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September 30, 2010

2010年9月30日(木)/ブラック

午前、電話が鳴る。出てみると郵便局の人で、荻原さん宛の荷物に、お届けの時間帯の指定が二つ書いてあるんですけど、どちらでお届けしたらいいんですか? と訊かれる。しかも、どこかに、困るんですけどこういうのは、みたいなニュアンスが含まれていた。ブラックな自分が出そうになるのをぐっと抑えて、いますぐ来てもらって構いませんよ、と答える。筋違いな電話はやめて下さいね、とも伝えたのだが、何を言われているのかぴんと来ている様子はなかった。やれやれ。

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、先頃ネットでも話題になっていた俳句と有季定型についての話題を枕にして、島田修三さんの第六歌集『蓬歳断想録』(短歌研究社)と若見政宏さんの自選詩集『欲望の街 流れる人』(文芸社)をとりあげた。分量は四百字で四枚半弱。ちょうどこの原稿をまとめている時期に、この時評の対象にすべきだと感じる作品集が何冊も届いた。次回以降の選択と構成がかなり大変そうだが、楽しみながら悩むことにしようと思う。

きょうの一首。

 名状し難い気分ひろがる曼珠沙華へし折ればなほ深くひろがる/荻原裕幸

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September 29, 2010

2010年9月29日(水)/ハイ

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の三回目。きょうの題は「梨」。出席者は10人。詠草10句。読解を中心に添削的な批評をする。講座で話をはじめると、どこからかハイな状態がやって来て、自分が、数秒先の自分の考えを話しているような妙な感覚が生じた。講座後、クールダウンのつもりで、某喫煙所のベンチで、あたりをぼんやりと眺めながら、しばらくできるだけ何も考えないように過ごす。きょうの題に即して一句。

 梨ひとつ鏡の奥にもうひとつ/荻原裕幸

第58期王座戦五番勝負第三局。先手の羽生善治王座は居飛車、藤井猛九段は中飛車に構えて、定跡を逸れての味わいある序盤が続いた。互いの布陣に不満がなくなったあたりで駒が烈しくぶつかりあう。途端に藤井が窮屈な展開を強いられてゆくことになる。優劣が見えて来るという感じではなく、一気に羽生の勝勢となった。終盤で多少もたつく局面があったものの、差が詰まるほどでもなく終局に。羽生が三連勝で王座を防衛した。藤井にはほとんど見せ場のないシリーズとなったが、羽生のこのところの強さが尋常ではないのだと思う。羽生はこれで三冠を維持。王座戦十九連覇。三連勝での防衛が六期続いている。

きょうの一首。

 父かぎりなくつよき日のあきぞらを想ひつつ見るけふの曇天/荻原裕幸

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September 28, 2010

2010年9月28日(火)/名古屋市

きょうはねじまき句会の例会の日だったのだが、都合で欠席した。残念だった。名古屋市議会のリコールの署名集めが昨日で終了したという。有効署名が法定数に達していれば、次は住民投票へと進むことになる。河村たかし市長の支援団体による署名集めで、住民税の一割減税を推進しようとする市長と財源問題でそれに難色を示す市議会の対立がどんどん激化しているらしいが、判断の基準になる情報が不足したままの状態で判断を迫られている気がしてならない。

「なごや文化情報」の十月号が届く。この号の「今月のうた」欄に、短歌三首と二百字弱の短いエッセイを寄稿した。「なごや文化情報」というのは、名古屋市文化振興事業団が月刊で出している冊子で、名古屋市の諸施設で無料配布している。芸術や文化に関する、名古屋市を中心とした地元的な記事を毎号掲載していて、うまく説明するのが難しいが、どちらかと言えば伝統的な色彩の強いジャンル、商業的競争が比較的表面化していないジャンルの活動をバックアップする傾向が強い。地方行政的編集の良質な部分が強く前面に出ている冊子かと思う。

きょうの一首。備忘的に記しておけば、題材にしたのは回想である。この秋はなぜかまだ一度も鵙の声を聞いていない。

 中央線のしづかな西の端に来てしづかなひとと聴くあさの鵙/荻原裕幸

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September 27, 2010

2010年9月27日(月)/恙なく

執拗な暑さの反動で、底まで沈み続けるようなものさびしい感じが一気に来るかとも思ったが、意外なほど爽やかな日和のなかを、九月が恙なく暮れてゆく。午後、同朋大学へ。後期の文章表現/文芸表現の講義の初回。中村公園の駅から、途中、喫茶店に寄って、珈琲を飲んで、あたまとこころの整理をして、喫煙を済ませてからキャンパスに向かう。受講者数はいまのところ流動的な状態だが、出席者は二十人弱、名簿上は二十人を超えているようである。

秋の深まりを情緒的かつステロタイプで語る主人公の科白の後に、それを聞いたヒロインが、**さんは詩人ね、などと言ってうっとりするような、冗談としか思えないシーンを、映画やドラマのなかで繰り返し見て来た。具体例を思い出す気にはなれないのだが、主人公のそうした科白は、むろん詩でもなければ詩的でもない。好意的に見ても、かつて詩的であったものの形骸を不器用になぞっているだけだろう。詩が口語で書かれる、つまり、詩が詩的な規範をもった特別なことばで書かれない、という事態がこうしたシーンを呼び寄せているわけだが、ともあれ、実際に書かれている現代詩のことばは、情緒的かつステロタイプであることからつねに遠ざかろうとする傾向があると思う。もうひとつの日本語としての定着と逸脱とを小さく繰り返す傾向のある定型詩とは違って、現代詩は、日本語でありながら日本語から遠ざかることで詩としての固有性を確保し、定着しない質のことばを求めているように見える。

きょうの一首。

 秋が誰かを詩人にしたりすることを拒みもせずに芒がゆれる/荻原裕幸

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September 26, 2010

2010年9月26日(日)/驚く

ティッシュペーパーのボックスを開封したとき、はじめの一組がするっと抜き取れるかどうかは、それだけで商品価値を一割程度は左右するんじゃないかとか感じていたのに、ふだんドラッグストアなどで何も考えずに特売品を買っていたせいか、ずっとそうした仕様のものに行きあたったことがなかった。先日、たしかどこかの店で特売品になっていた某有名メーカーの商品が、はじめの一組からそれはもう見事なまでにするっと抜き取れて驚く。籤に当ったような気分になる。

