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April 16, 2010

2010年4月16日(金)

ボックスティッシュだとか洗剤の類とか、とりわけ日用品の消耗品で、同一商品なのに1パッケージの数/量が以前と比べてはっきり減っているものが増えている。値上げのかわりか、特売品をつくりやすくするためだろうか。消耗品の数/量の手頃な感じというのも商品のクオリティの一つなのに。せっかく良質な商品を開発しておきながら、そんなところでクオリティをすり減らすのは勿体ない気がする。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は15人。詠草16首。題は「覚」。地下鉄駅の覚王山から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。ここはこうするといいんじゃないですかと、モチーフをよりはっきり活かす方向にことばを置き換えたとき、おおっ、というような肯定的な反応がたまにある。少ない字数で大きな転換がはかれたときほど反応が大きくなるということに最近になって気づいた。

きょうの一首。講座で作例として見せた一首は某所に出稿する予定なので、それとはまったく別の一首。

 午後によく似てゐて午後とどこか違ふ時間の丘を自転車でゆく/荻原裕幸

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April 15, 2010

2010年4月15日(木)

アップルのマイティマウスが、快適かつ面倒なのは前から感じていたことだが、もう掃除ではどうにもならないほどトラックボールの動きが悪くなっていた。先日、家人が分解掃除(保証の対象外の行為)をして回復したというので、自分のも頼んでみたところ、デリケートな(と言うか、かなりめんどくさそうな)作業を経て、ほぼ初期状態の快適さが戻った。

短歌が純然と文語で表現されるのは、少し前までは一般的なことだったわけだが、これだけ口語の表現がひろがると、なぜ文語で表現するのかという問いが成立する。ただしその理由は、ほぼはっきりと一つに絞られて揺るがないだろう。文語の表現は短歌の歴史的な蓄積を十全に活かすことができるからだ。一方、なぜ口語で表現するのかという問いには、理由にばらつきがあるようだ。文語の表現が抱える歴史的な臭みを消すとか、誰にでも通じる現在の日常のことばで表現するとか、あるいは文語を知らないとか。文語と口語との混淆的表現という選択もあるようだが、最近では自分もすっかり口語で表現するようになった。短歌的な調べを構築するとき、文語だと容易で口語だとかなり苦しい。ただ、この容易さに疑問を感じ、苦しさのなかになにがしかの真実があるのではないかと感じている、というのが、目下のところ、主な理由である。

きょうの一首。

 やる気のないマウスが揺れて情報が古びてしまひさうな春の夜/荻原裕幸

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April 14, 2010

2010年4月14日(水)

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、春期の二回目。きょうの題は「椿」と「春の何々」。出席者は7人。詠草14句。読解を中心に添削的な批評をする。受講者が変ると作風も変るので、作風と作品にきちんと対応した批評ができるだろうかという不安も生じるのだが、ともかくそれなりに全力を尽くす。以下、きょうの題に即して二句。「春の水」はいささか題の本意から逸れたか。

 どれがどの音だつたのか落椿/荻原裕幸
 戻り来て名古屋の春の水を飲む

大松達知さんのブログに、短歌の批評会をめぐる記述があって、どこか少しすっきりしないものが残った。よく読めば、何を言いたいのか、痛いほどわかる。短歌観を正面からぶつけあって深く議論したい場に、ともすればあまり深まらない議論だけが浮かびあがりがちな状況を憂いているのだろう。ただ、よく読めばわかるのだが、この文章の表面には、詩人は遠い、詩人は何か違う、という、たぶんことばを和らげたためにむしろ偏見的に見える空気がひろがっていて、ものすごく閉塞的な歌人の世界が見えてしまった。それは何かとても淋しい感じがある。

きょうの一首。

 椿落ちるほどの音してわたくしのなかに何かが落ちる午後二時/荻原裕幸

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April 13, 2010

2010年4月13日(火)

このところ毎日、鶯の声を聞く。早朝だったり、昼過ぎだったり、自動車の音や人の声が途切れて、何かふっと静かになったところに、ホーとホケキョとケキョを、ときに単純にときに複雑に組みあわせた声がひびく。姿がまったく見えないせいか、どこか空間の裏側のような場所から聞こえて来る気がするのだが、あるいは案外近くにいるのだろうか。

