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December 31, 2008

2008年12月31日(水)

大晦日。二〇〇八年が終る。午後、家人と星ヶ丘三越に行く。正月のあれこれで、買い足りなかったものなどをいくつか買い揃える。決して空いてはいないが、混雑というほどでもない感じ。お節、五千円引きですよ、などというお店のお兄さんの声を聞きながら、とても微妙な値引きだな、と思う。家人と新聞のテレビ欄を見て、あまり見たくなるような番組がないね、とぼやきあう。

今年の元日から、正確に言えば、昨年の十二月三十日から、どうにかとぎれないように「きょうの一首」を書き続けて、一年以上が過ぎたことになる。ブログのコンテンツといった感覚で、なんとなくはじめたが、適度に緊張しながら、そして適度に気を緩めながらも書けるので、自分としては悪くない感じがある。読者あってのブログであり、きょうの一首である、と肝に銘じつつ、事情がゆるせば、来年ももう少しこのスタイルを続けてみたいと思う。ご愛読、感謝。

きょうの一首。

 誰も画面を見てゐないのにNHKが映りつづけてゐる大晦日/荻原裕幸

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December 30, 2008

2008年12月30日(火)

午後、家人が義母と義姉と買い物に出かける。留守番。きのうきょうと新幹線のダイヤが乱れたというニュース。夫婦二人とも実家がすぐ近所なので、毎年のように、帰省に少しあこがれる、という話をするのだが、やはりそんなのんきに話すようなことではないなと思う。残っていた大掃除をがんばって終了させる。帰宅した家人に、掃除した各所を見せて、どう? と自慢してみた。

吉川宏志さんが、28日付の「シュガー・クイン日録」で、島津忠夫さんの『女歌の論』(一九八六年)のことを書いている。当時、この本が話題になったという記憶は薄いのだが、女歌からライトヴァースへと歌壇の話題が一気に転換するなかで、島津さん一人が、女歌の問題にけじめをつけようとした、という印象は強かった。とりわけ吉川さんの指摘する「すれちがい」の件は重要で、女歌の歴史的系譜につながろうとしながらフェミニズムにも踏みこんでしまったどっちつかずの展開、ブームの熱を急速に冷ますことになった要因を、折口信夫の論を軸に、わかりやすく説いたものだと思う。栗木京子さんが「悲歌斉唱」(岩波書店『短歌と日本人7』一九九九年)のなかで、フェミニズムの位置から一九八〇年代の女歌の概括をしているのが、現時点での、女歌のブームの一番明確な構図だと思われるが、吉川さんの勧めるように、島津さんの「すれちがい」の件を含めて俯瞰する女歌の論が待たれるところである。

きょうの一首。だから何系のテイストになってしまったか。

 大掃除のさなか当家に一枚もシューベルトのない事態に気づく/荻原裕幸

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December 29, 2008

2008年12月29日(月)

午前、やわらかく呼鈴が鳴る。郵便局です、と名乗るので出てみると、年末年始のアルバイト風の青年が、郵便受に入らなかったので、と言って、郵便の束を直に渡してくれた。ぎりぎり入りそうな量なのに変だな思いながら、あ、と気づいて、慌てて郵便受を見に行くと、案の定、メール便の類が外まであふれていた。午後、父母が遊びに来る。お茶を飲んだり菓子を食べたりしながら歓談。

 日記買ふ星の貧しき街なれば/櫂未知子

第二句集『蒙古斑』(二〇〇〇年)に収録された一句。末尾の「なれば」が、初句に戻ってゆくのか、何か別の文脈につながるのか、はっきりしないが、あえてはっきりさせていないのだろう。冬だというのに星もきれいに見えない、都市化の進んだ街であれば、家庭も部屋も人のこころも個別に仕切られて、最後は日記のような一人の世界に向かう。また、星の少ない街で、一日の終りに日記を書いていると、いつまでも人の眠らない、明るく賑やかで長い夜がおのずと意識されるわけで、その明るさや賑やかさのなかに、むしろ寂寥感はつのってゆく。そんないくつかの文脈を同居させているようだ。

きょうの一首。「あかねさす」はいかにも強引だが、考えた代案がどれも気に入らなかったので、とりあえずこのかたちでまとめた。

 あかねさす天使無数にぶらさがる年の瀬を重くなりゆくネット/荻原裕幸

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December 28, 2008

2008年12月28日(日)

大掃除って何? 日本人は何でこんなことするの? 家が汚いからって人は死んだりしないよね? などといった疑問の数々がわきあがるものの、観念してひたすらに大掃除。何かが少しかたづいたりきれいになったりするたび、どう? と家人に自慢しながら。夕刻、義母と家人と三人で買い物に出る。ついでに外で遅くなった昼食を済ませる。帰宅して大掃除のつづき。

 勾玉の形で眠る男がいて
 夜更け
 雪の音を聞いている/菊池唯子

第三詩集『すすきの原 なびいて運べ』(思潮社)に収録された「雪」の冒頭の三行である。勾玉のかたちに触発されて、話者の意識は、記憶とも歴史ともはっきりしない遠い時間へと遡るのだが、この三行を読んだ瞬間、その後の詩行をすでに知っているような錯覚が生じて、実際そんなに大きくは逸れなかった。類型や予定調和を感じたわけではない。ほとんどの作品に見られる、空間や場所の安定感が、時間を移動する以外の展開を予測させなかったということだろうと思う。他にも、作品「聞く」の末尾には「半世紀前の/子どもの足音だけが響いている/雪の街の/新年」といった一節もある。往々にして絵空事めく時間の移動が、場所に固執し、場所に媒介させることで、無理のない快さを引き出しているようだ。

