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February 28, 2009

2009年2月28日(土)

玄関にガーベラとカーネーションが挿してある。どちらも歳時記的には夏の花になるのだが、ともあれ、とてもきれいに咲いてくれている。午後、テレビをつけたら、ラグビーの日本選手権大会決勝の、後半の十数分が過ぎた場面だった。6点差でサントリーを追う三洋電機が、数分の間に逆転して、最後は24対16で優勝を決める。秋の重傷から復活したトニー・ブラウンが凄かった。夕刻、家人と買い物に出る。週末のスーパーは、家族連れの客であふれかえっていた。見た目は平穏なのだが、人の動きがあまりにも不規則で、ちょっと疲れる。

 日暦に初蝶とある妻の文字/宇佐美魚目

第一句集『崖』(一九五九年)に収録された一句。二十代の作品。日暦、は、たぶん日捲暦のことだと思う。妻の字で初蝶とメモされていたのは、春になってはじめて蝶を見たという覚え書きだろう。句自体は嘱目であるのだが、その場に蝶がいたわけではなくて、蝶を見た妻の姿を思い浮かべたか、妻とともに見た蝶を思い出したか、いずれにせよ、状況が二重の構造になっているのがおもしろい。無防備なまでにきらきらした印象のある初蝶と妻のとりあわせだが、情感たっぷりでも抒情に流されることのない佳句にしあがっている。

きょうの一首。

 鯨類のやうに沈んでゆくひとがゐて菜の花はこがねの海で/荻原裕幸

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February 27, 2009

2009年2月27日(金)

昨深夜、ひさしぶりに家人の髪のカラーリングをする。きょう、東京の都心部では雪が降ったらしい。名古屋は曇ったり小雨が降ったりとぱっとしない一日だった。冬のなごりと春らしさがこもごもに顔を見せる時期になったが、名古屋ではついに雪の姿を見ないまま、気づけばもう三月がすぐそこである。

 わが耳つまむごとくカップの耳もてる医師とあり珈琲店〈鰐〉/塚本邦雄

第四歌集『水銀伝説』(一九六一年)に収録された一首。鰐、に、クロコデイル、とルビがある。この店の名は、実在するかどうかはともかく、いかにも虚構的で、そこが人工の空間だと宣言している印象がある。背後に作者の日常を想定して読むなという意味でもあるのだろう。ただ、詮索するつもりはないが、読者としては、実体験による医師と私との関係が、誇張されて、人工の空間のなかに、何らかのかたちで反映されていると読むのがふつうだとは思う。この場合、まず、耳をはじめとした身体の部位を医師に委ねる信頼感が、日常のレベルのものとして見えている。そこに、いかにも人工空間的に、人間を捕食することもある鰐のイメージ、耳があっても耳たぶのない鰐のイメージを重ねることで、生殺与奪の権を委ねる不安感、恋愛感情にも似た従属感、等、日常のレベルではたとえ生じても無意識に打ち消してしまう妄想的な感覚が呼び出されているようだ。これが、珈琲店プランタンとか、そういうリアリティのある店名だったとしたら、知人か友人の医師の、それなりによくできたスケッチの範囲にとどまってしまっただろう。

きょうの一首。『柄谷行人初期論文集』をひらきなおして。

 初期といふことばの硬きひびきゆゑひかりあふれる人生の初期/荻原裕幸

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February 26, 2009

2009年2月26日(木)

日本で最も多い喫茶店の名前は何か、というタイトルに釣られて、ネタ系のネット記事を読む。調査方法がどこか怪しげな雰囲気だが、結果はそれなりに納得できる気もした。十位以内の名前で、じゅん、ふじ、らん、たんぽぽ、れもん、ぷらんたん、ぶらじる、には実際に入った記憶があるし、そのなかで、ふじ、と、ぶらじる、には現在もときどき入る。ただ、これらの店名、いずれも昭和風な印象がある。現在風な店名は、多様化して、数が揃わない、ということか。

きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、ともに昨年十一月に刊行された、中神英子さんの詩集『夜の人形』(思潮社)と里中智沙さんの詩集『手童(たわらは)のごと』(ミッドナイト・プレス)。中神さんの詩集を読むのはこれで五冊目になる。里中さんの詩集ははじめて読んだが、強く印象に残った。十七年ほど時評を担当しているのに、これまでは見落としていたか、と思ったら、十九年ぶりの詩集刊行なのだという。以下の引用は「言葉は…」という作品の末尾の部分。ことばの触感が快い。自分の好みの作品である。

 あなたのうすいメタルフレームの眼鏡
 の奥のきりっと鋭角の視線が、
 となおも書くとき
 ことばはやわやわとくずれ
 あなたから目をそらすだろう
 そらすことで語りかけるだろう/里中智沙

きょうの一首。名古屋では、喫茶店と言えば、コメダ珈琲店。

 コメダ珈琲店だから口にするやうな莫迦な話をして二月逝く/荻原裕幸

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February 25, 2009

2009年2月25日(水)

春らしい陽気の一日。午後、二人とも食事の準備に手がまわせなくて、家人と吉野家に行く。客の少ない時間帯だったが、新人だったのか、店員が不慣れな様子で、吉野家にしては珍しく待たされた。結社誌「短歌人」3月号の短歌時評で、内山晶太さんが「実作と評論を同時に行う現在の形態は専門の評論家をほとんど持たない短歌というジャンルにおいてやむないこととは思うが、同時にいびつな状況であり、それほど望ましいことだとは考えていない」と書いている。時評の主旨とは少し離れたところにある一節だが、爽やかな状況認識だと思った。

