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August 31, 2009

2009年8月31日(月)

衆院選は、自民党が119議席、公明党が21議席、与党両党をあわせても、議席は過半数に満たなかった。一方、民主党は308議席まで伸びた。数字はほぼ選挙前からの予想通りで、まだあまりぴんと来ないが、政権交代が現実のものとしてやって来ることになった。台風11号は、名古屋にはあまり影響を与えずに過ぎたようだ。関東方面ではずいぶん暴れているらしい。

きのうのきょうの一首に書いたように、体調を崩してしまった。咳とか高熱とかはないものの、からだもあたまも風邪だと訴えている。市販の風邪薬を飲んで、できるだけ安静にしていた。あすの東西句会に出るのはちょっときつそうなので、幹事さんに欠席のお詫びのメールを入れる。あたりまえのことだが、風邪っぽいと、思考力や集中力が著しく低下する。こうしてだらだらと文章を書いているのは、まだ何とかなるのだが、短歌や俳句を考えるとなると、思考の濁りや曇りが邪魔をして、どうにもならない感じだ。

きょうの一首。過去のメモから拾い出した一首。

 秋のはじめの妻はわたしの目をのぞく闇を見るのと同じ目をして/荻原裕幸

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August 30, 2009

2009年8月30日(日)

第45回衆議院議員総選挙の投票日。午後、近所の投票所の前を通ると、親子連れの姿が何組も見られた。どこかに出かける前に投票を済ませるのだろうか。母親の一人が、何もこんな暑いときに選挙をしなくてもいいのに、とぼやいていた。たしかにかなり暑い日だったが、それを言うなら、何も投票日にこんなに暑くならなくてもいいのに、ではないのか。夕刻、家人が友人たちと会食に出かける。留守番。

 バス停の椅子と一緒に朽ちてゆく/草地豊子

昨日に続き、『セレクション柳人・草地豊子集』(邑書林)に収録された一句。毎日のように利用しているバス停の椅子が劣化してゆくのと、利用者自身もその分だけ齢を重ねてゆくのとを、少し強引にひっくるめて言ったのが、一緒に朽ちてゆく、というフレーズなのだろう。自身のことか他人を見ているのかははっきりしないが、いずれにせよ、その時間の重みが読者にも実感できるところが巧いと思う。また、ことばの意味を真に受けて読むと、永遠に来ないバスを待って、バス停の椅子とともに朽ちてゆく一人の姿が見えたりもする。こちらはいかにもロマン主義的だが、陰画的にそうした世界を含んでいるのも、この句の味わいを豊かなものにしているのではないだろうか。同句集から他にも好きな句を引用しておく。

 画鋲の穴が一年分ゆるむ/草地豊子
 掃除機の中の真冬をポンと出す
 ロッカーの枯れ野一式持ち帰る
 赤ちゃんに背びれがないか裏返す

きょうの一首。夕刻から。

 どうやら風邪をひいた模様でモニターの文字が数匹泳ぎはじめる/荻原裕幸

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August 29, 2009

2009年8月29日(土)

午前、猫の世話。もう少しで義姉が帰って来るよ、と言ってもなぜか話を聞いてくれない。理解できていないのか、わざと聞き流しているのか。ともかく、帰って来たら甘えて思いきり暴れてやるといいよ、と伝えておいた。これには、にゃん、とか答えていたのだが、それが、イエスなのか、ノーなのか、わからなかった。義母と義姉が帰国。家人がセントレアまで迎えに行く。留守番。

 雨かしら振り込め詐欺の人かしら/草地豊子

『セレクション柳人・草地豊子集』(邑書林)に収録された一句。疑問文を連接して何かを掴み出すという、川柳ではよく見かける文体である。素材の関連性が作品の核となり、同時に、作家の志向を明確に映し出す。ことばの感触を楽しんで全く関連のないものを結びつければノンセンスな笑いが生じるし、あえて関連の深いものを並べれば日常的な実感が得られる便利なかたちなのだが、便利なだけに濫用されて見飽きられてもいる。ただし、この句のように文脈が見えそうで見えない中間的なスタイルは、まだ汲み尽くされていない井戸という気がする。外に雨の気配を感じて、雨かしら、電話の向うに胡散臭いものを感じて、振り込め詐欺の人かしら、と思うそれぞれ独立したかしらをつなぐことで、天候とこの犯罪との現在における等質感のようなものを見せているのだろう。この文体特有の、ノンセンスな笑いと日常的な実感との双方を巧くたぐりよせた句だと言えようか。

きょうの一首。

 他家の電子音その他がマンションの秋めいて来た谿間にひびく/荻原裕幸

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August 28, 2009

2009年8月28日(金)

午前、猫の世話。彼女が人のことばをどの程度まではっきり理解しているのかはよくわからないが、何々したら嫌だよ、と言うと、大抵はやめてくれる。逆に、何々してね、に反応するケースは少ない。種族としての属性なのか、個体の属性なのか。家人が歯科で治療をうける。少女期に治療した奥歯の金属冠の内部が派手に虫歯にやられていたらしい。話を聞いているだけでも歯が痛くなりそうだ。

昨日、短歌誌「鱧と水仙」第33号が届いた。「森岡貞香の一首・齋藤史の一首」という特集が組まれて、メンバーが両歌人の作品から一首ずつ選んで鑑賞している。再評価ということであれば、短歌史を俯瞰しての評論も必要だろうが、まずはきちんと作品を読むというのは大切だし、それぞれのメンバーの短歌観もはっきりと見えて楽しい。同号には、植山俊宏さんの第一歌集『魚政の親父』(二〇〇八年)の書評を寄稿した。「詩的な整理を遠く離れて」と題して、400字で6枚。同歌集の、方法論とは見えない方法論について考えてみた。

