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October 31, 2010

2010年10月31日(日)/食欲

午後、家人が外出。留守番。きょうも雨が降ったり曇ったり。昼間から夕暮のように薄暗い。このところ、ぱっとしない天気が続いている。この時期、巷では食欲の秋などと言う。ただ、自分の場合は、暑いと食欲が増すようで、秋から冬にかけてはむしろ食欲が微減する。それが今年は暑さが長く続いたせいなのか、いまだに食欲が減らない。さしあたり、腹囲には何の変化もないようだし、数値的にも体重が1キロ程度増えただけなのだが、日々、なんとなく食べ過ぎている気がする。要注意か。

 道にあらず畑にも広場にもあらざれど余剰の部分に止まるクラウン/沖ななも

第六歌集『三つ栗』(二〇〇七年)に収録された一首。このクラウンは、トヨタの高級車のクラウンのことだろう。歌集における章/連作のタイトルは「車窓から」。列車の窓から見える、気になった風景をただ書きとどめた、ということか。しかし、そう言われなければ見過ごしてしまう「余剰の部分」に淡いひかりをあてた、いかにも定型詩的な空間認識が楽しい。見たことがないはずのその作者の視界をありありと思い浮かべられるように感じるのが不思議だ。どこか赤瀬川原平の超芸術トマソンに通じるところもあるが、どちらかと言えば、堀江敏幸が好む、回送電車/踊場/無所属的な、暫定性の感覚につながってゆくものかと思う。

きょうの一首。毎週のように。

 痒い所はございませんかと訊くやうに投資の話をして来る電話/荻原裕幸

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October 30, 2010

2010年10月30日(土)/冬支度

雨が降ったり曇ったり。昨日、家人がリビングにストーブを据えた。つけないとがまんができないほど寒いわけでもないし、よく使うようになるのはまだまだ先のことだろうが、あっと言う間に冬が迫って来た感じだ。プロ野球の日本シリーズが開幕。マリーンズとドラゴンズとが日本一を争う。先発の吉見投手が不調、ドラゴンズの側から見ると、投打の歯車が噛み合わない、悪い試合の見本のような展開で、黒星からのスタートとなる。

 詩とは何かという問いには、いつもある危うさがつきまとう。そこには詩から詩でないもの、非詩を排除しようという力が、強く働かざるをえないからである。/北川透

『詩的レトリック入門』(一九九三年)の一節。詩とは何か、何が詩で何が詩でないのか、をまったく意識せずに詩を書く人はいないだろう。北川透も、詩とは何か、を考えるなと言っているのではない。ここで問題にされていることの一つは、規定された詩と実際に書かれる詩には何らかのずれが生じていて、そのずれに無自覚だと作品が固着したり退化したりするという件である。この、詩、は、短歌、俳句、川柳、に置き換えて考えてもいいと思う。また、人間、政治、正義、などといった概念に置き換えても、それなりに通用するのではないかと思う。

きょうの一首。

 男性とはつまりは牡でそのほかのなにを為すでもなく秋のひる/荻原裕幸

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October 29, 2010

2010年10月29日(金)/区役所のNさん

午後、ちょっとした手続きのために瑞穂区役所へ。役所での手続きには、ともすれば融通のきかないことが多くて、事の大小にかかわらず、不満や不信感がつのるという悪い印象ばかりがあったのだが、きょう担当してくれたNさんは、決まりでできませんという類のお役所的なフレーズを一切使わない人で、しかも相談に乗ると言ってこちらの私的事情にずかずか踏みこむわけでもなく、現実的な着地点にたどり着くための、選択可能な道筋を淡々と探し出してくれた。役所への偏見を少し改める。

現代詩と現代短歌とを一つの包括的な詩歌観のなかに据えて捉えることができれば理想的だと思うが、自分はなんとなくそれをあきらめ気味である。と言うか、一ジャンルにしっかり根を広げてゆくような思考をした上で包括的にならないと、結局はどのジャンルにも着地できない空論を語るだけになりそうなので、少し臆病になっていると言った方がいいだろうか。歌人が現代詩を読んだり書いたりまたは詩人が短歌を読んだり書いたりするなかでの小さな発見の積み重ねだけが信頼に値する、とまでは言わないが、それに近いことをどうしても感じてしまうのだ。それでも、たとえば、ポエトリーリーディング/短歌朗読が、すべての障壁を超えて、現代詩と現代短歌とをあっさりつないでいると感じる瞬間はある。テキストを音声化して誰かに届けるというシンプルなスタイルの共有が、個々のジャンル論の上位にあるルールのようなものとして作用するからかも知れない。

きょうの一首。

 気がつけばここは日本で晩秋のたよりないひざしが揺れてゐる/荻原裕幸

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October 28, 2010

2010年10月28日(木)/鍋日和

雨が降ったりやんだりの一日。気象情報によると台風14号が太平洋側を北上して来るらしい。この時期で14号というのはかなり少ないように思う。きのうきょうと気温がぐんとさがって、秋が深まると言うよりもいきなり初冬に近い感じになる。夜はおでんです、という友人からのメールがあって、昼から仕込むとか、一度冷まして味をしみこませるとか、それでも二日目の方が絶対においしいとか、文面を読んでいるだけでお腹が空いて来た。

一般に、短歌は調べが大切である、と言われるが、この、調べ、とは、ほとんどの場合、黙読したときの、ことばの流れがもたらす雰囲気のことを指しているようで、作品であるテキストの、実際の音声化/朗読が想定されているとは考えにくい。調べがあれほど重んじられているのに、短歌朗読に一向に興味を示さない人が多いのは、つまりはそういうことなのだと思う。それはそれとして、一時期の朗読のブームが下火になったにせよ、短歌朗読の意味は、もう少し深く問い直されるべきだろう。いかに短歌を朗読するかという朗読の方法論としてではなく、朗読という行為が文体にどのような可能性を与え得るかという短歌の方法論として。声質や発声法や演出などを取り除いたときになお残るもの、それが短歌朗読の中心的な問題であるべきだと思う。

