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April 30, 2009

2009年4月30日(木)

晩春のあたたかさが戻った一日。昨深夜、書斎の窓に近いところで、朝が来たときのような鳥の声がした。こんな夜中に何だろうと思ってから、あれ? もう朝だったかなと思って、時計を見て、いまがいつなのかを確かめる。早朝、新型インフルエンザの、WHOの警戒レベルが、世界的大流行の一歩手前のレベルのフェーズ5になったというニュース。ただ脅えてもしかたないとは思うが、暢気にもしていられない。

短歌の推敲というのは、ある一首を、書き手の思考や感性の及ぶ範囲での、ベストのかたちにすることだが、ただ一首だけを眺めて推敲していてもベストのかたちは見つけにくい。一首の単位では問題ないと思っていたのに、五首とか十首とか数十首とか数百首の単位でならべてみたとき、違和感が生じて来ることがある。これは、連作における構成上の違和感とは別物である。ものすごく単純化した例で言えば、ある一首を、体言止めがベストだと判断したのに、自作の別の体言止めの歌と比べてどこか脆弱なので、違う選択をすべきかも知れない、というような。現代の歌集の、三百首前後という標準的な分量は、この種の「検証」をして、一首一首がその作者にとってのベストのかたちかどうかを見きわめるのに、作者にとっても読者にとっても、好都合な分量なのではないかと思われる。

きょうの一首。

 ご近所がどこまでなのかはともかくもあれはご近所の某画家夫婦/荻原裕幸

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April 29, 2009

2009年4月29日(水)

昭和の日。午後、何人かの友人と電話。ネットがあると間隔がどれほどなのかはっきりしなくなるのか、誰の声もひさしぶりに聞いた気がした。夜、家人と買い物に出た流れで、東別院の麺家喜多楽へ。さほど待ち時間は必要なかったが、つねに店外に数組の列ができていた。店の人に訊ねると、無化調の「今昔支那そば」がおすすめだという。その醤油味を食べる。家人は新メニューのつけ麺を。鶏と魚介のだしをあわせたさっぱりした味だったので、スープも残さずたいらげてしまった。

一昨日の朝日新聞の歌壇俳壇欄に、田中槐さんの短歌時評が掲載されていた。初回である今回は、「文藝」における穂村弘特集等を視野に、文学のなかでの短歌の位置づけを考えている。「短歌作品の背後に作者の「顔」が見えることをプラスの評価ととらえる傾向はあいかわらず大きい」という一文の感触が示すように、田中さんは、いわゆる私性の問題を、短歌のある種の「枷」だと捉えているらしい。短歌の「外」に出てしまわずにこの位置で語り続けるのは難しいことだが、同時にとても大切なことだと思う。短歌の現在のなかにどんな可能性を見出してゆくのか、今後とも注目したい時評である。

きょうの一首。

 藤棚の下にすごせばしばらくはわたしがわたしのなかに静まる/荻原裕幸

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April 28, 2009

2009年4月28日(火)

早朝、名古屋の春の、しかも終りとは思えないような冷え具合だった。どれだけ冷えると気がすむのだろうか、この四月は。最近、よく歩いているルートで、さしたる距離でもないはずなのに、某駅に向かって急ぐとき、すごくきついと感じるところがある。帰り道で疲労していたり、時間に追われての気分的なこともあってのきつさだとばかり思っていた。それが、先日、同じルートを歩いていて、実はそこがそれなりに急なのぼり坂だということに気づいて愕然とした。この道って、ほんとに前から坂道だった? と首を捻りながら苦笑する。

きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、野口あや子さんの第一歌集『くびすじの欠片』(短歌研究社)と大辻隆弘さんの短歌評論集『アララギの脊梁』(青磁社)。「東海」のというエリア的な制約がありながら、いつも結果的にふつうの詩歌句時評とレベル差のない本を扱うことができるのがうれしい。文芸誌「イリプス」第三号が届いた。この号には「ことばにならない何かのための五十首」と題して、短歌五十首を出稿している。二〇〇八年立夏から立冬までの「きょうの一首」を編集構成したもので、たぶん、自分のいまの表現上のこだわりのあれこれが、はっきり反映されていると思う。

きょうの一首。

 カーテンからも抽斗からもやすらかな月のひかりの漏れる寝室/荻原裕幸

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April 27, 2009

2009年4月27日(月)

きょうはまたよく冷えていた。がまんするのもよくないと思って、服も布団も少し早春の方向にもどす。月曜だが、すでにGWに入っている人もいるようだ。昨日、中澤系さんが亡くなったのを知る。オンラインでもオフラインでも活発に動いていた歌人だった。力もあって、いい意味での野心もあって、もう一歩さらに進んでユニークな活動をしてくれるだろうと思っていた頃、ぱたっと姿を見なくなった。重い病気だという噂を聞いた。その後、歌人としての復帰を望めないという誰かの判断があったのか、さいかち真さんの手によって歌集がまとめられたのが二〇〇四年。それからさらに五年が過ぎている。本人にとっても家族にとっても、永い時間だったのではないかと思う。ご冥福を。

 なんらかのものであることそのものであることここにあるということ/中澤系

第一歌集『uta 0001.txt』(二〇〇四年)に収録された一首。巻頭歌である「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」をはじめ、中澤さんの、非人称的な印象を与える、新鮮なスタイルの根源にあるのは、こうした抽象思考を散文体で短歌のかたちにしてゆく試行ではないかと思う。抽象思考をそのまま現実に重ねるときに生じる歪みのようなものとして、「快速電車」等の、どこかしら乱暴な感じのする魅力があるのだろう。ただ、個人的には、抽象であれ何であれ、思考のしっかり熟したところが見える、引用歌のような作品により強く惹かれる。同歌集から、他にも自分の好みを歌を引用しておく。

 雨、うすきテントを叩く外部とは徹底的に外部であった/中澤系
 数えたり語ったりしなければならないのだろうかこの空間を
 そうでありなおかつそうでしかないと思う、ここでは牛乳を飲む
 示されるものそうここに示されるものなんらかのかたちを持った
 スウィッチを消せばいい賛成するもしないもないよ回路を切れば