きょうの一首。

 日録に残さなかつたわたくしがして来たことの鳴る年のはて/荻原裕幸

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December 27, 2008

2008年12月27日(土)

寒い一日だった。早朝、名古屋はこの冬はじめて気温が氷点下になったらしい。寒いから嫌だなあとか明日にしようかなあとか怠惰な気分が生じるのを抑えて、午前と午後と所用で二度外出する。自転車で坂道をくだってゆくと、冬の空気が顔にはりつくような妙な感じで、時折顔をこすって空気をぬぐっていた。大掃除に手をつけはじめたのだが、遅々として進まない。

 くさはらのくさばうばうのゆふやみのやみのれーるのゆくへしらずも/坂野信彦

第三歌集『まほら』(一九九一年)に収録された一首。『まほら』は、事柄や情緒や認識や比喩といった散文性を何から何まで否定し、純粋な律文としての短歌を志向した歌論集『深層短歌宣言』(一九九〇年)の実践篇とも言うべき歌集である。歌論の是非は別にしても、散文を脱し、律文をきわめようとするあまり、結局一首が音喩化する、つまり、意味としての何かを表現している、という陥穽にはまった作品が多くを占めていると言わざるを得ないが、この一首のように、散文にそれなりに近いところで書かれて、かつ散文性が大きく欠落している作品には、律文としての短歌のちからが実に巧く出ているように感じられる。

きょうの一首。

 他意のないしぐさに他意がめざめゆく不安な冬の淵にてふたり/荻原裕幸

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December 26, 2008

2008年12月26日(金)

夜中から朝にかけて、名古屋も雪がちらついたらしい。初雪である。気づかずにいて勿体ないことをしたなと思う。家人に話すと、見なかったものはノーカウント、だと言う。なるほど。ならば、次の初雪、を待つことにしよう。午後、外に出ると、空気は刺すように冷たい。陽はそれなりに暖かいのに、もらう熱よりもうばわれる熱の方が圧倒的に多い感じで、数分歩いただけでからだが芯から冷えた。

 落つるものなくなりし空が急に広し日本中の空を意識する/葛原妙子

第一歌集『橙黄』(一九五〇年)に収録された一首。歌集の配列では、敗戦直後の秋の歌ということになる。空襲と安全の確保という閉じられた状況から解放された心境を表現したものだろう。二十四日付で言及した「アンデルセン」の一首も同じく、正確な執筆時期は不明だが、現時点から読めば、敗戦直後の実感をわかりやすくうまく伝えているように感じられる。ちなみに、この歌は、きわめて日常的であるにもかかわらず、葛原妙子の「幻視」のしくみをはっきり見せているのではないかと思う。目に見える日常(この場合は空襲)が覆いとなって、覆いの外のものごとに意識が及ばなくなる。覆いが外れれば視野がひらける。戦後ではなくても、空襲に相当する日常の覆いが外れれば、人の視野はかわるのである。その後の葛原の文体は、こうした流れの上に展開された「幻視」に思われてならない。無から何かを捏造してしまうタイプの幻視者と葛原とがかなり違う印象を与えるのは、このあたりのところに要因があるのではないだろうか。

きょうの一首。

 見ることのできない場所に降りつもる雪のしづかな白さに眠る/荻原裕幸

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December 25, 2008

2008年12月25日(木)

昨夜、クリスマスケーキのかわりに、和栗と芋の何とか、という洋菓子を食べた。何とか、のところがどうしても思い出せない。買うときに、名札を見ながら読んでも噛みそうになった、片仮名で長い名前である。家人に訊いてみたのだが、同じく、和栗と芋の、までしか思い出せないらしい。記憶力の問題のような気もするが、そもそもおぼえにくい名前だった、ということにしておこう。

本日の朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、時評「東海の文芸」の、二〇〇八年の年間回顧が掲載された。散文を清水良典さん、韻文を荻原裕幸が担当。二人とも、不況と無縁の豊饒充実といった文脈から書き進めていて奇妙な感じがあった。もちろん申しあわせたわけではない。連載の紙面で扱えなかった良書を、書名だけでも入れこんでしまおうと羅列式にまとめたものの、それでもかなり漏れてしまった。これはというものになかなか出会わなくて悩まされる時期もあるのだが、今年は逆に扱いたくても紙面の都合で扱えないものが多くてよく悩んだ。

きょうの一首。

 せはしなくかつゆつくりと過ぎてゆく師走の午後をきらめく埃/荻原裕幸

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December 24, 2008

2008年12月24日(水)

年内最後の回収日だったので、段ボールと新聞を整理して処分した。新聞は一定の速度で増えてゆくだけだが、段ボールは不規則、このところ、ミネラルウォーターの消費量が一気に増えたため、箱がどっさりとたまっていた。午後、家人と星ヶ丘三越に行く。遅くなった昼食を済ませて、夜の食事を買って帰る。帰路、クリスマスが延期か中止になったみたいにがらんと空いた店をいくつも見た。

 アンデルセンのその薄ら氷(ひ)に似し童話抱きつつひと夜ねむりに落ちむとす/葛原妙子

第一歌集『橙黄』(一九五〇年)に収録された一首。詞書によれば、昭和十九年秋に三人の子と疎開した先での歌、秋の歌らしいのだが、はじめて読んだときから、この歌は、冬の夜、それもクリスマスの歌のような気がしていた。あるいは「マッチ売りの少女」の印象が作用したのだろうか。詞書にある「防寒、食料に全く自信なし」から考えると、薄氷すなわち早春を感じてもいるわけだし、希望のようなものとしてのアンデルセンの童話だったのか。希望にしては、アンデルセンの童話ではあまりにもかげりがあるのではとも感じるが、それが逆にこの一首に切迫したイメージを与えているのかも知れない。もしもグリムの童話だったら歌は成り立たないだろう。

