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August 31, 2008

2008年8月31日(日)

ひさしぶりの好天。かなり暑くなる。午後、家人が義母と外出。留守番。睡眠の時間帯が大きくずれたので、短時間で起きて、あとで仮眠をとる。ずっとぼんやりした感じ。夜、家人が、物洗貝の水槽の掃除をするついでに、模様替えをしていた。模様替えもこれで二回目。水槽のなかの死角が完全に解消されたので、いるとかいないとか騒がなくても済みそうである。

 ベランダのはるか遠くで日は暮れて追伸に書くかささぎのこと/田口綾子

「短歌研究」9月号に掲載された「冬の火」の一首。第51回短歌研究新人賞の受賞作品。一連の構成は、典型的な「あなたとわたし」の世界である。フレームが安定しているせいか、流れを説明するような作品がほとんどなく、一首一首、微妙な欠落感を含んだ心象が、鮮やかに結実している感じで、快い読後感があった。引用作は、手紙の内容が何なのかまったく示されていない。小さな幸福を噛みしめているのか、未来の見えない不安に苛まれているのか、そんなところだろうか。いずれにしても、大切なのは、二人の関係がどのような状況にあるかではなく、日暮れに目撃したか連想した鵲のことをふと追伸に書き記す、そのひとときの、言いようのない、時間の揺らぎのようなものなのだろう。全体に音楽に関連したイメージを配しているので、引用歌の「かささぎ」も、あるいは「泥棒かささぎ」かも知れないが、鵲の橋、を思い浮かべれば、それだけで十分にひかる歌だと思う。他にも、佳いと感じられた歌を少し引用しておく。

 フェルマータのような祈りは届かずにある花園を燃やしてしまう/田口綾子
 ツェルニーを知らないひとが口にする恋人という語の美しさ
 早朝にキャッチボールをしませんか壊れたものをきらきらさせて

きょうの一首。他者の反応を計算した上で、巧く話を進めようとしても、計算通りにならないのが他者である。それが楽しかったり、ひどく疲れたり。

 アレグロな話をしようとした秋のちからが的はづれに作用する/荻原裕幸

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August 30, 2008

2008年8月30日(土)

時折強い雨が降っていた。昨日ほどの豪雨ではない。午後、小雨のなかを一人で歩いて買い物に出る。食品や日用品については、不足したものを補充するのが自分の買い物の感覚で、ふっと思いついて何かを買うということはあまりない。たとえば書店で買い物をするときのように、好奇心にまかせた感覚で食品を買ったら、やたらに食べ残しが出てばちがあたりそうな気がするのである。きょうも予定通りの品を買い揃える地味な買い物を終えて帰宅。

 地下鉄に女子高生一師団来てその威力春の嵐のごとし/原梓

「短歌研究」9月号に掲載された「図書館余聞」の一首。第51回短歌研究新人賞の次席作品である。一連は、タイトルからもわかるように、ブッキッシュとまでは言わないが、書物に対する偏愛を感じさせるもので、選考ではそのあたりの感触も評価につながっている。ただ、自分の好みを言えば、構えて書くことのできる図書館的世界から抜け出したときの表情を見せる引用作などが、むしろ作者の感覚や力量がよく見えて佳いと思う。一連の前後から推して、リクルートスーツを来て就活に奔走する一人称が見た風景なのだろう。若さが若さに圧倒されているその感じが、ぼく自身の年齢から来る笑いの感覚と追憶から来る哀愁の感覚を同時に刺激する。他にも、主題的な作品とそうでない作品のどちらにもおもしろいものがあった。以下、少し引用。ちなみに、図書館もの(?)として、「図書館奇譚」のファンタスティックな印象を借景にはしているが、ありがちな『華氏四五一度』とか『図書館戦争』などの方向に行かなかったのも吉。

 湿原を歩む温度で図書館をひとびと歩むややうつむきて/原梓
 履歴書という定型にむにゃむにゃのわれを投じ「原 梓」となりぬ
 ありとあらゆる言の葉なべて遺言と思えば渦となる花吹雪

きょうの一首。ハードカバーの背を片手でもって勢いよく閉じると、紙鉄砲のような音がする。あの音はよくひびく。

 本を閉ぢるときの淋しき音がしてそれ以後音のしない妻の部屋/荻原裕幸

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August 29, 2008

2008年8月29日(金)

昨深夜、ものすごい豪雨が続く。テレビのニュースを見ていたら、二キロと離れていないあたりにも避難勧告が出ていて驚く。ここは高台なので浸水の心配はないが、友人や知人の家が該当エリアだったので心配になる。キッチンの天井が少し雨漏りをした。朝にはとりあえず雨もやんで、近隣ではつくつく法師の声が聞こえた。午後、栄に出ると、三越が臨時休業、地下街のエスカレーターもいくつか点検中で止まっていた。どこかふだんと違う風景を眺めながら、スカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者12人、詠草12首。題は「眠」。豪雨の影響があったのかどうか、出席者は少なめだった。

第21期竜王戦挑戦者決定三番勝負第一局。木村一基八段と羽生善治名人の対局。後手の木村の誘導で相矢倉に。多少手順が前後したものの、55手目までは、数日前の王位戦の対局とまったく同じ局面である。定跡からの分岐後は、羽生が細く強くひたすら攻め続ける展開に。途中、木村の反撃にも受け手をほとんど出さず、見えにくい手を見つけて羽生が優勢をはっきりさせたのが135手目。そこから、受けの名手と呼ばれる木村が粘りはじめる。たとえプロ同士の対局でも、劣勢から数十手も正確に粘り続ければ、多くは相手のミスで逆転する。ただ、本局は、羽生の異常なほど正確な寄せが続いて木村が投了。191手の大熱戦だった。

きょうの一首。講座で「眠」の題の作例として見せた一首。夢のなかでは、虚構的な作品よりもずっと自由に「私」が変身できるはずなのだが、たとえば、飛ぶことができるといったような、ふだんの私にあり得ない能力が加わるレベルにとどまり、それ以上に突飛なものにはなった試しがない。夢のしくみに限界があるのか、自分の想像力に限界があるのか。