きょうの一首。

 向かふでも囲むでもなくふたりゆゑ挟むまどかに煮えゆく鍋を/荻原裕幸

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October 27, 2010

2010年10月27日(水)/だまし絵のなか

第23期竜王戦七番勝負第二局、二日目、渡辺明竜王が二連勝した。羽生善治名人の先手で相矢倉へと進行した本局は、研究され続けている相矢倉の世界に、またひとつ新しい要素を加える好局だった。終盤にさしかかるあたりで、羽生名人に疑問手と言えば言えるような手もあったようだが、ミスから優劣が生じた印象はなくて、渡辺竜王の、無理のない、ほぼ完璧と思われる指し回しが、真正面から堂々と羽生名人の将棋を抑えたように見えた。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の七回目。講義の前に立ち寄る事務室が移動したため、少し坂道をのぼって、以前とは別の門からキャンパスに入る。門を入ってすぐのところに新しい事務室があるのだが、同じフロアを教室の方向に戻ってゆくと、そこがいつの間にか二階になっていた。起伏の多いキャンパスゆえそんなことも起きる。だまし絵のなかを歩いたような気分になる。きょうの題は「木犀」。出席者は9人。詠草10句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。きょうの題に即して一句。

 道に迷つて木犀のよく匂ふ/荻原裕幸

きょうの一首。

 ボールペンが落ちても鞄をひらいてもすべての音が十月である/荻原裕幸

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October 26, 2010

2010年10月26日(火)/SKE吟行

午後、栄の久屋大通公園へ。ねじまき句会の吟行。それぞれにあたりを散策しながら二時間ほどで五句をまとめることになる。日陰はかなり冷えていたので、歩くにもベンチに坐るにもとにかく日向を選んで行動する。風が強くて、欅の高枝がよく撓っているなと思っていたところ、大きく折れて近くに落ちた。周囲の人が一斉に音のした方を見る。直撃すれば怪我をしそうなサイズの枝だった。以後、気になって視線がやや上を向く。鳩、蝶、鴉、蠅、ビニール袋、等が空を飛んでいた。

 逢うときにさみしい顔をつけてみる/荻原裕幸
 ご丁寧にけやきにケヤキと書いてある
 木の葉数えはじめるとすぐ風が吹く
 笑わないベンチと笑うベンチがある
 コンビニで何でも買える水を買う

以上がまとめた五句。吟行の後は、公園東隣にある、珈琲エーデルワイスの二階で合評会をする。その場で各自の詠草を無記名で書き写して選句。一句一句の読解と批評を進めてゆく。吟行の参加者が五人と遅れて参加した一人の六人で、各自の嘱目あるいは嘱目から派生した句を楽しみながらのにぎやかな意見交換となった。俳句の吟行に比較して川柳の吟行から何かを得るのは難しいようにも感じるが、ふだんと視点を変えることによって、少なからず見えて来るものがあった。

きょうの一首。吟行の流れで、短歌も一首まとめてみた。

 このベンチは秋日がやけに柔らかでもしや死が来たのかとか思ふ/荻原裕幸

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October 25, 2010

2010年10月25日(月)/芋掘日和

近所に住んでいる家人のともだちと福岡に住んでいる家人のともだちは、どちらも幼稚園に通う娘さんがいて、そのどちらの幼稚園でもきょうは芋掘りの日だという。偶然に重なっただけか何か由来のある日なのか。なんとなく日本全国の園児が芋掘りをしているところを想像してしまう。なんともかわいらしい図である。どうか佳い芋が掘れますように。午後からは同朋大学の講義に行く予定だったのだが、都合で、学務課に連絡して、休講にしてもらった。

 部屋には洋服がかかつてゐた

 右肩をさげて
 ぼたんをはづして
 壁によりかかつてゐた

 それは
 行列の中の一人のやうなさびしさがあつた
 そして
 壁の中にとけこんでゆきさうな不安が隠れてゐた

 私は いつも
 彼のかけてゐる椅子に坐つてお化けにとりまかれた/尾形亀之助

昨日に続き、第一詩集『色ガラスの街』(一九二五年)に収録された詩。「彼の居ない部屋」の全行。彼、とは、私の友人なのだろうか。不在の彼の部屋での観察がものすごくリアルで、私と彼との関係が気にかかる。最終行の「お化け」が少し理解しづらいが、何か霊的なものがそこにいるわけではなくて、彼=他者のいつも見ている世界が私にとっては得体の知れないものである、ということではないかと思う。彼=私であると解釈して、日頃見慣れた自身の部屋を他者的に眺めているところだと読んでみるのも一興か。

きょうの一首。

 朝刊にはいつもかすかに匂ひある朝のちからのやうな匂ひが/荻原裕幸

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October 24, 2010

2010年10月24日(日)/家族と相談

ときどき行く某喫茶店の喫煙席では、なぜかものすごく高い頻度で営業マンと顧客とが商談をしている。一人で珈琲を飲んでいると隣りのテーブルの話が丸々聞こえてしまう。これまで、パソコン、テレビ、生命保険、自動車、住宅、等の営業トークを聞いた。生命保険と自動車は数回ずつ聞いている。顧客の結論は、決まって、じゃあ家族と相談してみるよ、である。買う気なのか断る気なのかはわからないが、いずれにしても、家族と相談、は、営業マンが踏みこめない聖域であるようだ。

 私は夕方になると自分の顔を感じる

 顔のまん中に鼻を感じる

 噴水の前のベンチに腰をかけて
 私は自分の運命をいろいろ考へた/尾形亀之助

第一詩集『色ガラスの街』(一九二五年)に収録された「秋の日は静か」の全行。このタイトルは作品の冒頭の一行だと思って読むべきか。秋の夕暮に、あたりがひんやりすると、外気にさらされた顔、とりわけ鼻が、存在を主張しはじめる。そうした誰にでもわかりそうな体感がベースにはあるものの、あまりにもそこはかとなくて、感情がどの方向にシフトしているのか、爽やかさを感じているのか淋しさを感じているのかがわからなくなるほどの、秋の空気のような一篇だ。以前は、尾形亀之助の詩を読んでも、良いと思うことはなかった、と言うか、何も感じることができなかったのだが、この頃、この人の詩の、静けさ、にしばしば惹かれる。