 コスモスのくれなゐ揺れて風を煮る風に子供は言葉をのせて/米川千嘉子

昨日に続き、第二歌集『一夏』(一九九三年)に収録された一首。「岩波現代短歌辞典」(一九九九年)の「コスモス」の項を執筆したときにこの一首も引用した。そのとき、当然「風を煮る」はこどもが言ったことば、たとえば「お母さん、コスモスが風を煮ているよ」等、と感じていたので、特に何の説明も入れず、「赤いコスモスが風に揺れている姿を、風を煮ていると感じた子供の無垢な発想が愛らしい」などと書いているが、読み直しているうちに、こどもの他愛のないお喋りを包みこむ風景を写した母の感覚だというようにも見えて来た。どちらに解釈しても誤読にはならないと思われるが、ちょっと気になったので。

きょうの一首。

 香水を一度もつけたことがないと母は言ふでも実はあるよね/荻原裕幸

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September 25, 2010

2010年9月25日(土)/揺れる

**ちゃん、ばいばーい、またね、と言って、最後のねの音がぐぅんと伸びてゆくような感じで女の子が地下鉄の扉から一気に駆け出す。ポニーテイルの髪が、本物の尾のように揺れている。同じ駅で降りて、その後ろ姿を見ながら歩いていたのだが、彼女は視界から消えるまでひたすらに走り続けていた。彼女は、と言うか、こどもはなぜあんなに走るのだろう。そう言えば、むかし、ともだちと別れて家族に会うまでの時間の消費が、とても勿体ないものに感じられたような気もする。

 黒人と白人の子とわれの子と雲梯の鈴しばしさやげり/米川千嘉子

第二歌集『一夏』(一九九三年)に収録された一首。雲梯、に、うんてい、とルビがある。歌集の作品の配列からするとアメリカに滞在する日常を描いた作品であるようだ。「黒人と白人の子」は、その子の家庭事情を知っているというのではなく、外見からそう推測されるのだろう。文化とか社会といったアングルから、作品的なモチーフが尽きることなく溢れて来そうな状況だが、作者の目は、こどもたちの姿を「雲梯の鈴」とのみ捉えて、その他の一切を遮断しようとしている。むろん遮断などできないことは、「しばし」の一語に痛いほど感じられるが、ほんのわずかな時間にあらわれる、それゆえにむしろ永遠とでも呼んでみたくなる絶対的な領域が、鮮やかに浮かんで来ていると思う。

きょうの一首。

 ベランダにCD吊るす小此木さんこの秋DVDも少し雑ざる/荻原裕幸

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September 24, 2010

2010年9月24日(金)/追伸

ちょっと前に某氏のウェブ日記を読んだとき、庭をめぐる記述で、芙蓉の花が枯れたら撫子の花が咲くというのはほんとかなというフレーズがさらっと書いてあって、反射的に「追伸」だなとグレープの曲を思い出して、むかしのGFのことも思い出したりして、あの曲の「あなたに借りた鴎外」という詞句をめぐるなるほどな感じと鼻につく感じが一気にやって来て、某氏に懐かしいよねえとメールを書こうとして書きそびれて、結局こんなところに書いていたりする。

昨日書いた、ことばが短歌以外の何かになる方向には分岐しなくなる/進めなくなるポイントのこと。自分がこれを強く意識するのは、十代で、短歌とパラレルに俳句を書きはじめたときのことに関連する。ビギナーだったせいもあってか、ポイントのあらわれが極端に遅くて、短歌が一首としてまとまるのは、漠然とした表現でしかないことばのかたまりが、五七五七七に近い型にたまたまあてはまったとき、という感じだった。俳句でも同じような感じだった。それぞれを短歌とする必然性、俳句とする必然性がどこにあるのか、さっぱりわからなかった。これでは何かだめだと思いながらもなす術がなかった。自分が、短歌とパラレルに俳句を書きながらも、現在まで短歌をメインにするという姿勢を貫いたことの要因の一つが、最近になって、このあたりにあったのではないかと思うようになった。歌会とともに句会も頻繁に楽しんでいる昨今、短歌と俳句の、それぞれのポイントのあらわれるタイミングは、十代の頃に比較すると格段に早くなって来ている。

きょうの一首。

 あとさきの記憶かすれてあの九月あの夜あの繃帯とあなたと/荻原裕幸

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September 23, 2010

2010年9月23日(木)/彼岸

秋分の日。早朝、かなり激しい雷鳴が続く。雨。気温も一気に下がって、押しも押されもせぬ秋の一日がやって来た感じ。お墓参りに行って来ましたという友人のメールを読みながら、そう言えば、ご先祖のお墓にもうずっと行ってないなあと思う。父母のお墓の話は先日も書いたが、本人たちはもちろんお墓の外で元気にしているし、祖父母の代やそれ以前の代のお墓はあまり近くにはないし、どうしようもないほど非礼な状態が続いてしまっている。

作者によってことばが短歌としての姿形をなしてゆくプロセスを、仮に、逆行しないひとつの時間の流れとして考えてみると、ことば以前の意識の揺らぎのような段階よりは後且つ一首が最終的にまとまるよりは前のどこかに、そのことばが短歌以外の何かになる方向には分岐しなくなる/進めなくなるポイントがあるように思う。ポイントのあらわれるタイミングは、作者によってまちまちで、作品によってもまちまちかも知れないが、ともあれ、短歌を書くという行為を、ことばから短歌以外の何かになる可能性を剥奪してゆくこと、と見ることもできそうだ。こうした定義にもならないネガティブな発想は、しかしながら、短歌を書くときに、狭隘な短歌観等、必ずしも絶対的ではない要件によってことばが濁るのを防いでくれるように感じられる。

