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December 31, 2009

2009年12月31日(木)

大晦日。今年最後の一日となる。午後、大掃除のやり残しをこそこそと進める。家人と買い物に出て、近所の公設市場やスーパーをまわっていると、にわかに雪がちらつきはじめた。明るく白いひかりが、新年を眼前に控えた街並をやわらかに包んで、それは美しい風景がひろがっていたが、呑気に楽しんでいられないほど寒くなる。日没後、本格的な雪になる。

日付のあるエントリに、連日「きょうの一首」を書くようになってから、丸二年が過ぎた。何か特別なクオリティを要求されるわけでもないし、気ままに書き散らしている。むろん、気ままとは言っても、と言うか、気ままであるからこそ、現在の自分の短歌の志向や力、つまるところ、限界と可能性とがはっきり出ていることだろう。そういう発表スタイルを続けるのは、少し怖い気もするのだが、臆していても何も得るものはないだろうし、読者の反応を見ながら、事情がゆるせば、いましばらく続けてみようと考えている。ご愛読、感謝。

きょうの一首。

 もうこれ以上しづかな音のあり得ないやうな音して雪もわたしも/荻原裕幸

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December 30, 2009

2009年12月30日(水)

午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。大掃除の担当箇所を大掃除する。掃除がさほど好きなわけではないのだが、ああこんな奇妙なところに埃がたまったりするものなのかとか、外見はシンプルなのにここはこんな複雑な構造になっていたのかとか、ふだんさほど気にかけもしない小さな空間に、思いがけない発見があって、その点だけは変に楽しかったりもする。

百聞は一見に如かずという。それはどうしようもなくそうなのだが、自分はこのことばが好きではない。一見に匹敵するような表現、一見を超越するような表現を日々求めているというのに、如かずとあっさり言われても困るのである。そこにある何かを語ろうとするには、再現するには、確かにことばというものはあまりにも単純で粗雑で足りなさ過ぎる。だけど、それは、表現者が直面している事態の一面に過ぎないのではないだろうか。ことばを世界に従属させるのでもなく、ことばで世界をつくりあげてしまうのでもなく、ことばと世界とが干渉しあう表現を考えるとき、一見と肩をならべる何かのヒントが見えて来ることもあるように思う。

きょうの一首。想定外のところから想定外のものがあらわれた。

 うそぉこんなところにおまへゐたのかと二三のものに言ふ大掃除/荻原裕幸

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December 29, 2009

2009年12月29日(火)

早朝、冷えこんで、冬の底にすべり落ちてゆくような感じがひろがる。午前、家人とともに実家の父母に顔を見せに行く。お茶を飲みながら談笑。下ろす機会のない、と言うか、息子たちに使わせようとしていた食器類がいろいろあって、気に入ったものを貰う。瀬戸物の他に、穀物とか果物とかも貰う。洗車をしたり買い物をしたり、済ませるべきをいくつか済ませてから帰宅。

 殺さないでください夜どおし桜ちる/中村安伸

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「機械孔雀」百句の一句。夜桜、と言うか、深夜から未明の桜である。窓から見えるのか、徘徊して見たのか、いずれにしても、見るたびに散っているわけだ。散る時期の桜が散り続けていることは、不思議でも何でもないのだが、「夜どおし」の一語は、桜が全力で散り尽くそうとする、あの感じを巧く増幅して伝えている。昼の桜では、どれだけ烈しく散ってもこの感覚は得られないだろう。「殺さないでください」は、そんな深夜の桜の全力感から書き手が聞きとった桜の悲鳴のようなものだろうか。美しいのが問題なのでしょうか、それならこんなものはすぐにでもすべて散らせてしまいますから、どうか殺さないでください、という、自意識過剰で被害妄想的で必死で、しかもどこか滑稽でさえある桜の声が聞こえて来るようだ。百句から他にも惹かれた句を引いておく(現代仮名遣いの句と歴史的仮名遣いの句があるが、句集の表記そのままである)。ブッキッシュであることが少し安全装置のように作用してしまう面も感じられたが、最終的にはそれを気にさせないだけの秀抜なセンスがあると思う。

 春風や模様のちがう妻二人/中村安伸
 夏草に滅ぼされたる草の基地
 歩きだす椅子歩き出さない冬の猫
 子宮からつづく坂道春は昼
 若草や壷割るやうに名を告げし
 花は葉にラジオのやうな名古屋城

きょうの一首。

 真冬だが死語のはずだが勇気といふことばがやつて来て耳を噛む/荻原裕幸

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December 28, 2009

2009年12月28日(月)

午後、家人が歯医者に出かける。留守番。俳優の桜井幸子さんが、公式サイトで、今年かぎりで芸能活動を引退すると表明していた。残念なことだ。いくつかの演じた役の印象から来るものだと思うが、すべての感情に対して、それを抑制するような表情をするので、つねにどこかうすくかげりがあって、ただし笑顔になるときだけは、いきなり花が咲いた感じになる、そんな雰囲気に惹かれていた。

若い俳人の作品をまとめて読むことができたので、すでにこのブログでも繰り返しとりあげているが、合同句集『新撰21』(邑書林)の反響をいろいろなところで見かける。諸事情から抑圧されていたものが一気に噴き出したように見えるのは、自分の思いこみも多少あるだろうか。いずれにせよ、「週刊俳句」等をゆるやかな焦点とした、俳壇に向きながら俳壇に完全には入ってしまわない/入れない動きがあって、そこに一つのかたちが与えられたことで、瞬間的に加速化しているのは事実だろう。さらに何かをと期待するが、とりあえずは『新撰21』の好評を、愛読者としてよろこびたいと思う。