定型以外に現在の短歌を制約するものはないと思う。言い換えれば、短歌の定型に制約されながら書かれることばが現在の短歌である。ただし、これは、書かれることばを短歌の定型に整形することとは単純に一致しない。書く側としての自分の感覚を反映した言い回しを探すと、定型に制約されながら短歌をデザインする、といったところだろうか。モチーフの意味の通り具合やリズムの流れてゆく加減やその他、定型から被る影響をどのように許しどのように拒むか、助詞の一つにまで思惟をめぐらせた結果、一首がこのデザインに落ち着いた、と言えば、最近の自分が短歌を書くときの感覚にかなり近い。十数年前には嫌いだった題詠を、いまはそれなりに楽しみながら書くことができるのも、こんな感覚に関係しているのかも知れない。

きょうの一首。

 いつも少し遅れて生きるはひふへほが来る晩春にしてなにぬねの/荻原裕幸

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April 12, 2010

2010年4月12日(月)

早朝、ごみ袋を抱えて外に出ると、隣りの敷地の桜が雨で散って、マンションの中庭が花びらで美しく飾られていた。雪を桜と見間違えたり、桜を雪と見間違えたりする古今集の歌は、文字で読むとそらぞらしくも感じられるのだが、雨に濡れて黒々としたアスファルトの上にびっしりと花びらが積もるのは、まさに、雪かとのみぞあやまたれける、という感じであった。

詩歌句の作品をめぐる、研究/評論/鑑賞、について、なんとなくその区別をつけることはできるのだが、これという明確な線引きができるものではない。研究と評論の間のスラッシュは科学であるか否かを区切り、評論と鑑賞の間のスラッシュは論理的であるか否かを区切る、と仮に言ってみれば、それなりの見識にはなろうが、そうした線引きが特に何か生産的なものを導き出すとは思われない。時と場合に応じて、スラッシュの向う側にある方法を援用する方が、むしろそれぞれに豊かな成果をもたらすのではないか。論理的に考察するとき、どうしてもこぼれ落ちてしまう秀歌というものもあるし、科学の方法で考察してはじめて見えて来る表現もあるだろう。アクセスの経路が複数あるのは、望ましいことではないだろうか。自戒をこめて。

きょうの一首。

 雨よりむしろ街の気配がつめたくて四月の傘をふかぶかと差す/荻原裕幸

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April 11, 2010

2010年4月11日(日)

東京の風景を眺めていると、わくわくするような、ものがなしいような、得体の知れない気分になる。滞在の目的もないまましばらくここで過ごしたら、自分の人生観が大きく変るのではないかと思うのは、どの土地へ行ってもほとんど同じように感じることなのだが、東京はとりわけその感覚を強く呼び起こす。帰るのが惜しいような変な気分のまま、新幹線のチケットを買う。

 わたしからわたしは一生出られない きみが近づききみが去りゆく/谷村はるか

第一歌集『ドームの骨の隙間の空に』(二〇〇九年)に収録された一首。この下句が示しているのは、恋愛とその破局ということか。現在の日本は、無制限に自由のひろがる感じがある。恋愛をめぐって、社会的問題/倫理的問題を軽々と超えてしまう人も跡を絶たない。ただ、根本的に自由になることはない。なぜなら「わたし」は「わたし」であることからだけは自由になれないのだから。具体的にはわからないが、その根本的な障壁を前に潰えたこの恋愛には、復縁の余地など一切ないのだろう。そんな身も蓋もない位置から語られているのに、理屈の向う側から、どこか淡く情感的なものが、読む側に快く迫って来る。

きょうの一首。

 あの人のあんな顔つきこの春の記憶のみづにゆつくり沈む/荻原裕幸

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April 10, 2010

2010年4月10日(土)

上京。渋谷のシブヤ・ネクサスへ。谷村はるかさんの第一歌集『ドームの骨の隙間の空に』(二〇〇九年)の批評会に参加する。ハチ公口から道玄坂を歩きはじめてすぐのあたりに会場があって、短歌を語りあうにはあまりにも世間に近くないかとか、そんなことを感じながら席に着く。クローズドの会で、参加者は25人。作者や版元も含めて、セッティングされた座席にびっしりと人がならんだ。顔ぶれの大半は、同人誌「Es」か結社誌「短歌人」のメンバー。奥田亡羊さん、川野里子さん、森本平さん、玲はる名さん、それに自分が、ゲスト的、と言うか、その他の参加者である。藤原龍一郎さんの司会で、数時間にわたるディスカッションが続いた。

歌集『ドームの骨の隙間の空に』は、全体の構成にも文体にも何か雑然とした感じがある。日々の感触をリアルに伝えているようにも見えるし、まとまりがないようにも見えるのだ。この両面的な感じがどこから来るものなのか、あまりはっきりと認識できていなかった。批評会を終えて、たぶんそれは、作者の誠実さから来る不器用さのようなものに由来しているのではないだろうか、と感じている。批評会では、ディスカッションの糸口として、あらかじめ、良かった作品と問題ありと思われる作品それぞれ二首を提出するように求められていた。以下、*印を挟んで前の二首が良かった作品、後の二首が問題ありと思われる作品である。