きょうの一首。

 雪がないのに橇はどうして動くのと訊けばはるかに橇の来る音/荻原裕幸

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December 23, 2008

2008年12月23日(火)

天皇誕生日。天皇陛下の挨拶をテレビのニュースで見る。自身の体調のことや世間の不況のことを話していた。明るい内容ではないが、かげりやざらつきが生じないような穏やかな印象だった。夕刻、家人と近所のスーパーへ。クリスマス向けの、見た目の華やかな食品がずらっと棚にならぶ。他人の買い物をなんとなく眺める。休日的な景気のいい買い方をする人が多かった。喫茶店でお茶をして帰宅。

 ふりかえればあかるくわらうおもいでもあおぞらあおぞらあおむけで寝る/東直子

木内達朗さんのイラストとのコラボレーション歌集『愛を想う』(二〇〇四年)に収録された一首。「あおぞらあおぞらあおむけで寝る」は、同語の繰り返しや頭韻がほどこされているせいか、呪文のように、深い意味はない、固定されたフレーズに見える。にもかかわらず、文脈をたどると、一つ目の「あおぞら」は思い出の場面の背景の青空、二つ目の「あおぞら」はいま見ている青空、といった感じに意味がほぐれてゆく。高度なテクニックだと言ってもいいが、構成しようと意図してできる構成ではないようにも思う。どう読んでも個人の内面を見せている一首なのに、ことばの出所がよくわからないのだ。内面ではないどこか、という知覚できない場所にひろがる青空のことをしばらくぼんやりと考えていた。

きょうの一首。

 耳をすませばいたるところに日本語でながれる川のある十二月/荻原裕幸

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December 22, 2008

2008年12月22日(月)

テレビ朝日の河野明子アナがドラゴンズの井端弘和選手と入籍したという。井端選手のファンだと電波上で公言していたのは周知のことだが、ほんとにそこにおさまるとは。慶祝。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の十一回目。読み進めていた短篇を最後まで読み切る。結論的な結末のない短篇だったので、物語と小説の違いを説明しながら、小説についてのまとめをする。年内の講義はこれで最後となった。終了後、出先で軽く食事をして雑用をかたづける。そのまま栄に出て、夜、加藤治郎さんとお茶をした。

紺乃卓海さんが、22日付のブログ「眠られぬ夜に」で「探し出せないわたくしのための五十首」の感想を書いてくれているのを読む。深謝。ネット以前ならば、印刷メディアでの批評か、私信での感想か、のどちらか、つまり、短歌観や人間関係というフィルタを通したものだけを読んでいたわけだが、こうした読書ノートのようなスタイルで公開されるテキスト、言い換えれば、批評や私信に成形されない意見が読めるのは、ネットのありがたさの一つだと思う。

きょうの一首。

 リビングへの扉と何かもうひとつ開いてゐる冬ざれのめざめに/荻原裕幸

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December 21, 2008

2008年12月21日(日)

冬至。柚子湯に入って南瓜を食べる。名鉄の7000系パノラマカーが、今月の26日で定期運行を終えるという。名古屋かその近隣に住む人なら一度はお世話になっている電車だと思う。ぼくは、まだ舌がうまくまわらないこどもの頃から、ホームでパノラカパーとか呼んではしゃいでいたらしい(両親談)。思い入れと言うと大袈裟になってしまうが、それでもいくつかの大切な記憶には、パノラマカーとともに思い出される場面があって、やはりちょっと淋しい。

総合誌「短歌往来」1月号に西巻真さんが執筆した評論「ニューウェーブの再検討をめぐって」を読む。サブタイトルに「荻原裕幸と物語的作中主体」とあるように、一九九〇年代に、作品と評論を通してぼくが試行錯誤を繰り返していた、主体の問題の観点からのニューウェーブを捉え直そうとする文章だ。加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸の作品を、歴史との方法的な接点と断絶点から分析して読み解くニューウェーブ論は何度か見たが、主体論の観点から読み解こうとするのは珍しいと思う。ぼくの知るかぎり、彦坂美喜子さん以外はこれまで誰も手をつけていない。西巻さんが他でも展開する現代短歌論(同人誌「歌クテル」第四号掲載「インターネット短歌と少女ゆうれいたち」、同人誌「新彗星」第二号掲載「今だから、斉藤斎藤」、等)も含め、一九八〇年代以後の短歌の見取図が、全体としてどうまとめられてゆくのか、いよいよ楽しみになって来た。

きょうの一首。

 ささやかなものを求めて費やしたことばの数のつぶふる氷雨/荻原裕幸

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December 20, 2008

2008年12月20日(土)

夕刻、義母と義姉と家人と四人で外出。名古屋駅へ。タワーズライツを見て、クリスマスの雰囲気一色となった街路のイルミネーションを見て、伏見から栄へとのんびり歩いた。途中、食事をしたり、お茶を飲んだり。クリスマスの直前で年末も間近な飛石連休の週末だからなのか、きょうはさすがに、地下街にも地上にも店内にもその他にも、不況を感じさせないほど人がごったがえしていた。混雑を見た義母は、何か楽しそうに、東京みたいだね、と呟いていた。

