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August 31, 2010

2010年8月31日(火)/八月尽

八月もついに末日だが、この異常な暑さはまだしばらく続くのだという。きょうの最高気温は三十七度だったそうだ。ネットの気象情報で名古屋の気温の一覧をひらいてみると、八月の後半はほぼ一様に、最低気温が二十六度前後、最高気温が三十五度前後である。記録にも記憶にもほとんどめりはりがない。日中に外を歩き回って大汗を流した日が暑い日で、クーラーのある場所にずっといた日が涼しい日とか、そんな歪んだ感覚で日々を過ごしている。

午後、新栄の東生涯学習センターへ。ねじまき句会の例会。地下鉄駅を出てほんの数分で会場に着けるのに、駅前のコンビニの冷房で体を十分に冷やしてから歩きはじめる。きょうの参加者は五人。題詠「傾」と雑詠、各一句を提出。いつものように無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。句会に提出した川柳は以下の二句である。小さな発見ができたような気がしてまとめた句だったが、日常感が大きく欠けてしまったか。

 サ行へとからだをゆるく傾ける/荻原裕幸
 しかじかが鏡の奥で揺れている

きょうの一首。

 笑顔が下手なひとなのかこの表情はさるすべり咲き続ける坂で/荻原裕幸

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August 30, 2010

2010年8月30日(月)/超演算的経験則

第23期竜王戦挑戦者決定三番勝負第二局。久保利明二冠のゴキゲン中飛車から急戦模様になる。久保二冠に有利に駒が捌かれてゆく展開と思っていたところ、互いに飛車を持駒にしたあたりから、一転して羽生善治名人優勢の状況が見えて来る。どこでどう形勢に差が生じたのか、プロ棋士にも見えづらかったようだ。将棋の頂点にいる二人が、大局観という超演算的経験則を指手に援用すれば、おのずとそうなるか。優勢をそのまま維持して羽生名人が二連勝。渡辺明竜王への挑戦権を獲得した。

 詩は人をある風景のなか、ある地平のうえに立たせ、その構図の全体によって何かを語ろうとする。そこに立つものが一人称であろうと三人称であろうとこのことは変わらないと思う。だが短歌は景物や概念や理念を、それを見たり、口にしたり、考えたりしている人の身体へと引き寄せて行き、最終的にひとりの人間の姿をイメージのなかに立たせることができれば、表現として完結するように思える。たとえそうした身体そのものが何かの比喩であり寓意であるとしても。/瀬尾育生

詩論集『あたらしい手の種族』(一九九六年)に収録された、岡井隆の詩論を論じた文章「言葉のなかに姿として」の一節。岡井隆を語るため、瀬尾育生にしてはかなり無防備な筆致、ざっくりとした感じで、現代詩と短歌とを比較した箇所であるが、こんなにすっきりと腑に落ちる比較は、他では見たことがない。フォルムの差異から出発する比較論では、これほどわかりやすくシンプルなことでさえ、容易には手の届かない遥かな場所に遠ざかってしまうのが不思議だ。

きょうの一首。

 傷みはじめか熟れてゐるのか赤札の桃の皮なめらかに剥がれて/荻原裕幸

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August 29, 2010

2010年8月29日(日)/独占欲

午後、家人が義母と義姉と出かける。留守番。日が暮れてから一人で近所の蕎麦屋に行く。作家の三浦哲郎さんが亡くなったという。享年七十九歳。十歳未満で読んだなかで、現在も愛読書だと呼べる本はそんなに多くはない。三浦さんの『ユタとふしぎな仲間たち』(一九七一年)はその一冊。刊行されたばかりの同書を、あれはたしか兄に買ってもらったのだったか。後にテレビ化や舞台化で有名になって、何か反撥したいような気分が生じた。ありがちな独占欲である。

 あの人は元気でしたか? いや別に何もおしえてくれなくていい/枡野浩一
 朝焼けがとてもきれいで生きていてよかったような気がする色だ
 心中をする相手などいないからあしたもちゃんと蒲団で起きる

小説『結婚失格』(講談社文庫)に、オプショナルな感じで収録された連作「夢について」三十首のなかの三首。枡野浩一さんの短歌には、以前から、個人的な体験のなかから他人の体験にも共通するところがあると思われる要素だけを丁寧に切り出してまとめる、という傾向があるように見える。これは、枡野さんの短歌が多くの読者を得ている大きな要因だが、一方で、個人的な体験の個人的な感じの強い部分にこそ表現の旨味があると考える歌人から肯定されない理由にもなっているようだ。これらの作品も、枡野浩一の個人的な体験から来ているものだと考えても不思議はないし、別の誰かの体験にも容易に接続するように書かれている。体験の個人性を放棄せず、けれど独占せず、他人に解放していると言えばいいだろうか。是非や好悪の分かれるポイントだが、枡野さんの、独占欲を抑えて体験をシェアしてゆくような文体は、自分にとっては好ましいものに映っている。独占すべき/独自であるべきは、作品の題材になる体験とは別の次元にあるのではないか。

きょうの一首。

 八月二十九日のあせりそのままのかたちで雲がふくらんでゐる/荻原裕幸

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August 28, 2010

2010年8月28日(土)/秋的猛暑

午後四時頃だったか、外に出て歩いてみると、暑いことは暑いのだが、耐えられないほどの感じではなくて、どこか秋めいた暑さだと思った。ただ、名古屋の最高気温は三十五度を超えているらしい。暑さに無感覚になっているのか。あるいはほんとに秋的な質の暑さに移りつつあるのか。なんとなく暑さの目安にする蝉の声は、もうほとんど聞こえない。たまに聞こえても、一匹が鳴いて、その一匹が鳴きやむとそれきりあたりはしんと静かになるのだった。

着想から短歌一首を決定稿としてまとめるまでの間に、なぜそのようなことばやかたちになってゆくのか、説明のつかないプロセスが、少なくとも一度はやって来る。逆に言うと、少なくとも一度は、ことばやかたちに対する作者としての統御感を維持できない瞬間を経ないと、一首がまとまったという感覚が生じない。何かが降りて来るなどと神がかり的なことを言うつもりはないのだが、自分が積極的には関与できない領域から、偶然か必然なのかよくわからない感じで何らかのヒントを得ること、それは、少なくとも自分にとって、一首をまとめる/一首がまとまる感覚と切り放せないものだ。結果、わたしと、それまでわたしではなかったものとが、まだ相互になじめない感じをどこかに残しながら、重なった一人の姿としてそこにあらわれる。短歌における「私性」とは、つまりはそのようなものとして捉えるべきではないか。最近ときどきそんなことを考えている。