きょうの一首。

 まだ来ない時間のなかで栗を剥くあなたの花車な指を見てゐた/荻原裕幸

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September 22, 2010

2010年9月22日(水)/名月

天気があまり良さそうではなかったので、これは雨月か無月だろうなとあきらめていたのだが、買い物で家人と外に出た折、空の一方では雷光が明滅していたのに、眼前の雲が切れて、くっきりと名月が見えた。重い荷物を提げながら、しばらく見惚れていたら、すっかり腕が痺れてしまう。第58期王座戦五番勝負第二局。先手の藤井猛九段が緻密な手順で片矢倉に組んで、作戦勝ちにも見えたが、中盤で攻めの手順を間違えたようで、やや自爆気味に劣勢に傾く。羽生善治王座が二連勝。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の二回目。きょうの題は「九月」。出席者は11人。詠草11句。読解を中心に添削的な批評をする。今期は俳句を書きはじめたばかりという人も何人かいる。自分の知るかぎりでは、定型詩のビギナーに最も伝わりにくいのは、ことばが即き過ぎ、とかいう類の、理由をほとんど説明せずに繰り出される批判のテクニカルタームである。そのあたりの用語はふだんからできるだけ避けて、日常語で説明するようにしているので、変に気を遣うことなく、ふだん通りのスタイルで進めた。きょうの題に即して一句。

 さきざきのかくもすみずみまで九月/荻原裕幸

きょうの一首。

 どこか少しのぼる感じを含みつつ月のひかりをくだりゆく坂/荻原裕幸

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September 21, 2010

2010年9月21日(火)/中毒

プロ野球セリーグのペナントレースが佳境に入る。中日ドラゴンズに優勝の可能性がありそうなので、日々の結果を楽しみにしている。球場に行く余裕がない上に、テレビ観戦もなかなかできない状態で、どうしてプロ野球がそんなに楽しいのか、自分でもよくわからないのだが、スポーツ紙サイトのスコアに目を通して、ざっとした試合の流れを確認するだけでもそれなりに楽しいのだから、これはある種の中毒のようなものなのかも知れない。

 さよならの変わりに走者一掃の打球の消えてゆきし草地を/正岡豊

第一歌集『四月の魚』(一九九〇年)に収録された一首。野球の試合の流れに詳しくない人を想定していないかに見える書きぶりは、しかしながら同じく知識を要求するブッキッシュな作品とは少し違って、ある特定の世代の印象につながるようだ。ともあれ、この一首、あなた、に「さよなら」を言う代わりに、その「草地」を見つめていた、ということなのだろう。別れのことばもない別れが、どんな理由によるものなのか、これだけではさっぱりわからない。ただ、塁上にランナーをためて、ここだけは是が非でも抑えなければという局面で、失投したか力尽きたか、痛恨の一打を浴びた投手の敗北感と、その別れとが、わたし、のなかでシンクロするものだったのが想像される。この種の敗北感が、現実の恋愛のどんな場面につながるかは、読者それぞれに委ねられるわけだが、長くどこかに眠っていた感覚がふわっと呼び出されて、泣き出したいような切ない気分にさせられる一首ではないかと思う。

きょうの一首。記事の流れでもちろん野球の歌を考えたのだが、発想が転々としてこんな一首になった。予定通りにはならないものである。

 よく似てはゐるがどうやら去年見たものはどこにもない曼珠沙華/荻原裕幸

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September 20, 2010

2010年9月20日(月)/数にもあらぬ

敬老の日。と書いて、あれ、きょうはほんとに敬老の日だったかな、とカレンダーを確認する。もの忘れがひどくなったとかそういう話ではない。何月の第何月曜日として定められた国民の祝日が、あいかわらずぴんと来ないのである。総務省の推計によると、現在、男性は五人に一人、女性は四人に一人が、六十五歳以上であるのだという。自分がこどもの頃には一割未満だった。高齢化を問題視するニュースも多いわけだが、個々の長命化がまず寿がれる社会であって欲しいと思う。

 都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬすさびなりけり/西行

新古今集の一首。都で見る月の情趣などものの数にも入らないと言う。都を離れての過酷な旅の途上にあってはじめて月のあわれが見えて来ると言いたいのだろう。自分が当時の都で平穏を貪っていたら、どんな風に反応しただろうかと思う。テクニカルな意味でこれはやられたと感じて絶賛しそうではあるが、西行のことをなんとなく虫の好かない奴だとか思いそうでもある。そういう具合に、わたし、としての西行像をなんとなく意識してしまうあたりに、西行の短歌の文体の特徴を感じる。和歌の歴史のなかでも屈指の技量の歌人だと思う一方で、つねに何かすっきりしないひっかかりを読後に残してゆくのが気にかかる。天才の属性なのか。

きょうの一首。

 夏は秋へと急ぐわたしはわたしから外に向かつて自転車を漕ぐ/荻原裕幸

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September 19, 2010

2010年9月19日(日)/伝わる

まだ夏が抜け切らない感じの一日。風間祥さんが、ブログ「銀河最終便」の19日付のエントリで、このブログの8日付のきょうの一首について、鑑賞風なコメントを書いてくれているのを読んだ。風間さん、ありがとう。一首が他者に「いい歌」として伝わるかどうか、作者は直に関与できない。欲が出るとだめになりやすいし、欲が無さ過ぎるのもつまらなくなりやすい。ほんとに難しいものだと思う。伝わったことの幸運を率直によろこびたい。

川柳の同人誌「Leaf」第二号を読む。作品と相互批評と外に向けてのエッセイ/評論がセットになった誌面構成の姿勢は、創刊号と同じくしっかりと貫かれている。彼等が特殊なことをしているとは感じないが、川柳誌としては稀なことをしているわけであり、こうした活動の継続が周囲にどういった影響を与えてゆくのか、楽しみなところである。四人のメンバーの誌面の作品から、自分の好きな句を各一句ずつ紹介しておく。

 ふるさとの正しい位置を便りする/畑美樹
 だらしないもしかしたらもない晒し/兵頭全郎
 空色の器に蝉を入れる人/清水かおり
 板の間を横切る手足のついた花/吉澤久良

きょうの一首。

 小鳥来て鳴いてゐるだけなのにこの世が鳴いてゐるやうに感じて/荻原裕幸

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September 18, 2010

2010年9月18日(土)/秋の寝覚

何も混ぜずに飲む珈琲の味は、大雑把に言っても、苦味が強いか酸味が強いかで全く違ったものだと感じられるのだが、何かを食べながら飲むと、途端に、苦いような甘いような漠然とした珈琲の味に統一されてしまう。口語表現の短歌を読んだ後に読む文語表現の短歌とか、近代現代の短歌を読んだ後に読む古典和歌とかが、何か漠然としたテイストに統一されてしまうのは、これと似たような現象なのだろうか。カップを片手に短歌を読みながら、そんなことを思う。

