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June 30, 2009

2009年6月30日(火)

きょうはねじまき句会の例会の日だったが、都合がつかなくて欠席する。「現代詩手帖」7月号の高柳克弘さんの俳句時評で、子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をめぐっての昨今の議論がとりあげられていた。少し前には芭蕉の「古池や」の句をめぐっての議論が出たばかりである。俳句のこうした現状、歴史の問題が現在の問題として語られる状況は、個人的にはとても楽しいことだと思う。となりの芝生だから青く見えているのだろうか。

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、渡辺和尾さんの第八句集『前略』(川柳みどり会)と橋本輝久さんの第三句集『殘心』(私家版)。前者については、第一生命のサラリーマン川柳のことや先に邑書林から刊行された『セレクション柳論』のことを踏まえながら、著者の現在の位置を確かめるように読んでみた。後者については、実景を描きながらその背後にひろがる幻想を見せる文体の、幻想の部分に、彼方で起きている世界的な事件を呼び寄せている、という視点から読んでみた。

きょうの一首。

 壁のなかにときどき誰かの気配あれど逢ふこともなく六月終る/荻原裕幸

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June 29, 2009

2009年6月29日(月)

名古屋では暑い日が続いている。ときどき天候が崩れて、そう言えば梅雨だったなと気づく。きのうきょうは数字的に真夏日から解放されたようだが、涼しいと言うほど涼しいわけでもない。この数日、咽喉が少し腫れていた。諸処でクーラーにあたっている影響か、あるいは風邪気味だったのかも知れないが、いつの間にか治まっていた。

 フランスの水がコップに梅雨の月/浦川聡子

昨日に続き、第二句集『水の宅急便』(二〇〇二年)に収録された一句。このフランスの水とは、具体的には、ペリエか、エビアンか、あるいはコントレックスか、そんなあたりだろうか。いずれにせよ、水源をフランスとする天然水を買って飲んでいるのだろう。俳句に固有名/商品名をそのまま入れるのも一つの方法だし、短歌ならばたぶんその方が生きた表現になりやすいとも思うのだが、この句では、フランスの水、としたゆえに、水としての質感がはっきり出て、梅雨の月とのとりあわせのおもしろさも生じていると思う。事情はそれなりに理解できていても、日本という水に満ちた国で、水を買って飲むという行為がやはりどこか妙で、しかもそれはフランスの水で、さらには水不足でもないはずの梅雨時なのだからなお妙な話である。また、この梅雨の月には、飲む人が見ている、と言うよりも、飲む人が見られている印象がある。イラスト風な、梅雨の月の呆れ顔が目に浮かぶようだ。

きょうの一首。ふだん買っているのは富士山麓が水源のものだが、ときどき他国のものも買っている。

 みづまみれの星のみづまみれの国で他国のみづを買ふみづの月/荻原裕幸

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June 28, 2009

2009年6月28日(日)

車検は略語であり、通称であるはずなのに、略さずに自動車検査と言うと、なんだか警察が怪しい車を一台一台調べているみたいで、どうもぴんと来ない。車税とか英検とかならば略しても略さなくてもよくわかる。ことばのこうした変な感触に気づくと、無意識のうちにメモをとりはじめてしまう。机上のメモが車検の文字でいっぱいになっていた。ともあれ、車検を済ませた。特に大きな問題はなかったようだが、タイヤが少し劣化していたらしいので、四本とも交換してもらった。

 引力の届いてゐたり夏の月/浦川聡子

第二句集『水の宅急便』(二〇〇二年)に収録された一句。月の引力からは潮の干満のことが連想されるが、その種の自然現象の知識から書かれた句という印象は薄い。真っ赤な夏の月を見ながら、個人の心身が影響をうけている感じを、硬質な、引力という語で把握してみせたのではないかと思う。私が、というばかりではなく、夏の夜の巷を行き交う人たちが、時折ものに憑かれたようにふるまうのを見たのだろうか。駅の周辺とかコンビニの前とか、さしたる目的もなさそうなのに、多くの人たちが群がっている光景は、言われてみると、月の引力、あの真っ赤な夏の月の引力が何らかの作用を及ぼしているに違いないと思われて来る。

きょうの一首。

 ゆうパック来て佐川来てクロネコ来てその勢ひか某勧誘が来る/荻原裕幸

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June 27, 2009

2009年6月27日(土)

午後、栄のマックストアへ。予約をとっておいたジーニアスバーで修理の相談をする。持ちこんでその場で修理の方針を決めて預けるのが最短の解決方法のようなので、そのまま入院させることにした。症状と使用環境から考えて、たぶん暑さ/熱さにやられたのではないかという話だった。パソコンも夏ばてするのか。スタッフが夏場の使用環境についてあれこれアドバイスをしてくれた。小犬の飼育について話を聞いているような気分だった。

第80期棋聖戦五番勝負第三局。木村一基八段が羽生善治棋聖に勝って二勝一敗とした。先日の名人戦第七局と同じく、愛知県豊田市岩倉町ホテルフォレスタでの対局。ネット中継がうまく見られる環境がなかったので、あとから棋譜を追う。本局は、木村が先手、羽生が後手で、定跡を踏襲した、本格的な相矢倉の進行となった。駒組で木村がやや有利に運び、それを帳消しにしようと羽生が攻勢に出る。それを木村が丁寧に受けて、攻勢に転じたあたりで羽生が投了。勝敗がすべてではあるが、双方が勝敗を超えて楽しんでいるようにも見えた一局だった。

きょうの一首。

 河骨を花の名前と知るまでの二十余年それからの二十余年/荻原裕幸

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June 26, 2009

2009年6月26日(金)

マイケル・ジャクソンさんが急死したそうだ。きょう、駅売のスポーツ紙の見出しを読んだ家人が、マイケルが死んだって書いてあるけど? と言う。病院に搬送されたのは間違いないようだけど、と答える。まず、病院に搬送されたというニュースがあって、そのために気の早い死亡説が流れているというニュースがあって、実はほんとに死亡したのだというニュースがあって、何がどうなっているのかしばらく理解不能だった。メディアはやがて急死という方向にまとまってゆく。享年五十歳。