きょうの一首。

 段ボールをきつくたばねてはこびだすふけゆく春の残骸として/荻原裕幸

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April 26, 2009

2009年4月26日(日)

曇天。名古屋市長選挙の投票日。午後、某候補者の事務所だと名乗る電話がある。もう投票には行きましたかとか何とか、選挙違反のグレーゾーンのようなことを語りはじめるので、とりあえず穏やかに切る。結果は、河村たかし氏が他の候補者に大差をつけて当選したらしい。派手ではないけれど話題になりやすい人である。しばらくにぎやかになるのだろうか。

本日26日付の毎日新聞の歌壇俳壇欄に、新作の短歌五首「五月に向けて」が掲載された。ある時期以後、自作の短歌を読み直すたびに考えさせられるのは、一九九〇年代に、ニューウェーブと呼ばれた、広義でのアバンギャルドに類する方法を模索していた自分が、自己模倣や伝統回帰等、つまらないパターンに陥らず、どんな道を進むべきかということである。短歌を書かない友人知人にも読んでもらえる短歌、が、このところの自分が特に意識していることなのだが、果たしてそこに近づいているのかどうか、自分ではどうもよくわからないままである。

きょうの一首。むしろテイスティングの具体的な方法を描くべきか、そこは読者に想像して楽しんでもらえばいいのではないか、などと迷いながら。

 かなしみで零すなみだの味に似たなみだだがこれは違ふ気がする/荻原裕幸

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April 25, 2009

2009年4月25日(土)

雨。終日、かなり冷えた感じ。午前、家人が外出。義母と義姉とセントレアまで義父を送りに。留守番。しんとした家のなかで爪を切ると音がとてもよく響く。おもしろがって切っていたら深爪した。家人が空港で餡麩三喜羅を買って来てくれた。生麩とこし餡のとりあわせが絶妙で、あまくてさっぱりしていて、一度に何個でも食べられそうな気がする。

 歩道橋から地上に降りるゆうぐれの影ぎこちなく折れながらゆく/野樹かずみ

第一歌集『路程記』(二〇〇六年)に収録された一首。階段と折れる影のモチーフについては、読み飽きるほど読んだという人も多いだろう。自分もその一人だが、この歌は、劣化した観念として繰り返されている感じがなくて、たとえば「失楽の日々といはねど陽のなかの階くだるとき折るる吾が影/安永蕗子」のような、モチーフの決定版的な一首の隣りに並んでいても、別の一首として読める。たぶんそれは、折れる影が、隠喩や観念にならない体験的な事象として描かれているからだと思う。「ぎこちなく」が何かこの歌特有の感覚を掴ませてくれる。緊張感からか、疲労なのか、足を悪くしているのか、それとも酔っているのか、詳細はわからないが、歩道橋ののぼりではなくおりるときの一段一段の重さが、めちゃくちゃに疲労したある日の自分の感覚にぴったりと重なって来た。

きょうの一首。

 ネクタイをする日がしない日をかなり下回つたねと四月が笑ふ/荻原裕幸

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April 24, 2009

2009年4月24日(金)

少し冷えて肌寒い感じの一日だった。本日付の朝日新聞の名古屋本社版夕刊に、笹井宏之さんの紹介記事が掲載されていた。三月に東京で開催された笹井宏之さんを偲ぶ会の報告から、ネットやケータイやその他の活動スタイルのことまで、とても丁寧にまとめられている。変にしめっぽい情感のまざらない、あたたかな印象の文章で、読んでいて快かった。関連する人物として加藤治郎さんやぼくの名前が出る箇所で、やや不自然に「名古屋市在住」などとあって、ローカルなものだとわかるが、全国版に掲載されてもいいのではないかと思う記事だった。

先日、あれこれググっていたら、俳人の青柳飛さんのサイトに、現代短歌の英訳が掲載されているのを見つけた。翻訳としてどうか、英詩としてどうなのか、といった判断が自分にはできないが、英語で短歌を書くように訳されている印象があって、とてもきもちよく読むことができた。ちなみに、ぼくの短歌の翻訳も掲載されていて、何かどきどきしながら読んだ。翻訳されていたのは以下の三首。英訳はこちら。青柳さんの日本語のブログはこちら

 たはむれに美香と名づけし街路樹はガス工事ゆゑ殺されてゐた/荻原裕幸
 戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです
 虹をうしなひまた虹を得て曖昧にただみづいろの歳月である

きょうの一首。葱の花と言うよりもあれは絶対的に葱坊主という感じなのだが、どうしてもその呼び名が好きになれなくて、あくまで葱の花でつらぬいてみた。

 thisness を主張しながらたのしげにときどき揺れてゐる葱の花/荻原裕幸

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April 23, 2009

2009年4月23日(木)

朝、家人とコメダ珈琲店本店に行く。ひさしぶりにモーニングの時間帯のコメダに入る。混雑をきわめるわけでもなく、空いているわけでもなく、ほどほどににぎやかな感じ。某男性人気タレントが、酒に酔って公園で裸になって騒いでいたところを逮捕されたというニュースが入る。報道で事情のわかる範囲から考えると、事件の内容とはバランスがとれないほど大騒ぎされているようだ。超有名人だからだとしても、そこまでは言われなくても良さそうなことを言われている気がした。

奥村晃作さんがサイトを閉鎖するという。自身の活動から歌壇のことまで、主に日記のスタイルで、膨大な量の情報を発信して来たサイトだけに、残念であり、淋しくもある。短歌という一つのジャンルに限って見たとき、ネットには、それを見ることによって作歌活動を継続する刺激となるようなコンテンツがまだまだ少ない。奥村さんのサイトはその種のコンテンツを抱えたものだった。読者として感謝のきもちを表するとともに、これまでのデータが何らかのかたちで維持されることを望みたい。