第58期王将戦七番勝負第五局。深浦康市王位が羽生善治王将に勝って三勝目をあげた。愛知県蒲郡市西浦町旬景浪漫銀波荘での二日制の対局、ネット中継を見る時間がなくて、終局後に棋譜をたどる。本局は、先手の深浦が中飛車を選択。角交換が絡んで、序盤から緊張感のある指手が続いていたようだ。難解な攻防の続く中盤から、五局目でついに白熱した終盤戦になるかと思ったら、羽生が攻めあぐねて緩手を出したため、意外な短手数であっさり終局している。このシリーズは、一方的な展開しか出ないのだろうか。ともあれ、深浦が二冠まであと一勝となる。

きょうの一首。きょうはそんな感じのひだまりを見た。

 柴犬と柴犬のかるく噛む春がひだまりのうつろを過ぎてゆく/荻原裕幸

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February 24, 2009

2009年2月24日(火)

小雨が降ったりやんだり。午後、近所の公設市場まで弁当を買いに出る。市場の前の看板の回転灯が消えていたので、休みなのかと思ったら、ふつうに営業していた。店主に告げると、ああ、あれね、さっき気づいて、叩いてみたけど動かんで、たぶん故障だわ、と言う。これまでにも叩いて動かしたことがあるような口ぶりだった。叩く時点ですでに立派な故障であるわけだが。きょうはポテトサラダをおまけにつけてもらった。

大辻隆弘さんが、23日付のブログで、「田中槐「草食獣的、肉食獣的」についての疑問」と題して、自身の『時の基底』の批判への反論を書いている。先日、このブログで少し反論を煽るようなことを書いたので、読んだという報告をとりあえず。それと一つだけ気になった点を。大辻さんはブログの末尾で、『岡井隆と初期未来』(二〇〇七年)や新刊の『アララギの脊梁』(青磁社)に、草食獣的な(=対象をゆっくり咀嚼して反芻して消化するような)文章をまとめたと書いている。『アララギの脊梁』は、まだ読みはじめたところだが、現在につながる短歌史の再検証であり、興味深いものである。ただ、扱っている対象が『時の基底』ときれいに重なるわけではない。『岡井隆と初期未来』や『アララギの脊梁』が草食獣的かどうかは、今回の、時評をどう書くかという件とは、何か別の話ではないのだろうか。単なる自著の宣伝的な付記ということならば構わないのだが、その一文のために論点がスライドしかねない感じがあったので。

きょうの一首。きょうは夕焼ではなかったのだが。

 排卵といふか在卵の日がわからないふたりで春の夕焼を見る/荻原裕幸

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February 23, 2009

2009年2月23日(月)

春めいてあたたかな一日。何か勿体ないような気分になりながらも、日中はずっと家にこもりきり。深夜になってコンビニに行った。不健全な感じ。来月7日の現代俳句協会のシンポジウムの参考資料に目を通しはじめる。数日前に主催側から送られて来たもので、A4で約60面、雑誌一冊に近いボリュームがある。前衛俳句と前衛短歌との「史的な待遇」の違いを再認識しながら読み進める。

角川書店から総合誌「短歌」3月号が届いた。大々的に春日井建の特集が組まれている。総論は佐佐木幸綱さん、キーワードによる各論を、高橋睦郎さん、篠弘さん、三枝昂之さん、米川千嘉子さん、加藤治郎さん、それに荻原裕幸が執筆。さらに二十人による一首鑑賞が掲載されている。自分の出稿した文章は「『未青年』の書かれた場所」と題したもので、キーワードは「破壊と悪への希求」、400字で11枚強の分量になる。前衛短歌という既成のフレームをあえて外して、現在の感覚で、歌集『未青年』をどう読めるのか、素朴に考えてみた。

きょうの一首。きょうは月夜ではなかったのだが。

 どこまでも続く木立やつきかげとともに朧に帰属してゆく/荻原裕幸

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February 22, 2009

2009年2月22日(日)

午後、家人が義母と義姉と外出。留守番。桜場コハルのマンガをぱらぱらひらいていたら、人参をやたらに嫌う小学生が出て来て、郷愁的な気分が襲って来る。あれほど嫌いだった人参を、いまでは毎朝おいしく食べているのは、味覚の変化とか品種改良の効用とか、何かはっきりした理由はあるのだろうが、それでも、なんとなく、嫌う能力を失った、のではないかと感じることがある。

 助教授に意向を聞かれ見つめらるしばし困りぬ前歯のやり場/永田紅

第二歌集『北部キャンパスの日々』(二〇〇二年)に収録された一首。この歌集全体が、いわゆる日付のある歌として書かれたもので、詞書には「二月二十四日(木) 出っ歯なので」とある。この二月は二〇〇〇年の二月。大学院での先生とのやりとりを描いたものらしい。詞書でも作品でも、自身の身体的特徴を強調すると、自惚か卑下か、そんな臭みが出やすいものだが、これはほぼ無臭で、ユーモラスかつキュートな印象。先生と学生との大事な対話の最中のはずなのに、口元、と言うか、上顎の歯列をピンポイントで見たり、見られた側がその「やり場」に困るという感じが、何層かになって揺れ動く意識のありようを巧く捉えている。「大事なこと」ではなく「些細なこと」の方を一首の中心に据えて、情景がいきいきしたものになったようだ。