パソコンが不調。メーカーのサポートデスクに電話を入れる。説明を聞きながらあれこれ作業をしてみたところ、どうも芳しい結果が得られない。状態的にも使用期間からしても、たぶん買い換えではなく修理ということになりそうなのだが、メーカーの通常の流れだと、手続きの日数などを含めて半月近くかかるはずなので、どうにか短日数で対応してもらう方法を相談する。とりあえず、家人の使っていた旧式に起きてもらって、当面の対応をすることにした。一世代以上前のパソコンにふだん通りの作業を求めると、嫌がっているのがものすごくよくわかる。身体の一部として考えると、限界に近い力仕事を嫌がる筋肉のようだが、意志の制御が及ばないという点では、食べ過ぎたときの胃袋に似ている気もする。

きょうの一首。現在は五枚が主流だという。三枚よりも風質がやわらかくなるのだとか。詩的なレトリックならともかく、風に硬軟があるとは知らなかった。

 扇風機の羽根の枚数いつからか五枚となる奇数枚は揺るがず/荻原裕幸

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June 25, 2009

2009年6月25日(木)

家人と二人で名古屋ではないところへ出かける。電車にしばらく揺られて、車窓の風景を楽しもうと思っていたのに、いつの間にか深い眠りに落ちていた。移動した時間や距離が感覚的にわからなくなる。駅を出ると、青葉若葉のひかりに映えて、空の広い、平らな空間がひろがっていた。大きな宮のある街で、にぎやかな場所という先入観があったのだが、意外なほど静かだった。馬とか鶏とか亀とか錦鯉とか鴉とか夏燕の姿を見る。蝉の声も聞こえた。身体が日常から解放されて、疲労がゆっくりと抜けてゆくようだった。

夕刻、歌枕としても有名な某河川に面した喫茶店に入る。屋外のテラスのような席に坐ると、川面と対岸の万緑がきれいに見える。燕が近くまで飛んで来てはまた川面の方へと往ったり来たりしている。時折川面に着水するようなしぐさを見せるのは、餌をとるためか、あるいは水浴びをしているのだろうか。珈琲を飲みながら、ぼんやりしていると、どこからか大きな音量で「夕焼け小焼け」のメロディが流れて来た。時報かあるいは鐘の代用だろうか。この曲の歌詞には少し怖いところがある。「からすといっしょにかえりましょ」というくだりで、鴉が一般的にどこに帰るのかを思うと、なんとなく怖くなるのだ。という話を家人にしたら、怖いと言って嫌がられた。

きょうの一首。

 夏至と梅雨とが奪ひあふ夕雲を炎えつきるまで眺めてそして/荻原裕幸

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June 24, 2009

2009年6月24日(水)

午後、中京大学へ。いよいよ暑くなって来て、キャンパスの男子学生は、ほぼ二人に一人が裸足にサンダルだった。ラフだとかだらしないといった印象ではなく、ふつうの履物として履いている感じ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の九回目。きょうの題は「蝸牛」と「冷房」。9人出席で詠草19句。あいかわらずの延長になる。帰宅して、きょうの題の二句。

 二匹ゐるときかたつむりよく動く/荻原裕幸
 内心が漏るクーラーの部屋に来て

第67期名人戦七番勝負第七局。羽生善治名人が郷田真隆九段に勝って名人のタイトルを防衛した。二連覇。通算で六期目となる。愛知県豊田市岩倉町ホテルフォレスタでの二日制の対局。ネット中継とそれからNHKのテレビ中継をところどころ眺める。本局も相矢倉の流れから逸れてゆく感じで、相居飛車の力将棋となる。中段に浮いた角の退路を自ら断つような文字通りの妙手が出て、早い段階で羽生の優勢が見える。そのまま郷田に流れが来ることはなかった。好不調で言えば、郷田九段に利のあるシリーズに見えたが、自分らしい無理のない将棋を指し続けたのが、羽生名人にこの結果をもたらしたように思われる。

きょうの一首。

 わたし以外の誰かであつた一日を終へて誰かの消える青梅雨/荻原裕幸

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June 23, 2009

2009年6月23日(火)

NHKのテレビ体操の番組で、いつの頃からか、三人の女性アシスタントの一人が椅子に坐って演技をするようになっていた。坐ったままでも体操ができるようにという配慮は、腰や脚や膝が悪い人とか、体力的に無理ができない人とか、デスクワークをしている途中の人とかに向けてのものなんだろうなと思っていたところ、最近では、三人のうちの二人が椅子に坐っているようだ。現在の日本の社会の意識がそこに反映されているということか。

 光る虫みることのなきこの街に曲がっても曲がっても道続きたり/江戸雪

第一歌集『百合オイル』(一九九七年)に収録された一首。「光る虫」とはたぶん螢のことなのだろう。詳細はわからないが、生まれ育った場所と現在いる場所との対比のなかに、もう戻れない場所に来たのだという、決意のような後悔のような微妙な感慨をにじませているようだ。暗くなっても光る虫はどこにもいない、と言うか、そもそも街は暗くならない。また、街には一本道を進んでゆく単純さやわかりやすさがない。直進することはできても、つねに左右に選択肢がひらかれていて、閉ざされているわけでもないのに、迷路のなかを移動している錯覚が生じる。四句目の字余りは、奥などどこにもないはずなのに、それでも奥が深いと感じさせる街路の感触を巧く見せていると思う。種田山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」を反転させたような世界だ。

きょうの一首。

 半生のほぼすべての朝を瑞穂区にめざめてけふはあぢさゐの朝/荻原裕幸 

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June 22, 2009

2009年6月22日(月)

