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September 30, 2008

2008年9月30日(火)

きょうも雨模様。アメリカの金融危機のニュースを読んだり見たりして、下院で救済と安定のための法案が否決されたことに驚いた。驚いたのは、日本人的感覚、と言うか、日本に閉ざされた人の感覚でしか物事を見ていないからだろうか。単に外国という意味だけではなく、「外」で何かが起きる可能性について、もう少し想像力が働くようになりたいものだと思う。

第56期王座戦五番勝負第三局。先手が羽生善治王座、後手が木村一基八段。第二局と先後反対になっての相矢倉。3七銀と4六角が対峙する最新の定跡に。羽生が穴熊に潜った直後から木村の矢倉の上部で開戦。羽生のやや無理な感じの攻めが続くのを木村が丁寧に受けてゆく。木村の入玉を防ぎながらの羽生の攻めには見応えがあったのだが、緩んだ一瞬に木村からの反撃、穴熊の急所に絡まれる。優劣が二転三転する難しい局面が続いた。最後はともに微妙に間違えながらも、羽生が穴熊の堅さにものを言わせて攻めきった。木村の棋風が印象に残る三局だったが、結果は三連敗。羽生は三連勝で王座を防衛。十七連覇となる。四冠を維持。

きょうの一首。食べたあとに残るあれは、何という名称なのだろうか。

 小振りで妙なアートのやうな構造を暴露されつつ皿の葡萄は/荻原裕幸

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September 29, 2008

2008年9月29日(月)

午後、同朋大学へ。後期の文章表現の講義の初回。きょう出席していた受講者は10人だった。まだ人数は確定していないらしい。講義中、ノートが必要ないと思うときにまで細かく、と言うか、一言一句すべてをノートにとる学生がいて、訝しみながら見ていたのだが、あとからノートテイカーだとわかって納得。どうやって話すとノートテイクが楽になるかを少し教えてもらった。行きも帰りも雨。

 見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ/後鳥羽院

新古今集の一首。春の歌だが、逆説的なフレーズが逆に作用して、この時期にも思い浮かべたりする。以前のノートを見てみると、奇妙なメモが添えられていて、「添付した写真、見てもらえましたか?/それが水無瀬川周辺。念写ですけどね。/秋もいいけど、やっぱり春でしょう。/絵葉書じみた風景は、もう飽きました。」などと書いてある。一瞬誰かのメールの写しかとも思ったが、自分で書いた記憶がぼんやりとある。意訳でもしようとしていたのだろうか。「念写」はたぶん、実は春でも秋でもないときの作品だということを意識したのだと思う。

きょうの一首。

 侮つて近づいたのがわかるのか鶏頭はこばむやうに身を反る/荻原裕幸

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September 28, 2008

2008年9月28日(日)

午後、家人が外出。留守番。この数日、にわかに冷えて、秋の深まった感がある。薄着のままでいたら、寒いと言うよりも、得体の知れない不安に直に触れているような気分になる。大相撲秋場所が千秋楽となる。昨日、白鵬が八度目の優勝を決めた。どたばたではじまったわりには意外にあっさりと終った印象。中山成彬国交相が就任五日で辞任した。日教組批判だけは撤回しないどころかさらに続けるらしい。文科相時代からの確執でもあるのだろうか。

 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ/和泉式部

詞花集の一首。身に沁む、は、身に染む、でもあって、色ということばとの明確なつながりが生じている。ただ、この縁語を意識しなくても、一首を読むのにさして支障はないだろう。現代の感覚で読んでも、そのままわかるし、揺らぐところのない佳い歌だと思う。秋風の色、と言えば、古今六帖の紀友則「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」が有名で、「白秋」のイメージを巧みに表現しているようだが、和泉式部の一首と比べるとどこか栄えない気がする。地味な色に染まると修辞するよりも、鮮烈な色に染まっては消える感覚を引き出した方が、秋風の透明感の本質により近づくのではないだろうか。

きょうの一首。

 服ではないもの脱がされてひえびえと動詞のにぶる秋の一日/荻原裕幸

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September 27, 2008

2008年9月27日(土)

帰名。一日遅れであれこれニュースを読む。西郷信綱さんの訃報。享年九十二歳。この人の研究書は、教科書ではなく、どこか愛読書のようにして読める、という印象があった。たとえば、手元の岩波全書版『日本古代文学史』の、藤原定家を評した章を見ると「俊成はまだ自己を詠歎しようとしているのに、定家はうたうべき自己さえなく、ただことばあるのみ。つまり完全な遊びの世界である。そしてこの遊びの世界で獲得されたことばの表現技法には、一つの新しい楽器の発明くらいの意味はあったはず」とか「不幸は、というより矛盾は(中略)新技術が保証するのは必ずしも新文学の現実性ではなく可能性でしかない点にあった」などと記されている。痺れると言うか震えが出そうな慧眼であった。ご冥福を。

第49期王位戦七番勝負第七局。一昨日から昨日にかけての対局。後手の深浦康市王位は一手損角換わりを選択。羽生善治名人は早々に銀を繰り出して、飛車先で銀交換に出る。定跡的に中央に打たれた深浦の攻防の角を、強引に切らせる方向へと羽生が促して、一日目から激しい攻防に突入した。玉形の危うさを気にせずに攻め続ける羽生は、勇敢にも無謀にも見えるのだが、棋風としては自然な流れで、これが多くの対局を魅力的なものにしているようだ。ただ、結果がマイナスに出たときには、攻めはじめた状況で、もう少し何か工夫をしておく必要があったのではないかという結果論が、羽生自身の口からも出て来る。今回は結果論の出る結果に。深浦が四勝目をあげて王位を防衛した。

きょうの一首。即席食品のような感じの一日。

 慣れた場所のひかりを食べてゆつくりと人のかたちにもどる私/荻原裕幸

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September 26, 2008

2008年9月26日(金)

