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July 31, 2009

2009年7月31日(金)

午後、桜山の美容室へ。伸び放題になっていた髪をカットしてもらう。美容師さんが旅行の話をはじめて、名古屋から八月に日帰りで出かけるのに良い場所はどこか、二人でしばらく考えていた。一泊だと選択肢も増えるのだが、日帰りだとかなり限定される。新幹線で関西方面の某所に行くのが良いのではないかと話がまとまったところで、髪もさっぱりとした感じになった。

 渋滞の先頭は惨殺現場いつでもさうだ見えないだけだ/林和清

昨日に続き、第三歌集『匿名の森』(二〇〇六年)に収録された一首。九州への旅行をモチーフにした一連の終りに据えられた一首。「バスで博多駅へ」という詞書がある。現在はただ渋滞する場所だが、歴史のなかでそこは惨殺がなされた場所だ、いまは見えなくても場所にはさまざまな事情があって現在の状況がある、というのが、歌集の配列から読みとれる歌意だ。「いつでもさうだ見えないだけだ」という、恐怖感と諦念とが混在するようなフレーズが、歴史的な「惨殺」にとどまらず、ありとあらゆる事象に向かってひろがってゆくのが、この歌の大きな魅力だろう。

きょうの一首。財布からまとめて引き抜いて並べてみると。

 レシートには日時その他が記されてけふの私があらかた見える/荻原裕幸

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July 30, 2009

2009年7月30日(木)

午前、家人と外出。通りがかった道に、槐の木が並んでいて、粉雪のような花を散らしていた。槐が街路樹として植えられるとは聞いていたが、実際にそれと気づいたのははじめてだった。ミハエル・シューマッハがF1に復帰するというニュース。ハンガリーGPの公式予選で負傷したフェラーリのフェリペ・マッサの代役だそうだ。はじめはがせねただろうと思っていたが、どうやら事実であり本気のようである。ぜひ見たいような、でも見るのが怖いような、満四十歳の再デビューだ。

 向日葵と向日葵の霊が立つてゐるいくつもの丘つらぬく径に/林和清

第三歌集『匿名の森』(二〇〇六年)に収録された一首。どこかの観光地か、あるいは向日葵畑なのか、歌集の配列を参照しても、そのあたりはよくわからないが、向日葵の霊を登場させて、無数の向日葵が咲いては枯れる繰り返しと、眼前の風景と記憶の風景とが折り重なっているような空間のイメージとを巧く表出している。大地のこの広々とした感じは、どこか、永遠の夏、といった理想郷のイメージに似ている。拘束するものは何もないし、いつまでもどこにもたどりつかない感じ。明るいデラシネ感とでも言えばいいだろうか。叙景的な、わたしを直に介在させない文体が、逆にわたしをそこに強くひきよせてゆくような、不思議な感覚がある。

きょうの一首。

 霊ではないやうだが何か見えてゐるあなたのつくる深い日陰に/荻原裕幸

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July 29, 2009

2009年7月29日(水)

蝉の声がとてもうるさい。静かになったかと思うと雨が降りはじめる。雨がやむとまた蝉の声。気温がさほど高くないので、夜は蝉もしずかになるが、このところ延々とその繰り返し。先日、スーパーの棚に梨がならびはじめたので買って食べてみた。早生の品種のようだが、甘さとほんの少しの酸味とあとはともかく瑞々しい食感とが口のなかにひろがって、梨らしさが十分に満喫できた。

 緑色をどこにも持たぬししむらなり収めてをりぬ夜半の湯舟に/多田零

第一歌集『茉莉花のために』(二〇〇二年)に収録された一首。「緑色」に「りよくしよく」のルビ。言われてみれば、人間の身体に、緑色の部位は見あたらない。この一首を読むまでは、そんなことをそんな風に認識したことはなかった。人間ではない動物や植物を考えると、生物にとって特殊な色でもないわけで、緑色がないことに何か深い意味があるようにも思われて来ておもしろい。ただ、認識に新しいひかりを与える発想は、それだけだと繰り返し読むなかですぐに劣化する。この歌の魅力は、入浴というきわめて日常的な時間と空間のなかで、認識に具体的な感触を与えているところに生じているのだろう。思惟と事物と、それから抒情とが、それぞれの突出を抑えて、強靭でユニークな文体をつくりあげているのだと思う。

きょうの一首。

 草の凹みがまだあたらしい夕焼にひとのかたちをゆるく残して/荻原裕幸

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July 28, 2009

2009年7月28日(火)

午後、家人と二人で近所のスーパーに行き、買って来た食料品をショッピングカートに入れたまま、数時間、冷蔵庫に移すのを忘れていた。互いに互いが移してくれるだろうと思って、忙しいとき、これをときどきやってしまうのだが、この時期、かなり怖い事態をひきおこしそうである。幸い、保冷用に氷が入っていたので、怖い事態にはならなかった。

 おおくのひとがほほえんでいて斉藤をほめてくださる 斉藤にいる/斉藤斎藤

昨日に続き、第一歌集『渡辺のわたし』(二〇〇四年)に収録された一首。「第2回歌葉新人賞」という連作のなかの一首である。これは、同賞の応募作/受賞作ではない。応募した賞の公開選考会で、自身の作品が高く評価されたときのことを書いているようだ。日常には他のわたしもいるが、「斉藤斎藤」の名義での応募なので、ここでは斉藤のわたしであることを満喫しよう、ということなのだろう。むろん、斉藤のわたしもその他のわたしも同一人物である。それをあえて「斉藤にいる」と認識することで、自身がその作品を書き、他者がその作品をほめてくれている事態を強く噛みしめている。表面的には、自作がほめられてうれしい、という話だが、新しい名前によって生じる新しいわたしとその他のわたしとの間に生じる微妙なずれの感触が、一首の真のモチーフなのだと思う。

