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November 30, 2009

2009年11月30日(月)

朝食をとりそこねる。お腹が空いてなさけない気分になる。たかが一回の食事のことなのに、きょうは碌なことがないのではないかとか思いはじめる自分がいて、いよいよなさけなく感じられたが、昼食をとったらネガティブな気分があっさりリセットされた。気分とはとても単純な構造をしているものらしい。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の八回目。ひきつづき評論について。

評論(この場合、たぶん短歌評論)を書いていると、その間は短歌を書けない、あたまが短歌のモードにきりかわらない、という話をときどき聞く。一つのことに意識を集中していると、他のことにうまく集中できないのは、あたりまえと言えばあたりまえだが、そこで言われているのは、評論はロジックで、短歌はロジックではない、ことばを繰り出す方法が根本から異なる、だから同時進行しづらい、ということであるらしい。しかしながら、評論とは、ロジックであっても、ことばで科学したり数学したりするものではない。研究論文のように、一から十まで根拠があって語ってはいないはずだ。むしろ、論文では根拠がなくて語れないところに、何とかしてことばの水脈を通わせるのが文芸としての評論なのであって、その意味では、論文よりずっと短歌に近いものだと言えよう。同時進行は難しいとしても、根本から異なるわけではないと思う。

きょうの一首。

 なぜあれを棄てたのかといふ後悔のやうな白さを含んで雲は/荻原裕幸

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November 29, 2009

2009年11月29日(日)

未明から家人が友人たちと出かける。留守番。岐阜の某所に、人気のある有名な占い師がいて、一日で見てもらえる人数に制限枠があるのに、電話やネットで予約がとれないため、早朝から列んだり走ったりする必要があったらしい。努力の甲斐があったようで、友人ともども夕方には占ってもらえたそうだ。それだけの情熱があれば、きみたちの未来は必ず明るくひらけるよ、と、ひそかに思う。

 鼻濁音がきれいだなあと誉めらるる訳のわからなさに恋をしき/梅内美華子

昨日に続き、第三歌集『火太郎』(二〇〇三年)に収録された一首。発声の訓練をしたのでなければ、鼻濁音がきれいにひびくのは、出身地によるものだろうか。どちらかが他郷に来ているか、あるいは、ともに他郷に来ているのか。いずれにしても、相手はその声を洗練されたものだと感じ、一方はそんなことがなぜ褒められる対象になるのかという「訳のわからなさ」を感じたわけだ。恋愛のきっかけの多くは、そうした思いがけない角度から射して来るひかりのようなものなのだと思う。むろんこれだけが理由でもないのだろうが、恋愛に落ちる不思議を、自身も未だに不思議に感じている様子を残しながら、読者の側に巧く披瀝しているようだ。同歌集で他にも惹かれた作品を以下に引用しておく。

 蝉を生む青葉の深さ仰ぐとき流涕のごとおちてくる声/梅内美華子
 水鳥が水を叩きて立ちあがり君よりはがれてゆくわれの見ゆ
 借り物のような若さをなだめ来ぬくさかげろうやうすばかげろう
 てのひらの窪におちつくおにぎりを握りおわれば朝月白し
 竹林は女を蔵うと思うまでささめきやまず葉の散りやまず

きょうの一首。ときどき「ハレ晴レユカイ」があたまのなかで流れはじめる。

 手と手をつなげばなぜ無敵かと問ひながらゆく夕焼の巷の冬を/荻原裕幸

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November 28, 2009

2009年11月28日(土)

春に買いそびれてそのままになっていたモンシュシュの堂島ロール、昨日、家人が名古屋駅の店で買って来たので、二人でこれを食べる。大相撲九州場所、白鵬が、千秋楽を待たずに十二回目の優勝を決めた。今年、優勝決定戦で三敗と、そこだけが様にならない展開だったので、劇的な優勝決定戦をと期待したのだが、その前に他の力士が脱落してしまう。朝青龍はこともあろうに三連敗だという。

 ビッグ・サンダーマウンテン急降下の際叫びてわれを生き直すべし/梅内美華子

第三歌集『火太郎』(二〇〇三年)に収録された一首。際、に、きわ、のルビ。中黒の位置は原典のまま。ビッグサンダー・マウンテンは、かつてはゴールドラッシュで栄えた鉱山の、廃坑を走り抜ける列車に模した、ディズニーランド系のアトラクション。一般的に、日本人の大人がストーリーにまで深く入りこんで楽しむことはないはずだ。ただ、身体的な刺激はむしろ少年少女以上に深く味わうことができようか。アトラクションを遠目に見ながらの、童心にかえる、過去にかえる、といったシンプルな願望だとも読めるが、単に「生き直す」のではなくて「われを生き直す」としているのは、過去よりも未来に向けられた意識だからだと考えたい。あるべき私の姿とどうも少し違ってしまったと感じる現在の私が、私自身を一からやり直そうとする宣言だと読んでおこう。果たして「われ」は、この後、ビッグサンダー・マウンテンに乗ることができただろうか。

きょうの一首。

 眠ることで時間を闇に棄ててゐるやうな気がして寒きあかつき/荻原裕幸

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November 27, 2009

2009年11月27日(金)

午後、家人が義母と出かける。留守番。近所のスーパーで、一人で簡単に食べられるものと牛乳を買う。荻原家では、牛乳と言えば名古屋牛乳のことで、常備している店が少ないため、定期的に必ずそのスーパーに行く。他のメーカーの牛乳よりも牛乳らしい味がする、と家人が言うので、以来、名古屋牛乳ばかり飲むようになった。たしかに牛乳らしい味がする。帰宅してふたたび留守番。

