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November 30, 2008

2008年11月30日(日)

暖房しないと寒い。水道水が冷たい。家にいてもすっかり冬である。新幹線の初代車輛である0系電車が、きょうで定期運行を終えるという。0系電車に最後に乗ったのは、十年近く前だと思うが、自分が新幹線と聞いて思い浮かべるのは、いまだにあの0系電車の姿である。もしも新幹線の絵を描けと言われたら、自分はあの姿を描くことになるな、と思って試しにメモ用紙に書いてみたら、何か得体の知れない怪物のような顔になった。

ウェブマガジン「―俳句空間―豈weekly」第16号で、冨田拓也さんが、宮入聖さんのことを書いていた。かつてのサンデー毎日の塚本邦雄選俳句投稿欄「サンデー秀句館」のことが出て来て、しかも当時の自分の投稿作の引用などもあって、とても懐かしく感じながら読んだ。この投稿欄は、塚本の美意識に照応し過ぎていると感じるものも多かったが、宮入聖さんの作品は、同じ美意識でも、塚本とははっきり違う質感をつねに見せていた。当時の入選句から数句引用しておく。

 蜀葵母があの世に懸けしもの/宮入聖
 噴水とまりあらがねの鶴歩み出す
 春の雷死にゆく母に鰓見えて

きょうの一首。

 この家はきのふゐた家によく似てゐるおそらく同じ家だと思ふ/荻原裕幸

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November 29, 2008

2008年11月29日(土)

午後、近所の公設市場まで弁当を買いに行く。きょうは珍しく、と言うと、とても失礼なのだが、ふだんあまり見られないようなにぎわいだった。鶏肉店は、店主夫妻と娘が、孫を連れて店に出ていた。五百円の日替り弁当を二人分買うと、ポテトサラダとか棒棒鶏とか、たぶん五百円分くらいの総菜をおまけにつけてくれた。あすは休みなので売れ残ってもあれだから、ということだったが、それでは商売にならないのではないかと思う。

 変わりゆくものがはらはら美しくある道端に名刺を貰う/堂園昌彦

刊行されたばかりの短歌同人誌「pool」6号に掲載された「やがて秋茄子へと到る」三十首のなかの一首。作中の世界で何が起きているのか、散文的な状況が不透明な場合、読み続けていらいらするときと、いつまでも楽しめるときと、極端に二分されてしまうのだが、堂園さんの三十首は後者だと感じた。「名刺を貰う」は、誰かとの新しい出会いを意味するし、そういう時間のなかでときめいている青年的な感情が剥き出しになっているが、それもまた「変わりゆくもの」だという苦い認識がどこかにあるのだろう。ひかりながらかげってゆくような文体が佳いと思う。「私」をめぐる時間の流れのなかから必然的に生じたものだとは読み取れないし、かと言ってこの一瞬を永遠的なものに昇華しようという無理な構えも見えない。偶然やって来たできごとの偶然性を噛みしめている感触が、読んでいてとても快かった。

きょうの一首。

 冬の道があつて男女が歩いてゐるわたしのゐない窓の向うに/荻原裕幸

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November 28, 2008

2008年11月28日(金)

日に日に日が短くなっているので、かなり早い時刻から書斎の照明をつけている。毎冬のことなのだが、昼が短くなると、ほんとに一日が短くなったように感じるから不思議だ。きょう、照明をつけると、小さな金属音めいた変な音がして、ふっとシーリングライトが消えた。螢光管が切れたらしい。ストックがなかったので、あす買いに行くつもりで、しばらくは机の電気スタンドだけで過ごしたが、どうも落ち着かなくて、スーパーまで夜道に自転車を走らせた。店頭に並んでいた螢光管のなかで、寿命がいちばん長いのを選んで買う。

ムンバイでのテロ事件が報じられて、ニュース映像を見ていたら、胃のあたりがむかむかとして来た。それが現実だという実感をもちづらい距離で起きている事件が、自分のなかに沁みこんで来るときの感覚である。沁みこんで来る、と言うよりも、現実をリアルに受けとめようとして、ほとんど無意識のうちに、こちらからその感覚を捕まえに行っている、と言うのが妥当かも知れない。逆に、さして気にならない事件の場合は、詳細を聞いたとしても、リアルに思い浮かべてみようとはしない。結果、同じ現実でも、自分のなかで濃淡のようなものが生じはじめる。実感がわかないのとリアルに思い浮かべてみる気が起きないのは、同じことなのだろうか。身近で起きていることに対しても、無意識に似たような行動をとっている気がする。ふだんさして気にしていないことをリアルに思い浮かべてみると、現実の濃淡の具合がふいに大きく変化したように感じられるのは、そのせいなのかも知れない。

きょうの一首。

 じわじわと部屋の奥までやつて来てすぐ引き返す冬のまなざし/荻原裕幸

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November 27, 2008

2008年11月27日(木)

小雨が降ったりやんだりの一日。きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげているのは、加藤哲也さんの評論集『燕雨俳句の行方』(東京四季出版)と中村雅樹さんの評論集『俳人宇佐美魚目』(本阿弥書店)。加藤燕雨論と宇佐美魚目論という二冊の俳人論がタイミングを合わせたかのように刊行されたので、同時にとりあげてみた。敬愛する作家の世界に深く入ってゆく楽しさを再認識させてくれる好著だった。

第21期竜王戦七番勝負第四局。二日目のきょう、熱戦の末、渡辺明竜王が、羽生善治名人を下して一勝三敗とした。この対局、相掛かりから不思議な戦型に発展。羽生の右銀は棒銀からUFO銀のような動きになって、最後は銀矢倉に収まる。一方、渡辺は、カニカニ銀に左右の桂を加えて、浮飛車で、中住まいで、攻撃に特化した布陣に。守勢ながらも羽生が主導権を握って、渡辺を、らしくない将棋に追いこんだように見えていたが、終盤、羽生の「手の震え」以後も渡辺が粘りに粘って、ついに渡辺が入玉したところで羽生の投了となった。四局目にしてようやく渡辺竜王の実力と強運とが出た。ちょっとほっとするような一局だった。参照

きょうの一首。

 犬のくだりで泣いてゐたゆゑおのづから栞ひらけば犬の声する/荻原裕幸

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November 26, 2008

2008年11月26日(水)

いかにも小春といった感じの日。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十二回目。きょうの題は「小春」と「大根」。ことだまのちからとまでは言わないが、小春を出してほんとに小春な感じの日になると、出してよかったなと思う。講座終了後、買い物をして、帰宅しようとしたら、家人がウォーキングに出て来たので、一緒に喫茶店へ。カウンターだけの店で、眼前で女性店主が珈琲を淹れてくれた。ドリッパーで、一杯分だけなのに、あんなに鮮やかに淹れられるなんて。軽く感動した。味も上々。

