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January 31, 2010

2010年1月31日(日)

午後、家人と義母と義姉が、合歓(猫)のお墓参りに出かける。留守番。長命(享年十八歳)だったこともあって、家人たちには家族同然だったため、亡くなってすでに七年と数か月が経つが、しばしばお墓参りに行く。自分も葬儀には参列した。荻原家のリビングには合歓の写真がずっと飾ってある。利発なかわいい猫で、義母とは日頃からふつうにコミュニケーションをしていたのだった。

 『おわあ、こんばんは』
 『おわあ、こんばんは』
 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
 『おわああ、ここの家の主人は病気です』/萩原朔太郎

詩集『月に吠える』(大正六年/一九一七年)に収録された「猫」の一節。春の夜の屋根の上、二匹の黒猫がいて鳴き交わしているのを、「ここの家の主人」であるところの語り手が、人間の挨拶風に聞きとっているところである。「病気です」は、むろん語り手の自意識であり、詩集を貫く鬱然たるモチーフの一つでもあるわけだが、猫にそれを語らせるというスタイルは、どこかユーモラスな印象をもたらす。この猫たちは、ポーの猫よりも漱石の猫に近い、という気がする。

きょうの一首。

 ありふれたいきものだけど猫がゐて冬のたたみを泳いで渡る/荻原裕幸

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January 30, 2010

2010年1月30日(土)

元日が満月だったので、ちょうどいままた綺麗な満月が夜空に戻って来た。一昨日と昨日と、羽生善治王将と久保利明棋王との第59期王将戦七番勝負第二局。羽生王将が勝って一勝一敗とした。栃木県大田原市ホテル花月での二日制の対局。ネット中継を見そびれて後から棋譜を追う。先手の羽生の居飛車と久保の中飛車という予想通りの展開で、熱戦かつ混戦の末、勝利は羽生の側に傾いたが、それでもどこか久保好調を感じさせる一局だったと思う。

日常のことばと詩歌句のことばを比較したとき、大きな違いの一つに、意味的な目的をもたないことばが存在できるかどうか、があると思う。意味的な目的をもたないことばが日常会話にあらわれたとき、削除も訂正もされずに放置されるとしたら、発話者の理性がかなり深く疑われることになるのは目に見えている。逆に、詩歌句のなかに意味的な目的をもたないことばがあらわれたとき、読者は、その理解を放棄しないかぎり、詩歌句の価値に何らかのかたちで寄与するものとして扱おうとする。極言するならば、詩歌句の発話者(作者という意味ではない、念のため)というのは、はじめから、日本語を語って/書いているとはみなされていないのではないだろうか?

きょうの一首。レターケースを少し整理しようとして。

 抽斗でしづかにまるくこときれてゐる希望とか冬の蜘蛛とか/荻原裕幸

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January 29, 2010

2010年1月29日(金)

27日、J・D・サリンジャー氏が死亡したという。失礼なことながら、えと、サリンジャーが? 死んだ? そうか、そうだよな、死んだという話はたしか聞いたことがなかったよな、などと、表舞台から姿を消していた作家の死に対する典型的な反応をしてしまった。享年九十一歳。決して嫌いではないのに、自分がほとんど影響を受けていない、そのことに妙な淋しさを感じる作家の一人だった。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。今月は第一金曜が元日にあたって休みだったので、きょうがその振替日となる。出席者14人、詠草14首。題は「久」。地下鉄駅の久屋大通から一字を貰った。いつも通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。講座後、マンガ喫茶で、マンガを読んだり、週刊誌を読んだり、短歌のメモをまとめたり。

きょうの一首。講座で「久」の題の作例として見せた一首。歌枕として熟しているわけでもない地名/駅名をそのまま使うのは、やはりちょっと無理があるかなあと思いながら一応かたちにしてみた。

 春を感じてゐるのか欅のよく揺れて久屋大通が笑ふ午後/荻原裕幸

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January 28, 2010

2010年1月28日(木)

梧葉出版から短歌のタブロイド紙「梧葉」冬号が届いた。季刊で通巻24号。このスタイルの業界紙というのは、レイアウトが文芸向きでないとか、置き場所が確保しづらいとか、どこか苦手な感じがあって、あまりしっかりリサーチしていないが、きちんと読んでみるとなるほどと思う紙面構成がなされている。食わず嫌い的な姿勢はだめだなと反省する。この号には、二〇〇九年の回顧と展望として「すれ違いの十年の後に」と題した短文を寄稿した。四百字で二枚弱。

三月下旬、アップル社からアイパッドが発売されるという。電子書籍の閲覧などに対応した新しい携帯端末で、なりゆきによっては、ライフスタイルにかなり大きな影響を与えるものかと思う。商品の画像を見ながら、一九九〇年代の前半に、某IT企業が業界向けに作成したPVを懐かしく思い出した。その中で、遠からず実現するであろうと言われていた「夢の携帯端末」が、アイパッドそっくりだったのだ。微妙にスケジュールはずれるようだが、夢も理想も次第にかたちになってゆく。しかし、その夢や理想を思い描いていた人間の方は、かたちになった夢や理想にほんとに追いつけるのだろうか。わくわくするような、不安なような、奇妙な気分である。

きょうの一首。

 天空ではないけど地表ともちがふ妙なところに揺れて冬蝶/荻原裕幸

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January 27, 2010

2010年1月27日(水)

午後、家人と大須へ。やけにお腹が空いていたので、沖縄の特産品店のイートインで沖縄そばを二杯食べる。満腹を少し超えてしまう。その後、某書店とか某書店とかに立ち寄って、パソコン関連の本やサブカル系の本やコミックなどをあれこれと物色して回る。全体の規模がさほどでなくても、ある系列の本がごっそり揃えられていると圧倒されるものだなと思う。