きょうの一首。ときどき着る。着るとそのたびに思い出す。

 赤は女子の色と言はれてゐた月日はるかに赤いTシャツを着る/荻原裕幸

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July 27, 2009

2009年7月27日(月)

麻生太郎首相の、高齢者は働くことしか才能がない云々という発言に、野党とマスコミが一斉に噛みついていた。前後の文脈やその場の空気で出て来たのだろうし、選挙前で周囲の反応も過敏なのだろうし、別に悪意があって言っているのでもないのだろうが、何々しか能がないというのは、自分自身に対しては平気で言えても、よほど親しい人でないかぎり、他人からは言われたくない類の言い回しだと思う。他人との距離感が根本的なところでずれているのではないかという気がした。

 公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように/斉藤斎藤

第一歌集『渡辺のわたし』(二〇〇四年)に収録された一首。夢を通り抜けて、わたしがあなたの側に覚めるという発想は、誰かが物語のアイデアとして使っていても不思議ではないし、探せばあるのかも知れないが、そんなことはなさそうな気もするけどあったらいいな、といった感じの口調は、あなたとわたしとの絶対的な距離感をあきらかにして、通り抜けてしまう物語では決して表現できない強烈な寂寥感をもたらしている。斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』は、日本語あるいは短歌がつくりあげてしまう「わたし」という概念に、執拗なほどにこだわっている歌集である。形而上学からことば遊びにいたるまで、さまざまなアングルから「わたし」にアプローチしているが、この歌のような、短歌らしさにさほど逆らわない表現が、いちばんいきいきしているように感じる。

きょうの一首。玉川紗己子さんについて、ジュイスの声で書こうかと思ったが、そちらはまだ正体がいまいちはっきりしないので、タチコマでまとめてみた、という説明が説明になっているのかどうか。

 個体差はともかくすべてのタチコマの声をあやつる玉川紗己子/荻原裕幸

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July 26, 2009

2009年7月26日(日)

昨日から名古屋の天気は不安定で、雷雨になったり晴天になったり。午後、義母と義姉と家人と四人で出かける。喫茶店でしばらくお茶をしてからスーパーで食料品などを買う。天然水を2ケース買って、片手に1ケースずつ提げて、マンションの階段をふらふらとのぼる。左右で24キロある。迂闊に強く握ると、本来両手で提げる構造の段ボール箱の取手穴の部分がちぎれてしまうので、できるだけそっと提げる。いつものことなのだが、後で指の関節のあたりがものすごく痛くなる。片手でも楽に提げられる仕様にしてほしい。

 バランスよく歩けなくてもまあいいか徳用サイズのボトルを選ぶ/佐原みつる

短歌誌「新彗星」第三号に掲載された連作「映画とライオン」の一首。この「まあいいか」という、あきらめる感じ、負けている感じ、に惹かれた。「まあいいか」が日常にあらわれるのは、実はまあいいことはない何かをむりやりまあいいかに組みこむため、自分自身を説得するようなときだろう。ふだんはバランスよく歩くことを優先するこの歌のわたしが、大容量の徳用サイズのボトルを選んで買うのは、それを一緒に飲む誰かとの時間が最優先されたからだと思う。何とも遠回しな恋の歌だが、他者を自身の時間のなかに受容するときの、あきらめや負けにも似たその感じが、やわらかなひかりを発していて快い。

きょうの一首。

 むすばれるとむしばまれるの境界はどこなのか蝉の声を見あげる/荻原裕幸 

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July 25, 2009

2009年7月25日(土)

早朝、家人と山崎川界隈を散歩する。犬と散歩する人たちでにぎわっているのはふだんと同じなのだが、何かちょっと人数が多いなあと思っていたら、大音量で放送のようなものが流れる。ラジオ体操だった。橋の上や川の向こう側こちら側にびっしりと人がならんで体操をはじめたのを、家人と二人でしばらく呆然と眺める。誰かが企画したというわけでもなく、大人たちが、と言うか、高齢の人たちが自発的に集っているらしい。

角川書店から総合誌「短歌」8月号が届く。特集は「小池光の三冊」。重要な意味をもつ歌集三冊を選んでの特集で、選ばれた歌集は『バルサの翼』と『草の庭』と『時のめぐりに』である。『日々の思い出』を入れないのが微妙なこだわりなのか。たしかに、特集としては、『草の庭』(一九九五年)以後の歌集を扱うのが新鮮かも知れない。自分は、同号の「ほんのページ」欄に、前登志夫さんのエッセイ集『羽化堂から』(NHK出版)、岡井隆さんの鑑賞コラム集『新輯けさのことば2』(砂子屋書房)、福島泰樹さんの散文集『悲しみのエナジー』(三一書房)の三冊の書評を執筆した。分量は一冊あたり約700字ずつ。気ままな感想をまとめてみた。

きょうの一首。少しは前後の説明をしろよ、とも思うのだが、とにかく何かを伝えたかったのだなということが伝わって楽しいときもある。

 荻原さんこの噴水はくさいよとただそれだけのメールが届く/荻原裕幸

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July 24, 2009

2009年7月24日(金)

好みだったペギー珈琲の栄店が閉店して、がっかりしていたところ、自宅から徒歩数分のあたりに新たに出店するというので、それはそれはとよろこんでいたのだが、飲食店ではなく、珈琲豆の専門店なのだとか。ちょっと残念。それにしても、自宅から徒歩で行ける範囲に、珈琲豆の販売店が何店もあるのが不思議。スーパーなどで売られている比較的廉価なメーカー品ではない、自家焙煎の珈琲豆って、そんなに売れるものなのだろうか。

 夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること/吉川宏志

昨日に続き、第一歌集『青蝉』(一九九五年)に収録された一首。灯るのは、外灯ではなく「窓」であるという。たぶん広域に何棟も建てられたタイプか超高層かのマンションが視界にあるのだろう。家のなかでは、むしろ夕闇にわずかにさきがけて電灯をつけているはずだが、外からそれがはっきり認識できるのは、夕闇が来てからのことだ。また、まとまった一つの外観だったものが、夕闇と電灯によって「窓」として個別化されてゆく。表面的には観察のおもしろさとしての歌だが、個々の窓の奥にある「家」がおのずとイメージされるし、一律に並んでいるように見える「家」に各々の時間が流れていることを思い浮かべずにはいられない。下句のどこか平凡に見える言い回しも、そうした連想をひきだすレトリックとして巧く機能している。日常的風景に短歌ならではのリリカルな奥行を与えた佳品だと思う。

きょうの一首。雪加はせっかと読む。鳥の一種。名前に惹かれながらも、その姿や声を日常ではっきり認識したことはない。写真でだけ見ているので、それでむしろ自分のなかで表情のイメージにつながったのかも知れない。

 他の人もゐる場で私用を言ふときに雪加のやうな表情をする/荻原裕幸

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July 23, 2009

2009年7月23日(木)

大暑。夏を通して、短夜、明易し、などと言うが、早起きなのか、不眠なのか、夜明かしなのか、その状況次第で、かなり違った印象になるだろう。自分は前二者とはあまり縁がない生活をして来た。とりわけ二十代などは、ひたすら夜明かし派だったので、牛乳配達の壜の鳴る音、雀等の鳥の声、隣家の犬が散歩に出る音、新聞配達の音という順に聞こえる時刻の固定した朝の音の、どのあたりで明るくなりはじめるかによって、短夜、明易し、なのかどうかを感じていた。

 背を向けてサマーセーター着るきみが着痩せしてゆくまでを見ていつ/吉川宏志

第一歌集『青蝉』(一九九五年)に収録された一首。この「着痩せ」は、太って見えるか痩せて見えるか、とは少し違うことを言っているのだと思う。恋の相手の、女性的な身体の曲線が、裸体のときはしっかりと存在を主張するのに、サマーセーターに覆われると、あまりめだたなくなる、といった感じか。安心できるような、でもどこかつまらなくもあるような、若い男性のオーソドックスな心理がそこに浮かんでいるようだ。それに何よりも「着痩せ」していない状態を独占している満足感があるのだろう。わたしだけが知っている的なこのモチーフが、まったく嫌味にならないばかりか、爽快でさえあるのは、「着痩せしてゆくまでを」という冴えた修辞の効果か。

きょうの一首。

 体積や重量を言ふのではないがゆたかなものを包むブラウス/荻原裕幸

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July 22, 2009

2009年7月22日(水)

朝から雨こそ降らないもののどんよりとした空模様で、これでは日蝕を見るのは無理だろうなと思っていたのだが、見逃すと次までがあまりにも長いので、午前十時頃から何となく外の様子をうかがう。十一時少し前、ぼんやりと太陽が顔を出しているようなので、家人と二人でマンションの中庭に出てみると、薄い雲の向こうに、三日月状の太陽の姿が、肉眼ではっきりと見えた。うっすらと曇っていたのがむしろ幸いしたか。佳いものを見せてもらった。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の十二回目。インフルエンザの関連で休講になった日の補講で、春期はこれで最終回。キャンパスにはすでに夏休みの空気がひろがっていた。きょうの題は「ハンカチ」と「炎天」。9人出席で詠草18句。いつものように添削的な批評を進める。講座後、キャンパス内の喫茶店で受講生たちとお茶をする。帰宅して、きょうの題の二句をまとめる。

 ハンカチの貸し借りをしてこの男女/荻原裕幸
 炎天のほのほのありかあふぎ見る

きょうの一首。修理してもらう、は、むかしもいまも同じだが、修理する、ということばには、何かとてもなつかしいひびきがある。

 修理するのに半日かけて自転車は青葉の辻をくるんと曲がる/荻原裕幸

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July 21, 2009

2009年7月21日(火)

衆議院が解散されたという。総選挙で政権交代となるかならないかが注目されているわけだが、いずれにせよ、日本が二大政党制に推移するかどうかがはっきりわかる選挙になりそうだ。第22期竜王戦決勝トーナメントで、羽生善治名人が片上大輔六段に勝つ。羽生名人はあと一勝で挑戦者決定戦への進出が決まる。この強さは何なのだろう。文字通り超人だった時期を過ぎてなお超人的な強さを維持できている理由が知りたいと思う。

午後、丸の内の愛知県産業貿易館へ。ねじまき句会の例会。地下鉄を市役所の駅で降りて、名古屋城の外堀を眺めながら歩く。夏草の緑が急流のようにうねっているのがきれいだった。句会の参加者は四人。今回は題詠「洗」と雑詠。いつもの通り、無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。句会後、コメダ珈琲店で歓談。きょうの句会に提出したのは以下の二句。

 Yシャツに洗われているお父さん/荻原裕幸
 わたしよりふるい切手の糊の味

きょうの一首。首相の専権事項って、誰が言いはじめたのか。

 衆議院を解散するのは誰なのかなぜ万歳をするかを述べよ/荻原裕幸

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July 20, 2009

2009年7月20日(月)