きょうの一首。

 いま見えた雲がもう見えないやけにけふは十二月が目にしみる/荻原裕幸

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December 27, 2009

2009年12月27日(日)

午後、家人が義母と買い物。留守番。フィギュアスケートの全日本選手権、女子シングルで、浅田真央選手が1位となって四連覇、バンクーバー五輪の出場権を得た。好不調の波の小さな選手だと思われていた彼女が、グランプリシリーズで意外なほど苦戦して、見る人を少しはらはらさせたりいらいらさせたりもしたが、最後はきちんと結果を残した。ほんとに偉い選手だなと思う。

 台風や薬缶に頭蓋ほどの闇/山口優夢

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「空を見る、雪が降る」百句の一句。上五の「台風や」の語感に惹かれた。一句に、台風、と書いてあれば、いま台風が来ているところを想定する、というのが、俳句の読解の基本的な約束事だと思う。だから逆に、台風とあって台風を実感させないような句はだめ、ということにもなる。ところがこの「台風や」は、はじめからそういう約束事を超えた感触をもたらす。いまここに台風が来ているんだけど、ではなく、そうそう台風と言えば、で語りはじめる対話をイメージしたくなるのだ。これはたぶん「薬缶に頭蓋ほどの闇」へと展開してゆくことばの流れがそう感じさせているのだろう。臨場感の少し和らいだ状況の提示だと読めれば、詩的認識としての「薬缶に頭蓋ほどの闇」がすんなりと意識に浸透して来るようだ。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 心臓はひかりを知らず雪解川/山口優夢
 ビルは更地に更地はビルに白日傘
 日本人ばかりの日本鳥帰る
 凸凹に雑巾かわく桜かな
 小鳥来る三億年の地層かな

きょうの一首。

 珈琲カップにわづかに油脂が浮いてゐてなまぬるい歳末の日曜/荻原裕幸

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December 26, 2009

2009年12月26日(土)

どう数えてみてもあと六日で来年になる。なのに年末なのだという実感がさっぱり湧かない。家人が自分の部屋の整理をはじめる。冬眠の準備をしているみたいにも見えるのだが、どうやら大掃除の一環であるらしい。鶴の巣籠もり、と言うか、ビーバーのダム作り、と言うか、何かそんな感じの小ぶりな要塞のようなものが部屋のなかに出来あがりつつある。

 どの政党でも同じことよと言ふ妻に実感ありて我のたぢろぐ/高安国世

昨日に続き、歌集『真実』(一九四九年)に収録された一首。一九四七年に書かれた作品なので、「どの政党でも」は、当時の、社会党、自由党、民主党、などを言っているのだろう。同年、政権交代があったわけだが、理念にどんな違いがあっても、生活の現場では「同じことよ」というのが「実感」なのだと、妻の語調からあらためてそう認識したのだと思う。昨日紹介した「羽生えしもの」とは対照的に、これは直接話法を活かしている。六十数年後の現在も、似たようなことばを聞くことはあるのだが、「我のたぢろぐ」あたりに感じられる理念と生活との決定的な懸隔は、「同じことよ」と言ってもどこかまだ余裕のある諷刺としてひびく現在との大きな差か。

きょうの一首。

 朝のガストで青くほほゑむあなたから本当の名をはじめて聞いた/荻原裕幸

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December 25, 2009

2009年12月25日(金)

一昨日、中国文学の坂田新先生が亡くなったという。享年六十歳。大学時代、漢詩の講義を受けた。現代中国語の発音で漢詩を朗読するのを聴かせてもらって、それまで散文とさして変りないものとしか認識できていなかった漢詩の世界が一変した。エウレカ的なきっかけは、やはり秀でた他者がいないとなかなか得られないものだと痛感する。ご冥福をお祈りしたい。

 夜をこめて轟く雨に覚めし子が羽生えしものが通るよと言ふ/高安国世

歌集『真実』(一九四九年)に収録された一首。この「子」は何を言っているかとしばし考えさせられた。雨の音が羽搏きに聞こえたのか、あるいは、鳥か虫の姿を直に見たのか。時間帯が夜なので、前者の解釈が妥当だとは思うのだが、何かそれだけでは釈然としない。妖精とか霊獣とか、その種の存在が「轟く雨」を従えて通り過ぎるのを感じているのだと、そう解釈することもできなくはない。明確に解釈しづらいのは、つまり、「子」の意識がはっきり見えないのは、間接話法から生じる表現の奥行のようなものによるのだろう。口語の文体がスタンダードになって以来、現在の短歌では、直接話法的なリアルばかりが求められているが、このような、間接話法ゆえに生じる奥行は、発話者である「子」の他者性をきわだたせて、ある意味で直接話法以上のリアルが見えるようにも思われる。

きょうの一首。

 見えないものを目で追ふやうな表情で語気の荒い私を見てゐる/荻原裕幸

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December 24, 2009

2009年12月24日(木)

少しあたたかな日となる。夕刻から家人と名駅へ。さほどふだんよりも人の数が多いとは思わなかったが、親子連れとか若い恋人同士とか、クリスマスイブという雰囲気の人出ではあった。そう言えば、毎年うるさく感じるほどに流れているクリスマスソングの類を、今年は外であまり耳にしなかったなと思う。そういう曲が流れる場所に自分がいなかっただけだろうか。