 橋上を過ぐるこころぞ解かれよとわが影を先に歩ませてやる/永井陽子

昨日に続き、第三歌集『樟の木のうた』(一九八三年)に収録された一首。歌集の配列からすると夏の歌である。「橋上」は、人生の節目、に類する何かのメタファかと思うが、一首の風景のなかに巧く溶けこんでいるようだ。影を独立した存在として捉えるモチーフはさして珍しいものではない。ただ、友情に近い感覚で「解かれよ」と言うあたり、背後から日が射しているだけであろうに「先に歩ませてやる」と言うあたり、私と影との関係が、何かしら暗澹たるものの象徴のようでありながらも、ほのぼのとした感じで引き出されていておもしろい。非現実的な感覚を、現実のなかに自然な感じで定着させる文体は、永井陽子の真骨頂の一つか。

きょうの一首。

 これと言ふ用もないままスーパーに来て春近き魚の値を見る/荻原裕幸

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January 26, 2010

2010年1月26日(火)

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、このブログでもしばしば話題にしている、邑書林から刊行された合同句集『新撰21』の話題を枕にして、兼松悟さんの第一句集『蝸牛』(本阿弥書店)、山崎るり子さんの詩集『終わらない絵画展』(思潮社)をとりあげた。いずれも昨年刊行されたものである。四百字で四枚半ほど。

 雪は街を覆ひつくして影もなきにうしろから来るせいたかのつぽ/永井陽子

第三歌集『樟の木のうた』(一九八三年)に収録された一首。藤原定家「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」を思い浮かべるのは、個人的な感覚か、必然か。たぶん後者に近いものだろう。雪に覆われる、とは言うが、雪に覆われると、むしろ、あらゆる空間が剥き出しになる印象がある。人の気配のあまりない銀世界で他者に遭遇するのは、密室での対峙の感覚に近い。「うしろから来るせいたかのつぽ」は、単に背の高い誰かが近づいて来たということなのだろうが、この状況のなかでは、得体の知れない、魔物のような存在を思わせる。雪景色のなかで生じる一瞬の恐怖感や異界感を巧く捉えた一首だと思う。

きょうの一首。辞書では無理そうなので、「男子上等」の用例をググってみると、なぜかBL系のものしかない。男子の側から使うのは変なのか。

 男子上等髪をみじかくしたわけを問はれることもなくて冬尽く/荻原裕幸

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January 25, 2010

2010年1月25日(月)

自宅で配膳をするとき、テーブル上の配置を想定して、置いたものの位置を途中でずらすことにならないように、つねに残りのスペースを少し広めにとりながら皿や椀などを並べてゆく。作業の効率を優先してこれをすると、家人に必ず配置の調整をされることになる。作業の効率よりも、食事がおいしく見えるようにすることが重要なのだそうだ。それはまあそうだと思う。定型詩のなかではつねにしていることを、なぜテーブルの上ではしないのかと自分に対して思う。

角川書店から総合誌「短歌」2月号が届いた。「女歌の現在(いま)」というタイトルで特集が組まれている。サブタイトルは「変わりゆく女の生き様と歌」である。これはなかなか凄いと思う。現在の女性のライフスタイルの変化とは、この「女の生き様」ということばで括れなくなったあたりにこそあるような気がするのだが、そういう微妙な感じをものともせず、露骨に旧来の男性視線をぶつけてゆくラディカルでポレミカルな姿勢は、特集の実際の内容とは別に何か副産物をもたらすかも知れないと思った。この特集には、作家論の対象になった九人の女性歌人の一人、澤村斉美さんについての小論「歪みとしての自然体」を寄稿している。四百字で六枚半。若い作家についての文章なので、特集の性質上生じやすいアジっぽいところをできるだけ排してまとめたのだが、誌面が求めていたのは、あるいは少し違ったものだったか。

きょうの一首。

 独り身のひとの手つきでハムサンドに塩などふつてゐる春隣/荻原裕幸

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January 24, 2010

2010年1月24日(日)

午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。グーグルが中国での事業閉鎖を検討しているという。検索履歴の検閲とか、その他諸事情が絡んでいるようだ。グーグル等の検索履歴というのは、やはりかなりはっきりとその人の姿を浮き彫りにするものなんだろうなあと、自分の検索履歴をつらつらと眺めながら思う。報道などに関連して最新のキーワードを追っているのはまだしも、必死になって調べものをしているときなどは、なりふり構わない感じが見えて、気恥ずかしい。

 猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう/笹井宏之

昨日に続き、第一歌集『ひとさらい』(二〇〇八年)に収録された一首。「猫に降る雪」ってなんだよとまずつっこみが入れたくなる。どう考えてもおかしなことばである。しかし、この、どう考えてもおかしい、を考えているうちに、少し見えて来るものもある。要するに「私」の視界にある動体は、この猫だけなのだろう。地面に降り積もるであろう雪は、「猫」や「私」たちに降る雪ではないのだ。猫と猫に降る雪と青白くなった互いの手、「私」たちの認識できるものはごく限られている。真冬の風景としては珍しくないかも知れないが、どこか現在の世界の不透明さに重なって来る感触がある。「猫に降る雪」というおかしなことばから生じる感触だろう。この二人はどこに帰るのだろうか。

きょうの一首。

 話したいことがあるわけでもないが話しつづけてゐる雪のなか/荻原裕幸

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January 23, 2010

2010年1月23日(土)

いいかげん寒さにもあきて来たよ、と、日々呪文のようにつぶやいているが、何の効き目もない。家のなかでは、ストーブの近くからストーブの近くへと渡り歩きながら過ごしている。民主党の小沢一郎氏が、一連の政治資金をめぐる問題で、東京地検特捜部から事情聴取を受けたというニュース。事実はさっぱりわからないが、ものすごくわるいことをしていそうな人、という印象がつねに一人歩きをしているようで、表舞台に立ち続けるのは大変そうだなあと思う。