海の日。海の日が由来通りの二十日になったのは、ハッピーマンデー云々と祝日法が改正されてからはじめてだったか。巷は三連休の三日目。ただ、ほとんどの学校はもう夏休みに入っているのだろう。七月に夏休みのことを考えると、それが永遠に続くような幸せな気分になったのを思い出す。名古屋はまだ梅雨明けしないようだが、真夏はすでにやって来ている。

 新しき母からもらうセロファンの赤や黄色で包んだラムネ/田中槐

第二歌集『退屈な器』(二〇〇三年)に収録された一首。散文的にそのまま読むことができるような、きわめてシンプルな作品なのだが、「新しき母」の一語が人間関係の諸々をずるずるとひきずり出していて、私的事情めいたものをあれこれ細かに考えるまでもなく、背後に哀愁を帯びた時間や空間が浮かびあがって来る。駄菓子の類を渡されているのは一人称が少女の年齢であるから、だという以外、いかにしてそのような事態になったのかを考えなくても、自身に類似した体験がなくても、十分に深く何かが突き刺さって来る感覚がある。総合的に何かを捉えるには散文の饒舌さが必要だが、瞬間のひかりを捉えるには短歌がふさわしいのだと強く納得させてくれる一首だと思う。

きょうの一首。

 言ひあひをした後しんとするときに在処のわかるさびしき臓器/荻原裕幸

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July 19, 2009

2009年7月19日(日)

各地で大雨となったそうだが、名古屋は大したこともなく、ただひたすら蒸し暑いばかりだった。夜、消防関連の広報車らしき車が近所を通る。冬ならばともかく、この季節に珍しいなと思っていると、たばこの投げ捨てはやめましょう、等々、スピーカから大きな音量で流していた注意事項のなかに、ストーブは燃えやすいものから離して使いましょう、というのがあって、耳を疑う。

 緑蔭にて弥勒菩薩の切手貼る/井沢照子

塚本邦雄選『星曜秀句館・第一輯』(一九八一年)に収録された一句。私は何々するというスタイルの俳句は、しばしば未完の印象をもたらす。この句で言えば、緑蔭であるとか弥勒菩薩であるとか、そうした語の斡旋に、どこかしら恣意に近いものを感じるからだ。ただ、それがむしろ、生活や時間に追われない、ちょっとしたゆとりの感覚を生じさせて、一句とその周辺の時空を豊かなものにしているとも思う。この郵便物は、出さないと支障がある類のものではないようだが、それでも、出すのと出さないのとでは差出人と受取人との関係がまるで違ってしまうのだろう。必要から少し離れたところにある用件の美しさを楽しく想像させてくれる句だ。

きょうの一首。

 革靴にいつしかきずがふえてゐて曖昧に梅雨あけてゆく日日/荻原裕幸

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July 18, 2009

2009年7月18日(土)

真夏になると、こんなに暑い土地で人間が生きているのが不思議だとか何とか、地元の暑さ自慢のような、大袈裟で自虐的な話をよく耳にする。自分もよく口にする。先日、某所でベンチに坐っていると、京都から家族で引越して来たばかりだという男性の話が聞こえて、京都の暑さはこんなものじゃないとか言うのかと思ったら、京都も暑いけどそれにしても名古屋の暑さはひどい云々と、うんざりしながらもどこかうれしそうな口調で話している。イントネーションこそ関西のものだったが、早くも名古屋に同化されつつあるらしい。

 蝉にならむと奈良に来ぬ人妻と/宗田安正

第三句集『百塔』(二〇〇〇年)に収録された一句。「蝉」はかなり通俗的な比喩に見える。あえてそう書いているのだろう。地中で七年、地上で七日、と言われる蝉の生きざまを、人の生きざまに重ねあわせているらしい。「人妻」はもちろん他人の妻のことで、端的に言えば、蝉時雨の奈良に不倫の旅行に来た、ということになりそうだ。それが不道徳な感じにもひびかず、どこかユーモラスな印象をもたらすのは、蝉という比喩の通俗さの効用だろうか。大したことにはならないだろう、でも、あるいは、等々、軽い感じで読者の想像がめぐってゆくのは、作者の計算の範疇にあると思う。その醒めた意識がユーモアにつながるのかも知れない。

きょうの一首。

 父となるべき月日を父とならぬまま費やしてけふの炎天をゆく/荻原裕幸

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July 17, 2009

2009年7月17日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。うっかり講座の日付を間違えていて遅刻してしまう。講義講座の類でこの手の遅刻をしたのははじめてなので、よほどあたふたしていたのか、珍しがられたり笑われたりした。大いに反省する。きょうは出席者14人、詠草14首。題は「冷」。遅れた分だけ、いつもよりももう少し長く延長させてもらう。

第80期棋聖戦五番勝負第五局。羽生善治棋聖が木村一基八段に勝って、棋聖のタイトルを防衛した。二連覇。通算で八期目となる。愛媛県松山市鷺谷町宝荘ホテルでの対局。ネット中継を見られず、後から棋譜を追う。本局は木村が先手で横歩取りの展開となる。飛角が中段で派手に動き回る空中戦となったが、手の流れで囲いを自然に堅くする羽生と、壁銀を解消できずに囲いを整えられない木村との差が、次第に歴然としてゆく。終局時には意外なほどの大差となっていたようだ。実力を超えた領域での対決となりそうだ、という予想はあっさり外れた。

きょうの一首。きょうは慌てていて講座の題の作例をまとめられなかったので、次回のために帰宅後にまとめた「冷」の一首。講座の詠草にサマセット・モームを読むことをモチーフにした作品があって、その一首について話したことを自身で参考にしながら書いた。

 下闇にひかりしづかにもれてゐる冷えたひかりで漱石を読む/荻原裕幸

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July 16, 2009

2009年7月16日(木)

