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March 31, 2010

2010年3月31日(水)

きのうきょうと寒い日が続いて、桜がさらにのんびりとした感じになったか。山崎川の周辺はようやく五分咲きといったところで、朝、川辺の道を歩いていると、ふだん通りの散歩の人がほとんどだが、なかにはカメラを持った、あきらかに花見に来ている人も混ざっていた。この分だと、各学校の入学式の頃に、満開を少し過ぎた、散りはじめの、いちばんきれいな風景になりそうである。

 節電のため間引かれし天井の電球の穴を見つつ歩めり/大島史洋

第十歌集『センサーの影』(二〇〇九年)に収録された一首。二〇〇三年の作品。具体的にどこを歩いているのか、明示されてはいないが、折からの不況で経費を節減しようとするオフィスビルか。「間引かれし」とか「歩めり」という表現から連想される空間はかなり広いもので、ところどころ照明がなくて、暗がりのできた長い廊下を進んでゆく様子が目に浮かぶ。語順が示唆する感じからすると、電球が抜いてあるのをたまたま見かけたのではなく、別所で繰り返し聞く経費節減の話があらかじめ意識にあって、いくつもできた「電球の穴」を見ながら、事態をしみじみと認識しているところなのだろう。それ以上は記されていないものの、この「電球の穴」は、十全に維持するには大きくなり過ぎた企業の図体を連想させて、オフィスの空席=リストラの印象をも呼び寄せる。脅えもせず、開きなおりもせず、事態を直視しながら淡々と現実を歩み続ける一人の姿がもの悲しげである。

きょうの一首。

 桜を逸れて行くカフェテラス口数の少ない椅子を択んで坐る/荻原裕幸

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March 30, 2010

2010年3月30日(火)

先の冬季五輪のあと、フィギュアスケートの浅田真央選手は、もしキム・ヨナ選手が引退しても、得点は残るので、その記録を塗り替えられるようにがんばりたい、と今後の目標を語っていた。相対的に世界一になるのではなく、絶対的な世界一になりたいというのは、日本のメディアでさえもがときどき、二人を比較するとキム選手の方が上である的な評価をするせいなのかも知れない。それにしても、頂点に立つことに対するもの凄い執念だと思う。

昨日の続き。菊池裕さんはくだんの短歌時評「好きな歌と秀歌」で、一番好きな歌として「日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫」を挙げたパネリストの永井祐さんと、秀歌を一首選ぶとすれば「朝に飲む東京の水臭ふとき悲しみは噴きいづる蜻蛉」であると会場から発言した加藤治郎さんについて、「少なくとも加藤と永井の短歌観は、断絶している」と述べている。秀歌をめぐる認識の共有がないことを、現代短歌の「かなり大事な懸案事項である」とも言う。これはたしかにその通りだと思う。しかしまあ、短歌観が個々でばらばらというのは、言わばデフォルトの状態ということだろう。短歌観と短歌観との懸隔をどのようにつなげてゆくか、あるいは他者の短歌観にどこで見切りをつけるか、難題ではあるのだが、答を探りあてることを急務(=かなり大事な懸案事項)と捉えるばかりではなく、探りあてるプロセス自体を楽しむことが大切かも知れない、と、近頃の自分はそんなことを感じはじめているのだった。

きょうの一首。きのうのきょうの一首の同工異曲。

 もしや妻は気体なのかとなんとなく感じるのだが三月も尽く/荻原裕幸

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March 29, 2010

2010年3月29日(月)

携帯用の音楽プレーヤーを使わないので、音楽を聴く時間はきわめて少ない。そのなかで、自分がどんな曲を聴いているのか、ざっと調べてみると、この数年では、日本のカバー曲とアニソンにかなり偏っていた。カバー曲を聴きたくなるのは、あきらかに若くなくなっている証左のようにも思う。ではアニソンは何なのか。たとえば、石川智晶とか、自分の内面が外側のどこかにつながってゆくような感じ、どこかよくわからない場所に連れてゆかれる感じが楽しいのだが。

結社誌「短歌」3月号、菊池裕さんの短歌時評「好きな歌と秀歌」で、先月の黒瀬珂瀾さんの第二歌集『空庭』の批評会について所感がまとめられていたのを読む。そのなかで、批評会での荻原の発言の一つ、固有名詞が多過ぎやしないだろうか? をめぐって、「穿った見方で恐縮だが(中略)塚本邦雄的なるものの全否定である。塚本の弟子である荻原は、調べなきゃ解らない言葉が嫌いなわけではなく塚本の亜流を嫌悪するのだ」と述べている。全否定とか嫌悪とか、そこまでの自覚はないのだが、あるいは何かそう感じられる雰囲気があったのだろうか。そのあたりについては、批評会のあとにこのブログで少し補足した通りである。さらに加えて補足すれば、黒瀬さんが、歌集『空庭』を通して現在の「リアル」を求めながらも、この固有名詞の氾濫をあきらかに意図的に展開したことで、むしろそれを壊してしまっているところがあるような気がしたのだ。もしかすると、以前、塚本邦雄の或る一首をめぐって書いた文章「読む位置の問題」が、何か参考になるかも知れないと思うので、別掲してタイトルからリンクしておく。しくみについて考察した文章で、方向性を示唆するようなものは何もないのだが。

きょうの一首。「消えて」はやや過剰な表現のような気もするが、三十一音で川柳的な文体を試してみようとして出て来たものなので、これはこのままに。

 換気扇を回すとむしろどこからか朧が満ちてあなたが消えて/荻原裕幸

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March 28, 2010

2010年3月28日(日)

近隣の携帯電話ショップが閉店して、テナントが空いたままだった場所で、いつからか店内の改装をはじめていたので、コンビニか喫茶店があの位置にできてくれるとありがたいのだがとか勝手なことを思っていたら、先日、デイサービスに関連したサインが出ていた。考えてみれば、近隣で、派手に宣伝せず、完成の間近まで正体のわからない施設は、ほとんどが介護か医療の関連だった。