 沼になるとか秋風として吹くこともなくて眠りのなかでも私/荻原裕幸

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August 28, 2008

2008年8月28日(木)

午後、少し眠くて、集中力が出なくて、顔を洗おうと思って、ぼんやりしたまま洗面所に行って、両手に水を掬って、顔につけた瞬間、眼鏡をかけたままだったのに気づいて驚いた。自分のあまりの間抜けぶりに、すっかり眠気がさめた。夕刻、桜山の美容室で髪をカットしてもらう。伸びっぱなしの夏草を刈ったような感じ。夜、雷雨がものすごいことになって来る。

 煙草求め来し一人去りしばししてヒューズ求め又マッチ求め来るあり/岡井隆

初期歌篇「O」に収録された一首。戦後間もなくの頃の作品。「河和寮生報告」と題して構成された、学生たちの寮生活の素描である。特別な日というのではなく、たぶんふつうの日常がこうだったのだろう。人が次々に物を借りに、と言うか、貰いに来る。ヒューズやマッチはもはや過去のもの、煙草もそうなりつつある。今なら何にあたるのだろう。何にあたるにしても、他人の部屋には行かず、コンビニに行きそうではあるが。土屋文明調の大胆な字余りが、格助詞の排除によって、スピード感のあるリズムを生んでいるのがおもしろい。正調でこの格助詞の排除をすると、稚拙な印象が出やすい。それを逆手に取ったような文体である。

きょうの一首。戯歌。

 これ空調これ蛍光灯これテレビこれ不明押すと何が起きるか/荻原裕幸

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August 27, 2008

2008年8月27日(水)

少し夏っぽい感じの戻った一日だった。午後、所用で外に出かけて、気に入った店がなくて、家人と二人、某所のベンチで、おにぎりとたまごやきを食べて昼食を済ませた。隣りのベンチでは女子高生が同じことをしていた。大辻隆弘さんの時評集『時の基底』(六花書林)が届く。この十年の時評および時評的文章をまとめた一冊。ほとんどの文章は初出で読んでいるはずだが、ぱらぱらと読んでみると、テキストの背景の状況もこちらの考えも少なからず変質しているせいか、初出時とは微妙に違った印象がある。楽しみながらじっくり読み進めたい。

第49期王位戦七番勝負第五局。相矢倉。先手の羽生善治名人が、森下システムの変形のような感じから穴熊に。深浦康市王位は、金銀四枚で矢倉を手厚く固める。昨日の封じ手直前までは、前例のある展開だったらしい。深浦が新手で応じたあたりから激戦となるが、深浦の手が次々に羽生の攻め駒を勢いづけてしまう。二日目のきょうの午後になった段階で、優劣がはっきりしているように見えた。そのまま羽生が押し切って二勝目をあげた。

きょうの一首。友人の撮った写真について考えながら。

 ゆふやみにやや溶けにくい彩りの花束だけが坂くだりゆく/荻原裕幸

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August 26, 2008

2008年8月26日(火)

夕刻、近所のスーパーで買い物。家人が、客の投書と店側の回答が貼り出してあるのを読んでいた。冷房が強すぎて店内が寒い、という投書があって、店側からは、冷房の設備はなくて、冷蔵庫の冷気で店内が冷えているため、適度な調整ができなくてもうしわけありません、とお詫びの回答が出ていたらしい。何年も通っている店なのにまったく気づかなかった。

琴欧洲関のオフィシャルブログを読んでいると、写真に添えられた、見事なまでにたどたどしくすきだらけな日本語の文章のなかに、気は優しくて力持ちといった感じが浮かんで来て、何かこころが和む。大関の人柄に加えて、制作スタッフの助力によるところも大きいのだろう。多用される平仮名、不規則に紛れこんでいる漢字、助詞の欠落、促音の欠落、形容語の語尾の欠落、等々、どの一つを考えてみても、一般的な文章にあらわれた場合は気になりそうなのだが、それらがまとめて押し寄せると、安定した文体に見えるから不思議なものである。

きょうの一首。むかし、夏休みの宿題がなくなったら、この感覚も消えるのだろうと思っていたのだが、宿題には関係のない感覚だったらしい。

 四分音符が八分音符のつらなりになりつつあるか八月が逝く/荻原裕幸

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August 25, 2008

2008年8月25日(月)

曇天が続いて時折小雨が降る。気温もぐんと下がる。朝のうちは涼しいと言うよりも寒い感じだった。これでクーラーも要らなくなるかなと思っていたところへ電気の使用量の通知が来る。先月の三割増、先々月のほぼ三倍、例年よりもやはり少し高めである。暑い夏だったらしい。午後、父母が遊びに来る。

 女生徒はいま紺いろの莢としてプールの縁にしづくしてゐる/大辻隆弘

歌集『兄国』(二〇〇七年)に収録された一首。大辻隆弘さんの作品に時々あらわれる職場詠としての学校の風景だろう。俗っぽく言えば「スク水の女生徒を眺める男性教諭の視線」である。俗な文脈のなかに置けば俗にもなりかねないモチーフだが、そんなことはものともしない散文写実調が、夏の日の健やかなスケッチを、実に見事にしあげている。社会の文脈に無理につなげようとしない、作為を感じにくい、純化された風景に近いひかりを感じる。「紐育空爆之図」以後、その社会性で話題になることの多い作者だが、本領はこういう文体にあるような気がする。

きょうの一首。「あなたは?」という同じ質問に対して、千変万化の答が生じることに着目したのは寺山修司だが、大事なのは、答の多様さではなく、多様な答を生じさせる状況の方ではないのか、と、この頃よく思う。

 どんな音かはともかくも音たてて壊れるものに属すると思ふ/荻原裕幸

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August 24, 2008

2008年8月24日(日)

誕生日。四十六歳になる。家族とか生活といったこととはまた少し違った次元での話なのだが、四十歳を過ぎたあたりから、地図のない旅をしている感覚がどんどん強くなって来た。短歌などは特に。楽しいような、不安なような。でも、たぶん不安も含めて楽しんでいるのだと思う。メールや掲示板や日記等で、誕生日のメッセージを下さった方々に深く感謝します。今後ともどうぞよろしく。