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい/笹井宏之

第一歌集『ひとさらい』(二〇〇八年)に収録された一首。永遠というものを解く力を求めている、のだと思って、それならば「永遠を解く力下さい」と、定型の力をきちんと作用させる方向でまとめるべきではないか、それに上句のひらがなの繰り返しによる強調が単純過ぎるのではないか、などと感じていたのだが、どうも何か違う気がして、読み直しているうちに、これは、音が意味に転じるプロセスを見せているのかも知れないと思われて来た。記憶をたどれば、はじめて読んだとき、「えーえんとくちから」を、延々と口から、だと思った。日常のなかで聞こえた「えーえんとくちから」という音が「永遠解く力」という意味としてたちあがるプロセスで、瞬時に生じるさまざまな情動もあろう。あるいはそれを一首に封じこめようとしたのだろうか。

きょうの一首。

 近づくとすぐすきとほる体質の友ゐてひごろはなれてあるく/荻原裕幸

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January 22, 2010

2010年1月22日(金)

朝はよく冷える。午後になっても寒い。日が傾きはじめる前に、近所の公設市場の鶏肉店に弁当を買いに行く。煮物をメインにした弁当が売り切れだったので、揚物がメインの弁当を二人分買う。きょうは味噌汁と棒棒鶏をおまけにつけてくれた。一度帰宅してから、家人と近所のスーパーへ。牛乳とかバナナとか林檎とかハムとか麺麭とか、主に朝食用の食材を買い揃える。

口語の短歌の難しさの一つに、過去と完了と推量の助動詞が乏しいため、動詞に表情がつけにくい、ということがある。それはそのまま、文体に表情がつけにくい、ことをも意味しているだろう。俵万智や加藤治郎の初期の作品が、単に口語というだけではなくて、会話体を多く活用したのは、たぶんそのあたりの事情が大きく作用したのだと思う。ところで、昨今、あきらかに口語の文脈で書かれている作品が、接続や結びにおいて、そこだけが文語的にまとめられる例をしばしば目にする。すべてが口語と文語にすっきり分別できるわけでもないし、混淆はむかしからのものでもあるわけだが、口語でこらえきれなくなって文語に頼る、という感じが出てしまうのは、避けられるものなら避けるべきかと思われる。

きょうの一首。

 自転車にはじめて乗れたゆふやみに早咲の梅が揺れてゐたこと/荻原裕幸

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January 21, 2010

2010年1月21日(木)

午後、桜山の美容室へ。三か月伸ばしっ放しだった髪をカットしてもらう。担当してもらっている美容師さんは、二十代の女性なのだが、昨今、友人たちが次々に結婚してしまって、自分だけが取り残された気がする、と言う。そんなことを気にするような年齢じゃないし、あと十年独身でも大きな問題はないよ、と、笑いながらそう言うと、そうですよねえ、と自身を納得させるような相槌を打っていた。短髪になって店外に出ると、寒風の穂先が首筋にあたって冷たかった。

字足らずの短歌はやはりどこか違和感がある、とあらためて思う。違和感が何らかの価値であることもあり得るわけで、違和感があるからだめだとも言えないのだが、この違和感がプラスに作用する確率は低そうだと自分は感じる。音数の欠如から見えるのは、明確な方法意識か、大雑把な定型観である。後者は論外として、前者までもがなぜ字足らずの場合には肯定しづらい違和感に直結するのだろうか。たぶん、字足らずの方法意識の底に、短歌の「外」にある短歌、というものを想定している感触が生じるからだろう。短歌に「外」はないと思う。「外」には出られないと思う。内部から突き崩すか、内部を拡張するか、たとえ「外」にいるように見えても、実際には内部で何かを繰り返しているのだ。

きょうの一首。

 にょんたかといふ擬態語があるさうで妻にょんたかと冬天をゆく/荻原裕幸

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January 20, 2010

2010年1月20日(水)

大寒。暦は真冬の真ん中だが、きのうきょうは日中の気温が十五度前後になって、三月を思わせるあたたかさだった。午後、家人と近所の中華料理店へ。やたらにお腹が空いていたので、ラーメン、炒飯、餃子、鶏の唐揚げ、などをがつがつと食べる。ふだん腹八分目とか考えている自分がどこかに外出していて、戻って来ておいおいとか自分に呆れる頃には、すでに食事が終っていたのだった。

 永遠はひんやりしてゐる花ざくろ/外山一機

合同句集『新撰21』(二〇〇九年)に収録された「ぼくの小さな戦争」百句の一句。「永遠」という扱いの厄介な代物を、小体な物のように、物質的な感触として捉えているところが佳いと思う。個人の意識のなかにあるはずの「永遠」を、日常の空間に巧く取り出して居所を与えた感じか。「永遠」のかわりに、母の手だとか、床板であるとか、何か日常的な素材が据えられていれば、それはそれで一句として成り立つわけだが、むろん「永遠」以外の選択はあり得ないだろう。抽象の感覚を描いた句にありがちな、季語が露骨なメタファとして機能するような印象もなく、「花ざくろ」が初夏の風景を自然にたちあがらせて、一句を巧く支えているようだ。百句から他にも惹かれた句を引いておく。

 川はきつねがばけたすがたで秋雨くる/外山一機
 壜に飼へば守宮かゞやきやまぬなり
 めだまやきひつくりかへしてはるのゆき

きょうの一首。

 どことなく声を聞かれてゐるやうで水仙の裏にまはつて話す/荻原裕幸

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January 19, 2010

2010年1月19日(火)