きょうの一首。歌論的なコメントをまとめると短歌が書きづらくなって、自身のコメントに肩すかしを食わせたくなるのだが、いずれにしても書きづらい。

 このところ着てゐないのであれがない洗濯物のかたまりしづか/荻原裕幸

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August 27, 2010

2010年8月27日(金)/メトセラの子ら

午後、時折、何かを思い出したように蝉が鳴く。長崎県壱岐市で、今年で二百歳になる人が戸籍上に存在しているのが見つかったらしい。とうとう二百歳である。朝日新聞の記述では「薩摩藩の第11代藩主、島津斉彬の1歳年下」とか、生年の一八一〇年については「フランスでナポレオンが皇帝として在位していた時代で、ハワイではカメハメハ大王が全島を統一した」とか書かれている。歴史について蘊蓄を語っている場合ではないような気もするのだが。

二十七日付の、砂子屋書房のホームページのコラム「日々のクオリア」で、中津昌子さんが、第二歌集『甘藍派宣言』(一九九〇年)の一首を鑑賞してくれた。少年期の小動物との接触、具体的には蝶をモチーフにした一首である。中津さん、素敵な一文をありがとう。この一首をめぐって思い出したことを少し。一九七〇年前後、作者が少年だった頃には、夏休みの自由研究の定番の一つとして、昆虫標本をつくる男子がときどきいた。九月の各教室には、最低一つはそれが飾られていたように記憶している。そうした需要があったからか、駄菓子店/文具店/玩具店では、昆虫採集セットなるものが売られていた。標本製作に用いる殺虫剤や防腐剤や注射器や虫ピンなどがセットになった怖ろしげなもので、現在販売されていたら何らかの社会問題になりそうである。自分もそれを小遣いで買った。少年が小動物を虐待することを、学習のプロセスの一つとして、世間が後押ししてくれた時代だった。書いた当時、中津さんの指摘の通り、たしかに二十年前を懐かしむような感覚もあった。そのときからさらに二十年が過ぎている。光陰矢の如しと言うべきか。

きょうの一首。

 夏空よりもややゆるやかな勾配をのぼりゆく秋の蝶かも知れず/荻原裕幸

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August 26, 2010

2010年8月26日(木)/俯かず、背伸びもせず

暑さはあいかわらずだが、蝉がほとんど鳴かなくなった。第51期王位戦七番勝負の第五局は、一昨日の午前に対局開始、昨日の夜に千日手で指し直しとなる。両者疲労の極地で進められた勝負は、深夜一時半頃に終局となったそうだ。指し直し局は広瀬章人六段の四間飛車/美濃囲いに対して深浦康市王位が対抗型での米長玉。シリーズを通してはじめて穴熊ではない将棋になる。なぜかほっとする。振飛車党らしい切れ味の良さを見せて広瀬六段が快勝。三勝二敗とした。

五月に刊行された南野耕平さんの『川柳という方法』(本の泉社)を、折に触れてひらいては楽しんでいる。この本は、現代の川柳入門であり、同時に、他の定型詩の各ジャンルや、メディアとしてのネットも視野に入れて、南野さんの川柳観を多角的に披瀝した一冊でもある。川柳をめぐるモチーフとしてとりあげたほぼすべてを肯定の文脈の上にのせて語り、そのなかから自身が理想とする川柳の領域へと読者を説得して誘導しようと試みているようだ。他を貶めないアジテーションは、アジテーションとしては機能しづらそうな気もするのだが、爽やかな読後感が残るのが何よりも好ましい。俯かず、背伸びもせず、川柳の現在を正面から鮮やかに語っている好著だと思われる。

きょうの一首。

 さみしさはもともとさみしさではなくて蝉の声なき青空を聴く/荻原裕幸

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August 25, 2010

2010年8月25日(水)/幕末に生れて

日中の暑さはそのままだが、日没後は少し過ごしやすくなったか。夜空も澄んで、満月がきれいに見えていた。先日来の、百歳を超える高齢者の所在が確かめられないというニュースの視点が、殺伐としたものからどこかしら失笑をともなうものへと転じはじめたようだ。百四十何歳とか百五十何歳とかの、戸籍上にだけ存在する人が各地で見つかっているらしい。文久だの安政だのに生れているそうだ。思わず手元の日本史年表をひらいてしまった。

数日前、中沢直人さんの第一歌集『極圏の光』(二〇〇九年)の批評会が東京で開催された。都合で出席できなかったので、ネットの記述でその様子を窺う。この歌集については、総合誌「短歌」七月号に、紹介記事的な書評を寄稿した。その折にも記したことだが、思惟にも技巧にも第一歌集らしからぬ成熟があって、新人と呼ばれる域をすでに過ぎた印象がある。そういう歌集が受けがちな、穏やかな賞讃、といったあたりにディスカッションが着地したのか別の展開があったのか。気になるところではある。以下、同歌集から好きな作品を少し紹介しておく。

 西口にカフェラテかおり日本から遠ざかる方向へ歩めり/中沢直人
 鶴川の次が柿生であるように不惑がじわり近づいてくる
 遠い死と近い死が今日も満ちていて手足をたたむ通勤電車
 なじり合って乾拭きをせり二人とも力の抜き方がわからない
 盛大に手を振るアンが中沢の妻に来年も会えますように

きょうの一首。

 妥協すべきではないことに妥協したあとの夜空を渡りゆく月/荻原裕幸

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August 24, 2010

2010年8月24日(火)/誕生日

誕生日。四十八歳になる。家族や友人や知人からさまざまなメッセージを貰う。ありがたいことである。もうあと二年で五十歳になるのかと思うと、それまでには是が非でも実現したいと考えているいくつかのことが、心臓や胃や、その他在処のよくわからない器官にも、きりきりと突き刺さるように感じられる。ほぼ毎日、それらに軽く苛まれながら過ごしているので、誕生日くらいは少し忘れていてもいいかなと、ふわふわとした気分で一日を過ごす。

きょうは誕生日なので、少しことばを休めてみよう。ふいにそう思いついた。ことばを休めたら爽快な気分になりそうだ。素敵な日になるのかも知れない。窓を突き抜ける午後のひざしも、淋しくなって来た蝉の声も、ことばと一緒に休めてみよう。しかし、ことばをどう休めたらいいんだろう。ことばを休める方法がわからない。黙っていても、わたしのなかのどこかでことばが動いているようだし、資産運用の勧誘の電話とか、宅配業者の威勢のいい呼鈴が、ことばを休めることに暗に反対する一派の差金のようにしつこく続く。荻原さん。荻原さんですか。荻原さんいますか。どうやらことばを休めるのは、なかなかハードなことであるらしい。

