« September 2008 | Main | November 2008 »

October 31, 2008

2008年10月31日(金)

急に冷えこんだ一日。念のため、電気ストーブを出した。先週、昼はTシャツ一枚で過ごす日もあったのだが、もはや遠いむかしの出来事のような気がする。数日前、家人が、玄関ドアにごそごそと何かをつけていた。見てみると、かぼちゃのかたちをしたオーナメントである。冬至? まだ早いよ? ってゆーか、冬至ってかぼちゃを飾る? とか思っていたら、ハロウィンの飾りなのだという。

第21期竜王戦七番勝負第二局。羽生善治名人の先手で相矢倉に。四十手を過ぎるあたりまでは最新の定跡で、以後、渡辺明竜王の端攻めから、羽生の玉頭で勢力争いが展開されることになる。二日目のきょうも、渡辺の矢倉とも羽生の攻撃の布陣とも離れた場所で手が進んでゆく。プロ棋士の検討では、ずっと羽生優勢の雰囲気だったのだが、渡辺の矢倉が堅いままで、至るところに勝敗のあやがあったようだ。囲いの崩れた羽生の玉は、それでも意外に遠くて、最後は渡辺のミスで一気に決着。羽生の二連勝。投了図でも、羽生が組んだ攻撃の布陣はデフォルトのままになっていた。奇妙な印象の一局だった。

きょうの一首。

 まんなかをあなたはあるく晩秋にふかきひかりのさす処まで/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 30, 2008

2008年10月30日(木)

午後、家人と所用で出かけた流れで、近所の某喫茶店に入る。五年ほど前、オープン直後に一度だけ入ったことのある店で、その後、なぜか行かなくなっていた。なぜ行かなくなったのか、二人とも理由を忘れていた。ぼくは珈琲を、家人は珈琲ではない飲みものをオーダーする。珈琲を飲みはじめたところで、家人が、何かを思い出したように、おいしい? と妙な表情で訊く。かなりしっかりした味だったので、おいしいと答える。家人は、この店に来なくなった理由は、ぼくがおいしくないと言ったからだったと言う。味覚に自信があるわけでもないし、おいしくないとはっきり言うのは、よほどおいしくないときだけなんだけど。不思議だ。

 旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る/吉川宏志

第三歌集『海雨』(二〇〇五年)に収録された一首。歌集の配列から考えると、老いた祖父に向けてのメッセージ、または、自身に言い聞かすことば、として書かれたもののようだ。吉川さんの文体は、文語と口語の混ざり具合に特徴がある。一般に、混ざった文体の人は、なじませようとするせいか、文語感も口語感もどちらも薄くなる傾向があるものだが、吉川さんは、どちらも濃いまま混ぜてしまうことが多い。だからたとえば、この「なり」で躓く。「キテレツ大百科」のコロ助みたいだと思う。一首のモチーフに即して語が適切に選ばれているとは言いにくいところがある。それにもかかわらず、この歌は、吉川宏志が書いている、という感覚を、意外なほど強く与えてくれる。無意識的に出て来た文語ないしは口語、という感じがなくて、あえて混合して構築した文体だとはっきりわかるからだろうか。

きょうの一首。

 あなたから渡されて噛むどのガムもほどよく雑ざる冬の成分/荻原裕幸

| | Comments (4) | TrackBack (0)

October 29, 2008

2008年10月29日(水)

午後、中京大学へ。キャンパスでは大学祭の準備が進んでいたり、献血車が来ていたりして、とてもにぎやかだった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の八回目となる。きょうの題は「柿」と「秋風」。柿の有名な句は、正岡子規の法隆寺の一句に尽きると思うが、では柿の秀句はどの句ということになるのだろうか、などと考えながら、きょうの題に即して二句。

 約束のことばにごして柿の空/荻原裕幸
 秋風上等どつさりと買ふ宝くじ

 オタクたちが最も苦手としていることは、自分たちがやっていることを、より包括的なコンテクストの中に位置づけることである。/大澤真幸

岩波新書『不可能性の時代』の「オタクという謎」の章の一節。この「苦手」は、それをするだけの能力がないという意味とは微妙に違う。大澤によれば、彼等の欲望が限られた領域にしか向かわない、もしくは、限られた領域が彼等の欲望をひきだすのは、そこに普遍的な世界が内面化されているからだという。「彼らにとっては、より包括的なコンテクストはあってはならないし、またあるはずもない。つまりは、外へと通ずる窓はないのだ。こうして、外部の包括的なコンテクストへの一切の参照を欠いたまま、内部の情報を徹底して精査しようとする欲望だけが、無限に展開することになる」。なるほどと思うのだが、この「オタクたち」という主語には、何か別の語を入れてもあてはまってしまいそうな気がしてならない。

きょうの一首。

 同じ本なのに二度目はテキストが花野のやうに淋しく晴れる/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 28, 2008

2008年10月28日(火)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は六人。テキストは大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)。これまで読んで来た大澤の他の評論に比べると、分析があまりにも構図的、と言うか、何かざっくりとしたレジュメのような印象があった。なので、かなり批判的な意見を出し続けていたのだが、帰宅してもう一度ざっと読み直してみると、ちょっと感触が変化していて、腑に落ちる部分が増えはじめた。読書会の効果なのか、あるいは、受容するのに時間のかかるファクターが多いということなのだろうか。

 ワイシャツがあらかじめもつ形状の記憶に袖をとほす花冷え/光森裕樹

第54回角川短歌賞受賞作「空の壁紙」の一首。同賞は、総合誌「短歌」11月号に詳細が掲載されている。花冷えの頃にノーアイロンのシャツを下ろす、という、ただそれだけのことなのだが、定型と折りあいをつけながら記述してゆくなかで、さまざまな、ふくみ、や、あや、が生じているようだ。たとえば、四月頃、新品のシャツを着るのは、ことの大小はともかく、新たな出発を思わせるが、そうした出発が人に感じさせる無限に近い可能性の感覚を、実は、既存のゆるやかな枠に入ってゆくことなのだと、嫌みにならない程度のシニカルさで冷ましている。「記憶に袖をとほす」という語のつながり具合。あるいは「花冷え」という語の選択。これらが、体感と心象とを実に巧くむすびつけて、何でもないはずの日常を何かに昇華させている。五十首を読んで、シンプルな素材ほど、この作者のちからを活かしていると強く感じた。他にも好みの歌を引用しておく。