 今度一緒に、今度一緒に、そしてまだ行かずにとってある尾道よ/谷村はるか
 東京のつばめは昇る昇る昇るそこまで昇らねば苦しいか
 *
 男には一人称が多くあり女には傘の色多くあり
 愛というこの夢のない言葉こそわたしを動かし続ける時計

選んだ基準は、歌集のもっとも良質な面を見せる作品とその対極にある作品、という漠然としたものに過ぎなかった。批評会で感じたことを基に少し補足しておけば、良かった作品は、不器用さを貫いて結果的にそれが個性として昇華されたもの、問題ありと思われる作品は、ことばは悪いが、小器用にまとめようとして逆に不器用さを露呈してしまったように見える作品、ということになるだろうか。

きょうの一首。夜、某所を歩いていて。

 五分ほど歩いてゐてもひとひとり見かけないしかも春の東京/荻原裕幸

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April 09, 2010

2010年4月9日(金)

午後、家人は歯医者へ。留守番。羽生善治名人と三浦弘行八段との第68期名人戦七番勝負第一局。羽生が一勝。東京都文京区椿山荘での二日制の対局は、後手番の羽生が促して横歩取りとなる。中盤から三浦が指しやすそうに見える局面が続いたが、終盤は混沌とした展開で、現場で検討する棋士たちにも形勢判断が困難な、ぎりぎりの勝負だったらしい。

短歌の一人称を一人の俳優のような存在だと考えてみる。彼/彼女は、五七五七七を基本とした定型に縛られているのだが、多くの場合、そのことを読者に感じさせないように語ろうとする。単に表現として与えられたことばを語るのではなく、それをあたかも自身の内面から出たことばのように語ろうとする。そして、それが表現として作者から与えられたことばだという事実さえも忘れようとする。言い換えると、短歌の一人称は、方法的なものが表面化するのを嫌い、それを透明化して、作者その人とできるだけ滑らかに重なろうとするのである。この方法の透明化は、書いたり読んだりするなかで何か快いものではあるのだが、その一方で、作者である自分がどこかに消えてしまうような不快な感じにもつながっている気がする。

きょうの一首。

 柿の種などつまんでゐると妻が来て春が来て電話が来て暮れる/荻原裕幸

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April 08, 2010

2010年4月8日(木)

山崎川沿いの瑞穂陸上競技場のサブグランド(と昔から呼んでいるが、たぶん正式名称ではない)の近くに、桜のシーズンにだけ出店するおいしい焼芋屋さんがある。春毎に一回か二回、家人と買って食べているのだが、きょう、買った折、家人が店主に話しかけてあれこれ訊いたところ、この時期、名古屋とそれから東京に店を出しているらしい。名古屋での営業はきょうまでだそうだ。また来年。

夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。参加者十人。題詠「花」と自由詠各一首を提出。この時期ということもあってか、詠草の多くは花=桜というスタンスで書かれていた。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。終了後、有志での二次会となる。歌会の折の雑談が、なぜか一九八〇年代の短歌の話題で盛りあがっていて、流れがそのまま続いた感じ。その頃まだ短歌を書いてなかったという人はともかく、その頃まだ生まれてなかった人が、すでに立派に歌人になっているのだから、あらためて驚きを感じてしまう。時間が進む早さにも驚くが、何よりも時間が降りつもらせるものの嵩に驚いているのだと思う。

きょうの一首。「花」の題詠として歌会に提出した一首。「花の奥」は既成のことばなのだが、どうもそこだけが伝わりにくかったようだった。

 体力をむだに費やすやうなことをして過ごしたくなる花の奥/荻原裕幸

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April 07, 2010

2010年4月7日(水)

午後、八事の中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、きょうから春期の開講となる。今期の受講者は7人。初回は、受講者の句歴や近況等を訊ねながら、オリエンテーション的な話をした。少人数なので気ままに進めようと思っていたが、少人数のなかにも、はじめて俳句を書く人から結社の同人まで、句歴にかなり幅があったので、単に気ままにというわけにもいかないようだ。