 赤児にて聖なる乳首吸ひたるを終としわれは女を恋はず/春日井建

第一歌集『未青年』(一九六〇年)に収録された一首。この歌集には、同性愛や近親相姦といった禁忌の匂いがたちこめている。この一首も、そうした禁忌の文脈につながるものの一つである。ただ、「女を恋はず」には、カミングアウトをしているような、現実的な質感はまったくない。決意や宣言の範疇にあることばだと思う。同性愛も近親相姦も、それ自体が目的とされたモチーフではないのだろう。『未青年』の世界の根本にあるのは、恋愛をはじめとした、オーソドックスな青年の欲望を忌避しようとする、未だ青年ならざる者の意志だと言えようか。欲望を忌避したという経験的な告白は、虚実にかかわらずどこか物語めいてしまうが、ここで問題にされているのは、忌避できたかどうかではなく、欲望に対峙する意志のありようだと思われる。経験的告白でも虚構的美学でもない、一種の述志なのだろう。

きょうの一首。

 吐く息もしろくはなくて冬の夜を家族としての時間に過ごす/荻原裕幸

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December 19, 2008

2008年12月19日(金)

朝、起きると、リビングに半紙が積みあげられていた。家人が夜中に書の練習をしていたらしい。「大人」と見えて、何だ? と思う。よく見たら「天人」だった。朝食のときに見ていた何かのテレビCMで、若い女性が「狼」と書かれたTシャツを着ていて、何だ? と思う。家人の書のことがあったばかりなので、よく見直そうとしたら消えてしまった。男性のTシャツには、たしかに「父」と書かれていた。だとすると「娘」だったのか。しかし、あれは「狼」だったような。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者12人、詠草12首。題は「走」。今年の最終回である。受講者たちは、動詞系の題にすっかり慣れたようで、自在に書かれた作品が揃っていた。運動会でひた走る孫の歌から、斎藤茂吉「悲報来」の本歌取りまで、実にさまざまで、楽しみながら批評を進める。終了後、喫茶店で少しぼぉっと過ごしてから、所用で栄をぐるぐると歩きまわる。いたるところにクリスマスが溢れはじめていた。

きょうの一首。講座で「走」の題の作例として見せた一首。他の何かではなく自分が走ることを考えていたら、おのずとモチーフが決まった。終電とはかぎらないが、このところ、電車に乗るとき以外に走った記憶がない。

 化粧の匂ひや解消されないストレスや花束とともに終電へ走る/荻原裕幸

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December 18, 2008

2008年12月18日(木)

曇ったかと思うと晴れているような、雲のよく動く一日。午後、某社から、産経新聞の広告スペースに短歌を載せませんか、という電話。先月、留守をしていたときにもかかって来ていて、これで二回目の電話。名簿をローラーするような、自分でも他の誰の作品でもいいというスタンスでの話だったので断ることした。本がまとめて届く日が続いて、整理がどうにも追いつかなくなる。少し前に一度がんばって整理したのだが、結局またすぐ机まわりに本の山脈ができた。

第21期竜王戦七番勝負第七局。二日目のきょう、渡辺明竜王が、羽生善治名人に四連勝して四勝三敗、竜王位を防衛した。連続五期在位で、永世竜王の資格も得る。本局は、先手が羽生、後手が渡辺で、第六局と同じく急戦矢倉となる。優劣が二転三転する将棋で、とりわけ終盤の一時間ほどは、テレビやネット中継のプロ棋士の検討陣のコメントも混乱気味だったし、一分将棋に追われていた対局者の二人も、たぶんロジックを超えたところで指していたのだと思う。名局と言うのとは少し違う印象の一局だったが、いつまでもいつまでも見続けていたい気分だった。

きょうの一首。

 いかにも青いひびきであるが永遠をうつかり感じてゐる霜の夜/荻原裕幸

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December 17, 2008

2008年12月17日(水)

曇ったり小雨が降ったりでぱっとしない天気の一日。マンションの下隣さんの玄関ドアに、真っ赤な長靴のかたちをしたクリスマスの飾りが掛けられていた。ハンドメイド風でとてもかわいらしい。小中高生の、校内での携帯電話の所持や使用についての報道をテレビで見た。メリットとデメリットは当然あるだろうし、デメリットを避けるのはとても大切なわけだが、校内で所持/使用禁止という発想は、どこか問題を回避しているように見えなくもないなあと思う。

眼鏡とハンカチと携帯電話がある。仕事は完全にオフの日で、一人で外出すると仮定する。裸眼での視力は左右0.1である。駅まで歩いて、何駅か電車に乗り、行先の駅前の書店とCD店で買い物をして、その他にはどこにも寄らずに帰宅する。トータルの所用時間はおよそ三時間とする。そんな状況で、金銭の他に、どうしても三点のうちの一点しか持ってゆけないとしたら、少し迷うが、自分はたぶん眼鏡を持って出るだろう。逆に、どうしても一点を置いてゆかなければならないとしたら、やはり少し迷うが、自分はたぶんハンカチを置いて出るだろう。携帯電話は、身体の一部ではないが、持たずにいる時間はできれば短くしたい、という感じ。

きょうの一首。戯歌風に。破調の初句二句は岩里祐穂さんの詞から。

 一万年と二千年前からのとのやうなさびしきものに人はつながる/荻原裕幸

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December 16, 2008

2008年12月16日(火)

冬らしくからりと晴れた一日。午後、所用で名古屋駅まで出る。予定の時間に少し間があったので、時間をつぶしながら、このところ歩いていなかった区画を通り抜けて目的の場所へ。建物がいくつか建てかえられて、見たことのない風景がひろがっていた。名古屋の地下街は迷路のようだと言われることがあるが、来るたびに違う建物があらわれて、何回も来た場所をはじめて来た場所のように感じさせる地上も、かなり迷路的ではないかと思う。