 六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか/光森裕樹
 ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
 あなたならきつとできるといふことを冬ながくしてできずにゐたり

きょうの一首。

 立冬まであと十日ほど朝夕はほとんどの木が喋らなくなる/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 27, 2008

2008年10月27日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の五回目。きょうは評論について。実例をベースに解説を進めながら概説する。リアルタイムで読んで来たものを、歴史の終りのあたりのものとして語ることには、拭いがたい違和感がある。ただ、本の刊行年を確認すると、二十年前だったりするわけで、まあしかたないのかなとも思う。帰りの地下鉄に、サッカーの練習帰りらしき小学生くらいの姉弟がいて、二人でがつがつとチョコレートを食べながら水筒で何かをがぶ飲みしていた。マナーが悪いと言えば悪いわけなのだが、あきらかに糖分と水分が欠乏している感じだったので、苦笑をこらえながら見て見ぬふりをする。同じ駅で降りた。近所の子なのか。深夜、家人が帰宅。

島なおみさんのブログの「+a crossing」という企画に参加。まず、光森裕樹さんの三首についての作品評が掲載された。三首、という分量での依頼を受けて、光森さんは、三首でできる実験、を試みているようだ。いわゆる無所属歌人的な自在さによるものだとも考えられるし、とりあえずの一つの方向が定まってないとも言えるが、何よりも、何でも巧く書けてしまうという自身の力をもてあましている印象が強い。昨年のネットでの企画「セクシャル・イーティング」でも、少しそんなところが出ていたように思う。今年の角川短歌賞受賞作「空の壁紙」は未読だが、光森さんが、多くの批評に出逢って、自身の力をどのように統御してゆくのか、興味深く、大いに期待している。

きょうの一首。

 栗弁当のなかのしづかな円高をしばし眺めてから箸を割る/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 26, 2008

2008年10月26日(日)

早朝、家人が友人たちと旅行に出かける。留守番。秋が深まる、と言うか、急に冷えこんだ感じの一日。何となくそわそわした気分になる。気温の低下と何か関係があるのか、何回も静電気に襲われていた。電気が走るたびに、慌てて手をひきながら、おまえもか、と、思わず物を睨みつけてしまう。NHKの大河ドラマ「篤姫」は、慶応年間まで話が進んだ。どう考えても明るい情勢ではないのに、天璋院はあいかわらずのポジティブシンキングである。

 おまわりさん
 私ね、きれいにしただけなのよ
 夫も 息子も それから
 お義母さんも みんな
 きれいにしたら きれいになった
 きれいにしたら きれいになった/水無田気流

第二詩集『Z境』(思潮社)に収録された「漂白罪」の冒頭の一節。水無田気流さんの詩には、世界とか日常とか境界とか時間とか更新とか、硬度の高いことばの頻出する作品群がある。ぼくは、どちらかと言うと、こうした硬度の低いことばで書かれた作品が好みだ。第一詩集『音速平和』(二〇〇五年)のあとがきでは「現時点での世界の強度と速度を正確に映し出すこと」が「目標」として掲げられていたが、そうした「正確」な感じが、この種のことばで書かれた詩群に、より強く生じているのではないかと思う。ひとりの「私」の呟きのような声を、世界の叫びに紛れさせてしまわない認識の力は、とても快いものに感じられる。「現代詩手帖」11月号には、『Z境』の晩翠賞受賞が発表されていた。慶祝。

きょうの一首。今年の三百首目。

 秋の底に降りてゆくちからがなくて誰とも逢はずすごす夕暮/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 25, 2008

2008年10月25日(土)

先日、家人が、年賀葉書の東海版の広告を見ていて、友人が寄附金付葉書のイラストを描いているのを見つけたと言う。ビジネス的なタッチなので識別しづらいし、見本のすみの名前は、比喩ではなくて本当に罌粟粒のサイズになっているし、よく気づいたものだと感心した。夜、義父義母と義姉夫婦と家人と六人で会食。食後はコメダ珈琲店で歓談。CS第二ステージ第四戦、ドラゴンズは、ベストだとは考えづらい継投の采配で四点差をつけられる。何か事情はあったのだろうが、ちょっと残念。これで一勝三敗一分となってCS敗退。今シーズンが終了した。

 日本語にうえていますと手紙来て
 日本語いがいの空は広そう/今橋愛

第一歌集『O脚の膝』(二〇〇三年)に収録された一首。日本語圏にいながら日本語に飢えているとも考えられなくはない。ただ、「空」に向かって連想がはたらいているし、この手紙は、エアメールだと解釈しておくのがいいだろうか。はじめの「日本語」は、日本の雰囲気、生活、人々、等々を含む、日本の象徴としての日本語という意味にとれる。ふたつめの「日本語」は、ことばの流れとして無意識的に出て来たように見えるし、日本以外の、と言うべきを言い誤ったようにも見える。何か変なことばづかいなのだが、この言い誤りによって、一人称の想像している空が、奇妙な歪みと広がりをもってたちあがって来るのがおもしろい。外国の空も日本の空も、日本語の外に出て見ると、思いのほか広いのかも知れない。

きょうの一首。

 濁つたり曇つたりする妻のこゑが青く澄むまで外に出てゐる/荻原裕幸

| | Comments (3) | TrackBack (0)

October 24, 2008

2008年10月24日(金)

