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September 30, 2009

2009年9月30日(水)

雨天。ひえびえとした感じがひろがる。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の三回目。きょうの題は「秋の昼」、それと雑詠。12人出席で詠草22句。予定通り、題詠は丁寧に、雑詠はざっくりと、添削的な批評を進める。それでも延長にはなったが、前回ほどではなかった。講座後、八事で、買い物その他の所用を済ませてから帰宅。

以下、きょうの題に即して二句。以前、実家で使っていた机は、もともとは父が愛用していたもので、伊勢湾台風の浸水も経験したという年季が入ったものだった。古い木材の匂いに加えて、文具や工具を入れていたその匂いも雑ざって、抽斗ごとに違う匂いの空間がひろがっていた。それを思い出して一句。それと、事務的で無味な風景だが、たまたま机の上にあった書類を見て、もう一句。

 ひきだしの匂ひさまざま秋の昼/荻原裕幸
 九月尽印紙のみどり貼り終へて

きょうの一首。

 あまつぶが窓にちひさくちらばつて隣のつぶとふれあはぬ件/荻原裕幸

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September 29, 2009

2009年9月29日(火)

曇天。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。きょうは、関西からの新しいメンバーを二人加えて、八人が参加。題詠「沈」と雑詠。無記名の詠草から選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆくのは、いつもの通り。句会後、会場近隣の喫茶店に移動して、句会の続きも含めての歓談。自分のテンションも高かったのか、ふだんよりもかなりにぎやかな感じだった。

きょうの句会に提出した川柳は以下の二句。句会での票はどちらも同数。帰宅してから句会での意見を参考に読み直してみる。湯の音の句は、漠然とイメージしていたものがそれなりのかたちになったと思われるのだが、影の句は、何らかの計算違いが悪い方向に出てしまったようだ。現実の空間のごくふつうの感触を求めていたのに、むしろことばでまぼろしを見せている感じになってしまったか。

 ありふれた音しかしない湯に沈む/荻原裕幸
 歩き出しても追いかけて来ない影

きょうの一首。

 自販機のあかりに誰か来て何かたしかめてすぐまた暗がりに/荻原裕幸

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September 28, 2009

2009年9月28日(月)

天候が崩れて、おかげで少し涼しくなる。午後、同朋大学へ。ひさしぶりに中村公園の駅から大学まで歩くと、去年と同じ場所に同じポスターが貼られていたり、同じ家に同じ花が咲いていたりした。ほとんど変化がなくて、うれしいようなさびしいような奇妙な気分になる。後期の文章表現の講義の初回。名簿上は二十数人、実際の出席者は十数人と、受講者数はまだ流動的な状態のようだ。

 コーヒーも飲み終わったしもう行くね/矢島玖美子

第一句集『矢島家』(二〇〇一年)に収録された一句。一瞬で読み流してしまいそうになるほど平凡な会話がそのまま記述されているように見えるが、何か妙なひっかかりがあって、少し考えてみたくなる。おそらくは二人で喫茶店か飲食店にいるのだと思う。「コーヒーも飲み終わったし」という理由にもならない理由で席を立とうとするのは、二人の間に何か実のある会話が期待されているのに、無意味としか思えない会話が続いているか、沈黙が続いていたからだろう。仮に、異性の、恋の脈のある二人だとすれば、あ、そう、またね、と答えるか、ちょっと待って、実は、と答えるかで、かなり違ったその後が予測される。極端なケースでは、人生の岐路になるということもあり得るのだ。作者が何を想定しているのかははっきりしないが、平凡な会話の奥にある緊張感を、自分が、これまで何度も見落として来たんだろうな、と気づかされる一句だった。

きょうの一首。一周忌だという。

 ねえルルは死んだのほんとはどうなのと妻が問ふ秋のエリア11/荻原裕幸

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September 27, 2009

2009年9月27日(日)

この数日の暑さに比べて、少し涼しくなったような気がして、部屋のなかに吹きこむ風も爽やかだとか思っていたのだが、気温に数字的な変化はほとんどなかった。単なる気のせいなのか。何が何だかわからない状態になっている机まわりのかたづけを少し進める。大相撲秋場所千秋楽、二横綱の優勝争いで盛りあがったらしいが、かたづけをしていて見損なう。

 不祝儀の袋を買いに出てくれば月とはあの世へつづく抜け穴/久々湊盈子

昨日に続き、第七歌集『鬼龍子』(二〇〇七年)に収録された一首。不祝儀袋を探すと、ストックが切れていたので、急いでコンビニに向かったところ、満月かそれに近い月が出ていた、といった状況か。誰の訃報かはわからないものの、書きぶりから推察するに、かなしさよりもさびしさに近いような、少し距離のある人の死だという気がする。つい先日はもっと小さな「穴」だったのに、と感じた途端、そこが死者の通路なのだと、月があのように満ち欠けするのは、この「抜け穴」の開閉を意味していたのだと悟ってしまったのだろう。

きょうの一首。

 どうしようもないほどふつうの日曜の暮れて事件のやうな月影/荻原裕幸

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September 26, 2009

2009年9月26日(土)