きょうの一首。

 人大杉と立ち入ることを拒まれて桐咲く2ちゃんねるの某板/荻原裕幸

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April 22, 2009

2009年4月22日(水)

涼しいような、暑いような、よくわからない気候の一日。早朝、家人と、以前から気になっていた某喫茶店へ。珈琲にモーニングサービスの厚切トーストと茹卵が付いてそれで三百円。中高年層に人気のある店のようで、回転率も高くて、店にいたわずかの時間に何割かの客が入れかわっていた。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の三回目。きょうの題は「春深し」と「しやぼん玉」。7人出席で詠草14句。丁寧に進めたら、やはり少し延長になった。帰宅してから、きょうの題に即して二句。

 春深し何かがあたる土踏まず/荻原裕幸
 石鹸玉そこはまだ空ではなくて

第67期名人戦七番勝負第二局。郷田真隆九段が羽生善治名人に勝って一勝一敗とした。熊本城数寄屋丸二階御広間での二日制の対局。ネットの有料中継を二日目の終盤近くになってから見る。本局も相矢倉となる。先手の羽生が3七銀型、郷田が6四角型の布陣に。玉頭から仕掛けられた羽生が、9筋の中段に玉を据えるというユニークなかたちのまま指手が進んだ。終盤まで羽生が優勢に見えていたが、双方一分将棋になってから羽生にミスが出たようで、最後は郷田の玉が敵陣まで逃げ切って終局。このシリーズももつれそうだと予感させる一局となった。

きょうの一首。

 繃帯をしてやつて来るあしくびもあしくびをきずつけた五月も/荻原裕幸

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April 21, 2009

2009年4月21日(火)

雨。たしか先週も火曜は雨だった。午後、丸の内の愛知県産業貿易館へ。ねじまき句会の例会。何をするにももたついている日で、大幅な遅刻となってしまった。参加者は六人。今回は題詠「消」と雑詠。互選のあと、議論を進めながら、曇りの少ない意見が多いように感じていた。明快な意見ばかりだと嘘くさいし、難解な意見ばかりだと疲れるが、曇りの少ない意見が続くのはきもちがいい。きょうの句会に提出したのは以下の二句。

 消し忘れた庭の辛夷が咲いている/荻原裕幸
 木陰から急にわたしの顔がでる

穂村弘さんの新しいエッセイ集『整形前夜』(講談社)が届く。先に出た穂村さんと春日武彦さんとの対談集『人生問題集』(角川書店)も未読で、どちらから読もうかと悩んで交互にぱらぱらひらきながら、そのまま双方をかなり読んでしまった。ぱらぱら読みがある分量を超えると、一頁目からひらくのが少し難しくなる。しきりなおしてきちんと通し読みをしなければ。ちなみに、ふつうにはじめから通して読んでいるとき、急用が入って中断してしまうと、何かが汚れてしまった気がして、もう一度はじめから読み直さないと気が済まなくなることがある。最近、読み耽っているのを中断させられて、読み直しをしていてふたたび中断させられたのが、東直子さんの掌篇集『ゆずゆずり』(集英社)。最初の数篇の印象がものすごく濃くなっている。

きょうの一首。

 あのひとが鎖骨を見せてゐることのどこかまぶしく囀りのなか/荻原裕幸

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April 20, 2009

2009年4月20日(月)

穀雨。夏まであと半月となる。午後、某社の人から取材をうける。自宅の近くまで来てもらって話す。笹井宏之さんのことなど、あれこれと現時点での考えをまとめてみたのだが、昨日書いたように、時間が熟していないのを頻りに感じた。昨日、F1中国GPの決勝、録画して、ところどころ早送りしながら見る。天候不良でセーフティカーが入ったままスタート、9周目からレースが始まるという変則的な事態に。結果は、レッドブルの二人が1位2位を独占。もう何が起きても驚かないとか思っていたのだが、やはり少し驚いた。

小池正博さんと樋口由紀子さん共編の『セレクション柳論』(邑書林)が届いた。現代の川柳作家の川柳論十九篇で構成された共著である。重厚な論考もあり、さらっと読めるエッセイ風な文章もあり、現代の川柳がやっと自らを語りはじめた印象で、楽しく、わくわくしながら読み進めている。編者/著者の一人である樋口由紀子さんをはじめ、川柳作家の何人かとは、十年来、川柳作家の川柳論がとても少ないという話を何回もした。彼等が口を揃えて、何とかしたい、と不満を言うのに、どこか腰の重い感じや腰のひけた感じがあったので、失礼を承知で、川柳作家は川柳を語れない的な発言を繰り返して来た。それらを完全に撤回する日も近いと思う。

きょうの一首。

 フリージアなのにまどかな花なのにけふは私をふかぶかと刺す/荻原裕幸

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April 19, 2009

2009年4月19日(日)

春を忘れたような暑さも、しばらく落ち着いていたのだが、ふたたび夏日となる。短歌誌「レ・パピエ・シアン2」4月号で、笹井宏之さんの特集が組まれていた。力のこもった文章が揃っている。笹井さんの死後、何かに後押しされるように、人物や作品について、あちらこちらでさまざまに語られている。たぶんいまが語るべき時期なのだろう。ただ、自分には、笹井宏之は短歌史の「終り」に立っている、という印象があって、追悼の流れから離れて考えないと、何かが歪んでしまいそうな気がしている。もう少し時間が熟すのを待たせてもらおうと思う。

 桐の花咲きしずもれるしたに来てどうすればわれは宙に浮くのか/渡辺松男

昨日に続き、第一歌集『寒気氾濫』(一九九七年)に収録された一首。本気なのか冗談なのかよくわからない。読むたびに感覚が反転する。本気に思われるのは、思春期にさしかかる頃まで、自分もこれと似たことをしばしば考えていたためで、突拍子もないとは感じられないのだ。また、冗談に見えるのは、某教祖のような、トリックに類すると思われる空中浮遊が、世に広く知られているためだろう。判断のヒントになるはずの桐の花も、微妙な具合に据えられていて、正直、どう読んでいいのかはっきりしない。むしろ本気か冗談かがはっきりしないところが、この歌の魅力だと言うべきか。以下、同歌集から、他にも好みの歌を引用しておく。