 球体と円筒から成る人体の明るき街をゆく台風のあと/井辻朱美

昨日に続き、第一歌集『地球追放』(一九八二年)に収録された一首。台風一過の街の風景というのは、風と雨によってクリーニングされたところに陽光がさして、実際には台風の前とそれほど変っていなくても、こざっぱりした印象になる。そこを行く人々も、風景の一部として認識すれば、同じくこざっぱりと見えるのだろう。「球体と円筒から成る」は、そんな台風一過の感覚から来ている修辞だと思う。ラフスケッチか現代的な描法の絵画も思わせるが、言われてみるとたしかに、主に球体の数や位置やサイズが違うだけで、「人体」とはそのような構成であると気づかされる。どこか異星人的な視点であるのが、なるほど井辻ワールド的だ、とまとめておこうか。同歌集から他にも好きな作品を引いておく。

 黄昏のレモン明るくころがりてわれを容れざる世界をおもふ/井辻朱美
 屋上の広告塔みなわれに向き気圏にひとは棲みしことなし
 のがれたきものみな風に飛ばしたし 左の胸にひびく春雷
 秋の街の遠きひとところ陽はさして確かにかくて在りし時あり

きょうの一首。

 ゆつくりとパン噛む春が緩やかに過ぎる気がしてゆつくりと噛む/荻原裕幸

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April 06, 2010

2010年4月6日(火)

荻原家では、二人とも忙しくなると、家にいてもあまり顔をあわせないという状態が続く。せめても食事だけは一緒にするようにしているのだが、そのため、顔をあわせれば、次のごはんどうする? という話になりがちで、さながら四六時中お腹を空かせている育ち盛りのこどものようである。きょうは東西句会の例会の日だったが、あれこれとたてこんでいて欠席させてもらった。

 空間の透きとほるまで重心をあづけてゆけりわれの KAWASAKI/井辻朱美

第一歌集『地球追放』(一九八二年)に収録された一首。「KAWASAKI」は、オートバイのブランド名であり、一人称の愛車ということなのだろう。過度に急ぐこと、あるいは、目的もないのに高速で走ることを、飛ばす、などと言う。特に後者は、社会的な抑圧を感覚的にふりはらう行為として、現実の路上でも物語のなかでも、多くのライダーやドライバーたちに好まれているようだ。この一首が見せるのは、その、飛ばす、をめぐるイメージで、「空間の透きとほる」とか「重心をあづけて」とか、速度が或る域を超えたとき、むしろ身体的な危機感が消失してしまう、心身の麻痺のようなものを巧く捉えていると思う。SFやファンタジーを背景としがちなこの作者の傾向に反して現代的/現実的であるが、近未来の都市風景だと考えても障るものは特にないし、「KAWASAKI」が、仮に宇宙船であってもドラゴンであっても共有できるモチーフではある。

きょうの一首。きのうのきょうの一首の同工異曲。

 いましがた小犬を撫でて来たやうな声だがなぜかどこかに障る/荻原裕幸

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April 05, 2010

2010年4月5日(月)

清明。可燃ごみと資源ごみの回収日だったので、両手にそれぞれ二つ以上のごみ袋を提げてごみ置場へ。前から気になっていることなのだが、このマンションで、二つを超えてごみ袋を提げている人を見た記憶が数えるほどしかない。みんな数回に分けて運ぶのか、それともあまりごみが出ないのか。後者だったら、なんとなく嫌だなあと思う。荻原家は二人暮らしなのに、平均よりも沢山ごみが出るのか。

現代俳句協会から、刊行されたばかりの『21世紀俳句パースペクティブ 現代俳句の領域』が届いた。協会の創立六十周年記念出版だという。協会青年部が繰り返し開催しているシンポジウムのエッセンスをまとめたもので、俳句の商業誌が打ち出すのとはかなり違うアングルから現代の俳句の表情を見ることができるのが楽しい。この本には、四年ほど前の、五島高資さんと自分の対談も掲載されている。発言者が朱入れをしていないので、生の発言に特有の、文字化したときに曇りがかったように見える文脈もそのままになっているのだが、実際の対談の雰囲気がよく出ていると言えば言えないこともないか。

きょうの一首。電話でのセールスを全否定する気はないのだが。

 投資に関心ありませんかと菜の花のやうな声にて電話がからむ/荻原裕幸

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April 04, 2010

2010年4月4日(日)

朝から家人が外出。留守番。午後、家で一人だけの食事をするというのもなんとなく淋しいので、近所の中華料理店で、スポーツ紙などを読みながら、炒飯とハーフサイズのラーメンのセットを食べる。この店の麺は、中太でストレートのたまご麺なのだが、ともに現役の、初代の店主と二代目とでは、麺の茹で加減が微妙に違う。きょうはやや固めにしあげる二代目の味だった。