晴れたり雨が降ったり。夕刻、近所のスーパーと薬局で買い物。夜、物洗貝の水槽の大掃除をする。延々と水道水で作業をしていたのだが、まだ水は秋の感触で、手が冷えるという感覚はない。CS第二ステージ第三戦、延長戦の末にドロー。川上憲伸の六回の被弾があまりにも勿体ない。ドラゴンズは一勝二敗一分で、後がなくなる。

 うすぐらき孔子のことばかざりたる父よりのたまごいろの絵葉書/塚本邦雄

第四歌集『水銀伝説』(一九六一年)に収録された一首。孔子のことばすべてが薄暗い印象だというのか、父がそれを選んだから薄暗く思われるのか、いずれにせよ、絵葉書に添えられたことばの方には過剰に反応して、主たるメッセージには何の言及もない。ここには、事実かどうかとは別の次元の、私事を離れて普遍の位置から父を描こうとする姿勢が見える。体験を記述する文体が選択されたため、むしろつくりごとめいて見えるが、塚本邦雄にとって重要なのは、父とはかような存在である、という詩的認識だったのだろう。短歌が、こんなに自在に詩的小世界を構築できるものなのかという驚きはいまも新鮮であり、一方で、恣意の袋小路に入っているような印象もどこかに残っている。

きょうの一首。そのことに気づいて、嫌だなあ、と、まんざら嫌でもなさそうな声を出してしまう自分に気づく。

 父のてのひらの窪みに似はじめた窪みにためる朝の秋の水/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 23, 2008

2008年10月23日(木)

霜降。全国のローカルニュースをテレビで見ていたら、どこのエリアだったか、松の木の菰巻きをしていた。霜降に巻いて、啓蟄に外すのだという。二十四節気が目安になっているとは知らなかった。あと半月で立冬、あと一か月で名古屋も冬支度なのだが、家のなかではまだ、Tシャツ一枚で過ごしていることがときどきある。CS第二ステージ第二戦、ドラゴンズは先発投手のかなり深い谷間で、ジャイアンツの主軸に打たれまくって大敗。一勝二敗となる。

万来舎のウェブの、20日付の、江田浩司さんの「『現代詩手帖』の短歌・俳句時評を読んで考えたこと。」を読んで考えた。言及されている「現代詩手帖」5月号の高柳克弘さんの俳句時評「切れと難解」は、鮮烈な示唆があるという意味でも、何か腑に落ちないところがあるという意味でも、ぼくも長く気になっていて、同号がずっと机上に置いたままになっている。高柳さんは、長谷川櫂が、切れ字が表現上どういう効果をもたらすのかを説いた文章を、表現上の効果を考える文脈のなかで批判している。江田さんが言うのは、そもそも俳句の切れの問題を、切れ字の表現上の効果を入口にして考えるのがおかしいのではないか、ということらしい。ぼくが腑に落ちないと感じていたのは、もっと皮相なレベルのことだが、「や」に代表される句の中の切れを、「かな」「けり」に代表される句の末の切れと、別物として扱っているように見えることだった。もし別物として扱うのだとしたら、それは、切れの作法を論じることにはなっても、切れの論理にはつながりにくいと思うのである。高柳さんの時評のなかでは、そのあたりがちょっと見えにくくて、気になっていた。

きょうの一首。

 ユーチューブから現在に戻り来て家族の声をしみじみと聴く/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 22, 2008

2008年10月22日(水)

不燃ごみ、粗大ごみ、段ボール等の回収の日。今回はあれこれまとまったためにかなり量が多くなった。マンションの階段を三往復する。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の七回目。きょうの題は「秋の暮」「鵙」。夕刻、桜山の美容室へ。伸びっぱなしになっていた髪をカットしてもらう。ジャイアンツとドラゴンズとのCS第二ステージ第一戦は、中村紀洋の決勝打でドラゴンズが接戦を制する。ジャイアンツのアドバンテージを含めて、一勝一敗となる。

 ひきだしの奥に収まる秋の暮/荻原裕幸
 夕鵙や合ふ穴ひとつどの鍵も

きょうの題に即して二句。俳句は書いていて楽しいのだが、書いたあとは楽しさがあまり長く続かない。もちろんそれは俳句の問題ではなく、書く側の問題である。たぶん、迷いがあったり技術に欠けていたりで、構成したモチーフを強く守り過ぎているため、読者に句をゆだねるような、ぎりぎりのところまで踏みこめていないからではないかと思う。踏みこまなければ。

きょうの一首。近隣の山崎川周辺の粗いスケッチ。

 秋の道ゆるく曲がればこの川も寄り添ひながら彼方に消える/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 21, 2008

2008年10月21日(火)

爽やかな気候が続く。けさは呼鈴で目覚めた。出てみると、訪問者はすでに去ったあとだった。岡井隆さんの歌集『ネフスキイ』(書肆山田)を読み進める。読み進めると言うよりも、ぱらぱらと読んで輪郭を探っていると言った方が妥当か。「記録と表現とのあひだのあいまいな境界線上をさまよつた」といったフレーズがあとがきのなかに見えるが、これは、散文表現では、『茂吉の歌私記』(一九七三年)あたりからはじめた岡井さんのスタイルであり、過去の歌集のなかにも兆しはある。ただ、何かやはり歌集は聖域のように扱われていたところがあって、徹底されたのは『二〇〇六年 水無月のころ』(二〇〇六年)以後であり、『ネフスキイ』には、方法的に完成したという感触があった。

夜になってから家人と所用で外出。ついでにスーパーに寄って、食卓にならべてそのまま食べられるものを買って帰る。岡井隆さんの作品を読んで、あるいは近年の岡井さんの文体の影響をうけている人の作品を読んで、いつも気にかかるのは、結句へのこだわり、と言うか、結句で軽い転換をはかるスタイルである。『ネフスキイ』ならば以下のような作品。