 橋として身をなげだしているものへ秋分の日の雲の影過ぐ/渡辺松男
 背中のみ見せて先行く人があり容赦なくわれはその背中見る
 平原にぽつんぽつんとあることの泣きたいような男の乳首
 手と足と首がてんでんばらばらにうごきはじめて薄明に覚む
 靴下を脱ぐありふれた所作ながらありありと君の足裏あらわる
 はずかしさのまんなかにある耳の穴卯月はつかな風にふるえる

きょうの一首。

 セスナ機をもう何年も見たことがなくて色濃くアネモネ咲いて/荻原裕幸

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April 18, 2009

2009年4月18日(土)

少し前に、自転車を漕ぎながら文庫本を読んでいる人を見かけた。数日前には、新聞配達の途中に信号待ちをしながら少年マンガ誌を読んでいる人を見かけた。危険だとか仕事中に何をしているのだとかいう話は別にして、そこまでして読みたいと感じさせる何かが存在することに軽く感動した。夜、義父と義母と義姉夫婦と家人と六人で食事に出かける。和食系の店の座敷でしばらくのんびりと歓談した。

 家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる/渡辺松男

第一歌集『寒気氾濫』(一九九七年)に収録された一首。定位置に据えられたポットに象徴されるように、家あるいは家族の不動感は、同居する一人一人に、ときに深い安心を与えてくれるし、ときに烈しい嫌悪を生じさせもする。家の外での人間関係にうんざりすれば家の不動感が恋しくなり、家の外での新たな人間関係を求めれば家の不動感が疎ましくなるものだ。人間の勝手気侭な気分についてはともかく、そうした肯定的な感じと否定的な感じがこもごもにやって来る事情を踏まえた上での「家族ああ」なのだろう。動かせない家具等ではなくて、簡単に動かせるし実際に動かすこともあるポットという素材が、巧く活かされていると思う。

きょうの一首。

 ひとの名の終りの一字がどうしても思ひ出せずにゐる春の辻/荻原裕幸

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April 17, 2009

2009年4月17日(金)

午後、栄まで地下鉄で。女性の駅員の比率がにわかに増えたような感じ。気のせいだろうか、などと考えながら、スカイルの教室へ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草17首。題は「甘」。どうやら同じ形容詞系の題でも、この語を使うような展開を見つけるのは難しかったらしい。うまくまとめた歌が多かったものの、全体に詠草の雰囲気がふだんと違っていた。講座後、喫茶店でメモを少しまとめて、デパ地下で弁当を買って、帰宅。

 隠さなきゃいけないことを再確認しながら朝のバスに揺られる/田丸まひる

第一歌集『晴れのち神様』(二〇〇四年)に収録された一首。何を隠そうとしているのかがわからないし、誰に隠そうとしているのかもわからない。それに、朝のバスに揺られて、出かけて行くのか帰って来るのかもわからない。わからないことだらけなのに、この「再確認」をするときの、胃のあたりがしめつけられるような緊張感だけはひしひしと伝わって来る。秘密をつくるのは、言うまでもなく、ある種の背信行為だが、この「再確認」には、秘密をつくることによって、むしろ何かに誠実であろうとしているような、不思議なひたむきさが感じられる。たぶん「再」の一字がもたらす印象によるものだろう。

きょうの一首。講座で「甘」の題の作例として見せた一首。

 極彩色の駄菓子の甘さ目にしみて級友たちのその後を知らず/荻原裕幸

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April 16, 2009

2009年4月16日(木)

ちょっと睡眠不足。珈琲を飲んだり、仮眠をとったり、終日、睡魔をなだめすかしながら過ごす。少し前に、坂井修一さんが、短歌は睡眠不足ではつくれない、日本人の誰も彼もが睡眠不足のこの時代に、短歌をつくるというのは、贅沢な道楽と言えなくもない、というようなこと(うろ覚えにつき、記憶違いにはご容赦を)をコラムで書いていた。たしかに定型詩を書くとき、ことばの分量に反して、意外に広い思考の空きスペースが必要で、別のことに追われていたり、睡眠不足だったりすると、この空きスペースを確保するのが難しい。道楽かどうかはともかくも、贅沢な行為ではあるような気がする。

 憎しみの卵なら生める
 臆病な愛なら生まれてくる
 喜びも感謝も自信も不安も
 君の内部にひしめきあうもののひとつひとつであるから
 始まりも終わりもきっぱりと拒絶して
 君は
 無数の断片で成り立つものでありなさい/大西美千代

詩集『猫の体温』(一九九一年)に収録された「死あるいは」の末尾の部分。誰しも始まりはすでに過ぎていて、いつかは終りを迎えることになるわけだが、そうした直線的な時間を生きるものとしてだけ「私」がいるわけではない。人生とか性格とか体質とか世界観といった括りに組みこめるものは「私」の一部でしかなく、組みこめずに漏れてしまう無数の断片もまた「私」なのである。漏れてしまうものを慈しむような「無数の断片で成り立つものでありなさい」というフレーズは、他者に向けられたことばであると同時に、書き手自身にも向けられているのだろう。読んでいて深く強く励まされる感じがある。

きょうの一首。

 また来たのとか言ふやうに春昼を椅子のほのかなくぼみが笑ふ/荻原裕幸

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April 15, 2009

2009年4月15日(水)