きょうの一首。

 上腕二頭筋のかたさのよく見えるシャツは巷にあふれてゐるが/荻原裕幸

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August 27, 2009

2009年8月27日(木)

午前、猫の世話。人が人以外の生物と話をするとき、ほぼ無意識に口調が決まっていると思うのだが、自分は年少の友人と話をするときの口調になるらしい。深夜、家人が歯の痛みを言いはじめて慌てる。家人は痛みの類に強いと言うか鈍いと言うか、ともかくがまんができてしまうので、痛いと口にするのは、すでにかなりまずい状態になったときなのだ。深夜の歯科の救急がどうしても見つからないので、名古屋市立大学病院で、診察と鎮痛剤の処方をしてもらってどうにか治まる。

 鈴が鳴る私に鈴が付いている/芳賀博子

昨日に続き、第一句集『移動遊園地』(二〇〇三年)に収録された一句。鳴っているのは比喩としての鈴だろう。実際に鈴を付けられた人物を想像してみるのも楽しいのだが、日常生活のなかで、鈴が付いている、と比喩される状態がどんなものなのかと考えてみる方がより楽しく読めると思う。むろん、鈴を付けられた当事者にしてみれば鬱陶しいことなのだろうけど。鈴を付けられる、すなわち、家族や友人や同僚からある種の「危険人物」に認定されるのは、自分の知るかぎり、悪い人ではない。逆に悪い人をゆるせなくなってしまうタイプだ。あの人が大胆な行動に出る前に止めなくちゃとか、周囲からそう心配されて鈴を付けられたのではないか。同句集から他にも好きな句を引いておく。川柳との蜜月といった感じの句がとりわけおもしろい。

 人生をすべて黒子のせいにする/芳賀博子
 片っ端から弟にしてはしご酒
 心から言ってしまったおめでとう
 旧姓で長い手紙を書いている

きょうの一首。

 性的な比喩ではないのだがからだから外せぬ鈴が秋の夜を鳴る/荻原裕幸

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August 26, 2009

2009年8月26日(水)

午前、猫の世話をして、猫に遊んでもらってから、一年ぶりに健康診断をうける。前に受診したときは、コレステロール値が少し高かった。問診の結果、鶏卵の食べ過ぎと運動不足が問題ではないかと指摘されたので、以後しっかりと対応している。良い数値が出るとうれしいのだが。午後、父が、母の実家から届いた林檎をもって来てくれる。長野産のつがるだという。不思議ではないが、奇妙な感じ。

 あきらめてこんなにまるい朝である/芳賀博子

第一句集『移動遊園地』(二〇〇三年)に収録された一句。まるい、のイメージがやや掴みづらいが、角ばった、の対義語だと考えればいいのだろう。具体的に何を諦めたにせよ、何かを諦めたときのこの感覚は、よくわかる気がする。一事にこだわり続けても、諦めたときにも、得られるものと失うものとがそれぞれにある。ただ、後者の場合、やり直しのきかない、不可逆的な結果を受容するしかない。まるい、というのは、緊張から解放されたのと同時に、選択の余地がなくなったことをも意味するわけだ。一夜が明けて新しい状況をしみじみと噛みしめるなかには、一抹のさみしさもまぎれているのではないだろうか。

きょうの一首。

 まだどこかに夏を含んで揺れてゐる朝のバスにて過ぎる熱田区/荻原裕幸

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August 25, 2009

2009年8月25日(火)

午前、義姉の飼っている猫の世話をする、と言うか、猫に遊んでもらう。初対面ではないのだが、顔を見せると、あなた誰なの? 新しい下僕? まあがんばってやんなさいね、と言ったかどうかはわからないのだが、にゃんとかみゃんとかふにゃんとかいうような声をかけてくれた。科白はもちろんこちらの想像だが、女ざかりの雌猫である。きょうは家人から世話のだんどりを教えてもらった。

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、『セレクション歌人・大塚寅彦集』(邑書林)と森井マスミさんの第一歌集『ちろりに過ぐる』(短歌研究社)。前者については、ここでも少し触れたことだが、完本で収録された第一歌集『刺青天使』の初版の改稿について考えてみた。後者については、意識的な方法論から少し逸れたところに、面白い味の出ている作品があるというようなことを述べた。ちなみに、森井さんの歌集の栞文の各執筆者のタイトルを列べて読むと、何か圧倒される。藤原龍一郎「リミックスと述志」、尾崎まゆみ「劇という方法」、吉川宏志「シミュラークルの挑発」、加藤治郎「引用の彼方に」。

きょうの一首。

 用途を知らぬ電卓のキーが三つ四つあること鰯雲が出たこと/荻原裕幸

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August 24, 2009

2009年8月24日(月)

誕生日。四十七歳になる。早朝、義母と義姉夫婦がタイに出かけるのを見送る。義姉の夫はそのまま滞在して、義父の会社で仕事をはじめることになる。昨夜、眼鏡を外そうとしたら、いきなり眼鏡が真二つになったので驚いた。縁のないタイプで、レンズとブリッジとが左右各一点で接着されているのだが、その一つが取れていた。幸いなことに他に破損はなかった。午後、眼鏡屋で修理してもらう。