ダイドーの飲料の自動販売機には、お金を入れると、こんにちは、とか、買ったあとに、釣銭をお忘れなく、とか、午後からもがんばって下さい、とか、状況に応じたメッセージが流れるものがある。喋る自販機は巷に数々あって、事務的なことしか言わないため、うるさく感じるものも多いのだが、ダイドーの自販機は、開発した人のこだわりに同調できるからか、不思議に好印象が残る。こういう機械がもっと増えたら楽しいのに。

 やんだ雨にも気がつかず差し続けている君の傘が空をさえぎる/藤森あゆ美

第一歌集『美しい水たち〜クラゲよ〜』(二〇〇一年)に収録された一首。二人で一つの傘のなかにいるとき、雨がやんでも気づかないことにしようと思うのは、恋愛の心理の基本のはずだが、ここでは「君」の気がつかなさに対する不満が噴き出しているようだ。いつまでもさしている「君の傘」から来る、過保護な感じ、相手に深く干渉する感じ、相手を束縛する感じ、型通りの行為という感じなどが一体化して、どこか疎ましく思われるのだろう。しかし、このような内的な独白は、それを具体的な声にはしないことを意味してもいる。はっきり伝えて関係を壊したくはないのだ。雨のときには傘を、晴れたときには青天を二人で、と願いながら、そのような境地にはたどりつけないのであろうという、もはや傘が云々の問題ではなくなっている問題に対するあきらめに似た不満が、傘の内部でしずかにくすぶっている。

きょうの一首。

 梅雨のつづく午後をあなたの傘といふ密室にゐて青天を待つ/荻原裕幸

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June 21, 2009

2009年6月21日(日)

夏至。父の日。きのうからリビングと寝室のクーラーが稼働している。気温が下がると、と言うか、湿気が少なくなるとこんなにも快適なのかと一年ぶりに実感する。午後、栄の愛知芸術文化センターへ。未来短歌会の有志が企画した、野口あや子さんの第一歌集『くびすじの欠片』(短歌研究社)の読書会に参加。参加者は25人。白熱した会となった。

読書会は、堀合昇平さんと森井マスミさんの詳細なレポートからはじまる。大辻隆弘さんが司会進行をつとめて、著者をのぞく全員から意見を訊くスタイルだった。著者の人柄によるものなのか、かなり優しい意見が多かったように思う。読書会とか批評会よりは出版記念会によく似た空気が流れていた。ただ、作品を読解することについては、参加者のほとんどが丁寧に意見を述べていて、いろいろ教えられるところが多かった。堀合さんのレポートでは、宮台真司や大澤真幸が提示した現代の論理的枠組のなかに、野口あや子の作品を置いてみるとどうなるか、といった、結論を求めるよりも論理を楽しんでいるような意見が出されて、一部に反撥を招きながら、参加者たちの意見の良質な呼水ともなった。森井さんのレポートでは、一首の細部から見えて来る文体の特徴の数々が指摘された。細部を読むと、たとえば、作品に頻出する一人称の不安定性も、一人称が不安定だからそのように書かれているのではなく、一人称の不安定性を含んだ作品の是非を読者に問いかけるように書かれているのだとはっきり見えて来るようだ。

読書会でも発言したことだが、野口あや子歌集『くびすじの欠片』については、何を言ったらいいのかよくわからないところがある。一首一首のクオリティは高いし、適度にむちゃをしているし、適度に落ち着いてもいる。才能も努力も兼ね備えた優秀な新人だと感じさせてくれる。この優等生的な状況に、いずれは読者もそして作者自身も飽き足りなくなる日が来るのかも知れないが、いまはただ、この稀有な新人と出会えたことを読者として素直によろこびたいと思う。以下、同歌集から自分の好きな歌を少し引用しておく。

 振り回すコーラ缶から向日葵が咲いて溢れてとまらない夏/野口あや子
 校庭を染める夕焼け とてつもなく不埒な声で君を呼びたい
 水たまりほど薄いわがちちふさにてのひらてのひらてのひら揺れる
 伸びきった母の下着がベランダに吊られおりたまにつらいと告げる
 口内炎かわされながらしてるキス 嫌だったずっとずっと嫌だった

きょうの一首。

 食べてゐるのか見せてゐるのか桜桃のひかりを一つ口にはこんで/荻原裕幸

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June 20, 2009

2009年6月20日(土)

午後、近隣を旋回するようなヘリコプターの音がずっと続いていた。マラソンの大会の類があるとも聞いていないし、以前にもあったひったくり事件への対応だろうかと家人と話していたところ、南山大学に爆発物を仕掛けたと脅迫電話が入って大騒ぎになっているというニュース。実際の爆発は起きていないようだが、夜になってからも街路で多くのパトカーを見かけた。

短歌同人誌「Es**」第17号が届いた。同誌は毎号誌名が微妙に変化する。今号の誌名は「Es白い炎」。この誌名の変化は、柔軟な発想、と言うよりは、硬派的なこだわりの印象が強い。伝統的でも守旧的でもないのだが、単なる新しさを好むわけでもないようだ。かなり異色の誌名だと言えようか。むろん異色なのは誌名ばかりではない。昨今あまり見かけなくなりつつある実験的な傾向をどこかに含む作品、そしてつねに何らかの他ジャンルを意識しながら書かれる短歌評論などが、毎号ぎっしりと掲載される。今号で注目したのは、たとえば、山田消児さんの評論「『私』に関する三つの小感」。現代の川柳、現代の絵画、そして現代の短歌(短歌の具体的な対象は野口あや子さんの作品)という三つの視点から、古くて新しい「私」の問題に踏みこんでいる。短歌では若い世代の同人誌がブームなどと言われているわけだが、同誌の展開なども併せて視野に入れながら状況を考察する必要がありそうだ。

きょうの一首。

 ゆふかげの濃さ滲ませてこの坂はときどき深い表情をする/荻原裕幸

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June 19, 2009

2009年6月19日(金)