きょうは出先でウインドウズのパソコンに向かっていた。自宅でマッキントッシュを使っているため、あいかわらずなじめないところもあるのだが、キンコーズやネットカフェで使う機会も増えて、以前に比較すればさほど違和感もなくなった。そもそも同じマックでもOSのバージョンが違えば異世界のようではある。OS9からOSXに切り換えたときなどは、重い荷物を背負ったまま操作している気分だったし、以後はコンマ1のレベルでも変化が激しい。ちょうどきのう、コンマ1よりさらに小さなアップデートがアップルから公開されたところだが、ソフトの操作の感触が微妙にかわることがあるので、しばらくはユーザたちの評価と噂を待つことにした。

きょうの一首。どんどん広くなる。

 枯野ゆくひとりのやうに禁煙のエリアを出口さがしてあるく/荻原裕幸

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December 15, 2008

2008年12月15日(月)

午後、Aさんから電話。次回の読書会のテキストについて相談する。はじめ候補にあがっていた本が、数年前に刊行された評論集で、どうもあまり乗り気になれなかったので、別の新刊の評論集を提案してみた。同朋大学へ。文章表現の講義の十回目。ひきつづき小説について。さらに短編小説の読解を進めてゆく。小説のなかにあらわれる日用品から時代背景がかなり細かく特定できるという話などする。終了後、中村公園のパスタ屋でパスタを食べる。旬ではないが、塩味のボンゴレスパゲティを。麺の量を少し多めにしてもらう。

アメリカのブッシュ大統領が、訪問先のイラクで、記者会見の際に、あるイラク人記者から靴を投げつけられたという。イラクでは、靴を投げつけるのは、単なる暴力ではなく、侮辱の意味があるそうだ。それを知ってか知らずか、大統領は、直後に「彼の投げた靴のサイズは10」とか言ったらしい。激怒するならばまだしも、趣味の悪いアメリカンジョークだと思った。ここしばらくの大統領の発言、とりわけ、イラクの大量破壊兵器所有を誤認したことについての自己弁護などを考えると、起きるべくして起きた事件という気もする。

きょうの一首。

 せはしなく冬の浅蜊を噛みながらはじめて下の名で呼ばれた日/荻原裕幸

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December 14, 2008

2008年12月14日(日)

午後、家人が義母と義姉と外出。留守番。机まわりの本の散乱具合がかなりひどい状態になって来ているので、そろそろ整理しなくてはと思っているのだが、年末だからなのか、届く本の量が増えて、楽しい反面、状態がどんどん悪化している。日曜は郵便の配達がないので整理に好都合、だったのは以前の話で、メール便の類が普及してからは、そうもいかなくなった。

むかし、職場の同僚に、荻原さんは老後も安心だね、と言われたことがある。何のことだろうと思ったら、健康でも家族でもお金の話でもなくて、ぼくが、短歌を書いているから、だと言う。そもそも高齢者向きの趣味だから、いま(その話の当時、ぼくは三十代の前半だった)から勉強しておけば、老後の心配をしなくてもいい、というのがその人の論法である。その人は、ぼくの短歌を読んだことはなくて、書いているということだけを知っていたのだが、もしこの作品を読んだらどんな顔をするのだろうか、と、帰宅して自分の書いた「記号短歌」を眺めて苦笑したのだった。老後を考えるときに、何よりもまず趣味のことが問題になるような、ふるきよきむかしの話である。

きょうの一首。忘年会のシーズンである。

 若さではないが何かその種のひたむきで変な感じのきざす宴会/荻原裕幸

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December 13, 2008

2008年12月13日(土)

午後、自転車を漕いで外出。寒いかと思って厚着で出たのだが、それほどのこともなかった。桜山の美容室へ。伸びた髪をカットしてもらう。美容師さんが正月に晴着を着ようかどうしようかと悩んでいたので、と言うか、とても着たそうな顔をしながらそれを言うので、絶対に着た方がいいよ、と、着ることを勧めてみた。やっぱりそう思いますか、と、表情もカットの手つきも溌溂となる。

週刊読書人の12月19日号が届く。年末のアンケート特集「二〇〇八年の収穫」が掲載されている。ぼくも、今年印象に残った本三冊をあげて、四〇〇字ほどのコメントを付して出稿した。詩歌関連の本に絞るのはいいことなのかどうなのかと悩みながらも、今年も詩歌関連の本に絞った。短歌誌「レ・パピエ・シアン」が届く。創刊十年、通巻で120号、この号が終刊号になるという。来月すぐに後継誌が創刊されるそうだが、ひとまずは、小林久美子さんはじめ、毎月楽しませてもらったメンバー諸氏に感謝を。連作三十首の特集のなかから、小林さんの「時の葉」の一首を引用しておく。四句目の「ある」は、微妙だが、終止形だろうか。あたりまえのことを述べているようでいて、しかしいつまでもどこかに不透明な感じの残るのが佳いと思う。

 現実をこころの方が追いぬいて行くことがある時間のなかで/小林久美子

きょうの一首。ぼんやりしているときの自分の意識に気づいて、試しにそれを記述してみた。こういう記述は、書いているうちに何かがどんどん劣化してゆく。むずかしい。

 壁を濡らすやうに何かがのびてゐるこれは雨ではなくて冬陽だ/荻原裕幸

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December 12, 2008

2008年12月12日(金)

午前、栄の名古屋国際ホテルへ。ねじまき句会の忘年会。個室を予約したので、規模の大小その他にかかわらず、ねじまき句会様、中日ドラゴンズ様、といった風に、案内板に並んで大きく名前が表示されて、何かくすぐったい感じだった。散会後、取材と資料集めとで午後の栄を歩き回る。クリスマスソングが流れていて、人も大勢いることはいるのだが、この時期にしてはどことなく活気がない気もした。