 ユートピアとは〈ない場所〉のことさ。皮肉
 っぽく そう語る人がいてもいい。希望など
 いらないさ とうそぶく人がいてもいい。

 〈ある場所〉だけで 世界ができているのな
 ら きのうは あしたから消え あしたもこ
 こから消え去るだろう。みえるものしか知ら
 ない世界は 時の枯れた廃園のようだ。/柴田三吉

詩集『非、あるいは』(二〇〇九年)に収録された「こだま」の前半部分。平易なことばで綴られたエピグラム風な文体というのは、一見誰にでも書けそうなのだが、かなりかたちにしづらいスタイルではないかと思う。ものごとの真正面から正確に突き抜けてゆくように書かないと、一知半解の痛々しいフレーズを生み出しかねないからだ。これはもちろん成功例。ある/ないをめぐる煩雑なはずの理屈が、するすると読む側の意識に届いて来る。

きょうの一首。

 あるべきものがなく過ぎてゆく三月の雲の軽さががまんできない/荻原裕幸

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March 27, 2010

2010年3月27日(土)

早朝、ものすごく寒かった。最低気温は1度だったという。名古屋的には真冬の寒さである。桜の見頃はこれでまた少し先になるのか。最近気づいたのだが、マンションの真下の住人とその真下の住人が揃って朝日新聞をとっている。荻原家をあわせて縦に三軒。名古屋市内での同紙のシェア(たしか一割をちょっと下回っている)からすると、かなりレアな状況かと思われる。

 なくしたことには気づいたが
 どこで だったのか 思いだせなかった
 いつ だったかも

 なにかを失ったのだが
 なにを失ったのか
 わからなかった

 あ、と
 小さく声が出たような気はする/草野信子

届いたばかりの季刊詩誌「ジャンクション」74号に掲載された小品三篇「日傘 詩集など」のなかの一篇。いずれも失ったものをモチーフにした作品で、この一篇の題は「その他」。他の二篇も佳品だが、この「その他」の、具体性がないこと自体が一つの具体性であるというパラドックスに惹かれた。「ジャンクション」は、草野信子さんと柴田三吉さんの二人誌で、新書サイズで本文16頁、シンプルを旨とした爽やかな体裁で、リトルマガジンの名にふさわしい愛すべき雑誌である。

きょうの一首。先日のこと。

 ひと違ひされてひととき諏訪くんとして麗らかなひざしの中に/荻原裕幸

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March 26, 2010

2010年3月26日(金)

早朝、数日ぶりに洗濯日和となったので洗濯をする。午後、通りすがりにちらっと見たところ、山崎川周辺の桜が三分咲きになっていた。名古屋では十八日に開花したと聞いてはいるが、気温はさっぱり上がらないし、見頃はまだまだ先になるのだろうと思っていた。月末あたりには満開になるのだろうか。開花の速度がよくわからない年なので、うっかりすると見過ごしてしまいそうだ。

きょうの朝日新聞の夕刊、ナゴヤカルチャー欄に、現代川柳をめぐって、なかはられいこさんとの対談を中心とした記事が掲載された。取材、執筆、構成は、伊佐恭子記者。なかはらさんが、この四月から、東海三県を対象とした紙面の川柳欄の選者となることもあって、社会面ではなく文化面から見た川柳の取材が進むなか、表現者の意見をはっきり載せておきたいというオファーがあり、対談のスタイルになった。掲載されたのは対談のほんの一部だが、文芸の一ジャンルとして現代の川柳があるということが伝わる紙面になったのではないかと思う。ちなみに、記事には、破顔一笑という感じで対談者の写真も載っている。いかにも新聞的な演出ではあるが、どこかもう少しかしこまった表情の写真でもよかったのでは、と苦笑しながら眺めていた。

きょうの一首。

 転生ができるのならばと水草などおもふ俺けふ疲れてゐるな/荻原裕幸

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March 25, 2010

2010年3月25日(木)

午後、雨がやんで曇天がつづく。本棚の事情で現在は手元にないが、ほんの数年前まで、平凡社世界大百科事典の旧版を愛用していた。たしか一九七二年の版。情報はすでに古びていた。文芸関連の項目を敬愛する作家たちが執筆していて、ほとんどそれを読むためだけに手元に置いていたのだ。普及した版だったのか、いまでも時折テレビ映像の室内用の小物として使われる。つい先日も、某情報番組の再現映像の背景の本棚にあるのに気づいて、懐かしくてそこばかりを眺めていた。

 紫陽花の藍のなかなる襤褸(らんる)かな/岩田真光

昨日に続き、第一句集『芍薬言語』(一九八七年)に収録された一句。石田波郷「朝顔の紺の彼方の月日かな」を連想した。モチーフが接近しているのではなく、老成した俳句の型に向かう感触が似た雰囲気をもたらすのだろう。朝顔の句が、人生という観点を挿んで、情感的な何かをひきだしているのに対して、この紫陽花の句は、小さな花の集まって咲く様子を、継ぎ接ぎだらけの襤褸のようだと言うのである。もう少し踏みこめそうなのに、観察を通してその奥を見ることもなく、あえて見たままを記述しようとしているらしい。俳句として文体を調えてゆく意識とモチーフをまとめようとする意識とが別々に働いている、と言うか、二つを別々に働かせているようである。定型詩を読み慣れて来ると、まず型によって直感的な理解が生じて、その後、遅れてやって来る意味が理解を肉づけしてくれることがしばしばあると思う。岩田の句ではほとんどそれが生じない。むしろ、型による直感的な理解が、遅れてやって来る意味によってふりだしに戻されてしまうのだ。昨日の「北極」の句も同じで、この型と意味との齟齬には、俳句が俳句ではないものを求めて、迷宮をさまよっているような感じがある。それを不毛と見るか美しいと見るか、判断に迷うところだ。