暑い日が続く。早朝、家人が義母と義姉とセントレアへ。タイから帰国した義父を迎えに行く。留守番。ニュース系のテレビ番組を見ると、どれも新政権の話題でにぎやかである。新政権の「成功」が求められているのか、あるいは「失敗」が待たれているのか、よくわからなくなるようなものもあるのだが、他ならぬ政策が問題にされているのであれば、望ましいことかと思う。

 大根も蕪もおみなもふとぶとと腰の張りたる今からが旬/久々湊盈子

第七歌集『鬼龍子』(二〇〇七年)に収録された一首。冬が旬の根菜と女性の体型のイメージとを重ねあわせるのは、いかにも古風な揶揄に映るが、続く「今からが」の一語で、一人称自身のことを言っているのだとわかる。強がりや負け惜しみの類ではなく、朗らかにそう断言できる心身の充実があるのが、ことばの感触からにじみ出ているように思う。作中の私と現実の作者の関係など、私に関するさまざまな問題を物ともせず、現実の作者の日常をめぐる声として直にひびくのが快い。

きょうの一首。

 鳩もわたしも乳房がなくて公園のベンチを母子に譲つて消える/荻原裕幸

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September 25, 2009

2009年9月25日(金)

きのうきょうと真夏日になる。荻原家ではクーラーを再稼働している。夕刻、父が食べものを提げて来てくれた。俳人のTさんが送ってくれた『金子兜太の世界』(角川学芸出版)を少し読み進める。やむを得ないとは言っても、自分の、俳人観の更新頻度は、歌人のそれに比べてきわめて低い。自分がイメージしていたのは、いつの時代の金子兜太だったのだろう、とぼやきながら、金子兜太観を微修整してゆく。当然と言えば当然のことではあるのだが、生きて活動している作家の世界は、繰り返し更新されてゆくのである。

羽生善治王座と山崎隆之七段との第57期王座戦五番勝負第三局。羽生王座が三連勝してタイトルを防衛した。山形県天童市松伯亭あづま荘での対局。終盤を少しネット中継で眺めていた。本局は、先手の山崎が、羽生に誘導されるような感じで、横歩取りへと進んでゆく。山崎の得意の戦型で、山崎を超える研究を重ねて、かなり熾烈な戦いへと誘った上で新手を繰り出すという、羽生の側から見れば完璧な一局だったようだ。寄せも緩むところがなく、相手の粘りを一切ゆるさない鮮烈な印象。十八連覇に誰もが納得できる終局となった。

きょうの一首。

 むかし住んだ1DKにいまごろは他人の秋がみのりつつあるか/荻原裕幸

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September 24, 2009

2009年9月24日(木)

シルバーウィークが明ける。と言っても、荻原家は休みではなかったので、ふだんと同じ木曜日である。先日、テレビ東京系の「カンブリア宮殿」だったか、サイゼリヤの会長が出演していたのを家人が見ていて、経営をめぐる話がおもしろかったというので、午後、なんとなくサイゼリヤで食事をする流れになった。家人から番組の話を聞きながら、パスタやグラタンなどを食べる。

久々湊盈子さんのインタビュー集『歌の架橋』(砂子屋書房)が刊行されている。自身が編集発行人をつとめる歌誌「合歓」に連載しているものと他のメディアに掲載されたもの、あわせて40人分のインタビューを収録した一冊。馬場あき子さんをはじめとした現代歌人の、作品を読んだだけでは知ることのむずかしい創作の機微を巧く引き出している。と、ことばで説明するのは簡単だが、この種のインタビューは、はかり知れないロスを含みながら、対象人物とその作品とをつなぐ隘路を探すかなりきつい仕事だと思う。聞き手が表現者であり批評家でもあるからこそ実現した、興味深いやりとりに満ちていた。総合誌「短歌往来」編集長かつ歌人である及川隆彦さんのインタビュー集『インタビュー現代短歌 うた・ひと往来』(二〇〇六年)と双肩をなす貴重な仕事だと言えるだろう。

きょうの一首。

 ものおもひの入江の午後にふかぶかと錨おろしてゐる妻の顔/荻原裕幸

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September 23, 2009

2009年9月23日(水)

秋分の日。早朝、段ボールと新聞をとりまとめて回収に出す。先月はうっかり忘れていたので、新聞は二か月分たまっていた。日々の一面のトップ記事を眺めながら、日本が大きく動いたこの二か月を把束してかたづけた。夕刻、家人が義母と義姉と出かける。留守番。食事の時間がずれてしまったので、夜、家人が帰宅してから一人で外に出て、杁中のラーメン屋でラーメン(替玉有)を食べる。

 ローソンに足りないものをだれひとり思いだせない閉店時間/枡野浩一

歌集『てのりくじら』(一九九七年)に収録された一首。現実をベースにした超近未来系の作品か。誰一人「思いだせない」からには、以前は誰もがそれを知っていたのだろう。「閉店時間」とあるが、ローソンの24時間営業率は、その頃ものすごく高かったのではないか。だとすると、この一首の現在から見た近い過去に、ローソンに開店時間/閉店時間ができてしまって、得られないものはないけれど、龍宮さながら月日や時間の流れを欠いている、そのような店であったことをもはや誰も「思いだせない」のだと思う。ローソンはあくまでもローソンとして描かれているにせよ、一九八〇年代から九〇年代にかけての時代の感触がそこに重なるのだと読んでおいていいのではないか。枡野浩一さんらしからぬ「わかりにくさ」があるようだが、あるいは誤読なのだろうか。どうなんだろう。

