歌の方へと押してくれたテキストの一つだった。ご冥福を。

きょうの一首。

 言ひまはしを換へればけふは炎天にわたしの雲をさがして歩く/荻原裕幸

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July 13, 2008

2008年7月13日(日)

午後、義母と義姉と家人と四人で喫茶店に行く。歓談。猫好きの義姉は、バッグが猫の影絵の柄で、シャツには赤い金魚がいっぱいいる。蛙好きの家人は、ポシェットが蛙の影絵の柄で、シャツでは蛙がスポーツカーを運転している。なんとなく夏だなあと思って眺めていた。帰りにスーパーに寄ると、お盆グッズの小さなコーナーができている。名古屋では、月遅れのお盆が一般的だと思うが、スーパーの側はそんなことを言っていられないらしい。

 広辞苑を装ふクロスの青のごとき朝(あした)はやがて靄ふかき谷/真中朋久

第二歌集『エウラキロン』(二〇〇四年)に収録された一首。歌集での配置から考えると、列車の窓からの風景のようだが、「やがて」は、場所を移動したと読んでも単なる時間の経過と読んでも、どちらでも通じるだろう。朝の自然の青さのなかに、広辞苑の表紙の色を連想してしまうというワーカーホリック的感覚と、それがほぐれてゆく感覚とを巧く見せていると思う。使いこんで紙のカバーが破れてクロスが剥き出しになった広辞苑が目に浮かんで来るようだ。同歌集から他にも好みの歌を引用しておく。仕事や家族をダイレクトに描く歌も楽しいが、そのほんの少しむこうに視点があてられたとき、世界がより豊かになっているのを感じる。

 夢に来てただ嗚咽してゐたりける見知らぬ女人なれどなにゆゑ/真中朋久
 ひとを抱きたましひを抱かぬさびしさもあるべしその逆もあるべし
 沖の島のうへに光の梯子あり登るものあらぬかとしばし見てをり
 手に豆ができたらつちに播いてごらん雲梯の木がのびてゆくから
 星ありし頃の岩波文庫なり見知らぬ久保さんの蔵書印もちて

きょうの一首。運転免許証をもっていないというのも不便なものである。

 日本を脱けだす以外の用途にてパスポートをひらく夕雲の下/荻原裕幸

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July 12, 2008

2008年7月12日(土)

朝、油蝉と熊蝉が交互にときどき鳴く。午後になると静かになる。やがて来る大合唱のためのリハーサルのようにも感じられる。きょう、友人から届いたメールに「この世で一番無くて困るのはお弁当箱の蓋だと思いました」と書いてあった。お弁当ができたのに蓋が見つからないのだという。メールを出すくらいだからすでに見つかっていたのか、あるいは何か別のものを蓋がわりにしたのか、それとも緊急事態が続いていたのか、どうだったのだろう。

五七五七七を、多少ふくらませたりへこませたりひずませたりもしながら、ひとつらなりのことばとしてまとまった感じを得ること。それと、この世界のどこかで誰かが何かを見たり聞いたり感じたり考えたりしている感じを得ること。短歌を書くというのはつまるところ、この二つを同時に進めて、一つの場所で出逢わせるような行為なのだと思う。問題は、人がそれぞれ、短歌にそれ以上の何かを求めることで、そのために出逢いまでに過酷な試練をたどることになったり、せっかく出逢ったのにまた一からやり直すはめになったり、昼ドラみたいな展開となって、なかなか幸福な出逢いがやって来ないのだろう。

きょうの一首。同名の川が四日市市にもあるそうだが、一応これは名古屋市を流れている天白川をイメージしている。むかしは、泳いだり釣りをしたり水切りをして遊んだ。川原のサイクリングコースで、ローラースケートとかゲイラカイトで遊んだこともあった。それがいつからか、たまに通りかかったとき、水面を少し眺める程度のつきあいになってしまっている。

 けふはあさから笹の舟ですもうすこし天白川を流れてみます/荻原裕幸

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July 11, 2008

2008年7月11日(金)