 いまでこそナツメロということばが通用し、淡谷のおばさまとか灰田のおにいさまとかが懐かしく迎えられているけれども、あと三十年四十年経って、いまはやりの流行歌のどれかひとつでも、ナツメロとして通用するのだろうか。よけいな心配をするようだが、森進一じいさん、美空ひばりばあさんの唄をきいて、ああ懐かしいと、ドッとその時代の思い出が甦るということは、まずないのではなかろうか。/中井英夫

『黒鳥の旅もしくは幻想庭園』(一九七四年)に収録された「廃墟の唄」という流行歌についてのエッセイの一節。初出は一九七〇年だという。淡谷のおばさま、は、淡谷のり子、灰田のおにいさま、は、灰田勝彦のことだろう。実際にほぼ四十年経った現在、中井の予測は外れもしたし当りもした。外れたというのは、森進一も美空ひばりも、その時代の個人的な思い出を甦らせる懐メロとしてきちんと通用しているという話だが、当ったというのは、その時代まるごとの思い出、つまり、世相をダイレクトに反映した、時代のアーカイブ的な流行歌は、それ以後なくなったままだということである。もっとも、これは、流行歌の問題ばかりではなく、世相が一つの焦点を結ばなくなったことにもよるとは思うが。

きょうの一首。

 男一匹そんな言ひまはしが昔たしかにあつて木の葉が散つて/荻原裕幸

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November 26, 2009

2009年11月26日(木)

きのうきょうと洗濯日和だったので洗濯。第22期竜王戦、渡辺明竜王が、挑戦者の森内俊之九段を下して、四連勝で防衛。六連覇を達成。二〇〇四年、フルセットの末にタイトルを奪取した相手を完全に抑えこんでの防衛というのが凄い。トータルの成績では伸び悩んでいるようにも見える渡辺竜王だが、竜王戦に関しては、どんどん無敵な感じを深めている。

砂子屋書房のウェブの、二十六日付の「一首鑑賞 日々のクオリア」で、江戸雪さんが「恋人と怪獣映画見て冬の街へここでは何も起きない」という、第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)の一首をとりあげてくれていた。いまここといまここではない場所との対比というモチーフは、むかしからしばしば自分の作品にあらわれる。いまここを楽しみながら、どこかいまここだけでは楽しみ切れないような、自分の軸のぶれ具合がそのたびに露呈されている気がする。江戸さんの鑑賞文は、そのあたりのぶれる感じを、意識の流れや揺れとしてすっきり整理して読んでくれている。作者としてもすっきりした気分で楽しみながら読むことができた。

きょうの一首。

 腕時計と革のベルトも冷たくてとるにたりないさびしさに朝/荻原裕幸

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November 25, 2009

2009年11月25日(水)

早朝、段ボールと新聞をとりまとめて回収に出す。不燃ごみの回収日でもあり、マンションのごみ置場がごちゃごちゃになっていた。ごちゃごちゃのままだとそのままどんどんごちゃごちゃがひどくなるし、あたりに大家さんの気配もないし、しかたないので少し整理しておいた。皆がほんのちょっと気をつかえばそれで済むことだが、そのほんのちょっとはなかなか難しいことらしい。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十一回目。きょうの題は「冬ざれ」、それと雑詠。10人出席で詠草は21句。いつものようにその場で読解しながら添削的批評を進めてゆく。講座後、八事のジャスコで一人で遅い昼食をとる。喫茶店で一人で定食を食べて珈琲を飲んで煙草を喫っていたら、結婚以前の時間が懐かしく思い出された。あの頃はよかったとか嫌だったとかそういう種類の話ではなく、あの時間が地層のようにいまの時間の下にひろがっているのが、途切れずに連続しているのが、何かとても奇妙なことに感じられたのだ。以下、きょうの題に即して二句。

 冬ざれを来て冬ざれの奥に消ゆ/荻原裕幸
 去年たしか同じかたちの冬の雲

きょうの一首。

 死ぬまでの時間のつねに縮まつてゆくこと蕪の煮えてゆくこと/荻原裕幸

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November 24, 2009

2009年11月24日(火)

先日、田中槐さんの第三歌集『サンボリ酢ム』(砂子屋書房)が届いた。郵便受から部屋に戻る階段で、届いたものをちらちら見ていると、封筒の窓からちょうど背表紙の「酢」の一字が見えて、思わず、酢? と間抜けな声が出る。田中槐の歌集のタイトルに、酢、って何なんだろう? 気になって、そのまま踊場でびりびりと開封してしまった。ああそういうことなのかと少し納得して部屋に戻る。内容の感想は、いずれ、あらためて、ここか、どこかで。

午後、栄のYWCAへ。ねじまき句会の例会。栄の駅に着いたところで携帯電話が鳴る。句会のメンバーから、飲物を買って来て、と頼まれる。句会の参加者は五人。今回は題詠「決」と雑詠。いつもの通り、無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。句会後、急いで帰る予定が、メンバーを店まで道案内した流れのまま西原珈琲店で歓談。きょうの句会に提出した川柳は以下の二句。題詠の句の初案は「大根をやめてコーラに決めている」だった。推敲に推敲を重ねてかなり違うかたちになったわけだが、その話を句会でしたら、初案の方がいいという意見があって苦笑する。

 祈るのか折れるか未だ決まらない/荻原裕幸
 完璧な土になるまで埋めておく

きょうの一首。季語は一つ、季語の説明はしない、といった俳句的制約が、短歌にはなぜ影響を及ぼさないかを考えながら。

 大根をいれると葱のをさまらぬ買ひものぶくろのやうな短日/荻原裕幸

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November 23, 2009

2009年11月23日(月)