誕生日でしばしば思い出すのは、その話題になるたび、母が、ヒロユキが生まれたときは暑くて暑くて大変だったんだよ、と息子に向かって苦情を言うことである。たしかに暑くて大変だったにしても、責任の所在はたぶんこちらにはない、と幼い頃から感じてはいたが、たとえ冗談にしても、ふだん苦情をほとんど言わない母の苦情の口ぶりにはどこかしら説得力があって、繰り返し聞いているうちに、自分が好んでこの時期に生まれたような気分になることもある。

きょうの一首。

 誕生日はどこから来るのとたづねれば樫の向うをさす母のゆび/荻原裕幸

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August 23, 2009

2009年8月23日(日)

処暑。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。数値的に名古屋は真夏日だったのだが、まるで暦に調子をあわせたように、朝夕の涼しい一日だった。タレントの酒井法子さんが、覚醒剤をめぐって逮捕されたことを、マスメディアがあれこれ大きく報じるのはよく理解できるのだが、テレビ番組のコメントなどで、反省を促すレベルを超えて、執拗なまでに批判が続くのが理解しづらい。

 ひと夏のをはりの海に群青をわすれて軽しわが絵具函/江畑實

第一歌集『檸檬列島』(一九八四年)に収録された一首。晩夏、海の絵を描きに出かけて、頻繁に使ったからなのか、群青の一色をどこかに置き忘れて来た、と、そういう具体的な事象が述べられているわけだが、語句のほぼすべてが心象的表現であるように見える。「ひと夏」という語感が、絵具を買い直しても元には戻らない不可逆的な時間を示唆していて、俗っぽく言えば、おとなになる、という感覚の短歌的表現であろうか。「群青をわすれて」という含みのある美的なフレーズにも惹かれるが、何よりも、矜持と諦観と寂寥とが絶妙にブレンドされた「軽し」の味わいが佳い。江畑實の代表作の一つに数えたい歌である。

きょうの一首。

 秋にのこる夏の感じが薄らいでけふのひざしはゆつくり届く/荻原裕幸

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August 22, 2009

2009年8月22日(土)

名古屋では真夏日がまだ続いているのだが、新型インフルエンザの「流行開始」の報道が出はじめている。これで冬になったらどうなるんだろう。各マスメディアの情勢調査によると、今回の衆院選で民主党は300議席を超える勢いのようだ。先日の朝日新聞の調査と比較すると、民主党の支持がさらに伸びて、投票先を決めていない人の割合は減っている模様。揺り返しがあっても政権交代は必至というところまで来ているのかも知れない。

 鳥渡るこんなところに洋服屋/高柳克弘

昨日に続き、第一句集『未踏』(ふらんす堂)に収録された一句。鳥の姿を目で追うことで、ふだんは見ない場所に視線が届いて、こんなところに洋服屋があったのだと小さく驚いているところだろうか。鳥渡る、に移転のイメージを見るなら、見知った風景のなかに新しく移転した店があらわれた、とも解釈できるが、とりあわせを修辞的に関連づけるよりは、空間的に関連づけて読んだ方が、この句の場合、奥行がひろがるのではないかと思う。われわれは、日常のなかの小さな発見が、小さな発見以上の何かになることなどほとんどないと知ってはいるが、それでも、この洋服屋から物語的な何かのはじまる予感を消すことはできない。饒舌になれば消えてしまうであろうその予感を、五七五という寡黙さが支えているようだ。

きょうの一首。

 終列車のホームのやうにひとの顔ならんで八月下旬のひかり/荻原裕幸

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August 21, 2009

2009年8月21日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「涼」。最近、少しハードルを高くしてしまっているのか、気づくと、それなりにまとまった作品にもだめだしをしていたりする。おのずと添削や改稿のヒントをかなり明確に提示する必要が出る。その場でアイデアを出すのは楽しいことだが、ハードルを高くすると、説明も増えるし、時間がかかる。そんなわけで、一時間近く延長になった。

 木犀や同棲二年目の畳/高柳克弘

第一句集『未踏』(ふらんす堂)に収録された一句。木犀の香りに気づいて、そう言えばちょうどこの時期だったなと一年前の引越を思い浮かべたのだろうか。入居したときに表替をした畳も、二年目となって、新しい感じは失われ、しかし劣化するほどではなく、そのまま二人の状態や心境と重なってゆく。来年はどうなっているのかわからない。関係が解消されるのか、そのまま入籍するのか。答のまだ出ていない未来に向かって、いまここにいる二人の輪郭がぼんやりと揺れている印象だ。類似体験の有無にかかわらず、読者の感覚を揺さぶるちからのある句だと思う。

きょうの一首。講座で「涼」の題の作例として見せた一首。

 涼しさに含まれてゐる淋しさの率もうここに秋は来てゐる/荻原裕幸

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August 20, 2009

2009年8月20日(木)

朝日新聞の選挙序盤の情勢調査によると、今回の衆院選で民主党が300議席に迫る勢いだという。まだ伸びるのか、それとも揺り返すのか。きょうは、家人と二人ともせわしい日で、昼が中食、夜が外食となった。外に出ると、場所にもよるが、かなりの数の若者が、深夜になってもごくふつうに出歩いている姿を見る。まだ夏休みの高校生か大学生だろう。見るからに甘酸っぱい感じを漂わせている。