午後、外に出ると小雨が降りはじめる。気温をしっかり下げるほどには降らない。と言うか、あっさり雨があがってむしろ蒸し暑くなる。そう言えば、蒸し焼きをするときってこんな具合に水をさすよなあ、と思う。先日、白のルーズソックスの女子高生を見かけた。見かけたのは一人だが、一人いるということは、おそらく他にもいるのだろう。まだ絶滅したわけではなかったのか。

 スーパーに男はつねに籠もちて一、二歩下がり無口の従者/小高賢

第六歌集『液状化』(二〇〇四年)に収録された一首。家族とともにスーパーに来ている場面だろう。食料品や生活用品を買うのに男性の出る幕はない、ということかと思う。ビジネスを通して家族を支えながらも、それ以外のシーンではあまり役に立たない、という現代的な男性像が、是か非かではなく、哀愁というアングルから描かれている。ただ、最近、巷で男性のこうした姿を見かけることは、次第に減り続けている。だから「男はつねに」は、この場合、一般論ではなくて、むしろ理想を語る口調に近いものがある。男とはそういうものだ、そうあるべきだ、そうあってもいいだろう、といった具合に、自身を含めたむかしながらの男性像を、哀愁を通して肯定しようとしているようだ。ちなみに、歌集の配列で、この一首の直前の一首が「妻おらぬ日曜の昼餅を焼くトースターの前海苔はいずこや」、直後の一首が「職を退く決意はあれどそののちの一日一日の細部は見えぬ」である。あわせて読むと、モチーフが明確に見えて来ると思う。

きょうの一首。

 男であることと男性であることの違ひさびしく夕焼に待つ/荻原裕幸

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July 15, 2009

2009年7月15日(水)

炎暑が続く。いくらか雨が降って少し気温が下がったようだが、涼しいと感じるほどにはならない。木桶に氷水を入れて冷やしたペットボトルのお茶を、某所でときどき買って飲むのだが、冷蔵庫で冷やしたお茶とは飲んだ感じがどこか違う。氷水で冷やしてある方がおいしく感じられる。家人と二人でなぜだろうと考えているのだが、理由がよくわからない。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の十一回目。きょうの題は「七月」と「夏風邪」。8人出席で詠草19句。いつものように添削的な批評を進める。一句の中心的な季語の他に、表現アイテムとして別の季語が入ってしまう詠草がときどきあらわれる。書き手にとって一方は季語だと認識されていないため、それほど気になるわけでもないのだが、ノープロブレムだとも言いがたい。ビギナーに対しても意外にハードルを低くしづらいことだと感じた。帰宅して、きょうの題の二句をまとめる。

 七月に伸びたぶんだけ爪を切る/荻原裕幸
 夏の風邪どこかでアルミ箔の音

きょうの一首。人によって、追加注文をしたりしなかったり、追加注文を受けつけたり受けつけなかったり、まさに、人生いろいろ、という気がする。

 恋愛といふのはむしろ結婚のオプションかふたり夏草をゆく/荻原裕幸

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July 14, 2009

2009年7月14日(火)

名古屋では猛暑日となった。梅雨明けはまだ少し先らしい。きょうも朝から冷たくて甘いものを食べてしまった。巷には、このまま総選挙になれば政権交代が起きそうな気配がある。マスメディアの報道に、いまのところ、過去にはそうであったような浮かれた感じがあまりないのは、日本という国が、深いところまで疲弊している時期だからだろうか。

 竹降ると天気予報に告げられておもむろに傘閉ぢてゐたりき/石川美南

第一歌集『砂の降る教室』(二〇〇三年)に収録された一首。奇妙な歌だ。奇妙なのは、まず初句の「竹降る」である。歌集の章の構成からすると梅雨時の鎌倉が舞台である。だとするとこれは、あるいは竹落葉のことかとも思うのだが、時期的に微妙だし、雨と同列に扱われているのもおかしい。だからこの「竹降る」で、そんなことはあり得ないとか天気予報がそんなことを言うわけはないという方向に傾けば、奇妙さはすっきり解消されるはずだ。しかし、この歌は、竹降るって、なんとなくありそうな気がする、とばかりに真に受けるのである。「竹降る」の世界を、一首を通して生きてみせている。ある種の修辞か聞き間違いであったものが、事実的な感覚とともにたちあがって来る。それが一首をますます奇妙で魅力的なものにしているようだ。

きょうの一首。

 傘から少しはみだしてゐたわたくしが雨を含んで重くなる朝/荻原裕幸

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July 13, 2009

2009年7月13日(月)

朝から蝉の声がものすごい。少し前に駐車場を拡張する工事をしてから、マンションの敷地内には蝉の居場所がほとんどなくなったのだが、隣接する区画はいずれも、緑だらけの蝉のリゾートのような場所なので、油蝉と熊蝉の混声合唱みたいなのが延々と続いている。東京都議選で自民党が惨敗したというニュース。一般的な予想と結果とがこんなに合致した選挙も珍しいように思う。

 左より石川、斉藤、一人飛んで今橋、の「一人」となる予感あり/黒瀬珂瀾

結社誌「未来」7月号の詠草欄に掲載された一首。石川は石川美南さん、斉藤は斉藤斎藤さん、今橋は今橋愛さんか。イベントかプライベートかわからないが、どこかで撮った短歌の仲間とのスナップ写真を眺めながら、将来の、雑誌かムックか単行本かでの何かの特集にこの写真が掲載されたら、そのキャプションには、などと考えているところだろう。ネガティブな発想に見えなくもないが、「仲間と集う黒瀬珂瀾、左より三人目」というキャプションを考えることと表裏一体をなすものだと思う。この三人の名前が三人とも残る時代に、作風や方法や世界観の違う自分の名前は残らないだろう、その逆になる可能性もないわけではないだろう、という、本音でもあり洒落でもあるような快活な認識が含まれているようだ。