清水かおり、畑美樹、兵頭全郎、吉澤久良、の四人による川柳同人誌「Leaf」が創刊された。年二回刊。川柳作品と相互批評とエッセイと川柳論とで構成されていて、表現者として川柳を書いていることを強く意識した誌面が展開されている。メンバー全員が川柳誌「バックストローク」の同人なので、どこかに衛星雑誌的な印象もあるのだが、川柳の世界に一石を投じたいという意欲に満ち溢れていて楽しい。しっかり注目していたいと思う。

午後、新栄の東生涯学習センターへ。ねじまき句会の例会。参加者は六人。きょうは題詠「人」と雑詠それぞれ一句を提出。今年は人偏の漢字一文字を題としてゆくことにしたので、初回は「人」ということになった。いつものように無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。句会に提出した川柳は以下の二句。できるだけ平易なことばで書こうとして呻吟した。句会終了後、コメダ珈琲店で歓談。

 いつからか人もコップも喋らない/荻原裕幸
 淋しくもないのに指の骨が鳴る

きょうの一首。

 スプーン凹んで真冬もろともさかしまに映しだされてゐる朝の卓/荻原裕幸

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January 18, 2010

2010年1月18日(月)

午後、同朋大学へ。控室にいるとき、講師の一人に、荻原先生、痩せましたか? と訊かれる。たしかにそれなりに痩せたのだが、急に痩せたわけでもないんだけど、とか思っていると、メディアに載っていた写真と比較して痩せているように見えるのだという。体重の多い時期の写真を使うものじゃないなと思った。きょうは、文章表現の講義の十二回目。これまでに扱った各ジャンルの概論の復習をして、全体を少し違う角度から説明し直してみた。

ながらみ書房から「短歌往来」2月号が届く。干支にちなんだ特集「オメデトウ 寅年生れの歌人」に、新作の短歌「寅質」十二首とコメントをあわせて寄稿した。同年生れの穂村弘さんや俵万智さんも寄稿している。十二首をパラレルに短時間でまとめているので、このブログの「きょうの一首」とは何か少し違う味が出ているのではないかと思う。自身でそれを確かめてみようと読みはじめたら、一箇所、ミスタイプがあったのか、仮名遣いが間違っていて吃驚した。

きょうの一首。

 対話すこし荒れたあたりで運ばれて来て一月の苺に逸れる/荻原裕幸

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January 17, 2010

2010年1月17日(日)

阪神淡路大震災の日。十五年が過ぎた。皇太子夫妻が追悼式典に出席、夫妻で遠方の公務に出かけたのは二年ぶりだというニュースもあわせて報じられていた。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。帰宅した家人に、大雪だったの知ってた? と訊かれる。いつ? 何日か前。どこで? 名古屋で。どうやら降ったのは水曜の午前だったらしい。大雪と言っても、名古屋的には大雪、ということのようだが、それはともかくとして、雪が降ったのも知らずにいた自分たちに呆れる。

 修正液の一行白し風邪心地/藤田哲史

合同句集『新撰21』(二〇〇九年)に収録された「細胞膜」百句の一句。消した一行が白いままなのが正しい状態なのか、これから上書きしようとしているのか、上書きを忘れて手渡されたものなのか、等々、さまざまな状況を思いながら、そもそも消された文字は何だったのか、手紙なのか、書類なのか、などと想定可能なすべての状況へと枝葉がひろがってゆく。取り合わせの「風邪心地」も、読解のヒントになるようなものではなく、すべての可能性を肯定してそこにある。風邪心地のなかで書いた書類でミスをして、ホワイトを入れて、ぼんやりした意識のまま乾くのを待っているところ、とでも読んでおけば、一応の解釈にはなるのだろうが、ただそう読んでしまうことが何か勿体なく思われる。日常からもののありようを切り出す手際がとても鮮やかで、その鮮やかさを長く楽しんでいたいからかも知れない。百句から他にも惹かれた句を引いておく。速球に自信のある投手が、自身でゾーンを狭く絞って勝負しているような印象もあるが、その自信につりあうだけの力がある作者だと思う。

 露の玉年譜のはじめ疎なりけり/藤田哲史
 身に入むや亀山駅に白き椅子
 大釜に飯の起伏や鳥曇
 サンダル裏すりへりたるや層見ゆる
 きつつきや缶のかたちのコンビーフ

きょうの一首。

 希望とか永遠などが沁みついてゐて重いのかこの革ジャンは/荻原裕幸

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January 16, 2010

2010年1月16日(土)

たとえ特定のジャンルであっても、巷にこれほど情報が溢れていると、俯瞰して何かを語るのはかなり苦しいと思う。批評家/評論家のように、私は知っている、という位置から書く人ならばなおさらのことだろう。一九八〇年代から九〇年代の、吉本隆明の文章を再読して、なぜこの人は俯瞰できているように見えるのか、時代がまだそれを許していたのか、この人が特別なのか、実際には俯瞰できているわけではないのにそう見える文体なのだろうか、等々と考えていた。

羽生善治王将に久保利明棋王が挑戦する第59期王将戦七番勝負第一局。久保棋王がまず一勝した。徳島県鳴門市大塚国際美術館での二日制の対局。ネット中継を折々眺めていた。先手の久保が石田流三間飛車というのは大方の予想通り。対する羽生が早い仕掛けで挑んだために一日目から緊迫した展開となった。ただ、二日目の早い段階で久保の優勢が見えはじめ、羽生に、無駄に大駒を棄てているように見えるのに検証してみると結果的にかなり形勢を挽回している、という、神業のような手が出るものの、逆転には至らずにそのまま勝敗は決した。久保のような駒の捌きを重視する振り飛車党の勝利は快勝となることが多い。振り飛車の側からは、エンターテインメントで、英雄が魔物を退治しているような、緊迫はするけど最後はやはりこうなるのだな、と思わせる展開に見える。本譜はその典型か。