きょうの一首。

 ピストルの音を間近に聞いたことなくてコスモス疎らに揺れて/荻原裕幸

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October 23, 2010

2010年10月23日(土)/地球をしばらく

霜降。朝夕それなりに冷える日が続いている。早朝、家人が義母と義姉とセントレアへ。タイから帰国する義父を迎えに行く。留守番。帰宅した家人は夕刻からふたたび外出。ふたたび留守番。夜、近所の中華料理店で一人で食事。店のテレビではプロ野球の中継が流れていた。セリーグのCS第二ステージ第四戦は、ジャイアンツが粘りを見せて、終盤でかなり縺れた試合だったが、ドラゴンズがサヨナラ勝ちで制して四勝目。日本シリーズへの出場権を獲得した。

寺山修司の映画論に『地球をしばらく止めてくれぼくはゆっくり映画を観たい』(一九八一年)というものがある。既刊本に新稿を加えた再編集本として、角川文庫から刊行された一冊で、当時、書店で新刊として並んでいるのを見つけて買った。洒落たタイトルだとは感じていたのだが、この人はほんとに大袈裟な言い回しが好きだよなあなどとも思った。十代の自分には、別に地球など止めなくても映画をゆっくり観るだけの時間があったのである。その後、折に触れてこの本の背表紙を眺めるたび、だんだん言い回しが大袈裟にひびかなくなって行った。いまでは、大袈裟どころか、むしろ切実なひびきとして聞こえる。映画を観るのはもとより、その他のすべての行為のために、誰か地球をしばらく止めてくれ。

きょうの一首。

 世間が見えない場所でしづかに喫煙をするすぐにまた世間に戻る/荻原裕幸

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October 22, 2010

2010年10月22日(金)/潔癖

こどもの頃、硬貨や紙幣に触ったらすぐに手を洗うようにと父母に言われた。たしかに衛生的ではないにしても、その他はごくふつうの潔癖さの彼等が、硬貨や紙幣のことになるとやたらに神経質だった理由がいまだによくわからない。あれでは給仕をする人と会計をする人とが同じ飲食店など行けるものではないなと思うが、考えてみると彼等はむかしからまず外食をすることがない。経済的な理由だとばかり思っていたのだが、まさかその潔癖さが一因だったりするのだろうか。

沖積舎から高柳蕗子さん責任編集のムック「穂村弘ワンダーランド」が届いた。一冊まるごと穂村弘を特集したもので、A5サイズで100ページ、散文ジャンルでの活動も視野に入れながら、主に歌人としての活動にスポットをあてている。執筆者の多くは歌人であるが、作家の高原英理さんが、「未知と不可知」と題された文章を寄稿していて、目次を見てまずそれを読んだ。穂村弘の手ざわりが、あ、と思うようなアングルから伝わって来る。これは佳いと思う。このムックには、自分も、「『シンジケート』のあとがき」と題して、四百字で二十枚弱の文章を寄稿した。歌人としてのクロニクルをまとめながら、穂村弘のいくつかの散文が書かれた事情をシンプルに考察してみた。

きょうの一首。

 キスをしても心に力の入らない日があるカレーライスを食べる/荻原裕幸

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October 21, 2010

2010年10月21日(木)/Trick or Sweet

午後、家人と近隣のカフェに行くと、商品がすっかりハロウィンの仕様になって、店内のポップには、Trick or Sweet なんていう惹句も出ていた。どうもハロウィンはぴんと来ないなあと毎年思うのだが、そのぴんと来ない感じがこの時期らしいなあと感じはじめるようにはなった。ジャイアンツとドラゴンズとのプロ野球セリーグのCS第二ステージ第二戦。ドラゴンズがきのうに続いて快勝、アドバンテージの一勝とあわせて三勝零敗となる。

一九八〇年代の半ばあたりに書かれた短歌論には、同時代の表現として他ジャンルには負けていられない、といった自負や焦慮がかなり高い頻度で見られたと思う。それがいつの頃からか、短歌には短歌にしかできない表現の領域がある、無理せずにできることをする、という論調が増えはじめた。おそらくはその延長線上に、短歌史を再考したり、歌人論を掘り下げたり、何よりも一首を精緻に読解しようとしたり、そうした動きがあるのだろうと思う。短歌論としては健全な道筋をたどっていると言えそうだ。ただ、それが、全体に、短歌にあらたな世界を拓こう、という類の意欲を冷えこませている気もする。大風呂敷をどんどん広げるばかりでも困るが、広げた大風呂敷を丁寧に畳んでゆく人ばかりでもやはり困るのではないか。広げることと畳むこととのバランスが崩れるのは、たぶんジャンルにとってあまり望ましいことではないだろう。厄介な問題である。

きょうの一首。

 ベランダに小鳥来てゐるうすぐもり捺印がよくかわくまで待つ/荻原裕幸

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October 20, 2010

2010年10月20日(水)/健康診断

午前、某所で定期的な健康診断をしてもらう。検尿とか体重とか腹囲とか視力とか聴力とか血圧とか心電図とか心音とか、そうした当日はっきりとわかる検査では、特にこれと言った問題はないようだった。問診の最後に、たばこは健康によくないのでやめるように努力しましょう、と言われてしまったが、ともあれ、性格や素行の不健康さに反して、身体はそれなりに健康的なようである。結果を待つことになるいくつかの検査でも何ごともありませんように。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の六回目。きょうの題は「秋の暮」。出席者は10人。詠草10句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。出題するとき、秋の暮、は、何を付けても俳句になりますから、気軽に何でも書いてみて下さいと、本気半ば冗談半ばでのアドバイスをした。理由は明確ではないのだが、秋の暮、は、秋の夕暮なのか秋の終りなのかが曖昧/両義的で、そうした本意のありかのはっきりしていない季語の場合、なぜか、何を付けても俳句になる、という感覚が生じやすいように思う。取りあわせが月並に陥りにくいということだろうか。きょうの題に即して一句。

 穂の字の肩に点を打つひと秋の暮/荻原裕幸

きょうの一首。

 疲れほどよく薄暮のやうにやつて来て湯槽に秋のからだを解く/荻原裕幸

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October 19, 2010

2010年10月19日(火)/電話の向うで

それなりに心構えはしていたものの、きのうからはじまったマンションの外壁の塗装工事の機械音が少し気にかかる。集中力が完全に削がれてしまうほどの音量ではないのだが、トータルで一か月半ほどのスケジュールが組まれているので、ともかく慣れるように努力するしかなさそうだ。などと考えていたら、携帯電話が鳴る。きょうは読書会だよ、忘れてない? と電話の向うで友人が言うのを聞いて、きょうが読書会だったことに気づく。慌てて出かける。