きょうの一首。二月、そろそろ年度末、道路工事、と連想が働いて。気になって調べてみたら、現在、日本ではここ一社だけで製造しているらしい。下句八八は、かなり緩いが、それほど悪い調べでもない気がして、そのままにした。

 鶴嘴をいつからかもう見てゐないどこまでも砕く春の鶴嘴を/荻原裕幸

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February 21, 2009

2009年2月21日(土)

北の各所は大雪と強風で大変だったようだ。名古屋は特筆すべきことの何もないごくふつうの天気の一日だった。冬が終ったはずなのに、まだ春が本格化しない、掴みどころのない時間が流れている。スニーカーを新調したので、午後、徒歩で買い物に出かけて、履き具合や歩き心地をたしかめる。少し走ってみたかったのだが、碌なことにならない気がして自重した。

楠見朋彦さんの『塚本邦雄の青春』(ウェッジ文庫)が刊行された。京都新聞の連載コラムに加筆したもので、タイトル通り、塚本邦雄の青年期を、短歌を核にしながら語って、ユニークな考察を展開している。私的経歴をあまり明らかにしなかった塚本が各書の端々に記した情報を繋ぎあわせて、またその他の資料や事実を精査して、無理のない塚本邦雄像を描いてゆくのが佳い。ざっと斜め読みしている段階だが、塚本邦雄に興味のある人は必読、という印象。塚本を語る文章がほぼ例外なく抱えてしまうあの「無駄にブッキッシュな感じ」が薄く、快く読み進められるのも嬉しい。しばらくじっくり楽しみたいと思う。

きょうの一首。平仮名を楽しんでみた。

 春はいまだふかまるきざしなくひなかしじまに封をきる音ひびく/荻原裕幸

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February 20, 2009

2009年2月20日(金)

気づいたら右手の親指の腹に数ミリの切傷ができていた。たぶん包丁の刃があたってできた傷だと思う。傷口が閉じるまでと思って絆創膏を貼ってみたところ、これが何をするのにも邪魔で閉口した。そんなことを家人にぐちっていたら、液状の絆創膏というものがあるという。薬局で求めて使ってみる。傷口を接着剤で薄く覆ったような感じで、辞書をひくにもペンを使うにもタイピングにも、それに水を使うのにも支障がなくて快適だった。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「早」。難しかった、題をむりやり入れた、という声も聞こえていたのだが、題の部分が瑕になっている歌は少なく、むしろ、そつなくまとめられた歌が多かった。ただ、全体にどこかこぢんまりまとめる傾向が見えて、それが書きぐせになるとまずいので、瑕のない歌にも、あれこれと注文をつけたり、再考を促したりした。それにしても、瑕のない歌にプラスアルファを求めてゆくのは、なかなか難しいものである。作者も納得しづらいだろうし、こちらも少し消耗した。

きょうの一首。講座で「早」の題の作例として見せた初案は、下句が「気づけば誰もゐないゆふやみ」だった。ことばの勢いだけで書いたものだったので、講座後、珈琲を飲みながら推敲した。初案を書いたときには想定していなかった体験的事実を思い浮かべながら、少しだけ改変した。

 早さから粗さ生じてゐることに気づけばだれもゐない春昼/荻原裕幸

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February 19, 2009

2009年2月19日(木)

結社誌「未来」2月号の田中槐さんの短歌時評「草食獣的、肉食獣的」で、大辻隆弘さんの時評集『時の基底』が批判されていた。批判の外枠は「大辻隆弘の十年は揺れ過ぎていないだろうか」という文中の一節に集約されようか。この「揺れ」については、微妙に折れたりいっそう頑固になったりしながら、新たな何かを受容してゆく歌人の姿として「楽しく読む」こともできる気がするが、田中さんの批判は、とりわけ感情を剥き出しにした文章に向けられて、曰く「怒りを露わにし拳を振り上げている文章は、インパクトはあるが空しい」等、かなり手厳しいものだった。大辻隆弘さんは反論するのかな。義務も権利も意義もあるように思うが。

第58期王将戦七番勝負第四局。羽生善治王将が深浦康市王位に勝って二勝目、星を五分とする。大分県速見郡日出町別府湾ロイヤルホテルでの二日制の対局、ネット中継を折々眺める。本局は、後手の深浦が一手損角換わりを選択。双方が腰掛銀に構えたところで、深浦が駒組の優位を確保しようとしてか、3筋の歩を突き越す。見たことのない手で、好手かと思ったのだが、以後、二十手ばかり、難解で激しい中盤戦が続くなかで、深浦の劣勢がはっきりしてしまった。終盤の五十手は、大差のなかで羽生の攻めがゆっくりとどこまでも続いてゆく感じだった。この王将戦は、星は五分でも、個々の対局は一方的な展開になってばかりである。

きょうの一首。

 むなしさはどこから来るのか屈伸を繰り返しつつ日永に思ふ/荻原裕幸

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February 18, 2009

2009年2月18日(水)

雨水。午後、仕事の流れで外食になって、家人と、天白川沿いの、イタリア料理店と言うほどにはかしこまっていない、ピザとパスタの店に行く。ミネストローネ、九条葱と生ハムのピザ、スモークサーモンと菠薐草のパスタをたいらげて、デザートにパイナップルと苺、それに南瓜のプリンを食べる。あと、フレッシュジュースを何杯か飲んだ。少し食べ過ぎた。