きょうの一首。

 ネクタイを締めずに暮れる妻の口を奥までのぞく枝豆ゆでる/荻原裕幸

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August 23, 2010

2010年8月23日(月)/あらなくに

処暑。暑さは一向に衰えない。脳死と判定された人の臓器の移植手術が全国数か所で行われたというニュース。家人から、どう思う? と訊かれた。自分の死後の身体については、他の何よりも家族の意志を優先したいので、自由に判断してもらって構わないと考えている。ただ、家族が脳死と判定されたとき、自分はそれをすなわち死だと受け入れるだけの客観的な判断力を失ってしまうような気がして、何かリアルに考えることができない。あるいは考えたくないだけなのかも知れない。

 あるは動詞 あるはわたしたちにかかわる動態
 ないは形容詞 ないはわたしたちから断絶した様態
 あらなくには古いやまとことば もっとも深い喪失の情態/相澤啓三

詩集『冬至の薔薇』(書肆山田)に収録された「非在のノイズ」の一節。こういう突出した一節があると、もうそこだけで独立した詩篇のように感じて、前後の流れに対する読解がややおろそかになりちがちなのは、歌人としての自分の悪い癖だと自覚はしているのだが、それにしてもやはりこの三行の突出ぶりは凄いと思う。相澤さんの抱える「美への憧憬」とか「知への崇拝」とか、それが単体で機能すると危ういことにもなりそうなファクターが、絶妙のバランスでそれぞれを抑制したり揚棄したりしながら、日本語を日常語から詩語へと歪ませてゆくのが快い。惚れ惚れするという感覚を味わわせてくれる稀有な詩人である。

きょうの一首。死について、われわれは何も知りようがないのだが。

 死はどんな出口でもない梨を剥く音をひとりで聞きながら剥く/荻原裕幸

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August 22, 2010

2010年8月22日(日)/太る

家人が早朝から出かける。留守番。八月になってから体重が1キロ増えた。体脂肪率も1〜2パーセント増えた。1キロまるごと脂肪という計算になる。毎日が暑くて体力を消耗するせいか、この時期はやたらにお腹が空いて食べ過ぎてしまう。消耗した分だけを加減して食べれば良いのだろうが、人のからだやこころはそんなにうまく調整ができるものではないらしい。暑さに負けない丈夫な胃腸なのだと、ポジティブに考えることにしようか。

 人が「制度」を充分に怖れようとはしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。/蓮實重彦『表層批評宣言』

一九七九年に刊行された『表層批評宣言』の冒頭の章にある一節。結果的にこの書物が、反「制度」的たろうとした日本のポストモダンの起点の一つになったのは何とも皮肉な事態だが、たぶんその事態が予測できたからこそのこの一節なのだろう。それはそれとして、三十年が過ぎたのに、いまだに「制度」の問題をめぐっての無自覚な感じが解消された気がしないのは、自分がずっと定型詩の界隈に身を置いているからだろうか。折にふれて再考してゆきたい問題である。

きょうの一首。

 いつか踏んだブローチが耳の奥で鳴る夏と秋とのはざまの日暮/荻原裕幸

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August 21, 2010

2010年8月21日(土)/卍解餃子

午後、家人が出かけていたので、一人で近所の中華料理店へ。先週号か今週号かわからないが、店に置いてある少年ジャンプをひさしぶりにひらいて「ブリーチ」を読んだら、久保先生そんな展開ありなんですかみたいな展開になっていて、そのどんでん返しぶりがある意味でいかにもこのマンガらしいとか思いながら、伏線なのか後付なのかをぼんやり考える。それからこれは間違いなく今日付の、店に置いてある中日新聞をひらいて、名古屋ローカルの記事を選んで読む。

短歌同人誌「Es**」第19号(誌名がテーマを含んで変化する同誌のこの号の誌名は「Esそらみみ」)に掲載された、松野志保さんの「オタクが読む『空庭』」に興味を惹かれている。黒瀬珂瀾さんの第二歌集『空庭』の書評である。オタク的志向の強い歌人の視点で書かれた『空庭』論で、オタク的固有名詞/モチーフをめぐる批評に特化している。同歌集の固有名詞全般については、二月の批評会の折に、このあたりのエントリから数日に亘って書いた通り、疑問を感じている面もあるのだが、松野さんのように、私が書くときには的な比較を挿し挟みながらの論考には、気づかなかった点をいくつも教えられた。松野志保さんや同系の志向の人に向けて、ちょっと大きめな風呂敷を渡しておくと、一九八〇年代にあらわれた井辻朱美のサブカルと非サブカルが和気藹々と混ざりあう世界、一九九〇年代にあらわれた藤原龍一郎のサブカル偏重の世界、加えてゼロ年代にあらわれた黒瀬珂瀾のサブカルと非サブカルをそれぞれに偏重しながら意識的に混ぜあわせるような世界とが比較論考されると、オタク/サブカル系の短歌の世界に、好みの問題を超えた表現の問題としての視界がひらけるのではないか。そんな論考も読んでみたいと思う。

きょうの一首。

 気がつくと肩から腰からケーブルがのびてしづかに八月の径/荻原裕幸

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August 20, 2010

2010年8月20日(金)/東京にも田園にも

残暑がかなりやわらいだかなと思ったら、名古屋の最高気温は三十三度だという。たしかに比較すれば少し気温は低くなっているのだが、どこか感覚が麻痺しているらしい。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は13人。詠草13首。題は「田」。地下鉄駅の八田から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。誰もが題に苦労した様子だったが、佳い作品が揃っていた。

 缶ビール頬におしあて眠ってるいつかだれより好きだと言って/畑彩子

昨日に続き、第一歌集『東京』(一九九五年)に収録された一首。ほろ酔いで無防備な男性の姿を見つめる一人称のモノローグは、むしろこの男性以上に無防備であるかも知れない。読んでいてちょっと照れ臭くなるほどの直情だが、モチーフがうっすらと含んだ翳りのようなものが巧く機能している。この二人はあきらかに恋人同士の関係にある。しかし、少なくとも女性の側には、自身がナンバーワンの位置にいるとは確信できない何かがあるのだろう。そのあたりの機微が、爽やかさと遣る瀬ない情感とをもたらしている。現代風に見えながら意外に古典的な心情を描いた佳品。他にも同歌集で惹かれた作品を以下に紹介しておく。

 「接吻」のパズルの破片を転がして鳴らない電話を今宵も磨く/畑彩子
 薄すぎる壁・窓ひとつ・電熱器いっそジャングルジムに住みたい
 愛はどこにあるのだろうね朝帰りのワイシャツの腰にアンニュイなしわ
 三秒後呼び名が変わり抱きあえばもう戻れない夕立のなか