午後、家人と買い物に出かける。雨に濡れるのも気になったし、大した量はないと踏んで、ショッピングカートを連れて行かなかったのだが、いざ食品を買い揃えてみると、かなりな重量になっている。何でこんなに重くなったんだろう、とぼやいていたら、きっとカートが自分の重要性をアピールしているんだよ、と家人が言う。そんな特殊な能力があるカートならば、予想外に重くなったときにはぜひ迎えに来てほしいもんだ、とずっしり重くなった袋を提げながら思った。いずれにしても、次からは必ず連れて行くことにしよう。

石川美南さんの短歌と橋目侑季さんの写真のコラボレーション作品集『夜灯集』(山羊の木)が届いた。ノンブルのないカードに、短歌一首か写真一葉が刷られて、奥付をあわせた六十五枚が箱に詰められている。机上に広げて見ることができるので見やすいような気もしたが、一度ばらばらにしてしまうと、詰めてあった元の状態がわからなくなりそうで、妙な感じで緊張した。石川さんの短歌で、好みのものを二首紹介しておく。秀抜な感覚だと思う。ちなみに、カード上では、一行書きではなく改行の入ったレイアウトが施されている。

 文まとめあぐねてひとひ黄昏の東京都豆腐会館身近におぼゆ/石川美南
 鼻水はいづこより湧く真夜中のユーフラテスに石投げに行く

きょうの一首。ラメではなかったような気がする。

 どこかはるかな世界から来て砂の粒つけて歩いてゐる夏の肌/荻原裕幸

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July 10, 2008

2008年7月10日(木)

可燃ごみの収集日。ごみは午前八時までに出す決まりになっている。ただ、最近、収集車がやって来るのは午後三時頃なので、横着をして、正午近くにごみ袋を抱えて玄関を出たら、よりにもよって大家さんが通り道になるあたりで業者さんと何か相談しているのが見える。しかたないので袋をもってこそこそと部屋に引き返す。しばらくして、人の気配がなくなるのを見計らって、再びごみ袋を抱えて外に出る。誰の目もないようだったが、ついつい小走りになる。ごみ置場にまだ収集されていないごみの山があってほっとする。小市民的なひるさがりだった。

短歌誌「かばん」七月号が届いた。この号の「かばんゲストルーム」というコーナーに「なつのかたち」と題した短歌九首を出稿した。「かばん」は通巻292号になるという。300号が近いということは、創刊以来ほぼ四半世紀になるわけだ。中山明さんの編集時代から考えると、想像もできなかった展開になっているという印象もあるが、一方、短歌の世界の内でもあり同時に外でもあるような場として、この歌誌の位置や役割はつねにかわらずにそこにあり続けているとも思う。

きょうの一首。近隣で咲きはじめた。

 世相から見ればノイズであるやうな笑顔こぼれてゐる白木槿/荻原裕幸

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July 09, 2008

2008年7月9日(水)

上京。神田一ツ橋の学士会館へ。現代歌人協会の公開講座「小池光さんに聞く/短歌と諧謔の間」に出演する。出演者は、小池光さん、司会が松平盟子さん、聞き手がなみの亜子さんと荻原裕幸。この機会にいろいろ話を引き出そうと思って、歌集を再読したりその他の準備をして大上段に構えていたのだが、少し水を向けただけで、小池さんが、喋る喋る延々と喋るという感じで、二時間があっと言う間に過ぎた。諧謔をテーマとしたせいか、笑いを誘う話が多かった。それでも、いわゆるネタは意外なほど少なく、小池さんはつねに本音の短歌観に近いところで話をしていたようだ。聞いた人は絶対に得をしたと思う。以下、少しメモを。

小池光さんを含めた四人が小池さんの作品を五首ずつ引用して資料をつくった。諧謔がテーマとなれば、自然なことなのかも知れないが、第一歌集『バルサの翼』(一九七八年)からの引用が一首もない。ぼくが選んだのは以下の五首。

 ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう
 抒情せよセブン・イレブン こんなにも機能してゐるわたくしのため
 ふたふさの罐詰蜜柑のるゆゑに冷し中華をわがかなしまむ
 穴子来てイカ来てタコ来てまた穴子来て次ぎ空き皿次ぎ鮪取らむ
 柳原可奈子といへど人はみな余命のなかを生きてゐるなり

出典は順に、『廃駅』『日々の思い出』『日々の思い出』『草の庭』「短歌人」二〇〇八年七月号、である。『バルサの翼』で「かっこいい」世界をつくりあげた小池光が『日々の思い出』の諧謔的な世界に転じるプロセスとして、「ガス室」の一首を含んだ第二歌集『廃駅』(一九八二年)の「生存について」があるのではないかと考えた。かっこいい世界のなかでかっこいい私としてふるまうのは、言ってみれば、そのような私になりきってしまうことである。そこには諧謔が生じて来ない。「生存について」は、モチーフは諧謔とは遠いものだが、書かれる主体と書く主体とが別々に存在するという、現在の小池光のスタイルの萌芽のようなものが見えると思う。小池自身、当時、かっこいい歌になってしまう自作を見ながら、「ここには俺はいない」と感じたらしい。「かっこいい歌をつくるのが苦痛だった」とも語っていた。一九七〇年代から一九八〇年代へと向かう時間のなかで、方法的に完成した作家が必然的に出会った苦痛だと言えようか。

第三歌集『日々の思い出』(一九八八年)以後、小池光は、書かれる私と書く私とが実は二重に存在するという短歌の構造に自覚的になって来る。書く私がことばを操作することによって、書かれる私の表情が変わる。それを自覚したところに、諧謔を含めた小池の不思議な文体が生じたのだろう。一人称になりきるのではなく、一人称をつくる、ということになろうか。この点についても、小池は以下のように明言していた。「短歌は、五七五七七だけはなく、その他に、生活の折々に書いている、というフレームを共有してなりたつ」と。生活の折々にわきあがる感興とかではなく、そのようなフレームを共有してなりたつ、とは、言い換えれば、「現実の私をことばで創造する」ということになるだろうか。近代以降の自己像のありようと違うのは、小池が、自己像をつくりあげていること自体を作品の表面に出してしまっていることだろう。「穴子来てイカ来てタコ来てまた穴子来て次ぎ空き皿次ぎ鮪取らむ」の五八五八八というリズムにはあきらかな作為があるのに、しかし、同時に、回転寿司であたふたする私の表情がいかにもリアルに描かれているようにも見える。この二重性が小池の文体を現代の短歌として特徴づけている。

歌集『日々の思い出』の核となる日付のある歌について、当時のカメラで撮った日付入り写真のように「まったく無意味なことが、意味を感じざるを得ない」何かに転じるのと同じだと小池は語っていた。ただ、もちろん日付は詞書なのであって、短歌の文体ではない。このしくみを短歌の文体にもちこむと、たとえば、引用した「ふたふさの罐詰蜜柑のるゆゑに冷し中華をわがかなしまむ」の「ゆゑに」のような、ただの順接を因果関係として捉える文体が生じる。小池のことばによれば「意味を脱臼させる」ということになるらしい。何でもない夏の食卓の向う側にある何かを読みきらなければ読めた感じが生じない。その関係への過剰な執着に、諧謔その他の妙な感じがわきおこるのだろう。近作の「柳原可奈子といへど人はみな余命のなかを生きてゐるなり」の「といへど」なども同じ機能を果たしている。これは、穂村弘や少なからず彼に影響を受けた歌人が、高橋源一郎の言うところの「新しい言文一致」によって求めるリアルとは対極的な場で書かれていると言っていいのかも知れない。

きょうの一首。さるおがせという植物は別に笑えるような植物ではないが、どうしてかこの名前を入れた短歌や俳句を読むと笑いが生じる。なぜだろう。

 さるをがせと聞くたび訳もなく笑ふ笑ひがあすの向うから来る/荻原裕幸

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July 08, 2008

2008年7月8日(火)