世相をあらわす「今年の漢字」に「変」の字が選ばれたという。良くも悪くも変化の多かった一年、といったあたりに選ばれた理由があるようだが、良くも、の部分を感じられる人は、さほど多くはいないようにも思う。ちなみに、世相ならぬ今年の短歌を漢字一字であらわすなら、さしづめ「真」といったことになろうか。頻繁に話題にされた二冊の短歌論集、穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)と吉川宏志『風景と実感』(青磁社)のテーマが、リアルとか実感とか、表現やことばの「真」をめぐるものだったのに加えて、若い世代の活発な同人誌活動の中心的なモチーフに、リアルの問題が据えられているようにも見えた。年単位を超えて考えても、この十年あまりの間に「場」の問題が浸透および拡散して、その延長や反動としての「真」をめぐる問題がそこここに浮上している気配がある。

きょうの一首。実感的なモチーフをベースに考えていたのだが、あれこれと推敲しているうちに、何かたちのわるい冗談のようにも見えはじめた。

 クリスマスのうねる地下街ふところに爆発物をしのばせずゆく/荻原裕幸

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December 11, 2008

2008年12月11日(木)

午後、クリーニング店、病院、等々。少し遅くなってしまったが、インフルエンザの予防接種をした。インフルエンザと言えば、遠くない時期に新型が発生し、しかも世界的に大流行する可能性が高いという。危険なことはよくわかるのだが、流行の初期段階でまったく外出せずに済ますのはとても難しそうだし、仮に自宅に閉じこもることができる状況にあったとしても、ピークを完全に超えてしまうまで、食料がもたなければどうにもならない。現時点で発生したとしたら、対応できる人はどのくらいいるのだろうか。怖い話である。

第21期竜王戦七番勝負第六局。二日目のきょう、渡辺明竜王が、羽生善治名人に三連勝して三勝三敗とした。後手の渡辺が、急戦矢倉の定跡から、誰にも言わずにあたためていたという新手を繰り出した本局は、前局と同様、渡辺が覚醒した状態のままかなり強気に指し回して羽生を圧倒した。いよいよ来週が最終局。勢いは完全に羽生名人から渡辺竜王の側に移ったが、七番勝負で三連敗の後に四連勝はできないという将棋史的なジンクスは、実力差がない場合、同じ相手に対して勢いで四連勝するのがいかに難しいかを証すデータでもある。将棋界の今後を占うとも言われるこのシリーズ、果たしてどうなるか。

きょうの一首。

 セーターの妻の稜線ひとしきり見てニュース見て黄昏にゐる/荻原裕幸

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December 10, 2008

2008年12月10日(水)

何の話の流れからそれが出たのか忘れてしまったが、二人で食事の用意をしていたとき、家人に、歌人と結婚しようとは思わなかったの? と訊かれた。こんな場合、どんな答を返してもろくなことにはならないわけで、困りながら、きみが短歌を書けばいいじゃないか、と適当に答えてみた。林檎を剥きながら、しばらく何か考えている風だった家人は、百人一首ならできるよ、と言った。何かちぐはぐなやりとりのような気もしたが、そのままそっとしておいた。一句。

 噛みあはぬ会話をわたる夕霙/荻原裕幸

昨日、翻訳家の中村保男さんが亡くなったという。享年七十六歳。有名な仕事はいろいろあるが、個人的には、十代のときに偏愛していた、フレドリック・ブラウン『宇宙をぼくの手の上に』とコリン・ウィルソン『賢者の石』の二冊の訳者として、この人の名前は忘れがたいものになっていた。原書にあたることの少ない無精な読書人の自分にとって、神様のように感じる翻訳家の一人である。ご冥福を。

きょうの一首。

 こきざみにまばゆきものが炎えつきてときどきかはる玄関の花/荻原裕幸

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December 09, 2008

2008年12月9日(火)

昨夜はひさしぶりに物洗貝の水槽の大掃除をした。家人が水槽から出した貝を数えてみると、ちょうど五十匹。ときどき死んでいるのがいたので、かなり数が減ったかと思っていた。意外にみんな元気である。濾過器の掃除は簡単だったのだが、奇妙な匂いのしみついた小石を洗うのに手間がかかった。掃除の済んだ水槽で、壁を登ったり水に流されたり、貝たちはあいかわらず楽しそうに遊んでいる。おそらく掃除をしてもしなくても、彼等にさほど影響はないのだろう。

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。今年最後の定例の読書会。新しいメンバーを二人加えて、参加者は七人。今回は変則的に、文芸誌「イリプス」創刊号と二号に掲載された荻原裕幸の短歌計百首を読んだ、と言うか、読んでもらった。気心の知れたメンバーなので、たぶんある程度は忌憚のないところを聞かせてもらえたと思う。課題を少し洗い出すことができて、こうした場のありがたさをあらためて認識する。終了後、全員でお茶をして、有志で食事をした。

きょうの一首。曇天ときどき荒天という一日だった。

 雨は死のやうにいきなり降つて来て内側までもずぶ濡れになる/荻原裕幸

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December 08, 2008

2008年12月8日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の九回目。ひきつづき小説について。短篇小説の読解を進めてゆく。表現をめぐる考察と注釈的な説明とを織りまぜながら、時速千数百文字くらいのスピードで。終了後、中村公園の定食屋で食事。はじめての店だったので、無難なところで唐揚げ定食を注文する。鶏の唐揚げと野菜サラダ、煮物の小鉢とお刺身の小鉢、それに、ごはんと赤出しとお新香。七百円也。