俳句誌「未定」第89号で、「詩の現在・詩は死んだのか」という特集が組まれていた。創刊30周年記念号でもあり、読みごたえのある内容となっている。とりわけ注目したのは、黒瀬珂瀾さんの寄稿した「ポエジーの再生 永井祐を巡って」。永井祐さんの作品を中心に据えて、現代短歌の動きを分析した文章である。内容についてはここもしくはどこかであらためて述べるつもりだが、とりあえず、黒瀬さんの書いた文章のなかで、と言うよりも、現在の短歌をめぐる分析系の文章のなかで、自分の読んだかぎり、もっとも深くまで目や手の届いたもの、だと断言しておこう。短歌の現在が気にかかる人は必読。

きょうの一首。びたーすいーと。

 おはよーとおやすみだつた挨拶をおはよーとさよならにした秋/荻原裕幸

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August 19, 2009

2009年8月19日(水)

夜、近所の居酒屋で、義母と義姉と家人と、この秋からタイの義父の会社に勤めることになった義姉の夫の壮行会をする。身内の会社とは言っても、なかなか思い切りのいい転職の決断で、傍にいる者にも、理解できる面と理解しづらい面がある。具体的な力になれることでもないし、がんばれと言って応援するしかない。この顔ぶれとしては珍しくお酒の進む席となった。

人の「本音」というのはどこにあるのだろうとよく思う。家に家人と二人でいるようなとき、たとえばテレビを見ながら、感じたことをそのまま口にしている。おそらくそれは本音のはずなのだが、家人から、つい先日、違うこと、正反対のことを言っていたよ、と指摘されることがしばしばある。短期間で何が変化したのか、自分ではよくわからない。反射的に出て来ることばは、嘘ではないにしても、どうやら安定性がないらしい。一方、安定性が生じるほど何回も考えられたことは、本音と言うにはあまりにも多くのフィルタを通過して、どこか変形してしまっているのではないか。本音で話すとか本音で生きるとか、理想の行為のように語られることがあるが、まさに理想であり、実行するのはなかなかむずかしいみたいだ。

きょうの一首。

 ひざかりの他人のすべてが眩しくて関心のないふりして過ぎる/荻原裕幸

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August 18, 2009

2009年8月18日(火)

衆議院議員総選挙の公示日。しばらく選挙の報道でにぎやかになりそうだ。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。きょうは、神戸からの新しいメンバーを一人加えて、七人が参加。題詠「泳」と雑詠。いつもの通り、無記名の詠草から選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。句会後、会場近隣の喫茶店にて歓談。きょうの句会に提出したのは以下の二句。

 泳ぎやすそうな甘さの秋の水/荻原裕幸
 よく喋る木には葡萄がよく実る

青磁社ホームページの短歌時評「ふりがな考」で、松村由利子さんが、短歌のルビについて考察しているのを読んだ。「表現としてのふりがな」の例として「近代から戦前生まれの歌人の作品」を例にあげながら、塚本邦雄をスルーしているのは、意図的なものなのだろうか。塚本邦雄が展開したルビの世界をめぐって、是非はさまざまにあるだろうが、短歌におけるルビ表現についての考察に入っていないのは、やはりどこか違和感がある。

きょうの一首。

 同じくらゐの買物袋を提げてゆくうしろすがたを見ながら秋暑/荻原裕幸

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August 17, 2009

2009年8月17日(月)

名古屋はきょうも真夏日。残暑がどこまでも続いてゆく感じである。先日、家人と映画「サマーウォーズ」を観た。細田守監督の前作「時をかける少女」は、劇場で観なかったのを後悔させられたので、この作品はしっかりと劇場で。公開中につき、内容には触れないが、かなり細かい部分まで楽しむことができた。前作のように、親しんだ原作のある映画もいいものだが、やはりオリジナル作品は格別だと思う。

 あまつさへしかるにしかしのみならずいはばいくらか母をあざむく/岡井隆

歌集『歳月の贈物』(一九七八年)に収録された一首。上句の接続語の羅列がつくりだす調べは、意味を構成していないにもかかわらず、まるでオノマトペのようで、そこには意識の流れに似た何かが浮かびあがる。結果として母を欺くことになるその行為はやむを得ないのだが気が咎める、と言うのでは伝わらない微妙な感情を、詳細かつ正確に表現しているようにさえ見える。修辞的に分析すれば、「いはば」や「いくらか」をひきだす序詞に類するものなのだろうが、短歌の定型が生む調べが、何かを表現している、という感じをそこにもたらすのかも知れない。歌集では、直後に「さりとてもさらばはてさてひとしきりじじつしんじつ吾(あ)を見うしなふ」という似た文体の一首がある。ほぼ同じ方法なのに、こちらは序詞にしか見えない。違いは何なのだろうか。

きょうの一首。

 いつ見てもひらかれてゐる秋雲のゆく窓としてしづかに母は/荻原裕幸

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August 16, 2009

2009年8月16日(日)

巷では、昨日がUターンラッシュのピークだったらしい。お盆休みもきょうで終るところが多いようだ。何も関係がないわけではないのだが、あまり深く関係があるわけでもない休みの流れである。書斎の机まわりがまたかなりちらかりはじめている。先日の地震では崩れなかったものの、崩落寸前の本の山がいくつかある。そろそろ少しかたづけをしないといけない。

 わたしは、一芸を技術的に磨き上げたいという志において、アルチザンに徹したいと今でも思っており、これは十七歳で作歌を始めてから今まで変ることはない。/岡井隆

エッセイ集『瞬間を永遠とするこころざし』(日本経済新聞出版社)に収録されている「アルチザンという誇り」の一節。帯にも抜かれていたが、岡井隆を理解するために不可欠のことばという気がした。技術的な貪欲さは、ありとあらゆる方法に作家を駆り立てる。岡井隆が、前衛短歌をはじめ、その時代の新しさや流行に、過剰なほど敏感であるのも、職人的な欲望によるものなのだろう。どこか反撥をまねきそうなことばではあるが、自分はすっきりと納得できた。