 こやみなく降る霧雨にずぶ濡れの肩書という人生の傘/小高賢

第五歌集『本所両国』(二〇〇〇年)に収録された一首。「肩書という人生の傘」というフレーズに惹かれる。人生で、肩書なんて何の役にも立たない場面もあるし、肩書が楯になってくれる場面もあると思う。ただ、多くの時間は、そんな極端な場面にさらされることもないわけで、社会的な肩書とは、雨降りに気づく/重宝する傘のようなもの、ということなのだろう。むろん傘は万能ではないし、頼り過ぎると、小雨のなかでさえ、ずぶ濡れになってしまう可能性はある。具体的にどんな状況かはわからないが、霧雨のなか、傘をさして歩きながら、人生的な感慨にするするとひきこまれてゆく感じが、調べのなかから見えて来る。

きょうの一首。幼年時には泳いだこともある川をひさしぶりに眺めて。

 冬ではなく春らしくもない川岸を二月がとめどなく過ぎてゆく/荻原裕幸

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February 17, 2009

2009年2月17日(火)

ひさしぶりに寒い一日。冬に戻ったような寒さだった。中川昭一財務・金融相が、先日の、ろれつの回らない会見の責任をとって辞任したらしい。経済、景気の対策が第一、とは、麻生首相をはじめ、政治家たちが口を揃えて言うことなのだが、浮上して来るのは、違う種類の話題ばかりである。政治の最前線で、薬の飲み方が悪いのか泥酔だったのかが問われるのは、何かが違うという気がする。

午後、丸の内の愛知県産業貿易館へ。ねじまき句会の例会。参加者は七人。今回は題詠「河」と雑詠。明確な意図、思い切った表現、という句が多かったせいか、議論がよく噛みあったように感じた。句会後、コメダ珈琲店でしばらく歓談。帰宅時、西空に異様な明るさの星が出ていた。あまりの明るさに何となくたじろぐ。たぶん金星なのだと思うが、UFOとか何か、そういう別の光源ではないのかと疑いたくなるほどだった。きょうの句会に提出したのは以下の二句。

 中国から流れて来たと言う大河/荻原裕幸
 働いた分だけ梅が挿してある

きょうの一首。

 わたしには何の力もないけれどけふのカレーをおいしく食べる/荻原裕幸

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February 16, 2009

2009年2月16日(月)

朝はさほど寒くなかったが、午後もさほど暖かくはならなかった。気温のグラフがなだらかな稜線を見せている。きょうは一日ずっと家にこもりきり。このところ、しきりに、一九七〇年代のことを考える。不況をはじめ、諸々が崩れて、明日の何かをあてにはできないという感じが、現在とどこか似ていると思うからだ。あの頃は何を考えていたか、と、しきりに考える。

 何をしも求むならねど山に来て山のみどりの中にめつむる/来嶋靖生

第十歌集『梟』(角川書店)に収録された一首。「尾瀬」と題された一連の冒頭に置かれた歌。「何をしも求むならねど」は、虚飾的心情として述べると、逆に、実は別の何かを求めているのだと透けて見えてしまうことばだろう。ここに、別の何かは見えて来ない。山に登るという行為を、目的を持たない行為そのものとして純粋に捉える感覚が強く出ていると思う。来嶋さんにとっての「山」は、重要な主題であり、日常や日常を超えたものを含めて、すべてを映す鏡のようなものとして描かれる。第五歌集『峠』(一九九四年)には「とりとめなき履歴の中にかの山の隆起のごとき濃きみどりあり」という秀歌もある。来嶋さんの山の歌には、山に登らない自分にも、わかる、と思わせてくれる何かがあるようだ。

きょうの一首。

 あなたはいまもそこにゐるのか雪解のない絵葉書のなかの雪渓/荻原裕幸

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February 15, 2009

2009年2月15日(日)

家人が薔薇を買って来て玄関に挿した。色の違う三つの花が、香りもそれぞれに違うというので嗅いでみる。二つは似ていて、アールグレイの香料のような印象。もう一つは少し違っていて、樟脳みたい? と言ったら、軽く不興を買った。ラグビーの日本選手権大会の準々決勝、59対20でサントリーが早稲田大学を圧倒した。テレビの勝利監督インタビューで、母校に勝ってどこか照れているような清宮克幸監督の表情が印象的だった。夜、ひさしぶりに実家に顔を出す。

来嶋靖生さんの第十歌集『梟』(角川書店)を読んでいたら「見も知らぬ人のブログにわが歌の引かれ語らる不気味なる世や」という歌があった。内容からして、フィクションの可能性はあまり考えずに「体験談」として読んだ。この歌、そういうことが起きる理屈はわかるのだが、やはり違和感がある、という程度のことであれば、「不思議」となりそうだ。それを「不気味」だというのだから、よほどの違和感があったに違いない。歌の雰囲気からすると、来嶋さんが自身の名前をググってそのエントリを見つけたのだとは考えづらい。人伝に聞いてそれを知ったのだろう。作者に知られて、歌にこう書かれてしまったブログの筆者も、もしかすると「不気味なる世や」とか思っているかも知れない。などと勝手にあれこれ想像しながら、いずれにせよ、歌集の寄贈による限定された領域の外に読者が生じるというのは、とても素敵なことではないか、と思った。