きょうの一首。

 もはや揺らがぬ心算だつたがこの夜を椿が幾つも幾つも落ちて/荻原裕幸

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March 24, 2010

2010年3月24日(水)

雨。ずいぶん冷えこんだ。一昨日昨日と無理なスケジュールを詰めこんだせいか、終日睡魔に襲われながら過ごす。仮眠もとらずに丸々二日連続して起きているのは、四十代になってからすることではないなとしみじみ思う。大相撲春場所、全勝同士の対決で、白鵬が把瑠都を破る。千秋楽までとっておきたかったような一番だが、番付の関係上そういうわけにもいかないのが残念。

 開封後は北極に保存して下さい/岩田真光

第一句集『芍薬言語』(一九八七年)に収録された一句。開封されたものが何なのかはわからない。それにしても「北極」とは、極端な場所を指定したものである。食品であれば、冷暗所に保存して下さい、といった注意書きをよく見かける。それらしい感じにするならば、と言うか、自分がこのアイデアの上で一句をまとめるなら、たぶん「かまくら」とか、そんな場所を指定すると思う。しかし、この作者は中途半端では満足しない。すべてを突き抜けて「北極」と指定するのだ。文脈の紛れるところは一つもないのに、このメッセージはかぎりなく無の感触に近づいている。俳句的につながることのできる、現実の側の文脈が見あたらないからだろう。わからないところの多い句だが、俳句が、従来の俳句を超えて何か別のものに変質しようとするプロセスで放出する、冷たい熱のようなものだけははっきりと伝わって来る。

きょうの一首。時々その距離を確認する。

 歯ブラシ二本とタオル一枚如才ない感じの距離か妻との距離は/荻原裕幸

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March 23, 2010

2010年3月23日(火)

天気が崩れる。小雨が降ったり曇ったり。午後、新栄の東生涯学習センターへ。ねじまき句会の例会。参加者八人。きょうは特例でゲストが二人参加した。題詠「他」と雑詠、各一句を提出。いつものように無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。終了後、別件があって、メンバーとお茶をする間もなく、ばたばたと移動する。句会に提出した川柳は以下の二句。

 その他に除霊もできる換気扇/荻原裕幸
 本物の冷蔵庫かと冷えてみる

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、一九八〇年代の「歌人集団・中の会」の話題を枕に、斎藤すみ子さんの『現代短歌文庫・斎藤すみ子歌集』(砂子屋書房)、宇佐美魚目さんの第七句集『松下童子』(本阿弥書店)をとりあげた。四百字で四枚半ほど。「中の会」のことについては、すでに何回目になるかわからなくなるほど何回も語っているが、これはたぶん、機が熟したら、あらためて、あのレベルの熱気のある場をつくりあげてみたい、という願望のあらわれだと思う。

きょうの一首。

 少年ジャンプの発売日が何曜日かをいつからか忘れて春をゆく/荻原裕幸

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March 22, 2010

2010年3月22日(月)

振替休日。休日なのでどうかなとか思いながら見てみると、万来舎のサイトの、江田浩司さんの短歌時評テイストの連載評論が、早々と更新されていた。今回は、青磁社の「週刊時評」で、先週の月曜、川本千栄さんに、江田さんの文章の難解さを批判された件。二つの文章を読んで、何かが噛みあってないような気もするのだが、ここから先に展開ができるものなのかどうか、気になるところである。

時評と言えば、純響社のウェブサイトで、西巻真さんが短歌時評の連載をはじめていた。16日付「この時評、「ちゃんとしてる」?」で、執筆者自身が述べていたように、「これだけ時評ブームなのに、また短歌時評?」という感が無きにしも非ずではあるが、西巻さんは、そうしたフレームの問題をきちんと乗り超えて何かをやってくれるだろうと大いに期待している。ネットをめぐって、さらにもう一つ。風間祥さんが、ブログ「銀河最終便」の22日付のエントリで、このブログの13日付と5日付のきょうの一首について、鑑賞風な文章を書いてくれているのを読んだ。最近の自分のシンプルな文体への志向に対して、「この方向は、いいな、と思う」といった感想も添えられていて、安らかな気分になれた。深謝。

きょうの一首。

 つぎミクシィつぎツイッターつぎつぎに可憐な闇がわたしを覆ふ/荻原裕幸

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March 21, 2010

2010年3月21日(日)

春分の日。午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。家にいて何も気づかずにいたが、全国的に黄砂がひどかったらしい。黄砂については、視界が悪くなったり、物が汚れたりする他に、大気汚染物質の付着の可能性が言われているが、環境省の実態解明調査の中間報告で、曖昧な結論しか出されていないのがむしろ気にかかる。何か薄気味悪いものに思われてならない。

ウェブマガジン「俳句空間 豈weekly」第83号、冨田拓也さんの「七曜俳句クロニクル」に、岩田真光さんの第一句集『芍薬言語』(一九八七年)をめぐっての言及があり、個人的にタイムリーな感じで読んだ。と言うのは、数日前からこの句集を再読していたからだ。冨田さんは、ライトヴァース(とは、文体の軽さを通して、俳句の軽みなども含んだジャンルの既存の価値観から脱却しようとするスタイル、と理解しておけばいいだろうか)の観点から『芍薬言語』の文体を批判的に分析している。句集に対する批判と言うより、そもそも俳句にライトヴァースはなじまないのではないかといった論調である。『芍薬言語』の個々の句の評価とは別に、自分もこのあたりのことに関して、以前からよく似たことを感じている。十七音の定型の場合、俳句から見たライトヴァース的なポジションに、あらかじめ川柳が存在していて、俳句がライトヴァースに向かうとき、無意識にそこを迂回して着地点を見失うか、一部の川柳とのボーダーレスな状態になってしまうか、結果的にそのどちらかになっているように思われるのだ。必然的にそうなるわけでもないはずだが、結果としてはそうだと言わざるを得ないのではないだろうか。句集『芍薬言語』については、後日またあらためて。