きょうの一首。

 ローソンとローソン専用駐車場とに挟まれた場所にひとりで/荻原裕幸

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September 22, 2009

2009年9月22日(火)

国民の休日。祝日法では、ただ「休日とする」とだけ定められていて、正式な名称ではないようなのだが、かと言ってその他の名称を見たことはない。公的な文書を作成するときにはどうするのだろうかと、つまらない心配をしたくなる。通称「国民の休日」とか、所謂「国民の休日」とか、そんな風に書くのだろうか。どうして正式な名称をさだめなかったのだろう。

 秋風に嬰児(みどりご)ひとりうらがへる/山口誓子

昨日に続き、第四句集『七曜』(一九四二年)に収録された一句。秋風のなかで赤ん坊が寝返りを打ったところ、と言ってしまえばただそれだけの句ではあるのだが、まだ慣れない動きで、自らの意志で寝返りを打ったようには見えず、まるで秋風に裏返されたような塩梅であったのだろう。この小さな発見に加えて、飽きもせず赤ん坊の様子を見つめ続ける一人の姿を髣髴とすることも句の味わいとなっているようだ。吹けば飛ぶような弱々しい存在としての嬰児が云々という類の心情ではなく、嬰児なる不可思議の生物を観察する純然たる好奇心なのだと読んでおきたい。

きょうの一首。

 どこかよく見えないなにか怪しげな隙間からはみ出てゐる芒/荻原裕幸

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September 21, 2009

2009年9月21日(月)

敬老の日。早朝、可燃ごみと資源ごみの袋を抱えてごみ置場にゆくと、猫や鴉に荒らされた形跡はない。大家さんの姿もなくて、大家さんの怒りの思念がそこらに残留している気配もない。安心して袋をならべる。行儀のわるい人が、連休でどこかに出かけているのかも知れない。何にせよ、平穏なごみの日であった。午前から午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華/山口誓子

第四句集『七曜』(一九四二年)に収録された一句。突き抜けるような高さの秋天の紺と地に咲く曼珠沙華の朱との対比だと読んでおけば、それはそれで美しい情景なのだが、この「て」は、そこに素直に収まるのを嫌がっているように見える。どう読むべきかは確定できないが、つきぬけて天上の紺、つきぬけて曼珠沙華、と、「て」以後の二物を並列して読むのが、壮大なイメージにつながって楽しい。実景としてはあり得ないわけだが、秋天と曼珠沙華だけを視界に置けば、曼珠沙華のサイズはおのずと主観的なものになる。花の名の由来も影響して、そのまま天上に届くほど雄大な花に感じられたとしてもさほど不思議ではないだろう。

きょうの一首。

 このあきかぜに鳴るべき音ともろともに架線が消えて国道の空/荻原裕幸

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September 20, 2009

2009年9月20日(日)

先日、正式には十六日だったか、鳩山由紀夫内閣が発足して、新しい政権が動きはじめた。首相をはじめ、各大臣の発言には、いまのところ、過剰なほどの気勢が感じられる。内閣支持率は、各メディアの調査で、軒並70%を超えているようだ。このまま諸事がスムーズに変化してゆくとは考えづらいが、一つでも二つでも何か好転することがあればいいなと思う。午後、家人が義母と出かける。留守番。

昨日に続き、もう少し題詠のことを考えてみようとメモをまとめているうちに、以前にも同じようなことを書いたなと気づく。検索してみると、今年の1月8日9日10日の記事に、関連することが書かれていた。付け加えることはあまりない。自分は長い間、題詠を好きになれなかった。たとえ作品のほんの一部でも、他者によって絶対的に規定されるのががまんできなかった。それが楽しめるようになったのは、この十年ほどのことだったろうか。定型とか他者とか事実とか偶然とか、その類の、作者のちからが絶対に及ばない要素の一つとして、題詠の題を考えるようになったからだと思う。本来折り合いのつかないものとどうやって折り合いをつけてゆくか。短歌を書く楽しみをそうした部分で感じている時期だからなのかも知れない。

きょうの一首。

 銃を肌身にもたないことがそれだからどうといふことなき虫の闇/荻原裕幸

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September 19, 2009

2009年9月19日(土)

巷ははじめてのシルバーウィークに入る。黄金週間ならぬ白銀週間である。その呼称と構想は以前から存在していたが、長い連休ができるわけでもなく、絵に描いた餅の状態が続いていた。まさかほんとに実現するとは。名古屋では、遠ざかったはずの暑さが戻って、およそ一週間ぶりの真夏日となる。どこか遠いところからつくつく法師の鳴き声がひびいて来た。

題詠で短歌を書くのは難しいと言う人がいる。そう言いながら巧い作品をまとめる人も多いので、大抵心配をするには及ばないのだが、なぜ難しいと感じるか、その理由は考えてみてもいいと思う。題詠の題は、どれほど単純なものであっても、他者の都合による他者のことばである。作品で自己のこだわりを貫こうとする人に、この他者の都合は障害になりやすいわけだ。一首がある程度まとまったかたちになればなるほど、他者の都合にあわせるのは困難になってゆく。特定の題が難しいのではなく、題詠そのものが難しいと言う人は、いつもかたちや方向がそれなりに決まったあとで題を入れようとしているのではないだろうか。その段階で他者の都合とあわせようとすれば、一度できあがった何かを、少し混沌とした元の状態の方に戻して調整する必要が生じる。それは不可能ではないが、確かに難しい。経験的にそう思う。