北京五輪もきょうで閉幕。外側にはいろいろ気になることのある大会だった。競技そのものはいつものように楽しめた。メダルが獲れても獲れなくても、みんなよくがんばったなあ、と思うことのできるのが、五輪ならではの感覚か。それでももちろんメダルの獲得はきもちのいいもので、中継を見ていて何回か泣いてしまった。スポーツを熱中して見ていると、どうも極度に興奮してしまうらしい。

きょうの一首。もちろん駅だけではない。線を引くことには何でも生み出す万能のちからがある。ただ、現代では、その線を引くための場所が、だんだん少なくなりつつあるようだ。

 地面に線を引けばどこでも駅になるこどもの国の秋風に乗る/荻原裕幸

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August 23, 2008

2008年8月23日(土)

処暑。雨が降る。気温はかなり低くなったようだが、湿っぽくて、きのうまでの爽やかな感じはどこかへ行ってしまった。早朝から家人が外出。義母と義姉とセントレアまで義父を迎えに。留守番。家人は義父からたくさんおみやげをもらって帰宅。夕刻からふたたび家人が外出。中学時代の友人たち五人とひさしぶりの会食に。ふたたび留守番。

角川書店から「短歌」9月号が届く。「ほんのページ」欄に、松村由利子さんの短歌鑑賞をまとめた『語りだすオブジェ』(本阿弥書店)、笹公人さんのブログでの活動をまとめた短歌入門『笹公人の念力短歌トレーニング』(扶桑社)、それに大下一真さんの第四歌集『即今』(角川書店)の三冊の書評を執筆した。分量は一冊あたり約600字ずつ。できるだけ気ままに筆を走らせてみた。

きょうの一首。舌というのは母国語になじむように育てられているのか、外来語が一定量以上に増えるのを嫌がるらしい。たどたどしく外国語を発音するときには、そんなに拒絶反応は出ないような気もするのだが。

 かたかなのむやみにゆれる電話してしばらく舌がことばを拒む/荻原裕幸

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August 22, 2008

2008年8月22日(金)

立秋もきょうまで、あすからは処暑。暦に気でも遣っているのか、この二日はかなり秋めいた感じである。クーラーをかけずに窓をあけていると、物音の聞こえ方がどこか違って、自分が属している空間が少し広くなったような気がした。夜、家人の髪のカラーリングをする。

小さな貝の飼育には水位が数センチもあれば良さそうなものだが、濾過器を使うためには水槽にしっかり水を入れる必要があって、しかも肺呼吸をする種であれば陸地も必要になる。というわけで、家人は、小石や少し大きめの石や小鉢などを積みあげて水槽のなかにかなりややこしい空間をつくりあげた。物洗貝にとってはこれがかなり快適だったようで、あちらこちらを探検したり、濾過器の水流に流されて遊んだりとパラダイス状態になる。と、まあ、そのあたりまではよかったものの、水槽内にやたらに死角が増えて、八匹だったはずの貝が七匹しか確認できなくなり、気になって二人で探すはめに。何匹? こっちは四匹いるよ、こっちは三匹、とか言っている間にも貝が動くのでまた数え直し。動くなってば、と言って通じるわけもなく、しばらくはその繰り返し。無事に八匹を見つけるまでにかなり疲労したのだった。

きょうの一首。

 数年後の秋のはじめのひだまりに来てゐるやうな足音がする/荻原裕幸

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August 21, 2008

2008年8月21日(木)

一応真夏日ではあったらしい。終日とても爽やかな風が吹いていた。きょうは書斎のクーラーをかけずに過ごす。朝日新聞の夕刊一面に「速いジャマイカ」という見出しがあって倒れそうになる。本気ですか。北京五輪の特集で、わかりやすいと言えばわかりやすいわけだが、それにしても、まさか一面の見出しにまでアエラのコピーの影が及びはじめるとは。と言うか、ネットスラングの影響なのか。

 口空けて見るがよろしき天の川/加藤哲也

第一句集『舌頭』(二〇〇五年)に収録された一句。何々がよろしき何々、は、一つの型であり、類想の句や酷似した句が出てしまう危険にさらされる。ただ、これという感じで巧くはまったときには、実に楽しい句になるとも思う。さて、この句、誰と何人ほどでなのかはわからないが、初秋の夜空を見あげている風景である。恋愛の相手の少し間の抜けた顔を見たところと読んでもいいし、こどもたちが熱中しているときの顔だと読んでもいい。そうした顔を見ながら、では私も、と、おもむろに夜空を見あげる姿が浮かんで来る。もちろん口はぽかんと空けたままで。以下、同句集の好みの句を、他にも少し引いておく。

 栗筵踏みてここより三河かな/加藤哲也
 海月より一足先にひるがへる
 すぎ去りし日々の奥より燕来る
 誰からとなく別れゆく良夜かな

きょうの一首。

 ここからは見えない場所で咲く萩を見るため夢の外に出てゆく/荻原裕幸

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August 20, 2008

2008年8月20日(水)

大人たちの夏休みが明けて、こどもたちの夏休みもそろそろ終盤に入る頃か。宿題の自由研究とか、いまはどんなことをするのが主流なんだろう? 自分が何をしたのかもほとんど忘れてしまったが、中学時代に、苦労してパーツを探し出して、旧式の真空管ラジオをつくったのはよくおぼえている。電源を入れると、ぶうぅん、という変な音が出て、放送を聞くまでに随分時間がかかるようなレトロな感じのラジオ。クラスで披露したとき、その性能よりも、あからさまに旧式であるということで、妙な注目を集めたりした。