きょうの一首。戯歌。「グーグル先生」をググると大勢いるのがわかる。トラブルがあると「ご乱心」とか書かれている。下句は凡河内躬恒から拝借した。

 グーグルに先生をつけて呼ぶひともゐて春の夜の闇はあやなし/荻原裕幸

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February 14, 2009

2009年2月14日(土)

バレンタインデー。きのう、名古屋でも春一番が吹いたそうだ。昨夜は嵐のような風雨だったが、あれが春一番なのか。きょうは一転して快晴となる。最高気温が十九度まで上がり、ぽかぽかという感じ。二月だというのに、全国各地で、晩春から初夏の陽気になったらしい。午後、事務的な用件で同朋大学へ。夕刻、家人と買い物、そのまま外で食事をする。帰りに、御器所のあたりのふつうの路上で、飼豚と散歩をする女性を見た。犬ではなく豚である。仰天した。

 水なりと突然椿のつぶやけり/宗田安正

第三句集『百塔』(二〇〇〇年)に収録された一句。「突然」という語感から椿の落花を連想すると、芭蕉の「落ざまに水こぼしけり花椿」とか、蕪村の「椿落ちてきのふの雨をこぼしけり」につながる世界が見えて来る。落花した椿から水がこぼれるところを、その音の感じを、「水なり」「つぶやけり」と捉えたのだろう。ただ、この物語の断片風な文体からは、どこかもう少し人格化された椿が見える気もする。むかしよくあった井戸の横の椿が、水を求めてやって来る人々に、現代風に言えば、水はこちらでございます、とか何とか、案内をする感じの姿が浮かばなくもない。常識的に考えれば、前者の解釈が妥当なのだろうが、後者の空耳的な解釈にも少し惹かれるところがある。

きょうの一首。

 觔斗雲ではない雲がどこからか来てありふれた春を報せる/荻原裕幸

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February 13, 2009

2009年2月13日(金)

春めいた感じで、爽やかに晴れたかと思ったら、午後には曇りはじめて、夕刻からは雨となる。近隣の白梅がけむりのように咲いていて、天気にあわせて少しずつ表情を変えてゆくのを、書斎の窓からときどき眺めていた。雨のなかを、堀田の某ホームセンターへ。天然水とか電卓とか割箸とかビニール袋とかその他、日用的なものをあれこれと買い揃える。

マンガかアニメで、たとえば、男子が、性愛にかかわる品のない冗談を言う。言われた女子が、男子の頬を平手打ちして、ばか! とか叫ぶ。少し誇張が入ると、後頭部のあたりに回し蹴りが入る。男子は血を流したり白目をむいたりする。さらに誇張されると、女子がどこからかいきなりマシンガンを持ち出す。男子はたちまち蜂の巣にされる。いずれもありふれた表現でしかないわけだが、これを短歌の文脈にのせて考えてみる。すっきり「実感」できるのは平手打ちだけだろう。回し蹴りになると「リアリティ」を厳しく問うことになる。そして、マシンガンともなれば、「リアル」な感じはあっても、あり得ない話だ。体験の可能性がなければ、あるいは、メタファにしなければ、人を蜂の巣にしたりすることはできない。「私」の他の行動も、何かと制限されている。短歌を空気のように包んでいる現在の「リアリズム」とは、つまりはそういう種類のものだと思う。

きょうの一首。結社誌「かりん」1月号、梅内美華子さんの「もちもちと蛸の白子を食みをれば竜宮にともる光差しくる」を読んで。苺狩。きのうは何の説明もなく書いたが、苺狩、というのは、一語借り、の語呂あわせである。ネットで、他作の一語を題とした即興作の応酬を、苺摘み、と呼ぶので、倣いつつ区別してみた。

 龍宮の春のまひるのひとときを読書してゐて死期に気づかず/荻原裕幸

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February 12, 2009

2009年2月12日(木)

午後、仕事で伏見まで出る。帰りに、以前から家人に頼まれていた、モンシュシュの堂島ロールを買おうと思って伏見店に行くと、ものすごい行列ができていた。列の最後尾を探しながら数えてみると、店の外にはみ出している人だけで五十一人。家人に電話を入れて、きょうは無理だと伝える。かわりに、栄の成城石井で、四種チーズのプレミアムチーズケーキというのを買って帰る。

 紐を引く電灯はもうここだけになって夜ごとに紐を引くなり/細溝洋子

第一歌集『コントラバス』(二〇〇八年)に収録された一首。照明器具のスタイルの変遷はおのずと生活空間に及んで、わが家の紐を引く式の電灯もついに一箇所だけになってしまった、という素朴な感慨である。素朴ではあるのだが、時代の流れを、抗うというほどではない自然な感じで受容してゆく一人の生活者の姿が、巧く浮かびあがっていると思う。少し大袈裟に言うと、紐を引く式の電灯の、世界で最後の一つを慈しんでいるような、ものすごく淋しい錯覚も生じる。四句目の「なって」あたりに見られる微妙な文脈の含み、前後の結びつきにあやを生じさせるほんのわずかな歪みが、たぶんそうした錯覚をもたらすのだろう。微細なものごとに、生きていることの確かな感触を見出すのは、この作者の求める短歌のかたちの一つであるようだ。静かな印象の作品ほどしっかりとした確かさを感じるのがおもしろい。他にも、同歌集から好みの歌を引用しておく。