 茫々としてゐるやうで時間には切れ目裂け目が、今がその時/岡井隆
 眼前の小事象から永遠をつむぎ出さうつて ふてえこんたん

ここには、思いつき的な思惟を、定型にやや強引に収めている印象がある。この辻褄あわせのような転換にはなかなかなじめないでいた。それが『ネフスキイ』を読むなかで、少し印象が変化しつつある。結句が一首全体の流れになじむように全体を整えることも、ある種の辻褄あわせなのではないかと感じはじめたからだ。

きょうの一首。深夜、少し酒を飲んだ。

 数枚のセル抜け落ちてゐるやうな妙な動きで猪口をさしだす/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 20, 2008

2008年10月20日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の四回目。エッセイについて、少し復習して、学生たちに実際に書いてもらう。大学までの道すがら、植物系の秋の季語を探しながら歩いてみたのだが、意外なほど見つからなかった。確認できたのは、芙蓉、夜顔、白粉花、カンナ、鶏頭、団栗、の六つだけ。知識の問題か、選んだ道の問題か。CS第一ステージ第三戦は、吉見一起の好投とタイロン・ウッズの本塁打でドラゴンズが辛勝。第二ステージに進む。これまで同星の決戦でドラゴンズが勝った記憶がない。何かとても不思議な感じがした。

第21期竜王戦七番勝負第一局は、午前一時過ぎに決着した。後手の羽生善治名人の一手損角換わり、渡辺明竜王の棒銀で序盤が進行。羽生が右玉に構えると、渡辺は矢倉から穴熊に。駒組で圧倒的に優位な渡辺が、2筋から仕掛けて、一日目の封じ手となる。二日目の指手が少し進んだあたりで、渡辺が2筋からそのまま突破、優勢か勝勢と見える局面となったのだが、攻防の流れのなかで羽生が二枚の角を打つと、実は混沌とした形勢だったことが判明。そこから攻防が激化して終盤に。羽生が堅固な穴熊を崩してゆく手順は難解で、微妙な形勢のままだったと思うが、結局一度も主導権を手放さずに渡辺を投了に追いこんだ。羽生の先勝。中盤、羽生が二枚の角を打つ前後のあたり、勝勢までを読んで指した渡辺と、終局までを読んで指した羽生の差が出たということのようなのだが、表面上は、神業か超能力のようにしか見えない。

きょうの一首。

 白秋の白はどこにも見えなくてただどこまでも透く秋なかば/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 19, 2008

2008年10月19日(日)

午前、所用で外出。帰りにスーパーに寄ったら、入口付近に大きな犬がつながれていた。横からじっと顔を見ていると、そっぽを向かれてしまう。回りこんで正面からのぞくように顔を見ると、ふたたびそっぽを向かれる。意識して背を向けると、こちらを見ているようなのだが、ふりかえるとやはりそっぽを向くのだった。親愛の目で見ているつもりでも、意思の疎通ができていないのか、あるいはできているからこそそのような態度をとられるのか。帰宅して家人に話したら、そこまで嫌われるのも一種の才能だね、と笑われた。CS第一ステージ第二戦は、ドラゴンズの投壊でタイガースが一矢報いる。一勝一敗となる。

結社誌「短歌」10月号、通巻一千号を読む。慶祝、一千号。同号の菊池裕さんの短歌時評「結社と選歌」を読みながら、結社の効用についてあらためて考えていた。私見を言えば、結社とは、個々の歌人の事情のなかで、短歌に対する意欲を維持したり高めてくれたりするシステムであり、選歌もその他も、あくまで個々の事情に作用するファクターの一つなのではないかと思う。そう言えば、最近、結社の内部で結社そのものを考察するような文章をよく見る気がする。「塔」8月号では、「結社とのつきあい方」という座談会があった。「未来」10月号でも、田中槐さんが「結社について」という短歌時評を書いている。それぞれ視点は違うのだが、やはり無所属歌人の増加がどこかで影響しているのだろうか。

きょうの一首。

 切手傾げば何かものがなしいと言ふ秋を正しく病んであなたは/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 18, 2008

2008年10月18日(土)

十月らしい気候が続く。きのう届いた岡井隆さんの最新歌集『ネフスキイ』(書肆山田)を読みはじめる。この大家の情熱はどこまでも衰えない。渡辺明竜王と羽生善治名人との第21期竜王戦七番勝負第一局がはじまる。対局地がパリで、日本時間での午後四時の開始である。時差もあるうえに二日制なので、勝敗が決まるのはたぶん月曜の午前だろう。タイガースとドラゴンズとのCS第一ステージ第一戦は、川上憲伸の好投でドラゴンズの先勝。

珈琲メーカーを新調した。きのう割った硝子器というのは、実は珈琲メーカーのサーバで、サーバだけを別売もしていたようなのだが、そんなに高価なものを買うわけでもないので、まるごと新しくした。これまで使っていた機種と、湯の落ちる速度が微妙に違って、以前とはどうも同じ味にならない。どうやったら同じ味にできるのかを思案中。ちなみに、結局、スーパーでモカ系のブレンドは見つからなかった。キリマンジャロ系のものに切り換えることにした。

きょうの一首。香車は将棋の駒の一つ。杏は香車の駒裏に記された、敵陣に侵入してモードを切り換えたときの名称で、成香とも言う。一字で表記するときは杏の字を用いる。香の字を簡略化したようにも見えるが、属性は金将と同じで、金の崩し字を便宜的にそう読んでいるとも聞く。

 香車の駒のうらは杏としるされてこの夕暮をくりかへし鳴る/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 17, 2008

2008年10月17日(金)

睡眠不足が続いて、かなり雑に物を扱っていると自覚はあったのだが、きょうの講座のための一首を考えながら、食事のかたづけをしていたところ、ステンレス棚の角に硝子器をぶつけて割る。硝子のかけらで指の腹を少し切った。おまけに、まとまった一首が、あたまのなかのどこかに消える。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「飾」。よくまとまった詠草が揃っていた。