昨深夜、誰もいないトイレで水音がするので、変だなと思ってのぞいてみたら、水が流れっぱなしで、止めようにも止まらない。水洗タンクのなかを見てみると、水がほとんど空っぽで、補充ができていない。しかも、部品がごちゃごちゃと散らかった状態になっている。しかたないので、本来あるべき姿を適当に想像しながらパズルのように組み立ててゆくと、オーバーフローを防ぐ排水用のパイプが劣化して、根元から折れているのがわかった。これが原因で水が溜まらずに、補充するはしから排水されているらしい。ということを水道屋さんに伝えて、午後、修繕に来てもらった。暑くなるといろいろなものが壊れるなあ。そう言えば、書き忘れていたが、きのうから小暑。きょうははじめて蝉の声を聞いた。

第79期棋聖戦五番勝負第四局。後手の羽生善治名人の一手損角換わりに対して、佐藤康光棋聖が序盤から激しく仕掛けて力戦模様に。過去に類例がまったくない展開ではないそうだが、それにしてもこの二人のタイトル戦は、実戦と言うよりも研究用にサンプルを作成しているのかと思わせる奇抜な展開が多いように感じる。中盤から終盤、佐藤の方が攻撃のフットワークがよかったのだが、羽生が慎重にそれをかわして攻撃に転じると、あっさり決着がついた。羽生が勝って二勝二敗に。

きょうの一首。短歌のなかで、好きなものを嫌い、嫌いなものを好き、と書くことは可能なはずなのだが、修辞的に好きなものを嫌いと言うような見え見えの言い回しでもないかぎり、どうもうまくいかない。「私」は誰にでもなることができると言うけれども、可変的なのは「私」の環境であって、「私」の性質に手をつけるとなるとかなり厄介な手続きが必要ではないかと思う。

 蜂蜜も蜂も苦手といふことを知られずにゐた頃のまみどり/荻原裕幸

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July 07, 2008

2008年7月7日(月)

七夕。というのは陰暦七月、秋に属するものだそうだが、少年時、笹に願いを吊るしたり、星空を眺めたりしたのは、きょう、陽暦の七月七日だったので、俳句の七夕とはずっときもちの折りあいがつかないままである。こういう感覚はどこかで調整すべきものなのだろうか。ぶらんこが春とか滝が夏とか朝顔が秋とか、その手の違和感とはまったく意味が違って、ちょっと調整がむずかしい。

午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。東西句会の月例句会。参加者は一人増えて六人となる。どこがどうだとはっきりはわからないが、メンバーのバランスがとれたような気がする。題詠「扇」一句と雑詠四句のあわせて五句。無記名で互選と合評。句会に提出した五句は以下の通り。「南風や」という初句は、あれこれ考え過ぎて失敗したか。

 南風やきらきらの一語に尽きる/荻原裕幸
 戻り梅雨梱包とけば縁欠けて
 草笛のとぎれぬ午後を訝しむ
 噴水にも三輪車にも影なくて
 扇出る実に意外なところから

きょうの一首。ニュースなどはわざわざ特殊なものを選ぶのだろうが、あまり殊勝なことが書かれていると、偉いなあとは思っても、読んでいて何かつらくなる。シンプルで健康的な願いを見ると少しほっとする。

 七夕にやきにくとのみ書きしるす誰かゐて風にそよぐやきにく/荻原裕幸

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July 06, 2008

2008年7月6日(日)

暑い日が続いている。名古屋の梅雨明けはまだのようだが、真夏日が標準という感じになって来た。午後、家人が外出。留守番。

9日の水曜、現代歌人協会の公開講座に出演する予定。「この歌人に迫る」のテーマで展開されているシリーズの「小池光さんに聞く」の回。サブタイトルは「短歌と諧謔の間」。意識的にそうした視点から小池光さんの歌集を読み直すと、一九八〇年代以後、短歌の閉塞感を打ち破るようなかたちで試行を展開して来た小池さんの姿が見えやすくなるように感じる。一般的に言えば、ポストモダン、短歌で言えば、ニューウェーブといった動きに、ともすれば懐疑的な態度を見せていたわけだが、小池さん自身、呼び名はともかくも、改革者、なのである。聞き手の一人として、小池さんの本質や本音に、少しでも迫ることができればと思う。