午後、栄の愛知芸術文化センターへ。定例の読書会。参加者は五人。テキストは、今年の七月に刊行された、都築直子さんの第二歌集『淡緑湖』(本阿弥書店)。前述のようなわけで少し遅れての参加となる。各自が気になっていた作品をピックアップして、細かに読解した上で、侃々諤々の議論を続けた。第一歌集『青層圏』(二〇〇六年)と比較してどうかという話にまでは及ばなかったので、そのあたりについて少しメモしておく。『青層圏』では、ものごとを少し理屈っぽく捉える傾向とやや情緒的なものに流される傾向とが、それぞれときどきマイナスの要素としてあらわれるのを感じていた。文体や方法としてはっきり自覚されたためか、『淡緑湖』では、それらの傾向がよりはっきりと表面化したようだが、中途半端に理屈っぽかったり中途半端に情緒的だったりするマイナス面がほぼ払拭されて、作者独自のスタイルを形成しはじめているのではないかと思う。以下、『淡緑湖』から好きな作品を引用しておく。

 傘下げて夏の階段のぼりゆけば空の手前で左へ折れつ/都築直子
 くるしみのイエスの頬を見てゐしがふとも絵の具の隆起みてをり
 いちまいの手紙を打ちて感情のなごりしばらく十指に残る
 空澄みて日本全国午後一時わたしは冷えたビール飲んでる
 をしみなく死んでをりたり密封の水にひしめくすはだかの牡蠣
 葉陰から叔母の顔して出で来しがわれに気づいて鮒にもどりぬ

きょうの一首。

 かなのなかにときどきまなが浮いてゐるメール明るき静けさに秋/荻原裕幸

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October 18, 2010

2010年10月18日(月)/外壁工事も突然に

午前、マンションの大家さんが来て、これから外壁の塗装工事をはじめるので、駐車場の車をすぐに移動してほしいと言う。一応事前に説明はあったのだが、何月何日に移動する必要があるのかはあらためて伝えるという話だった。外に出ると、別の部屋の人たちも慌てた様子で車を移動させはじめている。仮に誰かが留守にしていたらどうするつもりだったんだろう。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の四回目。エッセイについてのまとめの話をしてから、学生に実作をしてもらう。

 花の若狭知らず青葉の加賀も見ずわれに愕然として老い来る/塚本邦雄

一昨日と昨日に続き、第十一歌集『閑雅空間』(一九七七年)に収録された一首。手にする機会もなくはなかったであろう歓楽を、いずれはいつの日かはと先に伸ばして来た或る日、自身に何らかの老いの兆しを感じて、そう言えばあれもしていないしこれもしていないと、焦慮や寂寥が一気にやって来た、ということだろう。知らず、見ず、と否定のアングルから歌枕の絶景を引き出すのは、新古今集の藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」に見られる「なかりけり」の応用だと思われるが、そうした技巧的な問題だけではなく、経験的リアリズムを憎み続けた塚本邦雄の、その憎悪の反映もまたここに見えている。どれほど美しい語彙や技巧を尽して虚を描いてみても、素朴なリアリズムの一首の実を超えるのは容易ではない。ならば、とばかりに、あの花の若狭やかの青葉の加賀を私はこれまで経験したことがないという経験を描くこと、つまり、実のなかに虚をぶちこむという裏技に及んだのだと考えられる。執念の一首だと読んでおきたい。

きょうの一首。

 盗聴したいほどではないが秋たけて妻の本音を聴きたい夕べ/荻原裕幸

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October 17, 2010

2010年10月17日(日)/妻は選る

近隣の住宅街では、立派な屋敷的な家からいつしか人の気配がなくなって、家屋が壊されて、売地の看板が出て、それがやがて管理地の看板になって、マンションが建てられるか、あるいは分割されてスタンダードな広さの建売住宅になるか、そんな風景がしばしば見られる。細かな事情はともかく、新しい風景になじむまで、淋しい気分がしばらく続く。きょうは何か日頃からの疲れがどっと出たような感じがあって、終日ほとんど何にも集中できずに過ごした。

 丁子・茴香・肉桂・胡椒夕映に妻は選るまたはかなきことを/塚本邦雄

昨日に続き、第十一歌集『閑雅空間』(一九七七年)に収録された一首。愛妻料理などと言うと、塚本邦雄の世界からかけ離れたイメージになるかも知れない。しかしまあこの一首はそういうことだろう。献立の選択ではなく、香辛料の選択であるところが、モチーフを食欲から食文化へと昇華しているわけだが、その選択を「はかなきこと」と言って斜に構えてしまうあたりに、快さ楽しさに容易には屈しない塚本らしさが出ていると言えようか。ただ、俗に読めば、私は味や香りの微妙な差がわかるほど繊細ではないし、どちらかと言えばお腹がふくれればそれで満足だ。なのに妻と来たらそれはもう念の入った凝りようで、という、困り顔ながらも実は褒めている、家庭人としての表情が見えて来る。作者の計算違いで水漏れのように生じた読解のようにも思うが、この一首は、ほのぼのとそう読んでおきたい。

きょうの一首。

 この世にと言ふかこの夜にどのやうな出口もなくて鈴虫の声/荻原裕幸

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October 16, 2010

2010年10月16日(土)/呟けない

荻原さん、ツイッターやらないんですか? と先日もある人から訊かれた。やりたくないわけじゃないんだけど、ブログだけで手一杯で、と答えると、怪訝そうな顔をされる。だってツイッターの方が簡単じゃん、と顔に書いてある。いや、まあ、そう言えばそうなんだけど、それ以上は説明が困難なので、曖昧に流してしまう。夕刻、桜山の美容室で髪をカットしてもらった。もう三か月も伸ばしっぱなしだったので、癖毛が好き放題に暴れていたのをばっさりと短くしてもらう。

