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October 31, 2009

2009年10月31日(土)

小学館の学習雑誌のなかで、「小学五年生」と「小学六年生」の二誌が、今年度で休刊することになったという。時代の変化と読者のニーズにあわなくなったのが理由らしい。三十数年前には自分も愛読していた雑誌なので、さびしい気もするのだが、休刊云々よりも、むしろ、この数十年の激変や多様化にそれなりに対応して存続して来た事実の方にあらためて驚かされた。

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の或る回のこと、SOS団の占拠する部室で、長門有希が、ロバート・A・ハインラインの『愛に時間を』の矢野徹訳の早川書房版のハードカバーを読んでいるシーンが出て来る。その回のモチーフが、ハルヒをめぐるタイムパラドックスなので、まったく関連がないとも言えないのだが、ストーリーを象徴する伏線ならば、ハインラインの『愛に時間を』を選ぶのはあきらかにおかしい。他にふさわしい作品がいくらでもある。そのとりあわせの微妙なずれが気になったこともあって(ついでに言えば、自分の持っている一九七〇年代の版と少し裏表紙のデザインが違うのも気になって)、くっきりと記憶に焼きついてしまった。あえて選択したとりあわせだと思われるが、これはすぐれて俳句的だなあ、と奇妙なアングルから感心していた。

きょうの一首。十月が終る。

 憂鬱とひとに言ふにはあまりにもかすかなかげのなかに十月/荻原裕幸

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October 30, 2009

2009年10月30日(金)

ジャパネットたかたのテレビショッピングをなんとなく流していると、最新のパソコンの商品説明のなかで、ウインドウズ7のことが盛んに語られていた。およそ九割と言われるウインドウズのシェアを考えれば、不思議でも何でもないことだが、あまりぴんと来ないなあと、マックユーザである自分は思う。ウインドウズユーザがスノーレパードに反応しないのと同じことか。

「現代詩手帖」11月号の、高柳克弘さんの俳句時評のなかに「俳句が他ジャンルの読者を(隣接する歌人や現代詩の詩人にすらも)得られないという最大の因は、〈季題〉という概念にあるのだろう。厄介なのは、それが同時に、俳句が俳句であるための、重要なアイデンティティーになっていることだ」と記されていた。高柳さんはそこから脱け出す契機の一つとして、季題ならぬ季語の意識から俳句を考えることをあげている。御意という気がした。俳人にしかわからない、あるいは、歌人にしかわからない、詩人にしかわからない、と言われる要素は、各ジャンルの財産と言ってもいいものだが、これをジャンル内でありのままに活かせば閉塞するし、外に踏み出すために棄ててしまえばジャンルそのものが死んでしまう。求められるのは、ジャンルの内外でそれを同時に機能させるハイブリッド性か。実現が困難だとしても、志向して何らマイナスは生じないはずだ。むしろ、志向しないところには、閉塞と退屈が生じはじめるだろう。

きょうの一首。

 消印のその名がなぜかことさらにすさまじき名に見えて静岡/荻原裕幸

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October 29, 2009

2009年10月29日(木)

早朝、家人と某カフェで朝食。半月ほど前、定休日にあたってふられた店。古代エジプトの神の名が店名になっていたが、店名とは何ら関連のなさそうな、いかにもいまどきのカフェ風な印象の内装がほどこされていた。客層は、カフェと言うよりはもう少し近所の喫茶店にモーニングをしに来るような人たちに近い感じ。午後や夜になるとまた雰囲気が違うのかも知れないが。

結社誌「短歌人」11月号が届いた。この号には、村田馨さんの第一歌集『疾風の囁き』(六花書林)の書評を寄稿している。「直情径行村田急線」と題して、四百字で四枚弱ほど。同歌集の「目玉」となっている鉄道系の作品を中心とした鑑賞に、賛辞や注文など、歌集全体についての印象を挿入するようなスタイルで書いてみた。同誌の村田さんの書評の執筆者は三人で、久々湊盈子さんと斉藤斎藤さんの文章の間に挟まれている。三人ともテキストよりもやや作者に近いところからことばを繰り出しているのが印象的だった。

きょうの一首。

 見えてゐるのにどうしても届かない夜寒の棚の裏のコンセント/荻原裕幸

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October 28, 2009

2009年10月28日(水)

早朝、Tシャツに薄手のパーカーで外を歩いてみるとかなり寒い。某所で鞠のような体型になって跳ねている雀の一群を見た。何ともかわいらしい。歳時記的には寒中の存在なのだが、いわゆるふくら雀である。ちなみに、手元の歳時記では、ふくら雀/寒雀のことを「毛並もまるまるとふくらんできて、焼鳥にすると美味である」と、山本健吉が書いていた。焼鳥にされてしまうらしい。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の七回目。きょうの題は「肌寒」、それと雑詠。11人出席で詠草は20句。以下、きょうの題に即して二句。肌寒をはじめ、秋の寒さは、こころで感じるか、からだで言えば表面で感じる寒さだと思う。一方、冬の寒さは、からだの芯から感じる寒さである。してみれば、こころはからだの内側よりも早く外の寒さを感じるわけだ。こころとは、からだの奥の方に位置するとイメージされていながらも、存外からだの外に位置するものなのかも知れない、などとつまらないことを考えながら。

 肌寒のみづからを抱くすがた佳し/荻原裕幸
 こんなとこまで秋風に濡れてゐる

きょうの一首。

 わたしを堅い逃場のひとつだとみなす朋につがれてゐる冬隣/荻原裕幸

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October 27, 2009

2009年10月27日(火)