夜、伏見で、九月に異動が決まっているYさんの送別会があった。送別会と言っても形式的な大人数のものではなく、身内的なメンバーの集まりで、会席料理をつつきながら、Yさんの業界にかかわる愉快な話やディープな話を楽しむ。座としたのは、御園座の裏手のあたりにある、圓珠という店。隠れ家っぽい雰囲気の構えで、一応は宴会もできるらしいのだが、座敷席はとても落ち着いた感じだった。名物の昼夜蕎麦なるものがあって、蕎麦の実の真ん中からとる白い粉と外皮からとる黒い粉とをそれぞれ別々にこねて、表裏が「昼夜」の白黒二色になるようにあわせて平たくのばしたものだという。目と舌とで楽しむ蕎麦。二色をあわせた蕎麦は、現在では、全国でもここでしか食べられないのだそうだ。

きょうの一首。

 その白くひかる歯列の奥にあるうすくらがりに秋をはぐくむ/荻原裕幸

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August 19, 2008

2008年8月19日(火)

夏らしい植物をと思った家人が、ウォーターポピーを鉢で買って来て育てはじめたところ、鉢の土のなかから物洗貝なる貝があらわれて、主役だったウォーターポピーが枯れてしまった後も、われわれの世話をすべしと主張するので、何か間違っているような気がすると言いながら、家人は貝の世話に追われていた。その後、不慮の事故で死んだりした個体もあったが、適度に繁殖して、八匹(貝の助数詞が「匹」だったかどうかはさだかではないが)が、ガラスのボールのなかでどこか居心地悪そうに生活をしていた、というのが、前回(?)までのあらすじ。きょう、夕刻、家人と所用で出かけて、途中、ペットショップで、濾過器がセットになった水槽と小石を買う。そのまま金魚でもめだかでも飼えるらしいが、荻原家で飼うのはもちろん物洗貝たちである。しばらく楽しませてもらえそうだ。

第21期竜王戦の決勝トーナメント五回戦。丸山忠久九段と羽生善治名人の対局。一手損ではないふつうの角換わりから相腰掛け銀に。決して静かな展開ではないが、八十手目あたりまでは一応の定跡の範疇で手が進んだ。以後、先手の丸山が巧みに攻めをつないだ上で羽生に手を渡すと、羽生が攻めるだけ攻めて丸山に手を渡す。わかりやすい展開で交互の攻めが続くなか、丸山の優勢か勝勢と見えた最終盤、丸山に一手のミスが出て、投了。前局に続き、羽生マジックな展開となった。何が起きているのだろうと誰もが思うような逆転勝利が続いている。これで羽生名人は、挑戦者決定三番勝負への進出が決まった。

きょうの一首。クロッキーの感覚で。そう言えば、歳時記の説明には、削った氷にシロップをかけたもの、とかあるのに、写真が、あらかじめシロップを入れた容器に氷を削って入れたもの、だったりするのが不思議。東京は写真の方のタイプらしい。名古屋は説明の方のタイプ。

 かき氷の嶺のみどりを零しつつときどきとぢる一重のまぶた/荻原裕幸

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August 18, 2008

2008年8月18日(月)

あいかわらずの真夏日。それでも、クーラーを切って過ごす時間が増えた。どこか少しずつ秋めいて来た、ということにしておこう。スーパーの梨が少し買いやすい値段になったので梨を買う。幸水。毎朝、バナナと他に何かもう一種類果物を食べる。冬場は林檎に固定されてしまうのだが、この時期は、西瓜、桃、メロン、梨、等々、一時的に選択肢が増えるのが楽しい。

愛読していたブログの一つが、突然に閉鎖の宣言をした。理由は不明。アーカイブの文章がごっそり削除されているので、冗談でも一時的な休止でもないらしい。すでに廃墟と化しつつあるブログの跡地を、しばらくぼんやり眺めていた。友人でも知人でもなく、ただ一方的にブログを愛読していただけなので、その人のテキストを、もう二度と読めなくなる可能性が高い。一度食事に誘ってみようと思っていた隣りの部署の人が、ある日突然退職して職場からいなくなったような、いまさら連絡先を訊くわけにもいかないような、そんな気分になる。

きょうの一首。

 蝉のむくろの左のはねのふち欠けて夏ふかきまま秋となる午後/荻原裕幸

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August 17, 2008

2008年8月17日(日)

近隣の蝉はあいかわらずの合唱を続けているが、マンションの敷地内の蝉の数はあきらかに減った。階段スペースに飛びこんで来る気配がなくなり、駐車場にときどき出没する程度となる。捕虫網を持ってうろうろするのもあとわずかか。

 家族が星であり
 わたし個人が涙であり
 両親が回顧であり
 おとうとは
 天気雨/三角みづ紀

第三詩集『錯覚しなければ』(思潮社)に収録された「家族パズル」の冒頭部分。メタファというのは、たとえ思いつきで書かれたときでも、書き手によって効果を測定されて、微調整が済まされているものだと思う。少なくとも、現在のではない現代詩を読んだときにはそう感じることが多い。しかし、ここには、思いつきの感触もなければ、効果測定や微調整の痕跡もないような気がする。まるで、わたしのなかであらかじめ決まっていることをただひきだして来ただけ、という感じなのだ。作品はここから、ひきだしてしまったものの「後始末」へと向かう。思惟の断片をつなぎあわせながら、どうしたら読者と共有している文脈にこの家族をのせられるのかが、次々と模索されてゆくのである。末尾では、以下の「後始末」に到る。

 こころがたくさんだ
 家族にはひとつで良い
 顔がたくさんだ
 家族にはひとつで良い
 おもいがたくさんだ
 家族にはひとつで良い
 つまり
 家族は
 要らないものからできている/三角みづ紀

反語的な共同体論としてよくわかるし、たとえば、北京五輪の「同一个世界同一个梦想」というスローガンがもたらしてしまう違和感にも通じている。むしろ、わかりすぎて逆に、こんなにきちんと「後始末」をしてしまうのはどうなんだろうとさえ感じられた。ただ、この「後始末」を読んだあと、冒頭へ行を遡ると、事情のさっぱりわからないその家族に、理由のさっぱりわからない引力が生じている。あれっ? と思う。自己言及、と言うか、自意識のつらなりに見えていたものが、「詩」のことばの流れの感触をもちはじめている。どこか死角のような場所で、「詩」を拾いあげたのかと、行を辿りなおしてみてもよくわからない。不思議な詩だ。抽象的な自分語りをするブログだと思って読んでいたら実はそれが詩であった、と気づいたときのような奇妙な感覚が残る。