 どこへ隠そうクリスマスプレゼント/神野紗希

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「誰かの故郷」百句の一句。文芸として何をどうとも論じようがないモチーフなのに、だからと言って非の打ちどころがあるわけではない佳句というものがある。この句などその典型だろう。幸福を正面から造形して、しかも嫌味がない。誰から誰へのプレゼントなのか、さだかでないが、人間関係については自由に読んでさしつかえないかと思う。提示された日本的クリスマスの幸福感には、自由に読まれても揺らがないだけの強度があるようだ。稚気も嫌味もなく明るさを描ききるというのはなかなか難しいものだが、この作者にはその力量がしっかり備わっていると感じた。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 今鮎が跳ねたと言って立ち上がる/神野紗希
 遠足やアルミホイルの光り合う
 夏は来ぬパジャマの柄の月と星
 水中花見ている雨を見るように
 冬林檎椅子の曲線とも違う

きょうの一首。自堕落なだけですが、それが何か? とは言えなくて。

 風邪ですかええまあなどと曖昧にパジャマ姿で過ぎてゆく午後/荻原裕幸

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December 23, 2009

2009年12月23日(水)

天皇誕生日。来年度からのたばこ税の引き上げは、どうやら一本あたり五円程度となるらしい。ミハエル・シューマッハが、来季、メルセデスGPからF1に復帰するという。一度頓挫した経緯があるので、にわかには信じられなかったが、今度こそほんとうに実現しそうな気配ではある。午後、名駅の某所で、ねじまき句会のメンバーと食事をする。いわゆる忘年会。句会は一回休み。

 抽象となるまでパセリ刻みけり/田中亜美

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「雪の位相」百句の一句。ふつうにパセリを微塵切りにしている場面だろうと思うが、できあがり寸前の料理のことが一瞬どこかに消えて、微塵切りという行為そのものに没頭しているところか。「抽象となるまで」という措辞が秀抜で、パセリがパセリのかたちを失ってゆく様子と、目的と行為とが微妙に乖離してゆく感じとが、巧く二重写しになっている。構成があまりにシンプルで、偶然的な閃きで書かれたようにも見えるが、作品に偶然的なものが生じるプロセスは、決して偶然ではない何かに貫かれているものだと思う。百句から惹かれた句をいくつか引用しておく。

 はつなつの櫂と思ひし腕(かひな)かな/田中亜美
 液晶のごとき疲労よ日向ぼこ
 白百合の臓腑あらはに咲きにけり
 いつ逢へば河いつ逢へば天の川

きょうの一首。

 透明なと言ふか在つても無いやうなひざしと山茶花と自転車と/荻原裕幸

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December 22, 2009

2009年12月22日(火)

冬至。正午を少し過ぎて電話が入る。プロダクションに勤務していたときの仲間の訃報だった。あまりに突然のことでぴんと来ない。ちょっと前から、ひそかに闘病生活を続けていたのだという。家人と通夜に出る。自分たちの他に三人、当時の仲間が列席していた。五人が喪服で顔を揃えると、懐かしい感覚が一気に自分のなかに流れこむのと同時に、仲間の死がにわかに現実のものとして襲って来た。享年四十二歳。至上の仲間の一人だった彼に、安らかな眠りのあらんことを。

きょうの朝日新聞夕刊、中部版学芸欄に、時評「東海の文芸」の、二〇〇九年の年間回顧が掲載された。散文を清水良典さん、韻文を荻原裕幸が担当。年間に言及した本をジャンルごとに整理して、見取図的にまとめてみた。この時評、名古屋本社が編集しているため、エリアを東海三県に限定しているものの、韻文では、エリア的な特徴に言及することはほとんどない。むろん自分の力不足のせいではあるのだが、あえて言いわけがましく書いておけば、エリアを限定されていないとしても言及すべき本が揃っているため、ローカルな特徴はきわめて見えづらいのである。

きょうの一首。

 現実はいつも無断でやつて来てわたしの雪をただ踏み荒らす/荻原裕幸

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December 21, 2009

2009年12月21日(月)

家人とテレビを見ていて、ニュースなどで寒そうな風景の映像が流れると、寒冷地に住む友人の話題が出る。しかし、寒さにレベルがあることをあまりよく理解できていない名古屋人の夫妻は、ツンドラの映像を見て北海道の某市をイメージしたりしていることもままあるのだった。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の十一回目。短歌に関することを少し。年内の講義はこれで最後となる。

 わが切りし二十の爪がしんしんとピースの罐に冷えてゆくらし/寺山修司

歌集『田園に死す』(一九六五年)に収録された一首。新聞紙のような大きな紙をひろげて爪を切ったあと、手近にあった煙草の空罐をごみ箱の代用にしたのだろう。つのる寒さが怠惰に拍車をかけて、夜が満ちてゆくなかを、爪はいつまでもそのまま放置されている。数時間ほどのことかと思われるが、無為に過ごす感じが、数十年とかあるいは永遠とかそういう類の時間とよく似た表情を見せているようだ。原風景が現在(作品の書かれた現在)に重なって来るという『田園に死す』のスタンダードの一つである。たかが爪を切ることにこれほど気障な感触を与えてしまうのが、いかにも寺山修司らしいが、好悪の大きく分かれるところか。

きょうの一首。

 爪を切る音がわたしのひろがりやおくゆきを暴露する冬の夜/荻原裕幸

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December 20, 2009

2009年12月20日(日)

寒い日が続く。こんなときばかり気象予報が正確に的中してゆく。午後、本山の西原珈琲店へ。珈琲を飲みながら、某編集者さんと情報交換のような話をする。彼女の話にも出て来たのだが、何々は来年少しおもしろいことになりそうですよ、という、この時期の業界人ならではのポジティブな言い回しがある。年末が近いんだなあとしみじみ感じる。短歌は、来年少しおもしろいことになるだろうか。