雨は一日であがる。午前、父と母と家人とで鶴舞の名大病院へ。父の一方の眼の調子が悪いので、眼科でその症状について聞く。リスクのある手術はできれば避けて、経口薬で時間をかけて治すのが良いという。楽観はできないけれど悲観する必要もないという感じのようだが、担当の医師に、はっきりしたことは言えないとはっきり言われた。できればすっきり治ってほしい。病院の周辺の躑躅がとてもきれいに咲いていた。コメダ珈琲店でお茶をして帰宅。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の二回目。きょうの題は「四月」と「木蓮」。8人出席で詠草16句。丁寧に批評を進めていたら、しっかりと延長になってしまう。楽しみながら話しているので、ついつい時間を忘れるらしい。もう少しテンポ良く進めるべきだったか。講座後、八事のジャスコで買い物。ベンチで一服しながら、きょうの題に即して二句。一句は見たばかりの風景を、一句は思い出した風景を、それぞれ写してみた。

 ていねいに紙幣をたたむ人四月/荻原裕幸
 空に咲くもくれん空に折れて咲く

きょうの一首。さほど何を言っているわけでもない歌だが、語順を、とりわけひらがなの部分の語順をどうしたらいいのか、しばらく悩んでいた。

 本をひらくうごきのしろきゆびさきのしばらくのこる春の網膜/荻原裕幸

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April 14, 2009

2009年4月14日(火)

ひさしぶりの雨。少し涼しくなる。夜になって雷鳴を聞く。季節の流れにひとくぎりをつけるような天候の一日だった。萩原健之さんから、同人誌「パンチライン」3号を送ってもらう。三角みづ紀さんが監修する、ビジュアルと詩の同人誌。創刊号から読ませてもらっているのだが、ここに来て、ビジュアルと詩のシンクロ率や、雑然とした誌面のその雑然さによる表現が、格段にパワーアップした気がする。詩の現在に向かうとかそういう文学的な志向ではなくて、現在が詩に近づいてゆく感じになっているのがおもしろい。

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は五人。テキストは加藤典洋『文学地図』(二〇〇八年)。過剰なほどきまじめに綴られた一九八〇年代の文章から、自在感あふれる刊行年の文章まで、平成の二十年間の文芸を俯瞰するとともに、著者が同時代の作品を精神的に消化するプロセスを見せた一冊である。この会としてはかなり珍しく、細部に異論が出ることはあっても、テキスト全体に向けての否定的な意見がほとんど出なかった。地味という形容は失礼かも知れないが、誠実で地味な好著だと思う。

きょうの一首。

 煙のやうななにかがからだから抜けて残される私と雨の午後/荻原裕幸

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April 13, 2009

2009年4月13日(月)

街角で他人と視線があったとき、知人でないかぎり、興味をひかれたりあるいは驚いたりしても、表情を動かさないのが習慣になっている。なので、相手の視線がそれ以上にからんで来ることはまずなかった。ところが、最近ときどき、遠慮なくこちらを窺うように視線がからんで来ることががある。それがなぜかみんなアイポッド(かそれに類する何か)を使用中の人たちだと気づいた。もちろんアイポッドを使用中の人なら誰でもというわけではないが、意識が無防備に外に漏れているように見える人たちがいる。

 恋をするかわりにゆこう巣のなかにつばめが集めたものを覗きに/穂村弘

第二歌集『ドライ ドライ アイス』(一九九二年)に収録された一首。この「ゆこう」を、自分自身に向けたことばととるか、誰か相手に向けたことばととるかで、歌意は正反対になるわけだが、この場合はたぶん後者なのだと思う。恋をする、恋人同士らしいことをするかわりに、燕の巣を見にゆこうと誘う一人称の、世界音痴っぷりがほほえましい。誘われた相手が、何言ってるの、それが本当に恋をするってことなんじゃないの、とつっこむであろうことは容易に想像がつく。また、親燕が巣に何かを集めるという行為は、人間で言えば、結婚生活のようなものでもある。恋の向う側にある何かをめぐって、あかるくかげってゆく恋人たちの姿もそこに投影されていると読むべきか。

きょうの一首。

 皺のないネクタイをしてごみ袋さげて四月のあかつきをゆく/荻原裕幸

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April 12, 2009

2009年4月12日(日)

最近、外を歩いているとしばしば、風景のなかに「顔」が見える。とりわけ建物のなかにひそむ表情が見えることが多い。あの壁、笑っているとか、あの家、髭が濃いとか。見える人にはずっと見えているらしいが、自分の場合、少年期以来、もう何十年も見えたことがなかった。しかも、少年期にはどこか怖いような暗いような顔が見えたのだが、いまは、おかしな顔や明るい顔がほとんど。とても新鮮で、とても不思議な感じがする。

砂子屋書房のウェブに島田幸典さんが毎月連載している「辺辺記」に、視覚詩のことにからめて、第三歌集『あるまじろん』(一九九二年)の一首がとりあげられていた。加藤治郎さんの文章なども引用しながら、興味深いことまた難しいことが書かれている。核になる一節を自分なりに言い換えしてみると、戦後の短歌においては、社会や倫理に人としてどう向きあうかがいちばんに考えられたため、表現することばが、何を意味するかに重点が置かれて来た。しかし、ことばの別の側面、つまり、文字を見たり音声を聞いたりすることによる伝達が大切でなくなったわけではない。見たり聞いたりすることの大切さをあきらかにするには、短歌で何を書くかだけではなく、短歌をどのように書くかを考え直す必要があった。ニューウェーブとは、そのような話の流れのなかで評価されるべきものだろう。となるだろうか。

きょうの一首。

 さびしげにわあんと口をあく春の家にのみこまれてゆく家族/荻原裕幸

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April 11, 2009

2009年4月11日(土)

夏日が数日続いている。道端に烏の豌豆が咲いているのを見て、烏の豌豆の莢でつくる笛を、こどもの時分に、アルファベットの組みあわせのような名前で呼んでいたことを思い出した。しかし肝心のその名前が思い出せない。たしかBCGとかPCBとかCBCとか、イ段の長音の組みあわせだったような。何だったかな。と、ここまで書いて、いまやっと、そうだ、CB、シービーだったと思い出した。近所のこどもたちがそう呼んでいただけなのか、もう少し一般的な名前なのかはわからないが、たぶん莢笛の音が名前の由来なのだろう。

