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February 06, 2010

2010年2月6日(土)

上京。神楽坂の日本出版クラブ会館へ。黒瀬珂瀾さんの第二歌集『空庭』の批評会にパネラーとして出演する。早朝からの雪で新幹線が三十五分遅れた。のんびりと行くつもりで、昨夜、集合の時刻よりもかなり早く到着する列車を予約していたので、事無きを得る。出演者は、水無田気流さん、永井祐さん、田中槐さん(司会)、黒瀬珂瀾さん(著者)、荻原の五人。出席者は百三十人を超えていたらしい。あり得ないような人数になったのは、黒瀬さんの人気と人望と人脈とによるものだと思うが、加えて、短歌の状況が見えづらいという歌人たちの不安もどこかで作用しているのかも知れない。会のレポートは明日以降にすることとして、きょうはとりあえず、会で配布した自分の資料の全文を掲載しておく。各項目の文末が読点になっているが、これはミスタイプというわけではない。

黒瀬珂瀾歌集『空庭』を語り合う会・資料
二〇一〇年二月六日 荻原裕幸

1)固有名詞が多過ぎやしないだろうか? 短歌の作品中に固有名詞が多いこと自体は別に問題ではない。一九八〇年代には、社会的/同時代的な固有名詞は、むしろ理解を共有するために用いられていた。ただ、特に1、2、3、の各章には、自分程度の知識だと、調べることを強要されるレベルの固有名詞が頻出する。紙メディアの辞書や事典では対応し切れないものもあって、最終手段としてウィキペディアを活用したりもした。多方向的な志向とネット/ウィキペディア等の連動に、秘かなテーマがあるのだとすれば面白いが、「インテリ」と「オタク」を足して二でも割らないような言語空間に、まず茫然とする読者がいることは作者の想定内の事態なのだろうか。だとすれば、

2)定型は十全に活用されているか? 連作的な構成が多いのは、現代短歌の常識の範疇なので、特に問題にすることではない。ただし、構成を補助するために、一首の単位で作品のクオリティが犠牲にされているのではないかといった問題はいまも生きている。たとえば、最新の作品を収録したという5の章に「夜の底に開くみづうみ夜の底へ雪のひとひら沈めてしづか」という作品がある。「黒瀬珂瀾らしさ」が感じられない作品で、しかしながら、この稀薄とも言うべきモチーフを短歌の定型のなかで巧みに活かしている。他の多くの「黒瀬珂瀾らしさ」を有する作品の、情報過多とも言える表現は、定型を十全にないしはそれに近いところで活用できているのだろうか。定型の十全な活用=表現形式が短歌であることの必然性の証左であるならば、

3)主要作/代表作はどれなのだろう? 黒瀬珂瀾はつねに「佳い作品」「面白い作品」を書いている、と思う。だが、主要作とか代表作を問われると、少し答えに困るところがある。これを代表作だと言うとあまりに「右翼」っぽく見えるし、これを主要作だと言うとあまりに「オタク」っぽく見える、という具合に。前述の連作と一首の問題にもかかわるが、方向性を限定して捉えようとすると、途端に「黒瀬珂瀾」の姿が見えなくなる。この語り合う会で、参加者が好きな作品の類をあげてゆくとしたら、重複するものが出るのかどうか興味深いところだが、いずれにせよ「黒瀬珂瀾」の「私」はどこにいるのか、という問題は、歌人の読者に共通する疑問なのではないだろうか。多方向的な志向が、一人称単数の「私」を、何か別種の存在としてたちあげているのであれば、

きょうの一首。深夜の某駅の周辺で。東京について語ると、地方の人間はわけもなく上から目線になるものらしい。

 東京の春にも猫が棲んでゐて名古屋のやうににぎやかである/荻原裕幸

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