きょうの一首。

 だしぬけになんとはなしに藤色の服が着たくてユニクロに来る/荻原裕幸

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September 18, 2009

2009年9月18日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「大」。いつものように一首ずつ添削的な批評を進めてゆく。帰りの地下鉄で盲導犬を見かけた。人間でも犬でも、熱心に仕事をしているときはとても佳い表情をしているものなんだなと思う。帰宅してから近所のスーパーで食材をあれこれと買い揃える。冷蔵庫が少しにぎやかになる。

「短歌研究」9月号に、第52回短歌研究新人賞が発表されている。受賞作は、やすたけまりさんの「ナガミヒナゲシ」。慶祝。やすたけさんは、今年、前述の朝日カルチャーセンターの講座を受講していたので、先月、教室でその話をしたところ、他の受講生がおおっとどよめいた。賞がすべてではないのだが、本人はもとより周囲にも昂揚感が生じて楽しい。受賞作については、あらためて言及することにする。今年の短歌研究新人賞は、受賞作の、未知の可能性、と、次席の雪舟えまさんの「吹けばとぶもの」の、完成した新しさ、とが対比されるような結果となった。二作受賞としなかった選考の潔さに惹かれると同時に、雪舟さんの作品にも次席とするには惜しいほどの魅力があると感じられた。

きょうの一首。講座で「大」の題の作例として見せた一首。

 かなしい音も大きな音もうつくしい音も正午に消えて秋澄む/荻原裕幸

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September 17, 2009

2009年9月17日(木)

「現代詩手帖」9月号の特集「現代詩の前線 ゼロ年代の詩人たち」を読む。ゼロ年代の詩人の作品と添えられたコメントをあわせて読みながら、数人を除いて、コメントはすぐ理解できるのに、詩は理解するのに時間がかかる、もしくは、いつまでも理解できない、という自然なはずの事態に、何か違和感をおぼえる。この違和感の正体をつきつめているうちに、どうやら自分が、無意識的に、と言うか、意識的にならないと、ゼロ年代の詩人の作品を散文と同じように読もうとしてしまうらしいことに気づく。詩を読むというスイッチが入りづらいからだろうか。もう少し読み慣れる必要があるのかも知れない。

昨日の、羽生善治王座と山崎隆之七段との第57期王座戦五番勝負第二局、羽生王座が山崎七段に連勝した。京都市東山区ウェスティン都ホテル京都での対局。ネット中継をチェックできなかったので、後から棋譜を眺める。本局は、後手の山崎が一手損角換わりを選択。羽生は棒銀で対抗。山崎がずっと指しやすそうに見えていた。それなのに、終盤に一分将棋となって時間に追われたためか、山崎に少しせっかちな手が出て、そこからあっさり羽生の勝勢に傾いたらしい。持時間のわりふりも当然実力によるものなのだが、山崎は惜しい星を逃がした感じだ。

きょうの一首。

 あれからあとは必然的かつ偶然でまつすぐに来てこの秋を踏む/荻原裕幸

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September 16, 2009

2009年9月16日(水)

午前、父と母と家人とで鶴舞の名大病院へ。父の眼の症状を診察してもらう。悪化はしていないが、快方に向かっているわけでもないらしい。何にせよ時間がかかるのだという。気が揉めるが、ゆったり構えるしかないか。病棟が新築されて、以前とは見違えるほどきれいな建物になっていた。受付などは、空港やホテルだと言われたら信じてしまいそうな内装だった。コメダ珈琲店でお茶をして帰宅。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の二回目。きょうの題は「鰯雲」、それと雑詠。12人出席で詠草24句。丁寧に批評を進めたところ、時間がどうにも足りなくなって困った。延長して対応したが、次回から雑詠はざっくりした批評にするのが良さそうだ。帰宅後、きょうの題に即して二句。

 花嫁の花のそろそろ鰯雲/荻原裕幸
 踊り場の密談ながし鵙日和

きょうの一首。述語のない名詞の羅列的な文体がただの恣意を脱して作品の方に近づくには、何かそこに一貫した流れが必要だと思う。ただ、構成に作意がみなぎるとただのつくりものになってしまう。きょうは親しい友人の誕生日だったので、その友人の好みそうなイメージをたどりながらまとめてみた。

 坂道と風とシックなデザインのハンカチと九月のひまはりと/荻原裕幸

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September 15, 2009

2009年9月15日(火)

生憎な空模様のなか、午後、マンションの貯水タンクの清掃があって、四時間ほど断水した。家人が汲みおきした水がキッチンにずらっと列んでいて、どこかサバイバルめいた妙な感じだった。しばしば清掃があるのは衛生上とても望ましいことだし、ありがたいことなのだが、そのたびに日常生活における水の重要性を噛みしめることになるのは、やはりやや面倒な話ではある。