きょうの一首。講座で「田」の題の作例として見せた一首。

 東京にも田園にもまだ住んだことなくて秋めく雲を見てゐる/荻原裕幸

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August 19, 2010

2010年8月19日(木)/食器日和

午後、食器を洗っていて、うっかり手を滑らせた。グラスが手から放れてわぁっと声が出た瞬間、しゃりーんというような甲高い音とともにグラスが消えていた。むろん実際は消えたのではなく、ステンレスの天板に落ちて粉々に砕けてシンクのなかに飛び散ったのだった。割ろうとしてもそんなに鮮やかには割れないだろうと思われるほど見事に粉々になっていた。後始末が大変だったのは言うまでもない。他の食器を壊さなくてよかったとか自分をなだめながら、少し凹む。

 茶碗など黙って洗う涙とはたまれば自然におちる液体/畑彩子

第一歌集『東京』(一九九五年)に収録された一首。一人で食器を洗っていたら悲しみ/涙が飽和点に達して、しかしこんなのは何でもないことだよ、たまれば涙も自然に落ちるんだよ、と自身に言い聞かせているような感じだろうか。緊張が日常の平均値を上回っているとき、ネガティブな感情に苛まれることは少ないと思う。下回ると途端にそれはどこからかやって来る。何かを忘れていようとするとき、人は別の何かに打ちこもうするが、黙々と食器を洗う行為は逆効果で、真正面から向き合いたくないほど嫌なことなど、直近の関心事が意識の表面に浮かび上がって来る。わかるわかると思わせながら、ありきたりだなと感じさせないのが佳い。冷静であろうとするモチーフと修辞を整えてゆくプロセスがうまくリンクしたのだろう。

きょうの一首。賃貸マンション生活。

 蜩の声たつぷり沁みてゐるここに住む以前からここにある窓/荻原裕幸

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August 18, 2010

2010年8月18日(水)/逆説気質

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は六人。テキストは前回にひきつづき、蓮實重彦『「赤」の誘惑・フィクション論序説』(二〇〇七年)。内容についてここでは直に言及しないが、これほどまで精緻/複雑に自身の思考を反映させようとしているかに見える文章が、実は文章に自身の思考が反映されるという考えを徹底して疑い続けている。論理的であることと結論を導き出すことの違い、しばしば混同されがちなその違いが、鮮烈に提示されたテキストでもあった。

 お位牌の数が愉快になってくる/平賀胤壽

昨日に続き、第二句集『水摩』(二〇〇八年)に収録された一句。細かな事情は何も語られていないが、「お位牌」が、しかも「数」として捉えられているのは、身内における故人が時の経過とともに増えてゆくのを言っているのだろう。愛情や憎悪がどんなかたちで生じるにせよ、誰も「愉快」になどならないはずだ。にもかかわらずこの句は「愉快になってくる」と言い切る。これは何なんだろう。その身内の死が苦痛をもたらしていることを前提にすれば、これは、苦痛に耐えかねる自身を何とか支えよう救おうとしているもう一人の自身のことばのように見える。わが家のお位牌の数も愉快なことになって来やがったな、とかなんとか、散文的に言えばそんな自棄的な口ぶりの人の姿を想像してもいいだろう。二重化した一方の意識がややどぎついユーモアとしてあらわれているのだと思う。一人のことばとして完結してしまう短歌では見られない、川柳ならではの表現だと言えようか。他にも同句集で惹かれた作品を以下に紹介しておく。

 鍵の音すっぽんぽんのどこからか/平賀胤壽
 父の背は表だ父の背を流す
 嗣治のこちらの猫を貰います
 鳥籠にこれほど空があったのか
 包丁と鋏を研いで留守にする

きょうの一首。

 絶望が来てやはらかな夕焼が来てことばではないものが来る/荻原裕幸

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August 17, 2010

2010年8月17日(火)/猛暑再来

暑い。名古屋は、と言うか、全国的にか、きのうからまた猛暑がやって来ている。早朝や深夜の空気には少し秋っぽい感じがある気もするし、もう峠は越えたかと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。暑いね、むちゃくちゃ暑い、クーラーのなかでも暑いね、そうだね、とけちゃうよ、たぶんとけやしないと思うけど暑い、真夏だね、いやもう秋だけど暑い、アイス食べようか、そうしようか、などとそんな会話が繰り返される荻原家であった。

 丸腰のまま花束を持たされる/平賀胤壽

第二句集『水摩』(二〇〇八年)に収録された一句。初読のとき、おお、というような感じがあって付箋をつけた。ただ、その、おお、の内実を説明しようとすると、ことばがうまく見つからない。ことばの意味でわからないところはないのに、と言うかむしろ、わからないところがないからこそ、説明がつかないのかも知れない。あからさまに日常的/社会的な事象とつながる比喩や寓意は、川柳を解釈しやすくはするのだが、表現としての強度を損ねてしまう。この句は逆に、何かを強烈に伝えている分だけ解釈はしづらいようだ。やや強引に、丸腰→武器を持たない→戦争放棄と連想して、この花束を憲法第九条だとする読解も可能ではあろう。ただ、そんな解釈を思い浮かべるのはたぶんいまが八月中旬だからなのであって、他の時期に読めば他の解釈が生じるのではないかという気はする。

きょうの一首。

 何か一つ色がこの世に欠けてゐるやうな秋暑のなかバスを待つ/荻原裕幸

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August 16, 2010

2010年8月16日(月)/と杏圭全馬龍

第23期竜王戦挑戦者決定三番勝負で羽生善治名人と久保利明二冠が対戦。久保二冠の石田流/穴熊に対して羽生名人が対抗型から急戦を仕掛ける。序盤のかけひきではどちらも自分の主張を押し通した感じ。中盤終盤にかけてはかなり激しい攻め合いが続いた。ネット中継はプロ棋士の検討を超越した展開で盛りあがる。寄せで見せた羽生名人の指し手にプロ棋士から「悲鳴が上がった」のだとか。鬼気迫るという形容も大袈裟ではない迫力の将棋で、羽生名人が第一局を制した。

現代詩と短歌とは同じ詩の仲間だとか言われてもぴんと来ないのは、現代詩に十代の痛い感傷のイメージがあって、短歌に還暦後の手習いのイメージがあるから、とかたぶんそういうこととは全く関係がないだろう。読むときはともかく少なくとも書くときに決定的に違うのは、現代詩にはあらかじめ決まった型がなくて、短歌にはあらかじめ他者の決めた型があることだと思う。この観点からすると日本の詩のジャンルで現代詩だけが特別な存在ということになろうか。短歌をはじめ定型詩が詩であることが仮に揺らがない事実だとして、詩が型と文字/意味/ことばとの融合の上に生成されるものだとすると、現代詩を書くときにも型は任意に決めるものではなく、探りあてて必然的に決まるものでなくてはならない気がする。もちろんここで言う型が定型詩の定型のように具体的なものである必要はどこにもないが、現代詩を外から見ていると、そのあたりが茫洋としていてわかりにくい。わかるためには、やはり現代詩をあらためて書いてみるしかないのだろうか。