きょうの一首。近所にこんな感じの空家がある。

 百日紅のこずゑは荒れてすでに人の住まぬ家宅の何かを覆ふ/荻原裕幸

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July 12, 2009

2009年7月12日(日)

午後、義母と義姉と家人と四人で出かける。中国茶の専門店で中国茶を飲む。四人で二品を二人分ずつオーダーしようとしたら、一人分で何杯も飲めますからと店の人に勧められて、四品を一人分ずつオーダーすることにした。玖塊花茶と茉莉花茶と桂花茶と菊花茶。眼の疲れに良いとか美肌の効果があるとか、メニューで効能を読んだのだが、四品頼んだら、どれにどの効能があるのか忘れてしまった。

 大きな緑見せむと吾子を差し上げる/橋本輝久

第二句集『歳歳』(一九九五年)に収録された一句。両腕をめいっぱい伸ばして、肩車よりももっと高い場所から風景を見せている父の姿が目に浮かんで楽しい。こどもがそれを素直によろこんでいるか、吃驚したり困惑したりしているかは、読者ごとに読解に差が出るかも知れない。この「緑」は新緑、句の現在は五月頃と読むべきなのだろう。ただ、「大きな緑」と書かれたとき、なんとなく、梅雨明けの、さあこれからいよいよ真夏だという感覚も呼び起こされた。「大きな緑」は、新緑よりも万緑に近いものとして読んでみたい気もする。ともに夏休みを迎えた父子の姿だと読むのもわるくないのではないかと思う。

きょうの一首。

 誰にも見せない表情をする梅雨時の月のひかりの屋上に来て/荻原裕幸

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July 11, 2009

2009年7月11日(土)

修理後のパソコンと長年使って来たメーラーとの相性が悪い。何回も設定をしなおしたのだが、そのまま使うには問題のあるようなトラブルが数日続いた。サポートがすでに打ち切られているソフトなので、やむを得ずメーラーを別のものにした。新しいメーラーは、かなり便利なようだが、不慣れだと多くの機能が使いづらさにしか感じられない。

教育出版の高校の現代文の教科書に、昨年度の版から、自作の短歌が一首掲載されていて、見本を送ってもらった。これまで掲載されたことがあるのは、高校が二社、中学が一社で、これで四社目となる。時々、各社の教科書に準拠した国語科の参考書を見て、どんな短歌や俳句が掲載されているのかをチェックしているのだが、自分が学生だった時代と比較して、作家の年齢はかなりさがっているようだ。おそらくは編集や執筆のスタッフが、少しずつ固有の考えを反映させているのだろうと思われる。だとしたらうれしい話である。

きょうの一首。クロッキー風に。

 雨ふたたび降りはじめれば七月の傘おもむろに咲いてゆく街/荻原裕幸

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July 10, 2009

2009年7月10日(金)

かなり暑くなって来たせいか、かき氷とかアイスクリームとかソフトクリームを、家人と連日のように食べている。きょうは買い物に出たついでに、フードコートでマクドナルドのハンバーガーを間食したあと、家人が買って来た山盛りのアイスクリームを半分もらって食べた。冷たさと甘さに惹かれてつい手を出してしまった。何かとてもからだにわるいことをしているような気がする。

短歌誌「新彗星」第三号が刊行されている。巻頭に笹井宏之さんの追悼の企画が掲載された他、特集にしっかり誌面を割いて、メンバーに開放するスペースとしてのこの雑誌の特性がいっそう前面にせり出して来た。発行人である加藤治郎さんの志向ではないかと思うが、上下のないフラットな感じの快さがある。ユートピアとかパラダイスとか、どこか常春系の空気がひろがって、雑誌として完成したのではないかという印象をもった。このままフラットな感じで進んでゆくのか、それとも予測できない何かが突出して来るのか、さらに同誌の今後に注目してゆきたい。

きょうの一首。まだ名古屋の梅雨は明けていないようだが。

 はなから夏のだるい終りが来たやうな雲の分布を見せてゐる空/荻原裕幸

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July 09, 2009

2009年7月9日(木)

きのうの深夜から書斎のクーラーも稼働している。暑さと言うよりも暑さから来る必要以上の眠気を抑えるためという感じ。きょう、平岡正明さんが亡くなった。享年六十八歳。きちんと著作を読む前に、文庫本のユニークな解説でその名を知った評論家が何人かいるが、平岡さんもその一人。はっきり記憶しているのは、高校時代に読んだ筒井康隆『七瀬ふたたび』の新潮文庫版の解説。平井和正のウルフガイを批判しながら筒井康隆の七瀬三部作を絶賛する書きぶりが新鮮だった。後に『筒井康隆はこう読め』に収録された文章だったかと思う。ご冥福を。

第80期棋聖戦五番勝負第四局。羽生善治棋聖が木村一基八段に勝って二勝二敗とした。静岡県伊東市湯田町わかつき別邸での対局。ネット中継を見られず、後から棋譜を追う。本局は後手の木村が一手損角換わりを選択。羽生の棒銀に対して木村は腰掛銀に構える。囲いの堅さの差が生じたところで、羽生はどんどん攻めはじめる。微妙に無理を通してゆく感じもあって、木村の方がどことなく指しやすそうにも見えていたのだが、最後は木村が必敗の手順をうっかり見落として投了。木村の方が圧倒的に好調な印象があるのに、それでも勝てなかったのは、タイトル戦の経験値の差か。最終局も実力を超えた領域での対決となりそうだ。