自分がいま、いわゆるカルチャー教室で、短歌や俳句のレッスンプロ的な行為を楽しんでいるのは、自分の短歌力や俳句力が、きわめてスリリングに鍛えられるからだろうと思う。初見の作品について、その場で読解し、批評し、問題を感じたときには修整案を示唆するスタイルはかなり苦しい。苦しさを解消するには、事前に作品を提出してもらって予習をしておくのがもっとも簡単な解決法だ。ただ、初見の緊張のなかで苦しみながら考えると、短歌力や俳句力が自分の限界を少し超えて引き出される感じがある。スリリングな感覚のなかで、仕事としてのクオリティをあげるため、自分自身の力を伸ばすため、このスタイルはまだしばらく崩せないなと思う。

きょうの一首。

 性欲もいつかは涸れて鍵を見てもあなたを見ても憂き日が来るか/荻原裕幸

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April 03, 2010

2010年4月3日(土)

午後、近所のベーカリーでパンを買って、家人と山崎川の川辺でそれを食べて、橋を二つ分ほど歩いてから帰宅。あたりいちめんは桜だし、家族連れとか恋人連れとか犬連れとかおひとりさまとかでにぎわっていたし、花見だと言えば花見なのだが、あまりに近いためか、構えてそれに出かける意識が年々薄れていて、外食のかわりに春らしい風景を見ながら屋外でパンを食べたという感じ。

ウェブマガジン「俳句空間 豈weekly」第85号、冨田拓也さんの「七曜俳句クロニクル」に、くだんのライトヴァースの話の続きが出ていた。羅列された作家名を見たりすると、なるほどとすぐに納得できる内容ではあるのだが、それはたぶんあらかじめ何かをそれなりに共有した状態で読んでいるからだろうと思う。やはり、ここで言うライトヴァースの、定義とは言わないまでも、輪郭を具体的にしないと、ジャンルの可能性/不可能性として考察を進めるのに難しいところがあるのではないか。冨田さんのなかでは、実際のところ、どのような作品が想定されているのだろう。気になるところである。

きょうの一首。外国語の直訳文の調子に似せて。

 むかしの夕陽はときにいまよりやや深い赤みで街を包んだものだ/荻原裕幸

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April 02, 2010

2010年4月2日(金)

家人が数日前から歯の痛みを訴えていた。虫歯ではない気がすると言うので、少し様子を見ていたのだが、一向に痛みがひかないようなので、歯医者に行かせることにした。レントゲンで調べてもらったところ、見た目ではわからない箇所に、大層立派な虫歯ができていたそうである。やはり本人の自覚ほどあてにならないものはない、と言うか、本人の希望的観測を真に受けたのが問題だったか。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は13人。詠草14首。題は「池」。地下鉄駅の今池/池下から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。新規受講のためのトライアルで来ている人が二人いたので、こんな風に進めていますよということがよくわかるように進めた。超初心者ならば、そのことにも気をつかう必要があるのかなとか思っていたが、詠草を読んで、気をつかう必要のないレベルやセンスの人に思われたので、ふだん通りの話をしてみた。

きょうの一首。講座で「池」の題の作例として見せた一首。

 母語の池にみづくさふえてゆく春の午後の濁りのなかの国会/荻原裕幸

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April 01, 2010

2010年4月1日(木)

万愚節。きょうから四月。ネットにひろがる四月一日ならではのジョークをあれこれと見て笑う。よくそこまで捨て身になれるなあと感じるようなものが殊に楽しい。しかし、四月一日であろうとなかろうと、ネットはいつもジョークだらけではないかとも思う。毎年のことながら、他のメディアやリアルでは、楽しく笑えるものに遭遇できなかった。

 嘘くさいとみずから思いしゃべりおり言葉と顔に力をこめて/大島史洋

昨日に続き、第十歌集『センサーの影』(二〇〇九年)に収録された一首。仕事でも日常でも、ときにこんな状況になることはあるだろう。言われる方も言う方も、互いに「嘘くさい」と感じながら、しかし最後までそれを言い通す/聞き通すことで、ものごとが良好に進むというのは、ままあることである。言葉も顔も、自身が嘘くさいと感じていては、なかなか力が入らない。あえて意識して力をこめている姿は、どこか滑稽ではあるのだが、追いつめられた状況を想像すると、わかるわかる、と応援したい気分にさせられる。修辞と言うほどの修辞のないシンプルな文体が、読む側の素直な感覚を引き出してくれるようだ。

きょうの一首。

 それにしても四月の音に雑ざりゆくけふのわたしのぐだぐだな音/荻原裕幸

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