 夕立の過ぎて明るし探査機のようなボールが水辺に浮いて/細溝洋子
 通るたび川面に石を投げたしと思う橋また投げずに通る
 こまごまと利点説明されしのち静かに待てる自転車を買う
 自転車が壊れて初めて気づくこと並木の一つが桐であること

きょうの一首。結社誌「未来」1月号、黒瀬珂瀾さんの「をさな児が口に受けたるあはゆきのすべては消ゆるブログエントリ」を読んで。苺狩。

 うつかりと弱音を綴るあたりから春泥つづくブログエントリ/荻原裕幸

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February 11, 2009

2009年2月11日(水)

建国記念の日。午後、小雨が降ったりやんだり。家人と歩いて買い物に。先日、某私立大学の入試問題に自作の短歌が出ていたと噂を聞く。第三歌集『あるまじろん』にある「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと生活すポポポポニアの王侯われは」だという。詳細はわからない。誰かがこれを引用した評論が出たのだろうか。事実ならば作者としては興味深い話だが、受験生にとってはある種の受難だったのかも。

第58期王将戦七番勝負第三局。前局に続き、深浦康市王位が羽生善治王将を圧倒して二勝一敗となる。栃木県大田原市黒羽向町ホテル花月での二日制の対局、ネット中継を折々眺める。後手の羽生はゴキゲン中飛車を選択。序盤から激しい動きのある一局となった。中盤、両者ともに狙いの見えづらい指手が続いたが、羽生が微妙に間違え続けたようで、どんどん窮屈な体勢に。どこか流れにまかせるように指していた深浦の優勢が次第に明らかとなる。最後は大差がついた感じ。二人の公式戦の対戦成績はこれで二十五勝二十五敗の五分になったのだが、数字以上に、羽生に強い深浦という印象がさらに深くなる。

きょうの一首。

 いつも一番大事なことに気づけない香水きつく匂ふ春にゐて/荻原裕幸

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February 10, 2009

2009年2月10日(火)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は六人。テキストは大塚英志『物語消滅論』(二〇〇四年)。メンバーの一人から、下の世代の東浩紀と比べて、この本の大塚英志の批評の位置をどう考えるか、と問われたのだが、比較以前の問題として、この本の文章になじめなくて閉口していた。同書は、スタッフに向けて直に声で語ったものを文章に編集するというスタイルをとったようで、見識の部分が噛み砕かれ過ぎていて、見識に到るプロセスが大幅に省略されている。どうやらそこに自分がなじめない原因があったらしい。

帰宅して、以前に読んだ大塚英志の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(二〇〇四年)を書棚から探して、『物語消滅論』と読み比べてみた。『「おたく」の精神史』については、再読ということもあるが、それにしても読みやすいものだと感じられた。『物語消滅論』に比べると、一つの見識に到るプロセスとして、時代的体験が詳述されていて、考えの遠近がはっきりと見えるからだろう。対面して語ることと見えない読者に向けて書くこととの違いが、この二冊の文体の違いにダイレクトに反映されていると思う。あらためて二冊とも読み直してみよう。

きょうの一首。

 ケータイがあるから生きてゐるといふ声うそだねといふ声に春/荻原裕幸

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February 09, 2009

2009年2月9日(月)

午後、同朋大学へ。学年末の試験もそろそろ終る時期で、キャンパスには、節目を迎える穏やかさが溢れていた。文章表現の講義の十五回目。今期の最終回。全体のまとめをしてから、レポートのかわりに現代短歌の読解をしてもらう。講義後、いつもの喫茶店で珈琲を飲みながら、今期は何か一つくらい記憶に残る話ができただろうかとぼんやり考える。

 両岸が離れていかぬために橋を架けると思う試験終わりて/永田紅

第一歌集『日輪』(二〇〇〇年)に収録された一首。歌集の配列から考えると、この試験は大学入試だと思われる。「終わりて」は、単に試験が終了したのではなく、合格後の時間から経緯を考えているということだろう。志望の動機や未来への展望も受験生のこころの風景であるが、一方で、受験の圧迫感から、動機も展望もどこかに飛んでしまう瞬間がたびたび生じる。そうした明暗こもごもの経緯を、両岸を離れさせないようにするための架橋、として捉えているようだ。晴れやかな感じがないところに、達成感とは違う類の終了感があって、この歌を印象深いものにしている。同歌集には、大学生活四年の終りの歌として「めくるめく日々構内の全自然はわれを含みて劇的であった」がある。前者には十代の終りらしい感じがあり、後者には二十代の前半らしい感じがあるのに、比較して読むと、前者の方がむしろ「大人」に見えるのが何とも不思議である。

きょうの一首。地下鉄で。

 何を拒むマスクだらうかきれながの眼とあざやかな眉を残して/荻原裕幸

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February 08, 2009

2009年2月8日(日)

午後、家人が義母と義姉と出かける。どこかのスパに行くというので、このところ肩こりもひどいし、一緒に行こうかなとも思ったが、女性三人とでは、入浴の時に仲間はずれになってつまらない。留守番。夕刻、近所の中華料理店でラーメンを食べながら、週刊少年ジャンプを読む。このラインアップのなかに今もいるわけだから、もしかして「こち亀」はものすごいものなのか? とか思う。