勤労感謝の日。この祝日に労働する人が、勤労感謝の日に働くなんて、という冗談まじりのことばを口にするのを聞くことはよくある。起源が覆われて/忘れられて、名前が一人歩きして、どこかしらメーデーの感覚に近づいているのかも知れない。そう言えば、むかし、父も、勤労感謝の日に働くのは云々と笑いながら言っていた。やはり名前のちからなのか。

 ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台/塚本邦雄

第六歌集『感幻楽』(一九六九年)に収録された一首。破調をきわめた果てにあらわれた正調という感じの快い調べである。ことばの感触もイメージも鮮烈で、塚本邦雄の代表作に数えられるのもなるほどと納得できる。しかし、文脈がそれほどあきらかなわけではない。「ほほゑみ」の主は誰なのか(レオナルド・ダ・ヴィンチに献じた連作の冒頭の一首なので、モナ・リザのそれだという話もある)、「はるかなれ」は命令形なのか已然形なのか(前者と後者とでは「ほほゑみ」がそもそも遥かなのか否か、意味が真逆になろう)、火事はどこで起きているのか(近所の火事なのか、太平洋戦争の空襲に関する記憶なのか、『地獄変』や『金閣寺』に類する審美的な火なのか)、等々、深く考えはじめると、この一首が、入口も出口もないどこか奇妙な場所にあることに気づかされる。

きょうの一首。

 洗濯にも牡蠣を買ふにも博奕にもひとはもつぱら日和を択ぶ/荻原裕幸

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November 22, 2009

2009年11月22日(日)

小雪。巷は連休である。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。NHKの大河ドラマ「天地人」が、少し早めの最終回。このドラマ、関ヶ原の前後が最終回になるのかと思ったが、それ以後を描いていて驚かされた。ただ、それ以後はドラマとして低調と言わざるを得ない印象だ。上杉家の大阪の陣、等、文字表現ならともかく、映像では、登場人物の心情の曖昧さなど、納得しづらいものがあった。

 立ち入ったことを餃子のタレに聞く/筒井祥文

『セレクション柳人9 筒井祥文集』(二〇〇六年)に収録された一句。「餃子のタレ」と会話してしまうあたり、一読していかにも川柳的なナンセンスを楽しむことができるが、ナンセンスにとどまらない現実感も見える。コミュニケーションの深さや強さや明確さを求めるのには、相手の目をしっかり見て話す、というのがセオリーである。逆に言えば、遠慮がちに「立ち入ったこと」を訊くときは、相手の目から視線を外すだろう。外した先にこの「餃子のタレ」があると思えば、ずいぶんリアルな会話の一場面だと読むこともできるのではないか。むろん、「餃子のタレ」ではなくても成立する場面に、あえて「餃子のタレ」を登場させたところに、この句の魅力、筒井祥文の世界の真骨頂があるわけだが。

きょうの一首。

 辞書にないことばの雑ざる冬晴のあなたのこゑのなめらかな海/荻原裕幸

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November 21, 2009

2009年11月21日(土)

名古屋市交通局が発行する割引切符に「ドニチエコきっぷ」というのがある。一枚六百円で、休日運行の日と毎月八日(名古屋ローカルの「環境保全の日」)の市バスと地下鉄に一日乗り放題となる。自動車を使わないのでエコであるらしい。市バスは一律二百円、地下鉄が初乗り二百円なので、かなり得な感じはあるが、そもそも平常の運賃(特に地下鉄)が高いのではないかという気もする。

 自転車で来たので自転車で帰る/筒井祥文

『セレクション柳人9 筒井祥文集』(二〇〇六年)に収録された一句。あたりまえのことが書かれているように見える。ナンセンスに見える。ただ、歩いて来た、だとか、電車で来た、とか、自動車で来た、ことと比べてみるとどうか。たとえば、どこかで友人と会ったのだとする。他の方法の場合、帰りはどうするか、と言うか、これからどうするか、で容易に盛りあがることができそうだ。自転車の場合、無理ではないものの、それがちょっとした枷になりそうだ。自動車で来て飲酒してしまって重荷になったのならば、駐車場に置いて帰るのもしかたないと割り切れそうだが、自転車だと置いて帰るのは抵抗感が残るだろう。とことんまで何かしたいのに、それが不可能ではないのに、おのずと抑えられてしまう感じ。自転車とはそのシンボルのような存在ではないだろうか。夜道をひとり、自転車を漕ぎながら、後ろ髪を引かれる感覚がいつまでも消えない人の姿が目に浮かぶようだ。人生のさりげない喩になっているとも言えようか。

きょうの一首。そういうこどもがときどきいる。ときどき怖くなる。

 外の闇には誰かゐるのか地下鉄の窓から外に手を振るこども/荻原裕幸

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November 20, 2009

2009年11月20日(金)

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草15首。題は「寒」。時節柄、この題は書きやすかったかと思う。無理なく自在にまとめられた詠草が多かった。いつものように一首ずつ添削的な批評を進めてゆく。講座後、無印良品で文具をあれこれ物色する。デパ地下で弁当を買って帰宅。

 麿、変?/高山れおな

昨日に続き、第二句集『荒東雑詩』(二〇〇五年)に収録された一句。前書/詞書が完備されている件は昨日書いたが、この句集は、それらの前書/詞書を中心に全体の構成を楽しむことも、秀句と思われる句だけを抜き出して楽しむことも、どちらもふつうに可能である。ただ、この面妖な一句を読むと、何か句集の他の部分がすべてこの句をきわだたせるために存在しているように見えなくもない。句集には、自由律への志向など少しも感じられないのに、後半のある箇所で、この句はいきなりあらわれる。この一句だけが他の句から孤立しているのだ。王朝風な一人称と現代語とのとりあわせは、解釈自由かつ解釈不能で、読者を奇妙な感覚へと陥れる。たった四音が生み出す、世界の鮮やかな亀裂に驚かされた。