午後、栄へ。朝からどたばたしていて朝食をとりそこねたままだったので、とりあえずコメダ珈琲店に寄る。サンドイッチを珈琲で胃に流しこんで、例歌を一首書きあげてからスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者13人、詠草13首。題は「暗」。この題は、そんなことを言ったら叱られそうな気もするが、桜桃忌のイメージから決めた。かげりのあることばはやはり使いやすいようで、詠草には佳作がしっかり揃っていた。

第80期棋聖戦五番勝負第二局。木村一基八段が羽生善治棋聖に勝って一勝一敗とした。兵庫県洲本市古茂江海岸ホテルニューアワジでの対局。ネット中継をところどころ見る。本局は、後手の木村が一手損角換わりを選択。四十手近くまでは実戦例のある手順で進む。局後の検討で、羽生の中盤での消極的な指手がまずかったという話に落ち着いたようだが、木村が、偏りのない、攻守にバランスのとれた指手を続けたところに、おのずと白星が降りて来た印象だった。木村八段はこれがタイトル戦ではじめての勝利。本人も周囲も将棋ファンもなんとなくほっとしたのではないだろうか。

きょうの一首。講座で「暗」の題の作例として見せた一首。

 明るさのなかを暗さがおもむろに熟れながら紫陽花の咲く家/荻原裕幸

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June 18, 2009

2009年6月18日(木)

午後、業者に依託してあった父の日の贈りものが実家に届いたらしい。その件で父から電話が入る。近所の公設市場に弁当を買いに出ようとしていたら、晴れたままの空に雷鳴がひびく。雨の気配はなかったのだが、外に出ると、急に大粒の雨が落ちはじめたので、傘を取りに引き返す。雨はすぐにやむ。公園の前でとてもきれいな蜥蜴を見た。帰宅してしばらくすると本格的な大雨。

 あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼/佐藤佐太郎

第五歌集『帰潮』(一九五二年)に収録された一首。「藍」には「あゐ」のルビ。修辞的表現の極まったところに完璧な無為があらわれた奇跡のような歌だ。紫陽花の秀歌はむろん数えきれないほどあるが、それでも、紫陽花の歌と言えばこの一首に尽きる、と言いたくなる。リアリズムの観点からも、象徴表現の観点からも、また昭和二十二年という背景から読んでも、この作品の時空の奥深くに吸いこまれてゆく感覚が生じる。誰が作者なのかということをときどきほんとに忘れてしまいそうになる。そういう類の名歌だと思う。

きょうの一首。或る人のことを思い出して。

 ただの歓談だつたはずだがわかれぎはつよく握手をして夏の駅/荻原裕幸

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June 17, 2009

2009年6月17日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の八回目。きょうの題は「父の日」と「枇杷」。9人出席で詠草19句。父の日はかなりの難題かと思っていたのだが、人物像をしっかり観察してまとめた佳句が揃う。枇杷も時期がぴったりだったせいか、自在にまとめられた句が揃った。終了後、一人で遅い昼食。珈琲を飲みながら、きょうの題に即して二句。

 父の日のうつすらながき母の眉/荻原裕幸
 種抜いて枇杷の伽藍をひとくちに

俳句誌「船団」第81号に「俳人たちの朝食」という特集が組まれていた。メンバーが二〇〇九年二月二十三日の朝食メニューを公開して、一句を添えている。おもしろかったので、真似をしてみる。自分の場合、二月二十三日も六月十七日も、これと言う違いはない。まず、トーストして、マヨネーズを塗り、スライスしたハムとチーズをのせた6枚切りのパンを1枚。ボイルした人参と薩摩芋を少々。ヨーグルト125グラム。冷たい牛乳300ミリリットル。林檎1/2個。バナナ1本。それと食後に珈琲を1杯。一句のかわりに一首を添えておく。

きょうの一首。

 バナナの黄つよく彎がるを剥きながら夢と朝とのあひだに憩ふ/荻原裕幸

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June 16, 2009

2009年6月16日(火)

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は六人。テキストは小高賢『転形期と批評・現代短歌の挑戦』(二〇〇三年)。初読のとき、一九九〇年代前半に書かれたライトヴァース論やニューウェーブ論など、ジャンルの「転形期」の分析で、オーソドックスな自身の思考による理解の限界を、そのまま同時代の短歌の輪郭として打ち出してゆくようなスタイルが興味深かった。ただ、今回あらためて読み直してみると、そのように、結社や歌壇の内部に向けてもわかりやすく書こうとしているところに、どこかロジックの歪みが生じているのではないかとも思われた。終了後、早々に帰宅する。夜になって雷鳴と驟雨。

第67期名人戦七番勝負第六局。羽生善治名人が郷田真隆九段に勝って三勝三敗とした。京都市下京区東本願寺渉成園での二日制の対局。ネット中継を折々眺める。本局は後手の郷田が相矢倉の流れから陽動振り飛車に。羽生はそのまま矢倉に組んで対抗する。力戦模様となるなかで、中盤から羽生の優勢が見えて、しかし最後まで微差のまま指手が進んだ。勝因敗因を特定できるようなシンプルな将棋ではなかったが、あえて言うなら、らしい感じのない陽動振り飛車を選択した時点で、郷田がわざわざハンディを負ったような気がしないでもない。名人位奪取の可能性のある対局で、なぜこの選択だったのだろうか。郷田の棋風から考えて、まったく理解できなかった。

きょうの一首。

 雷鳴にこゑのみだれるキッチンの妻をはるかなものと眺めて/荻原裕幸

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June 15, 2009

2009年6月15日(月)

岸上大作に関連する本を読んでいたら、樺美智子氏の名前が何回か出て来て、そう言えば、きょうは六月十五日だったなと気づく。六〇年安保は、自分が生まれる前の出来事なので、もちろん何の記憶もないわけだが、少年期には、その名前がある種の聖者の名前として、懐かしいようなもの悲しいような文脈のなかで語られるのをときどき聞いて来た。