 「自分を偉く見せたい」という欲望をどうやって継続的に萎えさせておくか、そういうレッスンが必要な書き手はけっこう多い。/高原英理

高原英理さんのブログ「記憶測定」のエントリー「リリスよ眠れ」の一節。高原さんの発言は、気づきかけているのにきちんと認識できない何かを、しばしば明確なかたちにして教えてくれる。自分を偉く見せたい、をはじめとした、無意識の欲望に影響されることから逃れて書くのは、たしかに、「レッスン」的な、自覚的なプロセスなしには難しいと思われる。とりわけブログのような場では、少しでも気が緩むと陥穽にはまってしまう。実際はまっているだろう。自戒。

きょうの一首。

 春の闇のうちがはにしてわたくしのそとがはに在るあなたの躰/荻原裕幸

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February 07, 2009

2009年2月7日(土)

NTTドコモのテレビCMで、成海璃子に「池と沼の違いって何?」と訊かれた山崎努が「河童がいるかどうか」と答えるものがある。どうやら冗談で答えているという設定らしいが、まんざら悪い答じゃないような気もする。毎日目を楽しませてくれている物洗貝が、寒さにかなりやられたようで、五十匹の大集団だったのが、いまでは二十匹ばかりになっている。もう一か月もすれば寒さにやられるということもなくなるのだろうが、それまで元気でいてくれるかどうか。

 部屋の半分に陽が当たっている
 半分はあかるく半分は昏(くら)い
 私はいつのころからか境界線上にいて
 こころが躰の中で
 あかるい側に転がったり昏い側に転がったりする様子を
 いつも眺めてきた/加藤栄子

第二詩集『笑う椅子』(一九九五年)に収録された「夢の半分」の冒頭の六行。哀しいとか淋しいとか、こころの様態をダイレクトに語ることばはあるが、どれもデジタルなもので、選択肢にも限りがある。だから、こころを詳しく語ろうとするとき、人は日常や自然のなかへことばを探しに行く。『笑う椅子』の文体は、風景のなかで見つけたことばを、私へと回収して来るその感触がきもちいい。探しに行って見つけて折り返して来るプロセスが、「適切」だからなのだろうか、いずれも快く追体験をすることができる。

きょうの一首。

 家電の裏などにときどきどう見ても生物に見える曲線がある/荻原裕幸

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February 06, 2009

2009年2月6日(金)

昨夜、大して電力を使ってもいないのに急にブレーカーが落ちた。しかもどこからか嫌な焦げ臭さがただよって来る。家人と二人でくんくん鼻を鳴らしながら匂いの源を探しまわって、どうやら原因はガスファンヒーターの漏電だとわかった。分解掃除か修理をすれば復旧する可能性もあるとは思ったが、何となく怖いし、すでに十年以上使っているものなので、すっきり新調することにした。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草15首。題は「近」。いつものように添削的な批評を進める。受講者の側の意識はわからないが、自分の側は、長期間、共同製作を続けているという感覚がどこかにあって、完成度の高い作品に出会うと、自分が佳いものを書いたようにうれしく、未完成の要素を含む作品に出会うと、さてここは自分の出番だなとわくわくする。たぶんある種の中毒状態なのだろう。講座後、自分が講座で話したことを思い出しながらメモをとる。きょうは、タブーとかこつといった、一般論的なコメントがふだんよりも多かったようだ。

きょうの一首。講座で「近」の題の作例として見せた一首。

 恋に近いのだけど恋になりきらぬままにひかりの梅林をゆく/荻原裕幸

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February 05, 2009

2009年2月5日(木)

午前から午後にかけて、ファックスやメールで歌会の詠草や欠席の知らせがばらばらと届く。忙しい時期なのか、欠席の知らせが多かった。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は7人。題詠「渋」と自由詠各一首を提出。無記名のプリントでの選歌と合評を進める。今月も少人数だったので、丁寧に読むことはできたと思うが、一方で意見が多様化しないのが淋しくもあった。

 入試前日机のいたづら書きを消す「歓迎」も「がんばれ受験生」も消す/大松達知

第二歌集『スクールナイト』(二〇〇五年)に収録された一首。教員として入試会場の準備をするにあたり、机の落書きを消しているところなのだろう。落書きのなかに在校生から受験生へのメッセージが含まれているのに気づく。ただ、残すわけにもいかずにそれも消してしまう。メッセージが受験生に届くことはなかったわけだが、一人の教員の記憶には残った。淡々とした文体ながらも、消したことへのかすかな罪悪感のようなものが浮かんでいる。些細な出来事のなかに、教員の微妙な心理が巧く投影された歌だと思う。

きょうの一首。「渋」の題詠として歌会に提出した一首。

 思ひのほかカップに渋がのこるのを見てゐた不況の話に倦んで/荻原裕幸

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February 04, 2009

2009年2月4日(水)

立春。寒が明けた。もっとも、名古屋では、一週間ばかり、この時期らしからぬ温和な日が続いている。そのせいもあるのか、何日か前、近隣を歩いていると、沈丁花の匂いがした。え? と思って、あたりをきょろきょろしながら匂いを嗅ぎなおす。時期が少し早いような気がするし、どこに花があるかわからなかったが、まちがいなく沈丁花だった。しばらくその場に佇んで、春の匂いを楽しんでいた。