帰宅後、きょうの題に即して二句。俳句をまとめるときは、あいかわらずふらふらふわふわとしている。ものごとを書いたり、行為を書いたり。なかなか落ち着きどころが見つからないし、落ち着いてしまうとそれはそれで良くない。狙いが露骨に見えるのも嫌だし、あたりまえも嫌である。そう考えながら、結局いつもいずれかの陥穽にはまってしまうのであった。

 小春日の春に列んで野菜買ふ/荻原裕幸
 大根と葉と夕陽ごと切り刻む

きょうの一首。ことばでまとめてしまうとおのずと何かが欠け落ちるが、いつもぎりぎりのところを歩いていたし、もう一度歩けと言われても歩けそうにない、そんな時間がたしかにあったように思う。

 ぞんざいに消しゴムを走らせた日のノートと冬青空と孤立と/荻原裕幸

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November 25, 2008

2008年11月25日(火)

先日、澁澤龍彦の文章で、自分がいちばんはじめに読んだものは何かと考えていたところ、新潮文庫版の三島由紀夫『音楽』の解説ではないかと思い出して、それが収録された『三島由紀夫おぼえがき』(一九八三年)を、ひさしぶりにぱらぱらと眺めていた。三島という現実に縛られている分だけ、文献から文献へと渡り歩くときのような何か自在感のようなものが削がれて、そこにむしろ、よりヴィヴィッドな文体が生じていると感じられた。以前は真逆に感じていた。

午後、丸の内の愛知県産業貿易館へ。ねじまき句会の例会。参加者は六人。今回は題詠「技」と雑詠。昨夜、詠草をまとめながら考えていたのだが、川柳で繰り返し使われるメタファで、たとえば、砂時計とか、蓮根の穴とか、使えば使うだけ劣化が進むものがある。はじめは、何か明確に言い得ないものごとを言うのに、不透明な語を斡旋したはずなのだが、その斡旋の手つきが、いつの間にか透明な、見え透いた感じを生じさせてしまうようだ。劣化を伴わない反復というのは、どうしたら可能なのだろうか。きょうの句会に提出したのは以下の二句。

 母屋まで必殺技をとりにゆく/荻原裕幸
 寒いのでそろそろ霊を帰らせる

きょうの一首。近隣で、さほど年数を経ているわけでもないのに、この種のことを感じる家をかなり見かける。住んでいたらとても失礼な話だが。

 空家なのか誰か住むのかもろもろの線を撓ませながら冬めく/荻原裕幸

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November 24, 2008

2008年11月24日(月)

振替休日。雨。梨の芯に近い部分は、固かったり酸味がきつかったりするので、何もためらわずにざっくり落としてしまうのだが、林檎の芯に近い部分は、蜜が入っていると、そこがいちばん甘くなるので、どのくらい落とそうかと迷う。午後、剥きかけの林檎と包丁をもって、いつものように迷っていたところで電話が鳴った。家人が出た。ぼく宛の電話だった。林檎の果汁でべとついた手を洗って電話に出る。電話の相手は、大丈夫? いま話ができる? と気遣って訊いてくれた。睡眠中だったのかと思ったようである。何をしていたのかを説明するととてもややこしくなりそうだったので、うん、大丈夫、とだけ答えて電話を続けた。

 おほよその君の範囲を知りしこと安しとも寂しとも冬林檎むく/河野裕子

第一歌集『森のやうに獣のやうに』(一九七二年)に収録された一首。順調な恋愛には奇妙な陥穽があって、近づき過ぎた二人の間の引力が急激に落ちたりする時期がある。そこから先にこそ醍醐味があるような気もするのだが、それはともかく、「安しとも寂しとも」が、引力の落ち具合を実に巧く浮かびあがらせている。林檎を剥くという行為は、所謂「焼肉屋に行く」よりは先の段階で、しかし生活臭がしはじめる手前の段階だろうか。この恋愛の時間的な位置をそこはかとなく示しているようだ。冬林檎の「冬」という、短歌にはあまり見られないこだわりも楽しい。炬燵のある室内などがぱっと目に浮かんで来る。

きょうの一首。

 融けのこる雪のひかりに似たものを炸裂させてゐる朝の貌/荻原裕幸

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November 23, 2008

2008年11月23日(日)

勤労感謝の日。午前、家人が義母と義姉と外出。留守番。大相撲九州場所は、横綱白鵬が、三場所連続、九回目の優勝を決めた。安馬との優勝決定戦での、闘志むきだしの相撲が印象的だった。将棋の里見香奈女流二段が、清水市代倉敷藤花からタイトルを奪取したことが、テレビのニュースでもとりあげられていた。十六歳でタイトルホルダーになったのが注目されたらしい。女流名人位戦でも、挑戦権を得るまであと一勝なので、そうなるとまたメディアが騒がしくなりそうだ。

 梅雨闇の日本脱出はかりしを林葉直子倉敷藤花/藤原龍一郎

歌集『花束で殴る』(二〇〇二年)に収録された一首。元女流棋士林葉直子が倉敷藤花になったのは、同棋戦が創設された一九九三年である。この「日本脱出」は、一九九四年の梅雨の頃、サイババのところへ行く云々と言い残して失踪した事件のことなのだろう。その後、同年の倉敷藤花戦では、清水市代に連敗して陥落。翌年には女流棋士を辞めている。後に背景にあったスキャンダルが報じられた。藤原龍一郎さん特有の、世相の詩的ルポルタージュ風な文体は、このスキャンダルが抱えるある種の切なさを、見事に文芸に昇華している。俳人として得た季題の感覚、塚本邦雄の影のさす「日本脱出」、そこに、こだわり続けている「同時代的固有名詞」が二つ加わることで、藤原さんの真骨頂が発揮された感がある。

きょうの一首。「女流」をググると、多くは将棋の記事が出た。

 女流棋士の女流はたぶん言ひ換へのないことばゆゑ凩に鳴る/荻原裕幸

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November 22, 2008

2008年11月22日(土)

小雪。富安風生の句に「小雪の朱を極めたる実南天」がある。現在の感覚だと季語の重なりがうるさいような気もするが、個人の感覚に季節のイメージを刷りこんでゆくには最適の句だとも思う。午後、家人と外出。近隣のユニクロの前に、駐車場の空き待ちの車の列ができていて、数えたら十五台並んでいた。価格が高めの定番商品を並べているスーパーに行く。買い物の他に、棚を見ているだけでも「勉強」になるのが楽しい。きょうは何となくインスタント珈琲の棚を見た。インスタント珈琲と言えばドイツのクライスだとばかり思いこんでいたが、クライスは意外に少なく、モッコナというオランダのものが大半を占めていた。

 姉いもと姉の手袋あかかりき/平井照敏

第三句集『枯野』(一九八二年)に収録された一句。何歳と何歳の姉妹なのか。漠然と小学生から中学生の姉妹を想像する。むろんはっきりしたところはわからない。冬の道を歩いてゆく姉妹がいて、姉の手袋の鮮烈な色彩が目についたのか。ただ、こう書かれてみると気になるのは妹である。妹は手袋をしていたのか。していたのならば何色だったのだろうか。などと考えながら、なんとなく、姉の活発さや華やかさのかげにかくれた、めだたない役回りの妹を思い浮かべる。描かれているのは姉の手袋だが、となりにいる妹の存在の淡い感触が、この、ほとんど何も語っていない句の、奇妙にこころひかれる空気をつくりだしているようだ。