きょうの一首。少し岡井隆風に。

 河のはてにはかならず海があるといふ正論の船しかし見送る/荻原裕幸

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August 15, 2009

2009年8月15日(土)

終戦記念日。その方面での問題が何もないわけではないのだが、六十四年間、日本はともかく「戦後」であり続けている。「戦後」が「戦前」と化さないように。そのような意識を失わず、書いたり考えたりしてゆきたいと思う。午後、家人が義母と出かける。留守番。家のなかがしんとしていると、窓を閉ざしていても、外から大量に音が流れこむ。蝉が部屋のなかで鳴いているみたいだった。

 月を見る平次の腰にくろがねの〈交換価値〉の束はゆれをり/中山明

昨日に続き、第一歌集『猫、1・2・3・4』(一九八四年)に収録された一首。テレビドラマでよく知られる「銭形平次」の「銭」を、経済学の文脈のなかで捉えるような発想が、一九八〇年代的な、価値観の多様化、と言うか、価値観の歪みを体現していると感じられるため、ライトヴァースあるいはポストモダンの代表的な一首として読まれている。ただ、この一首を含む連作「江戸の日曜日」は、やや軽いタッチながらも、近世以前の状況を現代の視点で捉え直すというテーマがあきらかで、この一首のユーモアも、価値観の歪みからではなく、実直なテーマの追求から生じたものだと考えるのが妥当ではないかと思われる。

きょうの一首。

 昭和かすかに草のひかりに含まれて終戦記念日しづかに暮れる/荻原裕幸

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August 14, 2009

2009年8月14日(金)

午後、父と母が遊びに来る。お茶とお菓子を囲んで歓談。父母と話をしていると、懐かしい時間にかぎりなくひきもどされてゆくときがある。何かをきっかけに、あとからあとから記憶が湧き出て来る。親子の会話なのでさして不思議はないのだが、時間を遡るスイッチがどこでオンになるのか、何が「マドレーヌ」なのか、わからなくなることが多い。きょうなどは、それが何なのか気にかけて話をしていたのに、気づいたときはすでに懐かしい時間のなかにいた。

 ある時期にかかはりて聴く一曲のブレスあやふき中島みゆき/中山明

第一歌集『猫、1・2・3・4』(一九八四年)に収録された一首。一九八〇年代はじめの、名古屋での女歌のシンポジウムをモチーフにした連作の冒頭にある。歌集にはこの「一曲」の歌詞が詞書風に入れられている。「かなしみ笑い」である。ほぼあきらかにされた作品の背景を楽しむのも一つの読解ではあるが、中島みゆきを聴く人ならば、自分の「一曲」を想定して読むことも可能だろう。「ある時期にかかはりて聴く」や「ブレスあやふき」は、この一人称の私的体験と「かなしみ笑い」とをつなげてゆくように、読者の私的体験とそれぞれの中島みゆきの「一曲」をつなげる、汎用的で巧い修辞だと思う。

きょうの一首。

 セルフカバーに違和感のある一曲を聴きながらゆく千種区の坂/荻原裕幸

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August 13, 2009

2009年8月13日(木)

昨夜、今年はじめてつくつく法師の声を聞く。暑さが峠を越える兆しか。あれを聞くと何かこうとてもけだるい感じがするのは、少年期の、夏休みの終りが近づいて来る嫌な気分の記憶とぴったり重なるからだろうか。どちらかと言えば蜩が、夏休みの終りの印象に近い気もするが、なぜか蜩の声の記憶はほとんどない。午後、義母と家人と買い物に出かける。この時期のスーパーは混みあうのか思ったが、ふつうの平日の午後と同じような人出だった。

「NHK短歌」9月号が届いた。番組に基づく「上達のワンポイント」として、『青年霊歌』の一首に、加藤治郎さんの解説がほどこされている。例の正岡子規の「真砂ナス数ナキ星ノ其中ニ吾ニ向ヒテ光ル星アリ」からの本歌取が問題にされる一首なのだが、虫食い問題風に解説が展開されて、自分が作者だというのとは関係なく、とても楽しめる文章だった。ちなみに、最近の「NHK短歌」、選者の年代にも影響されているのだろうが、以前と比較して、内容的に、ものすごく若くなっている、という印象がある。

きょうの一首。

 何となく歩きはじめる何となくひぐらしの声の奥にむかつて/荻原裕幸

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August 12, 2009

2009年8月12日(水)

日が暮れてから外出。地下鉄で、かなり派手な身なりなのに、それに反して化粧がやけに地味な女性が向かいに坐った。落ち着かないなあとか思っていると、鞄をごそごそと探りはじめて、やがて化粧をはじめる。車内での化粧はどうかと思うが、その変貌ぶりに、なるほどと納得する。原稿の関係でお世話になっていた人が、近々東京に異動することになったので、池下のオステリアリュウというイタリア料理の店で、少人数での送別会をする。眼前の料理の話やギョーカイの話で楽しい時間を過ごす。