きょうの一首。

 そもそも人のあらかたは曲線だけどいかにも春たけなはの曲線/荻原裕幸

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March 20, 2010

2010年3月20日(土)

地下鉄サリン事件の日。十五年が過ぎた。こうして淡々と時間をカウントする以上のことは何もできないが、忘れない、ということは、それなりに積極的な行為であるのだと考えたい。午後、ぽかぽかとした春らしい日和で、どこかに遠出がしたいなと思いながらも、疲労とか睡眠不足とか、不要なものがたまっているせいか、すべきことにもなかなか集中できず、うつらうつらとしていた。

日本経済新聞の20日付の夕刊のコラム「耳を澄ましてあの歌この句」で、大辻隆弘さんが、第二歌集『甘藍派宣言』(一九九〇年)の「ここに立つ樹が木蓮といふことをまた一年は忘れるだらう」を、自身の情感あふれるエッセイに添えて紹介してくれた。感謝。できるかぎりありふれた言葉で、けれど、ありふれた表現にはならないように、という現在の志向は、すでにこの一首のあたりに兆しがあるか。初出はたしか本阿弥書店「歌壇」だった。考えてみれば、大辻さんと、歌会などで、かなり烈しく意見の衝突していた時期の作品である。はっきりとした自覚はないが、彼の意見の影響を大きく受けた作品だったのかも知れない。

きょうの一首。

 とんでもないものがいくつか落ちてゐて緩きひかりの三月の径/荻原裕幸

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March 19, 2010

2010年3月19日(金)

寒いような、そうでもないような、あまりはっきりしない気候だった。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者14人、詠草14首。題は「役」。地下鉄駅の市役所から一字を貰った。この題は、比較的まとめやすかったようである。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。

 鯨見に補陀落船も寄りぬべし/攝津幸彦

昨日に続き、第七句集『鹿々集』(一九九六年)に収録された一句。補陀落船もたぶん捕鯨のあの凄まじさを見るために立ち寄るに違いない、とは! 眼前で見たものごとを描いているわけではない。ただ、捕鯨と言えば太地であり、補陀落渡海と言えば那智勝浦であるから、紀伊半島を旅しながら、あれやこれやと思いを馳せている感触はある。鯨も補陀落船も、何らかの緊張感をひきだすモチーフではあるが、一句を貫くのは、どこか壮大な冗談めいた感じ、ユーモラスな感じであって、澁澤龍彦がどこかにこんなエピソードを書いていなかったかなとか思ってしまった。現在の俳句にはあまり見られない、スケールの大きさを感じる一句である。

きょうの一首。講座で「役」の題の作例として見せた一首。

 夫の義務とは夫の役をそこそこに演じることだと椿がわらふ/荻原裕幸

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March 18, 2010

2010年3月18日(木)

曇ったり小雨が降ったり。午後、外に出るとかなり肌寒かった。近所の公設市場の鶏肉店でいつもの弁当を買う。きょうは味噌汁とポテトサラダと刻みキャベツをおまけにもらった。国土交通省が今年の元日時点での公示地価を発表した。上昇地点は調査した二万七千箇所のうちの七箇所。そのうちの五箇所が名古屋市緑区。地下鉄延伸計画が理由だという。理解はできるが不思議な感じもする。

 叩かれて川になりきる春の水/攝津幸彦

第七句集『鹿々集』(一九九六年)に収録された一句。「春の水」のような熟した季語/季題には、特に何と言うものを付加しなくても、それなりの一句がまとまろうかと思われる。なのに、あえて余分なものを付加して、わざわざ台無しにしてしまうのが、いかにも攝津幸彦流である。「叩かれて川になりきる」は、何通りかに読めそうだが、さしあたり、芸をすることを暴力的に仕向けられた春の水が、はいはいわかりましたよ川になればいいんですね、とばかりに、川になりきった、そんな滑稽で哀愁のある感じを眼前の風景のなかに見ているのだと理解しておけばいいだろうか。俳句史からすれば破壊的な表現には違いないが、どこかこころのあたたまるところがあるように感じられる。

きょうの一首。近隣の雪柳を見て。

 溶接する白い火花の光跡に見えるかしらと揺れるゆきやなぎ/荻原裕幸

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March 17, 2010

2010年3月17日(水)

好天だったけれど少し冷えた一日。日々の「きょうの一首」が、トータルでどれほどになっているのか、しばらくカウントしていなかった。八百日/八百首を少し超えたところだった。ただの惰性で書くようになったらやめよう、というきもちに変化はないのだが、あと半年ほどで千日/千首となる計算なので、少なくともそれまでは、弱音を吐かず、何とか続けたいものである。

羽生善治王将と久保利明棋王との第59期王将戦七番勝負第六局。神奈川県秦野市鶴巻北陣屋での二日制の対局は、後手番の久保のゴキゲン中飛車から超急戦の展開になる苛烈で難解な一局だった。勝機はどちらにもあったようだが、詰む詰まずの読みが正確だった久保が勝って四勝二敗、王将のタイトルを奪取した。羽生名人は三冠に後退、久保新王将は二冠となる。振飛車党で「捌きのアーティスト」などとも呼ばれる久保二冠だが、棋風が極端に偏っていてわかりやすい棋士がここまで台頭するのはきわめて珍しい、と言うか、はじめてのことかも知れない。

きょうの一首。きのうのきょうの一首の同工異曲だが、もう少し試して、すぐに劣化してゆくものかどうか、観察してみることする。

 もう限界とか口にするのはまだ少し余裕があるからよと菫咲く/荻原裕幸

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March 16, 2010

2010年3月16日(火)