きょうの一首。

 渡りながら見た夕虹が父なのかよく揺れる橋が父だつたのか/荻原裕幸

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August 16, 2008

2008年8月16日(土)

気象情報のサイトを見ると、名古屋では、真夏日か猛暑日がすでに一か月以上延々と続いているらしい。暑いけど暑いと言うのにもちょっと飽きて来た。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。夕刻、少し雨が降って、少し涼しくなる。家人は、海外に出かけていた義姉夫婦からおみやげをもらって帰宅。

 果てしなき彼方(かなた)に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも/近藤芳美

歌集『早春歌』(一九四八年)に収録された一首。「目次」「あとがき」等で照合すると、一九四一年=昭和十六年かその前年の作品であるらしい。召集されて入隊した後に「湖北」に送られたときのことだという。その他にも、書かれた状況が詳らかにされているようだが、「果てしなき彼方」にある日本の、故郷や家族を想って、手旗信号で、声にするのが憚られるメッセージ、届かないメッセージを打ち続けている人の姿が見えれば、それ以上の解釈は求めなくてもいいと思う。一つの時代にどう対峙するかといったイデオロギー的な意識を超えて、人が瀬戸際にあるときの切迫感が伝わって来る。「戦争を憎む」とことばにしたときに漏れてしまう何かが、こうした作品のなかには強く息づいているように感じられる。

きょうの一首。

 戦後ではなく戦前なのだとこゑがする病葉のある垣の向うで/荻原裕幸

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August 15, 2008

2008年8月15日(金)

終戦記念日。戦後六十三年となる。戦争も戦後も昭和も、年々遠ざかっているわけなのだが、不思議なことに、さほど遠いところにはないという感覚が、年々ふくらんでゆく。ひるさがり、外に出てみると、お盆休みのせいだろうか、あたりにとても静かな感じがひろがっていて、鳴き声、エンジン音、会話、その他、聞こえているはずのすべての音が、どこか遠いところに吸いこまれているような気がした。

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中/近藤芳美

歌集『埃吹く街』(一九四八年)に収録された一首。レインコートを着て部屋のなかにいる姿というのは、何か奇妙な感じがあって、そこに目をつけた寺山修司は、この歌の印象を「日常の現実が意識から除去されることによって生まれた」とか「『室内逃亡者』の感傷」だと読みたがっている(「鑑賞現代百人一首」)。たしかにそう読んでしまえば面白い。面白いが、近藤芳美がそんな方向に「逃亡」するとはとても考えられないし、作者の文体から考えても「着る」は「着て居る」ではなく、出かけるためにレインコートを「着た」と、ごくふつうに解釈すればいいのではないか。この一首の焦点は「水銀の如き光に海見えて」にあるのだと思う。雨が強くなって白っぽく荒れる海を、観察と観念とをないまぜにしたような比喩で捉えて、日本や日本人のために抒情しなくなった海の印象と日常のひとこまとを結んだところに、戦後の短歌としての感触が生じているのではないだろうか。

きょうの一首。

 ずぶぬれでかけこんでゆく夾竹桃がつくる八月の雨の死角へ/荻原裕幸

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August 14, 2008

2008年8月14日(木)

午後、ひさしぶりに実家に行く。先日、電話で話したとき、母が、このところ足が少し痛むと言っていた。その後どんな具合かと訊いてみると、歩けなくはないが歩くと痛むと言う。ただ、そう言いながら、こまごまと家のなかを動きまわっては世話を焼こうとする。頼むからじっと坐っていてくれと言っても、動きまわるのをやめようとはしない。どう心配していいのかわからなくなる。母は、むかしから、何かをしてほしいという願望にはそれなりに対応してくれるが、何かをしないでほしいという願望にはまったくと言っていいほど対応してくれない。母親という存在の特性のようなものなのだろうか。

 わが夏帽どこまで転べども故郷/寺山修司

句集『花粉航海』(一九七五年)に収録された一句。風に飛ばされて転がり続ける夏帽子とそれを追いかける私。行けども行けども故郷の風景がひろがっている。大いなる故郷に包まれている安心感と、そこから逃れることができない束縛感とが、こもごもに浮かびあがる。実景として読んでも十分に味わえる句だが、映像作品の誇張的な表現のように、何百キロも転がり続けたと想像をふくらませて読むのも楽しいかも知れない。寺山修司の短歌では、故郷が描かれるとき、安心感か束縛感か、どちらかの方向にシフトされがちである。一句のなかで二面性がそのままたちあがるのは、俳句ならではの味わいを見せていると言えようか。

きょうの一首。

 縛られてゐる疾しさの木槿ひらく出たことのない故郷の空に/荻原裕幸

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August 13, 2008

2008年8月13日(水)

本日13日付の中日新聞/東京新聞の夕刊に、新作の短歌七首「鳥の舌」と小文が掲載された。文化面の「詩歌への招待」というコラムである。歌会での題詠やこのブログでの「きょうの一首」など、一首単位で書きながら模索している文体の感触が、複数まとめて書くとき、なぜかすぐに消えてしまうので、今回の「鳥の舌」では、意識的にその感覚を反映してみた。

第21期竜王戦の決勝トーナメント四回戦。深浦康市王位と羽生善治名人の対局。後手の羽生は一手損角換わりから四間飛車、珍しい金無双に構える。深浦は地下鉄飛車から端攻めを狙う。難しそうにも見えた端攻めだったが、強引に突破して、はっきりと深浦の優勢が見えたところで、羽生が攻勢に転じる。この時点では、逆転を狙うと言うよりも、敗戦なりのかたちづくりに見えたほど、両者には明確な差があったように思う。それが、深浦のほんのちょっとした受けの間違いによって逆転。いわゆる羽生マジックな展開に。深浦がついに羽生に勝ち越すか、羽生が七冠制覇の可能性を残すか、等々、羽生名人のファンとアンチのみならず、将棋ファン全体に注目されていた一局は、羽生名人の逆転勝利で終った。