きょうの一首。

 奇跡のやうなことを少しは信じたい気分のままでゆく冬木立/荻原裕幸

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November 21, 2008

2008年11月21日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「買」。買うという行為、買うという概念は、なじんでいて扱いやすいのか、無理なくまとめられた印象の詠草が多かった。講座後、栄を歩いていると、霙がちらつく。まだ雪にはならないらしい。所用を済ませて、家人に頼まれた本とマンガを買って、喫茶店で新聞と雑誌をまとめ読みする。帰宅すると、マンションの玄関ドアに早々とクリスマスリースが掛けられていた。

昨日付で、島なおみさんのブログの「+a crossing」に、「秋容」三首について、なみの亜子さんによる批評が掲載された。こんなに丁寧に読んでもらえるのならもっと読みづらそうな作品を出せばよかったと軽口を叩きたくなるほど丁寧な読解で、作者としては恐縮するばかりである。前衛短歌というキーワードが出たのが、故郷の訛りを見抜かれているようで、どこかくすぐったい感じなのだが、短歌を書きはじめたときから、たぶんただ一つだけ変らずにこだわっている領域なので、再考するための良い指摘をしてもらえたと感謝している。

きょうの一首。「買」の題の作例としてまとめかけた一首なのだが、地下鉄のなかで推敲していたら、どうしても「買」に関連するあたりを書き換えたくなって、講座の作例には16日のきょうの一首を見せた。ただ、この甘さはやはりそのまま残しておこうと思い直して、結局初案のままとした。

 行先を決めずにけふの切符買ふ冬の来てゐるところまで乗る/荻原裕幸

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November 20, 2008

2008年11月20日(木)

寒い一日。全国的にかなり冷えたらしい。雪が降ったところもあるという。名古屋でも早朝に霙が降ったようなのだが、まったく気づかなかった。午後、義母から電話が入る。家人の風邪が重症ではないかと心配していた。軽い風邪ですでに完治しているのに変だなと思う。何かおかしな具合に情報が伝わったらしい。父が柿をどっさりと持って来てくれた。戦友の家の庭の木で採れたものだそうだ。

麻生太郎首相の、医師には社会的常識がかなり欠落している人が多い云々という発言をめぐるニュースを聞いて、おいおいと思う一方で、こういう言い回し、見おぼえも身におぼえもあるなあと思った。誰かと意見が対立したり揉めたりしたとき、互いの意見が五分五分か相手の意見の方が妥当かも知れないと感じながらも、ごく内輪の者だけのいるような場所で、歪みを承知で、その相手を含む特定の職種や立場や世代の人たちをまるごと批判してしまう。何々ってみんな変だよな、みたいな。根拠のない悪口の類だからこそ、その場かぎりのストレス解消にはもってこいなのだが、もちろんあくまでその場でしか成立しない話である。

きょうの一首。

 柿剥きながら思ひ起こせば読者には背中を曝すデューク東郷/荻原裕幸

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November 19, 2008

2008年11月19日(水)

午前、おかいせんせいが出てるよと家人が教えてくれて、テレビを見ると、東海テレビ文化賞の紹介番組で、受賞者の岡井隆さんの紹介映像がしばらく流れた。午後、中京大学へ。外はかなり寒かった。さすがにもう薄着の学生はいないだろうと思っていたら、ミニスカートに生足で胸元も大きく開いた格好の女子学生がいた。驚いた。ただ、やはりがまんできる寒さではなかったようで、風が吹くと、さむいぃ! と大声で叫んで周囲の男子学生のコートをむりやりに脱がせて奪おうとしていた。コートをひっぱられている男子は、じたばたと抵抗にもならない抵抗をしながら、とてもうれしそうな顔をしていた。

オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十一回目。きょうの題は「短日」と「寒し」。ことだまのちからとまでは言わないが、寒しを出してほんとに寒しになるともう少しあたたかい感じの題を出せばよかったと思う。次回はそういう感じの題にしておいた。講座終了後、買い物をして、おやつに鯛焼きを買って、寒気のなか、あたりの風景や人物を取材してから帰宅。きょうの題に即して二句。

 背のたかき妻と歩くに暮早し/荻原裕幸
 誰のでもない船のゐて川寒し

きょうの一首。同じマンションの少女。顔はよく知らないのだが。時々、階名で歌を口ずさむ。必ず少し早いテンポで、少し得意げに。英語もよく似た感じ。

 冬の庭で英語で何か言つてゐる得意げな感じがいかにも少女/荻原裕幸

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November 18, 2008

2008年11月18日(火)

曇り。夕刻、少しだけ雨が降って、それから急に寒くなった感じ。水道の水がかなり冷たくなった。きのう、喫茶店で某スポーツ紙を読んでいたら、大相撲の欄で、十両の山本山が張り手をくらって倒れる写真が、横綱よりも大きく扱われていた。すぐにスポンサーがつきそうなおもしろい四股名で、力士としても並外れた巨漢、八月の測定で252キロだったという。成績もまずまず。

 思ひがけぬやさしきことを吾に言ひし彼(か)の人は死ぬ遠からず死ぬ/安立スハル

第一歌集『この梅生ずべし』(一九六四年)に収録された一首。「彼の人」が誰であるのか、私的背景はよくわからないが、ふだん決して「やさしきこと」を口にしたりしない身近な誰か、というだけで、十分にこの歌の味わいは理解できると思う。日頃のかの人の言動からは想像もできない優しさにとまどうばかりで、物語めいた死への伏線だとでも思わなければうまく受け入れられないということだろう。今風に言うならば「死亡フラグが立った」という感じか。安立スハルの、明るさと卑屈さとをないまぜにしたような文体は、苦しげな感じに見える作品でも、どこかに読む側の気分をなごませてくれるところがある。

きょうの一首。

 おはやうとございますとに妙な間があつた銀杏の散るやうな間が/荻原裕幸

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November 17, 2008

2008年11月17日(月)

午後、同朋大学へ。地下鉄で睡魔に襲われて一駅乗り過ごす。すぐに気づいたので五分ほどのタイムロスで済んだ。地下鉄駅から歩きはじめると、かぁきねのかぁきねのまぁがりぃかどぉ、と、かなり大きな音で歌が流れて来た。焼芋屋さんかなと思ってアナウンスを聞いていると、十八リットルで千四百何円とか言いはじめた。灯油の移動販売だった。価格は随分安いようだが、灯油販売で「たきび」って、ちょっと何か違和感が。文章表現の講義は七回目。学生たちに、現代の評論のテクニカルタームを使用したレポートを書いてもらう。