グーグルのストリートビューの使用可能エリアが徐々に拡大している。ただ、まだ一度も実用したことがない。もっぱら虚用で眺めるのみである。ネットで言われる社会的な問題の有無について、自宅がそこに写っていれば、あるいは見えて来るものもあるのだろうかと思って、名古屋の地図をたどってみたが、自宅もその周辺もエリア外だった。どうやらここは、さほど重要な場所ではないらしい。

 あによめは濡縁に棲む月の暈/仁平勝

昨日に続き、第二句集『東京物語』(一九九三年)に収録された一句。「棲む」というのは、いつも見てもそこにいる、といった感じか。かなり大袈裟な言い回しではあるが、かつての大家族の雰囲気が巧くとらえられていると思う。幸福な結婚であっても、血縁の者が誰もいない家で家族として暮らす以上、多かれ少なかれ孤独感や孤立感を抱くことにはなろう。濡縁で一人、何をするでもない風に時間を過ごすことの多い兄嫁の内面と、暈のかかった月の印象とが、なめらかに重なっている。きわめて通俗的な読解になるが、兄嫁の存在を気にかけている感じから、視点の主が、恋だとは気づかないまま恋をしている/していたのだと読んでおきたい。

きょうの一首。

 身なりはつねに何かを左右するんだと雲雀囀るわかつてはゐる/荻原裕幸

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March 15, 2010

2010年3月15日(月)

鳩山邦夫氏が自民党を離党するというニュース。一人の動きで何がどうなるものでもないのだろうが、自民党がここまで揺れ動くようでは、日本に二大政党制が定着するのは、まだまだ先の話なのかも知れない。昨夜、F1開幕戦となるバーレーンGPの決勝。フェラーリに移籍したフェルナンド・アロンソが優勝。メルセデスで復帰したミハエル・シューマッハは6位という結果だった。

 梅と坊主匂うべからず警視庁/仁平勝

第二句集『東京物語』(一九九三年)に収録された一句。匂ってなんぼの梅の花に対して、匂うべからずも何もないもんだと思う。それに、僧侶に対して、匂う(=生臭い状態である)べからずなどと言うこと自体が失礼というものである。しかも、そんなノンセンスで無体なことを言うのが「警視庁」だとは、二重三重に皮肉がきいている。一般市民が日頃からいかにノンセンスや無体を強制されているかを誇張してみせたということだろう。シニシズム的だなあと笑いながら、花の盛りの梅園の前に、こんな看板が立っているところを想像してみた。そんなものあるわけがないとわかってはいるのに、なんとなくありそうな気がするのが不思議だ。ちなみに、この句を含んだ章のタイトルは「格言集」という。

きょうの一首。

 ジーンズで林檎を拭いて齧りつきさうな感じでしかも僧侶で/荻原裕幸

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March 14, 2010

2010年3月14日(日)

好天。午後、ヘリコプターの音が執拗にひびく。何か事件があると、ときどきこんな風に聞こえることもあって、心配していたところ、きょうは名古屋国際女子マラソンの開催日だった。スタートとゴールに使われる陸上競技場が、自宅から比較的近くなので、その関連のヘリコプターだったのだろう。大相撲春場所の初日。一人横綱の状態は、やはりやや盛り上がりに欠けるような気がした。

「NHK短歌」4月号が届いた。馬場あき子さん選の巻頭秀歌として、第五歌集『永遠青天症』(二〇〇一年)の「この世へとめざめる朝の不思議あり躰ひねつてベルを静める」が掲載された。馬場さんによる「歌意」も併載されている。感謝。夢がどこかにつながっているという話を聞いて、だったらどうしてこちら側にだけ目覚めるのだろうかと感じたのが、この一首を書いたきっかけだったか。ちなみに「死んだように眠る、という特典は何歳ごろまで許されていただろう」という、馬場さんの書き出しのフレーズには、十分に睡眠をとることがゆるされない日々がにじんでいるような気がして、歌意云々とはまた別の共鳴感もあった。

きょうの一首。友人のことを想いながら。

 画家の娘を知つてはゐるが父が画家であるとはどんな朧月夜か/荻原裕幸

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March 13, 2010

2010年3月13日(土)

三月に入ってから、晴れたり曇ったり雨が降ったりのサイクルが短くてなんだか落ち着かない。きょうも天気は崩れ気味である。先日、地下鉄で、降りて行った人が座席に忘れた傘を見つけた瞬間に扉が閉まった。五秒ほど前に気づいていれば、伝えることもできたのになあと思いながら傘主の後ろ姿を扉越しに見送る。その時分まだ雨は烈しく降っていたはずで、気の毒なことをしてしまった。

 澎湃と降り出す雨に目が覚めぬ川の字に寝(い)ぬるその左側/さいかち真

昨日に続き、第二歌集『裸の日曜日』(二〇〇二年)に収録された一首。早朝のすでに明るい時刻だったのか、昼寝だったのか、盛んな雨音に目覚めて、親子三人で川の字になって寝るという、絵に描いたような姿にあらためて気づいた一人称が、父として何らかの感慨にひたっているようだ。三人の寝姿に気づいたのは、厚い布団を要さない季節だからか。連作の流れからすると、夏休みの終りらしい。一人称が寝ていたのは、仰向けになっての右側だと思う。それが、川の字のかたちを意識すると、俯瞰した視点から見た「左側」になる。右側と真ん中の長短の真っ直ぐで相似するラインが母/妻とこどもで、左側のカーブを含むラインが父/私。「左側」とあえて強調したのは、父/私のラインだけが微妙に違うところに、情感の生じる要因があったからだろう。素朴な嘱目詠だが、手放しではない微妙な幸福感の表現がひかる一首だ。

きょうの一首。

 再び明るい時代は来るか無理なのか牛乳を噛んで飲む春の朝/荻原裕幸

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March 12, 2010

2010年3月12日(金)

