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November 07, 2010

2010年11月7日(日)/神戸好日

立冬。午前、昨日にひきつづき、三宮の神戸女子大学教育センターへ。「現代詩セミナー in 神戸2010」の二日目。初日の講演を受けて、三つのグループが別室に分かれ、同時にディスカッションが進められた。いわゆる分科会の方式である。ただ、分科会とは違って三室がまったく同じテーマなのに、他室での話を聞けないのがこの方式の残念なところではある。限られた時間で盛り沢山のプログラムをこなすには有効ということなのだろう。自分は、野村喜和夫さん、岩成達也さん、季村敏夫さん、中塚鞠子さん(司会)、荻原裕幸、というグループに入ってディスカッションをした。参加者は三十数人。どのグループの話を聞くのも自由なのだが、聞く側の人数は不思議に三等分されるものらしい。

ディスカッションでは、一応あれこれと話をしたが、基本的にはずっと一つのことに考えをめぐらせていた。ほとんどの歌人や俳人にとって、定型とは、五七五七七/五七五内外のあのスタイルそのもののことを指していて、五音と七音とで構成された音数律全般のことを指してはいない。歌人や俳人にとっての定型は、作者が積極的に選んだものではあっても創り出したものではない。つまり、あらかじめ存在しているスタイル=他者から与えられたスタイルである。少し抽象的に言い換えると、定型は他者そのものであって、定型に近づいたり、定型を通過したり、あるいは、定型の内部から定型をデザインしたりすることではじめて私があらわれる。平たく言えば、所与のものである短歌や俳句の音数律は、作者である私の個性を構成しないのである。だから、昨日、野村喜和夫さんが語ったような、定型=音数律を、直に作品のリズムにつなげて考えるということを現在の多くの歌人や俳人はしていない。短歌という定型あるいは俳句という定型のなかで、同じ音数律でありながらいかにして自分なりのリズムをそこに生み出すかということが、定型の作者にとっての作品のリズムの問題なのである。

前述の件は、こうして文章にまとめるほどはっきりと発言しているわけではないせいもあってか、詩人たちにとってはさほどぴんと来る問題ではなかったようで、ディスカッションのとき、異文化の風習を珍しそうに聞くような表情をしている人が多く見られた。そこで以下のような話をしてみた。自分は、十代のとき、まず自由詩を書きはじめた。詩を書いていると一行一行を楽しく書くことはできるのだが、たとえばそれが三十行ほどのまとまりになったとき、さらに一行あるいはもっと追加して書くべきなのか、それともそこで完成とすべきなのか、依拠するものがどこにもなくて、きわめて不安定な感じがつねにあった。その後、短歌を書きはじめて感じたのは、スタイルを制約されて書きづらいのに、これで完成した書きあがったという感覚がしばしば生じるということだった。現代詩と短歌との間にある何らかの差異、定型をめぐる差異は、具体的に書くプロセスではそんな風にあらわれるのかも知れない。この話には、笑いや苦笑なども含めて、参加者のはっきり反応した表情が見られた、何かそれなりに伝わるものがあったようだ。

きょうの一首。

 オリオンが変なところに見えてゐてわたしの位置が変だと気づく/荻原裕幸

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