上京。一ツ橋の如水会館へ。短歌研究社の三賞の受賞式と祝賀会に出席する。受賞者は、短歌研究賞が穂村弘さん、新人賞が田口綾子さん、現代短歌評論賞が今井恵子さん。ひさしぶりに出席したせいか、受賞者の影響なのか、出席者の平均年齢が、以前に比べてずいぶん下がっていた。歌壇のパーティーと言えば、出席者中で、自分が年齢を下から数えて何番目かが簡単にわかる場所だったのだが、こちらが齢を重ねたのと若い人が増えたのとが相俟って、年齢的に完全に中間層になっている。あたりまえのことなのに奇妙な感じがあった。ひさしぶりに逢う人が多かったので、挨拶ばかりしていて、あまりゆっくり話ができなかった。二次会と三次会まで出て、その後、一人でぶらぶらとホテルまで歩く。御茶ノ水で宿泊。

三次会で穂村弘さんを囲んで話をしていたときに、塚本邦雄の本のことを少し訊かれたので、備忘録的にここに記しておく。塚本邦雄が、単独で公募の短歌の選をした企画のなかで、その入選作が単行本化されているのは、サンデー毎日の企画した『現代百人一首』が、一九七七年から一九八二年まで毎年一冊で計六冊、出版社はいずれも書肆季節社。それと、角川書店「短歌」の投稿欄「公募短歌館」の一時期の記録をまとめたのが『千歌燦然』で、これも出版社は書肆季節社。ただ、『千歌燦然』に収録されているのは、一九八一年五月号以後なので、席上話題になった、中山明の「あるいは愛の詞かしれず篆刻のそこだけかすれゐたる墓碑銘」、正岡豊の「クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし」は収録されていない。

きょうの一首。夜、御茶ノ水の聖橋近辺を歩きながら。

 揺れながら潤むひとかげ東京にもこんなに澄んだ闇があるのか/荻原裕幸

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September 25, 2008

2008年9月25日(木)

自動車のウィンカーがせわしないおかしな点滅をするので、ディーラーさんに訊いてみると、電球が切れるか切れかけていると、そうなることがあるのだという。電球を交換してもらう。夕刻、マンションの駐車場にいたら、向かいにあるマンションの駐車場から、「ママ、傘やってもいい?」という声がする。そちらを見ると、四、五歳の女の子が、鮮黄のワンタッチの傘をひらいた。お気に入りの傘をさしてみたかったのに、生憎雨が降ってなくて、それでどうしても一度ひらきたかったようである。目が合うと、女の子はにかっと笑って、傘をくるくると回しはじめた。どうやら自慢をされたらしい。

きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげているのは、大辻隆弘さんの短歌時評集『時の基底』(六花書林)と星野昌彦さんの第十句集『是空』(春夏秋冬叢書)。その他に、先に発表された短歌研究新人賞の候補者の傾向について少し触れた。大辻さんの『時の基底』については、別所に出す書評もまとめているので、このところひらきっぱなし。時評を本にまとめるというおもしろさとむずかしさを同時に抱えた一冊である。自分の考えと対峙している人の文章をこんなに楽しんでいていいものかどうか、どこかで逡巡しながらも、楽しく読んでいる。

きょうの一首。どうでもいいことだが、妙な満足感や妙な罪悪感が生じる。

 紙コップを潰して捨てるときのあの無意味にこもる力のふしぎ/荻原裕幸

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September 24, 2008

2008年9月24日(水)

午後、八事の中京大学へ。すっかり秋の真ん中という感じで、自転車を漕いでいると爽快な気分になる。夏休みも明けて、キャンパスには学生がわんさといた。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の三回目。きょうの題は「曼珠沙華」および「秋高し」。十数句について添削的な批評。帰宅後、きょうの題に即して二句。

 曼珠沙華見にゆく午後の奥深く/荻原裕幸
 窓を拭く秋高き日を費やして

暮らし心地がいいかどうかと問われたらいいと即答できる。ではどこがいいのかと問われると返答に困る。名古屋とはそういう場所ではないかと感じながら、すでに四十数年暮らしている。ドキュメンター系のテレビ番組などで、各々の郷土にこだわりながら暮らす人々を時々見るが、演出や誇張があるとしても、彼等は決まって郷土に対する愛情に加え、郷土に暮らす誇りをもっているようだ。愛情の方はよくわかる。誇りの感覚はどうもうまく理解できない。名古屋人であることを誇りに思いますかと問われたら、たぶん答を考える前に質問に笑ってしまうだろう。これは、名古屋という場所の問題なのか、自分の感覚の問題なのか。

きょうの一首。もう三十年以上前だが、谷山浩子に、「窓」という、あの独特のメルヘン風味を抑えた、かげりのある、ノスタルジア系の曲があった。歌詞とダイレクトに関連はないのだが、ちょっとそんなことを思い出しながら。

 窓をよぎるものはいづれも緩やかで直角がなく秋をかたどる/荻原裕幸

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September 23, 2008

2008年9月23日(火)

秋分の日。午前、家人が義父と義母と出かける。留守番。下の階のこどもが部屋のなかを走り回っている音がものすごかった。どこなのかわからないくらい遠いところでかすかに蝉の声がしていた。休日の、気の遠くなるような空気がひろがって、ほんとに気が遠くなりそうな気がした。きょうは売り切れ前に買えたようで、バナナを戦利品のように抱えて家人が帰宅する。

 わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに/枡野浩一

歌集『ますの。』(一九九九年)に収録された一首。枡野浩一の短歌というのは、その歌そのものについて語る以上に、その歌をねたにして何か別のことを語りたくなる歌だという感じがある。枡野自身が、散文作品でしばしば、サブタイトル風に自作を掲げるのは、そのことと何か関係があるような気がする。この歌の場合も、モチーフがあまりにも早く伝わって来るせいなのか、一人称の思惟を探るといったプロセスへは向かわず、家出の願望がなぜ一人暮らしのなかで生じるかについて、いろいろ語りはじめたくなっている自分に気づかされる。実際、先日、この歌について考えているとき、文体や方法を考えるよりも前に、書棚から寺山修司の『家出のすすめ』を抜き出して、「もはや、家出するにも「家」がないではないかという考えが一般化しつつあるようです」といった一九六〇年代の家出観の出発点的なフレーズに付箋をほどこしたりしながら、短歌ではなく、家出についてのメモをつくっていて、あれ、何をしようとしていたんだ? とわれにかえった。不思議な歌だ。