数日ぶりの好天。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。参加者は五人。題詠「泣」と雑詠。いつもの通り、無記名の詠草から選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。こころなしか参加者のテンションがふだんよりも高かったように感じた。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店にて歓談。きょうの句会に提出した川柳は以下の二句。

 樹上でも船でも泣いたことがない/荻原裕幸
 酔っている間にいつも増えている

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、大辻隆弘さんと吉川宏志さんの時評集『対峙と対話』(青磁社)、北川朱実さんの詩集『電話ボックスに降る雨』(思潮社)、加藤かな文さんの第一句集『家』(ふらんす堂)、郷正子さんの第二句集『秋声の昼』(文学の森)である。次回の執筆が年末で、一年の回顧的な内容になるため、やや窮屈な感じで四冊に言及することになった。

きょうの一首。友人のスケッチ。少し古風なセンスという気もするのだが、個人的には好きな部類に入る署名である。

 手紙の終りにいつもA子と署名して英子は誰でもない人となる/荻原裕幸

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October 26, 2009

2009年10月26日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の五回目。講義後、某所でぼんやり喫煙していると、近くで女子高生二人が、何やら楽しげに話をしている。一人が何か言いながら小指を出す。約束の指切りかと思って見ていたら、もう一人がその手を両手で包むように掴んで、いきなり小指を口にくわえたのだった。二人ともに少し顔を赤らめながらきゃあきゃあと騒いでいた。なかよきことはうつくしきかな。

新潮社から「芸術新潮」11月号が届く。「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」と題された特集が組まれていて、古典和歌の背後の世界が、文献をはじめとした資料写真等、ビジュアルを中心にまとめられている。興味があってもなかなか踏みこめない世界を垣間見させてくれるのがうれしい。この特集のなかに「現代歌人に訊く わたしの好きな俊成・定家」というアンケートがあって、ぼくも出稿した。藤原俊成と藤原定家の各一首を選んで400字のコメントを付すものである。出稿者は十人で、掲載順に、高橋睦郎、河野裕子、小池光、吉川宏志、黒瀬珂瀾、俵万智、岡井隆、荻原裕幸、馬場あき子、水原紫苑という顔ぶれ。選歌にもコメントにも各自のらしさがよく出ていると思った。

きょうの一首。他人にこれをされると少々いらいらするのだが、自分もどこかで無意識にこれをしているような気はする。

 わからないと奥が深いをごちやまぜにする人が来て秋を深める/荻原裕幸

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October 25, 2009

2009年10月25日(日)

家人が早朝から外出。留守番。調べものかたがた澁澤龍彦を読んでいて、むかし、ある研究者の女性と話をしていた折、話題が澁澤のことに及んで、彼女が、澁澤の仕事の力量をかなり高く評価した上で、しかしながらつまるところ「変態」である、と結論した、その鮮烈なまでの見くだしぶりに、何やらものすごく感動したのを思い出した。いまで言うところの「萌え」に近い感覚だったか。

 『インベーダー・ゲーム』と『ゼビウス』を分けるもっとも大きな違いは、物語的な展開の有無にある。『インベーダー・ゲーム』には、たとえ高得点を重ねたとしても、長時間のプレイには堪え得ない単調さがある。それはこのゲームが、地球/外宇宙の侵略者、内/外にしめされるような神話的二元論を提示するだけで、物語の展開が紡ぎ出されるようなきっかけを失っているからだ。ところが『ゼビウス』のプレイヤーは、何時間でもこのマシンと「対話」しつづけることができる。「対話」がどんどん展開し、拡がっていくからである。『ゼビウス』のスクロール展開の背後に、何かとても大きな物語性がひそんでいるという直感に、プレイヤーは突き動かされてしまうのだ。/中沢新一「ゲームフリークはバグと戯れる」

『雪片曲線論』(一九八五年)に収録されたゲーム論の一節。中沢新一の切味をよく示している代表的な論考の一つだと思う。ゲームとゲーム史の説明は省略するが、中沢が指摘するこの革命的な変化は、除去されないバグの魅力と相俟って、以後、ゲームを一つのジャンルに成長させたと言ってもいいように思う。ゲーセンにゼビウスが出回った直後、自分はそれまで熱中していたゲームそのものから「卒業」した。ゲームに求めていた息抜きとしての単調さが決定的に失われはじめたからだ。数年後、中沢の文章を読んで苦笑したときには何とも思わなかったのだが、しばらくして、つまらない選択をしたことに気づいた。すでに四半世紀、ゲームに再入門する機会を見つけられないままでいる。

きょうの一首。こうした文体で作品をまとめていると、ふと、自分は何を言っているのだろう? と思うことがある。

 どの方位にわたしがゐるかなんとなくわかる気がする秋の夕暮/荻原裕幸

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October 24, 2009

2009年10月24日(土)

雨模様。先週も土曜は雨だったか。午後、家人が美容室に出かける。ごみのリサイクルのため、牛乳パックを切りひらいたり、ペットボトルをつぶしたり、その他、あれこれ雑用を済ませて、ゆっくり留守番をしている予定だったのだが、急にコンビニに行く用件ができたり、スーパーで買い揃えるものがあったりして、気づけば出入りの頻繁な一日となっていた。

新書館から小高賢さんの編著である『現代の歌人140』が届いた。好評で順調に版を重ねている『現代短歌の鑑賞101』(一九九九年)の続編にあたるアンソロジーで、上の世代は小暮政次、齋藤史から、下の世代は斉藤斎藤、永田紅まで、現代歌人140人、各々の自選を基本とした30首を収録した一冊である。ぼくも自選30首を出稿した。前著と重複して収録された歌人は、掲載作品が重複しないように配慮されている。また、小高賢さんの各歌人についての解説が、前著に比べて、どこかしらメッセージ的で、フレンドリーな印象になっているのがおもしろい。歌壇内を意識しすぎているという批判も出そうな気がしたが、決して権威的で嫌な匂いはなく、歌壇という小宇宙の動きを楽しんでいるような、入門的著書らしい文体だと言えようか。