 はるかなるもろこしまでも行くものは秋の寝覚の心なりけり/大貳三位

千載集の一首。はじめてこの歌を読んだとき、秋の朝の爽やかさを言っているのだと感じて、ここから唐土まで晴れ渡った空が続いている、そんな壮大な空間のイメージを思い浮かべていた。後になってこの「寝覚」が、一首のなかではっきり指示されていなくても、夜中の寝覚だと解釈すべきなのを知ったとき、愕然としたのだった。夜中に覚めて眠りに戻れなくなった一人寝の淋しさのしみじみとした心情だと言われても、自分には、この大らかな調べが、そんなネガティブな心情を反映しているとはいまだに思えない。誤解の部分は素直に調整するにしても、夢ならぬ寝覚にわたしが想いを馳せるものは、恋愛や身近な事象などではなく、かの遥かな唐土の地のあれこれである、といった鮮烈な宣言なのだと読んでおきたい。

きょうの一首。

 夜ではないものに向かつて暮れてゆく秋の土曜の妻のまなざし/荻原裕幸

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September 17, 2010

2010年9月17日(金)/庶民的

朝は涼しかったのに、日中は残暑が戻って来た感じ。午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は13人。詠草は13首。題は「伝」。地下鉄駅の伝馬町から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。講座後、一人、喫茶店で珈琲を飲みながら、週刊誌を読み漁ったり、漠然とした思索に耽ったり、他の客の様子をそれとなく観察してみたり、短歌関連のメモをまとめたりする。

 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも/塚本邦雄

第三歌集『日本人霊歌』(一九五八年)に収録された一首。同歌集の巻頭作品として人口に膾炙した一首である。菱川善夫をはじめ、動物園の皇帝ペンギンと飼育係の姿に、戦後の象徴天皇制での昭和天皇と日本人の姿を投影したとする解釈がもっぱらであるが、だとするとあまりに格好良過ぎて書割的過ぎないかといつも感じて来た。塚本邦雄の、社会へのアプローチの表現が、イデオロギーの匂いのするところからなされる可能性は低いだろう。この歌集全体に広がる自己像には、もっとずっと庶民的な匂いがする。自分が制作年代をリアルで体験してないので、断言しづらいところもあるのだが、この「日本脱出」は、高嶺の花と言われた海外旅行のイメージが詩的に昇華されたもの、飼育係は、塗装工や左官など、塚本の世界にしばしば顔を出す肉体的労働者の一キャラクターとして、やや抑えた解釈にしておくのが妥当だと思われる。

きょうの一首。講座で「伝」の題の作例として見せた一首がどうしても気に入らなくなったので、喫茶店で、改案、と言うか、ほとんど別の一首をまとめた。

 ことば尽してなほ伝はらずなりゆきにまかせて鰯雲を見てゐる/荻原裕幸

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September 16, 2010

2010年9月16日(木)/橄欖油

雨が降ってかなり涼しくなる。秋めいた感じの一日。午後、二人とも食事の準備に手がまわらなくなったので、家人とサイゼリヤに行く。用も無いのにキッズメニューを見ていたら、「オリーブオイルができるまで」という図解があって、それが間違い探しになっていたのを、なんとなくはじめる。ところが、二人でむきになって探したのに、どうしても十ある答の九までしか見つからない。食事も食休みも済んでしまったところでギブアップした。難題だった。

 目指すのは南、あなたのくるぶしの羅針が探しつづける南/ひぐらしひなつ

題詠のアンソロジー『短歌、WWW(ウェブ)を走る。』(二〇〇四年)に収録された一首。この一首の題は「南」。「南」という、明るく健康的なイメージで、具体的に用いないとその一語だけで全体を甘くしてしまいかねない要素が、抽象的な用法であるにもかかわらず、思いがけない表現的強度をもって活かされている。「探しつづける」が含む、希望と絶望の両面が、具体的な日常の感覚にしっかりつながってゆくからだろう。ところで、現代の題詠の題は、よく知っていることばだとしても、まずは他者のことばとしてやって来る。それを受け入れることを通して、ひたすら内省的になりがちな短歌に、出口のような要素を発見することが、自分の考える現代の題詠の動機である。他者のことばを受け入れる/あえて自発性を欠くことで、統覚の及ばなかった自己の姿を少しでも呼び寄せることができれば、題詠は成功なのだ。作者であるひぐらしひなつさんの第一歌集『きりんのうた。』(二〇〇三年)には「高らかに今日もあなたは指さしたキヨクタダシイ空の彼方を」という作品がある。ほぼ同じモチーフだが、比較して読んでみると、「南」という題が、モチーフを進化させた様子がよくわかる。題詠の成功の一例だと言っていいと思う。

きょうの一首。

 秋がここにゐるのをかるく確かめてみたくて音の出ることをする/荻原裕幸

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September 15, 2010

2010年9月15日(水)/五対六

朝、雨が降って少し涼しくなる。午後、八事の中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、先週の台風による休講を経て、きょうから秋期の開講となる。今期の受講者は11人。先期の7人は相性がよかったのか、全員がリピーターとなる。ジェンダー的な内訳は、男性5人と女性6人。こういうバランスの取れ具合は珍しいことのように思う。初回は、受講者の句歴や近況等を訊ねながら、オリエンテーション的な話をした。次回からは題詠が続く。

俳句を教えるということは、俳句とは何であるのかを教えることとは違う、というのが自分の考えである。俳句とは何であるのかは俳句観、個人の俳句観であって、俳句全体は、そうした俳句観同士がぶつかりあって覇権を争ったり、あるいは互いを無視して小さな砦に籠ったり、はっきりとした中心の見えない広がりとしてある。俳句を教えるということは、だから、先ず俳句とは何であるのかが複数同時に存在するのを教えることであり、次にそこで俳句を書くときに何が必要になるのかを教えることであろうかと思う。似たことは短歌や川柳でも言えそうだが、俳句を単純に短歌や川柳に置き換えてみると、微妙に異なるジャンルの事情が浮かびあがって来て話がうまく通らなくなるところがある。日本の定型詩諸ジャンルの事情は、それぞれになかなか厄介なものであるようだ。