きょうの一首。

 オカリナをどこかで誰か吹きさうな日和なのだが聞こえて来ない/荻原裕幸

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September 22, 2008

2008年9月22日(月)

秋風の爽やかな一日となる。夕刻、家人と所用で外出。途中、スーパーでバナナを探してみたところ、やはり売り切れである。仄聞したところによると、テレビで誰かタレントが推奨したようで、朝バナナダイエットがいまになってにわかに過熱したのだとか。昨年の某番組でのデータ捏造事件以後、この手のことは二度とないかと思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。

 いつがいつとはいへないけれど
 いつかあなたも居なくなる/小池純代

第三歌集『梅園』(二〇〇二年)に収録された都々逸形式の作品。笑いがあってどこかほろっと来るところもあって、それでいてことばの遊びでもある。恋人に言っているのか、配偶者に言っているのか、あるいは、政治家に言っているのか。誰に向けて言っていると読むのかで、ずいぶん表情が違って見えるようだ。小池純代の作品にはいつも、日本語のおもしろさが十全に引き出されていて、舌を巻くような巧さと楽しさとがある。巧いと言われる人は大勢いるが、この人の巧さはまた格別。以下、同歌集から、好みの短歌を少し引用しておく。

 わたくしを深くかなしむ井戸あらば水のごときを汲みたきものを/小池純代
 わたくしといふわたくしをひとりづつたたきおこして生涯終はる
 とけながらなに待ちをらむ雪だるま 人が人待つところに立ちて
 梅を見て梅をわすれてもう一度梅を見るまでわすれてをりぬ
 手のひらのごとき二枚が守り来し牡蠣のせつなる祷りを啜る

きょうの一首。「確か」と感じる意識、それ自体が病巣なのかも知れない。

 病んでゐるのは確かだがからだにもこころにもその患部は見えず/荻原裕幸

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September 21, 2008

2008年9月21日(日)

午後、家人が外出。留守番。電池の切れかけたおもちゃのように蝉が鳴いていた。そろそろ限界なのか。途中、所用で外に出て、ふたたび留守番。家人が秋刀魚を買って帰宅したので、おやおや、何か伝わったのかな、と思っていたら、いい酢橘があったので、あわせて秋刀魚も買ったのだという。酢橘が主役だったか。そう言えばバナナが切れていたので探してもらったのだが、果物をしっかり揃えている某スーパーでも売り切れだったらしい。珍しいこともあるものだ。

 世界病むを語りつつ林檎裸となる/中村草田男

第二句集『火の島』(一九三九年)に収録された一句。刊行年の昭和十四年の作品だという。戦後や現代の感覚での、抽象化された「世界病む」ではなくて、第二次世界大戦へと突入してゆくプロセスでの実感だったのだろう。誰が世界を語って、誰が林檎を剥いているのか、情景の見えにくいところがあるが、その見えにくさが、林檎を世界のメタファとしても機能させているようだ。いったん皮を剥かれた林檎は、すぐに食べてしまわなければ酸化して醜悪な表情を見せることになる。近代に蔓延していたある種の脅迫観念がそこに浮かんで見える。ちなみに、中村草田男の代表句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」も同句集に収録されている。同じ昭和十四年の作品である。第三句集『萬緑』(一九四一年)ではないというのが、テストかクイズのひっかけ問題に好都合で嫌な感じだ。

きょうの一首。

 ホチキスを打てばかすれた音がして何かの底にゐる深くゐる/荻原裕幸

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September 20, 2008

2008年9月20日(土)

中部と関西でしか流れていないそうだが、清酒「鬼ころし」のテレビCMに、「飲み友達は、妻です。」というコピーで、休日の夫婦の、二人で卓を囲んで買い物に出てついでに散歩をしてといった、かなり地味な過ごし方を見せるものがある。幸福そうででも微妙に哀愁がただよっていていいなあと思って見ている。先日、その話を家人にしてみたところ、「でも、わたし、お酒飲めないよ?」と言われた。飲めるとか飲めないとかそういう話ではなかったのだが、まあ、いいか。

 秋刀魚焼く煙の中の妻を見に/山口誓子

第六句集『遠星』(一九四七年)に収録された一句。終戦直後の九月の句である。秋刀魚を焼く句、秋刀魚を焼く妻の句、どちらも山ほどあるし、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」などのイメージもあって、以前はどこかしら野暮ったい気もしていたのだが、末尾に据えられた「見に」の二文字の、このうえもない照れ臭さを、いつの間にか佳いと感じるようになっていた。愛妻と呼ぶような感覚ではなく、妻に恋をしているのだと思う。当時、作者は四十代の半ば、微妙な年齢の微妙な心情が、煙のなかに揺らめいているようだ。この時期の山口誓子の句には惹かれるものが多い。

 歩を進めがたしや天地夕焼けて/山口誓子
 行人は吾のみ田植始まれり
 ゆあみして来てあぢさゐの前を過ぐ
 炎天の遠き帆やわがこころの帆
 揚羽蝶通る真下にわれゐたり

きょうの一首。

 客気なき休日にしてわたくしが湧いてくるのを待つてゐる午後/荻原裕幸

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September 19, 2008

2008年9月19日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者12人。題は「停」。うっかり題を次回のものと勘違いしていて、教室のボードに書かれた詠草を見て吃驚した。途中、批評に雑談を挟み過ぎたせいか、しっかりした感じの延長となる。行きは小雨、帰りは少し強い雨。台風が近づくというので、所用をあれこれ済ませて帰宅したのだが、家人が食事の準備をはじめると、電子レンジがうんともすんとも言わなくなっていることが発覚。もうすでに十年以上使っているものだったので、すぐに見切りをつけて、雨のなかを家電量販店へ。手頃な機能の一台を新調した。

15日付のきょうの一首、「グレー・グレー」に献じた短歌を、高原英理さんたちのサイト「アナベル・フィステ」の入口に飾ってもらった。色紙を渡したところ思いがけず玄関に飾ってもらえたような、そんな気分になる。献歌は、ともすると、ご挨拶になりかねないので、それと明記するのを少し躊躇するが、この一首は歪みなくつながった実感があった。引用と言えば、11日付のきょうの一首を、風間祥さんが「銀河最終便」に引いてくれていた。日付が日付だったので、意識して全力で肩のちからを抜くような書き方をした一首だった。それが悪くない方向に作用してくれたのかも知れない。また、8月26日付の文章を、矢島玖美子さんが「水曜は癖になる」に引用してくれたりもしている。そうした諸氏の反応を感謝したり楽しんだり糧としたりしながら、このブログも、昨日、再開後一年を迎えた。