 秋茄子の藍淡ければうつし身のわがめとりけるもの妻と罰/塚本邦雄

第十一歌集『閑雅空間』(一九七七年)に収録された一首。淡、に、あは、とルビがある。「淡ければ」は、その後のフレーズに直結するのではなく、その淡い色を見てしみじみと思われることは、といったほどの意味になろうか。食卓の秋茄子を眺めながら半生を顧みる四十代五十代の男性像が浮かぶし、かなり重いモチーフだと考えられるのだが、それでもあまり深刻な印象が生じないのは、罪と罰、を捩った風に、妻と罰、と言ってみたり、秋茄子は嫁に食わすな、という俚諺をなんとなく思い出させたりして、美的ではあってもどこか地口的な文体だからだろう。また、現実以外にどんな私もあり得ないはずなのに、あえて「うつし身の」と言って、微妙な含みをもたせるあたりには、ロマンティシズムの匂いがほんのりとある。人生をただ人生として噛みしめるのではなく、どこか言語表現として楽しんでしまうのが、いかにも塚本邦雄らしい感じだ。

きょうの一首。

 ロシア製の砂時計だが荻原家の秋をきざんで降りつもりゆく/荻原裕幸

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October 15, 2010

2010年10月15日(金)/奇妙な後味

羽生善治名人が渡辺明竜王に挑戦する第23期竜王戦七番勝負第一局。渡辺竜王が先勝した。二日目のきょう、そろそろ最終盤に突入するあたりだろうかとネットの中継を見てみると、突然に終局となる。横歩取りから烈しく攻めあう展開になって、優劣の見えづらい一局だったのだが、羽生名人にどこか強引さがあり、渡辺竜王が強気ながらも冷静に指し回していたように見えた。投了直前の羽生名人の数手は、理屈では全く理解できない手で、奇妙な後味が残ったままだ。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は11人。詠草は11首。題は「運」。地下鉄駅の瑞穂運動場東/瑞穂運動場西から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。さまざまに工夫された詠草を読みながら、前回の「橋」のように場所に関する題、あるいは今回の「運」のように動詞として使える題は、短歌で活用しやすいのだろうと感じた。講座後、某所で喫煙しながら、ビルの狭間に見える青空をぼんやり眺めていると、文字通り鰯の大群を思わせるような鰯雲が、ほぼ西からほぼ東へと楽しそうに流れていた。

きょうの一首。講座で「運」の題の作例として見せた一首。

 列島は晴れて十月どこまでもわたしはわたしのかたちを運ぶ/荻原裕幸

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October 14, 2010

2010年10月14日(木)/ドラマのなかに

連日あまりにも秋らしくない暑さが続くので、かなり無防備な格好で眠っていたところ、早朝、からだがすっかり冷えきっているのに気づいて目が覚めた。これはいかんということで慌ててからだを温めたら、こんどは少し暑いような気がして来た。暑いのか寒いのか、はっきりしない毎日である。夜、義母と義姉と家人と四人で食事に出かける。母娘三人の陽気な会話にぼんやりと耳を傾けながら、婿養子もののドラマのなかにいるような気分になる。

喜多昭夫さんの詩歌関連の評論集『うたの深淵』(沖積舎)が届いた。六月に同じく沖積舎から刊行された『うたの源泉』の姉妹編的な一冊。どちらも一九八〇年代から現在にいたる評論をまとめたもので、後者はテーマや作家に焦点をあてた文章を中心に、前者は書評的な文章を中心にまとめたようだ。双方とも、四半世紀にわたる時間のなかでもほとんど揺らぐことのない喜多さんの堅実ぶりがしっかりと感じられる構成になっている。この『うたの深淵』には、荻原裕幸の第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)をめぐる文章も収録されている。歌集が刊行されてしばらくした頃、喜多さん本人から掲載誌が届いた。「マッチ売りの青年」と題されたその文章が、丁寧な読解を展開しながら、作家および作品の是非に関するフレーズを全く含まないのがとても印象的だった。ひさしぶりに読み返してみて、歌集刊行当時の昂揚した気分を懐かしく思い出していた。

きょうの一首。

 秋服を着てポケットの数すこし増えて日暮をゆたかに過ごす/荻原裕幸

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October 13, 2010

2010年10月13日(水)/半袖の半日

午後、中京大学へ。きょうはついに暑さに負けて半袖で出かける。人数的に浮いているほどではなかったが、もちろんこの時期の半袖は少数派で、涼しい反面、どこか居心地のわるさもあった。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の五回目。きょうの題は「天高し」。出席者は10人。詠草11句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。「天高し」は扱いやすい題だったのか、自在あるいは大胆にまとめられた詠草が揃っていた。きょうの題に即して一句。

 こどもみななみだおほつぶ天高し/荻原裕幸

以前、短歌や俳句だけではなく、散文も含めてすべてを歴史的仮名遣いで書いていた時期がある。私的な日本語観による動機があってのことだったが、それを、短歌と俳句は歴史的仮名遣いで、それ以外は主に現代仮名遣いで、という現在のスタイルに変更したのは、歴史的仮名遣いを読んだときに生じるほんのわずかな伝達の時差のようなものが、書く自分にとって、プラスに作用したりマイナスに作用したりすることに気づいたのがきっかけだった。この時差は、短歌や俳句では、自分の求めている何かを強化する感じがあって、一方、評論や評論的要素を含む文章では、自分の求めている何かを大きく損ねてしまう感じがあるのだ。意味の伝達速度の問題だとまとめてしまえばわかりやすくはなるのだが、そこまで単純化していいものなのかどうか、自分自身のことながらよくわからないでいる。

きょうの一首。

 むかしは第一勧業銀行だつた銀行の窓口にひとがうねうねと秋/荻原裕幸

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October 12, 2010

2010年10月12日(火)/そう来たか

きょうもまた少し暑い。岡井隆さんの最新歌集『X(イクス)—述懐スル私』(短歌新聞社)をぱらぱらと開く。全体が、二〇〇八年、二〇〇九年、二〇一〇年、の三章で構成されて、各章には発表した年毎の作品が小さな章に分けて収録されている。それ自体は何の変哲もない編集方法だが、発表年による各章の冒頭が、歌会始選者詠である旨を詞書とする、一首で一章の作品で占められていた。そう来たか、と思わず声を出してしまった。