 やわらかく電車は揺れて恋人にたぷんと傾くひとを見ている/本田瑞穂

昨日に続き、第一歌集『すばらしい日々』(二〇〇四年)に収録された一首。他人の恋愛というのは、なかなか描きにくいモチーフで、迂闊に心情に踏みこむと、他人に対する勝手な思いこみでしかなくなるし、二人の様子を描いても、多くはわたしの心情のあからさまな投影になってしまう。そこにいる他人の姿を他人として写しとるのには、何か必ず工夫が必要になる。この歌の場合、恋人同士の姿を見ている以上の何もしない何も考えないわたしの存在が、他人を他人としてそこに存在させているようだ。「たぷんと傾く」という小さな発見が、他人の存在を通して、世間を俯瞰する大きな視点を読者にもたらすような感触がある。

きょうの一首。

 最後に泳いだのがいつなのか誰とだか思ひ出せずに揺れる八月/荻原裕幸

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August 11, 2009

2009年8月11日(火)

未明に地震。しばらく大きく揺れていた。名古屋は震度4だったそうだ。震源が駿河湾だというし、震度6弱のエリアもあったというので、予測されている東海地震かその前兆かとも思ったが、関連性は薄いと報道されていた。ミハエル・シューマッハが今期のF1復帰を断念したという。少し前に痛めた首が、レースのプレッシャーに耐えられないだろうというのが理由。やはりちょっと残念。

 なかゆびのゆびわがひかる急に日が落ちたとおもう鏡の中で/本田瑞穂

第一歌集『すばらしい日々』(二〇〇四年)に収録された一首。非現実的なことは何も書かれていないわけだが、日没に気づき、見つめる鏡のなかの、中指の指輪のひかりに気づいたのは、非現実的な空想から現実のいまここに戻って来たということではないかと感じて読んだ。たとえば、さっきまではくすりゆびにゆびわがあったはずなのに、という文脈につなげて読んでみると意識の流れがはっきりするだろう。空想そのものは何のちからももたないが、空想から現実に戻ったときの、充足と焦燥とが渾然一体となった感覚は、世界の表情を少し変えてくれるし、個人を何かに向かって動かすちからにもなる。この類の空想と現実逃避とは似て非なるものだと思う。

きょうの一首。初案は「見るといつも」だったが、普遍化/一般化しない方が、行為の感触がはっきりするような気がしたので。

 見ると残暑のわたくしがゐて表情筋をすこし動かす鏡の向う/荻原裕幸

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August 10, 2009

2009年8月10日(月)

午後、或る場所で喫煙をしていたら、どこからともなくとてもかわいらしい黒猫があらわれた。眼前をゆっくりとよこぎるので、よろこんでじっと見ていたのだが、そう言えば黒猫を凶兆のように言うことがあるなあと思い出して、なぜなんだろうとぼんやり考えていた。そもそも招き猫ならば黒猫は厄除ではないか。吉兆と凶兆は、ときに同じものであったりするし、単純に数が少ないとか見る機会の少ないことが、何か特別な兆しと思われているだけなのかも知れない。

 足音は夫かも知れぬ桃を剥く/岩田由美

昨日に続き、第一句集『春望』(一九九六年)に収録された一句。家に近づく足音が聞こえるのは、あたりの静かな時間帯なのだろうし、窓を開けて過ごしているのだろう。夫が帰宅して果物を食べるというのは、食事は互いにすでに済ませたということなのか。なんとなく状況が見えそうな気はするのだが、しかし、夫である「かも知れない」足音を聞いて、確信もできないまま桃を剥くというのは、ちょっと奇妙だ。よほど夫が待ち遠しいと解釈できなくはないが、それならば「足音で夫だとわかる」になりそうなものだ。たぶん、人の足音を聞いて、そう言えば夫はそろそろ帰宅するのだと思い出して、桃を剥く妻としての日常に戻ったのだろう。妻としての日常に戻る前はどんな状況だったのか。決して不快ではない謎を残したまま、句が読者にゆだねられているようだ。

きょうの一首。

 とがりながらどこかまるみをおびてゆく妻に服従して桃を剥く/荻原裕幸

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August 09, 2009

2009年8月9日(日)

長崎原爆忌。午後、家人が義母と出かける。留守番。某政党の新聞広告を見て、そのイメージ広告的なありふれたビジュアルとコピーに、ちょっと空しいものを感じていた。表現的にどうこうというわけではないのだが、政党名と人物の写真とをさしかえれば、そのまま某他党の広告としても使えそうだったからだ。これでは政党名と候補者名だけを連呼して走る選挙カーと同じだろう。

 香水のなかなか減らぬ月日かな/岩田由美

第一句集『春望』(一九九六年)に収録された一句。香水は、俳句的には、句のなかの現在を夏と規定するわけだが、一句にただようややネガティブな感慨のようなものは、夏の終りから初秋にかけてのイメージか。この夏もまた減らなかったという事実をあらためて噛みしめているところなのだろう。一人称は、日常的に香水を使用するわけではなく、その機会があれば使用するというスタンスなのだと思う。「なかなか減らぬ」は、その機会の少なさを意味する。日常を逸れた華やかな場所へのあこがれと、日常に束縛される退屈とが、句の背景にゆらめいている。手にした香水壜を軽く振って、遠い海鳴りのようなものを聞いている人の姿が浮かんで来た。

きょうの一首。

 ふみきりのあのひびきよりいくらかはゆつくりとうつ秋の脈搏/荻原裕幸

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August 08, 2009

2009年8月8日(土)