きょうの一首。似て非なり。

 男好きと男好きのするの説明のどちらの例にも出されるJさん/荻原裕幸

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January 15, 2010

2010年1月15日(金)

早朝、氷点下二度だったとか。名古屋ではなかなかこれ以下にはならない。双葉十三郎さんが、昨年十二月十二日に亡くなっていたという。享年九十九歳。学生の頃、新旧あわせて年間数百本は見るという映画マニアの友人の手帖に、見た映画がすべて☆と★の配合で評価されていた。映画の評価はそうするものなのかと、当時は何も知らずにぼんやり見ていたが、双葉さんの影響だったようだ。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人、詠草14首。題は「栄」。今年は、名古屋の地下鉄駅の名前からの一文字を題としてゆく予定。いつものように、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。「栄」をそのまま駅名/地名として使った詠草や、名詞や動詞として使った詠草など、楽しんだ人も苦しんだ人もいたようだが、「栄」という超ポジティブな題に対する受講者の対応がさまざまで、読んでいて興味深いものがあった。

きょうの一首。講座で「栄」の題の作例として見せた一首。栄が栄えていないとまでは言わないが、名古屋人の感覚としてはこんな印象である。

 栄える地区を栄と呼んでゐたことのなごりのやうなひかりの栄/荻原裕幸

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January 14, 2010

2010年1月14日(木)

歌会始の儀は、テレビ中継もあったようだが、見そこねてしまった。ネットの報道で作品を読む。今年の題は「光」。選者の作品では、岡井隆さんの「光あればかならず影の寄りそふを肯(うべな)ひながら老いゆくわれは」、河野裕子さんの「白梅(しらうめ)に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅」にこころ惹かれた。来年の題は「葉」だという。

 ありふれた感傷にならないうちに文章はしずかに終わらせよ/松木秀

第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』(二〇〇五年)に収録された一首。標語のような文体、と言うと、どこか批判的に聞こえるかも知れないが、五七五のスタイルではなく、五七五七七で標語的な文体を実現するのはなかなか難しいものだ。短歌の定型は、すぐに「一人称単数」を連れて来てしまうために、「一人称複数」や「非人称」などを求められる標語には、基本的に向いていないと考えられる。この一首のように、書簡、ブログなど、人の日常に密接した行為を呼び起こして抒情しながら、同時に、シンプルで説得力のある日本語の作法を述べるのは、表現スタイルとして興味深く、新鮮な発見だという気がする。

きょうの一首。

 ゆびでぱちんと弾いてみたい形よきおでこが冬の電車に揺れて/荻原裕幸

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January 13, 2010

2010年1月13日(水)

きょうはずっと家にいたのに、それでも寒いと感じる一日だった。そう言えば、家にいてもネットにつながっていれば大抵のことは何とかなる、などという。この「大抵のこと」の範囲はかなり狭いはずなのに、一部の人々にそう感じさせているのは、生活環境やライフラインが極度に安定しているからだろうか。いまのところまだ「大抵のこと」以外のことが、人々の生活の大半を占めていると思う。

 ひまわりや腕にギブスがあって邪魔/越智友亮

合同句集『新撰21』(二〇〇九年)に収録された「十八歳」百句の一句。「腕にギブスがあって邪魔」という言い回しは、散文的な記述としては自然でも、俳句ではたぶんそこまで言わずに「腕にギブス」程度で言いとどめるのが一般的だ。しかし、あえて書かなくてもあたりまえに思われる「邪魔」の一語が、動きまわりたくてしかたのない若い身体をはっきりと連想させる。アクシデントで腕を骨折して、ギブスをつけたままで過ごす時間は、運動系の部活はできないし、自由に遊べないし、若い身体にとっては死ぬほど退屈なものだろう。また、向日葵がどこからか夏休みのイメージをひきよせる。動きまわれないからこそ視野にとどまるのであろう夏の花の姿は、ギブスの生活の退屈さに一段と拍車をかけているようだ。どこか俳句らしくない一句のことばの運びは、むしろそれゆえ俳句にとって新鮮な何かを掴みかけているようにも思われた。百句から他にも惹かれた句を引いておく。

 秋夕焼け電車に吊り輪分の人/越智友亮
 菜の花や大声で呼ばれて困る
 新緑のホースの巻きかたに迷う
 留守番つまらなし炬燵から出て歩く

きょうの一首。

 真冬の空気を伝はつて来てどことなく白い音する隣家のピアノ/荻原裕幸

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January 12, 2010

2010年1月12日(火)

朝はそれほど冷えなかったが、小雨がぱらついて日中の気温が上がらない。寒い一日となる。午後、本陣の中村生涯学習センターへ。東西句会の例会。参加者は六人。題詠「初」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評。俳句がはっきり見えたような気がしたり、わからなくなったり、短時間でくるくると。句会終了後も会場近隣のコメダ珈琲店で俳句の話など。

きょうの句会に提出した五句は以下の通り。当季を基本にしていると、この時期しか出す機会がないので、新年の句を揃えてみた。新年の句は書きにくいと言われているそうだが、自分の場合、他の季節とあまり大きな差がない。たぶん春夏秋冬も新年もどちらも書き慣れていないからだろう。

 爪を切る音の深さや去年今年/荻原裕幸
 元日や空き瓶ならぶ奥の部屋
 そこはかとなく水匂ふ二日かな
 而してテレビの黙る三日かな
 初売や緩やかなものばかり買ふ

きょうの一首。先日見かけた家のスケッチ。

 欠伸してゐるやうに微妙に反りながら熱田区の奥ふかく建つ家/荻原裕幸

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January 11, 2010

2010年1月11日(月)