数日前、佐渡市の佐渡トキ保護センターで、秋の放鳥のための訓練をうけていたケージ内の鴇九羽が死んだという。なんでもケージ内に侵入した貂に襲われたらしい。数年前にも鼬がケージ内に侵入した事件があったようで、たぶん防御してもどこかに入口を見つけられてしまうのだろう。貂や鼬に言い聞かせるわけにもいかないし、自然と同じ環境を人の手で完全に管理しようとするのが無理なのかも。

 声高に男のことを話すらしき女子高生はみんな死刑だ/さいかち真

第二歌集『裸の日曜日』(二〇〇二年)に収録された一首。過激なことを主張しているように読めるが、みんな死刑だ、には、殺したい、とか、死ねばいい、という希求からはかなりかけ離れたものがあるように感じた。おそらく、ゆるせない、を誇張したレベルのことなのだろう。大きな声で男性の話をするのがゆるせないのは、女子高生に対してそうあって欲しい理想をどこか外れているからか。女子高生がどうあるべきかはともかくとして、個人的な理想から来る不満を、酔漢風な口調で書いているのは、拒否反応も想定しての意図的なもののようだ。風潮になかなか同化しない頭のかたい大人をキャラクターとして描きながら、そこに所見を折りこんでゆくのが狙いならば、実に巧く狙いは果たされていると思う。

きょうの一首。

 雲がくれしようにも雲ひとつない辛夷の浮かぶ深きひろがり/荻原裕幸

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March 11, 2010

2010年3月11日(木)

晴天。朝はかなり冷えていた。昨日と今日と、羽生善治王将と久保利明棋王との第59期王将戦七番勝負第五局。羽生王将が勝って二勝三敗とした。和歌山県西牟婁郡白浜町コガノイベイホテルでの二日制の対局。本局は先手番の久保が三間飛車からひたすら攻勢に構える。難解な展開だったが、久保が攻めあぐねたところで、わかりやすい寄せを続けた羽生に形勢が傾いたようだ。

 一杯のつめたい水がおりるときからだのなかに芍薬ひらく/都築直子

昨日に続き、第一歌集『青層圏』(二〇〇六年)に収録された一首。歌集の配列から察するに、ムエタイか何かその種のジムで汗を流したあとの水分補給の様子か。背景とのつながりを一首の内側から明確にしていないため、修辞だけがふくらんでモチーフが現実的な時間や空間のなかに所を得ない嫌いもあるのだが、芍薬という季節的な素材が巧くそれを救っていると感じた。(作中での)いま、あたりに芍薬がひらくように、わたしのからだのなかにも芍薬がひらく、と読めば、なぜ芍薬なのかという理由も同時に見えて来る。「ひらく芍薬」と体言止めでかたちを過剰に整えなかったことも効果的だったか。実感的でかつ美しくまとまった一首。

きょうの一首。ケーブルテレビの影響か、近隣では減少しつつある。

 TVアンテナ廃れてゆけば街の屋根つるんと何かのための空席/荻原裕幸

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March 10, 2010

2010年3月10日(水)

名古屋の天候は回復。ただ、全国的には、きのうからきょうにかけてかなりの荒れ模様だったようで、鶴岡八幡宮では、かの大銀杏が強風で倒壊したという。源実朝暗殺のときに公暁が身をひそめたというのが史実かどうかはともかく、現地で実際に大銀杏を見たときは、史実かどうかを特に問う必要がないと思われるほどリアルに存在しているのを感じた。残念な話だ。

 羽ばたきを止めよとわれにいふやうにプールの壁が近づいてくる/都築直子

第一歌集『青層圏』(二〇〇六年)に収録された一首。羽ばたき、というのは、バタフライか何か腕を大きく動かす泳法のことだろう。まだ泳ぐ気満々なのに、プールの壁がもうやめなさいと言っているのを感じるのは、疲労した筋肉がかすかに休息を求めはじめているのだと思われる。夏の水泳ではなく、屋内プールなどでの、季節にかかわりのない運動としての水泳かも知れない。どことなく体力をもてあましている様子は、精神的に何か充足できていないことを示唆してもいるようで、このプールの壁が、社会的な制約や日常的な枷の象徴にも見えて来る。

きょうの一首。窮屈とは感じないが、決して広くはない。

 たちあがるとき湯の減らぬ浴槽のサイズを想ひつつ湯を減らす/荻原裕幸

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March 09, 2010

2010年3月9日(火)

雨。外務省の有識者委員会の報告で、日本の非核三原則は、つまるところ原則ではなかったのだと判明したらしい。政権交代以後、政権交代という事実をもっとも強く感じさせるニュースだった。もし核兵器が国内にあっても、見ない、言わない、書かせない、が、非核三原則である、などというブラックなジョークがあったが、実際それに近い状態もあり得たということか。

岡井隆さんが、3月9日付の中日新聞のコラム「けさのことば」で、第四歌集『世紀末くん!』(一九九四年)の「永遠のみづいろとしてひとりくらゐ犀を生きてもいいではないか」の作品鑑賞をしてくれていた。感謝。これまではたしか指摘されたことのない、仏陀の「犀の角のようにただ独り歩め」を絡めてあったのがユニークで、作者としてとても楽しく読ませてもらった。初出は歌誌「玲瓏」だったか。すでに十七年ほど前の作品である。「いいではないか」と言った本人が、そのように生きているのかどうか、いつか静かに胸に手をあててみようと思った。

きょうの一首。ひらきなおるなよ、と、自分につっこみを入れながら。

 細かさはあるが細やかさがなくてどうなるものでもなくて三月/荻原裕幸

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March 08, 2010

2010年3月8日(月)

春陰という感じの日が続く。空一面、鉛色の雲に覆われたまま夜が明けて、ぼんやりとしたあかるさのなかを、鳥たちが編隊を組んで進んでゆくのは、それなりに趣のある風景なのだが、やはり何かぱっとしない。午前六時から七時あたり、あれ、もうこんなに明るいのかと、望外の春のひざしをあびながら、どこかに出かけたくなるような気分を楽しみたいものである。

 さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉のほかに鳴るものも無き/福島泰樹

歌集『完本・中也断唱』(思潮社)に収録されている一首。咽喉、には、のみど、のルビ。福島泰樹さんが一九七〇年代から書き続けている、中原中也の「短歌訳」の代表的な一首である。やわらかな調べだが、炸裂するような寂寥感もある。オリジナルは『山羊の歌』の「サーカス」。オリジナルの、七五調の古風な調べを好む向きもあろうかとは思うのだが、前衛短歌と短歌絶叫とによってつちかわれた福島調のスタイルが、現代/現在の感覚のなかに、中原中也の世界を巧く呼び寄せていると思う。純粋な翻訳ではないし、翻案とも少し違う。アレンジと呼ぶのがふさわしいか。他に寺山修司をアレンジした『望郷』なども含めて、七〇年代後半以後の福島さんの仕事はもっときちんと評価されるべきだろう。ただ、既成の批評の文脈にのせるのが難しいところもあって、それが、歌人たちをして、福島さんをエンターテナー的な位置に押しやってしまう要因なのかも知れない。

きょうの一首。

 空が晴れれば二人も晴れて公園のぶらんこもゆやゆよんと晴れて/荻原裕幸

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March 07, 2010

2010年3月7日(日)

午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。流行の言い回しというのは、ただ嫌悪感が生じるだけのものもあるが、ツイッター方面でよく見かける「なう」は、いまのところ、個人的に、それなりに高い好感度を維持している。極端な例では、「トイレなう。お腹が痛いなう。」とか、もしも他の言い回しで書いてあったらどうにもならないようなものまで、巧くつぶやき化する機能があると思う。

ウェブマガジン「週刊俳句」第150号が、川柳「バックストローク」まるごとプロデュース号となっている。どうして「週刊俳句」なのに川柳なのだろうか、という軽いざらつきのある感じも含めて、センスの良い運営方針だなあといつも感心する。執筆陣は、さすがにベテランを揃えただけあって、読みごたえのある作品がずらっと並んでいる。とりわけ、石田柊馬さんと広瀬ちえみさんは、ベストに近い感じを出しているように思う。以下の引用句には特に惹かれた。

 一般的に言えばかわいいくそじじい/石田柊馬
 鹿肉を食べた体を出ることば/広瀬ちえみ

きょうの一首。

 わわんとかわうやわをんと吠えわけて犬の気分もさまざまに春/荻原裕幸

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March 06, 2010

2010年3月6日(土)

啓蟄。三月になって巷の人や自動車の数が急に増えた気がする。自動車のナンバーを見ていると、ふだんの名古屋よりも全国的な感じになっている。年度末だとかあるいは春休みだとか、それぞれに理由はあるのだろうが、つまるところ、この時期になると冬眠から覚めて穴を出て行くのは、虫ばかりでなくて人にも似たようにあてはまる自然の摂理だということか。

先月だったか、某所を歩いていると、前方から向かって来る女性が、よそ見をしたままこちらにぶつかって来そうな感じだったので、慌てて立ち止まった。女性は案の定ぶつかりかけて、驚いた様子で、すんまへん、と言った。その、すんまへん、が、大阪の人の感じとはかなりかけはなれた妙な調子だったので、不思議に思ったら、そのあとすぐに、あ、すみません、と、きわめて名古屋な感じで謝り直した。咄嗟のときに出ることばというのは、出身地のことばか、ふだんからよほど使い慣れていることばだと思うのだが、彼女は、ふだんからあの妙な、すんまへん、を口にしているのだろうか。どうしたらそんなへたくそに大阪弁をまねられるのかとつっこみたくなるほどおかしくてかわいらしい、すんまへん、だった。

きょうの一首。

 菜の花のひかりが眼鏡につけられた指紋のかげと混ざつて届く/荻原裕幸

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March 05, 2010

2010年3月5日(金)

麗らかな日となる。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうは出席者16人、詠草16首。題は「種」。地下鉄駅の千種から一字を貰った。バンクーバー冬季五輪の作品が出るかと思ったら一首も出なかった。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。講座後、喫茶店で一人珈琲を飲みながら、短歌関連のメモをつくる。

帰り際、席を立とうとしたところで、奥華子さんの声で店内に曲が流れる。新曲だろうかと、坐り直して耳を傾ける。曲調や声調はいつものものながら、歌詞のなかのわたしは、他曲のわたしをデフォルメしたような印象。異常なほど恋にけなげで、むしろどこか怖い感じだった。帰宅して調べると「初恋」という曲で、ライブで評判になり、今月中旬にリリースされるのだという。恋人がだめなら友人でも何でも構わないからとにかくあなたのそばにいたい、あなたは別の誰かととりかえがきかない、というモチーフは珍しくはないわけだが、この人のやわらかな曲調や声調に乗ると、意外なほど強烈になるなあと再認識したのだった。

きょうの一首。講座で「種」の題の作例として見せた一首。

 花の種やゼムクリップや五円玉がなぜか下駄箱の隅に置かれて/荻原裕幸

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March 04, 2010

2010年3月4日(木)

曇天。時折小雨。午後、歌会の詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者九人。題詠「淀」と自由詠各一首を提出。バンクーバー冬季五輪の作品が出るかと思ったら一首も出なかった。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。終了後、少人数での二次会。遠来者のリクエストで、手羽先の有名な店に入る。