きょうの一首。講座で「寒」の題の作例として見せた一首。

 寒さしかもよりにもよつてあなたからこの夜に溢れつづける寒さ/荻原裕幸

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November 19, 2009

2009年11月19日(木)

午後、所用で外に出た流れで、家人とラーメンを食べる。ときどき入る御器所の札幌ラーメンの店。ここは、味は濃いものの、バターがトッピングメニューなので、基本のままの比較的あっさりした味を楽しめるのがうれしい。毎回、家人は味噌味を、自分は塩味を、それぞれ注文する。人気店で、夏場もそこそこに混雑するのだが、寒くなったせいもあるのか、ずっと満席状態でにぎわっていた。

 星冴ゆるそれぞれに城あるごとく/高山れおな

第二句集『荒東雑詩』(二〇〇五年)に収録された一句。冬夜、男性二人で、ひたすらに飲み歩こうとしながらも、何かブレーキがかかってしまう感じを言っているのだろう。「城」は、通俗に堕してしまうすれすれのことばだが、この「ごとく」という語法が巧いと思った。直喩にしたことで、メタファとしては完全に死語化しているはずの「城」を蘇生させている。それぞれが帰属するものを、単なる家庭から、抽象の領域にある何かをも含む、複層的なものに昇華したようだ。ちなみに同句集は、前書ないしは詞書を完備している。この句には〈もう若くない(そんな夜だ)飲食の多重露光の君が笑へる〉という短歌のスタイルで、と言うか、短歌が付されている。パーレンは原文通り。また、飲食、に、おんじき、のルビがある。俳句のみならず、短歌のニューウェーブの文体を自在に操っているのも心憎い。

きょうの一首。周囲が百パーセント何かを聴いている人だと、列車に自分ひとりしか乗っていないような感覚が生じることがある。

 音楽をひとり聴かない乗客だが午後そのものを聴きながらゆく/荻原裕幸

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November 18, 2009

2009年11月18日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十回目。きょうの題は「冬の空」、それと雑詠。9人出席で詠草は16句。いつものようにその場ではじめて読んで添削的批評を進めてゆく。以下、きょうの題に即して二句。日々の忙しなさの反動だろうか、韻文を書いても散文を書いても、忙しなくないことにばかり目が向いてしまうらしい。

 シーソーの向ひに冬の空乗せて/荻原裕幸
 週のいま真ん中あたり日向ぼこ

 憂鬱に傾く今日の鶴田伊津ひしゃくで掬うように連れ出す/鶴田伊津

昨日に続き、第一歌集『百年の眠り』(二〇〇七年)に収録された一首。作者名を直に入れなくても、たとえば「憂鬱に傾く今日の私を」とすれば、それはそれで一応一首として成立するわけだが、あえて、軽業的な選択をしたのは、一人称代名詞を使うことによって漏れてしまう何かを惜しんだからか。「私」は、たやすく一般化されてしまうし、実体があるはずなのに概念に転じやすい。憂鬱な気分になっているその日の自分自身を、こんな気分は誰にでもよくあることだと、感覚を麻痺させるように励ますことでは納得できず、そのような気分になった「今日の鶴田伊津」を一つの事件として捉えたのだと思う。「ひしゃくで掬うように」というむりやりな感じは、自身をごまかさなかった強靭な意志と連動しているのだろう。

きょうの一首。これはまた違う方向からの。

 荻原裕幸けふは留守ですそれはもう見事なまでに打ちのめされて/荻原裕幸

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November 17, 2009

2009年11月17日(火)

雨。午後、亀がいるぅ、と、マンションの中庭で、少年が大声で叫ぶ。声だけなので事情がさっぱりわからず、気になって、しばらく仕事の手をとめて耳を傾けていたのだが、少年はただ、亀がいるぅ、を繰り返すばかりで、それ以上のことはついにわからないままだった。海も河も湖も池も沼も、このマンションにはない。どこかから逃げ出したペットの亀とでも遭遇したのだろうか。

 ほんものはこのうちいくつあるだろうさえずるようなくちづけを浴び/鶴田伊津

第一歌集『百年の眠り』(二〇〇七年)に収録された一首。抱擁のさなかに自己を離れて自己を見つめるもう一人の自己、というのは、しばしば見かけるモチーフではある。ただ、この歌にあらわれているのは、結局のところそれらが一つの意識としてなめらかにつながっている感覚だろう。平仮名表記にしても意味の紛れることがなさそうな「浴び」が漢字で表記されているところから推して、意図的に平仮名表記を多用したわけではなく、自身の基準で平仮名表記とするような語句が集中したということかと思うが、それが、意識と身体の感覚とがやわらかに交差する瞬間を、「浴び」の一語のあたりに漂わせているようだ。性愛のモチーフを、露悪的にもならずかつ耽美的にもならず、真正面から爽やかに描き切った佳品だと思う。

きょうの一首。

 何が浮いて何が沈むか冬の川に訊ねるやうにつぎつぎ投げて/荻原裕幸

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November 16, 2009

2009年11月16日(月)

マスメディアのいくつかが実施した世論調査によると、鳩山内閣の支持率は微増か微減で、どうやらほぼ横這いの状態のようである。先週からはじまった事業仕分けも概ね好評であるらしい。異論はあっても動いていることは評価できる、という感じだろうか。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の七回目。具体的にテキストを読み進めながら、評論の表現について、先週からの続きをあれこれ話す。