成人の日。早朝、通りがかった何軒かの美容室に、成人式の準備の女子たちがずらりと坐っていた。以前はほとんど目にすることもなかったが、最近では、外から店内の見える美容室も多いので、華やかで楽しい風景が衆目にさらされているわけだ。佳い日でありますようにと願いながら、静かに横目で眺めて過ぎる。午前から午後、家人が友人たちと会食に出かける。留守番。

 呼びかけられたような気がしてふりむくと
 木 だった/日原正彦

昨日に続き、詩集『夏の森を抜けて』(二〇〇九年)に収録された「その木に」の冒頭。昨日の引用は、どちらかと言えば異色のもので、メタファ中心の詩行をできるだけ抑えて、散文的な記述性を展開してゆくのが、この詩集の主たるスタイルだ。詩行の構成がしっかり把握できて、定型詩との類似や相違も見えやすい。木に呼びかけられる感覚というのは、定型詩にもあらわれるモチーフだが、定型詩であれば、一般的に、この木のある空間に時間の概念を含めた質感のようなものを付与する方向へと表現が向かうだろう。「その木に」では、「呼びかけられたような気が」しただけのはずの木の、内面に踏みこんで、私と木とが交感し、いつしか同化してゆくプロセスが描かれる。昨日の引用そのままの「血のよろこび」の滲む佳品だと思う。

きょうの一首。こんな短歌を書いてしまうこと自体、自意識の肥大そのものであるような気もするのだが、それはまあそれとして。

 そしてあと一杯茶葉を自意識の肥大してゐるわたしのために/荻原裕幸

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January 10, 2010

2010年1月10日(日)

何もそんなに生真面目に寒くならなくても、と、冬を懐柔したい気分である。大相撲初場所初日、白鵬が横綱の土俵入りの手順を間違えたという。不知火型のせり上がりのところが抜けてしまったらしい。ご愛嬌と言ってしまっては問題のありそうな話ではあるが、大相撲の、勝った負けた以外のニュースは、せめてこの程度の、のどかに笑って聞いていられるレベルのものであって欲しい。

 私が書くことが 傍観ではなく
 私が書くことのただなかにあるとき
 私は書くのではなく
 書かれている
 私を 書かれている
 見よ 書かれている私の最果てから
 ことばは 血のよろこびとなって
 滲み出す/日原正彦

詩集『夏の森を抜けて』(二〇〇九年)に収録された「かけら」の冒頭。書くことのなかで「私」に直に言及するか否かはここでの問題ではない。対象として、たとえば一本の樹を書こうとするとき、書くことに深く踏みこむと、一本の樹が逆に「私」を書きはじめるという感覚的な現象は、経験のある人もいるのではないか。ともすれば自己言及が、書きたくない「私」を傍観者的に見捨ててしまえることに比べると、書いているはずの対象から逆に書かれている「私」は、逃げ隠れできずにすべてを曝す他ない切迫した状況にある。一般に、ことばに血が通う、などと言うのは、そうした切迫感の有無によるものかも知れない。

きょうの一首。日曜が休日でなくても、翌日が祝日でも、日曜が過ぎてゆくのは、どことなく気怠い感じがある。

 笑点を見てサザエさん見てどうしても心にちからが入らない夜/荻原裕幸

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January 09, 2010

2010年1月9日(土)

午後、所用で外出すると、巷は連休のはずだが、どこか忙しい感じもあって、正月ではない一月がはじまっている模様。パソコンの仕様を再確認して、演算の速度や情報の容量が、使いはじめた時分の数百倍から数千倍になっていることにいまさらながら驚く。文字表現という面から考えると、持て余すような性能ばかりで、文字表現だけをしていては勿体ないような気分にもなる。

 よくあんなことがいえたと恥ずかしく潮さかのぼる川を見下ろす/江戸雪

昨日に続き、第四歌集『駒鳥(ロビン)』(二〇〇九年)に収録された一首。言うべきことを言ったつもりだったのに、後になって考えてみると、きわめて無謀で、配慮がなかった、などと感じているところだろうか。誰に対してなのかも、何を言ったのかもわからないが、この恥ずかしさの感覚は、自分にそうした経験があるせいか、身に沁みるように伝わって来る。言ってしまった以上、言ってしまった「私」をひきうけて生きていかなければならないのである。汽水域の川は、実景と言うよりメタファに近いものに見える。一度は海に流れこんだはずなのに、過ぎたことがじわじわと押し戻して来る感じが浮かびあがる。演出感の強い風景だが、この演出感の強さは、自身のことばを省みることをモチーフとした一首にふさわしいものだと言えようか。同歌集から、こころ惹かれた作品を、他にも少し引用しておく。

 ほんのりとぬくい弁当抱きながら桜の声のあんこくを聴く/江戸雪
 なさけなくなんかないからきみのそのまっしろにある瀑布(たき)をみせてね
 さっきまでムーミンがいたように揺れ鞦韆のあわき影もゆれたり
 ざわめきの水位をすこしあげながらうすやみのなかくちびる享ける
 会議中の君に電話をかけているこわれたままの裏木戸のように

きょうの一首。

 ホームの白い息がみんなのたましひに見えて疲れた瞼をおろす/荻原裕幸

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January 08, 2010

2010年1月8日(金)

寒い日が続く。「毎日が忌日」のきょうのエントリを見ると、とてもにぎやかな感じだった。ヴェルレーヌ忌は、塚本邦雄の作品に関連して、上田三四二忌は、昭和の終りに関連して、それぞれ記憶していたが、他とあわせるとこんなににぎやかだったとは。午後、近所のスーパーと薬局で、朝食用のあれこれやストックの切れた漂白剤などを買い揃える。