短歌がすっきりとまとまらないとき、とりあえずのかたちで自己検証して、それなりに自分の世界観を反映しているからいいだろう、といった判断をくだすと、十中八九失敗する。自己検証で標準点になる作品というのは、まず間違いなく、自分の過去の作品の劣化したコピーのようなものだからだ。自己検証したとき、予想もしなかったできばえだと感じられるか、あるいは、何かよくわからないが作品になっていると感じられるか、それ以外はすべて捨ててしまうのが望ましい。自分の作品の世界を更新してゆくためには、そういう意味で作品を捨てることが必要だと思う。むろん、これを本気で実行するには、かなりの困難をともなうわけだが。

きょうの一首。理想を言えば、きょうの一首も、大半を捨てるのが望ましいのかも知れない。成功率三割が一応の目標。

 誰でもないひとから私になつてゆくけだるき朝が来て花は葉に/荻原裕幸

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April 10, 2009

2009年4月10日(金)

天皇陛下と皇后陛下が金婚を迎えたそうだ。テレビで会見を流していた。特異な印象ではない、仲の良い夫婦という感じで、この五十年にしみじみとしながらも、どこかほのぼのとした空気があった。河出書房新社から「文藝」夏号が届く。穂村弘さんの特集が組まれている。サブタイトルは「青春ゾンビあるいは恋愛幽霊によるコトバ入門」。谷川俊太郎さんとの対談をはじめ、穂村さんらしい、楽しい感じがあふれている。著作ガイドなども、少し踏みこんだユニークなもので、穂村弘ファンは必携必読という感じのしあがりになっていた。小説家がエッセイの世界に深く踏みこむと、しばしば本業の小説が揺らいだりするものだが、穂村さんの場合、エッセイという中間的なジャンルに踏みこんだことが、むしろ短歌を支えているようにも思われる。

羽生善治名人に郷田真隆九段が挑戦する第67期名人戦七番勝負第一局。まず羽生が一勝をあげた。東京都文京区椿山荘での二日制の対局。ネットの有料中継を折々眺める。本局は相矢倉。先手の郷田が3筋から早々に仕掛けた後、双方が陣形を整えながら、有効なポイントを小刻みに稼ぐような感じで指手が進む。角交換をして角を敵陣に打ちこみあってからも、ずっと高踏的な展開が続いていて、優劣がさっぱりわからない。中継で解説する棋士たちの見解が二転三転するのを、むしろ納得しながら読んでいた。勝敗については、羽生名人が云々と言うよりも、データ的に不利な戦型を選んだり、序盤で過剰な長考に沈んだりした郷田九段が、目に見えない失点を重ねた結果という気がする。

きょうの一首。

 かげりをきはめたやうな明るい表情がむかしの春の写真に列ぶ/荻原裕幸

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April 09, 2009

2009年4月9日(木)

名古屋では夏日になったらしい。午後、外食のかわりに弁当を買って、家人と近所の公園で、葉の少し混ざりはじめた桜を見ながら食べる。時折風が吹いて、弁当のなかにひらひらと花びらが落ちて来た。家人のパソコンを新調したので、セットアップしたり、LANの配線を少し変えたり、新しいソフトをインストールしたり。ケーブルテレビの業者が、このネット回線はハブで分岐できます、と言っていたのに、実際にはルータが必要だったことが判明。大須までルータを買いにゆく。

 加齢臭まとひて昼をくだりゆくエレベーターのあかるき真闇/真中朋久

昨日に続き、第三歌集『重力』(青磁社)に収録された一首。エレベーターのなかにこもる他人の匂いを感じながら、自分の匂いは他人を不快にしていないだろうかと気になって、そう言えば、そろそろ加齢臭を気にすべき年齢になっているのかと気づいた場面だろうか。加齢臭は四十代からのものだそうだ。実際に老いたわけではないからこそ気にかかる、微妙な年齢の微妙な心のうごきを、「あかるき真闇」という修辞が巧く見せている。ものごとの表裏を同時に感じている「あかるき真闇」は、同歌集全体の空気を言いあらわしているようにも思われた。他にも少し、好みの歌を引用しておく。

 鶏頭の花とりどりのかたちにてあるものはふかくひとを拒みゐし/真中朋久
 坂のなかばに汗をぬぐひてゐしきみを渋滞のバスはみたび追ひ越す
 字を書いてゐるとは見えぬ腕のうごきと思ひゐしがメモにイラストがつく
 夕陽すこし雲よりもれていちにちの果てのあかるさがわたしをひらく
 板書うつす息子のノートなにゆゑか隣席の少女の文字がまじる

きょうの一首。まみれる、は、きれいなものに対しては用いないのだが、いまや日常語のレベルでも修辞的に用いられているようなので。

 弁当も食べる二人もはなびらにまみれはなびらごと食べてゐる/荻原裕幸

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April 08, 2009

2009年4月8日(水)

午後、八事の中京大学へ。キャンパスは、四月らしいのどかな雰囲気で、楽しげな表情があふれていた。しばらくベンチに坐って、学生の様子をぼんやり眺める。新入生もいるはずなのだが、二年生以上との見分けがつかない。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」。春期の講座がはじまった。今期の受講者は九人。男性四人、女性五人。初回のきょうは、受講生に自己紹介をしてもらったり、俳句の概論的な話をしたり。次回からは実作の添削的批評が中心になる。

 すこしづつかたちたがへてちちふさは左右にありぬしづくしてありぬ/真中朋久

第三歌集『重力』(青磁社)に収録された一首。読後、ずっと、説明のつかない奇妙な印象が残っている。これほどはっきり観察しているからには、その裸身を見ていても自身の行動が問題にならない相手なのだろうし、だとすればその裸身をはじめて見るわけでもないだろう。にもかかわらず、この「ありぬ」の繰り返しは、乳房がそこにそのようにあることの驚きを示唆しているように思われる。同じ一連に「死者が歳をとることがあるか成人した妹が夢にわれを打ちたり」という一首があって、この妹のことだと理解すれば、それなりに納得はできるのだが、わざわざ夢落ち的な解釈をするよりは、乳房の主を謎としたまま思惟をめぐらせた方が、一首を楽しめるのではないか。背景から独立するときに生じることばの熱のようなものが、この歌をより魅力的にしてくれる気がする。