総合誌「短歌往来」12月号が届く。この号には「『呼吸』の描法」と題して、吉川宏志第五歌集『西行の肺』(角川書店)の書評を寄稿している。四百字で三枚強。吉川宏志さんの現在の作風というのは、いろいろな意味で難点がない。何かを踏み外すほど大きな変化はないし、退屈させるほど変化がないわけではない。安定しながら小さく変化し続けているため、この歌はいいとかだめだとか、あるいは、好きだ嫌いだという感想も安心して述べられる気がする。歌集『西行の肺』も、そうした小さな変化の集積なので、個々の作品を楽しみながら、気ままというのに近い状態で感想を述べさせてもらった。

きょうの一首。

 エレベーターに意志があるなら凩の香のこの人を拒むと思ふ/荻原裕幸

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November 15, 2009

2009年11月15日(日)

とりあえず荻原家には縁がないなあとは思いながらも、七五三が日曜だと都合がいいのだろうなあなどとぼんやり考えていた。午後、マンションの同じ棟に引越して来た家族が挨拶に来る。どこどこに引越して来た何々ですが、そうですかそれはどうもわざわざご丁寧に、的な会話をする。おとなしくて、まじめそうで、小さなこどもを抱えた若い夫婦だった。

 ビル街の銀杏並木を曲りくる十万人の勤労者 ふゆ/加藤治郎

第二歌集『マイ・ロマンサー』(一九九一年)に収録された一首。バブル景気の時期に、三共のリゲインのテレビCMで流布したような、無闇に元気で二十四時間戦えるビジネスマンの印象、それも群としての印象を描いたのだろう。「銀杏並木」は、実景であるとともに、「ふゆ」には落葉となるビジネスマンの悲観的な象徴なのかも知れない。「十万人」は、どこかのビジネス街の勤労者人口だと思うが、同朋的な十万という数字の陰には、その十万分の一として捉えるしかない私の存在の淡さをそこはかとなく哀しむ感じも浮かんでいるようだ。この時期の加藤治郎としては珍しく、文体や修辞の個性を抑えて、正調に近いオーソドックスな調べでまとめられている。

きょうの一首。

 勤労者でも失業者でもないなにかふしぎな者として生きて冬/荻原裕幸

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November 14, 2009

2009年11月14日(土)

夜、いーしやぁーきぃいもーぉやきいもっ、と、たぶん録音の、妙な節回しのアナウンスを流しながら、たぶん軽トラックの、石焼き芋屋さんが近所を回っていた。気づいてから数時間、ほぼ同じ音量でどこかから聞こえて来る。広範囲に移動するものだとばかり思っていたが、範囲をかなり狭く絞りこんでいるのか。あるいは、この近所は焼き芋の売上がいいというデータでもあるのだろうか。

 褞袍にてプロポーズとはあんまりな/小川春休

昨日に続き、第一句集『銀の泡』(株式会社タカトープリントメディア)に収録された一句。「とはあんまりな」とはあんまりなフレーズだが、俳句では、こうしたいかにも日常的で俗っぽいフレーズがふつうに活かせれば、それはそれで一つの「型」として機能するようだ。しかし、褞袍だの丹前だのは最近とんと見かけない。古い映画かドラマでも見てそう思ったのか、あるいは、友人知人の話を聞いての感想か。いずれにせよ、他人事であるわけで、そう言えば、自身はどうか、と省みる発語者の姿を思い浮かべ、さらにそれが読者の日常にまでつながって来る。発句的ではなく、いかにも平句的な感じの句だが、好ましいセンスだと思う。

きょうの一首。虚辞だけで一首が成り立てば、と思うのだが、虚辞どころか雑念だらけになるのがいつものパターンである。

 どの方位から来たものかわからない気分をなだめながら冬の日/荻原裕幸

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November 13, 2009

2009年11月13日(金)

昨深夜、インターネットへの接続に不具合が生じる。回線が接続されているのに極度に重くなるという、最近では懐かしいとも感じられる状態だった。機器をあれこれリセットしてみたが、一向に好転しないので、朝、プロバイダのサポートデスクが稼働するのを待って電話を入れる。説明を受けながら、モデムやルータやパソコンの接続をやり直して、リセットを繰り返して、やっと復旧。原因は不明。

 をんなの身乗せてやうやく南瓜割る/小川春休

第一句集『銀の泡』(株式会社タカトープリントメディア)に収録された一句。女性が包丁に体重をかけるようにしてかたい南瓜がやっと切れた、といった場面か。発語者自身が南瓜を割ったのだとも、発語者はそれを見ているのだとも、どちらにも読めるのは、非人称的な俳句の遠近法から来るものだろう。キッチンその他、切る場所の高さと身長の関係にもよるわけだが、小柄な女性が、軽く背伸びをするように踵をあげて南瓜を押し切るさまが目に浮かぶ。「をんなの身乗せて」というどこか大時代的なことばのひびきは、好き嫌いも評価の是非も分かれそうだが、「南瓜割る」というきわめて単純な行為と結びつけることで、リアルでほのぼのとした日常のひとこまを巧く掴み出しているようだ。

きょうの一首。

 落丁がところどころにあるやうにかつなめらかに冬めいてゆく/荻原裕幸

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November 12, 2009

2009年11月12日(木)