 この世からさまよひ出でていかぬやうラジオをつけてねむる夜がある/永井陽子

昨日に続き、歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』(二〇〇〇年)に収録された一首。ひとり暮らしの風景か。ことば遣いから推察すると、本来は消灯して、冷蔵庫などを除けば一切の電気機器をオフにして就寝すべきところを、何かこの世につながるよすがを残しておかないと、魂がどこかに行ったまま朝までに戻れなくなりそうなので、少し行儀が悪いとは思うけれどもラジオ番組をつけっぱなしにして眠った、という状況だろう。作中のわたしの感覚であると同時に、作者の感覚そのものでもあると思われる。しかし、一九七〇年代であるならばともかく、これは一九九七年の作品である。他の機器ではなくラジオだけが登場するのは、作者の精神的なつつましさによるものだろうし、脆さを描いていながら逆に、孤独の内圧に耐える強靭さがくっきり見えるように思う。

きょうの一首。一九七〇年代。

 こんばんはを青木小夜子が繰り返すラジオの前で一人でいつも/荻原裕幸

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September 14, 2009

2009年9月14日(月)

早朝、秋らしくよく冷えていた。もっとも、この、冷える、は、半袖一枚で外に出るとさすがに肌寒い、という話で、きちんと秋の身なりをしていれば、爽やか、なのだろうと思う。午後、遠くから蝉の声が聞こえて来る。単に離れた場所で鳴いていたというだけだが、すでに夏がそれほど遠い場所にあるように感じられた。夜、あたりは虫の声に満ちている。

 さんじふにさんじふさんはあらざればぴしりとたたむ葉月の暦/永井陽子

歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』(二〇〇〇年)に収録された一首。本なのかスケジュール帖のようなものなのか、暦を畳むという行為が具体的にどんな感じなのかよくわからないのだが、八月の終りに、大いに未練を残しながらも、のどかだった日々と決別する感触が、ここからひしひしと伝わって来る。三十二日や三十三日を望むという通俗的なモチーフが、これほどあざやかでうつくしくひびくのは、生活感や世界観やその他一切を寄せつけない、澄みわたった文体によるものだろう。欲のないというのとは少し違うかも知れないが、永井陽子は、事象に、人生やら文芸やらの味つけをすることなく、そのまま表現することのできる歌人だった。だから少しものたりなく感じることもあったのだが、だから手放しで好きになることもできた。この一首は後者の典型のひとつである。

きょうの一首。

 妻のゆめから漏れてゐる音なのか新涼のあかつきにかすかな/荻原裕幸

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September 13, 2009

2009年9月13日(日)

午前、所用で移動中に、家人が自動車をタンクローリーの真後ろにつけると、ステンレスだかアルミだかの、タンクの後部の鏡面になったところに、自分たちを含む路上の風景が、占いの水晶玉のなかの映像のように流れて、何か不思議な感じがした。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。天候は一日で回復したが、暑さはそのまま遠ざかってゆく気配がある。

日本の近現代の詩に関心をもつ大きなきっかけになったのは、萩原朔太郎の諸作品なのだが、詩集『月に吠える』(大正六年/一九一七年)に多く見られる、動詞の連用形で改行して、リズムを整えるようなあの文体にだけはどうもなじめない。「地面の底に顔があらはれ、/さみしい病人の顔があらはれ。」とか「ますぐなるもの地面に生え、するどき青きもの地面に生え、」の類。リズミカルに何かを語ろうとするその感じがあまりにもあらわだからだろうか。自分は、短歌や俳句や川柳を書くとき、連用終止で「て」を伴わないスタイルをほとんどと言っていいほど避けている。散文でもあらわれる頻度は少ない。これらには何か同一の理由がありそうなのだが、いまのところその理由がよくわからない。

きょうの一首。

 非連続な日と日をひとつのつながりとして揺れてゐる欅の大樹/荻原裕幸

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September 12, 2009

2009年9月12日(土)

朝夕の冷えはさほどでもなかったのだが、ひさしぶりにはっきりした雨天となり、気温はほとんど上がらなかった。名古屋で真夏日にならなかったのは、九月に入ってからまだ二日目。新しい政権の組閣のなりゆきが話題になっている。誰にどんな仕事を任せて実際にどう進んでゆくのかが気になるのは当然として、政権を外部にプラスに印象づけるため、あるいは、政権の内部的な安定をはかるため、必ずなされることになる「調整」を、最小限度に抑えられるかどうかが見所か。

 自転車の車輪輪廻のはつなつをみづみづしでもどりの妹/塚本邦雄

第十歌集『されど遊星』(一九七五年)に収録された一首。「輪廻」に「りんね」のルビ。初句の「自転車の」をはじめ、意味のつながりではなく、序詞的な、ことばのひびきとして妹のモチーフが引き出されているようだ。「でもどり」の妹を「みづみづし」などと皮肉ることば遣いは、実兄のものだとすれば、かなり険悪な関係にあるものと思われるが、どうも何か違う感触がある。むろんこれが、塚本邦雄的な虚構の家族の風景を、美意識に由来する詩的に炸裂したことば遣いで描いたものであるのは間違いないとしても、無意識的に投影されている兄像は、意外に醇朴で優しい表情をしているようにも感じられる。たとえば、てやんでい、でもどりの一度や二度くらいでがたがたぬかすな、かえって瑞々しさが増すってもんだ、と、口下手ゆえに愛情表現が毒舌と化す兄像を連想しても、あながち的外れでもないのではないだろうか。