短歌誌「風通し その1」が届く。斉藤斎藤さんが発行人となって、各号毎に構成メンバーも企画も組み換えをするというユニット系の同人誌であるらしい。その1、のメンバーは、我妻俊樹、石川美南、宇都宮敦、斉藤斎藤、笹井宏之、棚木恒寿、永井祐、西之原一貴、野口あや子、の計九人。各自三十首の連作と、その連作についてのネット上での合評とが掲載されている。四割ほど読み進めたところで小休止。とりあえずの感想になるが、作品は、力作と実験作が揃った感じ。合評については、納得して読んだり、ときには苦笑しながらも、ドキュメントとしてかなり楽しめる。構えて書く評論とは違って、発言者の理解度がまるわかりなので、作品がどう読者に伝わりどう伝わらないのか、教えられるところも多い。三十首の合評がどれだけしんどいものか、よく乗り切れたなあと、そういう角度からも感心した。各自全力を出そうとして、全力以上のものが出せたのではないかと思われる。追記、公式サイトがないようなので、このエントリのコメント欄に、斉藤斎藤さんが自身の掲示板に掲載した情報を転載しておく。

きょうの一首。鉤括弧がないと何かおかしいが。はてブ

 小春日といふにはどこか翳りある日を費やしてはてブをたどる/荻原裕幸

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November 16, 2008

2008年11月16日(日)

日が暮れる頃まで小雨が降ったりやんだり。午後、家人が外出。留守番。アップルのマイティマウスを使い慣れると、もう他のマウスが使えないほどやみつきな感じになる。とりわけスクロールボールでの操作が快適だ。ただ、しばらく使ううちに、内部にごみか汚れが生じるようで、操作不能になることがある。正規の方法で、スクロールボールの見えている部分だけを拭いたりしながら何とか復活させているのだが、復活させるまでの間、めんどくさくてマウスをどこかに投げつけて壊してしまいたくなる衝動を抑えるのに苦労する。きょうも苦労した。

今年二月に刊行された寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』(岩波書店)を再読。目にした時評や書評で、かなり評判がよかったのは、やはり、寺山だから、ということなのだと思う。資料として貴重という話は別にして、解説で佐佐木幸綱さんが言うように「最初の感想は、期待通りの印象と期待を裏切られた印象が半々というのが、正直なところだった」に同意したというのが正直なところである。気になって、初版のかたちや全歌集のかたちでも寺山の短歌を読み直してみた。『月蝕書簡』が、歌集と言うよりは「資料としての歌稿」に見えるのは、寺山の歌集の生命線となる「私」をめぐるコンセプトが、どこかぼんやりした状態だからだろうと思われる。もちろん好きな歌、佳いと思う歌はあるし、この本に出逢えてほんとによかったなとも感じているのだが。少し作品を引用しておく。

 印鑑を探す父あり外套のポケットを突き抜けて冬沼/寺山修司
 父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機
 だまされて深夜の駅にひとり来し女とならび見る遠き火事
 あじさいを霊媒として待ちおれば身におぼえなき死者ばかり過ぐ

きょうの一首。見る気があってもなくてもあれだけはすぐにわかる。

 買ひ物袋に葱挿してゐるひと増えて何かが澄んでゆく気配来る/荻原裕幸

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November 15, 2008

2008年11月15日(土)

七五三。曇り。明るくはないが真っ暗でもない雲がぼんやりひろがって、得体の知れないものに閉塞されているようなそんな感じ。大相撲九州場所、きょう七日目、今場所はじめての満員御礼になったそうだ。菅野耕平さんが11月15日付の「ボーダーを見つめながら」で拙作を捌いてくれた。一点だけ補足すると、この「三越のライオン」の一首を書いたのは、たしか三十二歳のときだったと思う。

 階段をまがる児童の列かなしツベルクリンの注射器の紺/加藤治郎

第三歌集『ハレアカラ』(一九九四年)に収録された一首。どこかの階段で小学生が行列しているのを見たのか。曲がってなお列の続くその先にある場所に、漠然と思惟をめぐらせて、ツベルクリン反応の検査を思い出したといった感じだろうか。それにしても、秘儀を強制されているような、この無援の感覚は、どこから来るのか。加藤治郎さんに時折見られる、少年期の回想につながる作品は、自分の年齢からして、懐かしいと感じるモチーフではあるのだが、懐かしさに向かって機能しない奇妙なところがある。よく似た時間を経ていまここにいる、といった共有感が生じにくい。たとえば注射の痛みが嫌だったという話ならそれなりに共有感も生じるのだが、集団のなかにいながら、たった一人で紺色の注射器に脅えて、しかもそれをひた隠しにしているような、孤立した視線がここには感じられる。

きょうの一首。

 青くしづかな薄日がもれてどうしても嘘を言はずにゐられない朝/荻原裕幸

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November 14, 2008

2008年11月14日(金)

午後、近所のスーパーまで買い物に出る。牛乳を買うだけのつもりだったが、そう言えばと気づいたものを買い揃えてみると、かなりの重さになっていた。ダイエットが下火になったのか、バナナの品薄はほぼ解消されたようだ。友人から、ぼそっとひとことつぶやくようなメールが来て、しばらく俳句のことを考えていた。煙草を買いに外に出ると、今夜も月がまるまるとひかっていた。一句。

 砂浜に人魚ゐさうな冬の月/荻原裕幸

第21期竜王戦七番勝負第三局。後手の羽生善治名人が、一手損角換わりの序盤から大胆に仕掛けて、一日目から終盤戦のような展開になる。プロの常識を逸脱する仕掛けで、渡辺明竜王がアマチュア相手に指しているような印象さえあったのだが、それが大差で羽生優勢といった不思議ななりゆきに。二日目のきょうは、渡辺の攻めを羽生が丁寧に躱しながら、自玉の安全を手順に確保してゆく。一日目で流れが決していたようで、その後は何も起きずに終局。羽生の三連勝。渡辺竜王が不思議なほど力を出せていない。

きょうの一首。

 あんなことまたこんなこともう二度とないのだらうと見る冬の月/荻原裕幸

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November 13, 2008

2008年11月13日(木)

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。選歌を待つ間、テラスに出てみると、近隣のビルのすぐ横に、書割のような満月がぽっかりと浮かんでいた。参加者は11人。ひさしぶりの人とひさしぶりかつ遠方からの人といつもの顔ぶれと。題は「熱」。ほぼ題の字の意味をそのまま活用した作品が揃った。無記名による互選と合評。来月は例会を休みにしたので、今年の東桜歌会はこれで最後となる。少し気が早いように感じながらも、良いお年を、などと言って散会。

短歌の「調べ」がもっともいきいきと感じられるのは、定型に向かってことばの引力のようなものがゆるやかに生じているように見えるときだと思う。何の歪みもなく定型ぴったりに収まる調べや強引に定型化した痕跡の見える調べがどこかしら退屈なのは、そこに恣意が強く作用しているのが見えて、引力のようなものの存在が認識しづらいからだろう。恣意で書かれる場合の破調や自由律にも同じことが言えそうだ。少し飛躍した言い回しをすると、そうした調べには「他者」がいない、ということになるのではないだろうか。他者というのは、一般には、文芸表現の意味の文脈でのみ語られているが、調べの問題に絡んでも、他者=恣意の及ばない力のようなもの、というファクターが参照されてもいいのではないか。