 発語とは思はざれども樅の木が風に揺らぎてさはさは音す/春日井建

第七歌集『白雨』(一九九九年)に収録された一首。風に鳴る木々を何か喋っているようだと感じることはある。もちろん「ようだ」と感じるだけで、実際に喋っているとは思わない。この一首もそうした常識的な感覚のなかにあるわけだが、「思はざれども」と含みをもたせた瞬間、常識に少し破れ目が生じる。作中の「私」は常識的な感覚のなかにあるのに、短歌が勝手に語りはじめるのだ。あれは樅たちのことばなのだと。「私」に特殊な位置をほどこさなくても、短歌はそれなりに何かを語ってくれる。様式的であることを貫いた、春日井建らしい佳品だと思う。

きょうの一首。

 数字であれば七かあるいは二に近いかをり仄かにある朝の水/荻原裕幸

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December 19, 2009

2009年12月19日(土)

未明から早朝にかけて初雪。その勢いのまま降り続けたら大変なことになりそうな感じだったのだが、一時間もしないうちに小降りになってやがて止む。早朝、インターネットへの接続に不具合が生じる。またかよと思う。プロバイダのサポートデスクが稼働するのを待って電話を入れる。室外の機器の故障であることが判明。午後、修理に来てもらう。一時間ほどの工事を経て復旧。

昨日、冨士田元彦さんが亡くなったという。享年七十二歳。マスメディアでは、共同通信の系列の記事しか表に出ていないようだし、しかも「短歌評論家」という肩書きになっている。中井英夫の「弟子」として「黒衣」に徹した冨士田さんらしい退場の風景とも言えるが、やはり何とも淋しい気がした。『冨士田元彦歌論集』(一九七九年)のあとがきでは、自身を、短歌に「あくまで、編集者、オルガナイザー、運動者として、つまり中井英夫氏の言われる「黒衣」の立場でかかわってきた。作家、評論家でもなければ、まして史家ではない」と述べている。短歌に殉じた、と言える数少ない一人ではないだろうか。謹んで哀悼の意を捧げたい。

きょうの一首。

 降ることもなく解けもせず肌といふときどきやけに温かい雪/荻原裕幸

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December 18, 2009

2009年12月18日(金)

朝、気温は氷点にかなり近かったらしい。予報によると、名古屋ではしばらくこんな寒さが続くのだという。寒冷地ほどではない、とは言っても、やはり寒いものは寒いのである。このところ家人は、家のなかでマフラーを巻いて過ごしている。さほど厚手でもないシンプルなものだし、よく風邪をひくので家でもあたたかい格好をするようにと日頃から口うるさく言ってはいるのだが、それにしても。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草17首。題は「快」。今年の最終回である。いつものように、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。「快」という健康的でポジティブな語をそのままの方向で作品に展開するのはやはり難しいなと思いながら作例をまとめていたところ、案の定、詠草の半数ほどが「快」に対する打ち消しをともなうモチーフを描いていた。受講者たちの、題をめぐっての対処も、慣れてかなり自在になったと思う。形容詞系の題はこれで終了、新年からは別の趣向を考えている。

きょうの一首。講座で「快」の題の作例として見せた一首。

 わたしはやはりわたしであつて冬天を快さからはなれて歩く/荻原裕幸

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December 17, 2009

2009年12月17日(木)

午前、朝食を喫茶店のモーニングで済ませようと思ったのだが、コメダ珈琲店の系列の和風の店で、メニューを見ているうちに急にしっかりと食べたくなって、かけ蕎麦とおにぎりをオーダーした。帰りにスーパーで買い物。ふだんは午後から夜にかけて来ることが多いので、開店直後の、店内に商品がきちんと美しくレイアウトされている状態がとても新鮮だった。

 蜜柑剥く風俗求人欄ちらと/北大路翼

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「貧困と男根」百句の一句。「風俗求人欄」がいかにもという感じの題材で、とりわけ「ちらと」のあたりには、かなり演出っぽい印象もあるのだが、とりあわせの「蜜柑剥く」が、性風俗の暗示でも象徴でもなく、日常の空間の感触をきっちり伝える方向に作用しているためか、スポーツ紙などで、少し遠いところを見るように、見てはならないものを見るように、求人欄を見る人の姿が、くきやかに浮かんで来る。好奇心のなかにわずかに含まれる選択の可能性というものを、そこはかとなく感じさせるのもおもしろい。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 冴返る旧居住者の鏡かな/北大路翼
 迷子センターアロハの父が謝り来
 レジ打ち終る寸前アイスを持つて来る
 酒の所為でこの人とゐるクリスマス

きょうの一首。

 つねに誰かに全力で支持されてゐるそんな顔してミトンの少女/荻原裕幸

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December 16, 2009

2009年12月16日(水)

NTTドコモのCMに、鉄人28号がイメージキャラクターとして登場する。青年になった金田正太郎が、鉄人の操縦に、ドコモのデータ通信を使用しているという設定での宣伝だ。かなり迫力のあるCG映像だとは思うのだが、ブラックオックスとの対決では、これでは街が壊れて、とばっちりの怪我人が出そうだ、と、そんなことが気になってしかたない。映像がリアル過ぎるのも考えものだと思う。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の最終回。きょうの題は「初雪」、それと雑詠。10人出席で詠草は20句。いつものように、読解を中心に添削的な批評を進めてゆく。終了後、受講した人たちと学内の店でお茶をしながら歓談。むずかしいむずかしいと言いながら、やはり俳句が好きな人たちなのだなあと感じる。以下、きょうの題に即して二句。

 はつゆきや防犯カメラ作動中/荻原裕幸
 音たてることなく冬の影うごく

きょうの一首。きょうの初雪の句を短歌にパラフレーズしてみた。と言うか、実際にはほぼ同時にしあげた。類似したモチーフで書くことによって、俳句と短歌の様式の差異をきちんと認識するための習作である。短歌の方は、小池光さんの「抒情せよセブン・イレブン」のパロディでもある。