きょうの一首。講座で「停」の題の作例をまとめなければならないところを、回を間違えて「作」の題の作例としてまとめた一首。雲はどの季節でもそれなりに妙なかたちだが、ことに秋のそれには製作しづらそうな印象がある。

 こころとはあんなかたちか作るにはむづかしさうな秋雲がゆく/荻原裕幸

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September 18, 2008

2008年9月18日(木)

夏のなごりと秋のきざしが混在した得体の知れない日々である。先日、句会で、七月下旬では実感がなくて「晩夏」の句が書けない、というような話が出た。安定したイメージがあるので、使いやすい語だと思うが、実際の晩夏が晩夏らしくないというのも奇妙な話である。塚本邦雄の『句風颯爽』(一九八二年)を見てみると「晩夏とは暦の上では立秋の前であらうが、事実は秋彼岸の、まことに新秋の爽やかさを味はふまでの、熱つぽく、しかも何か荒んだ趣の一期間を指すのではあるまいか」などと書かれていた。短歌はこれで問題ないとしても、俳句ではやはりどこかすっきりしないものが残るように思う。

繁殖させない予定だった物洗貝が繁殖してしまって、一目ではちょっと数えられない数になった。第二世代も数粍とわかるサイズにまで成長して、水槽のなかがかなり過密になっている。水棲で小型の蝸牛みたいなのが何十匹もいる光景は、苦手な人にはちょっとしたホラーかも知れないが、外敵のいない世界で、水槽内を探検したり、水流に乗って遊んだりする姿は、意外なほどかわいらしいもので、疲れたときにぼんやりと眺めては楽しんでいる。

きょうの一首。「夢の浅瀬」は、ときどき見かけることばで、イメージは共有されているようだが、調べても出典がわからなかった。月の地名にもあるらしい。

 覚めてゐても夢の浅瀬にゐる九月午後を爪噛んだりして過ごす/荻原裕幸

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September 17, 2008

2008年9月17日(水)

そしてきょうも蝉の声。午後、八事の中京大学へ。キャンパスはまだ夏休みの奇妙な静けさのなかにある。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の二回目。きょうの題は「新涼」と「秋の何々」。十数句について批評。タオルで汗を拭ったり、扇子をぱたぱたさせたり、秋らしくないことをしながら秋について語った。帰宅後、きょうの題に即して二句。

 新涼の小さき紙に書く住所/荻原裕幸
 影と来て影と謝る秋の庭

第56期王座戦五番勝負第二局。先手が木村一基八段、後手が羽生善治王座。四十手を過ぎるあたりまでは、先月の竜王戦の挑決第一局とほぼ同じ進行での相矢倉。ただし先手後手が逆である。木村が急所を突いて厳しく仕掛けると、売られた喧嘩を買うように羽生が木村の玉頭に食いつく。羽生の攻めが延々と続いて、木村は駒得とひきかえに囲いを粉砕される。形勢は五分といった感じでも、気分的に木村側をもちたいとは思えない局面に。このところの羽生の将棋は、好調のためなのか、相手を精神的にクラッシュさせるような方向に流れる。あるいは、表面には出ない威圧感のようなものがそうした流れをつくるのだろうか。本局でも、ミスとまでは言えないが、木村が劣勢を優勢に転じる手順を見逃して、羽生の二連勝となる。局後に見逃した手順を聞かされた木村は、ぼやきが止まらなかったという。

きょうの一首。大学のキャンパスにて。修辞と言うよりは大法螺の類か。二句目にある「飛びかふ」は、時制の感覚よりも調べを重視してこのかたちにした。文語を避けるとこのあたりが処置がなかなか難しい。

 せはしなくメール飛びかふ痕跡のほのかに見えて無人のベンチ/荻原裕幸

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September 16, 2008

2008年9月16日(火)

ふたたび蝉の声。きのう、だんごを食べておきながら、いまさらからむのもおとなげない話だが、ある人からのメールに、きのうのお月見、と書いてあったので、思わず暦を見直した。昨夜が満月で、一昨夜が十五夜、この流れに乗じて、和菓子店が商魂たくましく二日続けてだんごを売って、きのうをお月見の日だと思った人が出たに違いないと勝手に一人で合点する。ついでに某歳時記を見ると、名月、を「八月十五夜の月であり、中秋の満月である」と山本健吉が記している。こういうのが混乱の元ではないだろうか。旧暦八月十五日、つまり中秋の夜の月であり、満月とは重ならないこともある、が、現代風な妥当な記述だと思う。それにしても、暦を考えると、だんだんあたまがこんがらかって来そうになる。

 果たせずに役目を終えた錠剤がやさしい丸みを帯びる夕暮れ/ひぐらしひなつ

第一歌集『きりんのうた。』(二〇〇三年)に収録された一首。歌集では、父の死をめぐる連作のなかに配列されている。「果たせずに役目を終えた」は、病人がついに治らなかったことを言っているのだろう。必要とする人がいなくなってしまった錠剤の丸みには、病気と対峙しているときとはどこか違った「やさしい」表情が見えはじめる。死のかなしみの向う側に、父の魂のやすらぎのようなものを感じとっているのかも知れない。感情の高調を特徴とする文体の作者だが、この歌の場合は逆に、高調を抑えた文体のなかに、空間や時間のたしかな感触がたちあがっていると思う。

きょうの一首。「はるかに過ぎて」しまったのだが、そういう事実が消えたわけではないのだと、折に触れて思う。

 あのひとの象徴として向日葵を見てゐた齢をはるかに過ぎて/荻原裕幸

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September 15, 2008

2008年9月15日(月)

敬老の日。晴れたり曇ったり小雨が降ったり。気温がぐんと下がった感じ。きょうは蝉の声を聞かなかった。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。きのう月見だんごを食べそこねたのを何となく悔しく思っていたら、義母が買ってくれた月見だんごを携えて家人が帰宅。某和菓子店できょうもふつうに売っていたらしい。月は顔を見せなかったが、十六夜の月見だんごということになった。