きょうの一首。

 ゐねむりのあひだに何か起きてゐた気配のしんと沁みるリビング/荻原裕幸

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October 23, 2009

2009年10月23日(金)

霜降。某喫煙所で顔をあわせると、Kさんは決まって、お待たせ、と言う。会う約束などしてはいないし、待ってもいないのに、そう言う。こちらも軽く笑ってそれに応じる。中途半端に意味のある挨拶をかわすと、互いの気遣いが重くなって、かえって疲れたりすることもあるわけだが、Kさんの、お待たせ、は、ほっとする。この頃はときどき、遅かったね、と答えることにしている。

 ときどきは自分の体を見おろして今在ることをたしかめている/早坂類

第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』(一九九三年)に収録された一首。たとえばそれが裸体であれば、自身の身体を見おろすことに、存在をめぐる詩的感興が生じるのもわかる気がする。ただ、この「ときどき」は、日常の時間全体に、アトランダムに生じている「ときどき」であって、特別な含みのない存在確認だと思われる。だから短歌の表現としてはあまりにも素朴なものに見えるのだが、そこまで素朴な存在確認をする状況というのは「ときどき」ではあっても尋常ではない。恋人や友人がいても、社会のなかに生きていても、そのことが自身の存在を確認するよすがとはならないほどの孤立感に包まれているのだろう。甘えから生じる孤独とは違った切迫感があって、自身で自身を見つめなければそのまま消えてしまいそうな不安が、むしろ唯一の存在証明として、そこに揺れているようだ。

きょうの一首。

 あなたから気化した水も含まれてゐるのか雲をときどきは見る/荻原裕幸

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October 22, 2009

2009年10月22日(木)

数日前、何か甘いものをと、近所のケーキ屋に行く。ウインドウを眺め渡すと、ハロウィンに関連したデコレーションのものがずらっと並んでいた。こだわりのある人たちにはもうしわけない話だが、自分にはまったくぴんと来ない行事で、不思議な風景だなあと思う。荻原家の玄関にも、行事の好きな家人が、おばけかぼちゃのオーナメントを飾っている。不思議な風景だなあと思う。

 並木橋を渡りながら眺めただけでは、渋谷川には少しばかりの黒い水が溜っているとしか映らないが、近寄って覗きこむと、投げこまれた屑新聞や段ボールの箱やジュースの空き罐などを動かすほどではないにしても、まだ卵の殻ぐらいは運べそうに細(ささ)流れしていることが判る。水もそれほど濁ってはいない。ここに巣くっている鳩や雀たちにとっては、これも大事な餌場であり水飲み場でもあって、どぶ泥で同じように黒く羽を染めてまでと思えるのは、西陽の逆光のせいなのである。/中井英夫

『蒼白者の行進』(一九七六年)の冒頭の文章。自分が中井英夫の小説に惹かれる理由は、たぶんこのような、何の変哲もない風景などを書き写すときにこそ浮かびあがる、文体の魅力なのだろうと思う。幻想とか異端という冠がしばしばうるさく感じられて、中井英夫が好きだと発言しづらくなることもあるが、このような文章を読み直していると、やはりいいなとつくづく思うのである。

きょうの一首。

 百円硬貨がいま落ちてゆく自販機のひえびえとした臓器を思ふ/荻原裕幸

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October 21, 2009

2009年10月21日(水)

午後、中京大学へ。大学祭が近いせいなのか、キャンパスにいつもより楽しげな空気が流れていた。それに関連があるのかどうか、女子の服装はやや派手になった印象がある。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の六回目。きょうの題は「月」、それと雑詠。9人出席で詠草は17句。途中、季語について、基本的なアングルから話をしていたため、やや時間が延び気味になる。

以下、きょうの題に即して二句。短歌のことばを、短歌を書かない読者の側にシフトするということは、それなりに可能で、ハンディを負うことにはなっても、致命的なことにはならない、という気がする。同じことは俳句でも可能なのだろうか。切れても切字を使わないとか、季語を日常の感覚で理解できる範囲に収めるとか。そんなことをつらつらと考えながら。

 在るものを何も照らさず昼の月/荻原裕幸
 晩秋のシャチハタ少し斜に捺す

きょうの一首。ことばの表現しか巧くできない、自分のような人間にかぎって、むしろこういう言い訳をするのかも知れない。

 ことばでは伝はらないといふやうな言ひ訳をして秋風を出る/荻原裕幸

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October 20, 2009

2009年10月20日(火)

早朝、某所を歩いていて、黒猫と鴉とが対峙しているところに出くわした。からだのサイズはほぼ同じくらいで、どちらも気の強そうな表情(たぶん)をしながら、互いを睨みつけている。黒対黒の構図が美しい。土俵上の力士と力士さながら、長々と動かずにいたのだが、猫がふんと言う感じで顔をそむけると、鴉もほぼ同時にふんと顔をそむけて、互いにその場を去って行った。

短歌や俳句や川柳を、部分的ながらも独立したかたちで作品集から抜き出す。それを鑑賞する、と言うか、気ままな意見を述べてゆくと、一つのコラムのようなものができあがる。長さの調節もさほど難しくはない、この種の物理的な手軽さは、実際に短歌と俳句を発展させて来たし、川柳にも大きな影響を与えていると思う。短詩型文学などという括りがあるのも、歴史的な問題以上に、この手軽さという点で、物理的な質の似ていることが大きな要因になっているのではなかろうか。だからこそその類似点を活用して、ジャンルを横に並べる風景を楽しまない手はないとも思うのだが、実際に横に並べてみると、個々のジャンルの隔たりの大きさに愕然として、しばしば眩暈のようなものに襲われる。