さほど寒くもないが、さして暖かくもない一日。少年だった頃、と言うか、いまでもときどき思うことだが、この世界のどこかに出口のような場所があって、そこから外に出てみると、何もない、何も起きない、きわめて空虚な領域がありそうな気がしてならない。エレベーターで建物の最上階に来たときなど、上向きの矢印のボタンがないかどうかを確認してしまう癖は、出口は意外なほど単純なところにあるだろうと考えているからなのだが、まだ一箇所も見つけたことはない。

夕刻、栄に出て、キンコーズで印刷物を発注して、銀行のATMで会費のための千円札を確保してから、愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は10人。題詠「戸」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、作品の読解を中心に合評を進める。歌会後、二次会の有志が集まらなかったので、そのまま解散。さらに一件用事を済ませて、栄を少し一人でぶらぶら歩いて、作品の素材をメモにまとめてから帰宅。広小路通や大津通の街路樹は、すでにクリスマスから歳末に向けての飾りがほどこされていた。

きょうの一首。「戸」の題詠として歌会に提出した一首。「死体」などということばは無闇に使うものではないと思っているのだが、昨今の数々の事件が報じられた影響なのか、どうしても「死体」以外の何かにはならなかった。

 朝戸の向うは薄く静かな暗がりでよく冷えてゐて死体があつて/荻原裕幸

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November 11, 2009

2009年11月11日(水)

早朝、外に出ていて、豪雨にみまわれた。地面以外のどの角度からも降っているような感じで、傘を差しても濡れないのは胸のあたりまで、十分足らずの間に、腰から下がずぶ濡れになる。綿パンが腿にはりついて、冷たいやら重いやら、あまりのことになぜか思わず笑いが漏れてしまう。豪雨だったらそう言えよ、と、昨日の気象予報に八つ当り気味の文句を言いながら、とりあえず帰宅。

午後、雨はすっかりあがる。中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の九回目。きょうの題は「立冬」、それと雑詠。9人出席で詠草は18句。いつものように楽しみながら添削的批評を進めた。講座後、遅い昼食をとったり買い物をしたりしてから帰宅。以下、きょうの題に即して二句。

 立冬や母につきたる嘘の数/荻原裕幸
 侘助の声が突然うしろから

きょうの一首。この短歌は、戯歌ではあるが、フィクションではなく、登場する商品は、実在する商品と深い関係がある、と言うか、実在する商品である。ただ、「買ふ人」は推測を断定的に言っているので、厳密には「買ひさうな人」か。

 NHK気象予報士カレンダーを買ふ人を思ふどしやぶりのなか/荻原裕幸

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November 10, 2009

2009年11月10日(火)

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ひさしぶりに東西句会の例会に参加する。休んだり中止になったりで、数えてみれば三か月ぶりだった。新しいメンバー一人を含めて参加者は五人。題詠「顔」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。無記名での互選と合評。句会終了後、ひきつづき喫茶店で俳句の話などした。句会に提出した五句は以下の通り。

 うすぐもる窓に十一月を拭く/荻原裕幸
 夕しぐれいまだUFO研究会
 寒夜から小春に届く葉書かな
 もう何も望まないわと冬木立
 暮早し寄せあつてゐる顔と顔

短歌誌「井泉」11月号が届く。創刊30号記念号。隔月刊の同誌は、創刊五周年を迎えた。慶祝。この号には「結社らしさを離れて」と題して、祝辞的、と言うか、声援的な文章を寄稿した。四百字五枚。結社なのに結社らしくないところに同誌のポジションがあるというのが自分の感想だったが、寄稿後、編集部から電話があって、実は「井泉」/井泉短歌会が結社であるという明確な認識はなかった、と聞かされて仰天した。ちょっと迷ったものの、短歌結社とは何かについて、あらためて考えさせてもらうことにして、原稿はそのまま掲載してもらった。

きょうの一首。

 私のかたちをゆるく避けながら湯はゆふぐれに淡くふくらむ/荻原裕幸

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November 09, 2009

2009年11月9日(月)

ベルリンの壁が崩壊してから二十年になる。当時、終り、がいろいろなかたちであらわれた。壁の崩壊もその一つだった。終り、の後には何かがはじまるはずだが、いまだに、終り、が続いているという気がしないでもない。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の六回目。評論についての概論。加えて、テキストを読み進めながら、研究論文やエッセイとの相違点を説明した。

 蛍光灯のカヴァーの底を死場所としたるこの世の虫のかずかず/小池光

第六歌集『滴滴集』(二〇〇四年)に収録された一首。日常のなかで、どこか気にはなりながらも、大したことでもないなと、あまり深くは考えないものごとがある。あえて口にするほどでもないと感じて口にもしない。だから他人がそれに気づいているのかいないのかもよくわからない。蛍光灯のカバーの内部に虫が入りこんでそこで死んでいるのは、そうしたものごとの一つだったんだなと、この歌を読んで気づかされた。気づいたところで、大したことでないのに変りはないのだが、「この世の虫のかずかず」などとまとめる、やや大袈裟でどこかユーモラスな調べは、見えていながらも見過ごされているものごとが存在するという、人間の知覚や認識の不完全さをやわらかに突いて来る。良質なトリビアリズムと言うべきか。

きょうの一首。

 なにひとつおびやかされることもなくあなたとあるく緑区の冬/荻原裕幸

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November 08, 2009

2009年11月8日(日)

先日、某所で引いた神籤。「第二十一番/晴れ渡る月の光にうれしくも行手の道のさやかなりけり/闇(くら)くて見えない道も月がさし初め 明るくなる如く幸福次第に加わる運ですからあせらずさわがず静かに身を守って進むべきときに進んで何事も成就すべし/運勢 小吉」。運勢のランクでは三番目だと思うが、何かとてもこころあたたまる文言で、やすらかな気分になれた。