きょうの一首。スーパーで食品を買っていると、本気なのか冗談なのかわからなくなるような価格を見ることが増えた。もともとスーパー間で価格の差はあるし、冗談で価格をつける店などないわけだが、ある日突然、同じ店の同じ商品が、三割とか五割とか値上がりしていると、店員さんに向かって、本気ですか? と訊きたくなることはある。日本のシンボルをデザインに施したこの硬貨で、いま何を買えるだろうと考えたりしながら。

 使用価値なめらかにくだりゆく夏も咲きさかるこの硬貨の桜/荻原裕幸

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July 05, 2008

2008年7月5日(土)

暑い日が続く。名古屋の最高気温は三十四度近くになったらしい。先日、家人が水草を買って来て世話をはじめた。ウォーターポピーという浮葉性のもので、きちんと世話をすればきれいな花が咲くのだそうだ。荻原家の室内にいる植物は、放置していてもなぜか葉を中心とした緑の部分だけはやたらに元気よく育つ。逆にきちんと世話をしていても花がなかなか咲いてくれないことが多々ある。今度の水草はうまく咲いてくれるだろうか。

刊行されたばかりの詩集を数冊読んでいて、それが呼び水になって少し前に刊行されたある詩集を読み返していたら、何かがつながったように萩原健之さんがブログでその詩集のことを書いていた。驚きながら便乗してみる。

 夏至のことは嘘ですねと尋ねると
 彼は熱烈に日の傾きの恐ろしさを語った
 あなたにはわからないのですか
 日本の八月はすでに夕方
 家を出るときはまだ暗く
 家に帰るときはすでに暗い
 受話器を上げる手は暗く
 外に投げ出す足は暗い/安川奈緒

第一詩集『MELOPHOBIA』(二〇〇六年)に収録された「夏至を恨む」の一節。話者は見知らぬ「彼」を酔わせて、彼の夏を確かめたいと考える。彼の部屋で夏至への恐怖が語られる。話者はそれを勝手に自身への告白と解したり拒絶と解したりしながら、彼の夏へと近づいてゆく。幻想的な掌篇のような詩だが、むろん物語ではない。現実に着地点を得られないある種の妄想が、着地点を求めてさまようその動きのなかにだけ現実との接点を得ている、という奇妙な文体が構築されているようだ。

きょうの一首。妄想系。

 ハンカチ一枚だけ吊るされたその窓を恋の途上と決めて眺める/荻原裕幸

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July 04, 2008

2008年7月4日(金)

やけに暑いと思ったら、名古屋の最高気温は三十三度だったという。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人。詠草は17人分で17首。題は「登」。出題したときには気づかなかったが、「登る」が意外なほど短歌にまとめにくいのを書いてみてはじめて気づいた、と講座のはじめに話したところ、受講生さんたちの多くが、恨めしそうな顔で大きく頷いてくれた。実際に書いてみないと気づかないことが色々あるなあと思う。

週刊現代の七月十二日号、高橋源一郎さんの連載「おじさんは白馬に乗って」で、短歌と俳句についての言及があった。印象に残った箇所を引く。「短歌は、『今』の若者の生活を生々しく歌う力があり、俳句には、失ってしまった過去を呼び戻す力があるような気がする」。そしてさらに「いまやおじさんとなったタカハシさんには、やはり俳句が懐かしく、身に染みるのである」と言う。「身に染みる」ことに高橋源一郎が本気で価値を見出しているのかどうかは文脈上よくわからない。このエッセイを読みながら、6月25日の記事にも書いた、季語がデフォルト状態で抱えるノスタルジアが、俳句の魅力でもあり陥穽でもある件について、再び考えていた。

きょうの一首。講座で「登」の題の作例として見せた一首。

 やすらかな径をえらんで登りゆく夏蝶をいつまでも見てゐる/荻原裕幸

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July 03, 2008

2008年7月3日(木)