あたまのなかのどこかに消えた一首がどうしても見つからないので、残っていた下絵からやり直すことにした。こういうときは、時間的な意味では、捨ててしまって一から書き直すのが得策なのだが、たまにはいいかなと思って。下絵というのは「飾りだつたはずがいつしか本体となり私のなくなる紅葉」。自分のなかでは文脈がきちんとつながっているし、映像的なイメージもある。ただ、それを、読者のいる側に届けようとする腐心がまったく見えない。「本体」という語は、漢語によって思惟の流れを見せるような、異化の作用が生じていないので、一首をつまらない説明文と化しているだけのようだ。「私」が、自分自身を示しているのか本来の「本体」を示しているのかがあまりにも曖昧である。もし両義的にするなら、文脈上はどちらか一方に着地させるべきだろう。等々、講座後、喫茶店で、推敲と言うよりも自作の添削のような作業をしてみた。

きょうの一首。

 飾りものにしかすぎない紅葉だが外すと残るものがない庭/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 16, 2008

2008年10月16日(木)

午前から午後、家人が外出。留守番。対策が功を奏して、物洗貝が濾過器のフィルタに挟まれる事故は起きなくなった。五十匹前後が、きょうも水槽のなかでのどかに遊んでいる。全体の三分の一程度が集まるお気に入りの場所がいくつかあって、ときどきお団子状態になっている。単独行動を好むものもいる。そういうところは、人間とあまり違いがないようにも見える。

 溶けあっていろを失くしていくひとと鯨のはなしをしている夕べ/彦坂美喜子

第一歌集『白のトライアングル』(一九九八年)に収録された一首。接するとむしろ個性が見えにくくなる人がいる。自己主張をあまりせず、他人との接点をうまく見つけてゆくからだろうか。接したとき、はじめは当然、自分は自分であり、相手は相手である、と感じているのだが、やがて、話がからみあってゆくと、どこからが自分の考えでどこからが相手の考えなのか、境界がはっきりしないような錯覚の生じることもある。「いろを失くしていく」とは、そんな状況を言っているのかも知れない。鯨の話題ともなれば、個々にそれなりの見識があって不思議はないのに、意見の一致を見るわけでもなく、反撥しあうわけでもなく、互いが「溶けあって」混沌とした状態になる。夕空のように、昼も夕も夜も、何もかもがごちゃごちゃと雑ざって、相手ばかりか、明確なはずの自分の個性や姿も、どこかぼんやりして来るのだろう。

きょうの一首。近いところにも遠いところにも、そんなことを感じる家がある。

 子は母のまた母は子の作品でゆふぐもが来て燃えあがる家/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 15, 2008

2008年10月15日(水)

爽やかに晴れた。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の六回目。きょうの題は「秋気」と「木犀」。「秋気」は書きづらかったようで、詠草に苦心のあとの見えるものが多かった。実体がなくて漠然とした季語が題だと、題そのものを掘りさげても、同季の他の季語が連想されるばかりで、とりあわせの素材にたどりつきにくいのかも知れない。きょうの題に即して二句。

 影どこかまどかに動く秋気かな/荻原裕幸
 木犀や霊視のちからあるひとと

鈴木竹志さんが14日付の「竹の子日記」で、先日「イリプス」に出稿した作品を読んだ印象を書いてくれているのを読む。漠然とした感じだが、鈴木さんには、ぼくの流れか道筋のようなものが見えているのだろう。時折このことばを思い出しながら進んでゆこうと思う。風間祥さんが14日付の「銀河最終便」で、12日付のきょうの一首について鑑賞風な感想を書いてくれているのを読む。一首の作品について、こうしたことばを貰える機会はとても貴重だ。一首を通じて何か同じ状況のようなものを見ることができたのだとすれば、冥加に尽きる。

きょうの一首。きょうもきもちよさそうに啼いていた。そう言えば、鵙の歌を書くのは、これがはじめてだったかも知れない。

 それにしても鵙がよく啼く様式に微差を含んだ声でよく啼く/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 14, 2008

2008年10月14日(火)

雨降り。午前、粗大ごみを回収してもらうため、市の受付センターに電話。午後、栄の名古屋YWCAへ。ねじまき句会の例会。参加者は三人。出詠者は六人。今回は題詠「拒」と雑詠。三人なので、おのずとのどかな感じの句会になる。投票だけは無記名で、批評は作者名を参照しながら進める。句会に提出したのは以下の二句。

 タクシーに猫も葡萄も拒まれる/荻原裕幸
 あみだぶつむだにぶあつき説明書

鰤という呼び名は、全国でほぼ共通しているらしいが、出世するまでの名前は、地域ごとに異なるのだという。何の話の流れだったか、家人が、つばす、から、ぶり、になる間に何段階かがあるはずなのに、スーパーだとそれがぜんぶ、はまち、になってるよね? と言う。そう言われてみればそうだなと思って、歳時記で確かめると、大阪では、つばす、はまち、めじろ、ぶり、と出世するらしい。名古屋もたぶん同じはずだが、めじろ、がいない。どこに行ったのだろう。

きょうの一首。句会に出ていた二人と、傘の骨の本数の話をしたせいか、何度となく傘の内側の空間を見ていた。

 ひとを待つひるのすさびに雨傘の無防備なひろがりを眺めて/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 13, 2008

2008年10月13日(月)

体育の日。午後、同朋大学へ。月曜は、講義数が不足するため、祝日をすべて休みにすることができないらしい。文章表現の講義の三回目。テキストの解説を中心に、ひきつづきエッセイについて話をする。大学近くの公園では、家族連れが休日を楽しんでいた。道沿いの一角で、何かを拾い集めている父娘らしき二人がいて、あまりにも熱心なので、思わずじろじろ見てしまう。拾っていたのは団栗だった。ずいぶんたくさん落ちていて、宝の山のようだった。