きょうの一首。「熱」の題詠として歌会に提出した一首。「時雨来てからは」という語句にたどり着くまでにかなり腐心した。そこを評価してくれた人は、下句が嫌だと言っていた。票を入れてくれた人は、どちらかと言えば下句の支持派で、時雨がぴんと来ないという意見もあった。難しいものだ。

 時雨来てからはことばの熱さめてわたしを離れられないわたし/荻原裕幸

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November 12, 2008

2008年11月12日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十回目。きょうの題は「紅葉」と「立冬」。秋のうちに紅葉の題を出すと早い感じがする、というのも変な話だが、それでもやはり早い感じがするので、このタイミングで。立冬はもちろんちょうどいまが立冬なので。歳時記で節入りの日だけを立冬と言う感じの記述を見かけるが、立冬をはじめ二十四節気はすべて、一日ではなく約半月の期間なのだと考えないと、実感になじまないと思う。きょうの題に即して二句。

 紅葉かつ散るかつ靴に砕けたる/荻原裕幸
 ライターの音大きくて今朝の冬

講座を終えてから、家人と瀬戸市へ。ひさしぶりに名鉄瀬戸線に乗る。ふだん地下鉄にばかり乗っているので、車窓にひろがる風景を楽しみながら。瀬戸の空は広くかつ低く、秋空と冬空の中間的な表情をしていた。尾張瀬戸駅前の商店街のシャッターがのきなみ降りていた。一瞬さびれているのかと思ってしまう。どうやら商店街の定休日にあたったらしい。瀬戸川周辺の店で正月用の干支飾りを買う。ゆっくり見たいところもあったが、家人が風邪気味なので、早々に帰名。

きょうの一首。

 蕪と無が似てゐることのかなしみももろとも煮えてゆく冬の音/荻原裕幸

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November 11, 2008

2008年11月11日(火)

曇り。寒い日が続く。初冬らしい感じ。先日、旅行のみやげで、家人からマグカップをもらった。花と木と蝶と鳥と某有名キャラクターが、カラーで影絵風にデザインされたもの。女性用? と訊いてみたら、決まりはないんだよ、と笑っていた。考えてみれば、十年来常用している他の二つのマグカップも、男性用とは断言できないキャラクターものだった。大相撲九州場所がはじまっている。場所前のチケットの売れゆきがいいという話を聞いたような気がするが、テレビ画面で見るかぎりでは空席が多い印象。上位力士に黒星がつきまくっている。

短歌誌「井泉」11月号が届いた。この号には、編集部から出された「ほんとうっぽい歌とうそっぽい歌について」というテーマでまとめたリレー小論を寄稿した。タイトルは「読む位置の問題」。400字で8枚半ほどの分量になる。塚本邦雄の第五歌集『緑色研究』(一九六五年)の一首「カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子」を読み進めることで、いわゆる「リアル」「リアリティ」が、短歌のなかにどういう感じでたちあがって来るのか、そのしくみを、自分なりの感覚で、できるだけ噛み砕いてまとめてみた。

きょうの一首。

 けさ夢でたしかに抜いた釘がまだ出てゐて服にかぎざきつくる/荻原裕幸

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読む位置の問題

*短歌誌「井泉」二〇〇八年十一月号掲載
*リレー小論「ほんとうっぽい歌とうそっぽい歌について」

読む位置の問題
荻原裕幸

 短歌を読むとき、何がその一首をほんとうっぽく感じさせたりうそっぽく感じさせたりするのか。リアルだとか真実味があるとか、嘘臭いとかつくりものめいているとか、評論や鑑賞、また短歌誌や歌会の批評でも、この種のことを問題にしているのだとわかることばが頻出する。ただ、それらの多くは、個々の感覚にまかせっぱなしで、一般論として法則を見つけ出すのは難しい気もする。自分の感覚を確認する意味でも、一首の短歌を読みながら、少し考えてみようと思う。

  カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子  塚本邦雄

 第五歌集『緑色研究』(一九六五年)に収録された一首である。前衛短歌の代表的な作品の一つだが、あらかじめそうした短歌史的な読解の文脈を準備すると、先入観が入りこみやすいので、ここではあえて意識的に「ふつう」に読んでみたい。
 カフカ忌は、六月三日だという。「灼けて」とあるので、すでに梅雨入りして雨が続いているといった気候ではなく、初夏を過ぎたひざしにあぶられて、一九六〇年代当時の、現在のように空調で快適にされてはいない郵便局の屋内は、とても嫌な暑さに満たされていたのだろう。「無人郵便局」とあって、一瞬、無人駅のようなシステムも思い浮かべるが、機能上無理があるし、ここでは、不用心にも、何の理由か、局員が一瞬いない状態になった郵便局だと解釈しておくのがいいと思う。内容を整理して読むと、六月三日のカフカ忌、郵便局に赴いたところ、局員はいないし、折からのひざしで建物のなかは暑いしで、どうしたものかと思いながら、局内に置かれている電報の頼信紙の薄緑の罫をぼんやりと眺めている、といった感じになるだろうか。塚本邦雄が実際にそのような時にそのような場所でそのような体験をしたのかどうかはわからない。ただ、あっても不思議ではない体験だとは思われる。ここまで読んだ範囲では、この一首は「ほんとうっぽい歌」の表情をしている。
 では、もう少し踏みこんで読んでみるとどうか。そもそもこの歌は、何をモチーフにしているのだろう。一九六〇年代のとある日の郵便局の風景を描こうとしたのだろうか。読みほぐしてゆくと、とある日でいいのだとしたら、カフカ忌などとこだわる理由はないし、日付を指定しながらも、「灼けて」などと気候の感触を細かに表現しているからには、漠然と季節を示したかったわけでもないだろう。どう考えても、作家としてのカフカ、フランツ・カフカに、何らかの関連をもたせようとしていると推測される。俳句でも、作家の忌日は、季節を特定するだけではなく、その作家のイメージをひきよせるものである。そう思えば、なるほどこの一首のどこかけだるいような風景は、カフカの作品や作家としてのイメージにつながるところがあるし、頼信紙の罫を「格子」と修辞するのも、世界を文字として幽閉してゆくような作家というものの営為を思ってのことだと納得できて、一首をより「ほんとうっぽい歌」にしているようにも見える。カフカの文学に少なからず関心のあった塚本が、カフカ忌を毎年のように意識していて、その日、郵便局で感じたある種のけだるさのようなものと作家のイメージとがつながったと考えれば、一首がそれなりに解釈できたことになるかと思う。
 しかし、さらにもう少し踏みこむとどうか。カフカをめぐる有名な話で、友人のマックス・ブロートに自作の一切を焼き捨てるように遺言として依頼したが、ブロートがそれを無視して作品を公表した、というエピソードがある。カフカの文学が現在に残っているのは、ブロートのこの裏切りのおかげでもある。カフカ忌にこだわる作者がこんな有名なエピソードを意識しないわけはないと少なくともぼくは考える。ならば、一首のなかに「頼信紙」が素材としてとりあげられている理由が、ただそこに置かれていたというレベルではないのではないかと思われて来る。そうか、だから物があれこれ置かれているはずの郵便局内で「依頼」につながる頼信紙を特に強く意識したのかと納得する。そして、このあたりまで一首の構造が見えて来ると、ちょっとした感覚の反転が生じはじめる。つまり、あっても不思議はない体験ではあるのだが、一首として巧妙に構成され過ぎていると感じはじめるのだ。こうしたモチーフを活かすため、実際の体験とは関係なく、表現上の一場面として構成した「うそっぽい歌」のようにも見えて来る。
 ほんとうっぽいかうそっぽいかでこの一首の価値が変化するかどうかは別として、この二つの印象を分けるのは、ことばに作品のモチーフを活かすための整合性がどのくらい備わっているか、つまり整合性があり過ぎるかどうか、である。ことばが無意識を装っているように見えるか、それとも、思惟の流れとして自然に、無意識的にひきだされているように見えるか、と言い換えてもいいだろう。ほんとうっぽいかうそっぽいかが、個々の判別によって異なるのは、一首を表面的な情報として読むか、隠喩や寓意も含めて読むか、定型との確執によって生じる調べや文体の問題をそこにどうからめるか、等々の読解の方法によるものかも知れない。また、定型やことばをめぐって、作者の側がきちんと統御している感じが薄いと、短歌はただのつまらない記録のようなものにもなりかねないが、統御が完全な状態に近づけば近づくほど、「うそっぽい歌」が生じやすくなるのではないかとも思う。
 ところで、短歌が、ほんとうっぽいかうそっぽいかを考えてゆくと、一首の読解よりももっとずっと基本的なレベルで、躓くような感じを覚えることがある。それは定型の問題である。
 短歌は、自由律という発想をのぞけば、五七五七七の五句三十一音という基本のかたちに、引力のような影響をうけながらまとめられるテキストである。正調はもちろんのこと、破調であっても、見たり聞いたり感じたり考えたりしたことを、無制約の散文や会話のように、そのまま記述したり発語しているわけではない。短歌とはそもそも、思惟の流れとして自然に、無意識的にひきだされることばからはかなり遠いものだ。ほんとうっぽいかうそっぽいかの話に重ねれば、自然に、無意識的に見えるものこそ、実は、短歌という定型の影響をうけて不自然に生じたことばを、あたかも自然に見えるように意図的に構成した「うそっぽい歌」ではないのかという疑問も生じる。
 塚本邦雄のカフカ忌の一首にもう一度話を戻す。この一首が「ほんとうっぽい歌」に感じられるのは、それが塚本の現実の体験であっても不思議はない事象として描かれているように見えるときである。言い換えれば、偶然に生じた、他の体験と同様に、起きても起きなくても不思議ではない事象を描き、事象そのものに特殊な意味を与えていないように見えるときである。ところが、この一首を少し読みほぐして、塚本が、実は、カフカの作家像や作品を踏まえて、事象の細部にまで意味を与えようとしている姿が見えて来ると、一首は急に「うそっぽい歌」のように見えはじめる。さらに、そもそも短歌のことばが、自然や無意識の外にある、意図的に構成されたものであるという事情を考えれば、ほんとうっぽいかうそっぽいかの判別は、もう一度反転してしまう可能性があるのだ。一般論にまで還元することができるかどうかはわからないが、塚本のカフカ忌の一首を読むかぎりでは、「ほんとうっぽい歌」と「うそっぽい歌」を分けるのは、テキストそのものではなく、読者の読む位置の問題なのではないかと思われる。

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November 10, 2008

2008年11月10日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の六回目。前回に続き、評論について。中村公園駅からの往復を徒歩で。暖かくはなかったが、寒いと言うほどでもなかった。大学の近隣の公園で、少年野球のチームが練習をしていた。ボールの色があまりにも派手なので、不思議に思ってよく見ると、硬式テニス用の黄色のボールを使用している。怪我をしないようにということなのだろうか。

 棋譜を見ていちにち過す寒の鯉/中岡毅雄

第一句集『浮巣』(一九八八年)に収録された一句(のはずだが、手元に当該の句集がないので、表記は一九八七年刊の『青新人會作品集』に拠る)。「過す」という語感の穏やかさからすると、棋譜はたぶん、自身の対局のではなく、プロ棋士の名局なのだろう。囲碁なのか将棋なのか、微妙なところだが、地のなかに残る敵石の姿と水中の寒鯉の姿が連想でつながりやすい。休日を終日、棋譜を並べて過ごして、夕餉の鯉料理に向かうといったイメージだろうか。あるいは、室内で過ごす自身を、動きの鈍い寒鯉の印象と重ねているのかも知れない。だとすれば、寒鯉釣に出かけるアウトドア派へのあこがれもどこかに少し匂う。これだけ平易なことばでまとめられているのに、重層的に連想が生じるのが妙味である。

きょうの一首。

 けさなぜか心が小さくなつてゐてパンの焦げ目に少し脅える/荻原裕幸

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November 09, 2008

2008年11月9日(日)

曇り。寒い一日。午後、書斎にいると、マンションの中庭で、男性が誰かの名前を呼んでいるのが聞こえた。すぐに、かわいらしい女の子の声で、お父さん、わたしはここですよ、と答があった。外国語会話の直訳みたいだなと思う。夕刻、家人と買い物に出る。スーパーの棚を見て、温かい食べものの恋しくなる時期なんだなと気づかされる。いつのまにか何となくそういったものを買い揃えていた。

 都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ/馬場あき子

第十九歌集『世紀』(二〇〇一年)に収録された一首。いつからか、たしかに都市は混沌としているが、都市を論じるのも、人間を論じるのも、肩にちからを入れれば入れるほど空しさにつながってゆく、そんな時代がもう長く続いている。「みそらーめん」のどこか脱臼した感覚は、空しさのなかでなお肩肘を張って生きる人々に対しての、ユーモアを含んだ、癒しや犒いのようなものなのだろう。人々、のなかには、おそらく作者自身も含まれているのだと思う。ある時期から時折見られるようになった馬場あき子さんの口語調の文体は、時代の空しさや苦しさや悲しさのなかに、つねに気丈な明るさを見せていて楽しい。

きょうの一首。最近、自宅でのラーメンは、東洋水産「マルちゃん北の味わいあっさり醤油」に偏っている。魚系のだしがちょっと強いところが好き。具は、もやし、叉焼、葱とシンプルに。個人的には白胡椒を少しだけ入れるのが吉。