 六月の雨はとりわけせつなきを粗大ゴミなるテレビも濡らし/藤原龍一郎

第二歌集『東京哀傷歌』(一九九二年)に収録された一首。この一首を独立して読んだとき、一九六〇年六月を、岸上大作や樺美智子の名前を、どれだけの人が思い浮かべるのかはわからないが、少なくとも藤原龍一郎が「六月の雨」か「六月」ということばを使う場合は、つねに六〇年安保のことが意識されているようだ。この歌集の配列からも、他の歌集の作品を参照しても、きちんとわかるようになっている。「とりわけせつなき」というフレーズは、そのこと抜きには理解できない感覚だろう。藤原さんの同系列の歌のなかで、自分はこの一首がいちばん好きだ。読んでどこか力の抜けるような下句は、その力の抜け具合によって、かの六月を想い続けることの空虚な感じを示唆してもいるようだが、だからこそ逆に執着の強さがにじみ出ているとも言えようか。

きょうの一首。

 六月の雨と言ふときたぶんちがふ雨を見てゐるひとみのふたり/荻原裕幸

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June 14, 2009

2009年6月14日(日)

空梅雨気味の日々。朝夕の明るさや日の高さがよくわかる。たとえば、午前七時の空を見ていると、すでに正午が近づいているような錯覚が生じるほどだ。昼の長さを楽しみながら、ものすごく得をしている気分になったり、でもその分だけどこかで損をしているのではないかとも思ったり、奇妙な感覚を味わう。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。

テレビのバラエティ番組に、川柳や俳句のコーナーがときどきあって、視聴者の投稿やタレントの書いた作品が紹介される。家人と見ていて、これってどうなの? と訊かれることがある。これはだめかな、これはいいと思う、とか感想を言うと、具体的にどこがどうなのかと訊かれるので、細かく意見を言うことになる。具体例を出すのが憚られるので、抽象的な言い方になってしまうが、ふだん句を書いたことのあまりなさそうな人の句で、自分がこれはだめだと感じるとき、そのほとんどの句は、手垢のついたような表現でそれっぽくまとめてあるものだ。手垢のついたような表現が出るのも、それっぽくまとめるのも、必ずしも悪いことではないと思うのだが、この二つを揃えてしまうと、その人が書いた作品だというしるしのようなものがどこにも見つけられなくなるからだろうか。

きょうの一首。

 芍薬のやうなあなたといふやうなことを言はうとしてゐて吃る/荻原裕幸

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June 13, 2009

2009年6月13日(土)

早朝、家人と喫茶店に行く。土曜の朝のそれなりにせわしくてしかしどこかのんびりとした空気を感じながら、モーニングの厚切トーストと茹卵を食べる。一昨日、新型のインフルエンザについて、WHOが、警戒レベルをフェーズ6にすると宣言したらしい。世界的大流行を意味するのだという。梅雨入りして真夏に向かう環境のなかではぴんと来ないが、数年は終息しないという説もあるそうだ。

 すれちがひざまに天才バカボンのパパかもしれない岡井隆は/喜多昭夫

昨日に続き、第一歌集『青夕焼』(一九八九年)に収録された一首。岡井隆さんの容貌を戯画的にデフォルメすると、たしかにどこかバカボンのパパに似ているような気がして、その意味で笑って読んでいるうちに、もしかしてこれって、岡井隆の放浪者気質のようなものを、フランス語等のバガボンとバカボンでひっかけて表現しているのではないかと閃いた。当時それを文章にも書いたことがあるのだが、深読みのし過ぎだと周囲から批判的に言われたのが悔しくてしかたなかった。ただの挨拶歌あるいは戯歌的なものとして読むよりはその方がおもしろいと思うし、作者がそこまで意図したかどうかはともかくも、現在でも、モチーフから考えて、批判されるほど恣意的な読解ではないと考えている。

きょうの一首。

 雲の向うに青空があるといふ慰撫は嫌ひなのだが雲を見てゐる/荻原裕幸

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June 12, 2009

2009年6月12日(金)

鳩山邦夫総務相が辞任したというニュース。鳩山氏は、なるほどと感じるときも疑問を感じるときも、ともかくよくわかることばで話をする人だなと思う。たとえば麻生太郎首相と比較してみると、顕著にその傾向が見える。政治家としてどちらのタイプが望ましいのかはわかりかねるが、組織的な何かに深く帰属するかどうかが、こうしたことばの感触の差異を生んでいるような気がする。

 どしや降りの業平忌にて旺文社模試の成績順位を思ふ/喜多昭夫

第一歌集『青夕焼』(一九八九年)に収録された一首。在原業平忌は五月二十八日だという。短歌におけるこの類の忌日の使用は、つねにどこかで塚本邦雄を連想させるものだが、模擬試験には、あるいは伊勢物語が出題されたのだろうかと、自然な感じで受容できるようにまとめられているのが巧いと思う。五月から六月にかけての五月雨的な天候、在原業平のかきつばたの歌、旺文社模試という固有名、模試の成績に一喜一憂する受験生の心情、それらが渾然一体となって、一九八〇年代の、十代後半のつかみどころのない或る感覚を見せている。ちなみに、この一首は「大作の花」と題された岸上大作をモチーフにした連作のなかに置かれている。当時から見て三十年ほど前の学生の感覚とのギャップをどこか楽しんでいるようで、当時は少しふざけて書いたのかとも感じられた記憶があるのだが、そこからさらに二十年を経て読みなおしてみると、どの部分がふざけたものに感じられたのか、よくわからなくなっていた。

きょうの一首。

 空のかたちが窓のかたちであるやうな変哲もない午後が続いて/荻原裕幸

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June 11, 2009

2009年6月11日(木)

雨は一日であがる。午後、家人と所用で出かける。食事のタイミングだったので定食屋で食事。食後、支払いをすると釣銭を五十円多く渡される。五十円多いですよと返す。店を出てからふたたび声をかけられて、今度は、やっぱり百円多くもらいすぎてましたと言われる。ごはんを大盛りでもらったのでその分の百円ですよとなぜかこちらが説明して納得してもらった。