 水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器/坂井修一

昨日に続き、第一歌集『ラビュリントスの日々』(一九八六年)に収録された一首。水族館、に、アカリウム、器、に、うつは、のルビ。恋人と水族館に来ているところか。この歌の一人称は、高足蟹を見る恋人の姿をその背後から眺めつつ、自分はこの女性と「いつか」結婚することになるのだろうかとぼんやり考える。また、高足蟹に象徴される生物の進化という文脈のなかで、恋人も出産能力を備えた一人の女性、悠久の進化の過程において「誰かの子を生む器」なのだ、とも考えているらしい。それら文脈の異なる二つの意識が雑ざりあうところに、この歌の味わいがある。昨日引いたアンドロイドの歌と比較すれば、きわめていまここ的なモチーフではあるが、いつか誰かの、が、どこかロマン主義的で、一首は、現実的でありながらも実感的ではないという不思議な矛盾を抱えているようだ。

きょうの一首。

 財布につめたレシートの束に私のこの数日のあらましが在る/荻原裕幸

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November 07, 2009

2009年11月7日(土)

立冬。先日、家人がタクシーに携帯電話を落として来た。困ったことになったなあと思っていたのだが、幸いにも運転手さんがこちらからの電話に対応してくれて、早速宅配便で自宅まで送ってもらって事無きを得た。見つからないとか、誰かに悪戯されたりとか、かなり面倒なことも予想されたわけで、良い人に拾ってもらえてほんとによかったと思う。

 被支配のこころをすこしほどきやればアンドロイドの静が泣きぬ/坂井修一

第一歌集『ラビュリントスの日々』(一九八六年)に収録された一首。静、には、しづか、のルビ。アンドロイドを描く作品には、この世界で実際に開発されてゆく状況を対象にするものと近未来に思いを馳せるものとがあるわけだが、この歌の場合、技術レベルから考えてたぶん後者になるのだろう。まずはリラダンの「未来のイヴ」を思い浮かべるのが常道か。名前の印象から平井和正の「アンドロイドお雪」を思い浮かべるのも楽しい。ただ、SF系だと言ってしまうにはどこかリアルな感触がただようのは、アンドロイドに、泣く、という人間的な行為の生じるプロセスを、ユーザではなく製作者の位置から見ているからだろう。空想でありながら空想であることを問題にさせない、独特の文体がここにあるように思う。

きょうの一首。

 ずらずらと蛇口のならぶ場所に来てひとりで音をたてる立冬/荻原裕幸

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November 06, 2009

2009年11月6日(金)

日中の気温はふたたび二十度を超える。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草17首。題は「鈍」。さすがに使いにくいことばだったのか、日常のなかから「鈍」を探すのではなく、あらかじめ「鈍色」といったようなことばを準備しておいて、日常のなかにそれを探している印象の作品が多かった。

昨日の補足。櫂未知子さんは「季語の必然性」を揶揄する人に向って「季語の要不要を議論する前に、季語が『この場所で、今、私が作ったこと』を証明する最強のものであった歴史を思い起こしてほしい」と述べる(「取り返しのつかぬ夏を」)。歴史として過去形で書いているので、「復旧」を望んでいるようにも読めるが、それはともかく、少なくとも現在の季語は、いまここを証明するものには見えず、いまここを超越して機能するように見える。詩型の性質上、線よりも点としての時間を求め、抽象よりも具体としての空間を求める俳句にとって、季語は、時空の普遍的な一点=いつかどこか、を示すきわめて有効な方法であろう。ただ、それは、時空の特定の一点=いまここ、を示すこととはどこか違うのではないか。俳句のいまここ感は、季語に寄り添う季語以外の語から生じるものと考えるのが自然だという気がしてならない。

きょうの一首。講座で「鈍」の題の作例として見せた一首。

 秋の終りの鈍いひざしに撫でられた手摺のやうにさびしく温む/荻原裕幸

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November 05, 2009

2009年11月5日(木)

早朝から家人と遠出をして来た。マンションの玄関を出て目的地に着くまでが一時間半ほどなので、旅と言うほどのものではない。ただ、紅葉直前の深い秋の空気をただよわせる風景を眺めながら観光用の列車に乗ったり、人の声と風の音とが半々に雑ざりあってひびく竹林を歩いたり、いかにも観光地という場所で買い食いをしていたりすると、それなりに旅の気分が生じて、のどかに半日を過ごせた。

俳句では、たとえば、紅葉、は晩秋のものである。紅葉散る、は初冬である。紅葉かつ散る、という中間的な状態を示す晩秋の季語もあるが、ともあれ、こうした季語の厳密さは、活写しようとするいまここの紅葉がどんな状態/状況にあろうと、その事実を超越して機能する。俳句の作者と読者との約束事である。現在の短歌には、この種の約束事がない。だから、いまここの紅葉の状態/状況にまともに影響される。晩秋か初冬かなど問題にされず、紅葉だったり紅葉散るだったりする。と言うか、立冬がほとんど意識されないからか、初冬を体感的に晩秋だと思いこんで紅葉を楽しんでいる節もある。もちろん例外は多くあるし、是非を問う必要もないわけだが、四時をめぐって、時間をめぐって、二つのジャンルのことばが大きな違いを見せるのは、季語の本意的なありようにこだわるか、いまここのリアルにこだわるかの差によるものなのだろう。

きょうの一首。

 東大卒といふなめらかな肩書きにあはく惹かれる黄落のなか/荻原裕幸

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November 04, 2009

2009年11月4日(水)