きょうの一首。はじめは、知人をモデルに書きはじめたのだが、推敲中に予定外のところに着地して、元に戻せなくなってしまった。不思議な詩型だ、と、書くたびに感じさせられる。

 罪悪感がきざすのもたのしみながら単身で向日葵を見にゆく/荻原裕幸

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August 12, 2008

2008年8月12日(火)

昼夜を問わず、蝉の声はまだまだにぎやかだが、マンションの階段に転がっている蝉たちは、ほとんどがつついても動かなくなった。油蝉と熊蝉はそろそろ終りが近いのだろうか。死骸を見ながら、この虫の、羽化以後の短命をはかなむべきか、卵からの長命をことほぐべきか、どちらなのかとぼんやり考えていた。そう言えば、つくつく法師の声を今年はまだ一度も聞いていない。

文庫本の整理をしていたら、銀色夏生の本が二冊出て来た。もっとたくさんあったような気もするのだが、二冊しか見あたらない。奥付の発行日を見ると、元号は昭和である。『わかりやすい恋』という本ともう一冊。『わかりやすい恋』は、銀色夏生をとにかく一冊読もうと思って書店で物色したなかで、写真の女の子がずば抜けてかわいかったので、ほとんど迷わずに買った。あとから、銀色夏生の愛読者だった歌人のYさんに、『わかりやすい恋』の女の子は森高千里に似てるね、と言ったら、だってあれはデビュー前の森高千里だよ、と言われた。そりゃあ似ているわけだ。そんなあれこれを思い出しながら、ぱらぱらと本をめくる。

きょうの一首。観ると看る、あるいはその他の「みる」にしても、用字だけでそれほど明確に状況を書きわけられるわけではないのだが、視線に質の違いがあるという感触は浮かびあがるだろうか。

 秋暑きびしく微かに痩せてゆく妻を観ながら看ずに過ごす一日/荻原裕幸

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August 11, 2008

2008年8月11日(月)

午後、もっとも暑くなりそうな時間帯に外にいて、きょうの風は爽やかだとか、日陰に入ると案外涼しいとか、どこかに炎暑の衰えを感じていたのだが、名古屋は最高気温が三十五度を超える猛暑日だったという。もうすっかりこの暑さに慣れてしまったのか、それともこの暑さでこちらの感覚が壊れているのか。

俳句について確認したいことがあって、検索エンジンであれこれ検索していたら、その案件とは何も関係なかったのだが、著作権に関連した「判例」が出て来て、思わず読んでしまった。投稿してメディアに掲載された作品が、作者に何のことわりもなく選者による添削を受けていたので、著作者人格権が侵害された、等の訴訟の控訴審の判決である。控訴人の主張は認められていない。俳句の添削の是非については諸見解があるにせよ、改作についての意見を伝える手続きの問題でしかないように感じていたので、裁判が起きていたことにいささか驚いた。自分の感覚では、争うべき点があるとすれば、請求原因に記された「日本語表現の常軌を逸している」レベルでの添削があったかどうか、ではないかと思うのだが、添削そのものが慣習かどうか、に焦点が据えられていて、肝心の添削の内容にはほとんど審議が及ばなかったようだ。

きょうの一首。

 遠い水面を眺めつつ待つバス停に吹いてもゐない秋風を聴く/荻原裕幸

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August 10, 2008

2008年8月10日(日)

ウォーターポピーの遺児となった巻貝たちはすくすく育っている。すくすくと言ってもむろんミリ単位である。世話をする家人は、口では手間がかかるだのめんどくさいだのとぐちを連発しながら、満更でもなさそうな表情をしている。調べてみると、物洗貝(ものあらがい)という種であるらしい。短歌や俳句にも登場していただろうかと思って少し探すと、平井照敏の第一句集『定本・猫町』(一九七四年)に「コスモスにモノアラガヒの声がせり」が見つかった。ただ、この奇妙な句、意味するところがさっぱりわからない。誰かわかりますか。

 蝉飛んで墓の古さよ新しさよ/秋元不死男

第二句集『瘤』(一九五〇年)に収録された一句。「古さよ新しさよ」という大胆な饒舌さは、オノマトペの名手である作者の、独特の音感によるものだろう。蝶や螢や蜻蛉であれば、そこに死者の魂の匂いを嗅ぎとることもできそうだが、蝉であるのが俳味であり、物語的情緒が生じるのを防いで、現実的な墓地の風景をくっきりと浮かびあがらせている。もちろん新旧の墓の混在するさまがただ絵にされているわけではない。たとえば、蝉が墓から墓へと飛んでは鳴いている様子からは、失礼ながら、法事に駆けまわる僧侶の姿がどこかで連想されてしまう。死のかなしみを超えた、そこはかとないユーモアも含まれていると読んでいいのではないか。

きょうの一首。

 やはらかな機械としての一日を済ませて西瓜に顔をうづめる/荻原裕幸

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August 09, 2008

2008年8月9日(土)

長崎原爆忌。金子兜太の「彎曲し火傷(かしよう)し爆心地のマラソン」は、句集で読むとその章の題から長崎での句だとわかる。第二句集『金子兜太句集』(一九六一年)の一句。いかにも難解な句だと決めつけるような解釈をネットでもときどき見かけることがあるが、無季で、破調で、マラソンの風景と被爆のイメージが二重映しになっている、というところまでのシンプルな解釈ではまずいのだろうか。

 ほの白きかいなに浮かぶ血の管をたどる指先果てしなく 外/紺乃卓海

第一歌集『原罪の殻Ca』(二〇〇五年)に収録された一首。誰の腕で誰の指なのかがはっきりとは示されていないが、どう読むにしても、あなたとわたしの関係が親密なものであるのが見える。それと同時に、末尾の、ある意味ではあたりまえのことである「外」の一語によって、あたりまえであるがゆえにどうにもならない隔絶を感じている姿も見えるようだ。眼前にあって互いに触れあうことができるのだと確かめるからこそ、それでも踏みこめない場所、互いに触れることも見ることもできない場所の存在に想いが及ぶのだろう。