 自転車の前と後ろに生まれざる吾子らを載せて花の下ゆく/十谷あとり

第一歌集『ありふれた空』(二〇〇三年)に収録された一首。同歌集のなかでいちばん好きな歌。自転車の前後にこどもをのせるのも、生まれなかったこどもを日常空間のなかに見るのも、ともに類型的な表現なのに、二つが重なったところには、思いがけない風景がたちあがる。「生まれざる」の理由によっては、背景の帯びるかげりの質がずいぶん違って来るが、そうした私的な事情の細部を読ませようとしているのではないようだ。ことを避けるのでもことに執着するのでもなく、何とか潜りぬけて向う側へと進んでゆく感じが、感情の抑制された文体のなかに、ある種の爽やかささえともなってにじみ出ている。鼻の奥につんとした感じがはしる。

きょうの一首。

 内閣の支持率くだるよりもややゆるやかな暮の坂をふたりは/荻原裕幸

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December 07, 2008

2008年12月7日(日)

大雪。どんどん寒くなるが、名古屋ではまだ雪を見ていない。午後、家人が義母と義姉と外出。留守番。近所の中華料理店で少年マンガ誌をまとめ読みしながら食事。客足のわるい日だったようで、店内はしんとしていた。自分の食べる音や雑誌のページを繰る音が気になるほどだった。夜、家人の友人からいただいたクラブハリエのバウムクーヘンを食べる。美味。

 けものさえ踏んだことのない原野が息づいている羊羹の中/雪舟えま

今橋愛さんと雪舟えまさんの二人誌「Snell」2号に掲載された「22:22」五十五首のなかの一首。とらやの羊羹とかそういうブランドスイーツのことなのか、あるいは超甘党でともかく羊羹に目がないのか。壺中の天のバリエーションとしての、羊羹中の原野、という自分にはとても思いつけない世界に惹かれる。ことばとしては大袈裟なところもあるが、羊羹を切る/食べるという微細なモチーフを、ここまでブリリアントな感じにしてしまうのは、雪舟さんの半端じゃない才能によるものだろう。同じ一連から他にも惹かれた作品を引用しておく。

 一冊の本にしおりが二枚ありあなたはすすんでるほうのしおり/雪舟えま
 おはじきを水に入れたらおはじき水 ふたつの姓のあいだで遊ぶ
 小さい林で小林ですというときの白樺林にふみこむ気持ち
 かまきりを歩道の端に誘導しまだ午前中というよろこび

きょうの一首。

 出すものがない冬晴のひるさがりポストから目を逸らして歩く/荻原裕幸

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December 06, 2008

2008年12月6日(土)

午後、実家に電話を入れて、顔を出しに行こうと思うんだけど、と言ったら、きょうは夕方から出かける、と父に言われて、慌てて自転車で飛び出したのだが、考えてみれば、あすゆっくりと出かけてもよかったのではないかと気づく。しかも外はかなり寒かった。お茶を飲みながら話をして、帰りに柿などをみやげに貰う。先月貰った柿がまだ残っていたのかと思ったら、これはまた別のいただきものなのだという。今年は方々で柿が豊作だったらしい。

倉橋由美子のエッセイ集をぱらぱらと読み直していると、一九六〇年代後半に書かれたものに、「青春」ということばが比較的頻繁に出て来た。いささか皮肉な感じで用いられることが多いのだが、その時期に増えるというのは、主にテレビドラマの影響だろうと思われる。倉橋はたしかテレビはほとんど見ないと書いていたので、どこか流行感のあることばとして巷に流布していたことに反応したのか。直に言及した文章には、何もそこまで言わなくても(笑)、と感じるものもあった。引用は、一九六九年のものである。

 若くて、しかも健康な人間ならば、青春を謳歌しながらも、やはりそれがひとつの過渡期にすぎないことを知っていて、早くそこをくぐりぬけ、「早く大人になりたい」と願っているのではないだろうか。この気持がまるでなくなるほど青春に「埋没」してしまった人間につける薬がないのは、好きで病気になっている人間の場合も同じことで、そういう人間は死ぬまで青春を生き、「文学青年」でありつづけるほかない。/倉橋由美子「青春について」

きょうの一首。

 誰なんだそのやはらかな表情はそこにゐるのは父のはずだが/荻原裕幸

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December 05, 2008

2008年12月5日(金)

午前、ぼんやり雨の音を聴きながら机に向かっていると、地鳴りのような音がしはじめた。地震? とか思ったが揺れていない。雷だった。しばらく続く。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人、詠草14首。題は「売」。次回もう一回は動詞系の題で、新年からは形容詞系の題を出すことにした。巷はどことなくクリスマスっぽくなりつつあるようだが、まだ本格的な感じはない。

第21期竜王戦七番勝負第五局。二日目のきょう、渡辺明竜王が、羽生善治名人に連勝して二勝三敗とした。矢倉の最新戦型で展開された本局は、先手の渡辺が終始主導権をとったままで終局まで進んだ。中盤で小さな勝機を発見して、安全策をとらずに一気にそこに食いついた渡辺の指しまわしが爽快で、自玉の固さを頼りに強気で攻めまくるといったこれまでの渡辺の棋風から考えると別人のようだった。もともとプロのなかでも並外れて強いのだが、この別人は手がつけられないほど強く見える。

きょうの一首。講座で「売」の題の作例として見せた一首。塚本邦雄の歌集『閑雅空間』(一九七七年)には「燕麦(からすむぎ)一ヘクタール 火星にもひとりのわれの坐する土あれ」という作品がある。これはSF小説的な着想で、当分はあり得ないと考えたからこそ題材にしたようだが、火星の土地の分譲は、宇宙開発の進捗とは別の次元で、意外に早くはじまった。一エーカーで三千円だという。