きょうの一首。これもまた目撃した風景の一つ。

 鳩のくせにゼブラゾーンの朝寒を歩いて渡りきつて飛びさる/荻原裕幸

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October 19, 2009

2009年10月19日(月)

午後、同朋大学へ。文章表現の講義の四回目。きょうは、エッセイについて、具体的な作品を読み進めながら話す。体験談をそのまま書いているように見えても、無意識的に、作家によっては意識的に、「私」というキャラクターを設定して、それに基づいて文章が展開されている、等、エッセイを分析的に読むと見えて来る構造や方法をあれこれと語ってみた。

 まつむしがまことちんちろりんと鳴くもう一度聴くためのクリック/今野寿美

昨日に続き、第八歌集『かへり水』(角川書店)に収録された一首。生で聴いた松虫の声をデジタル音源であらためて聴こうというのか、あるいははじめからデジタル音源で聴いたものを繰り返し聴こうとしているのか、そのあたりはあまりさだかではないが、語調からすると後者だろうか。秋の夜の闇、ひびきわたる虫の声、そのなかから松虫の声だけを拾い出すように聴いている人の姿を瞬間的に思い浮かべた直後、末尾の「クリック」の一語で状況が一変する。見せ消ち的な文体が絶妙で、デジタル的複製技術の時代を明るく象徴する一首になり得ていると思う。

きょうの一首。

 エンドロールの文字が流れておもむろに日常が来るやうな月曜/荻原裕幸

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October 18, 2009

2009年10月18日(日)

いくつかのマスメディアの世論調査で、鳩山内閣が60%台から70%台の高支持率を維持しているという結果が出ているらしい。いまのところ期待をそこねていないといった感じだろうか。午後、家人と近所のユニクロに行く。平日は静かな店舗なのだが、日曜ともなるとさすがに賑わっていて、試着にもつねに長い列ができていた。着たいものと言うよりも必要なものを少し買い揃える。

 美しきうろこは探すまでもなく秋たちて秋の空を占めゐる/今野寿美

第八歌集『かへり水』(角川書店)に収録された一首。夏から秋へと表情を変えた雲の美しさや空の美しさを言うのであれば、それなりの修辞を尽くすこともできるわけだが、この歌に修辞らしい修辞は見あたらない。あるのはただ文体あるいは口調だけである。解釈や解析の入りこむ余地がきわめて少ないのだ。あきらめずに言い換えるとすれば、一首そのものが見えない修辞になっている、ということになろうか。散文的な「説明」の観点からも、韻文的な「表現」の観点からも、ことばのならびにとりつくしまがない。無意識や偶然によって書かれたとは見えないのに、どうやって書かれたのかもまるで見えない。モチーフを散文的に考えるとおそろしく平凡だし、書いて書けないようなことばの運びも見られないのに、どうしてか、かけがえのないものとしての鱗雲や秋の空がそこにひろがっているのが感じられる。歌は調べという理想をしずかでおだやかに体現した一首であろう。

きょうの一首。

 ことのほか語彙の偏る秋闌けて日記にあれを書かないわたし/荻原裕幸

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October 17, 2009

2009年10月17日(土)

雨模様。午前から午後にかけて家人が外出。義母と義姉とセントレアまで義父を送りに。留守番。こうしてブログに書くのはむろん断片なのだが、それにしても「義」のつく家族の記述が「義」のつかない家族の記述よりも圧倒的に多いようだ。何人かの読者から、婿養子ですか? と訊かれたこともある。そうではなくて、徒歩数分の圏内に住んでいるということである。

短歌誌「棧橋」が百号を迎えている。慶祝。季刊誌なので、二十五年/四半世紀の歳月を閲したことになる。発行人は奥村晃作さん、編集人は高野公彦さん、結社誌「コスモス」のメンバーによる同人誌だと理解しているが、そういう枠組を超えた場であるとも感じている。つねに現在の短歌を視野に入れながらも、浮かれも揺れもせずに淡々としているのが特徴の一つであり、百号を記念する大きな特集が組まれていないのも、いかにもこの雑誌らしい印象を強めていると感じた。そう言えば、同誌をはじめて手にした頃は、まだガリ版印刷だったのを思い出した。「棧橋」の手書きのレタリング風なロゴは、たしかその時期のなごりだったはずだ。(検索のための追記。桟橋。)

きょうの一首。

 傘ではないものがいろいろ傘立てに挿されて秋はやはり夕暮/荻原裕幸

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October 16, 2009

2009年10月16日(金)

名古屋は、最低気温が13度で、最高気温が23度だったという。ほぼ一週間、ほとんど同じような気候が続いている。朝晩は冷えているが、昼は爽やかな感じ。冷房も暖房も必要ないし、過ごしやすい時期だ。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「固」。いつものように添削的な批評を進める。少し延長になる。

 「みんな」という何か大きな暖かき塊を子は信じいるらし/川本千栄

昨日に続き、第二歌集『日ざかり』(ながらみ書房)に収録された一首。歌集の配列から推測すると、この「子」のモデルの年齢は四歳か五歳のようだ。家族みんななのか、友達みんななのか、それとも何か他のみんななのか、ともかくもそのような、自己の複数形として他者とのつながりを意識しはじめたということか。母子二人の関係を超えた「みんな」という括りを子のことばのなかに見出して、頼もしいような切ないようなあるいは干渉すべきかといったような複雑な心境がやって来たのだろう。ものやしぐさではなく、抽象的な概念をモチーフにしたこどもの歌というのは、かたちにするのが難しいものだし、かたちになっても大人の鋳型に嵌めたつまらないものになりがちだが、これは実に巧く状況を掴んでいる印象がある。作者の真骨頂の一つでもあるようだ。