きょうの一首。

 なぜか涙がやはらかくなるゆるやかな坂に石榴を見て下るとき/荻原裕幸

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September 11, 2009

2009年9月11日(金)

アメリカ同時多発テロ事件の日。八年が経過した。きょうも朝はかなり冷えていたようだが、それでも名古屋は真夏日になったらしい。午後、近所の公設市場まで弁当を買いに行く。途中、誰もいないバス停のベンチの下に、履き古した感じの革靴と真新しい紙製の靴箱とが置いてあるのを見た。誰かが新品の靴に履き替えてそのままどこかに行ったのだろうか。最寄の靴店までは二キロほど離れた場所だし、どんな流れでわざわざバス停で靴をおろすことになったのか。何となく気になってしばらく考えてしまった。

 妹。それは内縁の稲妻、地下道を抜けるちぎれ雲。胸の
 奥の遠火事、光りでできた鍵穴。もっとも冷静なもっと
 も辛辣な、真珠。/平出隆

詩集『胡桃の戦意のために』(一九八二年)に収録された一篇。題/ナンバーは「102」。一篇を独立させて読むとき、何ひとつ具象化されない記述のなかで、それでも、この「妹」はあきらかな存在感を有しているように思う。自然や生活とそれなりに親和する語が、四季で言えば秋冬のイメージを中心に構成されているあたりに、読者がこの「妹」を実体化して読める秘密がありそうな気がする。それにしても、七十音ほどの、短歌で言えば二首と三分の一ほどのことばが、何の具象化もともなわないまま作品として成立するのは、歌人の位置から見たとき、少なからぬ驚きがある。短歌一首/三十一音は、これほど徹底した非具象的なことばのつらなりに耐えられないからだ。短歌の「妹」は、現実的にふるまうか、物語的な役回りを演じるか、ともかく何らかの行為を強いられるため、ピュアな観念として存在するのは難しいのだ。

きょうの一首。

 いもうとがはじめてつける香水のやうにさびしきあなたの笑顔/荻原裕幸

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September 10, 2009

2009年9月10日(木)

早朝はかなり冷えて、すっかり秋めいた感じだった。午後、どこか遠いところからさほど力のない蝉の声が聞こえていた。外を歩いてみると、日向はやはりまだまだ暑いが、日陰に入るといきなりひんやりしていて、気温差がかなりある。どんな恰好で外に出たらいいのか、ここしばらくは迷うことになりそうだ。八事であれこれと所用を済ませて、家人に栗餡の鯛焼きを買って帰る。

他人のブログを見ていて、つい誘惑されそうになるのは、記事に写真を入れることである。実はこれまでに何回か写真を入れかけたことはある。ただ、その都度、やはり文字表現にこだわってみようと考え直してがまんした。いずれ方針を変更するときがあるかも知れないが、とりあえずは文字の世界に住んでいようと思う。見苦しく言い訳をすると、自分のような初心者が写真を撮るとき、抑制できないまま機器の性能によってもたらされてしまう正確さ精密さ豊饒さ多様さなどが、このブログが何となくめざしている断片的で不確かな感じと、どこかで齟齬してしまう気がするのだ。そんなわけで、いまのところはがまんすることに決めている。

きょうの一首。気に入った写真を選ぶということは。

 デジカメであなたを撮つてほとんどのあなたを消してゐる秋日和/荻原裕幸

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September 09, 2009

2009年9月9日(水)

鰯とか鯖などが群れて、雲の様子はすっかり秋なのだが、ひざしを直に浴びるとまだかなり暑い。午後、八事の中京大学へ。夏休みが明けていなくて、キャンパスの学生の姿はまばらだった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、きょうから秋期の開講となる。今期の受講者は、新規の3人を含む12人。きょうは受講者の近況等を訊ねながら、オリエンテーション的な話をする。

 ぱさと散る大きなる葉のよい香り柏の葉だよと犬に教ふる/馬場あき子

昨日に続き、第二十一歌集『ゆふがほの家』(二〇〇六年)に収録された一首。歌集の配列からは晩秋か初冬の歌だと思われる。柏の葉はたしか秋冬には落ちないはずだが、たぶんそういう事典的な範囲外の、何かの木を柏と呼んでいるのだろう。この犬が愛犬なのかどうなのかはっきりしないけれど、社会的な他者を意識せず、かなり無防備に話をする、一人称の温和な表情が浮かんで来る。シンプルな文体から、教えられている感じが快く伝わって、思わず、わん、と答えたくなるような不思議な歌だ。

きょうの一首。使い続けると何もかもが緩んで来る。

 棚や椅子や把手のねぢを締めながら白露わたしのゆるみに気づく/荻原裕幸

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September 08, 2009

2009年9月8日(火)

義母の誕生日。午後、お祝いをかねて義母と家人と三人で食事に出かける。いろいろおしゃべりができて義母は上機嫌だったようだ。禁煙の店に入ったので、途中で少し抜け出して、店の前を流れる川を眺めながら煙草を吸っていたのだが、ひざしがあまりにも強くて、数分で一気に汗が噴き出しはじめた。名古屋にはまだ秋らしくなろうという気がないらしい。