 録画せよセブンイレブン着膨れて不審者のやうに飛びこむ俺を/荻原裕幸

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December 15, 2009

2009年12月15日(火)

今週はものすごい寒さが来るというので、家人が、家のなかのあれこれを冬仕様に変えていた。このあたりは秋のままで、これなんかまだ夏のままだよ、という家人の説明を聞いてもさっぱりぴんと来ない自分であったが、すっかり冬仕様に変えたという家のなかの様子を見たら、ああなるほどどこかあたたかそうな感じがする、とさすがに少し理解できたのだった。

短歌同人誌「町」2号が刊行された。創刊号を読ませてもらったときは、感想を言うほどにぴんと来なかったのだが、2号を読んで、少し印象が変った。メンバーの作品も歌論も、豊かな歪みをもった力作という感じ。他に「31音日記」なる企画が掲載されていて、韻律を意識しない三十一音で、現実を記述した日記が、短歌の定量性と定型性の何をどう浮かびあがらせるかを実験しているあたり、型破りなのだが決してなめてはいない、という彼等の姿勢がはっきり出ていると思う。以下、各メンバーの作品から惹かれたものを一首ずつ引用しておく。先人の影響を脱して、素手で何かを掴もうとしているような感触が快い。

 ポケットの一つもない服装をしてしんとあなたの火の前に立つ/服部真里子
 おまえらはさっかーしてろわたくしはさっきひろった虫をきたえる/望月裕二郎
 便箋の余白に咲いた褐色の花をなぞればいつまでも雨/吉岡太朗
 届いても届かなくなるこの声が夕焼けのなか手を上げている/土岐友浩
 青空がトイレのなかまでついてくる鼻を磨いてゆくてを遮り/瀬戸夏子

きょうの一首。冬服、も一つの正しい呼び名ではあるのだが。

 わたくしの着てゐるこのもこもことした冬服の正しき名を知らず/荻原裕幸

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December 14, 2009

2009年12月14日(月)

最寄の地下鉄駅の出入口の付近に、迷い鳥あずかっています、と、脊黄青鸚哥の写真を載せたポスターが貼ってあった。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の十回目。引き続き、俳句について。具体的な現代の作品を例にして、季語のテクニカルな効用のことを話す。短詩型の場合、テキストを作らずに板書で講義を進めている。白墨の粉が飛散するのにはいつも閉口する。

「NHK短歌」1月号が届く。同誌には、天野慶さんが編集している「ジセダイタンカ」というページがあって、この号には、ぼくもコラムを寄稿した。「のり弁のリアル」と題して、一千字弱で。斉藤斎藤さんの一首を鑑賞しながら、次世代の短歌に望むことをできるだけシンプルにまとめてみた。上の世代が望むことなどあっさりと無視して、誰にも予測できない場所へ向かってゆく人こそ、ジセダイの名にふさわしいような気もするのだが、そうは言っても、それなりの手かがりがあるに越したことはないだろうと、駄文をまとめた次第である。

きょうの一首。冬の空/雲は、表情が豊かだと言うよりも、秩序がないという印象が強い。しばしば奇抜なデザイン/レイアウトに出くわして驚かされる。

 雲としてそれはありえんだろぉといふかたちに冬の雲が浮かんで/荻原裕幸

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December 13, 2009

2009年12月13日(日)

午後、義母と家人とコメダ珈琲店でお茶をする。その後、義母の家で、家電の使い方について、家人が義母にあれこれ説明しているのを傍でしばらく聞いていた。おかしな説明をしているわけでもないのに、どこかがちょっと違って伝わったり、いかにも母娘らしいやりとりが、何やらコントめいた感じで、ときどき笑ってしまう。なかよきことはうつくしきかな。

 ひなたなら鹿の形があてはまる/鴇田智哉

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「黄色い凧」百句の一句。陰になる空間なのか、曇りなのか、雨なのか、秋の日、いかにも鹿がいるのにふさわしい感じの空間を見つけたところなのだろう。もう少し違った言い回しも選択肢としてはあったと思うが、この屈折に屈折を重ねた文体が、そこを、見たことがありそうで見たことのない空間として読者に示し得ていると言えようか。俳句が、作家の文体によって個性を主張しようとするとき、多くの作品は、俳句の領域から零れ落ちてしまう。この作者の句も、かなりきわどい境界ぎりぎりの位置にあるようだ。にもかかわらず、不思議に、飛び出してしまうのではないかという不安感はない。それはたぶん、作者が俳句のエッジそのものを自身の位置だと明確に認識しているからだと思う。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 かげろふを川向うから来て坐る/鴇田智哉
 梧桐はこちらを向いてゐる木なり
 十薬にうつろな子供たちが来る
 箱庭を見てゐるやうな気になりぬ
 冬雲の割れたる下に人が立つ
 寒ければ小さい方の鳥を見る

きょうの一首。

 冬の街が若い人のものになつてゐる私はそこに行くべきなのか/荻原裕幸

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December 12, 2009

2009年12月12日(土)

午後、近所のスーパーで買い物をしていると、店内にはこどもを連れた男性がかなり大勢いた。そうか週末だったかと気づいて、いやしかしそれにしても数が多いなあとも思う。ボーナスか、クリスマスか、理由はよくわからないが、父親たちが、家庭的なことにひきよせられる時期なのかも知れない。こどもたちがそれぞれの父親に寄り添うときの、実に楽しげに甘えている姿がまぶしかった。