きょうの一首。

 秋になる寸前でまだ揺れてゐるあなたの奥のみづに気がつく/荻原裕幸

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August 08, 2008

2008年8月8日(金)

きのうは人と逢ったり電話をしたりで一日中喋り続けていた。きょうはその反動なのか、終日無口な日となった。夕刻、所用の流れで近所のスーパーを二店まわる。二店とも商品やディスプレイがふだんとは微妙に違っていて、果物と刺身の棚がどこかあかぬけた感じに。大人たちの夏休みの準備をあてこんでいる風だった。

雑誌「方代研究」第43号が、「方代のアフォリズム」と題して、山崎方代の短歌をアフォリズムの面から考える特集を組んでいた。おもしろい切口だなと思って、興味深く読んだ。短歌の形式にアフォリズムはなじみにくい。アフォリズムの意味を過不足なく通そうとすると、ヴィヴィッドなことばの流れが妨げられやすいし、どうしても人間を俯瞰する超越的な視点が生じるので、何様のつもり、とか言いたくなってしまう文体になりがちだからだ。第一歌集『方代』(一九五五年)をちょっとその気になって読み直してみると、たしかに山崎方代には、アフォリズム的文体を巧く活かした上で、なじみにくいはずの短歌の形式に対して、隘路をするする抜けてゆくように書かれた佳い歌が多くある。

 今日は今日の悔を残して眠るべし眠れば明日があり闘いがある/山崎方代
 ゆく所までゆかねばならぬ告白は十五世紀のヴイヨンに聞いてくれ
 このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし
 私に早く帰ろう水楢の落葉の下に早く帰ろう
 茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

きょうの一首。龍のそれは喉の下のあたりにあるのだそうだ。

 この夏は二度も触れたがそのありかもかたちも知らぬ妻の逆鱗/荻原裕幸

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August 07, 2008

2008年8月7日(木)

立秋。気温がどれだけ高かろうと、全国的に秋である。暑さも残暑になる。空に浮かんでいるのももはや夏雲ではない。そんなわけあるか、とも思うのだが、暦や歳時記の世界では、ときにそんなわけもあったりするのである。ちなみに、毎年この時期が立秋の節入りにあたるので、八月、は秋に分類される、というのが歳時記の言い分である。それならばなぜ、夏休み、は秋に分類されないのだろうか。

第49期王位戦七番勝負第四局。後手の羽生善治名人の一手損角換わりに対して、深浦康市王位が急戦を仕掛ける。互いに囲いが中途半端なまま駒がぶつかりあう。二日目のきょう、そのまま激しい攻めあいとなっていた。途中、深浦の攻めが切れそうに見えるのだが、巧く攻め継いで羽生を投了に追いこむ。これで深浦王位の三連勝、三勝一敗となった。二人の公式戦での戦績も二十一勝二十一敗の五割に。五割で苦手とか天敵と呼ぶのもあれだが、羽生名人の勝率から考えると、深浦王位はそういう感じに映る。この二人、今月あと二局の対戦が控えている。

きょうの一首。

 立秋となりましたので夏の仕様の人は出口にお急ぎください/荻原裕幸

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August 06, 2008

2008年8月6日(水)

広島原爆忌。秋葉忠利広島市長の平和記念式での宣言のなかに「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」というフレーズがあった。このフレーズだけが一人歩きしてしまうと、理想論だという批判も出て来そうだが、核兵器削減と言っても、最終目的に廃絶を意識するのとしないのとでは、意味がまったく違うものになって来る。忘れたくないことばだと思う。

 この世からはがれた膝がうつくしい/倉本朝世

句集『なつかしい呪文』(あざみエージェント)に収録された一句。一度読んだら忘れられなくなる類の、呪文性のある文体だと思う。丁寧に読もうとしても、前後の文脈をつなげて読むのはむずかしい。ただ、長く膝をついて坐っていたあと、畳や床あるいは地面から立ちあがった瞬間をとらえて、「この世からはがれた」と感じたのではないかという推測は成り立つ。真っ赤になった膝頭も目に浮かぶ。そうした身体的感覚の向う側に、日常の何かから解放されてゆくときの、精神のかたちも見え隠れしている。日常でありながら日常が日常から逸れて別の質感を得る場所、倉本朝世さんの川柳は、いつもそんな場所で書かれているようだ。同句集では他に「蝶が来るこの消しゴムを動かしに」にも強く惹かれた。

きょうの一首。

 リビングの天井の西の片隅にはじめて見るかたちのしみが浮く/荻原裕幸

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August 05, 2008

2008年8月5日(火)

死にものぐるいといった感じで蝉が鳴いている。名古屋では、三日続いて、最高気温が三十七度を超えたらしい。先日、マンション内に防犯カメラが設置された。安心と言えば安心なのだが、遅れてこそこそとごみを出しに行く姿とか、捕虫網をふりまわす姿とか、記録されているのかと思うと、少し気にならなくもない。きょうは定例の読書会の日だったが、都合がつかなくて欠席する。

グーグルマップの日本版で「ストリートビュー」のサービスが提供されはじめた。パソコンの画面から、特定の街路を対象として、ドライブの視点で風景が見られる。ぐるぐるっと360度視点を回すこともできるので、ドライブや散策の好きな人は、一日中見ていても飽きないだろう。十数年前だったか、クイックタイムVRが世にあらわれたとき、「スター・トレック」のエンタープライズ号の艦内を自由に見てまわることのできるソフトが製作された。発想を現実的な空間に転用して、メーカー住宅の電子カタログをクイックタイムVRで製作する際、そのディレクションをしたことがある。これが街の規模でできたら、SFの世界を飛び超えて、超能力の感覚に近いと思った。当時のパソコンのスペックから考えて、いまのところ到底無理な話としか考えていなかったが、ストリートビューでは、そのときのいまのところ到底無理な話がほぼ実現されていて、ちょっとした感動があった。

きょうの一首。

 避けられてこんなしづかな片陰を生み出してゐる防犯カメラ/荻原裕幸

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August 04, 2008

2008年8月4日(月)