きょうの一首。

 寝ることと死ぬことの差が判らなくなりさうな疲れに咲く木槿/荻原裕幸

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August 15, 2010

2010年8月15日(日)/鰹鱒鰻鮪鰺

終戦記念日。夕刻、義母と家人と回転寿司に行く。某大手スーパーのモール内に、今年三月にオープンした店で、最近ときどき足を運んでいる。金沢の人気店がはじめて県外に出店したのだとか。お盆休みだからか日曜だからか、人だかりができていて三十分近く待たされた。テーブル席で、ファミレス風のメニューを見ながら、タッチパネルでオーダーする。昔ながらの寿司屋さんが好きな人には向かない店だが、三人で大いに盛りあがり、満腹を少し過ぎるまで食べてしまった。

結社誌「短歌人」8月号の「20代・30代会員競詠」を読む。以前は十代と二十代の特集だったという話が「編集室雁信」に書かれていて、自分がこの雑誌の購読会員だったとき、高瀬一誌さんから、出稿するようにと案内をもらったのを懐かしく思い出した。結局そのときは出さなかった/出せなかったのだが、出せばよかったといまだに後悔している。一九八〇年代、たしか外部からの寄稿も可能で、周囲の二十代歌人の間では、「短歌人」のこの作品特集の誌面と総合誌の新人賞発表の誌面とが、ほぼ同じステータスを持っているという空気が感じられた。以下、惹かれて付箋をつけた作品を引用させてもらう。

 産んだのか生まれたのかもわからない深夜の闇に目を開けている/天野慶
 行きがかり上CMに出たという顔をしてCMに在り中島みゆき/生沼義朗
 白い腕から遡り思い出すきみの体の残りの部分/大橋麻衣子
 日焼けしたつむじ見下ろす葉桜の他意なき緑ただ在る緑/河村奈美江
 爪切りのために広げた新聞に九日前の天気図がある/黒崎聡美
 夕暮れはうれしいようなそうでもないような気もする夏の入口/高田薫
 家具のない部屋はただの場所でしかないのだろうと気づき扉を閉じる/同
 訂正しても山田くんと呼ぶ人の世界の中で僕は山田だ/渡口航
 会うたびに印象の変わる母からの「パリに行こう」と書かれた手紙/中井守恵
 卓上にちがふコップがならびをりあるかなきかに見ゆる関係/花笠海月

きょうの一首。

 ゆふやみが来て声がとぎれて友人が夾竹桃のすがたにもどる/荻原裕幸

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August 14, 2010

2010年8月14日(土)/ことばのひびき

先日、もらい事故で警察署に出向いたとき、交通課の近くに窓口があって「愛知県/証紙売りさばき所/愛知県交通安全協会」という看板が掛けられていた。交通違反の罰金等を収めるときに証紙を販売するスペースであるらしい。ひっかかったのは「売りさばき」である。売り捌くというのは、ただ売るのではなくて、積極的に売るとか巧みに売るというニュアンスではなかったか。たぶん専門用語なのだろうが、場所が場所だけに何だかとても深い違和感がある。

 湧くやうに咲きゐし梅がひのくれはほかりほかりと固まりになる/河野裕子

昨日に続き、第十二歌集『庭』(二〇〇四年)に収録された一首。誰もが目にしたことのありそうな春の風景であり、あああんな感じかとすぐにイメージできそうではあるが、ありきたりな印象がないのは、オノマトペの効果だろう。耳慣れないものとは感じない、ほかりほかりと、は、しかしおそらくオリジナル的な用法だと思う。オリジナルのオノマトペは、こどもの描く絵のようなもので、技法以前、と言うか、技法を超えていて、純粋さや人間力みたいなものがまともに反映される。もともとオノマトペやそれに類する表現の多い歌人なので、作品としては地味な印象もあるが、このモチーフを文体/口吻のちからだけで楽しく読ませてしまうあたりに、この作者の真骨頂のひとつが強く感じられる。

きょうの一首。河野裕子さんのオノマトペの短歌をあれこれ読んでいたら、どう書いても似てしまいそうな気がして来たので、具体的なオノマトペを入れないオノマトペの作品をまとめてみた。

 オノマトペがしたたか踊るまだ去らぬ暑さを呪ふのか妻の声/荻原裕幸

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August 13, 2010

2010年8月13日(金)/悲報

昨日、河野裕子さんが亡くなったという。享年64歳。くっと息がつまるような感覚が来る。はじめて話をしたときのことを憶えている。すでに初対面ではなかったのだが、或る会でこちらの顔を見るなり、あ、荻原さん、と、つかつか歩み寄って来たのにびびっていると、いきなり、うちの息子が、あなたの*****(伏字、記号ではない、念のため)という歌が好きで、紙に書いて机の前に貼ってあるの、だからわたしも覚えてしまったわ、いい歌よね、と言った。素直にうれしかったので、それは光栄です、とうわずった声で答える。その後も息子さんのことをあれこれと話して風のように去って行った。淳さんが歌を書きはじめてさほど年数を経ていない頃で、ぼくの歌がどうこうではなく、息子さんが自身の教えた歌ではない歌を自力で見つけて好きになった、ということが楽しくてしかたないといった感じだった。河野さんが息子さんを描いた一首の、作品鑑賞のエントリにリンクしておく。

 のりしろをいつもはみ出す糊のやう、ああめんどくさいこの人の電話/河野裕子

第十二歌集『庭』(二〇〇四年)に収録された一首。小品的な作品だが、河野裕子の人物としての雰囲気がよく出ていると思う。歌集の配列から考えて、この人、を、家族の誰か、短歌の仲間の誰かとして、私的背景を特定できそうなのだが、そこを突きつめて読む必要はないだろう。親しい人で、電話でしばしば話をするようだし、愛情や好感をもっているのもわかる。しかるにこの人の電話は、ときに無意味に脱線したり妙な方向に無駄に膨らんだりするらしい。拒むつもりはないにしても、ああもうめんどくさいなあと感じる瞬間があるのだ。焦慮が七と許容が三ほどだろうか。感情のブレンドの具合が何とも言えず快い。糊代のたとえも絶妙で、相手の人物の印象を明確にすると同時に、貼りあわせの作業をするとき、さほど神経質にはならない、けれどもはみ出す糊のことは気になる、という、トリビアルながらどこかで世界観にもつながる性格が顔をのぞかせている。小さくて大きな一首だと言えようか。