 秋の川中部地方を流れけり/谷雄介

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「趣味は俳句です」百句の一句。「中部地方を」という、あからさまに雑な措辞に、俳句に対する、悪意と茶目っ気を綯い交ぜにしたような意識が見える気がする。俳句を知れば知るほど楽しめる措辞で、生半可な才能や生半可な意志では書けない句だと思う。ただ、俳句を通して何かを拓く感じはやや薄く、俳句の内部へのデモの域にとどまっているようにも感じた。楽しめるものの評価にとまどう句ということになろうか。百句を読んで、この作者の、脱俳句的に俳句に寄り添う姿勢には大いに惹かれるものがあった。以下の引用句が、「中部地方を」以前のものか以後のものかはわからないが、佳い、とためらわずに言うことのできるこれらの句の背景には、つねに「中部地方を」が屹立しているのではなかろうか。

 追伸の伸びゆくところまで緑雨/谷雄介
 座りゐてきれいな人や冷奴
 噴水の向かうに近江ありにけり
 門限の頃の桜のうつくしく
 小用といふ瓢の実のごときもの

きょうの一首。

 他者のゐる次元とわたしの次元とをつなぐ枯葉を踏む音などが/荻原裕幸

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December 11, 2009

2009年12月11日(金)

週刊読書人の12月18日号が届く。年末のアンケート特集「二〇〇九年の収穫」が掲載されている。ぼくも、今年印象に残った本三冊をあげて、四〇〇字ほどのコメントを付して出稿した。対象は今年も詩歌句関連の本に絞った。紙面をざっと見た感じでは、俳人は加古宗也さんと齋藤慎爾さん、歌人は小高賢さんと自分が回答。詩人の肩書きの人は見あたらなかった。

小劇場演劇をはじめて見た頃、なぜストーリーがシリアスなのに、こんな中途半端に笑いを求める演出をするのかと不思議に感じた。具体例ではないが、たとえば、犯人の「犯行の動機が書かれたノート」を見せようとする場面で、間違えて、自身の書いた「ポエム日記」を出してしまうという類の。その後、マンガ/アニメなどで、同じタイプの演出をしばしば見かけるようになって、つまりあれは、箸休め、のようなものなのかと勝手に理解してはいるのだが、同じ箸休めならば、観客/読者サービス的な楽屋落ちのネタの方が、そのめりはりを楽しみやすいし、理解もしやすい。どうもあの作中の時空をなし崩しに観客/読者につなげてゆくような通俗的な笑いの求め方には、いまだになじめないままでいる。

きょうの一首。

 抽象の水辺を往つたり来たりする日を寒禽はおだやかに啼く/荻原裕幸

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December 10, 2009

2009年12月10日(木)

夕刻、栄に出る。地下鉄の改札を抜けると、ただいま地下街にキャッチセールスが出ております、相手にしないようにして下さい、特に女の人はついて行かないように注意して下さい、というアナウンスが流れていた。ぶっきらぼうでアナウンス慣れしていない感じの男性の声で繰り返されたため、どこか聞く人々の笑いを誘ってもいたのだが、年の瀬も近づいて、悪質なものが出ているのだろうか。

愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は10人。題詠「墨」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、作品の読解を中心に合評を進める。歌会終了後、有志で居酒屋へ。今年最後の例会だったためか、引き続き短歌の話という感じになる。ただの歓談はきりあげるタイミングもはかりやすいのだが、短歌の話となるとつい時間を忘れてしまって、終電の時刻ぎりぎりまで話しこむ。長く話をしていると、自分がどんどん毒舌になってゆくのがわかって、こころのなかで苦笑していた。たまにはそれもいいか、と思うことにしよう。

きょうの一首。「墨」の題詠として歌会に提出した一首。ふだん墨も筆もほとんど使わないため、似非リアリズム的になったのではないかと懸念したが、墨や筆の描写の部分は意外に好評だった。

 すりたての墨がかわいた筆の穂をしづかにのぼる午後やがて雨/荻原裕幸

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December 09, 2009

2009年12月9日(水)

最近、早朝、マンションの中庭で、縄跳びをする音が聞こえる。しゅたたんしゅたたんというような二重跳びの音がずっと続いて、ふいに途切れたかと思うと、しばらく激しい息づかいが聞こえて来る。窓からこっそり見てみたい気もするのだが、早朝から秘密の練習をしているという感じなので、何だかもうしわけない気がして、がんばれ、とこころで応援しながら、音だけを聞かせてもらっている。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十三回目。きょうの題は「クリスマス」、それと雑詠。10人出席で詠草は22句。いつものように読解を中心に添削的な批評を進めてゆく。講座後、家人と、遅い昼食を外でとる。ときどき行く豚カツの店で。天むすのチェーンが経営する店だが、副業とは思えない味。その後、買い物を済ませて帰宅。以下、きょうの題に即して二句。

 蝋燭のサンタクロース燃えてをる/荻原裕幸
 湯ざめするまで星すこし動くまで

きょうの一首。二人で黙って歩いているとき、ときどきこんな場面がある。

 話しだす前のかすかなゆらめきが見えたのにそのまま消えてゆく/荻原裕幸

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December 08, 2009

2009年12月8日(火)

早朝、かなり冷えて寒かった。氷点に近い温度だったらしい。名古屋的には真冬の寒さである。ストーブの前に坐っているとき以外は、何をするにも二言目には寒いなあとぼやいていた。きょうは、今年最後の読書会の日だったのだが、どうしても都合がつかずに欠席する。気が置けないメンバーと遠慮なしに意見交換しあうという、精神の栄養剤のような会なだけに残念なことである。