きょうの一首。講座で「固」の題の作例として見せた一首。「も」がどうなんだろうと思いながらも、やはり「も」かなと思ってこのかたちになった。

 固くなつたふたりの闇も解されてゆく木犀のひろがるなかに/荻原裕幸

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October 15, 2009

2009年10月15日(木)

午後、洗濯物をひととおりかたづけてから、新調したスニーカーを少し履き慣らしておくために家人と外を歩く。地面と足裏との距離がほんの少し変っただけなのに、はじめものすごく違和感があった。ただ、しばらくすると感覚が薄れて、やがて新しい靴だということすら忘れていた。花ざかりの金木犀をそこここで見かける。どちらに向かってどう歩いても甘い匂いが追いかけて来た。

 助けてと思う間も無くどっと昼 あなたはお母さんでしょうでしょうでしょう/川本千栄

第二歌集『日ざかり』(ながらみ書房)に収録された一首。歌集全体が育児をめぐる日常を軸に構成されている。そのなかでもとりわけ忙しなさが感じられる一連に置かれた一首である。この忙しなさ、そして、この強迫観念は、出産や育児の経験がない人にも理解することはできるものだろう。同時に、それだけ通俗化されて流布しているモチーフでもある。しかし、この「でしょう」の繰り返しは、斟酌すると痛切かつ鮮烈で、休暇のない育児の日々を生き抜いてゆく、ことばにならない混沌とした感じがひしひしと伝わって来る。経験のない時空にひきこまれるような感覚が生じた。出産と育児とはしばしば聖域化されがちで、大変ながらも美しい他人事に見えてしまうのだが、ここには聖域化する間もなくどっと進んでゆく時間だけがあるようだ。生な感じのまま綴られている印象のことばが、作品にユニークな感触を与えているのではないかと思う。

きょうの一首。

 妻のこゑとわたしのこゑがこの家のこゑのすべてである秋の暮/荻原裕幸

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October 14, 2009

2009年10月14日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の五回目。きょうの題は、何か具体的な秋の果物、それと雑詠。9人出席で詠草は18句。ラ・フランスが二句あったりして、果物の選択が数人ずつかぶったのがおもしろかった。スーパーで果物の棚を眺めているような気分になる。終了後、外で家人と遅い昼食をとる。方々で買い物をしてから帰宅。

以下、きょうの題に即して二句。「をる/てをる」という語が、辞書的な意味に還元できない状態で使われている俳句をときどき見かける。「ゐる」や「をり」だと、一句があまりにもつるっとした感じになるところに、ブースターのような機能をもたせているようだ。ただ、「ゐる」や「をり」に何か余分なちからがかかった印象で、かなり癖が強いため、どうなんだろうと思いながら読んでいたのだが、きょうはなんとなく自分自身で試してみた。

 鞄から柿のひかりが漏れてをる/荻原裕幸
 いづれにも秋のびてをる秋の辻

きょうの一首。その修辞がことばをただおもしろがっているように見えるか、それとも何かをわかってもらおうとしているように見えるかは、結果に過ぎないが、短歌においてはおのずと、結果がすべて、になるのだろう。

 南島を雲のながれてゆくやうな所作にてけふのあなたは動く/荻原裕幸

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October 13, 2009

2009年10月13日(火)

金木犀の匂いがあたりにひろがりはじめた。午後、家人に誘われて外に出る。行こうとした店が火曜定休だったので、天の声のようなものだと思うことにして、家人が前から気になっているという別の店に行く。店に着いて、以前に来たことがある、と記憶に言われたのだが、店名が違う。しかし、店内の風景は、少しアレンジが変えてあるだけで、三十年前とほぼ同じだった。短歌を書きはじめた頃、何回か来てアイデアを練ったこともある。ものすごく懐かしい気分になる。

 やわらかなあなたの闇の空間を愛してさめた日記を守る /星野しずる

佐々木あららさんのスクリプト「犬猿短歌」で自動生成された「今日の一首」。百首ほど読んでみたところ、異常なまでによくできたスクリプトだと感じた。詳しいしくみについてはわからないのだが、短歌を書くという行為についてよく理解できている人がスクリプトを書いた、ということはわかる気がした。短歌に対する愛情と歌人に対するある種の明るい悪意とが背景にあるようで、おもしろさを楽しんだ上で「創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです」等のメッセージに共感する。

きょうの一首。

 偶然に生じたことがやはらかにわたしを決めてゆくのか寒露/荻原裕幸

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October 12, 2009

2009年10月12日(月)

体育の日。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の三回目。祝日なのに開講日。というのは、ハッピーマンデー制度のため、月曜の休日が増えて、暦のまますべて休みにすると、月曜の講義の日数が足りなくなるためである。ハッピーでも何でもないふつうの月曜となった。文芸のジャンルと歴史の説明をかねて、散文詩の具体的な作品を読み進めた。夜、金木犀の匂いに気づく。