きょうの一首。ちょうど一か月前にまとめてそのままになっていた一首。

 知られてゐない臓器だらうか悲しみに心とちがふところが疼く/荻原裕幸 

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July 08, 2009

2009年7月8日(水)

午後、中京大学へ。すでに休講もあけて、キャンパスは何事もなかったように、ごくふつうににぎわっていた。半月ぶりのオープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の十回目。きょうの題は「冷奴」と「雷」。7人出席で詠草14句。終了後、八事のジャスコで買い物。二百円台の弁当が出ていて、どうかなと思って手にとったところ、何となく量がものたりない気がして、自分の分は二つにしてみた。焼鮭の弁当と青椒肉絲の弁当と二つでも五百円台。量も二つでちょうどよかった。

 よくもまあにぎやかなこと冷奴/荻原裕幸
 雷のあとすみずみの透けてゐる

きょうの題の二句。俳句を書いていてときどき思うのは、ある種の偶然から生じる無責任な感じ、書いてみたものの結果的に何を意味するかわからないという感じが、句のなかで生きることがしばしばある、ということ。短歌だとこの無責任さががまんならない感じを与えるケースが圧倒的に多い気がする。俳人が、短歌は言い過ぎる、などと言うことがあるのは、日頃から向きあっている定型のスペックの違いによるものだろうと思われる。

きょうの一首。月日が速いのではなく、意識が遅いだけか。

 いつのまにか七月だねといふ声が滲みこんでゆくからだの暗部/荻原裕幸

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July 07, 2009

2009年7月7日(火)

七夕。小暑。午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。外は暑くて冷房は寒い。このところずっと半袖一枚で外出しているが、さらに暑くなると逆に二枚着て冷房に対応することになりそうだ。東西句会の例会。参加者は五人。題詠「涼」一句と雑詠四句のあわせて五句。無記名で互選と合評。意見の交換をするなかで、句会における解釈と鑑賞との使いわけの難しさを実感していた。解釈に恣意をもちこむのはだめだと思うが、直感を含んだ鑑賞を抑制すると句会の場が痩せてゆくようにも思う。どのあたりに着地するのが望ましいのか。

句会に提出した五句は以下の通り。「父を嗅ぐ」は、寺山修司の「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」から初五を借りて遊んでみた。「地図記号」「花ざくろ」は、書く前には意図していないかたちにまとまった。「遠花火」「朝涼」は、書く前のイメージを抜け出すことができなかった。

 父を嗅ぐ梅雨の匂ひを嗅ぐやうに/荻原裕幸
 夏旺ん見たこともない地図記号
 電流の通りよろしき花ざくろ
 不確かな記憶にひらく遠花火
 朝涼のみづをはこんでゆくからだ

きょうの一首。

 生きてゆくにはそこそこやほどほども必要でひきかへす夕焼/荻原裕幸

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July 06, 2009

2009年7月6日(月)

早朝のどしゃぶり気味の雨のなか、ごみ袋を運び出していると、マンションの駐車場の、たしか空きになっているはずのスペースに車が入って来た。変だなと思って運転席を見ると、大家さんだった。この雨のなかを車で来てまでごみ置場をチェックしてくれるようだ。きちんとしていることと神経質になっていることというのはたぶん紙一重なのだろう。感謝と緊張とがこもごもにやって来る。

 鉄線花向かい合わない兄弟/二村典子

第一句集『窓間』(二〇〇一年)に収録された一句。二輪だけだったのかもう少し咲いていたのかはわからない。別々の空に顔を向けて咲いている鉄線の姿が、身近にいる兄弟、自身の兄弟か、こどもか、あるいは友人知人か、を髣髴させたということなのだろう。こういう句を読むと、句意とは別に、どのような順にことばがやって来たのかを考えてしまうことがよくある。実際に鉄線を見ていて思いついたのか。日頃から兄弟について思っていることに鉄線を配したのか。どちらにしても作品の価値はかわらないわけだが、とりあわせ、という、偶然かつ必然のことばの組みあわせが生じるそのしくみが気になるのである。

きょうの一首。不覚にも。

 カップを空のつもりでゆるく傾けてこぼれるみづのやうに涙が/荻原裕幸

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July 05, 2009

2009年7月5日(日)

午後、家人が義母と義姉と外出。留守番。昨夜、修理に出してあったパソコンがようやく戻って来た。以前のように快調には動くのだが、やはり一からセッティングしなければならないことがかなりあって、快適な環境を復元するには、かなり時間がかかりそうだ。こつこつやるしかないか。

松村由利子さんの、科学をモチーフにした短歌鑑賞集『31文字のなかの科学』(NTT出版)が刊行されている。一部既発表の文章も含んでいるようだが、ほぼ書き下ろしだという。常識的な知識を入れることで一首が台無しになることもあるし、専門的過ぎて嫌味が生じてしまうこともあって、科学をめぐるモチーフというのは、短歌にとって厄介なものではある。ただ、常識からほんの少し踏み出したエリアには、詩想の鉱脈が見つかることもあって、そうした鉱脈をさぐりあてようとする作品を、松村さんはうまく見つけ出しているようだ。常識的にも専門的にもならないという難しいスタンスを維持して鑑賞をまとめた好著だと思う。ぼくの作品も、第一歌集『青年霊歌』から「天文年鑑」の一首が引用されていた。天文年鑑を実際に手にした人の視点で書かれた鑑賞文がとても新鮮だった。

きょうの一首。

 天から声がきこえるやうな梅雨晴にとりあへず外を一人で歩く/荻原裕幸

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July 04, 2009

2009年7月4日(土)