 秋風やここはこの世のどこなのか/冨田拓也

合同句集『新撰21』(邑書林)に収録された「八衢」百句の一句。秋風は、人のこころに不安定な感覚をもたらす、あるいは、不安定な感覚をもたらすものだとされている。だから、たしかに「ここ」にいるはずなのに、自身の位置を見失って「どこなのか」と呟くのは、人のこころの秋的な動きの典型だとも言えようか。だが、この句からもたらされる印象は、そうした典型的な詩情とは少し違う気がする。これは、位置を見失っているのではなくて、そもそも位置が特定できない、という位置から発せられたことばではないだろうか。この句からは「この世」のどこかにはいるのだという確信が、逆説的に見えて来るようにも思われる。どこかにはいるのだが、どこにいるのかがさだかではない、だから、わたしたちは、個々のわたしに位置の手がかりを与えてくれる、他者という存在を求めるのではないか。秋風がしみじみと身に沁みるのも、それが理由だろう。百句から他にも惹かれた句を引用しておく。

 天の川ここには何もなかりけり/冨田拓也
 花冷えの鍵は鍵穴にて響く
 橋といふ橋より上る春の月

きょうの一首。目的がわからないからこそ列にならびたくなる、という奇妙な心理がはたらくことがある。往々にしてまったく関心のない場所につながっていたりもするのだが。

 この世ではないところまで伸びてゐる気がして巷の列の後尾に/荻原裕幸

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December 07, 2009

2009年12月7日(月)

大雪。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の九回目。俳句について、とりわけ、季語が俳句にもたらす表現上のテクニカルな効用について話す。また、季節とはどのようなものであるのかを、体感の問題としてではなく、純然たる気象条件の問題としてでもなく、暦というアングルから説明してみた。骨格となる二十四節気の説明に多くの時間を費やす。

邑書林『セレクション俳人プラス 新撰21』が届いた。筑紫磐井、対馬康子、高山れおな、三人の共編。二十一世紀にデビューしたか、あるいは、これがデビューとなる、四十歳未満(二〇〇九年のはじまる時点で)の21人を揃えて、自選百句と作句信条と略歴と近影を掲載したアンソロジー的な合同句集である。また、各俳人についての小論や、編者三人と小澤實による合評座談会を併載したりと、楽しんで余りある内容になっている。みごとな青田買い、と言うべきだろう(この、青田買い、は、むろん褒めことばである、念のため)。感想はいずれ気の向くままにまとめようと思うが、さしあたり21人の名前を列挙しておく。越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉。以上(掲載順)。

きょうの一首。

 空気でもけむりでもないもやもやがわが家を占拠してはや三日/荻原裕幸

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December 06, 2009

2009年12月6日(日)

午後、家人が義母と出かける。留守番。一人で家にいても滅多にそうはならないことなのだが、きょうは食事の時間も内容もかなりいいかげんになる。机に向かっている以外に何かをするのが面倒に感じられたからだった。はたと気づくと肩に無駄な力が入っていて、姿勢が猫背気味になっている。どうやら寒くてからだをてきぱき動かす気にならなかったらしい。これはまずいと思ってストーブをつける。

昨日、山口誓子の「スケート場沃度丁幾の壜がある」の鑑賞を書いた後、そう言えばと思い出して、高柳克弘さんの評論集『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(二〇〇七年)を読み直してみた。同句の鑑賞に以下のようなくだりがある。なるほどそこまで踏みこんで読むものなのかとあらためて感心したし、自分が句の背景に人の姿を読んでしまうのは、おそらく歌人としての作品の読み癖が影響しているのだろうとも思った。

 この句は、一見すると、ヨードチンキの存在感を詠った句のようにもみえる。しかし、ヨードチンキは、あくまでスケート場の賑やかさや華やかさを無化させるためのアイテムにすぎない。溢れる光や嬌声とは無縁のヨードチンキに注がれる視線。その空虚さこそ、一句の見所である。(中略)価値観が解体し尽くし、すべてのものが既成の意味付けを完全に失ったときに見えてくるのは、こんな風景なのではないだろうか。不思議と、この句に、世界の終末の風景を思ってしまうのも、そこに理由があるのだろう。/高柳克弘

きょうの一首。他局にも増してそうだと思う。

 NHK的カメラワークは冬ざれに面食ひであることを隠さず/荻原裕幸

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December 05, 2009

2009年12月5日(土)

フィギュアスケートのグランプリファイナル、女子シングルで、安藤美姫選手が2位となって、バンクーバー五輪の出場が内定したという。あんな不安定な履物で、滑りながらジャンプして、しかもくるくる回ったりして、むしろ転ばないのが不思議なわけだが、大舞台で失敗経験のある彼女が、その後もこうして挑み続けるとは、どんな強靭な意志なのか。尊敬と好奇心と半々で、ひそかに応援している。

 スケート場沃度丁幾の壜がある/山口誓子

第一句集『凍港』(一九三二年)に収録された一句。原典では、沃度丁幾、に、ヨードチンキ、のルビ。むかしはちょっとした傷でもすぐに塗られた記憶のあるヨードチンキも、最近ではとんと見かけなくなった。昭和初期のスケート場には、あるいは常備されていたのだろうか。当時の状況をよく知らないまま鑑賞するのもあれだが、遊技場としてのリンクに向かう昂揚感や遊びに来ている人々の喧噪から逸れて、ヨードチンキの壜に目が向くというのが、いかにも俳句的なテイストで、楽しさに手放しでは没入できない人の姿が目に浮かぶ。明るさとかげりの混在したユーモアが、淡々とした文体から伝わって来るようだ。