 背広脱ぎわれ無くなりてしまいけり脱ぎし背広に月光はさす/渡辺松男

昨日に続き、第二歌集『泡宇宙の蛙』(一九九九年)に収録された一首。仕事から帰宅してスーツを脱ぐ。場所はクローゼットのある寝室といった感じだろうか。部屋の電気を消すと、カーテンの隙間から漏れる月のひかりに照らされて、ハンガーに掛けられたスーツが、さっきまでわたしだったものの脱け殻のように、ぼんやりと浮かんでいるのが見える。仕事から完全に解放されるやすらぎと同時に、わたしが失われてしまうような不安がやって来る。いや、ような、ではなく、実際にそのときわたしは失われるのかも知れない。いかにもワーカーホリック的な感覚だが、「無くなりてしまいけり」といった断言的文体が、失われるわたしを実感するもう一人のわたしをたちあがらせて、わたしを中毒から解放しているところに救いがあり、一首の魅力もあると言えようか。以下、同歌集から、惹かれた作品を少し引用しておく。

 ごうまんなにんげんどもは小さくなれ谷川岳をゆくごはんつぶ/渡辺松男
 夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む
 このごろの配偶者すこしいらいらし配偶者のなかに群衆がいる
 おどおどとサラリーマンは昇給しおどおどと花の陽を浴びに出る
 姉の乳首見しことのなきふかしぎをはるかなる雪のひかりとおもう
 われ水にくるしむわれのなかの水雲ひろがりてくるときにおう

きょうの一首。「淀」の題詠として歌会に提出した一首。

 淀みなきひとのことばは信じがたくたどたどしげに梅の花咲く/荻原裕幸

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March 03, 2010

2010年3月3日(水)

桃の節句。寒くはないものの、さほど春らしい感じもない一日。午後、家人とともに実家に顔を見せに行く。お菓子を食べながら父母と歓談する。先日、桜の花束、と言うか、桜の枝を贈ったのだが、それが床の間の雛人形の隣りに活けてあって、すでに少し咲きはじめていた。促成栽培によるものか。自分で贈っておいてあれだが、世の中こんなものまで商品化されているんだなあと不思議な気分で眺める。

 おばあちゃんタバコをふかすおばあちゃん紅梅よりずっと遠くを見ている/渡辺松男

第二歌集『泡宇宙の蛙』(一九九九年)に収録された一首。自身の祖母なのか、それとも親しい年配の女性なのか、この「おばあちゃん」の素性は、歌集の構成から考えても明確にはならない。わたしとの関係は問題ではなくて、「おばあちゃん」の一典型をイメージさせたいのか。何にせよ、喫煙しながら、紅梅の方に視線を向けて、遠くを眺めているという、その姿が絵になる女性なのだろう。絵になるからこそ、「紅梅よりずっと遠くを」と、ただの描写を超えた、見えないはずの他者の内面を推し量るような表現が生じたのだと思う。この「遠く」がどこなのか、読む側からはまったく想像がつかないはずなのに、しかし「なんとなくわかる」ような気にさせられるのがおもしろい。作者の感じている「なんとなくわかる」が、文体を通じてそのまま読者に伝わって来ているのかも知れない。

きょうの一首。

 変な恋をしてゐて春のあらかたがけむりでできてゐるやうである/荻原裕幸

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March 02, 2010

2010年3月2日(火)

好天。気温もかなり高くなる。午後、堀田の瑞穂生涯学習センターへ。東西句会の月例句会。参加者は三人。題詠「春泥」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。句会の最小催行人数だったが、いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。欠席者の作品も詠草に含まれていたので、どれが誰の作品だとあからさまになることもなく、案外スムーズに展開した。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店で、引き続き俳句についてあれこれと話す。

きょうの句会に提出した五句は以下の通り。自分で読み直すと、肩のちからを抜こうとしたのに実は腰のちからが抜けていたような妙な感じがある。突出した作品をしあげるのは難しいとしても、もう少しくらいは巧く書けてもいいかなと思う。書くたびに反省する点ばかりなのだが、それでも句会という場で読んでもらえるので、それなりにモチベーションが維持されているようだ。

 二つ三つハンガーゆがむ二月尽/荻原裕幸
 砂場三月こどもも砂もよく動く
 囀りやこどもはころぶやはらかに
 クローゼットの奥に犇めく朧かな
 春泥やあれが何とも気づかずに

きょうの一首。某所でたびたび見かけて。

 空室の看板いつも出たままで翠なんとか荘のなんとかが消えて/荻原裕幸

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March 01, 2010

2010年3月1日(月)

きょうから三月。学生は卒業のシーズンなのか、などと思いながら、卒業をモチーフにした音楽を流しているうちに、なんだか退行的だなあと感じられて、聴くのをやめた。懐かしいものごとにどっぷりとつかって、しばらく「私」をメンテナンスするのは、快適なものだし、時折必要になる行為ではあるのだが、ほどほどで再起動するのが望ましいのかも知れない。

 おびただしき中国語音の中に居し古代日本人ふかく思はむ/岡井隆

歌集『中国の世紀末』(一九八八年)に収録された一首。歌集の構成で、中国での雑感をまとめたものの一つだとわかる。「おびただしき中国語音の中に」は、現在のわたくしの抱いた印象であり、それを遣唐使などのイメージと重ねているわけだ。何かそのままメモしただけのようにも見えるが、中国語がおびただしい音として感じられるというのは、意味や感情を自在に汲むことができないからであって、空気のように感じる母語との違いがそこはかとなく示唆されている。こういういかにも雑文的なフレーズをさらっと修辞化するのは、方法が方法として過剰に表面化するのを嫌ったこの時期以後の岡井隆の特徴の一つでもある。近代短歌風な嘱目をベースに、当時流行のライトバース的なものへとつながってゆく道筋を模索するなかで生じた文体なのだろう。たしかな結実を見せるのは、ここから少しあとのことになるわけだが、模索のプロセスが見えるこの歌集には、この歌集としての楽しみがあると、このところ頓に感じるようになった。

きょうの一首。洗濯日和ではなかったのだが。

 洗濯物が揺れてすきまの青や雲が揺れて三月揺れながら来る/荻原裕幸

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