きょうの一首。

 ねえ結婚て何なのかなと妻に言ひかけてやつぱりやめて身に沁む/荻原裕幸

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September 14, 2010

2010年9月14日(火)/意気盛ん

午後、ひさしぶりに家人と実家に顔を出す。歓談をしているなかで、お墓とか仏壇とかの話が出る。少し前に自分たちの墓地を確保した父母は、次は墓石を買うとか仏壇を買うとかしかし仏壇のサイズを勝手に決めると預かってもらうときに迷惑かも知れないとか、妙な方面に向かってやたらに意気盛んである。笑って話ができるうちに準備しておきたいのだという。息子としては困惑するしかないが、とりあえずは笑って話ができるのをありがたいと思うことにした。

 およそ人体に馴染めるもののみだらさに自転車の鞍夕陽に並ぶ/永田和宏

昨日に続き、第四歌集『やぐるま』(一九八六年)に収録された一首。「鞍」に「サドル」のルビ。素直に読めば、自転車のサドルに「みだらさ」を見てとるのは、自転車の工学的なデザインのなかでそこだけが生物的で美しくないから、ということになるだろうか。むろんそこだけが際だって見えるのは、否定と肯定が表裏一体になった感覚であって、フェティシズムに近いものを感じても間違いはないと思う。あたりさわりないように「人体におよそ馴染めるかたちにて自転車の鞍夕陽に並ぶ」とかすれば、夕暮に自転車が置かれた風景がすっきり見えるわけだが、あえて「みだらさ」と記すのは、前衛短歌的と言うか、モチーフを風景にとどめず、人事へと展開させようとしているからだろう。現在では是非の分かれそうな部分である。大袈裟に見えなくはないが、それでも是としたい、というのが昨今の自分の感覚。以下、同歌集から他にも好きな作品を少し引用しておく(初版からの引用だが、一字、別版に従って誤植を訂正した)。

 悪口雑言いきいきとして艶めくに思えばおまえになき喉仏/永田和宏
 夜毎酔いてもどれる父の荒涼に触るることなし冬の噴水
 こののちも父のため為すなにも無し焚火の囲りにびっしりと闇
 無人駅のひるがおの辺に待ちおればあわれ〈時〉こそ満身創痍

きょうの一首。

 やはらかでせつない夏の曲線がしみついた靴をあなたは捨てる/荻原裕幸

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September 13, 2010

2010年9月13日(月)/小犬のように

このところときどき某所で、とある高校生のカップルを見かける。ともにかわいらしい印象のある二人は、女子が一年先輩で男子が後輩のようである。女子は男子を小犬のようにかわいがり、男子は女子に小犬のようにかわいがられ、見たところ二人とも楽しそうである。小犬に飽きたり小犬であることに飽きたりする日がいつか来るのかも知れないが、とりあえずいまのところ平和が永遠に続きそうな感じで、見ている自分も平和な気分になるのであった。

 魔法壜とう不思議の容器、封じ込めし中に諍いの声ありや否や/永田和宏

第四歌集『やぐるま』(一九八六年)に収録された一首。「諍」には「いさか」のルビがある。一九八一年の作品で、魔法壜の機能が、現在より多少は魔法っぽく感じられた時代だが、むろん多少でしかなく、この「不思議」は、驚愕よりは感心の意味に近いだろう。たしかその頃だったか「暮らしの夢をあたためる」という象印マホービンのキャッチフレーズがあって、そうしたアットホーム的な価値観にちょっとした棘を刺す感じ、全力ではない反骨みたいなところに、時代の感触がはっきりあらわれていると思う。前衛短歌的なものが、暮らしの手ざわりのなかへと融和してゆく姿のひとつだと言ってもいいか。ちなみに、意図的にリズムを弛緩させるような文体は、同歌集のなかで他にもしばしば見られる。「透明はむごきかなかの王の服も、さっきから蜂が衝突している窓も」など、旋頭歌に近い文体もあるし、旋頭歌そのものの試みもその他にある。発掘途中で作者の関心は薄らいだようだが、その先に何か鉱脈がありそうなスタイルではある。

きょうの一首。

 キッチンのはずなのに秋の雲間から漏るやうにひびいて妻の声/荻原裕幸

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September 12, 2010

2010年9月12日(日)/古田様至急

某大手スーパーの店内で、幕張よりお越しの古田様、が、至急、食品レジまでお越し下さい、と呼び出されるのをときどき耳にする。これをはじめて聞いたときは、幕張なんてやけに遠くから来てるんだなとか、何の理由も言わずに客をレジまで呼びつけるって何だろうとか、不思議な感じがした。全く同じアナウンスを二度聞いて、符牒だと気づいた。スタッフに、レジの応援をお願いします、とふつうにアナウンスするのは何か問題があるのか。その方が爽やかな気がするのだが。

湊圭史さんのサイト「s/c」に掲載された「現代川柳とは何か?」を読んだ。サブタイトルに「『なかはられいこと川柳の現在』を読む」とあるように、これは、なかはられいこさんの第二句集『脱衣場のアリス』(二〇〇一年)に付録として収録された座談会、石田柊馬さん、倉本朝世さん、穂村弘さん、荻原裕幸による討論を解剖的に読んで、問題点を摘出しながら、川柳の現在について考察した文章である。この座談会の後に、自分も機会を見つけて書くべきだったあれこれが、自分のスキルの何倍かの鮮明さでまとめられているのに舌を巻いた。冒頭の一節にある、川柳には「外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ」という湊さんの苦言は、いつか自分が某川柳シンポジウムで発言して物議を醸したあれ、「川柳は自己規定が無いか下手過ぎる」とほぼ同じ感覚のものなのだろう。十年前の現在が、現在の現在としても読めるというのは何やら淋しい気もするが、ともあれ、こうして川柳の外見を川柳の「内側」から語ることのできる人がいるのは実に頼もしいことである。