午後、父が、食べものをいろいろと提げて来てくれた。その他のものを人に渡すときの難しさを考えると、食べものを渡したり渡されたりというのは、もっともわかりやすいコミュニケーションだなとあらためて思う。そう言えば、きのう、マンションの大家さんが、畑で採れたという茄子をくれた。なぜこのタイミングで、とか、少し考えてしまったが、食べものなのでとりあえずおいしくいただいた。食べものには何か人間関係を難しく考えさせない効能があるらしい。

 美しき黴や月さしゐたりけり/加藤楸邨

第四句集『雪後の天』(一九四三年)に収録された一句。末尾の「けり」は切字ではないのだろう。それから、黴が句の主役だと思われるので、この月は、梅雨前後の月なのだろう。手元の歳時記で黴の項を読んでみると、季題としては、住居、皮革、什器、衣類などに発生する普通の黴のことと記されていて、意外にも食物の黴について言及されていない。であれば、消灯後、月明かりで、自宅か宿泊先の、壁かどこかの黴をしみじみと見ている状況と解釈すべきか。しかし、この黴、現在の感覚で読むせいなのか、食物の黴だと読んでみたくはある。本気にせよ皮肉にせよ、「美しき」の一語が発生するのは、強烈な衝撃から来るものだと思うのだ。それにもっともふさわしいのは、やはり食物の黴ではないだろうか。

きょうの一首。

 ドアノブのどれもが鈍いぎんいろで奥で茄子など焼かれる夕べ/荻原裕幸

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July 03, 2009

2009年7月3日(金)

朝、この夏はじめて蝉の声を聞く。午後、地下鉄に乗っていたら、二十代半ばと三十歳前後に見える女性の二人連れが目の前の席に坐る。営業職の先輩後輩といった感じで、快活に話をしていた。しばらくすると、先輩らしき女性が鞄をひらいて、何を出すのかと思ったら、ラップに包んだ手製の巨大なおにぎりとコンビニで買ったと思われるチキンだった。右手におにぎり、左手にチキンをもって、むしゃむしゃと食べはじめる。ちょっと行儀が悪いなと思う。

栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「軽」。この題は書きにくいのではないかと予想していたのだが、意外にすんなりまとまった感じの詠草が揃っていた。あるいはもう少し難しい題を出すべきなのか。ただ、別の目的があってのトレーニングではないので、あまり題にふりまわされずに楽しめる題が望ましいだろうとも思う。しばらく様子を見てあらためて考えることにした。講座はいつものように少し延長となる。

きょうの一首。講座で「軽」の題の作例として見せた一首。二句目の字余りは「雲の軽さを」として簡単に解消できるし、それがセオリーだが、なんとなくそうする気にはなれなかった。

 たましひは夏雲の軽さ得てどこへ行つたか帰る気配なき午後/荻原裕幸

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July 02, 2009

2009年7月2日(木)

調べもので日本地図をひらいたついでに、行った記憶のない都道府県を数えたら十三箇所あった。行ったことがあるのは三十四ということになる。だから何ということもないのだが、残り十三というのは、なんとなく制覇してみたい気分になる数字だ。ちなみに、時々話題にしているように、住んだことがあるのは一箇所だけ。こちらは一生のうちにもう一箇所くらいは増えてもいいかなと思っている。

東桜歌会の例会の日。午前から午後にかけて、ファックスやメールで、歌会の詠草がばらばらと届く。自分のパソコンがまだ復旧していないので、家人のマシンやプリンタを借りてどうにか対応したのだが、勝手が違ってプリントの作成にやたらに時間がかかる。夕刻から栄の愛知芸術文化センターで歌会。ふだんより十分以上も遅れて到着した。参加者は11人。題詠「並」と自由詠各一首を提出。題詠では、意味の文脈が比較的すっきりと通る作品に票が集中していた。あまり良い傾向とは思えなかったので、議論のなかでそのことを指摘しようかとも思ったのだが、話をそこに誘導してゆける流れにはならなかったので、とりあえずここにメモしておく。

きょうの一首。「並」の題詠として歌会に提出した一首。助詞の「と」と「を」がわかりづらいという指摘をうけた。自分としては少し意外だった。

 ねむつても息をしてゐる不可思議な丘と新緑を並んでねむる/荻原裕幸

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July 01, 2009

2009年7月1日(水)

きょうから七月。中京大学のオープンカレッジの日だったが、先週末、学生の一人が新型インフルエンザに感染したのが確認されて公にもなっているようで、きょうまで名古屋キャンパスが休講かつ立入禁止になっている。講座の日程も一週間ずつうしろにスライドすることになった。夕刻、家人と大須に出かける。所用を済ませて、沖縄そばを食べて、珈琲を飲んで帰宅。

 鶏頭の十四五本もありぬべし/正岡子規

一九〇〇年/明治三十三年の一句。きのうも少し触れたが、現在なおも議論を呼び続けるという意味で、凄い句である。ただ、読んで凄いという印象をもったことは、自分には一度もない。いつか凄いと感じるときが来るだろうか。この句、病床の子規という文脈から逸れて読むと、鶏頭を見る、その視線だけが残る。「十四五」というのは、どんな状況から生じる数字なのかとよく思う。たとえば、飲食店に空席待ちの人がごちゃごちゃと群がっていて、十人近くまでさっと数えて、まだもう少しいるなというようなとき、十四五という数字が出ることはあるだろう。おおよそは知りたいのだが、ほんとに正確な数字が知りたいわけでもない感じだ。鶏頭に向ける視線もそんな具合かと思われる。或る日の庭の様子を、なんとなく句にしてみたところ、無関心でもなければ特に切実でもない、穏やかな心象が反映された、ということではないのだろうか。

きょうの一首。

 爆弾も降らない天使も降りて来ないどこまでも梅雨つづく昭和区/荻原裕幸

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