 ドロップ缶振れば鳴き出す蜩よ/須藤徹

第三句集『荒野抄』(二〇〇五年)に収録された一句。季語は蜩、だから句における現在は初秋、ということになるのだろう。ただ、この句には、現在がいつなのかをあまり意識していないところで書かれた印象がある。缶を振ってみると残りのドロップがなかで暴れ回る音がする、それに呼応するように蜩が鳴きはじめた、缶ドロップと蜩とのとりあわせにえも言われぬ快いノスタルジアを感じた、とすれば、読解としては一応それでいいのではないかと思うが、振れば、という条件づけは、意外に強く作用しているようで、物理的な蜩の声が缶を振った人の耳に届いているのではない場面もあわせて想像してみたくなる。ドロップ缶を音たてて振ると、いまがどの季節なのかにかかわらず、記憶と連動した初秋の印象がやって来て、どこからか幻の蜩の声が聞こえる、という読解の可能性も放棄したくない。

きょうの一首。先月まとめて、一度は没にしたのだが、少し気が変ってメモから拾い出してみた。

 残念ながらと報せるはがき緑蔭に破ればあしたのためにその一/荻原裕幸

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June 10, 2009

2009年6月10日(水)

雨。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の七回目。きょうの題は「梅雨」と「六月」。9人出席で詠草19句。ちょうどきのう梅雨入りしたところなので、話をしやすかった。いつものように延長となる。講座後、時計店で腕時計のベルトを新調する。劣化があらわになったまま一か月近く使っていて、家人に叱られていた。帰宅して、きょうの題に即して二句。

 貪欲な声音のなかを梅雨はじまる/荻原裕幸
 六月の匂ひ気が済むまで嗅いで

短歌の定型をまったく崩さずに正調で作品が書かれるとき、現在では、文字通り定型的な調べとなってしまって、読んで退屈感が生じることも多い。破調が常態化しているのは、定型的なものや慣習や制度から逸脱してゆくところに、詩歌のことばがちからを得るきっかけがひそんでいるからだと思う。逸脱をめざすならば、自由なスタイルで書けばいいとも言えそうだが、逸脱感が生じるのは、起点となる定型が強く意識されているのがわかるとき、という矛盾にも似た状況がある。非定型的な作品を書こうとするほど定型意識が強くなるというのは、あざやかな家出を敢行するために、慣習や制度で雁字搦めになった家を求めているような奇妙さだが、事実それに近いものを感じないでもない。

きょうの一首。あえて正調的に。

 六月はうつろなものでできてゐてうつろな音をたてて過ぎゆく/荻原裕幸

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June 09, 2009

2009年6月9日(火)

名古屋は梅雨に入る。ただ、天候は雨ではなくて曇り。午後、近所の公設市場まで弁当を買いにゆく。きょうのおまけはポテトサラダ。羽生善治棋聖と木村一基八段との第80期棋聖戦五番勝負第一局。羽生棋聖がまず勝つ。新潟市岩室温泉高島屋での対局。ネット中継を少し見る。本局は、羽生が後手をもっての急戦矢倉。先の竜王戦での借りをこちらで返すかたちになる。木村は意外に積極的な攻めを見せて、これはと思う流れになりかけたのだが、最後はひたすら粘るだけの展開になった。

日常的に接する日本語には、決まりきった言い回しの反復のなかに、ところどころ違和感につながるような言い回しが置かれていて、しかし、決まりきった言い回しの流れが、違和感につながる言い回しを置き去りにしたり、あるいはいつの間にか回収したりして、全体をなめらかな大きな流れにしているイメージがある。歴史的に培われた表現が死んだり蘇ったり、新しい表現や流行の表現が一般化したり、その他にもさまざまな変化を生じながら、個人の力ではどうにもならないものとして、日本語は日常を流れている。現代の文芸における様式というのは、この流れとの関係を構築しながら、同時にこの流れとの関係を断つための契機だと言っていいだろう。様式は、日常でそんなことを言うわけがない、そんなことが起きるわけがない、あるいは、何が何だかわけがわからない、という感覚を超えて、日常とは違う流れのなかに日本語を解放する。様式以外がどう変化しても、それを変化の範囲にとどめて、ジャンルが生き延びてゆく理由は、そこにあるように思われる。ただ、様式の放棄が変化の一形態としてあらわれたとき、そのジャンルは、文芸として成立する契機を失う最終の段階にいる、ということになるような気がする。

きょうの一首。

 雨のないまま梅雨は来て最優先事項がなにかわからなくなる/荻原裕幸

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June 08, 2009

2009年6月8日(月)

早朝、可燃ごみと資源ごみの袋を抱えて、マンションのごみ置場に。大家さんの機嫌が悪くなりませんようにと思いながら、きれいにならべていたところ、背後からいきなり、おはようございます、と声をかけられる。大家さんである。ぼくがごみ袋をならべるところを見ていたらしく、機嫌の良さそうな声と表情だった。こちらも、おはようございます、と返す。変に緊張した声が出た。

 ゆれやまぬみどりの枝の挑発をかはしつつゆくややうつむいて/合田千鶴

第一歌集『The Morning After』(二〇〇二年)に収録された一首。ひざしを四方八方に散らしながら揺れる樹々の緑を、挑発、だと感じとっているところに一首の核がある。他者の挑発を躱すのは、生きてゆく上でのセオリーなので、そのような意味での内面と風景を重ねている、と読めなくもないが、挑発に耐えている悔しさみたいなものはまったく見えず、むしろ、困惑気味ながらも、どこか挑発されていることを楽しんでいる風な印象もある。記述されているのはあくまで風景なので、「みどりの枝の挑発」をメタファとして解く必要はないのだが、ある種の代数として、読者が個々に何かを代入して読むのが正解なのだろう。自分は、娘かそれに類する若い同性とのやわらかな確執のようなものを感じるのだが、代入できるものは他にもいろいろとありそうな気がする。