きょうの一首。

 九月某日やすらかにしてテレビだけが喋りつづけてゐる荻原家/荻原裕幸

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September 11, 2010

2010年9月11日(土)/九年

アメリカ同時多発テロ事件の日。九年が経過した。こう書いて、もう九年かぁ、と声にした途端、その日その時の記憶がかなり曖昧になっているのに気づく。自宅のリビングのテレビで、テレビ朝日系の「ニュースステーション」を見ていたというあたりまでは憶えているのだが、テレビ映像以外の、日常の時間や空間とのつながりがかなりぼんやりとしてしまっている。その後も繰り返し見たせいか、事件のテレビ映像だけが、異常なほど鮮明に、心身のどこかに残っている。

 秋暑しサランラップの端がない/小林苑を

昨日に続き、第一句集『点る』(ふらんす堂)に収録された一句。サランラップを使おうとしたときに端が見つからないいらいら感について、延々と語りたい気分にさせられる句である。実は一度それを書きかけて消した。私事ばかりで句の鑑賞につながりそうにないからだ。「秋暑し」との取りあわせが語りたい気分を増幅するのはわかるのだが、そういう修辞的な問題を少し逸れたところに、単純に言えば、着眼点のようなところに、くいっと軽やかに読者の袖をひっぱるような感じがあって、その感じが小林さん独特の雰囲気をつくりあげているのだろう。昨日の秋刀魚の一句もよく似た印象で、ついつい私的な秋刀魚論を語りはじめそうになってしまった。同句集で自分が惹かれた句は多くがそのタイプのものだった。以下、例証もかねて少し引用しておく。

 逝く夏を回る無人の観覧車/小林苑を
 春菜売る店にくらやみ台東区
 トイレットペーパー垂れてゐる寒夜
 靴下の色がちぐはぐ春動く
 沈丁の家救急車来て止まる

きょうの一首。

 だけどそれが正解なのだ美人顔を崩さずニュースを読む中田有紀/荻原裕幸

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September 10, 2010

2010年9月10日(金)/KFCと菊の花

昨日、家人が、カーネル・サンダースの誕生日だからケンタッキーフライドチキンを食べようと言うのを、宣伝にうまうまとのせられるのはどうかと反対したのだが、同じく家人が、重陽だから菊の花を飾ろうと言うのには、ああそれはいいねと、すんなり賛成していた。自分の行動様式にふつうに従っただけのことだが、玄関に飾られた菊の花を眺めながら、前者と後者の間にそれほど大きな違いがあるのだろうかと、ぼんやり思う十日である。

 のびのびとはみ出してゐる秋刀魚かな/小林苑を

第一句集『点る』(ふらんす堂)に収録された一句。あたりまえのことが書かれていて面白くない俳句と、あたりまえのようなことが書かれていて面白い俳句との違いはどこにあるのだろう、ということをこの句を読みながら思った。この句はもちろん後者だと感じている。表現的に言えば、句の眼目は、「のびのびと」の一語が、秋刀魚を焼きあげてやや寸の足りない皿に盛った人の、向日性を感じさせる心象がふわっと浮かびあがるあたりにあるようだが、それだけでは説明のつかない、何かがしっかりと手渡された感触もある。句集には「制服の吊るされてゐる秋の昼」などといった句があり、これは、秋刀魚の一句以上に、手渡される感触が剥き出しになって迫って来るのだが、やはりうまくことばにできない。

きょうの一首。母は必ず二つに切る人だった。家人は時と場合に応じて、はみ出させたり二つに切ったりしているようである。

 秋刀魚ふたつに切られて皿に収まれば何かはかなき金曜である/荻原裕幸

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September 09, 2010

2010年9月9日(木)/台風一過

最高気温はそれなりに上がったようだが、台風の後らしい涼しさがあって、ひさしぶりにクーラーを動かさずに過ごす。羽生善治王座と藤井猛九段との第58期王座戦五番勝負第一局。後手の藤井九段が四間飛車を選択、角交換から力将棋となる。混戦模様になるかと思っていたのだが、意外なほど淡白な展開で、中盤あたりから羽生王座の優勢で進んでゆく。結局もつれる場面のないまま終局を迎えた。羽生王座が、圧倒的な強さを見せて先勝。

 しずかに歌うコンピューターの電源を切る遠くからわたくしが来る/吉野裕之

昨日に続き、歌集『博物学者』(北冬舎)に収録された一首。この歌集は、今年の三月に刊行されてはいるが、一九九〇年代前半に書いた作品を中心にまとめたものだと作者が明言している。ならばこの一首もその時期に書かれたと考えるべきで、「しずかに歌う」の意味するところは、音楽の再生装置としてのパソコンやDTMをめぐる何かであると考えるよりは、機械としての稼働音そのものである可能性が高いか。いずれにしても、パソコンの電源を落としたときのあの静寂がもたらす、どこかから帰還した感じ、本来の自身の居場所に戻って来た感じが一首のモチーフであるには違いないだろう。「遠くからわたくしが来る」が、そのあたりの感覚を言い得て絶妙である。同歌集で惹かれた作品を他にも少し引用しておく。

 床下に鶏卵ひとつ落ちているかもしれないと思う夕暮れ/吉野裕之
 真ん前の鼻を見ており企画書の十二行めを責められながら
 たくさんの耳が歩いている地下でかつての上司に呼び止められぬ
 仏壇を持たぬ家族の屋根の上にぼわぼわとして冬の日はある
 あずさ弓春一番の訪ね来て吉野さんちの夕餉、銀だら

きょうの一首。

 ネットでは誰かがつねにつぶやいてここはこんなに静かに白露/荻原裕幸

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September 08, 2010

2010年9月8日(水)/初回休講

白露。午前、中京大学のオープンカレッジ事務局から、台風9号の接近につき、大事を取って、午後からの講座をすべて休みにする旨の連絡。秋期の「俳句を楽しむ」の初回は来週にスライドされることになった。幸いなことに、名古屋の風雨は大したことにはならず、むしろ気温が少し下がって、それなりに秋めいた感じになる。暑さもそろそろきりをつけてくれないだろうか。夜、義母の誕生日を祝して、義母と義姉と家人と四人で食事に出かける。