きょうの一首。

 山といふより川に似てよくうごくあなたをつつむ春の曲線/荻原裕幸

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April 07, 2009

2009年4月7日(火)

春がぐんぐん深まってゆく感じ。午後、地下鉄で新瑞橋へ。所用を一件済ませてから堀田の瑞穂生涯学習センターまで歩く。ひざしがかなりきつい。すでに満開を過ぎたセンターの敷地内の桜は、折からの風にきれいな花吹雪を見せていた。きょうは東西句会の例会。題詠「菜の花」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。参加者は三人と少なかった。ただ、詠草は五人分出ていたので、いつもの通り、無記名で互選と合評をする。終了後もコメダ珈琲店でしばらく俳句の話に耽る。

句会に提出した五句は以下の通り。Nさんから、きちんと他人の真似をしないから巧くならないんだよというようなことを言われる。言われてなるほどと思う。短歌力を応用してそれっぽく五七五をまとめるのは、自分の俳句力を養うための何の足しにもならない。題詠の菜の花の句などは、そのつもりがなくても、短歌からことばを少し削っただけだという印象がある。

 くるぶしのかくもさびしき四月かな/荻原裕幸
 はるのみづ揺れるからだの内外に
 さくらちるときに音する音を見る
 これも墓かと裏にまはつて観る桜
 誰か手をふる菜の花の向かう岸

きょうの一首。菜の花の句を、自虐的な気分で、短歌にパラフレーズしてみた。

 顔も心も見えないのだが誰か手をふる菜の花の向かうの岸で/荻原裕幸

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April 06, 2009

2009年4月6日(月)

午後、家人と山崎川まで歩く。昨日に続き、花見にはちょうどいい感じの日和で、満開に近い桜を見ながら食べたり歩いたりする。混雑と言うほどでもないが、それでもかなりの数の人が来ていた。昨日、F1マレーシアGPの決勝、録画して、ところどころ早送りしながら見る。残り24周の状態で、大雨のために打ち切り、ブラウンGPのジェンソン・バトンが連勝した。規定の周回数未満で打ち切りとなったため、獲得ポイントは通常の半分。前回、フィニッシュ直前までセーフティカーに先導されてチェッカーを受けたのに続き、今回は赤旗中断中の打ち切り。すっきりしない幕切れが続いている。

 わらび餅濡れをり黄粉乾きをり/上田信治

俳句誌「里」4月号に掲載された一句。蕨餅が濡れているのだったら、蕨餅のまわりのきな粉も濡れているのではないか、と思ったが、しばらくして、まぶされて濡れたきな粉はすでに蕨餅の一部ということだろう、と了解した。皿か何かに盛られた蕨餅を見ながら、認識の小宇宙を楽しむ人の姿が浮かんで来る。壷中の天を見出したような感覚が快い。ちなみに、某歳時記をひらいてみると、蕨餅の項目に、水原秋桜子の署名で「近頃あまり見かけぬ鄙びた餅である」とか「市販のものはほとんど見かけぬようだ」とか書かれていた。「近頃」がいつのことかはともかく、蕨餅が「鄙」のもの/非東京的なものとして認知されているとは知らなかったので、ちょっと驚いた。

きょうの一首。

 花粉症ではないことも居心地がわるいでせうと訊かれて四月/荻原裕幸

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April 05, 2009

2009年4月5日(日)

清明。北朝鮮からテポドン2の改良型ミサイルが、日本の上空を通過するように発射されたらしい。日本に落下する心配がないとかで、迎撃しなかったようだが、通過以前の段階で、どうやって判断できたのだろうか。午後、家人が外出。留守番。絶好の花見日和だったが、混雑もあるだろうし、あす出かけることにした。日本のプロ野球が開幕、中日ドラゴンズは三連勝だという。スポーツ紙系のスコアシートしか見ていないが、出来過ぎといった感じか。

 泥のついた髪ですどうぞよかったら/樋口由紀子

川柳同人誌「MANO」第14号に掲載された「どうぞよかったら」の一句。たとえば、泥のついた服ですどうぞよかったら、とか、泥のついたパンですどうぞよかったら、ならば、ある種の悪意がそこに介在するのが見えるし、泥のついた髪ですがどうぞよかったら、ならば、やはり、泥のついた、はマイナスのイメージなのかと納得もできる。しかし、こうも淡々と記述されると、勧められている、泥のついた髪、にどんな価値があるのかが見えなくなる。それはたぶんこの一句のめざすところなのだろう。固定した価値が見えないということは、別のことばに置き換えがきかないということである。そして、別のことばに置き換えがきかないということは、隠喩や換喩として機能しないということである。つまり、泥のついた髪、は、その他の何物でもない、泥のついた髪、でしかなくなる。物としての質感がそのまま読者に伝わることになるわけだ。泥のついた髪、を勧める/勧められるという奇妙な体験が、どこにも出口の見つからない、ある種の不条理としての日常を浮かびあがらせている。川柳としては異色の樋口由紀子さんの作品だが、根本にあるのは、伝統的な、穿ち、なのだと思う。世相や人情を穿つのではなく、ことばのしくみそのものを穿って、現在的な川柳のありようを模索しているのだと言ってもいいのではないだろうか。

きょうの一首。

 乗ればすぐ飛翔しさうな絨毯が春になつてもまだ敷いてある/荻原裕幸

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April 04, 2009

2009年4月4日(土)

雨が降ったりやんだり。北朝鮮の長距離弾道ミサイルの件で、政府から誤った情報が発表される。マスメディアがニュースに流してしまって、それから訂正された。人騒がせな話ではあるが、これだけ過敏になった状況下では、そういうこともあるんだろうなあと思う。それにしても、ひしょーたい、とか、つーしょーがめられーだー、とか、ごほー、とか、音声を聞くだけではわかりにくい言い回しを、なぜこんなに多用するのだろうか。もう少し和語をつかえばいいのに。