きょうの一首。日々の出来事の強弱ではなく、たぶんそれを受容する自分の側の意識の強弱なのだろうと思う。些事が事件に感じられたり、その逆だったり。

 鮮烈に残る日とさほどでもない日こもごもに来てくちなし匂ふ/荻原裕幸

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June 07, 2009

2009年6月7日(日)

午後、義母と義姉夫婦と家人と五人で出かける。妙音通の焼肉店で焼肉を食べる。このところ食欲旺盛で、ビールも飲まず、ひたすら焼肉を食べ続ける。満腹、をかなり超えて食べる。義母にごちそうしてもらう。日曜だからなのか、国産牛を揃えているからなのか、味や価格の問題なのか、店は、夕食には少し早い時刻から多くの家族連れでにぎわっていた。

 匿名のままあぢさゐの前に佇つ/櫂未知子

第二句集『蒙古斑』(二〇〇〇年)に収録された一句。ことばのひびきの快さに惹かれて好きになったのだが、意味を考えてみると謎だらけの句だ。誰々として、あるいは、私として、ではなく、匿名のまま、であるとは、どんな状況なのだろう。名前とそれにともなう素性を伏せるのは、誰か他人と接することが前提になっての話だと思われる。待ちあわせに選んだ場所で、折からの雨に紫陽花が色づいていた、早く来てしまった私はその前でしばらく佇んで待つ、といった感じか。それにしても、問題なのは、逢う相手である。自身の素性を明かさずとも逢ってくれる相手とは誰か。想像しやすいのは、街角か旅先かで知りあった異性である。ふたたび逢う約束はしたものの、少なくとも自分の名前を相手に告げることはなかった。恋愛に向かうのならば名前を告げるときも来るわけだが、いまはまだどうなるのかわからない。そんな状況を楽しみながらの、匿名のまま、なのだと読むことにしよう。七変化とも呼ばれる紫陽花とのとりあわせもさることながら、筆名/俳号の未知子ともきれいにひびきあっているようだ。

きょうの一首。

 誰かであり続けることの苦しさを離れてあるくあぢさゐの街/荻原裕幸

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June 06, 2009

2009年6月6日(土)

何日か続けて、真夜中に頻りに啼く鳥の声を聞いた。一夜はあきらかに鴉で、仲間に何かを知らせている印象だった。地震の類だと嫌だなと思っていたが、特に何事もなかった。その他はさっぱりわからない。ネット上の鳥の声のサンプルで調べると、これかも知れないと感じる声がいくつかあるものの特定ができない。鵺だったということにしておこうか。

 クシコスのすこしもうつくしくはない郵便局車になろう、ふたりで/正岡豊

第一歌集『四月の魚』(一九九〇年)に収録された一首。運動会になると必ず流れていた、と言うか、他の場所ではほとんど聞かない「クシコス・ポスト」の邦題「クシコスの郵便馬車」をリリカルに展開してみせた一首で、あのどこか落ち着かない曲に親しみをおぼえさせてもくれるし、郵便馬車の走る「クシコス」が、知らないながらもどこか東欧的な街をイメージさせてくれる、などと思っていた。ところが、調べてみると、クシコス・ポスト、はそれ自体、郵便馬車、の意味で、クシコスは地名ではないのだという。曲名の邦題の無責任さはともかく、この一首の読解としては、クシコスの、を、郵便、をひきだすための枕詞風な修辞だと考えればそれでいいかと思うのだが、それにしても、読んでイメージをふくらませた「クシコスの街」は、どこかに消えてしまうことになる。何か納得できないものが残る。

きょうの一首。

 有刺鉄線を薔薇線と呼ぶひとがゐて六月の土地をさびしく囲む/荻原裕幸

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June 05, 2009

2009年6月5日(金)

芒種。ひんやりとした雨。走り梅雨っぽい感じだが、続かないらしい。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者17人、詠草19首。題は「高」。題がポジティブなものをイメージさせたのか、明るいトーンの詠草が多かったし、佳作が多かった。講座後、一人で簡単に食事を済ませて、そのままどこにも寄らずに帰る。

 ミュージックアワーが終わる夏の午後岬の突端には雲がない/佐藤りえ

第一歌集『フラジャイル』(二〇〇三年)に収録された一首。ミュージックアワーはたぶんラジオ番組なのだと思うが、それが番組の固有名であるという感触はここにはない。リスナーのリクエストとDJのトークと音楽で構成された番組の印象がそこはかとなく浮かんで来る程度だ。読解の起点になる事象の輪郭がぼんやりしていて、私が何者で何を考えてどう行動したかを問う視点からは何も見えて来ない。むろん、この作品は、そのような視点から読むことを読者に求めてはいないだろう。むしろ、私が何者かである以前の、自己と世界との関係に暫定的であれ結論が出せていない時間を描こうとしているのだと思う。自由時間が永遠に続くような気がしてだらだらとラジオ番組を聴いたり、雲のない真っ青な夏空の下に何か特別な時間がやって来る可能性を感じたり、後に「大人」になってから否定しそうな、実際に作者はすでに否定しはじめていたのであろう、リリカルな可能性の断片を、可能性のまま提示してみせたところに、この一首のことばのきらめきのようなものが生じている。

きょうの一首。講座で「高」の題の作例として見せた一首。

 降りてその高さに気づく夏の夜の雨のあなたの部屋のあかりの/荻原裕幸

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June 04, 2009

2009年6月4日(木)

家人が向日葵を買って来て玄関に挿した。向日葵が菊科で、菊や蒲公英やダリアの仲間だというのは、聞けばものすごく納得できるのだが、植物の科による分類が苦手な自分は意識したことがなかった。たぶん数日で忘れるような気がする。ちなみに、某所にあった向日葵の記述で「太陽に向かうのは若い時だけで、やがて太陽を追わなくなる」というくだりがあって、何か切ない気分になった。