 かたはらに眠る妻はも梅の実のやうな寝言をこぼしたりけり/大松達知

昨日に続き、第三歌集『アスタリスク』(六花書林)に収録された一首。「梅の実のやうな」の解釈に迷うところだが、どこか俳味のある美しさとか、熟しても酸味が残るとか、そうした事典的なイメージを重ねておけばいいだろうか。この一首は、「かたはらに眠る妻はも」あるいは「こぼしたりけり」など、歴史的で文語的な調べがフレームになっている。ただ、それが純粋に歴史的で文語的なものとしてひびく印象はない。モチーフの核となる、妻の寝言、の日常感が、修辞や調べを超えて読む者の側に迫って来るからだろう。妻が寝ながら何を言ったかはともかく、初夏、梅の実る季節に、梅さながらに零れ落ちるような妻の寝言を、傍らにいて直に聞く、そのような空間に「私」がいる事実を噛みしめている感じが快い。以下、同歌集から他にも好きな作品を少し引用しておく。一字、誤植と思われる箇所を無断で訂正してある。乞容赦。この作者の手にかかると、古語も死語も通俗も、息を吹き返したように、本来とは少し違うアングルから機能しはじめるのが実に興味深い。

 縁側と大黒柱と床の間とサッカー場がわが家には無い/大松達知
 五分刈りにして反省す青春はかくきらきらと簡潔にして
 日本語にすこしく飢ゑてももしきの太田胃散の箱を読みをり
 わが声を聞きつつ眠る生徒あり安らかなれよ悔い改めよ
 手をつなぐためにたがひに半歩ほど離れたりけりけふの夫婦は

きょうの一首。

 妻ではない女性と歩いてゆくやうに夕日の橋をいま妻とゆく/荻原裕幸

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October 11, 2009

2009年10月11日(日)

荻原家の家事は、三対七程度(たぶん)で家人と分担しているのだが、なぜか洗濯だけはどうしても手が出せずに、十年以上任せっ放しにしていた。それが、先日、どうしたわけか、呪いがとけたように、秋晴の空を見ていて、洗濯日和だよなという気になって、家人から要領を教えてもらって、さすがに必要なくなった夏物その他を洗いはじめていた。きょうもベランダは満艦飾である。

 なにゆゑかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に/大松達知

第三歌集『アスタリスク』(六花書林)に収録された一首。この「なにゆゑ」的な状況の妥当性が気になりはじめると、算数の問題はしばしば解けなくなる。友人五人でドーナツ店に行きました、各自が二十個ずつドーナツを注文しました、全員が食べたドーナツの個数の合計は? と問われたとき、注文したドーナツをすべて食べ切れたのかどうかで躓いていたら解答には到達できないわけだ。この問題中の「人」は、計算問題のためにほとんど無意味に池を五周もさせられることになったのだろう。一周あたり仮に三百メートルとすれば、一キロ半を孤独で無目的に進むのである。飽きてもやめるわけにはいかないのだ。仮想の空間のこととは言っても、どこか実際の日常に重なるような感触がある。出題者の側の立場で問題を確認しながら、他人事とは思えない空しい感じが生じたのかも知れない。笑いと愁いとがゆるやかに交差して、この作者らしい味わいがよく出ている一首だと思う。

きょうの一首。

 コンビニのコピー機に残されてゐる茄子のレシピと薄荷の煙草/荻原裕幸

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October 10, 2009

2009年10月10日(土)

巷は三連休に入ったらしい。午後、桜山の美容室へ。二か月余り伸び放題だった髪をカットしてもらう。美容師さんは、今週、休暇をとって友人たちと韓国を旅行して来たという。市場で偽ブランド品らしきものを見かけた話とか、日本でイメージされているほどには辛くない食事の話とか、楽しげなみやげ話を聞くうちに、髪はすっきりと短く整えられていた。

 人間のいづれの胸よりやゝかたき椅子ありてふとねむりをいざなふ/葛原妙子

昨日に続き、第五歌集『原牛』(一九五九年)に収録された一首。大人の膝に坐って胸を背もたれにした少女期の記憶に関連しての発想なのだろう。「人間の」は極端な誇張だが、たとえば「父母の」などと経験の範囲を限定すると、むしろ何かあざとい印象になりそうだ。それにしても、男性の胸のかたさや女性の胸のやわらかさかと似ているというのではなく、どちらとも異質であるはずのかたさを感じたとき、そこから人間の胸のかたさを連想して、ゆえに眠りに誘われてゆくというこの流れは、何とも葛原妙子らしい曲折だと思う。男性の胸よりもかたい椅子に坐ってそれゆえに眠くなることなどありそうにない気がするのだが、こう言われてみると、なるほどそんなこともあるのかと納得させられる。不思議な文体である。

きょうの一首。食卓のスケッチ。字音仮名遣いは原則として避けているのだが、この場合、葡萄、と漢字にするのはなぜかあわないような気がして。

 黒ぶだうの黒さを剥いてふかしぎなにごりを口にする朝の妻/荻原裕幸

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October 09, 2009

2009年10月9日(金)

午後、近所の公設市場まで弁当を買いに行く。ちょうど店主が卵焼を焼いているところで、焼きたてをおまけにもらった。美味。ノーベル平和賞が、アメリカのオバマ大統領に決まったという。テレビのニュースで速報を見たとき、一瞬、何の冗談だろうか、などと、かなり失礼なことを思った。候補に上がったのがいつなのかわからないが、実績より期待に重きが置かれたのは間違いないだろう。

 高層住宅のいただきの部屋にのぼりきて方角をたづねたり方角といふをさびしむ/葛原妙子

第五歌集『原牛』(一九五九年)に収録された一首。当時の高層住宅がどの程度に高層だったのかを知らないのだが、同じ一連に「十階の広窓にゆふべの雲充ち」というフレーズを含む一首があって、あとがきにもその手の記述があるので、たぶん十階建て前後なのだろう。現在の三十階建て以上のクラスのマンションを少し重ねてイメージすれば、当時の感覚をそれなりに追体験できそうな気がする。しかし、それはそれとして、この一首のモチーフは「方角」にある。なぜ「さびしむ」のかが考えても一向にわからない。従来、山のいただきとかそういう特殊な場所でしか発生しなかったこの「方角」の感覚が、身近な人の住まいで生じたという「さびしむ」かとも思うのだが、あまり自信をもってそう言える解釈ではない。葛原妙子の抱える稀なる不思議系キャラの、企みのない不思議さが横溢する佳品だと言えようか。