以前、女性のスパイを主人公にしたアメリカのドラマを見ていたとき、敵の手に落ちた主人公が、尋問をうけて、答えなければ歯を抜く、と脅されるシーンがあった。それに対して主人公は「抜くなら奥歯からにしてね」と言う。答える気はないという意味でもあり、女性としての容姿に気をつかえという意味でもある。そんな窮地にいるのに何を言ってるんだよこの女は、と、テレビの前の自分は、はらはらしながらも爆笑していた。こういうとき、殺されても構わないといったニヒルな態度でのぞむ主人公だと、拷問や死の恐怖は消えるのだが、それが消えるせいでむしろ、どこか納得できないものが残る。一方、ジョークを飛ばすこの主人公の場合、ドラマのなかだとは言っても、拷問や死の恐怖はまったく解消されない。ただ、何か不思議な解放感のようなものをもたらしてくれる。

きょうの一首。毎回、わかっているはずなのに、変な感じがある。同じようなものなのに、テレビではこれを感じない。

 パソコンを落としてしばし奥行のないモニターの闇に驚く/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 12, 2008

2008年10月12日(日)

午後、家人が外出。留守番。近隣はいたってしずかで、鵙の啼き声と換気扇の音だけが聞こえていた。F1日本GPの決勝、事故とペナルティの嵐となったらしい。ルイス・ハミルトンが、ここ一番というレースで、クレバーな戦略を超えた危険なドライビングを見せるのは、どこかミハエル・シューマッハを髣髴させるのだが、ポイントが取れなかったのは痛い。残り二戦となって、年間優勝の可能性は、ハミルトンを筆頭に、上位三人に残されている。

 年下も外国人も知らないでこのまま朽ちてゆくのか、からだ/岡崎裕美子

第一歌集『発芽』(二〇〇五年)に収録された一首。知らないで、と言ってはいるものの、さほど知りたいわけでもなさそうである。恋愛に対する貪欲さではなく、年上の日本人、それも特定の一人との関係が、このままいつまでも続くのだろうか、という、倦怠と不安とがないまぜになったような感情から生じたことばなのだろう。成就した状態の恋愛や性愛を描くことは、一九八〇年代以後の短歌に、ごくあたりまえのことのように広がっているが、それは、やはり、この歌のように、どこか屈折した感覚が見えてはじめて活きるモチーフなのだと思う。

きょうの一首。

 兵隊となるなりゆきのなささうなからだを秋のひざしに解く/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 11, 2008

2008年10月11日(土)

よく風の吹いた一日。書斎にいるときは、喫煙するので、換気扇をずっとかけっぱなしにしている。それが、外から吹きこむ風の勢いでほとんど機能しない。ものすごく無駄なことをしている感じがして換気扇を切る。日中の風は爽やかだったが、日没後は少し寒くなった。三浦和義氏が自殺したというニュースが流れる。ロサンゼルス市警の留置施設で首を吊ったそうだ。日本の司法の結論を超越してまで再逮捕したほどの人物なのに、そんなすきのある監視体制だったのだろうか。

朝バナナダイエットの影響なのか、あいかわらずスーパーでバナナを買いづらい状況が続いている。ふだんふつうに買っているものが買いづらくなるのは困るのだが、夕方になる前に買い物に行けば大抵は手に入るので、苦情を言うほどのことではないのかも知れない。買いづらいと言えば、モカないしはモカ系のブレンドの珈琲豆が、ほとんどのスーパーの店頭から消えてしまったようだ。少し前に、エチオピア(モカの大半はここから輸入している)の珈琲豆が残留農薬の問題で輸入できなくなったと聞いた。たぶんその影響なのだろう。買い置きしてあるモカ系のブレンドも最後の一袋となった。

きょうの一首。「竹の春」の俳句をつくろうとしてなかなかうまくゆかず、ならば短歌でと思ってまとめていたのだが、推敲している間に「竹」だけが残った。

 わたくしが崩れぬやうに植ゑてある竹撓らせてゐるけふの風/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 10, 2008

2008年10月10日(金)

先日から、水槽内でたびたび、濾過器のフィルタにからだが挟まれて出られなくなる事故が起きて、物洗貝が何匹か死んでしまった。家人は、事故防止の対策をあれやこれやと考えている。いくら注意してもまったく言うことを聞かないので、危険そのものを完全に排除するしかなさそうだ。夕刻、家人と外出。調子の悪くなった家人の携帯電話を新調する。

週刊読書人の10月17日号が届く。この号には、大辻隆弘さんの短歌時評集『時の基底』(六花書林)の書評を寄稿した。四百字で三枚半ほど。短歌専門のメディアではないため、短歌時評そのものの話から書きはじめたせいか、書評としてはいささか変則的な文章になったかも知れない。本の輪郭がきちんと伝わりますように。ちなみに同号には、石川美南さんのエッセイが掲載されている。面白くて笑う。数回の連載になるらしい。

きょうの一首。

 動き終へた臓器のやうなしづけさに二三のものがある秋の卓/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 09, 2008

2008年10月9日(木)

連日、金木犀が強く匂っている。マンションの敷地内に木はないのだが、時折、玄関先まで匂いがたちこめる。近隣、およそ1キロ圏内は、花と緑の多い場所で、金木犀もやたらに多くて、どの方角に歩いても、匂いと花の姿が楽しめる。夕刻、家人と買い物に出ると、どこまでも延々と、金木犀の匂いの迷路が続いていた。

ノーベル文学賞がル・クレジオに決定したという。何となく一九八〇年代からの受賞者の一覧を見てみた。他ジャンルはともかく、文学賞くらいは、受賞者の仕事をある程度は理解していてもよさそうな気がするが、はっきり、この人は読んだ、と言えるのは、大江健三郎一人だけだった。知っているかもしくは少しは読んだというレベルの人でも十人に満たない。どこかさみしい数字だなと思う。

きょうの一首。

 清濁はともかく水のからだゆゑこの秋もただ揺れながらゆく/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 08, 2008

2008年10月8日(水)