 前ゆく影の足よりのびてにんげん立てり/高橋みずほ

第四歌集『しろうるり』(二〇〇八年)に収録された一首。極端な字足らずで、七七七になっている。音を補って五七五七七にしようとすれば、たとえば「立春の前ゆく影の揺れながら足よりのびてにんげん立てり」などとして、正調にすることも容易なので、やむを得ず字足らずの調べになったのではなく、意図的に初句と三句を欠落させている、と考えるべきなのだろう。この一首が、恣意的なリズムだと批判したくなる手前のところで、きちんと成り立っているのは、補完によって状況の詳細が見えるよりも、見えない方がかえって、物としての「影」の質感がしっかりしたものになるからだと思われる。高橋みずほさんには、極端な字足らずの歌が多い。読むたびに躓く感覚をおぼえて、他の破調の文体のように慣れることができない。字足らずが生じる理由が一首毎に異なって見えるためだ。引用歌のように納得できる字足らずもあれば、自分にとって納得できない字足らずもあるのだが、いずれも、音数としての定型以外の何が短歌を規定してゆくのか、それを考えるきっかけとして、十分に楽しませてくれる作品になっている。

きょうの一首。

 すこしづつ硬さのちがふ闇がならぶ寒明の夜のコインパークに/荻原裕幸

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February 03, 2009

2009年2月3日(火)

節分。冬の終りの一日。午後、東別院の名古屋市女性会館で、東西句会の例会。岡山からの新しいメンバーを一人加えて、参加者は五人。題詠「大試験」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。無記名で互選と合評。「大試験」は、学期末の「小試験」に対して、学年末の進級や卒業にかかわる試験、とおぼえていて、季語と言ってももはや死語だとばかり思っていた。自分以外のメンバーが、あきらかに入学試験を想定した話をするので、驚いたり焦ったり。

句会に提出した五句は以下の通り。動詞的表現をもう少し抑えて、名詞的表現をもう少し強く機能させたいと思うのだが、なかなか自在に展開できない。短歌を書くときの文体と峻別できていないということだろうか。

 隠しごとふえゆくばかり冬の果て/荻原裕幸
 春のロビーの手足のながき魚の絵
 梅の花からありふれた音がする
 市バスにて市外までゆく春日和
 電線のやけによく鳴る大試験

きょうの一首。

 けふもやや日脚は伸びてうつすらと埃がつもる椅子の一つに/荻原裕幸

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February 02, 2009

2009年2月2日(月)

ひさしぶりに完全な徹夜となった。短い仮眠を数回とって眠気をごまかす。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の十四回目。きょうは、前回の俳句の続きで、切れ/切れ字についての話をする。それから短歌の話へと進んだ。教室には、日脚伸ぶ、ということばをしみじみ感じるような明るいひかりがさしていた。講義後、喫茶店でぼんやり新聞を読んでいると、ひゃくまんえんあたったとか何とか、隣りのテーブルの人が景気のいい話をするのが聞こえた。

青磁社ホームページの週刊時評で、松村由利子さんが、野樹かずみさんと河津聖恵さんの共著『christmas mountain わたしたちの路地』(澪標)に言及しているのを興味深く読んだ。短歌と現代詩とのコラボレーションという難物だが、この時評の執筆で、「外」に目を向ける姿勢をはっきり見せている松村さんのアンテナにうまくかかったのだろう。同書のおもしろさは、二人の作者が、それぞれのジャンルの歴史や内部に向かうような表現を抑えて、テーマを深めてゆくため、むしろテーマに「積極的にひきずりまわされている」ところから生じていると思う。岡井隆さんと佐々木幹郎さんの『天使の羅衣(ネグリジェ)』(一九八八年)以後、ときどき見かけるこの種のコラボは、読むとおもしろいのに語りにくい。そのせいか、語られることがあまりない。新しいゆえに避けられるだけではなく、隙がなさ過ぎる構成が多かったこともたぶん影響していよう。同書の「積極的にひきずりまわされている」感じは、短歌と現代詩とのコラボを、短歌からも現代詩からも見えやすい場所に、きちんと引き出せているのではないだろうか。

きょうの一首。

 言ひたいことが特にない日も日記書くやうに夕暮来て妻とゐる/荻原裕幸

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February 01, 2009

2009年2月1日(日)

二月となる。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。昨夜のグーグルは、やはりトラブルがあったようで、ネットがちょっとざわついて、ほどなく復旧して、静かになった。検索が目的ならば、他のエンジンで検索すれば済むことなのに、なぜか目的を逸れてグーグルを気にしてしまう。ネット上の出来事に対する自分の野次馬的な好奇心は、テレビ等のニュースで知る出来事に対する好奇心よりも、ご近所での出来事に対する好奇心に近い。われながらおかしな感覚だと思う。

 今回は詩のシの字も出てこなかったと思うが、詩と関係ないことなんてあるのだろうか。/安川奈緒

「現代詩手帖」2月号の連載「散文のように孤独に」の末尾の一文。ダイレクトに詩を扱わなかった自身の文章に対して、ひらきなおるようにこう記しながら、別のことに気づいている感じがある。何か一つのことに没頭すると、世界のすべてがその一つのことをめぐって再構成されてゆく。その一つのことに閉ざされてゆく。その一つのことと関係のないことが、どこかにあるはずなのに、それがどこにあるのかをはっきりと示すことができない。そして、人はそのことに困惑したり驚いたりする。詩人であること、の要件は、この種の困惑や驚きのなかにこそ見出されるべきなのかも知れない。詩人を歌人と言い換えても同じことだろう。

きょうの一首。

 ポケットを空にしたのにもう二月なのに歩けばまだ何か鳴る/荻原裕幸

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