きょうの一首。きょうの朝が、というわけではないのだが。

 四の五の言ふの四や五のなかに例外なく含まれさうな底冷の朝/荻原裕幸

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December 04, 2009

2009年12月4日(金)

午後、家人が歯医者に行くのに便乗、栄まで自動車に乗せてもらう。道すがら眺める若宮大通の黄葉が実にきれいだった。栄のコメダ珈琲店で軽い食事をしてからスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者15人、詠草16首。題は「痛」。いつものように、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。

 こいびとをくくるおおきなかぎかっこ/なかはられいこ

昨日に続き、第二句集『脱衣場のアリス』(二〇〇一年)に収録された一句。漢字表記が可能な部分もあるのに、こうしてそれを徹底して避けるのは、漢字仮名混じりの表記で見えて来るものとは違う何かを求めているからだろう。「恋人を括る大きな鉤括弧」では、なにやら理屈っぽいだけの恋愛論めいてしまうのを、平仮名表記を徹底することで、もう少しやわらかな、個人的な事件としての恋愛につながってゆく感じがある。たとえば、彼は、一応のところ恋人なんだけど、公然とそう呼ぶには少し抵抗があって、鉤括弧、それも大きめの鉤括弧で「こいびと」と括るような、そんな感じかしら、みたいな、わけあり感とこだわり感が雑ざった微妙な雰囲気が生じているのではないだろうか。

きょうの一首。講座で「痛」の題の作例として見せた一首。どう書いても字が余るため、ひらきなおって、七七七七七、というスタイルにしてみた。どこかしら短歌以外の和歌の形式、たとえば旋頭歌などの印象に近いリズムになったか。

 体温計を振れば冬めく手首にすこし痛み残れば冬深みゆく/荻原裕幸

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December 03, 2009

2009年12月3日(木)

煙草の話題が続いてしまうが、煙草の、とりあえずの増税、と言うか、値上げが、一本あたり二円から三円程度になるとニュースで報じられていた。一箱を千円にしてしまうといった、健康を目的にした増税/喫煙者を減らすための値上げ、という印象は薄らいで、税収を安定させる方向にやや傾いたらしい。丸くおさめるつもりの選択だと思うが、むしろ八方から苦情が出そうな気がする。

 白い雲見てるトイレの窓あけて/なかはられいこ

第二句集『脱衣場のアリス』(二〇〇一年)に収録された一句。屋内の生活空間のなかでも、とりわけ生活的な感じが強いのは、キッチン、浴室、トイレなど、いわゆる水まわりで、リビングとか私室とかは、やや生活的な感じが薄れる。だから、リビングや私室でするようなことをトイレでするというのは、川柳をはじめとした文芸の語法の一つで、形而上の行為を形而下にまでひきおろしての諧謔を目的としているケースが多い。この句がおもしろいのは、そうしたパターンを踏襲しながらも、反諧謔的な世界を見せているところだと言えようか。この句は、リビング的な行為をトイレ的な行為にひきおろすのではなくて、むしろ、トイレをリビング化しているように見える。寺山修司の俳句に「便所より青空見えて啄木忌」という一句があるが、比較して読むと感触の違いがはっきりするのではないだろうか。

きょうの一首。

 月がかはるとそのまま十三月になるやうな感じのある十二月/荻原裕幸

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December 02, 2009

2009年12月2日(水)

早朝、同じマンションに住む某家の、ベランダで煙草を吸っているお父さん、の姿を目撃してしまう。灰皿を片手にもって、寒そうにからだを丸めながら、どこか落ち着かない、慣れない感じが漂っていた。これまで一度も見たことがなかったし、最近になって屋内禁煙を家族から言い渡されたのだろうか。何となくばつが悪いので、目撃したことを気づかれないように、そそくさと死角に入る。

午後、中京大学へ。キャンパスでは、冬になって、彩色の華やかさこそ多少抑えられているものの、垢抜けた感じの服装や髪型の学生(とりわけ女子)が増えたという印象がある。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十二回目。きょうの題は「短日」、それと雑詠。8人出席で詠草は16句。いつものように、読解を中心に添削的な批評を進めてゆく。以下、きょうの題に即して二句。

 短日や喫煙エリアまで五分/荻原裕幸
 赤札の総菜にひとだかり冬

きょうの一首。夜ふかしが現代の日本人の属性だとしても、三十時近くまで前日の時刻で考える生活というのは、あまりふつうのことではないような気がする。

 午前三時を二十七時と言つてしまふどこか歪んだ十二月です/荻原裕幸

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December 01, 2009

2009年12月1日(火)

きょうから十二月。家中のカレンダーが一斉にクリスマスの雰囲気になる。玄関にも知らぬ間にクリスマスの飾りが施されていた。家人の会心作のようで、とても楽しげな感じにレイアウトされていたのだが、マンションの玄関ドアにそこまでしちゃっていいの、という一抹の不安も生じた。出来栄えを褒めながら、念のため不安を口にすると、簡単に元に戻るよ、たぶん、と言う。たぶん、なのか。

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。東西句会の例会。参加者は五人。きょうは、題詠「です」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評、楽しいディスカッションが進められてゆく。今年最後の例会だったが、そうは言ってもまだあまりぴんと来ないのだった。提出した五句は以下の通り。題詠の句だけが少し異質な感じになったのは、出題にいささかの異存を抱えながら書いたことが影響したのかも知れない。

 棚の奥までたつぷりと十二月/荻原裕幸
 広告にくるめば葱が何か言ふ
 蛍光灯の端真つ黒で褞袍着て
 ベランダの履物しづか冬の月
 正夢を見ないタイプの布団です

きょうの一首。

 ものがたりの外伝のさらに外にあるつながりのない冬の一日/荻原裕幸

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