 刈田になにかつばさあるもの来ていたる/宇井十間

第一句集『千年紀』(角川学芸出版)に収録された一句。「なにか」と言うからにははっきりしないわけで、だとすると、遠景として刈田があり、そこで翼をひろげたりたたんだりしているのが、鳥であるだろうとは思われるものの、明確に判断できるほどの近さにはいない、ということになろうか。推断で「鳥」と記述するよりは「なにかつばさあるもの」とする方が、あきらかに風景の質感を鮮明にしている。と、このあたりまでは一見したところ明確だが、「なにか」と記述した途端、「なにか」のなかには、視力的にはっきりしないものの他に、不可視だが気配が感じられるものなども呼びこまれて、まさに何か含みが生じる。もちろん作者はこの含みに気づいているだろう。と言うか、むしろ含みそのものがモチーフなのか。ことばによる隠し絵のような文体が楽しい。以下、同句集から他にも惹かれた句を引用しておく。

 冬耕のどこまでいけど海みえず/宇井十間
 夏雲徐々に未知の論理の形なす
 不可知しずかに夏のこだまを映す水
 木の葉ちる木の葉ちるその影の上

きょうの一首。

 楽しいことが続かなくても揺らがないたぶんと思ふ木犀の午後/荻原裕幸

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October 11, 2010

2010年10月11日(月)/祝日開講

体育の日。きょうも少し暑い。午後、栄で某歌人と会う。お茶をしながらあれこれと打ちあわせ的な話をする。その後、同朋大学へ。月曜の祝日が重なるため、祝日なのに開講という日が生じるらしい。大学周辺はふだんと違うのんびりした雰囲気だったが、キャンパスはふつうの月曜の雰囲気だった。文章表現の講義の三回目。先週に引き続き、エッセイについて、具体的なテキストを読みながら、表現の技術的な構成を考えてゆく。

備忘録的に。ブログを落としていた時期にあたる、六月二十六日の午後、歌崎功恵さんの第一歌集『走れウサギ』(北溟社)の読書会に参加した。会場は栄の名古屋YWCA。加藤治郎さんの主宰するJ歌会のプログラムの一部として、クローズドにやや近い状態で開催された。著者を含めて参加者は八人。レポーターの堀合昇平さんの緻密な分析を手がかりに、パフォーマンス化することのない充実した意見交換ができたと思う。参加にあたって、歌集から五首の抄出を求められて以下の五首を選んだ。具体と抽象を往復しながら、身体につながる感覚を巧く浮かびあがらせている。この作者のもっとも特徴的な部分の見える作品だと思う。

 手のひらに小さき頭蓋を引き寄せて雨の匂いを確かめている/歌崎功恵
 生れくる前にこの手に渡された白紙のノートの場所を知らない
 結語無き会話のようなくちづけに耐えればひざを奔りゆく水
 黒色のスーツケースに私の誰にも見せぬ密林がある
 寂しがりの眼ばかりが棲む空がありときどき私を監視したがる

きょうの一首。

 からだの奥の奥まで青く晴れあがる病的なあかるさにして秋/荻原裕幸

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October 10, 2010

2010年10月10日(日)/爽やかと冷やか

雨が去って日中は気温があがる。夏の暑さとはどこかしら違う暑さだが、それにしてもこの暑さは何なのだろうと思う。連休ということもあってか、あたりがとても静かに感じられる。この時期の静けさは、秋の深まってゆく感じと相俟って、何かしらものさびしげでしみじみとした気分になるものだが、今年はそうした感じがまだほとんどやって来ない。わずか数度の気温の差のなかに、爽やか、と、冷やか、との境界があって、日常はそれに大きく左右されているのかも知れない。

備忘録的に。一昨日と昨日のエントリで鑑賞をまとめた光森裕樹さんの作品は、彼の短歌のなかでいちばんはじめに佳いと感じた作品だった。六年近く前、このブログでもちょっとした印象を述べている。初出はたしか歌壇賞の候補作として掲載された一連だったと思う。確認しようとしてウェブで光森さんの活動歴を見たところ、その部分が省略されていたのが不思議だった。ならばなぜ巻頭の一首で、それを歌集のタイトルにまでしたのか、気になるところである。光森さんの活動については、その後もウェブ上で何回か言及している。島なおみさんの企画による「+a crossing」の作品評それについての補足的見解角川短歌賞受賞作への言及。無所属で活動する歌人ということもあってか、自分には、その動向がかなり気になっていたものと見える。

きょうの一首。こう書いて、最近、あまりはしゃぐ機会がないことに気づく。

 王冠だといふのに軽く外されてこんなにはしやぐビールの周り/荻原裕幸

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October 09, 2010

2010年10月9日(土)/海

高校の地学の授業で教師から聞いたたとえだったと思う。海と陸の比率を7対3だと言って地球を表面だけでイメージする人が多いけれど、市販の地球儀をべたべたに濡れた雑巾で拭いたときに表面に残る水分程度のものが地球に対する海の占める比率なのだそうだ。直径25センチの地球儀を想定して計算すると、たしかに海のいちばん深い部分でも10分の2ミリ程度にしかならない。人間の目から見ると青くて広大なあの海も、地球の属性のほんの一部でしかないということか。

 ポケットに銀貨があれば海を買ふつもりで歩く祭りのゆふべ/光森裕樹

昨日に続き、第一歌集『鈴を産むひばり』(港の人)に収録された一首。物語の一場面にも見えるが、物語の一場面を描いているわけではないと思う。現在の日本の、夏祭か秋祭か、屋台の並んだ賑わいのなかを歩いていて、ポケットに五十円とか百円とか五百円とか、硬貨をじゃらじゃらさせているのだろう。それらの素材は実際は銀ではない何かの合金だし、硬貨では大した買物もできないご時世だが、そうした不景気な感覚を超えて、硬貨を、見た印象の通りの、銀貨、と呼んでみると、はじめての祭に向かう少年少女のような、ぼくにはわたしには何でも買える的な、無敵だと感じる一瞬がどこからかやって来る。ひとつ海でも買うつもりで歩いてみようかと、物語のなかの人物にでもなったようなつもりで歩いている。現実と空想とを混同しても、やがては現実に幻滅するだけだが、現実のなかにあえて空想をはしらせると、現実の質感は少し変化する。この一首の、この歌集の、そしてこの歌人の求める根底的な主題がよく見える一首ではないだろうか。