 火星の土地を三千円で売つてゐる星に土地もつことなくて冬/荻原裕幸

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December 04, 2008

2008年12月4日(木)

天野哲夫氏の訃報をネットのニュースで知る。沼正三および『家畜人ヤプー』との関係について、各新聞社がどう報じているのか、気になって読みくらべてみた。読売新聞は「ヤプーの作者と告白」。朝日新聞は「沼正三の代理人を務めた後、ヤプーの著者は自分だと名乗る」。毎日新聞は、天野氏イコールヤプーの作者だと見出しにはしたが、本文では「自分が書いたと名乗り出た」。日本経済新聞は「著者として名乗り出た後、代理人と説明を変えた」。いずれも微妙なスタンスだった。

先日、羽海野チカ『3月のライオン』第2巻(白泉社)を読んだ。前巻を読んだときにも、類型化した勝負師群像ではないのがいいと思ったのだが、この巻でははっきりサラリーマン群像をフレームにして描いているのが見えて、より自分の好みに近づいた感じがあった。将棋のみならず、頂点だけを見ながらその世界に没入してゆく人が多いのは事実だろうし、自分もそうした思考から抜け出せない。ただ、何かをしたいという感覚は、理想や目標や目的だけでは説明がつかない。このマンガには、そうした説明のつかない、ものごとにとりつかれる感覚が、もやもやしたままじわじわっと伝わって来るところがあって楽しめる。

きょうの一首。

 通り道にあるし何しろ佳い音で避ける謂れもなく落葉踏む/荻原裕幸

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December 03, 2008

2008年12月3日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十三回目。きょうの題は「落葉」「冬の夜」。いつものように添削的な批評をする。秋期の講座はきょうで終了となる。次期からは半期で十五回のスケジュールになるようだ。終了後、受講者と喫茶店で歓談。その後、某スーパーで買い物。レジの人たちが皆サンタクロースの帽子をかぶっていた。帰宅後、きょうの題に即して二句。

 夕暮を踏みたりなくて踏む落葉/荻原裕幸
 冬の夜のなにを収納する闇か

 テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区/永井祐

短歌同人誌「pool」6号に掲載された「日本の中でたのしく暮らす」三十首のなかの一首。永井祐さんは、最近、短歌誌「風通し その1」にも「ぼくの人生はおもしろい」三十首を発表している。どちらも、掴みどころのない日常を淡々とした口語の文体で描いている。楽しいも、面白いも、ものすごく、というわけではなく、それなりに、といった感じに見える。この、それなりに、がもたらす、誰かがそこに一応確かに存在するといった感じが、永井さんの短歌の個性の一つなのだろう。品川区でテレビを見ながらメールをする人の数は、推定するのが難しいほどの多さであるはずだが、そんな自分をそれなりに楽しんでいる、この熱くならない感覚は、きわめてユニークなものだと思う。自分なりの意味や意義が入りこんでしまうのを拒んで、行為の質感を剥き出しにしたまま描いてゆく文体は、表現者としての意志の強さによってはじめて成り立つものだと感じられる。

きょうの一首。某所で小さなこどもを見て。

 きんぎんの船となるまで紙折れてゆくその掌より大きな紙が/荻原裕幸

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December 02, 2008

2008年12月2日(火)

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。東西句会の今年最後の句会に出る。新しいメンバーを一人加えて、参加者は六人。題詠「セーター」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。無記名で互選と合評。句会後は珈琲を飲みながらメンバーと雑談的に俳句の話をする。少し熱い感じの話だった。句会に提出した五句は以下の通り。出来のよしあしはともかく、いくらか迷いのとれた位置で書くことができた。アドバイスをくれたNさんに感謝。

 天竺は快晴ならむ帰り花/荻原裕幸
 味の素切れて十一月終る
 待人も真冬も橋の向うから
 歩くたび律儀に冬の音がする
 セーターを潜りて顔は無防備に

来年の三月七日、一ツ橋の如水会館で、第21回現代俳句協会青年部シンポジウムのパネルディスカッションに、城戸朱理さん、須藤徹さん、田中亜美さん、宇井十間さんとともに出演する予定。主催者から正式に広報されたようなのでお知らせ。現俳協青年部のシンポに出るのは、一昨年の秋、五島高資さんと対談した時以来ということになる。今回は「『前衛俳句』は死んだのか」というテーマが設定されている。

きょうの一首。一度もないの? と訊かれる。一度もないんです、と答える。

 これからもたぶん馬券を買ふことのないひととして師走を歩く/荻原裕幸

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December 01, 2008

2008年12月1日(月)

十二月となる。午前、近所のスーパーまで買い物に。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の八回目。小説について。概論と短篇小説の実例の読解を進める。結社誌がまとまって十数冊届く。師走直前に発送が集中したのだろうか。慌ただしい感じになって来た。昨日今日と、日没から間もない夜空に、やけに明るい星が二つ列んでいるのを見た。金星と木星が接近した状態になっているらしい。

思潮社から「現代詩手帖」12月号が届く。「現代詩年鑑2009」として編集された号である。興味のある記事を拾い読みしてゆくなかで、黒瀬珂瀾さんの短歌展望に目がとまる。タイトルは「新たな規範(カノン)と部活世代と」。総花的だと言えば言えなくはない文章であるが、偏向をできるだけ排して、混沌とした状況のなかにもポジティブに近い展望を与えているように見えた。他ジャンル誌に黒瀬さんのこの文章が掲載されたのは、とてもよかったと思う。同年鑑恒例の「今年度の収穫」のアンケート、数年断っていたのだが、今年は出してみた。

きょうの一首。

 やさしいやうなやましいやうな曖昧な音を聴く十二月の水に/荻原裕幸

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