無記名で投票をするスタイルの歌会や句会で、自分の作品にあまり票が入らないというのは、実に嫌なものである。だから、どうしても、票が入りやすそうな、その会の最大公約数的な価値観にひきずられて作品を書いてしまいやすい。他者の声に耳を傾けるという意味で、会の磁場に影響されるのは悪いことではないはずだが、最大公約数的、つまり、その場の誰からも否定されにくい、という発想は、作品をかなり小さなものにしてしまうだろう。せっかく他者の声に耳を傾けるのなら、そんな中途半端な意識をもたずに、満票をめざす、というのがいいのではないか。価値観の違う人も価値観を超えて票を入れざるを得ないような、何かをきわめた作品をめざすのが望ましい。ということを、先日、歌会が終ってから話していた。実現には困難をともなうわけだが、めざす方向としては悪くないと思う。

きょうの一首。

 菜の花がきれいですけどこの丘はおとなの事情で消滅します/荻原裕幸

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April 03, 2009

2009年4月3日(金)

テレビでパチンコ台のコマーシャルをよく見かける。自分がパチンコをしないものだから、あんなに次から次へと新しい台が出ると、攻略法をその数だけおぼえなくてはならないし、トータルで勝つ、というような理想のスタイルをめざしづらくて、逆におもしろくなくなってしまうのではないか、と思っていたのだが、某所で喫煙しているときに、周囲のパチンコ好きな人たちの話をそれとなく聞いていたところ、新しい台には損得を超えてこづかいを注ぎこみたくなるものらしい。パチンコにも、自分でやってみないとわからない感覚というのがあるようだ。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人、詠草16首。四月から二人、新しい受講者が入った。題は「淡」。意外に汎用性の高い題だったようで、そのまま、淡い、から、淡墨桜、まで、さまざまに活用されていて楽しめた。きょうも一例あったのだが、字足らずはやめましょう、という便宜的な話をよくする。むろん字足らずそのものが問題なわけではない。ただ、定型に一度ひきよせられてから離れてゆくのと、定型にひきよせられる前に離れたところに着地するのとでは、ことばの質感がまったく違って、後者は、どこか短歌になりきれていない感じが出るようだ。前者は、カルチャーの教室だけではなく、他の場所でもあまり見かけない。

きょうの一首。講座で「淡」の題の作例として見せた一首。字余りならいいというわけでもないのだが。

 誰か羽化したなごりのやうに公園の空壜に淡く日がさしてゐる/荻原裕幸

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April 02, 2009

2009年4月2日(木)

東桜歌会の例会の日。昨深夜から歌会関連のメールがばらばらと届きはじめる。詠草とか欠席の知らせとか近況報告とか。夕刻から栄の愛知芸術文化センターで歌会。参加者は10人。題詠「板」と自由詠各一首を提出。いつものように無記名のプリントでの選歌と合評を進める。いつものように一首の解釈でさまざまに意見が割れて熱くなったり、いつものように歌から微妙に逸れた話題で盛りあがったり、いつものように時間ぎりぎりまで終らなかったりしながら、例会は今回で130回を数えることになった。きょうは歌会後も有志で延々と短歌の話をする。帰り道、とてもきれいな半月が見えていた。

 しばらくひとり放っておいたら
 もう時間がないので帰る
 という あわてて
 冷蔵庫の中の缶づめのももを弁当箱に詰めて
 持って帰した

 それから
 十年がたつ
 弁当箱もそれっきり返ってこない/早矢仕典子

第二詩集『空、ノーシーズン』(二〇〇七年)に収録された「ももの缶づめ」の末尾の部分。この作品は、夢のなかにあらわれる死んだ父とのやりとりを描いたもの。生前の父との関係がそのまま見えたり、また夢特有の支離滅裂な感じがあったり、どこかユーモラスなのだが、父の側も娘の側も、互いに夢で逢わなければならない必要が薄らいで、それっきりになるこの末尾は、切ない。この種の、一息で読める、掌篇風の文体は、この作者の持ち味の一つである。

きょうの一首。「板」の題詠として歌会に提出した一首。

 篤い病のひろがるやうに黒板がホワイトボードに移りゆく春/荻原裕幸

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April 01, 2009

2009年4月1日(水)

万愚節。四月となる。午後、家人と山崎川へ。五分咲きかもう少し進んだ感じの桜を眺めながら、川べりでサンドイッチを食べる。坐って十分もしたら寒くなった。咲き具合も気候も見頃になるのはこの週末を過ぎてからのようだ。夜、今池の名古屋シネマテークへ。ひさしぶりに今池に来たら、通りの風景がところどころ変っていて軽く驚いた。福間健二監督の「岡山の娘」を観る。自分が知っている映画の手法と絡みあうところがほとんどなくて面喰らう。実験作品という感じでもない。「映像詩」ということで勝手に納得することにしたが、映画でありながら映画とは別の何かをめざしたような不思議な印象が残った。

 出生の盥より見し朧かな/齋藤愼爾

昨日に続き、句集『冬の智慧』(一九九二年)に収録された一句。三島由紀夫『仮面の告白』の冒頭を思い浮かべる、というのが、この句の正しい鑑賞法という気がするのだが、本歌取りだのパロディだのと言うつもりではなく、即興的な遊び心から生じた佳句、というほどの理解でいいかと思う。同句集には、あえて諸々の文芸の文脈のなかを泳いで見せているような、ほどほどに肩の力を抜いた感じがあって楽しい。他にも少し、好みの句を引用しておく。

 はじめから烟りでありし冬の蝶/齋藤愼爾
 歳月の継ぎ目は白し去年今年
 日向ぼこしていて人生に出遅れし
 裏山の奥に裏山夏休み

きょうの一首。

 もうあさに近い夜道を帰りゆくここは桜の根がよくうごく/荻原裕幸

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