 ラーメンにもやし美しく積みあげて一分後には崩しはじめる/荻原裕幸

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November 08, 2008

2008年11月8日(土)

午前、家人が義父たちと外出。留守番。午後、父から電話が入る。携帯電話の調子が悪くなったという。症状を訊いて一度電話を切って、直営のショップに電話を入れて相談をして、父と再び電話して、電話口で操作を説明しながら本体をあれこれ触ってもらってどうにか復旧。**の上に**があるよね? 無いぞ。ええと、よく見るとあるよね? ああ、あった。そこに**になった**があるでしょう? 無いぞ。あるよね? おお、あったあった。そんな感じで、三十分ばかり。

昨日、短歌講座の詠草に、題の「掛」から、袋掛けをモチーフにして、梨の品種名である「豊水」を詠みこんだ一首があった。品種名が巧く活かされていると思って読んだ。短歌に詠みこむとき、梨の場合、豊水の他、幸水と二十世紀は、シェアの多さのためか、梨と書かずにあえて品種にこだわっても自然な感じを損ねない気がする。新高はシェアはあっても微妙、長十郎と晩三吉と菊水と愛宕あたりは文脈次第で、他はどうも無理が生じて浮いてしまいそうである。実例を検証する必要もあるし、個人による微差もありそうだが、何がこの自然とか無理とかいった感覚を生じさせているのだろう。他の果物でも同じように考えてみれば見えて来るだろうか。ちなみに、わが家の冷蔵庫には、現在、南水と愛梨が入っている。どちらもちょっと詞書や説明なしに詠みこむのは難しそうである。

きょうの一首。

 南島のひかりをゆるく吸ひながらゆく舟そんな電話がつづく/荻原裕幸

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November 07, 2008

2008年11月7日(金)

立冬。先日、家人がリビングのカーテンを冬物に替えた。名古屋はまだ寒いと言うほど寒くはないが、カーテンの色や柄を見て、からだが冬の寒さを思い出しはじめている。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「掛」。「掛」は一首のなかに組みこむのが少し難しかったようで、苦心のあとが多く見られた。

名古屋の朝カルで、短歌のこの入門講座をはじめて、もうすぐ丸二年になろうとしている。二十代で講座を担当していたときは、現代短歌の作品紹介を中心にしていたのだが、この講座では、はっきりと入門や指導のスタイルをとっている。与えられたテキスト、つまり提出された詠草について、全力で分析し、良い点と悪い点とを見つけ出して、どうしたらモチーフがより活かせるかを考えることは、結局、自分の作品を推敲しているのと同じで、気づくこと教えられることが多い。ほぼ日常語で語ることを強いられるカルチャーの場で語っていると、さして深く考えていなかった短歌の常識的なあれこれを、しばしば一から考え直すことにもなって、ときに歌会や批評会以上の勉強をさせてもらっている。

きょうの一首。講座で「掛」の題の作例として見せた一首。むかし通っていた喫茶店の様子そのままなのだが、書割的で、つくりもの感が払拭できていない。つくりなおそうかと考えていたら、きょう入った喫茶店の古い掛時計が、十一時五十分をさしたまま止まっていた。これは何か、残しておくように、という合図かと思って、とりあえずそのままにしておいた。

 いつ見ても二時半をさすほのぼのとかなしき時計掛けてゐる店/荻原裕幸

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November 06, 2008

2008年11月6日(木)

午後、近所の神社まで縁起物を返しにゆく。神社に近づくと、畑が多いせいか、風景の色調が地味になって、コスモスとか柿とか唐辛子が、そこだけ彩色されたみたいに見える。鴉が二羽、何か雑談するように啼きあっていた。境内に人影はない。土の上には竹箒で掃いたあとが残っている。納札所に縁起物を置いて、手水で清めて、賽銭を入れて、柏手を打って、自分の名前と住所を神様に伝えて、よろしくお願いしますと挨拶をする。

島なおみさんのブログの「+a crossing」に、「秋容」と題した小品、三首が掲載された。乞御高覧。三首というのは、意外にごまかしのきかない数なので、歌人としての、素に近い表情が見えているのではないかと思う。一九九〇年代の半ば、題詠の作品を書く機会が増えた。その頃、題は、自分の短歌観に敵対する存在でしかなかったが、いつの頃からか、相談相手のような存在に変化しはじめた。最近では、題詠ではない作品を書くときも、誰か、見えない題のような存在に、相談したり、むろんときには揉めたりもしながら、最終的なかたちを決めることが多くなった。そこには、短歌に何を求めるかではなく、短歌が何を求めているのかが気になっている自分がいるのかも知れない。

きょうの一首。

 湯に沈むとき階下から湯の音がしてマンションに逝く秋を聴く/荻原裕幸

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November 05, 2008

2008年11月5日(水)

午後、中京大学へ。薄手のコート姿の学生も見かけるようになったなか、いまだにTシャツ一枚という強者の男子学生がいた。彼を見てこちらが少しびっくりしたのがわかったのか、目が合うと照れくさそうな笑いを浮かべていた。見るからに頑健そうな学生だった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の九回目。きょうの題は「団栗」と「秋深し」。きょうの題に即して二句。

 ポケットでない処から団栗を/荻原裕幸
 夕刊は秋の深みを経てとどく

アメリカ大統領選で、民主党のバラク・オバマ氏が勝利したという。黒人とかアフリカ系とか、さかんに人種の観点が出るのが気になって経歴を見た。父がケニア出身の黒人で、母がアメリカ人の白人なのだそうだ。これで人種が問題にされるということは、歴史的経緯をはるかに超えてしまったレベルで人種に対する偏見があるんだなとしみじみ思う。そこだけを見ると生きづらそうな国だとも思う。ともあれ、昨今、世界的な規模で起きている嫌な出来事のほとんどがアメリカに深くかかわっているわけだし、それが少しでも解消されるようにと願うばかりである。

きょうの一首。日中は二十度以上あったらしいが、最低気温は八度だったという。名古屋ではこの秋で一番の冷えこみか。

 二人の音はほんの少しで朝寒を機械の音のなかにて暮らす/荻原裕幸

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November 04, 2008

2008年11月4日(火)

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。東西句会の月例句会。参加者は五人。題詠「唐辛子」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。無記名で互選と合評。句会に提出した五句は以下の通り。「晩秋」の句をはじめに書いて、そんな自分の俳句の感覚になぜか無性に腹がたって他の句を書いた。句会では「晩秋」の句だけが評判良くて、他はさっぱりだった。

 ものすごく高き空より小鳥来る/荻原裕幸
 国産をすこし雑ぜたる夜食かな
 末枯や気がつけばまた朝ごはん
 閉めた窓から晩秋が漏れてゐる
 どことなく淋しくはある鷹の爪