きょうの一首。

 時からかるく逃げ出して来た屋上のこの秋晴にメールが届く/荻原裕幸

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October 08, 2009

2009年10月8日(木)

寒露。深夜から午前にかけて台風18号が通過する。超大型で、名古屋にとって最悪の針路だと報じられていたが、いまのところ、身辺でこれと言って大きな被害は聞いていない。きのうの段階で、台風の心配があったので、きょう予定していた東桜歌会の例会を中止にした。ただ、歌会の予定の時刻にはすっかり天候が回復していて、少し恨めしい気分になる。

短歌を通して何をすることが可能なのか、どこまでも執念深く考えてゆくとき、短歌史を参照するのはごく自然なことである。ただし、すでに書かれている短歌史を、知識として吸収してゆくのは、可能性の追求にあたって短歌史を参照することとはどこか違っている。評価のさだまったものは、つまり、汲み尽くされて涸れた泉のようなものである。さだまった評価を揺さぶったり、さだまらないものを解析したり、作品を書く人が歴史を参照するとはそういうことであって、深く参照すればするほど、歴史との見かけの上でのつながりは見えづらくなると思う。短歌史とのつながりが明確に見えて、安心して読める、という類の評言をときどき見かけるが、その安心が退屈の別名であるのは言うまでもないだろう。

きょうの一首。

 われわれとは言ふが自身をわれと呼ぶひとなどゐない十月の街/荻原裕幸

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October 07, 2009

2009年10月7日(水)

午後、中京大学へ。時間がなかったので、一駅を地下鉄で移動しようとしたら、騒然としていて、人身事故で列車が遅れている旨のアナウンス。駅員に訊ねると、遅れは四分から七分です、と言う。その正確さにあらためて驚く。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の四回目。きょうの題は「冷やか」、それと雑詠。10人出席で詠草は20句。添削的な批評をテンポよく進める。

以下、きょうの題に即して二句。俳句を書くとき、ことばから入っているのか、それとも日常から入っているのか、自分でもよくわからないのだが、ことばの感触と日常の感覚とがつながるポイントのようなものを探しながら書いているのは何とか自覚できる。たとえば、鍵や鍵束を探すという行為は、具体的かつ日常的ながらも、俳句のなかではどこか抽象化されている、もう少し行為そのものに近づく感じが生じるポイントがどこかにあるのではないか、という具合に。

 鍵の束から鍵さがす朝の冷え/荻原裕幸
 櫛の歯のわりに少なし秋の雨

きょうの一首。

 暗がりをゆく自転車を漕ぐ音が午前零時ぐらゐをお報せします/荻原裕幸

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October 06, 2009

2009年10月6日(火)

雨天。かなり冷える。午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は六人。テキストは佐藤文香第一句集『海藻標本』(二〇〇八年)。あまりにも評判の良い句集なので、ここはひとつ意地悪く批判的に読んでみようと思ったのだが、読み進めると評判の良いわけがなるほどとわかって来た。読書会の場では、俳句的な約束事を確認しながら、みんなで丁寧に読解を進めた。

 アイスキャンディー果て材木の味残る/佐藤文香
 靴篦の後ハンケチを渡しけり
 蜩や神戸の地図を折りたたむ
 算術につかふ漢字や竹落葉
 青に触れ紫に触れ日記買ふ
 晩春の焼く火と煮る火となり合ふ

句集『海藻標本』から惹かれる句を少し抜き出してみた。句集全体では、全力で何かを言わんとして、結果的に何か以上のことを言ってしまっている印象の句もちらほら見かけたのだが、これらの句では、力を統御して、言わんとする何かに対して過不足のない範囲にことばをしっかり着地させているようだ。定型による束縛を含んだ、俳句というスタイルを満喫している感じで、読んでいて実に快い。

きょうの一首。

 けふも誰かが殺されてゐるさみどりの石鹸液で両手をあらふ/荻原裕幸

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October 05, 2009

2009年10月5日(月)

午後、同朋大学へ。キャンパスで、女子学生が二人、「風船玉」で遊んでいるのを見かけた。商品名は忘れたが、何とかバルーンという、ゲル状の素材をストローで膨らませると割れないシャボン玉のようなものができるあれだ。あまりに懐かしくて、ベンチに坐って眺めていると、何人かの学生が異常なものを見るような目つきで過ぎて行った。後期の文章表現の講義の二回目。受講者数は24人で確定した。

 思想的根拠はないが東京は爆破されねばならぬと思ふ/黒瀬珂瀾

昨日に続き、第二歌集『空庭』(本阿弥書店)に収録された一首。ヒューマニズムや倫理のコンテクストで読んでしまうと、ここからは何も見えて来ない。人を傷つけたいわけではなく、恐怖を与えたいわけでもないのに、あの何もかもが過剰な巨大都市を見ていると、なぜかしらそんな気がして来る、という説明不能の感覚を言っているのだろう。いつからか、郊外や田舎での暮らしを求める人も増えているようだが、この歌の感覚はそれとは少し違う気がする。都市機能への依存が前提にあるからこそ脱出ではなく破壊/再生を求める感覚が生じるのではないだろうか。「思想的根拠」がないと断言することで、テロリズムとも美学的な破壊衝動とも違う、生活者としての雑感のような不思議な気分が出ているのだと思う。