 ブログブログなんでもブログにかいている手ざわりのないかなしみなどを/江戸雪

第四歌集『駒鳥(ロビン)』(二〇〇九年)に収録された一首。ブログを書いているのが誰なのか、文脈がはっきりしないが、「なんでもブログにかいている」は、なんでもかんでも書いているように見える、という意味の誇張で、一人称ではない誰かあるいは不特定多数のブロガーを指していると捉えればいいのだろう。「手ざわりのない」という修辞が示唆している、他人の独善性と他者との距離感をないまぜにしたような感じは、ブログの、とりわけ感傷的なエントリの読後感を、巧く言い得ていると思う。ちなみに、この一首が収録された連作の題は「通り魔」、上京と帰郷などがモチーフで、時期としては六月が示されている。たぶん二〇〇八年の秋葉原通り魔事件を背景にしたものだと思うが、そこに踏みこまなくても読解できる作品になっているようだ。

きょうの一首。

 ブログには書かないことが音たてて寒のかばんの底でぶつかる/荻原裕幸

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January 07, 2010

2010年1月7日(木)

七日。午後、歌会の詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者は九人。題詠「正」と自由詠各一首を提出。今年は、大阪市の区の名前からの一文字、を題とすることにしている。いつもの通り、無記名で互いに選をして、作品の読解を中心に合評を進める。終了後、二次会なしで散会する。栄で所用を済ませてから帰宅。

東桜歌会がはじまった頃は、題の字をひねって入れるのが主流で、「正」ならば、たとえば「警視正」とか「正弦曲線」とか「正チャン帽」とか、意外性や作品化するのが難しいことばに組みこまれたものとして書くのが好まれていた。最近は、その頃と対照的に、題の字をあまりひねらずそのまま使うことが主流になった感がある。毎回十人前後の参加者で続けられている一つの歌会での現象に過ぎないのだが、現代短歌の趨勢と無縁のものではないような気がする。この十数年、短歌の世界で、逸脱よりも本筋、複雑よりも簡素、が求められる傾向が強まったことと、どこかでつながっているのではないだろうか。

きょうの一首。「正」の題詠として歌会に提出した一首。

 正しさがまた美しさでもある冬のひなたにかたく雑巾かわく/荻原裕幸

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January 06, 2010

2010年1月6日(水)

六日。きょうの荻原家は、互いの都合で自由行動の日。午後、近所の中華料理店で雑誌でも読みながらごはんを食べようと思ったら、週末まで正月休みだという。いまどきしっかり正月休みをとる飲食店があることに感動した。予定を変更して、その近くの喫茶店に入る。カウンター席に坐ると正面に鏡餅が据えられていた。おめでたい雰囲気のなか、鉄板にのったイタリアンスパゲティを食べる。

ふらんす堂のホームページで、岡井隆さんが、「岡井隆の短歌日記」の連載を元日からはじめている。あえて素直に企画に乗って、素朴に工夫を凝らしてゆくのは、かなり以前からの岡井隆の傾向で、それを作家的なこだわりの薄さと捉えている人もいるようなのだが、実際には、企画者/編集者とともに仕事をしている、という意識の強いあらわれではないかと思う。今回の「岡井隆の短歌日記」では、短歌日記の、日記というあたりに重点を置いているのがあきらかで、同種の自発的な連作ではなかなか徹しきれなかった日記的文体に徹することで、一週間目にしてすでに独特の空気を醸し出しているようだ。

きょうの一首。

 帰るひとと出かけるひとの顔つきを混ぜて始発の揺れてバス行く/荻原裕幸

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January 05, 2010

2010年1月5日(火)

五日。小寒。寒の入り。机に向かっていると足下がやたらに冷えるので、時々、オイルストーブを机の下に入れて、毛布で軽く覆いながら、やぐら炬燵にあたるように暖をとっている。午後、電力会社による電気メーターの交換工事があった。一時的に停電するため、ダメージが生じないよう、日頃はつけっぱなしにしてある家電の電源を落とす。自分のことながら、こんなにもつけっぱなしなのかと呆れる。

砂子屋書房のホームページのコラム「一首鑑賞*日々のクオリア」の執筆者が、新年から中津昌子さんと大松達知さんに交代したようだ。それぞれにタイプは大きく違うのだが、味のある散文を書く二人で、佳い人選だと思う。ところで、一首鑑賞というのは、作品や評論に比較すると、一段低く扱われることが多い。一首を精緻に読むことが重視されるなかで、鑑賞特有の「緩み」のようなものが嫌われているのかも知れない。たしかに、恣意が強く前面に出た鑑賞は、読んで快いものではないのだが、精緻に読むと言っても限界があり、その限界を超えるための「緩み」ならば、表現上のさまざまな試みの成果が、論理によって損ねられるのを防いでくれるだろう。価値観が「多数化」して、表現が「多様化」する現状では、一首鑑賞の担う役割が、かなり大きなものになっているのではないだろうか。

きょうの一首。

 割つてから剥くかすつかり剥いてから割るか真冬のひかりの林檎/荻原裕幸

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January 04, 2010

2010年1月4日(月)

四日。早朝はどうしようもなく寒い。全国的には、連日、真冬日かそれに近いエリアもあるようなので、比べてみれば名古屋の冬は温暖なのだろうが、寒いかどうかは住み慣れた場所以外基準にするものがない。午後、八事で所用をかたづける。早々と正月の明けた感じの人と正月にひたっている人とが、ざっと見て三七か四六程度の割で雑ざりあっているようだった。

 ビルの名を問ふたび少し考へて名付けの儀式のやうに答へる/田中槐

昨日に続き、第三歌集『サンボリ酢ム』(二〇〇九年)に収録された一首。問えば答える。答えればまた問う。オフィス街のよく見えるカフェかバーかレストランの窓際の席にいる男女のやりとりだと考えればいいだろうか。記憶を軽くリサーチしながらビルの名を言う感じが巧く出ているし、それが面白くてさらに次はと訊ねる一人称の様子も目に浮かぶようだ。行為としては少年少女的ながら、単純な知識ではなく、どこかでビジネスにも絡むビルの名であるところに、大人的なテイストが出ている。実話か虚構かわからないし、その後のこともわからないが、恋に発展する直前のなごやかでまぶしい空気が見えて来る。以下、同歌集から、他にも惹かれた作品を引用しておく。