きょうの一首。

 うつかりと窓あけたまま八月のわたしのなかに雨がふりこむ/荻原裕幸

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August 12, 2010

2010年8月12日(木)/うっかりと卵と時計

短歌の結社誌を読んでいると、毎月の詠草に、「何々集(8)」だとか「私的何とか論(15)」とかいう具合に、ナンバーのある表題をつけて、連作と呼ぶほどには緊密でない緩やかなシリーズとしてまとめているのをよく見かける。むかしからあれを一度やってみたいと思いながらまだ果たせていない。「きょうの一首」ではなく、何かそういう表題をつければよかった、仕切り直すときは何か別のをつけよう、と考えていたのに、うっかりまた「きょうの一首」にしていた。間の抜けたことに、ブログを再開して半月以上も経ってからこれに気づいたのだった。

 美(うるは)しく生まれかはりし部屋中に本が卵を産みはじめたり/岡井隆

昨日に続き、第十五歌集『宮殿』(一九九一年)に収録された一首。自分はどんな傾向の短歌でも執拗なまでに考えて楽しむところがある。けれど、この作品についてはあまり深く考えていない、と言うか、考えが進められない。なぜか生理的な恐怖感があるのだ。考えようとすると怖くなってしまう。だからこそ凄い作品だという気もするのだが、どこがどう凄いのかを考えて述べられないのが歯がゆい。せめてその歯がゆさを人に伝えてみたいと思って引用してみた。こうしてタイプして遠巻にしているだけでも何か怖い感じがやって来る。

きょうの一首。

 雑音のなかからゆるくたちあがるこの世の音のひとつに時計/荻原裕幸

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August 11, 2010

2010年8月11日(水)/力と技と力技

第51期王位戦七番勝負の第四局は、深浦康市王位が広瀬章人六段を抑えて二勝二敗のタイスコアに。シリーズが完全にふりだしに戻る。第23期竜王戦決勝トーナメント準決勝で、羽生善治名人と阿久津主税七段が対戦。ゴキゲン中飛車を選択した阿久津七段が指しやすそうに見えていた展開が千日手になって、指し直し局の角換わりの将棋では、羽生名人が力でねじ伏せるような展開になる。七十六手と短手数で勝負が決して、羽生名人が決勝/挑戦者決定戦に進んだ。

 お通しの焼きねぎの色うつくしく通(かよ)ひあふものなけれど飲まむ/岡井隆

第十五歌集『宮殿』(一九九一年)に収録された一首。歌集の刊行された年から考えると題詠ではなさそうだが、岡井隆の題詠的文体の特徴の一つが出ていることに興味を惹かれた。まずは「通」の字から引き出された日常的な風景が、その引き出しの強引さゆえに自然には展開せず、いま一度「通」の字を捉え直すことで一首を構成してゆく。この力強く冒頭から書き下ろしてゆく感じ。気心が知れているわけでもない相手と酒席を共にすることになり、そうした世の常のなりゆきに微妙なひっかかりはありながらも、しかしまあこれも何かの縁なのだろうという納得の感覚を、焼き葱の彩りの美しさにことよせてみる、というモチーフはもちろん自然でリアルなものなのだが、ことばを捌いてゆくプロセスがよく見える一首だと思う。

きょうの一首。

 いつまでが夏なのかどのあたりまで私であるか真夏日をゆく/荻原裕幸

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August 10, 2010

2010年8月10日(火)/凹

夕刻、近所のスーパーで買い物を終えて店舗を出ると、駐車場にとめてあった荻原家の車に、目の前でよその車がごんとぶつかった。とんだ災難である。ぶつけたドライバーは、空きスペースだと思い違いして突っ込んだと言っていた。ナンバープレートが凹んだ他には、目に見える大きな被害はなかったのだが、ディーラーが夏休みで相談もできないため、とりあえず、ぶつけたドライバーと警察署に出向いて事故の届けを出す。見た目以上の被害がないことを願うばかりだ。

もうずいぶん前のエントリになるが、週刊俳句第156号に、斉藤斎藤さんが「穴について」という文章を書いている。面白いところに目をつけた文章だと思う。穴/括弧がわざと消されていないように見える、というのは、それが推敲のプロセスで自然発生的にできた穴/括弧とは微妙に違うことを意味しているのだろう。短歌や俳句や川柳を書いていると、斉藤さんが言っている穴/括弧に少なからず遭遇する。他の部分の表現が安定していて、どこか一箇所だけブランクが生じている状態である。この状態になったとき、自分は、短歌と俳句と川柳とでそれぞれに違う対処法をとっている気がする。詳細はとりあえず企業秘密ということにしておくが、それぞれのジャンルに対して自分が何を求めているか、それがかなりはっきりと浮かびあがる瞬間かも知れない。

きょうの一首。

 抽象はすぐにゆるんで溝やロープだつたものから声する残暑/荻原裕幸

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August 09, 2010

2010年8月9日(月)/個人情報は保護されて

長崎原爆忌。百歳を超える高齢者の所在が確かめられないというニュースが相次いで報道されている。死んだらできるだけ静かに葬ってほしいという話はよく聞くし、誰にも気づかれないように死にたいなどと言う人もいるようだが、今回の件は、どうやらそうした本人の希望によるものとは違うようで、遣る瀬ない気分になる。超高齢者だからこんな現象が生じるのだろうか。他の年齢層ならほんとにきちんと所在を確かめられるのか。気になるところである。

情報が少ないと人はそれを渇望する。情報が氾濫すると人は食傷しはじめる。草創期からネット上で起きているのはそういうことだ。あたりまえと言えばあたりまえの反応である。情報が充実しているという適度な状態が維持できればいいのだが、なかなかそううまくもいかない。ブログやツイッターは、情報を細切れにして摂取しやすくする優れたシステムで、ネットを活性化している。だが、いくら細切れでも、数が増えてしまうと結局すぐに摂取しきれなくなる。人は何を優先して摂取すべきかと思い悩んだ挙句、面倒になってすべてから遠ざかったりしている。ネットがどんな方向に進んでゆくのかさっぱりわからなくなりつつある状況で、一個人のブログを読んでくれている読者にあらためて感謝をしなければと思うこの頃である。