寒露。だというのに暑さがもどる。午後、中京大学へ。この時期に半袖はいかがなものかとか思いながらも、やはり暑いので半袖で外出。道々、他人の袖の長さを気にしていると、半袖率がそれなりに高かったので、何となく強気になる。男子学生にはTシャツ一枚という強者もかなりいた。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の五回目。きょうの題は「十月」と「蜻蛉」。講座後、喫茶店で、犬を見ながら、きょうの題に即して二句。

 十月がつぶさに見える窓の席/荻原裕幸
 うつかりと母国語で呼ぶ秋茜

文芸誌「イリプス」第二号が届いた。現代詩中心の空気に変化はないが、前号よりも頁数が増え、執筆者も増え、作品欄には、稲川方人、瀬尾育生、小池昌代といった名前も見える。この号には「探し出せないわたくしのための五十首」と題して、短歌五十首を出稿した。二〇〇八年立夏までの「きょうの一首」を編集構成したもので、とりとめもなく書いていた作品に、きちんと一つのかたちを与えてみた。

きょうの一首。

 淋しくてもそこから外に踏み出せぬひとの貌して裂けゆく石榴/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 07, 2008

2008年10月7日(火)

秋空の、他の鳥の声をかき消しながら、鵙がきもちよさそうに啼いていた。鵙が「百舌鳥」なのは、他の鳥の啼きまねが巧いからだという。先日のように聞き慣れない鳥の声だと思っていても、実はすべて鵙だったなんてこともあるのか。と気づいて、何となく負けたような気分になる。俳優の緒形拳さんの訃報が流れる。この人が慧眼の人物を演じるのが好きだった。ご冥福を。きょうは碧南での句会に誘われていたのだが、都合がつかなくて欠席する。

 鰯雲子は消ゴムで母を消す/平井照敏

第一句集『猫町』(一九七四年)に収録された一句。初句の「鰯雲」以外の部分だけを見ると、「子は」の「は」、それに「消す」という終止形が、一般的にそのようなものである、と言っている印象を与える。こどもの有するリセットの感覚を、箴言風な詩想としてまとめている感じだ。ただ、そこに「鰯雲」をとりあわせると、こどもが、秋空の下で、鉛筆を片手に、母の姿を描いたり消したりしている姿も浮かんで来る。実際にどういう順序で書かれたのかはともかく、日常の詩想化も詩想の日常化もほぼ同じ場所に着地することが可能である、という定型の文体の構造が、この句のなかで剥き出しになっているように思われた。

きょうの一首。マンションの階段を下りてゆくと、下の階に住むこどもたちとそのともだちが遊んでいた。

 つるを折るこどもとつるが占拠して晴れわたる階段のおほぞら/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 06, 2008

2008年10月6日(月)

午後、同朋大学へ。木犀が匂うかと期待して、中村公園駅から往復を徒歩で。選んだ道の周囲には匂いも姿もないようだった。文章表現の講義の二回目。きょうはエッセイについて。実例をベースに解説を進めながら概説する。扱う分量がさほど多かったわけでもないのだが、時間がぎりぎりで、最後が多少かけあしになった。今期の受講者は15人で確定したらしい。

 肩の線は綺麗に描いてください空の鳥がとまるところです/笹原玉子

第二歌集『われらみな神話の住人』(一九九七年)に収録された一首。誰かに肖像画を描いてもらっているところだろうか。本気なのか、画家にむけての「挨拶」的なことばなのかはともかく、鳥に対するこの異常なまでの気遣いはおもしろい。絵のなかも一つの「世界」である以上、絵の肩も絵の鳥の来訪に備えて、綺麗に描かれなければならない、ということばの流れになぜか説得されてしまう。一見すると自由律風な文体も、おそらく破調の範囲のものだろう。かたのせん/はきれいにかい/てください/そらのとりがと/まるところです、と、句切りを入れて読むと、初期の塚本邦雄からの影響が見えて来るし、意味には大きく影響しない「空の」が、良家の子女っぽい文体を構築するとともに三十一音を補完してもいる。以下、同歌集から、自分の好みの作品を引用しておく。

 ここはくにざかひなので午下がりには影のないひとも通ります/笹原玉子
 そよ秋風のやるせなさわたくしのからだはどこからでも折れる
 みすず書房のロラン・バルトはあけてもとぢても真白な息づかひ
 ちちにもははにもならないけれど厨子王の姉ならなつてあげてもよいわ

きょうの一首。駅の伝言板、それ自体はなくなっていないのだが、以前のようなにぎやかな感じがすっかり影をひそめている。

 伝言板がさびれてその後見かけない水草に似た文字のひとりを/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 05, 2008

2008年10月5日(日)

昨深夜、コンビニに行った折、家人が、駐車場で、金木犀の匂いに気づく。そう言われて、あ、ほんとだ、と思う。二人でいて先に気づかれると、何となく負けたような気分になる。ともあれ、木犀の匂う季節となる。午後、家人が外出。留守番。夕刻から小雨がちらつく。机の周辺の本の山が巨大化して、資料を探すたびに時間を浪費するので、部屋のなかを大雑把にかたづける。

 恋愛の極限状態になると、追いつめられた人間は実に不思議な行動に出るものらしい。別れた恋人の家に、彼女から貰ったラブレターをそれらが入った引き出しごと返しにきた男の話を聞いたことがある。さぞ重かっただろう。それに引き出しごと返してしまったら、そのあと困るんじゃないか。だが、男の頭のなかは悲しみでいっぱいで、「そのあと」の世界など存在しないのである。/穂村弘