猛暑日に近い暑さだった。しばらくは厳しい残暑が続くのか。家人が、保管期限ぎりぎりまであずかってもらっていた冬物を、クリーニング店から回収して来た。この時期に厚いコートを見ると、それだけで汗が出そうだ。昨日、第22期竜王戦決勝トーナメントで、羽生善治名人が森内俊之九段に敗れる。羽生名人は、あと一勝で挑戦者決定戦の三番勝負に進出できたのだが、今期は手が届かなかった。王位戦に続き、あとわずかのところで一敗を喫してのリタイアとなる。

或る俳句のアンソロジーを読みながら、句集に収録された作品かどうか、また、収録句集のタイトルや発行年、が明記されていないことに、強い違和感をおぼえた。歳時記の場合はスペースの都合でやむを得ないかなとも思うのだが、アンソロジーの類にそれを入れるのは雑作ないことだろう。句集の単位ではなく、一句単位で独立して読むことにこだわりがあるのかも知れないが、前後の句や構成によって生じる文脈があるかどうかは、結果としてそれを無視して読むことになったとしても、読者として一応は知っておきたいところだ。

きょうの一首。

 永遠はどこにでもある蝉の殻を誰かあつめてひだまりに置く/荻原裕幸

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August 07, 2009

2009年8月7日(金)

立秋。女優の大原麗子さんが亡くなったのをニュースで知る。享年六十二歳。彼女の特徴を言うのに、ハスキーボイス、ということばが盛んに使われていて、そうかあれはハスキーな声なのかと、いまさらのように気づく。鼻にかかるような、とても甘えた印象の喋り方のせいか、むかしからずっと澄んで高い声だと錯覚していた。一九七〇年代のテレビドラマ「雑居時代」の印象が強く残っている。合掌。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人、詠草15首。題は「暑」。この時期に書きやすい題だったのか、自在にまとめられた詠草が多かったように思う。講座後、栄で家人と食事をする。デパ地下をまわってから別所に行くつもりだったが、おいしそうな西瓜を見かけて、丸のまま買うことになって、それを提げたら、ずっしりと重くてどこへも行けなくなる。冷蔵庫のスペースの都合で、いつもカットしたのばかりを買っていたので、西瓜の重さというものをすっかり忘れていた。

きょうの一首。講座の題「暑」でまとめた一首。

 大した用もないのにひとは街をゆく暑さゆるがぬ秋のはじまり/荻原裕幸

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August 06, 2009

2009年8月6日(木)

広島原爆忌。広島での記者会見で、麻生太郎首相が、隣国の核の脅威に対抗するためにはアメリカの核の傘が必要、と発言していたのがニュースで報じられていた。核の傘を次善策だと認識していたら、この日に広島でそんなことは絶対に言わないだろうと思うのだが、どうなんだろう。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は7人。この時期はやはり忙しい人が多いのだろうか。題詠「飾」と自由詠と計二首を提出。少人数だったので、詠草の読解と批評を、ふだんよりも時間をかけて進めた。

 秋風のふかさを測る母の手を見し日の岸よはるかなる岸/大塚寅彦

昨日に続き、第一歌集『刺青天使』(一九八五年)に収録された一首。初版では「みし日」だったのが、邑書林版では「見し日」に改稿されていた。この歌、上句を読むと、具体的な母のしぐさがどんな風だったのかを考えたくなる。もちろんこれはレトリックであって、ことばだけを手がかりに母のしぐさを確定するのが無理だとはわかるのだが、それでも何か具体的なしぐさとして思い浮かべたくなるのは、秋風、ふかさ、測る、母の手、岸、などの個々のことばが、ただレトリックのために選ばれたような審美性を帯びず、何らかの事実につながる感触をもっているからだろう。実感を失わない抽象化というのは、なかなか実現できるものではない。実に巧い歌だ。

きょうの一首。「飾」の題詠として歌会に提出した一首。

 夏のひざしのほかには特に飾るべきものなく3LDKしづか/荻原裕幸

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August 05, 2009

2009年8月5日(水)

外灯の明るさにひかれて、マンションの階段にやって来る蝉は、ほとんどが瀕死の状態なのだが、床に仰向けになってもまだ鳴いていて少しあきれる。夏がにわかにぐんと深まって、楽しいようなどこかもの悲しいような感じ。邑書林のセレクション歌人のシリーズから『大塚寅彦集』が出て、第一歌集『刺青天使』が完本で収録されたのだが、改稿されている歌がいくつかあって吃驚。愛読して来た歌集なので、いまのところまだ少し違和感がある。

 死者のかほ覆へるごとく白布干す窓ありこの蒼穹のきはみに/大塚寅彦

第一歌集『刺青天使』(一九八五年)に収録された一首。上記の改稿はない。刊行された当時、前衛短歌からの影響が、どちらかと言えば批判的なニュアンスで語られることが多かったように記憶しているが、時間とともに、前衛短歌の影響の下に新しい境地を拓いたことがはっきりして来たと思う。この一首、高層のマンションを見あげるように眺めているところだろうか。「死者」が出て来るが、その「死因」にまつわる何かを導き出して語ることはしない。重苦しいテーマを離れて、主題を空白に近づけ、短歌の文体や方法のちからを、ピュアなかたちで抽出している、と言ってもいいだろう。これこそが正統派のライトヴァースなのだと思う。

きょうの一首。

 存外にきまじめなことを言ひよこす直角のないかたちの葉書/荻原裕幸

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August 04, 2009

2009年8月4日(火)

数値的には猛暑日にならなかったようだが、それでもかなり暑い一日だった。某所で猫と散歩している人を見かける。人は猫に話しかけながら、とても楽しそうにしていた。猫はつねに日陰を選んで歩いていた。午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。東西句会の例会。参加者は四人。題詠「瓜」一句と雑詠四句のあわせて五句。いつものように無記名で互選と合評をする。句会後、会場のそばのコメダ珈琲店で、ひきつづき俳句の話をする。