きょうの一首。

 絶対といふ雰囲気はややかげりながらふたりで西瓜をはこぶ/荻原裕幸

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August 08, 2010

2010年8月8日(日)/サルビアの花咲く頃

午後、雷が鳴って雨が少し降る。日曜だからたぶん本放送のはずだが、ちらっと見たテレビの「サザエさん」の、磯野家の茶の間を外から映すシーンで、窓辺にサルビアだとはっきりわかる花が咲いていた。俳句的な感覚が来て、もう立秋なのにサルビアか、と思う。いま巷にサルビアは咲いている。まだずっと咲き続ける。立秋だから秋の花というのではいきなり過ぎて不自然な印象にもなる。実感と認識の間の、どのあたりに着地して日々を過ごすのが好ましいのか。今年も、晩夏という時間をほとんど意識しなかったが、すでに秋である。

 蝉鳴いてこの世をことにはるかにす/加藤耕子

第二句集『尾張圖會』(一九八七年)に収録された一句。ものの密集した空間で蝉の声を聞くと、ただうるさいだけにも思われるが、広がりのある空間で聞くと、情緒的なものが生じることがある。郊外はもちろん、都市の真ん中のビル街でも、蝉の声は空間の広がりを明確に感じさせて、目に見えない奥行があるような感覚をもたらしてくれる。ものと自分との間にある距離を情緒的に認識させられる、と言い換えてもいいだろう。この句の蝉がどこで鳴いているかはわからないが、「はるかにす」というのは、そうした蝉の声のもたらす、目に見えない奥行の感覚につながるものだと思われる。「ことに」はたぶん、一段と、に近い意味だろう。世界と自分との距離が、蝉の声によって、否応なくあきらかにされるのである。

きょうの一首。

 夏の服のままのあなたのやはらかな波をひざしが撫でて立秋/荻原裕幸

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August 07, 2010

2010年8月7日(土)/山口百恵は菩薩だけど

立秋。先日、友人から松田聖子の初期のベストアルバムを聴きたいと言われて、たしかCDを持っていると思うので探して見つかったら貸してあげるよと約束した。むかし聴いていたCDをまとめてあるストッカーをざっと探してみたが、あるはずの一枚がどうしても見つからない。松田聖子で見つかったのは、一九八二年にリリースされた「Pineapple」というアルバムだけだった。ベストよりも気に入っていてよく聴いていたもので、懐かしくなってしばらく流していた。しかし、ベストアルバムはどこに行ったのか。

以前、詩人の田中庸介さんが名古屋に来たとき、深夜のホテルのラウンジで話をしていて、現代詩の「改行」を朗読によって表現/再現できるかできないかを議論したことがあった。田中さんはもちろん、可能であることを力説していた。自分もそれを可能だとは思っていた。ただ、何か素直に同意できないところがあって、二人で頑固な議論を続けたのだった。そのときうまくことばにできなかったことをあらためてまとめてみると、「改行」が朗読されるとき、それは「間」や「合図」のようなものとして表現される他なく、自分の考えでは、その「間」や「合図」は、作品に内在するものではない。つまり、一行一行には本来ないはずの「時間」が、朗読上の「改行」を表現するために招致されて、それが逆に何らかのかたちで作品を浸食しているのではないかと感じるのだ。短歌やその他の定型詩では起きない現象だから気になるのかも知れないし、だからと言って現代詩やその朗読に何か問題が生じるわけでもないのだが、ともあれ、現代詩と短歌をはじめとした定型詩との違いが見えて来るポイントの一つなのではないかと思う。

きょうの一首。一光年は約九兆四千六百億キロメートル。時間の単位だと誤解されることが多いようである。一例。その場合、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」などはどんな風に理解されるのだろうか。

 一光年がつまりは距離であることにぴんと来なくて揺れる朝顔/荻原裕幸

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August 06, 2010

2010年8月6日(金)/炎天の下、緋毛氈の上

広島原爆忌。午前、地下鉄で高岳まで行って、文化のみち二葉館まで歩く。九時を少し過ぎた時点で、あたりは真夏のひざしに充ちていた。午後から開催される短歌大会のオプションとして企画された「名古屋文化のみち散策」に講師として同行。橦木館や二葉館をはじめとして、近世から近代にかけての歴史の残る街路を、ガイドさんに連れられて、参加者とスタッフと総勢十数名で二時間余り散策したのだった。自分もはじめて行く場所がほとんどで、随分楽しませてもらったが、さすがに真夏のきわみのような日に歩き回るのはきつかった。

午後、名古屋能楽堂へ。NHK学園と名古屋市が主催する「開府400年記念名古屋短歌大会」に出演する。岡井隆さんの講演と、事前に投稿そして選歌された入賞作品の顕彰とが主たるプログラム。能楽堂の舞台裏で、岡井隆さん、小塩卓哉さん、斎藤すみ子さん、笹公人さん、古谷智子さんら、本日の選者と合流する。午前の消耗がかなり来ていたが、能楽堂の舞台裏のはりつめたような空気に触れて元気になる。と言うか、テンションが高まる。岡井隆さんの講演は、当日詠の選歌をしながら、舞台裏のモニターで視たり聴いたり。その後、選者全員で舞台にあがって、各賞の表彰や特選作品の顕彰や短歌を書くこつのようなものについての話などする。演出のサイドと直にかかわらないイベントだったので、何か作歌のヒントになる話ができればと、自分としてはかなり珍しく、舞台の上で純粋に短歌のことだけを考えていた。能楽堂のキャパからすると席数にまだ余裕はあったようだが、聴衆は450人を超えていたという。

きょうの一首。宴のあとに。

 夢がまだ暮れのこるやうな声だつた夏の電話のかなたに繊く/荻原裕幸

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August 05, 2010

2010年8月5日(木)/ぼくは総理大臣じゃないけど

一か月ほど前、ちょうど参院選の時期に、カーラジオから「ぼくがそーりだいじんになったら」というフレーズを枕に、恋人への思慕を情を延々と語るように歌う声が流れていてこころ惹かれた。ラッドウインプスの「マニフェスト」という曲だった。政治のマニフェストに否応なくまとわりつく胡散臭い感じを逆手に取って、つっこみどころ満載なのにほのぼのしたりしみじみしたり感心したりできるタイプのだったらソングに巧く仕上げていると思った。

午後、歌会の詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。はじめてのメンバー一人を含めて参加者は十人。題詠「生」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。印象に残ったこと。「半夏生」として題を使った一首があって、それに反応したメンバーの一人から聞いたところによると、某所の某歌会では、七月あたりには題でもないのに詠草のほとんどが半夏生の歌になるのだそうだ。冬場には臘梅だらけになることもあるのだとか。東桜歌会ではまずあり得ない現象なのだが、それはそれで楽しい光景ではないかと思う。それと、ある詠草のレトリックに、某物質が雨樋を詰まらせる云々といった表現があって、斬新だなあと思って一票投じたら、まるでリアリティがないと批判が集中した。リアリティを求めた作品じゃないはずだが、否定の意見が肯定を上回って気分的にめげた。