「文學界」10月号に掲載された高原英理さんの「グレー・グレー」を読む。ピュグマリオニズム、と言うか、少女コレクションの匂いのする、ホラー系の恋愛短篇。スプラッタなあれこれをよくぞここまでかわいらしく描けるものだと感服した。内面の描写に類するものからは感傷や感慨の生じる要素を極力削り、情景の描写に類するものからは無駄な装飾を一切排除した、ストイックに練りあげられた文体の力によるものだろう。ディスコミュニケーションな会話描写も秀抜。頑としてリリシズムの方向に流されないのが吉。絶望的な状況に向かう展開が、永遠の入口に近づいてゆくような感覚を生じさせる、奇妙な味わいの一篇だった。

きょうの一首。前述の「グレー・グレー」に献ずる。

 ふたりふたつの質の異なる曲線を四肢にめぐらせつつ天高し/荻原裕幸

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September 14, 2008

2008年9月14日(日)

午後、家人が外出。留守番。山になったペットボトルを潰してごみ袋に詰める。無駄にかさばっていたものを小さくしたらすっきりした。きょうも遠くでかすかに蝉の声が聞こえた。九月に蝉が鳴いても何の不思議もないが、同じ声なのに八月の蝉の声と違うような気がするのは不思議だ。クリーニングに出してあった衣類をどっさりと抱えて家人が帰宅。夜、ベランダから名月を見る。

大相撲秋場所の初日。日本相撲協会の武蔵川新理事長が、挨拶で一連の不祥事の謝罪をするなど、ふだんと少し違う空気が流れていた。中入り後、北の富士、舞の海、刈屋アナというおなじみの中継メンバーが揃ったが、ことあるごとに角界の現状と今後についての見解を出すので、彼等本来のコメントの切味が鈍った感じ。それと、立ち合いで両拳を土俵についたかどうか、行事の判断がにわかに厳しくなって、力士たちが全体にぎくしゃくしているように見えた。ただ、個々の取組みは、特に白鵬と琴欧洲が好感触で、それなりに爽快な印象だった。ちなみに、スポーツ中継で、一部の人に「神」とも呼ばれているNHKの刈屋富士雄アナだが、以前から、北の富士の名前を呼ぶとき、かなり高い頻度で「きたのうみさん」と呼んでいるように聞こえる。実際にそう呼んでいるのではないかとちょっと疑っている。

きょうの一首。自分の洗いや濯ぎのくせで、水の感触が最もはっきりわかるのは、グラスか寸胴鍋なのだが、寸胴鍋はどうも巧くかたちにならない。敗北感。

 夏がどこかうつすら混ざるてざはりの水にて秋のグラスを濯ぐ/荻原裕幸

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September 13, 2008

2008年9月13日(土)

鳴くことを思い出したようにきょうも蝉が鳴いていた。クーラーをかけるとすぐに冷えすぎるのだが、そうは言っても、クーラーを切るとじわじわ暑くなって来て汗ばむ感じがある。はっきりしない気候である。yamawataさんが、先日から「トナカイ語研究日誌」なるブログをはじめた。タイトルは、ぼくの作品を活用してくれたものだという。某SNSで、実に佳い短歌鑑賞を数多く書いている人なので、ブログも大いに期待できそうである。

 砂浜に足跡つけつつ戻りくる拉致されなかつたひとりの影が/紺野万里

第二歌集『星状六花』(短歌研究社)に収録された一首。遊んでいたのか何か用事があったのかはともかく、誰かが砂浜をひとしきり歩き回って帰って来るときの光景である。「拉致されなかつた」という認識が挟まれているので、「ひとり」は、一人称にとって親しい者と読んでおきたい。結句の「影」で、妙な歪みが生じている。それがこの歌の核だと思う。逆光の状態で姿がはっきり見えないなら足跡も見えにくいはずだ。仮に、影だけが戻って来た、つまり、本人は拉致された、の意味ならば、足跡を「つけつつ」がおかしい。映像的に明確に解釈しようとするとどこか落ち着かないのだが、その落ち着かなさが、北朝鮮による拉致問題を背景とした、怖れや憤りの感覚を巧く引き寄せているようだ。作者がこだわっているという、見せ消ち表現の一種か。以下、同歌集から、他にも好みの歌を引用しておく。

 曲線に鳴く春の鳥とりあへず兵にとられぬをのこがひとり/紺野万里
 雪しまく日のまひるまを影もたぬものが影なき吾を追ひこす
 すこしづつそれは現実になつてゆく遺影の脇の受付にゐて
 トンネルを抜けても抜けても枯山のままになかなか過去にはならぬ

きょうの一首。会話に含まれる微妙な何かが、好意によるものか、あるいは毒気を含むものなのか、それとも何でもない何かなのか、判別に自信がもてないとき、自分は無表情になっているらしい。

 万華鏡を見て時を忘れてゐるやうな充実でしたと言はれて迷ふ/荻原裕幸

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September 12, 2008

2008年9月12日(金)

きょうの最高気温は三十三度。さすがに猛暑日にはならなくなったが、九月に入ってからも真夏日がすでに十日。今年はもう終りかと思っていた蝉も、蘇ったように鳴きはじめている。午後、家人と栄のラシックへ。風の葡萄、という、野菜料理を中心としたビュッフェで食事。二人で野菜を食べ過ぎるくらいに食べた。平日でもかなりの混み具合で、特に女性に人気があるらしい。男性客は一割以下だった。買い物をしてから同じラシックの、宮越屋珈琲、という喫茶店に。札幌を中心に展開している店だという。味のしっかりしたブレンドを出していた。

第21期竜王戦挑戦者決定三番勝負第三局。後手の羽生善治名人が、ゴキゲン中飛車的な手順から向かい飛車に。木村一基八段が銀冠から居飛車穴熊に向かうと、羽生も同調するように銀冠から穴熊に。互いに堅牢な囲いを誇るような駒組みとなる。中盤は微差ながらも木村の方が指しやすそうで、どこかで強引に攻めるかと思ったが、千日手模様がなかなか打開されない。気づくと穴熊を崩してまで攻勢に構えた羽生の攻めが木村の玉に殺到する展開になる。木村の攻めが遅かったのが惜しまれる。何の容赦もない感じで最後まで攻め続けた羽生が、二勝目をあげて挑戦者に。羽生名人はこれで今年のタイトル戦すべてに顔を出すことになった。