句会に提出した五句は以下の通り。気ままに書こうすると見えない何かから強烈な抑圧をうけて、抑圧に苦しみながら書こうとすると意外に気ままに書けるのは、たぶん短歌も同じしくみではないかと思うのだが、俳句を書くときによりはっきりとそれを感じることが多い。今回もそのように定型にふりまわされながら書いていた。句会のとき、「ゆやけ」の句に対して、せめてもう一箇所くらいは漢字にした方がいい、と言われる。自分としては意外かつ新鮮な意見だった。

 あぢさゐの消し忘れにはご注意を/荻原裕幸
 階段のしたのくらがりまでゆやけ
 夏木陰とほりぬければうすくなる
 蜩初めて鳴くホチキスの針尽きる
 あああれはあのひとが瓜きざむ音

きょうの一首。

 永遠からみれば欠片にしかすぎぬひざかりをひとり永く感じて/荻原裕幸

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August 03, 2009

2009年8月3日(月)

ようやく名古屋でも梅雨が明けたらしい。観測史上でもっとも遅い梅雨明けなのだとか。七日が立秋で、どうにもおかしな感じだ。遅れた分を取り返そうとしているわけでもないのだろうが、蝉がひたすら鳴きまくっている。ときどき書斎の窓に飛んで来て、鳴いてはどこかに去ってゆく。眼前一メートルの位置で蝉に鳴かれると、さすがに何もできなくて、しばらく声を聞きながら蝉の腹を眺めている。

ポストニューウェーブ、という呼び名が妥当かどうかはともかく、今橋愛さんとか斉藤斎藤さんとか笹井宏之さんとか永井祐さんとか、話題にされたりおもしろがられたりするわりには、理解されているという感じの薄い一群の歌人がいる。新しい作家や新しい作品は、しばしば何かを欠いた姿であらわれる。新しい何かにこだわろうとするあまり、これまで重要だとみなされていた何かを欠いてしまうのは、ごく自然なことだろう。新しい何かはそれを明確に示唆するのが難しく、欠いている何かは容易に指摘できる。そのため、新しい作家や新しい作品は、ともすれば、歴史に対して不勉強で不遜な見かけになるわけだ。われわれは、混沌とした新しい動きのなかから何をどのように取捨してジャンルと対峙してゆくべきなのか。基準も指標もどこにもないのだが、一つ言えそうなのは、新しい何かが、何を欠いているかにこだわり過ぎないこと、何にこだわっているのかを探ろうとすること、だと思う。そういう意識が大切ではないか。と、自戒をこめて記しておく。

きょうの一首。

 水のひかりや草のひかりに揺れながら暦が夏を終らせてゆく/荻原裕幸

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August 02, 2009

2009年8月2日(日)

午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。天気もあまりぱっとせず、家のなかがやけに静かな感じだったので、動画サイトの、気分の明るくなるような投稿動画を少し見る。帰宅した家人が、何かあれこれとキャラクターグッズを買って来た。どこかで見覚えのある蛙だなとか思っていたら、兎が監獄で云々と説明をはじめる。家人はなぜか突然ウサビッチにはまったらしい。

 噴水にもたるるところなかりけり/中岡毅雄

昨日に続き、第四句集『啓示』(ふらんす堂)に収録された一句。言われてみれば誰にでもわかるようなあたりまえのことが句としてきらめくという典型的な例だと言えるだろう。はじめぱらぱらと句集を繰っていたときに見つけて、気づきの切れ味の良さにしばらく笑いころげたのだが、後に句集を通読すると、一句前が「鬱の身をひきずり歩く昼寝覚」で、一句後が「白日傘ゆきつく先のなきごとし」だった。配列を加味すると、心身のつらさのなかでの絶望的発見のようでもある。ただ、それでも、前後の句の文脈を断って、ある種のユーモアを感じるのは、この句の「正しい」読み方の一つだという気がしてならない。

きょうの一首。安くて困ることはないのだが。

 水道代がそれほどかさむこともなくどこかせつなくきしむ八月/荻原裕幸

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August 01, 2009

2009年8月1日(土)

きょうから八月。午後、弁当を買いに近所の公設市場に。道すがら、ここしばらく見ることがなかったタクシー運転手の昼寝の姿を見た。車内で大きく口を開けて寝ているのを、思わずしげしげと見てしまう。以前は、午後いつも必ず一台は駐車していた場所だったのに、最近まったく見かけなくなっていた。不況のせいなのかとかいろいろ気になっていた。少し安心した。

 十薬やこの世にかよふ波の音/中岡毅雄

第四句集『啓示』(ふらんす堂)に収録された一句。この「波」をどう読むかで句意がかなり動くように思う。海辺なのだと解釈しても、句の意味が通らないわけではないが、十薬の臭気から、負のイメージを伴う世の動きへと思いを馳せたのだと読むのが妥当か。具体的にどんな「波」を示唆しているのかはわからないものの、時代毎に押し寄せる世の動きからは、誰も無縁でいられない。十薬の咲くその静かな場所にも波は及んでいるのだろう。静観すべきか自らも動くべきかと思い悩む人の姿が目に浮かぶようだ。

きょうの一首。自意識が肥大するときというのは。

 十薬がわたしのために咲いてゐるやうに感じるほどの淋しさ/荻原裕幸

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