きょうの一首。「生」の題詠として歌会に提出した一首。

 生きてゐる証などどこにもなくてそれでもかだからなのか夕焼/荻原裕幸

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August 04, 2010

2010年8月4日(水)/必殺技が出る前に

広瀬章人六段が深浦康市王位に挑む第51期王位戦七番勝負の第三局。昨日からの二日制の対局を広瀬六段が制して二勝一敗とした。振飛車穴熊が得意と言われる広瀬六段だが、往年の大内延介九段のように、必殺技化して何が何でも穴熊、というほどの姿勢は見えない。激しい終盤戦を好む棋風が穴熊の頻度を上げているだけという気もする。実際、本局でも対抗型で振飛車穴熊としたのは深浦王位の側だった。もしかするとどこかで相手の必殺技を封じようとする深浦王位の誤解のようなものが、いまのところのシリーズの星数に影響しているのかも知れない。

明日木曜、東桜歌会の例会がある。ブログを落としていた間のことをちょっと備忘録的に。五月の例会はGWの関係で休み。六月の例会は三日夕刻、栄の愛知芸術文化センターにて。題詠「成」と自由詠。参加者は九人。七月の例会は一日夕刻、栄の愛知芸術文化センターにて。題詠「住」と自由詠。参加者は八人。六月と七月の例会に提出した題詠は以下の通り。題詠の題を真に受ける、という姿勢を意識しながらまとめたせいか、よく似た構文になっていたのは、こうして書き並べてみてはじめて気づいたことだが、小器用な感じで組みこむよりも、調べもモチーフも比較的のびやかな印象になるのではないかと思う。

 成ることのおほむね鳴るにつながつて六月の木によく鳴る青葉/荻原裕幸
 住むことにどこか誇りをもてなくて夕陽に灼けてゐる成田外科

きょうの一首。

 川の流れでありスリリングな境界線でもあるか日盛りに笑む妻/荻原裕幸

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August 03, 2010

2010年8月3日(火)/猛暑と水母とシロノワール

気温的に猛暑日ではなかったようだが、そんなことはどうでもいいという感じの暑さだった。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。地下鉄から地上へ出ると、首筋のあたりにいきなり蒸しタオルをのせられたような気分になる。東西句会の月例句会。参加者は五人。題詠「水母」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店で、引き続き俳句についてあれこれと話す。

句会に提出した俳句は以下の五句。自分が俳句で書いてみたいというイメージが思いがけずかたちになった気がした。とりわけ「夏草」と「空蝉」は、出来のよしあしはともかくも、そういう種類の句であった。もう一度書こうとしても、と言うか、意識的に書こうとすると書けないものだと思うが、俳句について、何か少し掴みかけているのではないかと、前向きに考えてみることにした。

 熱田区旗屋町のあたりの立葵/荻原裕幸
 夏草の向かうにマミー美容室
 佳き音がして空蝉はこなごなに
 ゆつくりと来たのに急に草の息
 くらげ鳴く声かとおもふ昼の波

きょうの一首。まとめてみて、趣向があまりにも月並で、あ、これはだめかな、とも思ったのだが、辛うじて何かが成り立っているようで、捨て切れなかった。

 声になることのなかつたこころねに満ちて花火のあとの暗がり/荻原裕幸

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August 02, 2010

2010年8月2日(月)/あぶらぜみのなく頃に

昨日から猛暑が戻っている。見かける人々はどこかしら疲労した様子で、蝉ばかりが元気である。机上にある某歳時記で「蝉」の項をひらくと、冒頭に「夏の日をやかましく鳴き騒ぐ昆虫の声楽家である」などと記されていた。たしかに、鳴き声、と言ったりするわけで、器楽ではなく声楽ということになるのだろうが、音楽家とでもしておけばあたりさわりないところを、妙にこだわった書きぶりである。項目の執筆者名を見てみると、山本健吉だった。なるほどと言うべきか。

明日火曜、東西句会の例会がある。ブログを落としていた間のことをちょっと備忘録的に。五月の例会は十一日午後、東別院の名古屋市女性会館にて。題詠「胡瓜」と雑詠四句。参加者は五人。六月の例会は事情で中止。七月の例会は都合で欠席した。五月に提出した俳句は以下の五句。「夏の鞄」と「夏の雲」の二句は、先日の八事句会にも出詠して感想をもらった。

 無きもののごと在る夏の鞄かな/荻原裕幸
 卯の花曇り千円札にメモがある
 あれそこにゐたのと妻が言ふ薄暑
 くたびれたくつしたばかり夏の雲
 くるみとか読まれて胡瓜刻まれて

きょうの一首。

 ジーンズの右膝だけが擦れてゐてどんな夏だつたのかと思ふ/荻原裕幸

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August 01, 2010

2010年8月1日(日)/八月朔日に生まれて

きょうは笹井宏之さんの誕生日。おめでとう、と言えば、聞こえるものなのかな。聞こえていたら、おめでとう。以前に笹井さんのお母さんからもらった手紙の、追伸のように書かれた一行に「8月生まれで名前の読みがごいっしょです!」とあって、そこまで何とかこらえながら読んでいたのに、堰が切れて、泣いてしまった。笹井さんが故人でなくても、きっとお母さんは同じことを書いたと思う。それなら自分は泣くこともなく、たぶんけらけら笑ったんじゃないかと思う。母親って変なとこにこだわるよな、とか、笑いながらブログを書いてみたかった。

夏だからか夏休みだからか夏祭りがあったからか、きょうは外でやたらに若い男女のカップルを見かけた。地下鉄のホームで別れるときに人目を憚らずキスをしている男女もいて、もしもしあなたたちは欧米人ですかとか思いながら、なんとなく見て見ぬふりをするといういかにも日本人な行動をとってしまった。そう言えば、むかし、母が、街角で人目を憚らない男女について、あんなに人目のあるところであんなことをして、みたいに言うのがおかしくて、人目のないところならいいの? とからかうように言ったら、莫迦っ、と叱られたことがあった。人目を憚らないのを悪いとは思わないが、しかしまあ、冗談ではなく、むかしもいまも(少なくとも日本の)男女の恋愛の基本は、互いの価値観がどうとかこうとか言う前に、人目につかない/他者の視線に共有されない二人だけの時間と空間を共有することのような気はする。

きょうの一首。

 芝生に寝ればゆたかに浮かぶ夏雲の下をちひさな雲が動いて/荻原裕幸

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