きょうの一首。

 乗る喋る食ふ買ふ歩く秋の日の汗を吸ひつくしたシャツを脱ぐ/荻原裕幸

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September 11, 2008

2008年9月11日(木)

アメリカ同時多発テロ事件の日。七年が経過した。そんなことを考えていたせいなのか、昨夜、狂騒状態で人の波が押し寄せて来る夢を見て、しかも珍しくはっきりと覚えていた。夢のなかの人たちは、生死がかかっているわけではなく、某人気タレントを追いかけるために、ぼくの家(と言っても現実とは違う夢のなかの家)の敷地を通ると近道だといって門に殺到する。その人の波を押し戻す。また寄せて来る。その繰り返し。目覚めると、痺れるような疲れが現実の両腕に残っていた。午後、実家に顔を出す。お茶を飲みながら父母と歓談。ご近所さんが自宅の庭で育てたという立派な冬瓜を半分わけてもらう。

結社誌「未来」9月号の短歌時評「最近歌壇インターネット事情」を読む。筆者の田中槐さんが、このブログについても言及してくれている。紹介してもらえるのはとてもうれしいし、何よりも読んでもらっているという事実がうれしい。ところで、この時評のなかに以下のような記述がある。「わずか十数年でありながら、短歌という文学形式が、意外にインターネットと仲良くやっていることは事実だ。それでもまだインターネットに閉鎖的なものを感じてしまうのはなぜだろう」。歌壇は、地域型のコミュニティに似ていると思う。地域の境界にはちょっとした壁があるが、地域内では個々が広義の信頼関係で結ばれていて、協力的であろうと対立的であろうと、個々の活動が最終的にはコミュニティの活性に寄与する構造がある。一方、インターネットは、短歌についての現状を言えば、都市型のコミュニティに似ている。境界なしにどこまでも開かれてはいるが、むしろ開かれすぎていて、すべてが信頼関係で結ばれているわけではないので、おのずと興味や交流の領域が限定されて、個々の活動がただそこに積み重なってどこにも回収されてゆかない印象がある。田中さんの言う「閉鎖的なもの」とは、たぶん、このあたりの状況のことだと思うが、現在は、可能性が可能性のレベルのまま先行したインターネットが、コンテンツを蓄積している時期なのだと考えておきたい気もする。

きょうの一首。実家の近隣の空地。むかし何があったのかを思い出しながら眺めていた。思い出すのに少し時間がかかった。

 むかし銭湯だつた空地に秋草の名もなく揺れてやがて静まる/荻原裕幸

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September 10, 2008

2008年9月10日(水)

午後、八事の中京大学へ。まだ夏休みが明けていないようで、キャンパスに学生の姿はほとんどない。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」の講義。きょうから秋期の開講である。今期の受講者は七人。きょうは、受講者の俳句的な近況を聞いてから、二十四節気について話をした。次回からは実作の添削的批評が中心になる。帰りに寄った喫茶店の入口に、利発そうな犬が寝転がっていた。あたまを撫でてもいい? という顔をしてみせると、撫でたいなら撫でてもいいよ、という顔(たぶん)をしてくれたので、しばらく撫でて遊ばせてもらった。

第49期王位戦七番勝負第六局。序盤、相居飛車から微妙な含みのある指手でややこしい駒組みが続いた。ぱっと見た感じでは、定跡を生かじりしたアマチュア同士の対局のようだった。中盤、駒が多少ぶつかったものの大きな戦いにはならず、先手の深浦康市王位は矢倉中飛車から穴熊に、後手の羽生善治名人は左の銀冠で中飛車に。二日目のきょう、中央での飛車交換から激しい攻め合いとなる。どちらが得をしているのかよくわからないやりとりが続くが、中段まで迫り出して上下に逃げ道のある羽生の玉に詰みが生じるとは思えず、逆転がなさそうなのになかなか決着しない終盤を不思議な気分で眺めていた。手数はかなり伸びて百五十二手。深浦に少し嫌なダメージの残りそうな展開で羽生が三勝目をあげた。

きょうの一首。今年の手帖、残りも白地も少なくなって来た。

 消しゴムでは消せないものが拡がつて手帖のなかの沼地が騒ぐ/荻原裕幸

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September 09, 2008

2008年9月9日(火)

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。参加者は六人。出詠者は七人。今回は題詠「拾」と雑詠。八月は例会を休みにしたので、ほぼ二か月ぶりの句会となる。川柳について、もう少ししっかり自分のスタイルを模索しなければと思うのだが、どうも楽しんでいるばかりで、なかなかそこまで手が届かない。句会に提出したのは以下の二句。

 拾えないものを照らして月渡る/荻原裕幸
 誰もいない場所から海の音がする

先日、ある請求書を確認していたら、振込先に、三井住友銀行あじさい支店、とあるので、何度か見直した。気になって調べてみると、店舗のない被振込専用支店名なのだそうだ。他にも、すみれ支店、たんぽぽ支店、あさがお支店、なでしこ支店などと百花繚乱である。他行はどうだろうと思って見てみると、みずほ銀行は、花と樹が混ざっていて、シラカバ支店、ハナミズキ支店、ポプラ支店などがある。きわめつけはセブン銀行だった。口座の開設月によって花の名の支店名が変るらしい。おもしろいとは思うが、マーガレット支店とか、リューリップ支店とか、どうなんだろう。はじめて聞いたら、冗談にしか聞こえないような気もする。

きょうの一首。建物内の冷房は寒く、外を歩くと微風が快い感じだった。

 以前誰かに飼はれてゐたのかも知れぬ人懐つこいけふの秋風/荻原裕幸

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September 08, 2008

2008年9月8日(月)