エッセイ集『本当はちがうんだ日記』(二〇〇五年)の「愛の暴走族」の一節。恋愛の極限状態、と言うよりも、これは、死に直面している状態だろう。人は、仮に自分があす死ぬということが知覚できたとしても、と言うか、時間が不可逆で、この先のどこかで死ぬまで生きるのだと知覚しているからこそ、現在から見た「そのあと」に考えが及ぶわけだし、この先の死までに何をすべきかなどとも考えるわけである。ところが、この男は、一瞬ではあっても、死に直面していて、そのあとの世界を失っている。穂村弘は、短歌において、主としてこの種の死に直面した生に「リアル」を見出しているようだ。穂村の言う「リアル」が、しばしば怖いものなしの万能感をともなって見えるのは、この男のように、死に直面して、そのあとの世界を失って、しかも、死そのものをも失っているからかも知れない。

きょうの一首。木犀の香は、決して嫌いではないのだが、あまりに甘美なせいか、どこかで圏外へ出ようとするきもちがはたらく。春の沈丁花などは、逆に、どんどん奥に進んでみたくなるのだが。

 もくせいの匂ひのなかを出口なきこころに迷ふ二人のやうに/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 04, 2008

2008年10月4日(土)

午後、家人が外出。留守番。ふだんあまり聞いたことのない鳥の声が、遠く近く何種類も聞こえていた。渡り鳥だろうか。日本相撲協会が講談社に損害賠償を訴えた裁判の証人尋問、数紙の記事があまりにも淡白だったので、ネットに出ていたこちらの記事を読む。岡井隆さんの『鴎外・茂吉・杢太郎──「テエベス百門」の夕映え』(書肆山田)と清水良典さんの『MURAKAMI 龍と春樹の時代』(幻冬舎新書)が届いた。どちらも楽しませてもらえそう。

この時期になってようやく好調の波が来たドラゴンズが七連勝、セリーグでの三位が確定したそうだ。リーグ優勝はあっさり逃してしまったが、落合博満監督が、ドラゴンズの監督としてははじめて、五年連続でAクラスを維持したのは凄いと思う。北京五輪も絡んで、故障者だらけのかなり悲惨なシーズンだっただけに、なおさら価値のある記録か。来シーズンも監督は続投、FA資格を取得した主力選手も何人かがすでに移籍しないことを明言しているという。ポストシーズンには、ペナントレースのもどかしさを解消するような試合が見てみたい。

きょうの一首。

 けれどけふは一度も鳴らずたそがれて鞄の底に沈むケータイ/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 03, 2008

2008年10月3日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人。詠草は16首。題は「作」。この題は意外にネガティブな感覚をひきだすようで、佳い作品が揃ったが、かげりのあるモチーフが多かった。あるいは、秋が深まっているというのもどこかで作用しているのか。講座後、少し資料集めをして、喫茶店でメモをまとめて、一蘭でラーメンを食べてから帰宅。

栄の某所で一服しながらぼんやりモニターを眺めていると、大人数のアイドルのプロモーション映像のようなものが流れていた。それと識別できるほど知っているわけでもない、と言うか、一人も顔がわからないのに、なんとなくAKB48だと思って見ていたところ、最後に「SKE48」と名前が表示された。はぁ? SKE? もしかしてもしかすると、さかえ48? 本気ですか? 等のふきだしが脳裏に一気に浮かぶ。何の冗談だろうと思っていたのだが、調べてみると、秋元康プロデュースのオリジナルの類似グループ(?)であるらしい。公式サイトもあった。

きょうの一首。講座で「停」の題の作例として見せた一首。前回間違えて「作」の題の作例をまとめたので、今回は前回の「停」の題の作例をまとめた。

 通過駅なのか満員だつたのか秋はわたしに停まることなく/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 02, 2008

2008年10月2日(木)

午後、新しいプリンタをセッティングする。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は11人。今回の題は「穂」。いつもの通り、無記名詠草による選および批評。かなりはげしく誤読された一首があって、ふだんなら不機嫌に進行するようなところだが、ちょっとユーモラスな誤読で、ついつい笑ってしまう。帰りの地下鉄でも思い出してもう一度笑ってしまった。

秋分の今頃の季語として、龍淵に潜む、がある。手元の歳時記によれば、説文解字が出典だというので、龍の項を見てみると、たしかに「春分而登天、秋分而潛淵。」とある。しかし、新しい例句(青山茂根「らうめんの淵にも龍の潜みけり」等)はときどき見かけるものの、古い例句をむしろあまり見かけない。きちんと季語として認識されたのも、歳時記に編入されたのも、さほど昔ではないのだろう。句を収集して編入したと言うよりも「出題」のニュアンスが強かったのかも知れない。現代の短歌の題詠にもこういう類のものをときどき入れるとおもしろそうな気がする。

きょうの一首。「穂」の題詠として歌会に提出した一首。見立てに無理があるというのが大方の意見だった。古典和歌を参照しながら考えたのが裏目に出たか。

 測れない隔たりゆゑにあざやかに見えて街ゆく他人の穂波/荻原裕幸

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 01, 2008

2008年10月1日(水)

十月となる。午後、中京大学へ。雨もすっかりあがって、ひざしのあるところでは少し暑く感じられた。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の四回目。きょうの題は「葡萄」および「爽やか」。十数句について添削的な批評。講座後、犬の顔を見るために例の喫茶店へ。きょうもあたまを撫でさせてもらう。犬の見える席で、きょうの題に即して二句。

 黒葡萄なぜか悪人だと思ふ/荻原裕幸
 爽やかや犬に二三を託けて

ブログにコメントを書くとき、ロボット等によるスパムコメントを防止するためなのか、画像で表示された五文字から十文字程度の文字列の入力を要求するシステムがある。「D9f338」といったアトランダムなものとか、「kotoBUKI」みたいに意味がそれなりにあるものとか。先日見かけたもので、「ぬぞみみば」という平仮名五文字のタイプがあった。アトランダムなものの一種だと思うが、平仮名だと冗談にしか見えない。

きょうの一首。いつもは外している、シャツの一番上のボタンをとめたら、首が少し苦しいような、そんな感じの文体になったかも知れない。

 何も挿さない花瓶であれば夕映はくまなくそめる十月の水/荻原裕幸

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« September 2008 | Main | November 2008 »