 こがらしの爪を切ろうかまだいいか/池田澄子

第三句集『ゆく船』(二〇〇〇年)に収録された一句。この「の」の語法にこころ惹かれた。「こがらしの爪」とそこだけを読めば、葉をすべて落としてしまうような強風を思い浮かべるが、よく読んでみれば、寒さで指先も敏感になるなか、のびつつある爪をそろそろ切ろうかと思案する、といった文脈も見えて来る。奇妙な措辞なのに無理なく句になじんでいておもしろい。以下、同句集から他にも好みの句を引用しておく。

 夏落葉どこに居ようと年をとる/池田澄子
 切るまでの爪はわが爪さくら咲く
 雁来紅弔辞ときどき聞きとれる
 花の夜の氷や酒の中で鳴る
 短日の燃やすものもうないかしら

きょうの一首。

 はじめ小さく齟齬してやがて悉くことばを病んでゆく冬隣/荻原裕幸

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November 03, 2008

2008年11月3日(月)

文化の日。昨深夜、F1ブラジルGPの決勝、ルイス・ハミルトンが5位で4ポイントを獲得。これで、フェリペ・マッサを1ポイント差で抑えての年間優勝、史上最年少のF1世界チャンピオンとなる。雨に翻弄されながら、昨年の教訓もあって慎重になるハミルトンの走行が裏目に出て、残り2周の時点ではタイトルに手が届かない状態に追いこまれたのだが、最終周の最終コーナーで奇跡的に順位を一つあげてタイトルを手に入れた。凄い展開だった。日が短くなっているせいもあって、午後、少し雲が出ると、ずっと夕暮が続いているような感じになる。夜になって家人が帰宅。

結社誌「まひる野」11月号を読む。短歌時評「『てにをは』の重み」で、広坂早苗さんが以下のように述べている。「言葉の意味は作者の意識を、韻律は無意識を反映するものだと私は思う。短歌という伝統詩型は、人間の意識の底に隠れている広く深いものを抉り出す力を持っているが、その力は韻律の持つ力である」と。ゆえに韻律の決め手となる「てにをは」等が大切、とつながってゆく。歯切れのいい話の流れではあるが、何か大切なものが欠落しているような印象が残った。ここに出る、意識と無意識、は、広坂さんの文脈からすると、作者が自覚的になれる意識の表層と自覚が困難な意識の深層、ということになろうか。言い換えれば、作者の「内面」ということかと思う。そこに、外界や現実があるのだろうか? 「てにをは」の重視と言ってもいいし、意味に帰結できない短歌の構成と言ってもいいが、そこで求められているのは、作者の「内面」にとどまらない次元にひろがるものごとのありようなのではないだろうか。

きょうの一首。

 わたくしのなかであるいはわたくしのそとで猛猛しく夕鵙は/荻原裕幸

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November 02, 2008

2008年11月2日(日)

午前、家人が義母たちと旅行に出かける。留守番。近隣にも家のなかにも、連休のさなかのしんとした時間がひろがっていた。むかし、実家にいた頃は、家族が旅行に出かけて一人になると、ふだんとは何か違うことをしようとそればかり考えていたような気がする。さすがにいまはそんな青さはなくて、ふだんとほとんど同じように過ごしている。気温がさがったせいか、物洗貝たちの動きがとても鈍い。餌もあまり食べなくなった。彼等は冬を越せるのだろうか。

 ふくらなる羽毛襟巻(ボア)のにほひを新らしむ十一月の朝のあひびき/北原白秋

第一歌集『桐の花』(大正二年/一九一三年)に収録された一首。辞書には見あたらない「新らしむ」は、その新鮮さに胸をときめかす、といった意味だろうか。北原白秋の、と言うか、『桐の花』特有のこの文体は、初冬の逢引に心酔する感覚を、具体的な風景や状況としてではなく、ふわふわとした空気そのものとして運んで来る感じだ。歌集に添えられた散文の一つ「桐の花とカステラ」には「私の歌にも欲するところは気分である、陰影である、なつかしい情調の吐息である。……」という一節がある。「私」を主眼とした短歌史では否定的に捉えられる、しかし、あきらかに他からは突出した方法論がここにあると思う。「哀傷篇」を意識しながら読むと、すべてが悲痛にも映るが、繊細でどこか異国情緒を含む文体は、現在も褪色することなく、白秋が拓いた世界を楽しませてくれる。

きょうの一首。

 意識が溷濁してゆくやうに雲が来て秋から秋のひかりを奪ふ/荻原裕幸

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November 01, 2008

2008年11月1日(土)

十一月となる。東京では木枯らし1号が吹いたそうだ。気象庁は、東京と大阪でしか木枯らし1号の発表をしないらしい。名古屋でももう吹いたのだろうか、まだなのだろうか。夕刻、家人と買い物に出かけたついでに、定食屋で定食を食べる。なじみの店なのだが、この何か月か行ってなかったと気づく。このところ、外食と中食が極端に減っていた。

 まず初めに、混沌があった。
 いや違うな。
 まず初めには、何もなかった。
 がらんとした空虚がひろがっていた。
 そこに具体的に言えば二年の歳月が流れた。机が、ベッドが、
 コンピュータが、棚が、椅子が(二脚)、折り畳みテーブルが、
 電子ピアノが、ファックスマシーンが搬入され、そして
 大量の新聞。本。雑誌。芝居のチラシ。封筒。CD。誰かからのファックス。誰か
  からの手紙。重要でないもの。重要なもの。重要に
 なるかもしれないもの。が含まれている
 (わけのわからないもの
 が今、あらゆる空間をうめつくしている。/田中庸介

第二詩集『スウィートな群青の夢』(未知谷)に収録された「わけのわからないものとの闘い」の冒頭の一節。二年で部屋はぐちゃぐちゃになった、とすっきり書いてしまえば済みそうなものなのに、それでは抜け落ちてしまうものが出る。抜け落ちてしまうものへの執着がここにはある。だからこそ部屋はぐちゃぐちゃになるような気もするのだが、それはともかく、この後、詩は、(わけのわからないもの、との闘いへと突入してゆく。自転車のキーを探すことが、なぜそこまで冒険めくのか、とか、現代詩と言うよりもエッセイについての感想のような感想を抱くのは、たぶん田中庸介さんのことばが、そこにふつうに存在するものをそこにふつうに存在するものとして認識するところから詩に入ってゆくからなのだろうと思う。田中さんのことばのありようには、詩人が世界の何らかの感触を表現するためにかけるような負荷がほとんどかかっていないように見える。意識のなかにすっと入って来てすっと出て行ってしまうことばの、あたりまえさ、ふつうさも、ここまで過剰に突き抜けていると、あたりまえでもふつうでもない異常さにつながっているように感じられる。病巣は不可視の域にあっても、あきらかにこれらのことばは病んでいて、その病み具合をはっきり知覚できないまま、知らず知らず惹かれてゆく感覚が快い。

きょうの一首。助詞「と」の使用が、これでも成り立つのかどうか、しばらく辞書の解説を読んでみたが、よくわからなかった。

 洗濯槽のなかに残つてしわしわのわたくしとハンカチと江戸柄/荻原裕幸

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