名古屋は猛暑日が続く。良識がないにも程があると言いたくなるような暑さだ。もはやとどまるところを知らない狼藉ぶりである。あまつさえ二日続けて気温が体温を超えるなど以ての外の所業であろう。ともあれ、どうにかもう少し涼しくならないものか。きょうは東西句会の例会の日だったが、都合がつかなくて欠席する。

中日ドラゴンズの山本昌こと山本昌広投手が、きょうの読売ジャイアンツ戦で、史上最年長記録となる四十二歳十一か月での完投勝利をあげて、同時に公式戦での通算二百勝を達成した。慶祝。チームを中心にプロ野球を見ていると、FAやトレードがからんで、特定の選手を応援し続けるのがむずかしい状況になることもあるが、山本投手の場合、入団五年目の救世主的な活躍以後、二十年余、ずっと応援させ続けてくれているのがうれしい。一昨年のノーヒットノーランのときもそうだったが、今回の二百勝も、手をあわせて感謝したい気分になる。あとは、日本シリーズで勝利投手になるところをぜひ見せてほしいと思う。

きょうの一首。立秋が近づいているが、あたまもからだもともに秋だと感じるようになるのは、かなり先のことになりそうだ。

 夏雲が逝くおほぞらのではなくてまぶたのうらの夏雲が逝く/荻原裕幸

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August 03, 2008

2008年8月3日(日)

午後、猛暑のなかを、家人が義母と義姉と外出。留守番。仕事の合間に、牛乳パックを切りひらいて、ペットボトルを潰して、洗濯物をとりこむ。家のなかにいても異常に暑かった。ウォーターポピーは荻原家の環境になじめなかったらしい。ほぼ枯れた状態となる。残された巻貝たちは逆にすくすくと成長している。

 今 留守です
 この木は 留守です
 だから
 呼んでも声がありません
 留守ですから
 いってらっしゃい
 と いうような枝振りになっています
 葉と葉のさやぎになっています
 日が射してきても
 のぞきこむように青く射してきても
 影はできません/日原正彦

詩集『遠いあいさつ』(二〇〇〇年)に収録された「留守の木」の前半。木を見て留守を感じて、次第に「自分も留守なんじゃないかな」と感じはじめて、最終行では木に「おかえりなさい!」と出迎えてもらう。心象の流れを饒舌な文体で写しとった詩だが、すべてが日常空間の質感で書かれていて、抽象化されていないのが快い。いわゆる、現代詩はむずかしい、と言われるような文脈から、一筋逸れたところで、きもちよさそうにことばがそよいでいる。

きょうの一首。現代風な、別れのない後朝のイメージの定番だったはずだが、昨今これを語る男子があまりいなくなったような気がする。洋食派が増えたのかな。

 俎の音にめざめるときめきをかたることばのさびしくそよぐ/荻原裕幸

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August 02, 2008

2008年8月2日(土)

マンションの階段に飛びこんで来る蝉の数がどんどん増える。元気に鳴いているのとか半死半生でつつくと鳴きながら飛びまわるのとか。家人が、蝉恐怖症なので、外出のたび、まずぼくが捕虫網をもって蝉をすべて捕まえることになる。先日、Tシャツにハーフパンツにサンダル姿で、左手には西瓜をぶら下げて、右手で捕虫網をふりまわすシチュエーションになった。あと麦藁帽子があれば完璧な絵柄だなと思う。四十代半ばを過ぎた男性の姿として、これはどうなんだろうか。

赤塚不二夫さんが亡くなったという。享年七十二歳。意識不明の時期もあったり、看病していた奥さんが先に亡くなったり、長い闘病生活だったそうだ。赤塚さんのマンガをよく読んだのは小学生のときだったので、多少記憶は曖昧だが、読んでもすぐにギャグの意味がわからず、家族に訊ねて、ふたたび読んで、考えて、やっとおかしさに気づいて笑う、というパターンを繰り返していたと思う。イヤミのシェーは理解できたが、なぜ「おフランス」の話がおかしいのか、バカボンのパパが「国会で青島幸男が決めたのだ」と言うとなぜおかしいのか、それがギャグだとはわかっても、そのおかしさがわからなくて、家族に訊ねては困らせていた。ちなみに、試しに描いてみたところ、ベシとケムンパスは本絵を見なくてもそれなりに描けた。

きょうの一首。まったく違う角度から考えていたのだが、まとめてみると蟻みたいなことになっていた。

 角砂糖を器につめてゆくときのすきまにわたくしが迷ひこむ/荻原裕幸

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August 01, 2008

2008年8月1日(金)

八月となる。八月には、映画のタイトルでよく使われる月、という印象があるが、実際はどうなのだろう。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草15首。題は「食」。題にふりまわされず、自在に書かれた詠草が揃っていると感じた。家で「食」をつかさどっている人が多いからだろうか。地下街で、どこから迷いこんだのか、蜻蛉の姿を見かけた。見た感じでは、たぶん雄の塩辛蜻蛉。寄って来たら地上に連れて出ようと思ったのだが、逆の方向に飛んで行ってしまった。

第49期王位戦七番勝負第三局。羽生善治名人が先手で、相掛かり相腰掛け銀の持久戦模様になる。二日目のきょう、封じ手から少し進んだところで、深浦康市王位が飛銀交換の駒得ではっきりとした優勢に。そのまま決着しても不思議はないと見える局面だったが、その後、羽生が凄い勢いで手をつくり、それなりにきわどい勝負のかたちにする。ただ、最後は、羽生が即詰みの順を見落として投了。これで深浦の二勝一敗。この二人の公式戦の戦績は、羽生名人から見て二十一勝二十敗。羽生名人と十局以上の対局があって勝率が四割五分以上なのは、現時点で深浦王位だけである。

きょうの一首。講座で「食」の題の作例として見せた一首。数日、胃のかたちやありかが気になっていたので、そこから身体のリアルな感覚が出せないものかと思ってまとめたのだが、どうも犬の散歩のような感じになってしまった。

 けさ食べたパンや西瓜や消化する臓器をつれて自転車を漕ぐ/荻原裕幸

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