きょうの一首。

 人間でありつづければおのづから軋みはじめてあきかぜのなか/荻原裕幸

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October 04, 2009

2009年10月4日(日)

朝はよく冷えているのに、昼間は暑いという日が続いて、服の袖の長さに迷う。元大臣の中川昭一氏が急死したというニュース。遺書は見つかっていないなどと報道されているように、自殺なのかと思わせる状況ではあるが、どうやらその可能性は低いらしい。F1日本GPの決勝、トヨタの初の表彰台とか、年間チャンピオンの争いで盛りあがったらしいが、うっかり見損なう。

 人造少女のコスプレのまま君が吐く煙草のけむり世界をめぐれ/黒瀬珂瀾

第二歌集『空庭』(本阿弥書店)に収録された一首。過剰な感情移入が見られるわけでもなく、一知半解のまま貶めるようなところもなく、奇を衒ってもいない、サブカル的風景の誠実な表現だと思う。「人造少女」が、固有名とも汎用性のあることばともとれるあたりに、少なからず演出感も見えるが、気になるほどではない。描かれているコスプレという「ごっこ」は、オタク的であると同時に非オタク的でもある。二次元のものを慈しみながらそれが決して三次元化しないことを周知するからだ。レイヤーのふかす紫煙は、その強烈な証左でもあるのだろう。往来不能の仮想の世界を含んで現実の世界があるという、どこか矛盾したような現在の状況を、巧く見せている佳品だと思う。

きょうの一首。畢竟、かげりのないところに作品が生じづらいのは、どのジャンルも同じことなのだろうか。

 未来あかるく拓かれてゆく空想のなくて身にしむコミックの山/荻原裕幸

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October 03, 2009

2009年10月3日(土)

二〇一六年のオリンピック開催地はリオデジャネイロに決まったらしい。立候補していた東京は残念ながら落選となった。三十年近く前、名古屋が落選したときは、住民に長くダメージが残ったようだが、東京だとどうなんだろう。うっかり中秋の名月を忘れていた。夜、中天にあまりにもきれいな月があって驚く。思わず、をわ、というようなことばにならないことばが漏れた。

 月光を溜めし躰が朽ちてゆく/久保純夫

現代俳句文庫『久保純夫句集』(二〇〇六年)に収録された一句。月の光に浄化作用があったり、ある種の毒性があったりすることは、科学的根拠はともかくも、文芸の世界での常識であるとは言えるだろう。昼間に生じる諸々の負のファクターを月光で濯いでいる人は、むかしもいまも大勢いるのではないかと思う。この句では、そうして月光を長期多量に浴び続けた人が、遂に副作用的に「躰が朽ちてゆく」のを感じているのではないか。中高年の身体の比喩なのだと読めなくもないが、だとしても、月光をあまり浴びて来なかった人と浴び続けた人との差異に焦点があるのは同じだと言えよう。やり直すことのできない時間が心身に切なく広がって、人はさらなる月光を求めてゆくのかも知れない。致死量に到るまで。

きょうの一首。

 独断多き私のなかに他者のゐないのをたしかめるやうに月さす/荻原裕幸

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October 02, 2009

2009年10月2日(金)

雨天。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは新規の一人と見学者一人を含めて出席者17人、詠草17首。題は「小」。いつものように添削的な批評を進める。この教室はビルの十階にある。長方形の一辺、と言うか、直方体の一面がまるごと窓になった構造で、にわかに暗くなったり徐々にあかるくなったりする雨空と栄のビル街とが鮮やかに見えていた。

何回か書いていることだが、講座で受講者の詠草を批評しながら、はっきりとレベルの上がった人が多いのを感じている。ただ、あくまでも「初心者講座」のスタンスは貫こうとも考えている。つねに「入口」にいて、日常のことばでの生活から、短歌の世界に踏みこむときの、ことばの質が変化してゆく感覚を忘れないことは、専門的な表現を自身のものとしてゆくことと同じくらい大切だと思うからだ。後者のためには別の場所が設けられるべきだろう。

きょうの一首。講座で「小」の題の作例として見せた一首。しかし、サイズが大きくなっただけのことで、「小さな人」であり続けているのはいまも同じか。

 川がささやき樹がつぶやいて母よりも小さな人であつた秋の日/荻原裕幸

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October 01, 2009

2009年10月1日(木)

きょうから十月。きょうの荻原家は、互いの都合で自由行動の日なのだが、近所の中華料理店で一人で食事をして少年マンガ誌をまとめ読みしたくらいで、さしてこれと言う自由な感じがないのはいつもと同じだった。食事の帰りにスーパーで買い物をする。ショッピングカートを忘れたため、推定十キロほどの荷物を提げて、重いなあとぶつぶつ言いながら歩いて帰宅。

 知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱/寺山修司

第一歌集『空には本』(一九五八年)に収録された一首。林檎箱を代用した机は、ある世代の人たちにとってはとても懐かしいものだという。机をこどもの人数分だけ買い揃えることがふつうではなかった時代の話だ。ただ、この歌には、どこか逆境的な匂いがある。机がそれなりに普及した時代/地域なのだろうか。「知恵のみ」は、知恵の実=林檎と掛けられているわけだが、文脈的には、知恵と体験という二つの概念のうちの、知恵だけ、の意味だろう。自身の逆境や若さが、必ずしも肯定的にのみ言えるものではないことを客観的には認識しながら、むしろそれを誇るように描くところに、ある種の扇動者的な、寺山修司らしい感じがよく出ているようだ。

きょうの一首。

 右は青森に左は昭和につづきゆくそのやうな辻なきか十月/荻原裕幸

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