 夏かけて蝉、ずつと蝉、精神の深処に宿る声なべて蝉/馬場あき子

第二十一歌集『ゆふがほの家』(二〇〇六年)に収録された一首。蜩のように稀に好まれるものもあるし、鳴きはじめには夏らしさを感じるし、聞こえなくなると少しさびしいこともなくはないのだが、盛夏のすべてを支配して、ひっきりなしにひびきわたる蝉の声は、騒音雑音以外の何ものでもない。この歌からも、蝉の声にしっかり悩まされた様子がうかがえる。「精神の深処」まで蝉に浸食されるというのは、修辞としてはいささか過剰気味ながらも、夏の疲れが、蝉の声を表象として心身に残っているような、今時分の印象にぴったりな表現だろう。深刻さに貫かれた文体だが、一抹のユーモアがにじんでいるようにも思う。

きょうの一首。

 ボサノヴァのやうな感じで降る午後のひかりと褪せた手帖と九月/荻原裕幸

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September 07, 2009

2009年9月7日(月)

白露。地元のケーブルテレビに、某河川に据えた定点カメラからの何事も起きない川面や水中の映像とか、高架の多い某ローカル線の先頭車輛からの上り下りの全風景などを淡々と流す埋草的な番組がある。先日、それと同種の番組で、某市道を走る車窓からの全風景のバージョンがあるのを知った。プライバシーの都合なのか、仰角のかなり大きな映像で、高速道路の高架の底面とビルの高階と青空しか映っていない。切なくなるほど面白くて、しばらく見入ってしまった。

 自転車を漕げば海光もはしるなり気多に永遠を生きなむひかり/米川千嘉子

昨日に続き、第一歌集『夏空の櫂』(一九八八年)に収録された一首。歌集の配列で読むと、旅の歌であり、羽咋市のあたりで、大伴家持をはじめ、万葉の時代に思いを馳せているといった様子がうかがえる。諸々の歴史的背景とともに楽しむのも一興だが、歌自体は特に難しく読むところは何もないわかりやすいものである。旅先の海に近い場所で、自転車で移動していると、自分の動きにあわせてくれるように、海の光が奔るのが見えたのだろう。「永遠」と断ずるのは、万葉の時代との関連もありそうだが、ともあれ、具体的に「気多」と地名が入ることで、一所を終に出ない/出られない人生のありようともオーバーラップするようである。

きょうの一首。さらにつづけて、ごたごた系の下句。上句の数字は、市外局番と郵便番号の頭三桁だが、それが修辞としてどう機能しているのかと問われると、作者にはうまく説明ができない。

 〇五六六ならびに四七二として秋をふかめゆくか知立市の雲は/荻原裕幸

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September 06, 2009

2009年9月6日(日)

秋めいてゆくのを嫌がるように、きのうあたりから暑さがもどる。午後、近隣の小学校の前を歩いていたら、外周のフェンスに、犬猫による迷惑防止のポスターが貼り出されていた。はじめは何が描いてあるのかわからず、宇宙人? とか笑って見ていた絵が、実は犬や猫だとわかると、とてもリアルに見えた。自分の狭隘な理解力をなんとなく反省する。家人が義母と義姉と出かける。帰宅して留守番。

 桃の蜜てのひらの見えぬ傷に沁む若き日はいついかに終らむ/米川千嘉子

第一歌集『夏空の櫂』(一九八八年)に収録された一首。たぶん桃を食べているのではなくて桃を剥いているのだろう。自然に連想してゆけば、包丁による切傷で、見たところ何でもないのに完治していない傷口があって、桃の果汁が沁みて気づいた、ということになろうか。それ自体は日常の些事ながらも、傷のありようが、若者特有の心の傷のアナロジーを呼び寄せている。まだ完治していない心の傷があるかぎり、成熟できないことを、もしくは、自分の若さが消えないことを、桃の果汁によって再認識したようである。さっさと終ってほしいようないつまでも終らずにいてほしいような微妙な心理が投影されている、と読んでおこうか。

きょうの一首。ひきつづき、ごたごた系の下句。

 キスをする欅の樹下に目を瞑る何を見るため瞑るのかあなたは/荻原裕幸

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September 05, 2009

2009年9月5日(土)

きのうの短歌の講座で、満月が星を連れて空にいる、という内容の風景を描いた詠草があって、星座は一般に満月の周囲では消えてしまうので、表現上少し違和感がある旨を作者に伝えたところ、実際に見た風景です、と言われた。思い出してきょうの夜空を見てみると、午後九時前後、星座ならぬ惑星がほぼ満ちた月の近くにあって、なるほどと思う。どうやら木星のことだったらしい。

散文詩を読んで、これは散文なのになぜ詩なのか、と考えるのは、詩に興味をもった人が早くにつきあたる壁だと思うし、詩観を述べるのに恰好の素材となる。ぼく自身も長くそれを悩んで来たし楽しんでも来たのだが、そこには、詩の概念が形式を凌駕して日本語を詩に変えるという思いこみがあったと認めざるを得ない。考えるべきなのは、むしろ、たぶん、これは詩なのになぜ散文なのか、だろう。散文詩というある種の異変は、単に書かれた散文内部の異変によって生じるのではなく、詩という概念の異変を背景にして生じているのではないか。最近刊行された岡井隆さんの詩集『注解する者』(思潮社)を読みながら、そんなことを再認識している。