きょうの一首。汗の季節が過ぎたからか、身体が必要としている感じの薄くなったその匂いの強さが、ときどき気になる。

 何か魔法が解かれたやうに行くひとの香水きつく匂ふ秋の日/荻原裕幸

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October 08, 2010

2010年10月8日(金)/金木犀の匂う日

寒露。午後、外に出てみると、あたりに金木犀の匂いがたちこめていた。家人にその話をしたところ、すでにきのう気づいていたと言う。別に勝ち負けの問題ではないのだが、何か負けたような気分になる。この時期になってようやく少し秋らしい空気がひろがって来た。ただ、暑がりで汗かきの自分は、日中はいまだに扇やタオルハンカチが手放せないし、長袖を着ていると、やがてうっすらと汗ばんで来て、Tシャツ一枚でいいのではないかとか思ってしまう。

 鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ/光森裕樹

第一歌集『鈴を産むひばり』(港の人)に収録された一首。巻頭の一首。「鈴を産むひばり」というのがどんな雲雀を(あるいは、何を)指しているのか、ことばとしては鮮烈なイメージがあるのだが、具体的にはよくわからない。何の註も入れずに何の反応も示していないところからして、この歌の、わたし、の理解度も読者と同じレベルなのかと思う。たぶん、ねえさん、だけがわかっていて、しかもそうした自身の感覚が他者ににわかには通じないであろうことも経験的に薄々は察していて、しかし少なくともわたしはいつもそのわからなさを咎めずに耳を傾けている。ねえさんのことばの、コミュニケーションのとしての無配慮で無器用で無防備な様子からは、そうした、わかりあえなくてもつながっている二人の関係が連想される。二人だけでわかりあっている世界ならば、第三者/読者にはある意味どうだっていいものだが、わかりあえていない二人の世界には、思わず知らず踏みこんでみたくなるものだ。だからこそこの虚ろで美しいモノローグが映えるのだろう。ねえさんとわたしとの関係は、光森裕樹にとっての、作者と読者との関係の理想、なのかも知れない。同じ連作に「ゆふぐれの色が出ないとねえさんは緑の絵の具を二本も絞る」がある。巻頭の一首を読んだ感覚の残ったままこれを読むと、奇異な行為が、ねえさん的には辻褄があっているように見えるのが不思議だ。

きょうの一首。

 いまも雲雀を殺し続けるまだ妻が妻でなかつた日のひとことが/荻原裕幸

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October 07, 2010

2010年10月7日(木)/あたまをつかう

午後、詠草をまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。きょうの参加者は十二人。題詠「速」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。終了後、二次会。ふだんはあまり行かない界隈で店を探して入る。串とどて煮が看板の居酒屋。自分の記憶では、むかしからある店ではないはずなのだが、客の多くが長年の常連さんのような雰囲気で、どこか不思議な感じがした。

短歌や俳句の作品評にしばしばあらわれるもので、あたまでつくられた、という言い回しがある。実際に見たり聞いたり感じたりしている印象がきわめて薄く、調べや意味や修辞のためだけにそれが書かれているように見えることを言う。情報を通して事物を知るのではなく、五感を通して事物を知るプロセスに表現の重心がある場合、それは批判的な意味で用いられる。しかし、考えてみれば、短歌や俳句を書くとき、あたまでつくらないわけはない。あたまをつかわないはずはないのだ。求められているのは、あたまをつかわないことではない。感覚をみがいたりすることでもない。それをあたまでつくったにもかかわらず、それがあたかも五感から生じたと見えるようにするために、もっとあたまをつかうこと、なのだと思う。

きょうの一首。「速」の題詠として歌会に提出した一首。

 誰もが世の速さのなかに含まれて見えない午後を聴く秋の音/荻原裕幸

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October 06, 2010

2010年10月6日(水)/腕時計

なんとなく日付の感覚が変だなと思っていたら、七月から使いはじめた二つの腕時計の日付を示す数字がどちらも一日ずつずれていた。十月になって、はじめて小の月を過ぎたので、手動による日付の調整が必要になったのだ。以前、これが面倒だという理由もあって、液晶表示のものを選んだりカレンダーのないものを選んだりしたことを今になって思い出した。デザインで選ぶとこういう点で困ったりするのだが、今はまあそれも楽しいではないかと感じている。年齢的な変化か。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の四回目。きょうの題は「秋刀魚」。出席者は9人。詠草9句。読解を中心に添削的な批評をする。ほとんどが食べものとして秋刀魚の句だったのだが、その味に言及するのではなく、多くは煙と匂いがモチーフになっていたのがおもしろかった。佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を下敷きにしたものもあってなるほどと思う。旬の食べものを題材にしたせいか、あれこれ具体的なシーンを想像しながら読んでいるうちにやはりお腹が空いて来た。さんまにがいかしょっぱいか。きょうの題に即して一句。

 あたま落とされても左向く秋刀魚/荻原裕幸

きょうの一首。

 恙なくしかし小さく生きてゐるのかなかぞらに石榴は割れて/荻原裕幸

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October 05, 2010

2010年10月5日(火)/中島みゆき

昨日、トーイックを継続的に受験している大学の後輩が、充足した表情で、今回、目標だった九百点を超えたと教えてくれた。Kくん、よかったね。以前、何かその種の仕事に就きたいのかと訊いたところ、ただ自身の力を試しているだけと言っていたのだが、就職/転職のためといったモチベーションは、言語についてどこか閉鎖的なところのあるこの国の場合、かえってやる気を削ぐのかも知れない。Kくんのピュアな向学心がこれからどう結実するのか、ちょっと気になっている。

読書情報誌「ダ・ヴィンチ」十一月号が届いた。そう言えばそろそろ書店でも発売される頃である。この号には、中島みゆきの特集が組まれていて、歌人と一般からの公募による「中島みゆき短歌、ください」という短歌のページがある。自分も、中島みゆきをテーマにした短歌三首と短文を出稿した。歌人のラインアップは、石川美南さん、坂井修一さん、俵万智さん、東直子さん、穂村弘さん、と荻原裕幸である。非短歌誌のこの種の特集で、短歌を求められるときというのは、どうしたって微妙に色物的な感じになるのだが、編集サイドの空気に思いがけないほど爽やかな感触があったので、斜に構えず、右顧左眄せず、ただ全力で作品をまとめてみた。