 鈴木さんの屋根の上なる名月を見上げておりぬ妻とふたりで/吉野裕之

歌集『博物学者』(北冬舎)に収録された一首。月を見ているその感じがはっきり共有できるという一事によって成立している作品だと思う。調べはオーソドックスの範囲にあり、レトリックらしいレトリックがあるわけでもない。ポエジーを求めようとするとむしろ紋切り型のそれが見えて来る。にもかかわらず、この一人称がたしかにそこで月を見ている感じがひしひしと伝わって来るのは、ご近所の鈴木さんの家の屋根の上に出た、中秋の名月を、妻と二人で見上げる、という取りあわせが、われわれの日常のなかにはそのようなことがあり得るという一事をひたすらに主張するからだろう。この取りあわせもレトリックと言えばレトリックだが、短歌をどう表現すべきかという作家的野心に左右されない、短歌の表現がどうあるべきかという作家的意識の反映としてあるレトリックだと言えようか。

きょうの一首。

 財布から出すとき少しひんやりとしてゐる百円硬貨のさくら/荻原裕幸

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September 07, 2010

2010年9月7日(火)/二兆七千億円

厚生労働省が、自殺と鬱病による二〇〇九年の経済的な損失額が推計で約二兆七千億円にのぼる、という調査結果を発表したそうだ。調査項目の内容とか、推計の妥当性とか、むろんそれも気になるところだが、何よりも、こころの問題を経済化/数値化する行為、こころの問題に対する細かな配慮を極端に欠いた行為が、結局は解決の近道になるという発想に興味をひかれた。実際にイギリスでは、調査後に医療改革が進んで自殺対策に効果を上げたらしい。

午後、東別院の名古屋市女性会館へ。東西句会の月例句会。参加者は五人。題詠「葡萄」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店で、引き続き俳句についてあれこれと話す。句会に提出した俳句は以下の五句。何か焦点のはっきりさだまらない句ばかりができてしまったか。

 蜩や切手を舐めるゆつくりと/荻原裕幸
 緑区港区どこまで歩けども残暑
 秋草や少年揺れてガラス割る
 四面楚歌なのかも知れぬ天の川
 黒葡萄言ふだけ言つてから帰る

きょうの一首。

 売れ残つた花火を買つて秋がこの街にがぶつと噛みつく前に/荻原裕幸

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September 06, 2010

2010年9月6日(月)/ちはやぶる

日本の景気の好況不況を年表で見ていると、自分がものごころのついた一九六〇年代の後半から二〇〇一年あたりまでは、その時期を過ごして来た実感とかなりはっきり一致している。たぶんオイルショックとかバブル景気とか、誰の目にもわかりやすい状況だったからだろう。まったく実感がないのは、二〇〇二年から長く続いたいざなみ景気で、好況がどこにあったのか、ほとんど何も実感を得ることがなかった。人々が口々に、景気が悪い、と言っていた記憶しかない。

十代の頃、短歌を書きはじめる直前、百人一首が大嫌いだった。ほとんどの作品に堪え難い臭気のようなものを感じて、全首暗記せよという高校の夏休みの課題にうんざりしたのを憶えている。この臭気のようなものというのは、いまだにはっきり正体がわからないでいるのだが、結局のところ、現在の感覚で古典を読んでしまうときに生じるギャップによるものなのだろう。暗記させられたすぐ後だったか、塚本邦雄の古典和歌のアンソロジー『王朝百首』(一九七四年)や『新撰小倉百人一首』(一九八〇年)を読んだ。同じような作者たちによる同じような時代の作品が、現代の感覚を加味して、少し違うアングルから見てみると、エキゾチックで、意外なほどの魅力をもっているのがわかった。選ぶというのがいかに重要な行為なのかを実感した最初の体験でもあった。

きょうの一首。これをはじめて読んだのも十代の頃だった。

 『家畜人ヤプー』しづかに読み継がれ日本はつねに秋の夕暮/荻原裕幸

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September 05, 2010

2010年9月5日(日)/膝と表記と給水塔

立っていたり歩いたりするのに困るほどではないのだが、左の膝頭の少し下のあたりがかなり激しく痛い。どうやらどこかにぶつけたらしい。ふと気づいたらものすごく痛かった。それにしても、ぶつけたときにもかなり痛かったはずだし、その後も痛みはひいていないようなのに、なぜ記憶がないんだろう。不思議だ。何かを忘れたとしても、大抵はぼんやりとした記憶の残滓みたいなのがあるので、さして気にはならないのだが、こうまですっかり記憶がないと不安になる。

岩尾忍さんのブログ「吊忍」の九月二日付のエントリに「短歌の表記について」と題されたものがあって、荻原裕幸の短歌の表記について言及されていたのを興味深く読んだ。「こだわりをこだわりとして自覚的に貫くその姿勢」という観点から理解されていたのがうれしい。実際のところ、世に、短歌の、正しい表記とか望ましい表記とか好ましい表記というものがあるわけではなく、こだわるかこだわらないかのどちらかに過ぎないのだ。こだわれば苦しくなるし、こだわらなければ楽である。どうしても表記が落ち着かない、たとえば、会話調の部分を歴史仮名遣いにするとあり得ないような字面になる、というそれだけの理由で没にする作品も少なくない。自分の表現の幅を狭めている危険もありそうだが、それをかたちにしたいという偶発的な衝動が自分の固定的なこだわりに負けてしまうレベルであれば、かたちにしたところで大したものにはならないだろう、と考えることにしている。

きょうの一首。毎日のように見ているが、見れば見るほど奇妙な姿である。

 このマンションの給水塔は抽象画の天使にも似て秋の日を立つ/荻原裕幸

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September 04, 2010

2010年9月4日(土)/宅配業者が五度ベルを鳴らす

午後、宅配業者が続けざまに何度も呼鈴を鳴らす。あまりにも鬱陶しい感じの鳴らし方だったので、呼鈴は一度だけにして下さいね、と笑顔で釘を刺す。あれは、忙しさで気が急いていて荒っぽい鳴らし方になるのだろうか。呼鈴の死角というのはどの家庭にもありそうだが、そこにいれば何度鳴らしたところで聞こえないし、そこにいなければ一度で聞こえるのではないか。少し待って二度目を鳴らすならまだしも、続けざまに鳴らすというのは、何か特別な意味でもあるのだろうか。