きょうの一首。下句の字余りにかなりぶざまな印象があるのだが、矯正するよりもこれで完成と言ってみたくなった。数日後には後悔するかも知れないが。

 土曜日は午後一時五分あたりからピアノ鳴りはじめる芙蓉の家/荻原裕幸

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September 04, 2009

2009年9月4日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者17人、詠草18首。題は「美」。かなり書きづらい題だと思ったのだが、書きづらいというだけのことで、各自がそれぞれに書きこなしている詠草を感心しながら読んだ。歌人のグループであれば、そろそろ次のステップを考えはじめる時期かと思うのだが、あくまでも入門講座なので、そのあたり、どうしたらいいものかと思案しているところである。

羽生善治王座と山崎隆之七段との第57期王座戦五番勝負第一局。羽生王座がまず一勝した。東京都目黒区ウェスティンホテル東京での対局。ネット中継の序盤と終盤を少し眺めていた。本局は、先手の山崎七段が得意とする相掛かりの戦型となる。にもかかわらず、序盤から右銀の活用をさせてもらえなかったり、角の動きを封じられたりと、山崎にとってはかなり苦しく塩っぱい展開となる。羽生は、終始かなり地味な指し回しを続けて丁寧に相手の力を封じてゆく。終盤少しもつれる局面もあったようだが、大事にはならず、山崎の投了となる。不思議な味わいの一局だった。

きょうの一首。講座で「美」の題の作例として見せた一首。

 星のひかりやその他すべてが美しくゆらめく秋の暗がりにゐる/荻原裕幸

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September 03, 2009

2009年9月3日(木)

夕刻、地下鉄に乗ると、向かいに坐った女性が化粧をはじめる。車内での化粧にも人それぞれ事情があるのかなあと見て見ぬふりをしていると、ひととおり化粧を終えた彼女が、今度は鞄からムックのような本を取り出して熱心に読みはじめた。こちらに向けられた表紙には、大きく「茶道入門」と書かれている。茶道は茶室のなかだけのものではないような気もするのだが、どうなんだろう。

東桜歌会の例会の日。愛知芸術文化センターへ。参加者は9人。題詠「江」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、作品の読解を中心に合評を進める。歌会のあと、某氏から、最近のぼくは、しばしば容赦のない批判をすることがあると指摘された。一人の歌人としての各自を応援しながら、技術的な批判は絶対に緩めない、というのが歌会での理想だと考えているので、もしそれが実現できているのであれば望ましいことなのだが、どうなんだろう。

きょうの一首。「江」の題詠として歌会に提出した一首。

 江戸には曜日がなくてしづかに日は過ぎて庵に秋の雲が浮かんで/荻原裕幸

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September 02, 2009

2009年9月2日(水)

携帯タイプの音楽プレーヤーの販売台数で、先週、アイポッドを抜いて、ウォークマンが国内第一位になったという。アップルの新製品が今月出ると見られたための買い控えが影響したとも言われているが、そもそも、ソニーがシェアを戻して市場が二強状態になっているのを知らなかった。少し驚いた。午後、父が、お米とかハムとか無花果とか食べものをいろいろ提げて来てくれる。

先日、買って来て積んだままになっていた羽海野チカさんの『3月のライオン』第3巻(白泉社)を読む。物語的には水平飛行に入りつつある感じか。勝負師と言うよりも研究者的なプロ棋士の姿を求めるストーリーのなかで、予想通り、研究会についてのあれこれが出はじめているが、どうやらそちら方面へと話が展開してゆきそうな気配があって、期待はさらに膨らんでゆく。羽海野さんがプロ棋士の世界に何を見ようとしているのか、楽しみだ。

きょうの一首。

 追伸のやうな夕日がさつきまであなたが凭れてゐた椅子の背に/荻原裕幸

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September 01, 2009

2009年9月1日(火)

きょうから九月。まだまだ暑い日が続いている。あまり安静にもしていられなかったのだが、市販の薬がうまく効いてくれたのか、風邪は小康状態に向かう。ただ、疲労だけはしっかり残っていて、ふだんの感覚で何かをしようとしても、思ったようにからだが動かない。ひとのからだとは何とも不便なものである。まあ、罹ったのがインフルエンザでなくてよかった、と思うことにしよう。

風邪がすっかりは抜け切らないぼんやりとしたあたまできょうの一首を考える。九月である。九月と言えば何だろう。八月のお盆を中心にした広い意味での夏休みの期間に、知っているところから知らないところまで、遠方の地名のナンバーの自動車が増える。運転がやけに荒っぽくて嫌だなあと思って見たり、こんなに遠くから帰省しているんだと思って見たり、増えたときにはなぜか気づくのだが、減ってゆくときがいつなのかよくわからない。ともかく九月になると知らぬ間に減っていて、いつもの通り、名古屋ナンバーばかりがだだっ広い名古屋の道路を占拠している。こうして文章化してしまったことが作品にまとまるだろうか。ともあれ、そのようなモチーフを一首のかたちにしてみる。

きょうの一首。この「名古屋」が別の場所でも一首は成立するかも知れない。あえて必然性はゆるめたままにした。

 他地域ナンバーたちまち消えて巷には名古屋の車輛だらけの九月/荻原裕幸

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