午後、所用で外出。近場なので自転車で。途中、狭い場所をものすごくゆっくり走る自転車の女子高生がいて、はじめはのんびりうしろについていたところ、あまりにもゆっくりなので、がまんできなくなってむりやり追い越したら、自転車を漕ぎながらケータイでメールを打っているのが見えた。器用、と言うか、危なっかしい。所用を済ませてからしばらく喫茶店にこもる。例のママさんの毒舌が炸裂していて、アメリカ政府が住宅金融機関への資本注入枠に設定した22兆円を、焼石に水とか言って一刀両断するなど、絶好調だった。そんな話を聞くともなく聞きながら、読み物をしたり書き物をしたり。

 妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬

『セレクション柳人・石田柊馬集』(二〇〇五年)に収録された一句。妖精が酢豚にどう似ているのかはよくわからない。そう言えばそうだなとか、言われてみればそんな気がして来るとか、読んで共感に近づいてゆく感じもまったくない。そもそもこの句を読むまで、両者が似ているかどうかを考えたことなど一度もなかった。にもかかわらず、ひとたびこう断言されると、妖精と酢豚とが何の関係ももたなかった「昨日までの世界」がどこかに消えていることに気づく。素材の組みあわせを換えても成立しそうな文体なのだが、結びつけて世界を微妙に変化させられるような組みあわせはそう簡単には見つからない。秀抜な発見だと思う。

きょうの一首。「拾」の題で川柳を書いている途中にできた一首。自分の姿のない鏡面というのは、そこに入ってみたくなるような不思議な感じがある。

 手鏡を落とすと遠いものが映るしばらくそれを見てから拾ふ/荻原裕幸

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September 07, 2008

2008年9月7日(日)

白露。秋らしいような、秋らしくないような、微妙な感じの気候が続く。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。途中、買い物に出て、ふたたび留守番。夜、義父がテレビの通販でまとめ買いしたという蟹をもらって家人が帰宅。荻原の実家の分もあったので、急いで届けに行く。

 母を送り来しか白露(はくろ)の駅頭に「手鉤無用」の函ころがるは/塚本邦雄

第十三歌集『歌人』(一九八二年)に収録された一首。人が器に詰められて送られて来るイメージは、凶悪な事件が起き続けている現代の世相を風刺していると読めなくもないが、この歌の場合はたぶん、母という存在が抱える現代的な哀愁を、ブラックなユーモアをまじえて描いてみせたということだろうと思う。あえて世相にからめるならば、老母を誰がひきとるかといった「中年の子供」同士の確執がなんとなく連想されると言えようか。「家」という制度が機能しなくなりつつあるため、嫌われているわけでもないのに、段ボール箱に詰められた荷物さながら、あちらからこちらへと移動を余儀なくされる印象が、駅頭の荷物の様子につながっている。それでも、傷つきやすく大事であるからこそ「手鉤無用」なのだ。果物が豊富に収穫されて送り送られる「白露」の時期であることも、哀愁と皮肉とをいっそう深めている。

きょうの一首。先日、テレビで観光地の特集が流れていたのを見て、少しふわふわした気分になる。

 まだ少し空席はございますといふ顔つきで秋の片雲がゆく/荻原裕幸

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September 06, 2008

2008年9月6日(土)

今週は睡眠時間の極端に短い日が多かった。きょうは少しゆっくり眠っておくつもりだったのに、結局、ふだんとあまり違わない時間に起きてしまった。自分はどちらかと言えば、短時間睡眠者の範疇に入るようで、ゆっくり眠ったと実感できる時間の長さに対して、心身が実際に必要とする睡眠時間がかなり短いらしい。便利な点もあるのだが、何か損をしているようにも感じられる。

昨日、ラシックで食べたカレーがおいしかったので、店のことをネットで調べてみたところ、「せんば自由軒」といって、大阪に本店のある結構有名な店だという。織田作之助の「夫婦善哉」に出て来る「自由軒」の傍流の店なのだとか。ただ、自分が食べたふつうのビーフカレーは、どうやら主力メニューではないらしくて、どこのサイトを見ても、ルーとごはんをあらかじめまぜあわせた「混ぜカレー」なるものの話が出ていた。ふつうのカレーは「別カレー」とか呼ばれている。前にも書いたことがある通り、まぜて食べないのが習慣なので、主力メニューを積極的に注文する気にはなれないのだが、一度は試してみるべきだろうか。

きょうの一首。母に読ませたら叱られそうな歌だが、ともあれ、八月には、無限の可能性として存在していた時間が、九月になると、ただ流れているだけの時間に、にわかに転じる印象のあるのが不思議だ。

 聞きながら聴かないでゐる母からの電話のやうに流れる九月/荻原裕幸

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September 05, 2008

2008年9月5日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草18首。題は「動」。歌会の批評では、常用の抽斗から何かを出している感覚が強い。一方、講座の批評では、もう十年以上も使っていない抽斗があれこれ必要になったりする。これは、歌会という場で、それなりに共有された「現在」を強く意識しているからだと思われるが、そのために視野が狭くなっているのではないかという危惧もある。そんなことをどこかで感じながら詠草の批評を進めた。

羽生善治王座と木村一基八段との第56期王座戦五番勝負第一局。後手の木村の変則的な一手損角換わりから、双方腰掛け銀に構える。羽生が簡素ながらも玉を囲ったのに対し、木村はあえて手待ちのような指手を続けて三手損に。木村の中途半端な囲いを衝いた羽生のやや強引に見える仕掛けで開戦。二人の棋風通りに、羽生が攻めて木村が受ける展開となる。伯仲と言うよりも混沌とした情勢のまま指手が進む。優劣は対局者にも検討する他のプロ棋士たちにも見えづらかったようだが、木村が強引な反撃に転じた後の終盤、この手を指せば決まると検討陣が結論づけた攻防の角打ちに羽生が気づき、一気に勝勢となって決着した。羽生の先勝。

きょうの一首。講座で「動」の題の作例として見せた一首。

 動くものなき秋日向だがしかしさびしきものはかならず動く/荻原裕幸

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September 04, 2008

2008年9月4日(木)

曇りがちで蒸し暑い日が続いている。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は9人。今回の題は「種」。この題なら果実の種がいちばん歌になりやすいような気がしたのだが、出たのはアボカドと枇杷だけ。そう言う自分も、桃と西瓜を考えて、結局はやめた。歌にはなりやすいにしても、歌の核にはしづらいのかも知れない。歌会終了後、有志で居酒屋へ。