昨日、第79期棋聖戦五番勝負第三局。戦型は相矢倉。先手の羽生善治名人がオーソドックスに囲ったのに対し、佐藤康光棋聖は、囲いに入らず、右玉でもなく、ただ単に5二玉と浮いて、何と言えばいいのか、中玉、みたいな感じに。同型は過去にもあるそうだが、まっすぐこの型をめざしたのが新構想だという。ただ、駒が派手にぶつかりあう将棋になって、佐藤が終始指しづらそうに見えた。羽生が勝って一勝二敗となる。

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。雨模様だし暑かったのでサンダル履きで出かけたら珍しがられた。参加者は13人。今回の題は「守」。守の字義を活かして書かれた詠草では、守るという感覚に価値を置く人置かない人がはっきりと分かれていておもしろかった。いつもの通り無記名での互選と読解中心の批評を進める。歌会終了後、有志で居酒屋へ。桃の缶詰と蜜柑の缶詰のどちらが許せないかとか、なぜか延々と食べものの話をしていた。

きょうの一首。「守」の題詠として歌会に提出した一首。作者名が付いていたらそうは読んでもらえなかったと思うが、票を入れてくれた人は「くらがり」を子宮ないしは生殖に関連するものだと捉えていたようだった。

 もう死んだ繭なのか何も奏でないわたしが守るこのくらがりは/荻原裕幸

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July 02, 2008

2008年7月2日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の最終回。きょうは題詠「七月」と雑詠。講座終了後、受講生さんたちと喫茶店で歓談。秋期は九月からの開講となる。帰宅後、きょうの題に即して二句。

 七月や青きものばかりが増えて/荻原裕幸
 われに鳴る風鈴ひとつ買ひにけり

辺見じゅんさんの主宰する短歌誌「」第三号が届いた。結社誌のカテゴリーに入るものだが、町田康さん日和聡子さん斉藤斎藤さんによる鼎談が掲載されたり、東直子さんがエッセイの連載をしたり、外からの参加も寄稿も豊富で、総合誌的テイストを含む結社誌といった感じか。ぼくも招待作品として「はるのかたち」と題した短歌八首を出稿。佐佐木幸綱さんと角川春樹さんの間に挟まれて掲載されていた。

きょうの一首。はじめから、どこまでも平行線をたどる、のであれば、意外に良好な関係がたもてる。交差するからこそ確執も生じるわけで、交差したその時間や空間への郷愁が、人と人との関係をどこまでもこじれさせてゆくのだろう。などといった青臭いことを考えながら。

 海のなかのひざしのやうな答しか出なくて違ふ駅にて降りる/荻原裕幸

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July 01, 2008

2008年7月1日(火)

七月となる。きょうは半夏生、というフレーズを、今年はよく見たり聞いたりした気がする。天気予報で豆知識風に紹介されるのはともかくとして、特に印象的だったのは、スーパーの折込チラシ。半夏生に蛸を食べると云々と、関西の食の習慣を紹介しながら、蛸フェアみたいな感じの構成になったものを見かけた。例年それほど注目されていない雑節なのに、今年はどうしたのだろう。

 あたらしき本にうす茶の一点がつきてわたしのものとなりゆく/吉野亜矢

第一歌集『滴る木』(二〇〇四年)に収録された一首。「うす茶の一点」は、珈琲か紅茶をほんとちょっとはねさせてしまった感じだろうか。それがさして気にならない人なら、そもそもこんな歌を書くはずはないし、もしかすると気づきさえしないかも知れない。こう書いている以上、たぶん、うわぁ、と叫びたくなるような瞬間のはずなのだが、慌てず騒がず、と、あきらめ、との中間のような位置から、淡々と、世界に一冊だけの本、わたしだけの本になった、という方向へ認識を折り曲げてゆく。冷静に考えれば些細なことのはずなのに、何か力強く励まされている感じになるのが不思議である。

きょうの一首。一首をまとめたあとで、むかし実家の玄関に、武者小路実篤の「仲よき事は美くしき哉」という色紙のレプリカが飾ってあったのを思い出した。

 Y家かN家おそらくN家マンションの谿間にひびく青き口論/荻原裕幸

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