 南から晴れる予報を聞きながらたぶんわたしの内側は雨/田中槐
 会ひにゆく。決めたとしても越えられぬものの喩としてそこに多摩川
 いろんな鼻があるなと見てゐると世界はすべて凹凸である
 そこにある変なかたちの壜なれば変なかたちに酢は蹲る
 スカートで自転車ぐんぐん漕ぎながら股間になにもなきことの幸(さち)

きょうの一首。

 わたしからわたしを剥がすやうにして煙草を買ひに出る冬の朝/荻原裕幸

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January 03, 2010

2010年1月3日(日)

三日。早朝は寒かったが、日中少しだけあたたかくなる。午後、家人が義母と義姉と出かける。初留守番。リビングで昼寝をしていて、右手を下敷きにしてしまう癖があるのだが、きょうも感覚が完全になくなった。右手を左手で触ると、両手それぞれに感覚があるときと違って、生きていないものに触っているような怖さがある。右手の感覚が戻るまで、ものすごくどきどきした。

 愛する人を受け入れるとき折り畳む部分(かすかに汗ばむ、香る)/田中槐

第三歌集『サンボリ酢ム』(二〇〇九年)に収録された一首。パーレンのなかを読むと身体の「部分」なのかと思われるし、意識的な折り畳みが可能なのは腕か脚か指ということになるのかも知れないが、どうも性愛の婉曲な表現には見えない。もしも身体的なものであるのならば、もっと明確に描写するのではないかとも思う。これはたぶん、精神的な領域に「愛する人を受け入れるとき」の感覚を、性愛のイメージに薄く重ねているということなのだろう。ならば「折り畳む」が、抽象的ながらも、他者を受容するときのあの感覚だなとよくわかる。折れるとも、圧されるとも違う、ぶつからないように積極的に折り畳む感じに、湿度や重量のややすっきりとした愛情のかたちが浮かびあがるようだ。

きょうの一首。

 晴れる三日まだ正月の来たことがぴんと来なくて雲に訊ねる/荻原裕幸

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January 02, 2010

2010年1月2日(土)

二日。のっけから寒い日が続く。午前、近所の神社に参拝した。神社に向かって大通りを折れると、むかしからの参道というわけでもなさそうなのだが、どこかしら昭和を思わせるような風景が少しあって、そのすぐ先に神社がある。きょうは珍しくタクシーで参拝に来ている人たちもいた。夜、義母の家で、義姉と家人と四人、鍋を囲みながら談笑。

ウェブの古典的な機能を一つにまとめるようなかたちでブログが登場して、個人的な情報発信はほとんど苦労なく賄えるだけの状況が続いている。従来スタイルの模索に多くの時間が費やされて来たことを考えれば、現在はコンテンツを充実したり蓄積したりするのに充ててしかるべき時期なのだろう。しかし、白紙を差し出されて、さあ次々に何かを書きなさい、何でも自由に、と言われても、はいそうですかと続けられるものではない。継続するためには、むしろ、何か少数の興味のあることに適度に縛られている状態が望ましいようだ。歌人の書くブログ、ということの困難は、短歌あるいは文芸をめぐっての興味が適度以上のものであって、その他をめぐる興味が適度であったとしても四方八方にひろがり過ぎる点にあるのかも知れない。短歌についていかに適度に書くか、その他について何を書かないようにするか、そんな奇妙なことを考えながら書き続けている次第である。

きょうの一首。

 曇る二日ツイッターにてあのひとが何をしてゐるかを確かめる/荻原裕幸

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January 01, 2010

2010年1月1日(金)

元日。早朝は氷点下の寒さで、日中の最高気温は四度だったという。名古屋的には冬の底にいる感じ。昨夜から積もった雪がゆっくり消えてゆくのを、窓からときどき眺めていた。きょうから二〇一〇年。このところ毎年感じているのは、少年時代に読んだ近未来小説のような年号だということ。小説的予測と現実とはずいぶん違うが、それでも電化製品の一部などは小説さながらの進歩を遂げている。

 「そうだ、こんど二人で映画でも見に行かねぇか?」
 「ありがとう。でも、ほんとうに見たい映画は一人で見に行くことにしてるから」
 「じゃあ、それほど見たくない映画は?」
 「見ないわ」

アニメ「攻殻機動隊」某話に出て来る、バトーと草薙素子の会話をディクテーションしてみた。この後、バトーが苦笑しながら「なるほど」と言うところでこの話は終るのだが、たしかに、なるほど、と言いたくなる。上映中一言も口をきかないのにわざわざ誰かと一緒に見たり、それほど見たくもない映画を見に行ったりするのは、映画鑑賞としては邪道、と言うか、冒涜なのかも知れない。何とも耳の痛い科白だ。それにしても、物語の主題から大きく逸れたこの種の添え物的会話は、しばしばその作品のクオリティを不思議なほど反映していて興味深い。

きょうの一首。

 雪の元日わたしは誰と過ごしたかと言ふか誰として過ごしたか/荻原裕幸

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謹賀新年

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
みなさんがあかるく一年を過ごせますように。
ブログの更新日は日記上の日付とは異なります。
日記スタイルで書いたまましばらく放置して、
読み直してから記事にしているためです。
平均して七日ほどずれが生じています。
またコメントにコメントができていませんが、
それぞれ必ず読ませていただいています。
あたたかいご支援に感謝しております。

西暦二〇一〇年元日

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