 新しい仕事のために指先と同じ温度の手帳を買った/千葉聡

第二歌集『そこにある光と傷と忘れもの』(二〇〇三年)に収録された一首。触ったときに温度的な違和感がない紙質というのはどんなものだろうと、書斎に置いてある紙やノートや雑誌や書籍を触りまくってみた。どれもかすかに冷たい感じがある。三月や四月の頃だと少し違うのだろうか。あるいは「新しい仕事」という未知の領域に踏みこむための防衛か免疫のような意識をそんな風に表現しているのだろうか。正調で書かれているのだが、「た」で終る現代風な散文調は、定型に何かが少し足りないような錯覚を生じさせる。「手帳」で体言止めにして、形容語をどこかにもう一つ入れて、それでちょうどいいくらいの分量に見える。満たされているのに何かが足りないようなこの感覚が、千葉さんの短歌のスタイルとなり、個性となり、味ともなっているようだ。

きょうの一首。「種」の題詠として歌会に提出した一首。すわりの悪い語ではあるのだが、末尾の「で」を見つけるまでに少し時間がかかった。「悪さ」で結ぶと、比喩のサンプルのような感じになって、空間がたちあがらないし、時間が流れてゆかないと思った。

 あさがほの種にひとつぶ紛れこむ小石のやうなばつの悪さで/荻原裕幸

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September 03, 2008

2008年9月3日(水)

午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。東西句会の例会。参加者は五人。題詠「桃の実」一句と雑詠四句のあわせて五句。無記名で互選と合評。句会に提出した五句は以下の通り。爪切りの句の「ころんと」が良くないという指摘があった。書斎の床を浜に見立て、爪切りを置いて、イメージの確認をしたつもりだったが、そもそも爪切りの形状もサイズもさまざまだということを忘れていた。シミュレーションよりも取材が必要だったか。

 爪切りがころんとひとつ秋の浜/荻原裕幸
 ポケットのなかも秋晴何か鳴る
 行つて来ますとメール一行鰯雲
 自転車をずいつと秋の奥へ漕ぐ
 桃の種楽器のやうに置いてある

第21期竜王戦挑戦者決定三番勝負第二局。後手の羽生善治名人が一手損角換わりを選択。木村一基八段は早々に銀を繰り出して3筋から2筋へと仕掛けて開戦。四十手目あたりから定跡を逸れて本格的な戦いに入る。戦型的には木村の攻めを羽生がどう受けるかという展開が予想される流れだったが、いつの間にか羽生がどんどんと攻めたてる感じに。ともすれば好んで受けにまわりがちな木村だが、本局では攻めあいを選ぶ。たぶん羽生の居玉が木村のこの選択を呼んだのだろう。双方これというミスもなく指手が進んだが、終盤、勝ち筋があるのに気づけなかった羽生が、手を渡したために守勢から無理攻めを強いられることになり、最後は即詰めが見えて投了。一勝一敗のタイとなる。

きょうの一首。母に対して、好意的にイメージできる側面からのレトリカルな素描である。「案外」のどこが好意的なのか、という気がしないでもないが。

 露草から見れば案外たをやかに近づいて来る母のゆびさき/荻原裕幸

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September 02, 2008

2008年9月2日(火)

小雨が降ったり曇ったり。気温は大して高くないようだったが、じめじめした感じがきもちわるかったのでクーラーを動かす。首相の辞任会見から一夜明けて、あなたとは違うんです、が加熱しているらしい。良い意味でも悪い意味でも、福田首相の語り口は、ひとごとのように、というよりも、ひとりごとのように、というのが、より近い気がする。

 蜩と天使と多し杉並区/高山れおな

第一句集『ウルトラ』(一九九八年)に収録された一句。「天使」と「杉並区」とが抱える、どこかものものしく語っている感じを、魅力だと捉えるか作為的だと捉えるかで、句の評価がずいぶん上下しそうである。自分は前者。そうそう、とか、なるほど、ではなく、言われてみればそんな気がして来る、というレベルでの断言であるからこそ楽しい。どこからどう見ても現代俳句なのに、どこかにかすかに近世のテイストを感じさせるのも、この作者の魅力だろうか。以下、同句集から、他にも好みの句を引用しておく。

 犬といふ犬繋がれて春の月/高山れおな
 渋滞の大路のどちら側も梅雨
 葱を抜く一瞬死んだかも知れず
 寒鯉の全身濡れてゐる怖さ
 日の丸が愛の動きのごと靡く

きょうの一首。

 千葉県に住む酒豪からメール来てむちやくちや古い約束を言ふ/荻原裕幸

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September 01, 2008

2008年9月1日(月)

九月となる。雲がひろがって、ひざしはなかったものの、蒸し暑い日だった。どこか遠いところで、忙しそうに、つくつく法師が鳴いていた。あの鳴き声は、蜩の情緒的な声の印象と比べると、なんだかユーモラスである。とりわけ、ツクツクボーシを連発したあとの、鳴きやむ直前で変調するあたりが。梶井基次郎「城のある町にて」にユニークな聞きなしがある。以下のような一文(引用は新潮文庫版から)。

 「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰返えす、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。/梶井基次郎

このスットコチーヨには圧倒的な力があると思う。むかしむかし、佃公彦の新聞マンガに、この梶井の聞きなしをパロディした回があって(実は、そこではじめてスットコチーヨを知った)、木にとまる蝉の姿とオノマトペだけで構成されたその四コマを思い出しては、数日間、笑いが抜けなかった。以後、あの声は、スットコチーヨとしか聞こえなくなっていた。

夜、福田康夫首相が辞任を表明した。テレビで緊急会見の中継を見る。支持率の低迷から、いずれ来るだろうと大方が予測していた辞任も、よもやこのタイミングでとは予測できなかったのではないだろうか。変なサプライズがないのが福田内閣の見えづらい個性だったと思うのだが、最後になって個性を根底から崩壊させるようなサプライズが出てしまったようである。

きょうの一首。合計三十二本だった。

 歯が何本あるのかなぜか気になつて口腔にゆびをつつこむ夜長/荻原裕幸

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