東桜歌会の例会の日。午前から午後にかけて、ファックスやメールで、歌会の詠草がばらばらと届く。きょうは欠席しますという電話も。夕刻から栄の愛知芸術文化センターで歌会。参加者は11人。題詠「練」と自由詠各一首を提出。無記名のプリントでの選歌と合評。ひさしぶりに出席した人から、今年の題は何に基づいているのかと問われる。今年は、東京都の区の名前からの一文字、を題にしている。作品の読解を進めるなかで、ある一首の、助詞「も」の使用法について、かなり時間をかけて考えた。この場合は多義的ではなく曖昧なのでよくないという意見とどこが曖昧なのかわからないという意見が出る。使用法に絶対的な是非はないが、きょうそこまで議論したことが記憶に残ってくれるといいなと思う。

きょうの一首。「練」の題詠として歌会に提出した一首。

 アイデアを練るのではなく夏雲を練りあげて家族会議にむかふ/荻原裕幸

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June 03, 2009

2009年6月3日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の六回目。きょうの題は「紫陽花」と夏の飲食の句。9人出席で詠草19句。いつものように、その場で読んで添削的批評を進める。講座後、某所で喫煙していたら、ドラえもんの道具はなんであんなに平和的なものばかりなの? とか何とか若い男女が数人で熱っぽく語りあうのが聞こえた。平和的なものばかりでもないような気はするが、ともあれ、彼等の過ごしている時間こそ、祝福したくなるほど平和的だなと思った。帰宅して、きょうの題に即して二句。

 あぢさゐの咲く音だけがあかつきを/荻原裕幸
 アイスコーヒーわたしを語る迷宮に

第67期名人戦七番勝負第五局。郷田真隆九段が羽生善治名人に勝って三勝二敗とした。秋田市中通秋田キャッスルホテルでの二日制の対局。ネット中継を追う余裕がなかったので局後に棋譜を見る。本局は郷田の先手で横歩取り。羽生の仕掛けで序盤から烈しい空中戦が展開されたが、羽生がやや強引だったためか、中盤で大差がついていたようだ。中盤以後は羽生が次局のためにあえて指し続けたという印象。ただ、郷田が羽生にきちんとしたかたちをつくらせないまま終局。

きょうの一首。ドラえもんの四次元ポケットのことを考えながら。

 雨戸を数枚ひつぱりだせばそこにある戸袋の闇やそのほかの闇/荻原裕幸

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June 02, 2009

2009年6月2日(火)

朝から所用で家人が外出。留守番。きょうは東西句会の例会の日だったが、都合がつかなくて欠席する。ネットで短歌系の検索をしていると、たまにとても奇妙なものに出会うが、それにしてもこれは何なのだろう。看護師でトップになるためのハワイ旅行? 前衛短歌以後の短歌史と主に南島系のツアー案内とがごちゃまぜにされているのはわかるが、これはアフィリエイトとして成立するのだろうか。

 ゆで卵がうまくむけないもう二度とうまくむけぬとおもふ夏の朝/魚村晋太郎

昨日に続き、第一歌集『銀耳』(二〇〇三年)に収録された一首。たかが茹卵で何を深刻そうに考えているのか、というのがふつうの反応だろうか。ただ、ふだんあたりまえのようにクリアしていた諸々が、たった一度の失敗のために、実はかなり困難なことだったのだと気づかされたりもするし、茹卵ひとつにしても、いつでも必ずうまく剥けるという保証はどこにもない。ネガティブな気分のときならば、茹卵がうまく剥けない、もう二度とうまく剥けない、が意識のなかで拡散して、何もかもがうまくいかない、もう二度とうまくいかない、に到達するまでにさして時間はかからないだろう。一歩踏みこんで読むと、人が弱気を経て絶望に転じる感覚がふわっと浮かびあがって来る。不思議な歌だ。新しいものをむやみに見つけようとせず、在るものを再検証し、何かを再発見してゆくことは、同歌集の特徴である。それが豊かな魅力にもつながっているようだ。

きょうの一首。

 そこはかとなく棘のあるひとことも盛られて夕餉のにぎやかな皿/荻原裕幸

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June 01, 2009

2009年6月1日(月)

六月となる。某歳時記を見ると、飯田龍太が「輝かしい五月と、炎暑の七月にはさまれたこの月は、どこか曖昧な印象」と記している。名古屋に住んでいると、梅雨の陰湿な印象ばかりだが、自然の豊かな場所ではまた違う印象があるのだろう。巷でマスクをする人が急に減って、もはや公務の人しかしてないなと思っていたところ、そこを狙いすましたように、愛知県ではじめて、新型インフルエンザの感染者が出たというニュース。嫌がらせのような絶妙のタイミングだ。

 どれがわたしの欲望なのか傘立てに並ぶビニール傘の白い柄/魚村晋太郎

第一歌集『銀耳』(二〇〇三年)に収録された一首。混雑する店舗にふつうの傘立てが置かれているのを、ちょっと無神経だなと感じることがある。あんなに間違われたり盗られたりしやすいものを、ただそこにまとめて置けというのだから。コンビニなどで売られているあの味気のないビニール傘、傘布が透明で柄の白いあれが流通するのは、こだわりをもたず使い捨てにもできる、からなのだろう。引用歌は、そんな都市生活のありふれた傘事情を背景にしながら、「欲望」の一語で、状況を見事に反転させて見せている。傘にこだわりがあるからこそ、使い捨てにできる傘で傘事情に対応したつもりが、こだわりも好みも個性もない傘を持つことになって、他者との違いが失われ、傘立てに並ぶどれも同じような傘の群を見ながら、生きるのにともなう自身の欲望のありようが見えづらくなってしまっているのに気づく。シンプルな文体ながらもゆったりとした奥行があって、些事のなかにひそむ都市生活の陥穽を巧くひきだしている一首だと思う。

きょうの一首。

 事実なのだらうがどれも寓意めくニュースばかりで梅雨近づいて/荻原裕幸

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