きのうきょうと寒い日が続く。その寒さの影響か、昨夜はひさしぶりに家人と山本屋総本家に行こうという話になって、味噌煮込みうどんを食べた。まだこのまま本格的な冬の寒さになるわけでもなさそうなのだが、何かとあたたかいものに惹かれる。午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期も八回目となる。きょうの題は「行く秋」、それと雑詠。8人出席で詠草は16句。いつものように添削的批評をできるだけ丁寧に進めた。

以下、きょうの題に即して二句。壁よりも塀と言う方が通じやすい気もするが、実際に見たのが壁という印象の場所だったので壁のままにしておいた。鳥居を書く側からしてみれば重大事、それはわかっているのに、どうしても懐かしんだり笑ったりしてしまう。雁ばかりではないのだが、最近、朝通る某所で、とても美しい鳥の編隊をしばしば見かける。

 ゆく秋や壁の鳥居は傾いて/荻原裕幸
 雁仰ぐこきりと朝の空が鳴る

きょうの一首。前後その他の事情を説明しないとわからないはずのことを、そのまま短歌で書いてみたらどうなるのかと思って書いてみた。

 寺ちやんを山口くんだと誤解したまま秋天に大田さんが笑ふ/荻原裕幸

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November 03, 2009

2009年11月3日(火)

文化の日。気の早い冬が顔をのぞかせた寒い一日だった。かれこれ五年以上、毎日朝食でヨーグルトを食べている。むかしからの好物である。ただ、ヨーグルトに対する自分の食感の許容範囲はきわめて狭い。クリーミーなタイプもぱさぱさしたタイプも苦手だ。だから気に入った食感の商品だけを選んで買うのだが、スーパーの管理が乱暴で、どろどろになっていたり、水分が分離したりしていると、それだけでブルーな気分になる。このところ何ケースかブルーな気分が続いている。

 空は太初の青さ妻より林檎うく/中村草田男

第四句集『来し方行方』(一九四七年)に収録された一句。空の青さを言うあたりからは、樹上からの林檎を受けとっている感じもあるのだが、ごくふつうに林檎を剥いてもらったシーンだと考えるのが妥当だろうか。いずれにしても、「太初」の一語には、この林檎を、創世記のアダムとイブの世界につなげようとする意識があるのだろう。昭和二十一年の作品だというので、終戦によって何かがリセットされたこととも深く関連していようか。明るい語調の背景にひそむ闇を読みとるか、あるいは、闇のなかにきざすひかりだと読むかは、読者次第ということになりそうだ。

きょうの一首。理性はそれを楽しめと言うのだが、感情は言うことを聞く気があまりないらしい。

 説明のつかないものが在ることの悔しくて林檎をふかく噛む/荻原裕幸

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November 02, 2009

2009年11月2日(月)

大学祭のため、同朋大学の講義が休講だったので、少しは時間ができるかと思っていたのだが、乾いた土に水をやるような感じで、どこかよくわからないところに時間が吸いこまれてゆく。午後、仕事の流れで、家人と外食。この秋、某スーパー内にオープンした魚介系の炒飯の専門店で炒飯を食べた。一人千円以内の予算で済む良心的な価格。味の方も良心的だった。

文芸誌「イリプス」第四号が届いた。この号には「誰かではあるわたくしのための五十首」と題して、短歌五十首を出稿している。二〇〇八年の立冬から二〇〇九年の立夏までの「きょうの一首」を編集構成したもので、これまでの三号と同じく、極小歌集風にまとめてある。一日一首を書いて、それを選び直して構成するというのは、自分としてはそれなりに満足できるできばえになるのだが、一定数の作品群に必要な凹凸と言うかざらつきと言うか、そうしたアクティブな感じをどこか欠いてしまうところがある。ときどきは無理して一気にまとめて書くことも必要なのかも知れない。

きょうの一首。日常会話のなかで、ことばが真意のまま使われることは、どれほどの比率を占めるのだろうか。自分の場合、かなり少ないような気がする。

 晩秋のひざしにことば裏向いて歪んで縒れて莫迦などと言ふ/荻原裕幸

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November 01, 2009

2009年11月1日(日)

きょうから十一月。午後からは雨となったが、最高気温は連日二十五度前後、あたたかな日が続いている。中村草田男『長子』の「あたゝかき十一月もすみにけり」の十一月には、こんな日々がさらに続いたのだろうか。むろん、そうは言っても、あと一週間ほどで立冬、紅葉や黄葉を間にはさんで、下旬にはすっかり冬になるのが例年のスケジュールである。

 掌(て)のなかへ降(ふ)る精液の迅きかなアレキサンドリア種の曙に/岡井隆

第四歌集『眼底紀行』(一九六七年)に収録された一首。「少年期に関するエスキース」という、回想的な連作の一首である。生理的な行為だからか、自閉的な行為であることが問題なのか、倫理に反するといった印象があるからなのか、自慰をモチーフにした短歌は稀だし、語りづらくもある。以前、小池光さんがこの一首を鑑賞したとき、自慰とその同義語を一回も使わずに書いていて驚いたことがあるのだが、短歌においては禁忌に近いものなのだろう。「掌のなかへ」とか「迅き」とか、やたらにリアルな射精の描写をして、その「曙」を西洋葡萄の清澄なイメージでまとめるというのは、リアリズムを逆手にとり、意図的に禁忌を踏みこえて、新しい境地を求めたものかと思う。ただ、いかんせん、肝心の読者や鑑賞者の側が、禁忌を踏みこえるのをためらっているため、いまだにこの文章のような、婉曲で韜晦した感想ばかりが述べられるにとどまっているのかも知れない。

きょうの一首。

 気象や気温に気分は左右されながら秋のかたちの野菜を選ぶ/荻原裕幸

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