きょうの一首。

 このベーカリーの貼紙はいつも癖のある字で秋晴の臨時休業/荻原裕幸

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October 04, 2010

2010年10月4日(月)/骸骨とか定食とか

午後、同朋大学へ。校舎を歩いていると、何の講義で使われるものなのか、日本人の身長よりも少し大きな印象の骸骨の模型が立っていた。きょうは文章表現の講義の二回目。エッセイの表現についての概論と具体的なテキストに基づいた話をする。受講者数は二十五名で確定したようだ。講座後、中村公園駅の近くの、居酒屋と定食屋を兼ねたような店で食事。常連と思われる客たちが、酔って大きな声で市政をめぐる議論をしているのを聞きながら、一人で定食を食べた。

五七五七七を基本とする短歌の定型は、一人称が何かを語ることを求めながらそれを十全には果たさせない、きわめて意地の悪いサイズであるように見える。事象の細部だけを語ろうとすると、細部が全体とどうつながるのかを求めて来るし、逆に全体を要約的に語ろうとすると、細部がどうなのかを求めて来る。一首の完成度、一首の出来不出来というのは、テーマがどうか方法がどうかよりも、この全体と細部をどう按配するかの匙加減によるところが大きいように思われる。歴史的な、連作における一首の問題や秀歌性の問題も、現在の、リアルとかリアリティと呼ばれたり(そんな用語はもうやめようよとか言われたり)する問題も、つまるところ、この、全体をどこまで要約し細部をどこまであきらかにするか、というシンプルな問題に帰属するのではないだろうか。

きょうの一首。

 止まれの標識わづかに傾ぐ秋の底わたしも傾ぎながら傘さす/荻原裕幸

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October 03, 2010

2010年10月3日(日)/紫煙

雨。十月からたばこ税が引き上げられている。一昨日、栄の売店で購入するとき、女性の店員さんがそれはもうものすごくもうしわけなさそうな表情と声で新しい価格を告げた。何かが間違っている気がした。スモーカーが恨み言を並べるにしても、その矛先は引き上げを決めた人々に向けられるべきであって、あなたには何の落度もありませんよ、いつも通りの爽やかな表情と声でお願いします、というような気持ちをこめて、笑顔で代金を支払った。

 霊魂のきれはしめきてひとすぢのけむり禁煙席にただよふ/江畑實

昨日に続き、第四歌集『瑠璃色世紀』(ながらみ書房)に収録された一首。江畑實さんは、塚本邦雄の前衛短歌時代のスタイルに影響を受けて、それを貫いている。この一首の全方位的なシニシズムは、あきらかにそのあらわれではないかと思う。喫煙の習慣、禁煙の選択、嫌煙の風潮、たばこをめぐる人間の営為を冷やかに眺める視線がここにはあって、だからこんなに何の感情も宿さない文体、すべてを美意識で捉えてゆく文体が生じているのだろう。読者の是非の分かれる、と言うか、現在の読者の反応が非に傾きがちな文体だが、たばこというモチーフは、このシニシズムとかなり相性がいいように感じられた。

きょうの一首。

 窓の向うに日本があつてものごしのやはらかな十月がひろがる/荻原裕幸

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October 02, 2010

2010年10月2日(土)/野口さん

先日、いまの千円札に顔が出ているのが、夏目漱石だったか違う誰かだったか、それがどうしてもわからなくなる。違う誰かが出ていれば、きっと憶えているだろうからやはり夏目漱石だったかなとか思って、実際の千円札を見てみると、当然のことながら違う顔が出ていて、自分の救い難さに愕然とする。この五年ほど毎日確実に一度は見ているはずなのに。野口さん、すみません。記憶力の衰え、と言うか、これはもう絶望的なまでに日常力が衰えていると言うべきか。

 コンビニの深夜まぶしきかたすみにこどもらが不良債権化する/江畑實

第四歌集『瑠璃色世紀』(ながらみ書房)に収録された一首。素行がよろしくない少年少女を不良などと呼んでいたのもすでに昔の話だが、それはともかく、少年少女の不良化ならぬ不良債権化というのは、軽いブラックユーモアなのだろう。親/大人はこどもたちにあれやこれやと投資する。将来的にもっとも有望な投資先に見えるからだ。ところがやがてその有望性にかげりの見える時期が来る。このコンビニのかたすみにいるのは、そんな時期のこどもたちなのだと思う。むろんそれはこどもたちの成長のプロセスの一段階で、対応次第では前にも増して有望な投資先となる可能性を秘めているのに、一時のことで慌てふためいて、本格的に焦げつかせてしまう、などという展開も連想される。サラリーマン川柳で見かけそうな通俗的なモチーフだが、審美的なものを偏愛するこの作者の文体が通俗性を適度に中和して、味わいのある一首にまとまったのではないだろうか。

きょうの一首。

 三番出口を南へ五分そのむかしラブホのあつたあたりを歩く/荻原裕幸

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October 01, 2010

2010年10月1日(金)/祝優勝

きょうから十月。今年の九月の暑さは過去半世紀でもっとも厳しかったそうだが、今月はどうなるのか。プロ野球セリーグで中日ドラゴンズが優勝した。慶祝。マジックの対象チームが敗れたため、試合なしでの優勝決定となった。リーグ制覇は、二〇〇六年以来四年ぶり、八回目である。そのうちの三回は、二〇〇四年に落合博満監督が就任して以後の優勝で、この間一度もBクラスに転落したことがないし、多少地味な印象はあるにしても、いわゆる黄金時代だと言ってもいいのだろう。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は11人。詠草は12首。題は「橋」。地下鉄駅の新瑞橋から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。すっきりと快くまとまった作品が多かったのは、もちろん受講者の表現力がレベルアップした結果なのだが、「橋」という題は、空間の印象や人の存在感をあらかじめしっかりと含んでいるためか、書き手の力を巧く引き出してくれる面があるとも思う。題/特定の文字が一首にもたらす影響というのは、しばしば短歌のしくみを考えるヒントを見せてくれるようだ。

きょうの一首。講座で「橋」の題の作例として見せた一首。もしもドラゴンズの優勝が決定してから書いていたらこうはならなかっただろうなとか思う。

 なんでもない花束提げて秋の橋ゆけばなんでもなく日は暮れて/荻原裕幸

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