四日付の、砂子屋書房のホームページのコラム「日々のクオリア」で、大松達知さんが、第五歌集『永遠青天症』(二〇〇一年)の一首を鑑賞してくれた。広告業界で勤めていた日々の、なかんずく業界用語に染まってゆく様子をモチーフにした一首である。大松さん、ありがとう。業界用語/専門用語というのは、その当時も現在も自分にとって大きな関心事である。たとえば、歌人同士ならば、どれほど専門用語を連ねて短歌をめぐる議論をしても構わないし、しばしばそれが快く感じられるのだが、歌人以外にはほとんど通じない。歌人はそれを前提となるべき知識が共有されていないとか言ったりする。つまり他人を無知だと批判するのである。しかし、歌人同士ではほんとに通じているのだろうか。専門用語が十分に理解できているとすれば歌人以外にも通じるように言い換えることができるのではないか。さまざまな疑問が生じるなかで、自分の書いた短歌をめぐる文章を読み直してみると、この人誰? とか、この人何言ってるの? とかいう感覚がやって来たりすることがある。用語によって確立される私と用語によって消えてしまう私という問題からは、どうやらどこにいても解放されることはないらしい。

きょうの一首。

 別の土地に生れてゐればたぶん別の抑揚だつたはずの暑いね/荻原裕幸

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September 03, 2010

2010年9月3日(金)/はかなきもの

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は13人。詠草は14首。題は「音」。地下鉄駅の大須観音から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。なにかにつけて明るい笑い声の広がる教室で、講座が終って、抱えていた疲労がすっきりするということがある。きょうはそんな日だった。講座後、小腹が減ったので、寿がきやでラーメンを食べてから帰る。

 朝顔をはかなきものと言ひおきてそれに先だつ人や何なる/慈円

慈円の家集である拾玉集の一首(引用は孫引きにつき、乞御寛容)。古典にあらわれる「朝顔」が、現在で言うところの何の花にあたるのか、諸説があるそうだが、「はかなきもの」とあるので、とりあえずあの朝顔を思い浮かべて読んでも、さほど大きな歪みは生じないだろう。朝咲いては夕べに萎む花を儚いと言っておきながら、その朝顔を遺して先立つとは何たる儚さだろうか、といった歌意と、どこかしら散文的な雰囲気もある調べは、近代か現代の人が書いたと言ってもそのまま通りそうな印象がある。この「人」は人間全般を指していそうな気もするが、現在の感覚で読むとどうしても、あの人、といった感じの、特定の誰かを指しているように読める。遺された朝顔を眺めながら故人を偲んでいる場面が連想されるのである。

きょうの一首。講座で「音」の題の作例として見せた一首。生活音は人の心情を反映するもので云々と力説したら、何やら笑われてしまった。

 機嫌はやや上向いて来たか比較的佳き音がする妻のあけくれ/荻原裕幸

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September 02, 2010

2010年9月2日(木)/月日は流れ

第51期王位戦七番勝負の第六局は、挑戦者の広瀬章人六段の四間飛車から相穴熊になるという、今シリーズを象徴するような展開になった上、二日目、それも終盤にさしかかったあたりで千日手となる。指し直し局もまた広瀬六段の四間飛車穴熊。深浦康市王位は、気分を変えたのか根負けしたのか、左美濃から銀冠で対抗する。波乱含みの展開だったが、広瀬六段がどうにか寄せ切って終局。四勝二敗で王位のタイトルを奪取した。新王位は、二十三歳、現役の大学生でもある。

午後、詠草をまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の百四十四回目の例会。月数だけでカウントすると満十二年分だが、この歌会は一九九五年の秋からはじまっている。栗木京子さんの呼びかけではじまり、初回に故永井陽子さんが提案して、会場の地名に由来する、東桜歌会と命名された。はじまった頃は、島田修三さんと荻原裕幸とのバトルが見物の一つだとも言われた。また、岡井隆さんがずっと顧問的存在として参加していたが、いまはそれぞれの事情で、四人とも顔を出していない。きょうの参加者は八人。題詠「城」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進めた。終了後、二次会なしに解散して、夜の東桜の界隈を一人でぼんやりと散策していた。歌会の来歴のことなどを思って、何とはなしにしみじみとした気分になる。

きょうの一首。「城」の題詠として歌会に提出した一首。「こんな」は、作者としては、いまここにふりそそぐひざしと同様の、という意味で、一首は過去のふたりの出来事として読まれるものだと考えていた。歌会では、現在のふたりを客観視しているのではないかという意見が多かった。

 何城かも知らずにふたり城址でこんなひざしのなかで笑つて/荻原裕幸

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September 01, 2010

2010年9月1日(水)/秋来ぬと

きょうから九月。日中は夏の感じがさっぱり抜けない秋だが、つくつく法師が少し鳴きはじめたりして、どこかしら秋めいてゆく気配はある。民主党の代表選挙は、菅直人氏と小沢一郎氏の二人の争いになったという。よもや今になって小沢氏が前に出ようとするとは思わなかった。小沢氏が前に出て来るのを過剰なまでに抑えようとする世の趨勢が弱まったわけでもないようだし、建前はともかく、出馬に踏み切った、ではなくて、出馬に追いこまれた、ということなのだろう。

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる/藤原敏行

古今集の一首。詞書は「秋立つ日詠める」。今年で言えば、八月七日にあたる。見るからにそれとわかる景物はないが、あたりを風が吹き渡り、はっとして秋の音に気づいた、というシンプルな歌意と調べとが、現代人にも好まれているらしい。解釈鑑賞の類には、視覚と聴覚との対照を言うものが多いようだが、一首の眼目は、その対照にのみあるのではなく、暑さのきわみにある立秋を、秋がさやかに見えぬと言い換えたあたりに濃く滲む。暑い涼しいの感覚に閉ざされてしまう晩夏初秋を、その象徴でもある立秋を、見る聞くの感覚へと転じたとき、日常の実感を超えた秋爽が、一首の調べのなかに到来した、ということではないだろうか。

きょうの一首。

 とりたててあらたな何もなけれどもローソンに行く九月一日/荻原裕幸

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