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November 30, 2010

2010年11月30日(火)/栗パフェ

きょうはねじまき句会の例会の日だったのだが、どうしても都合がつかなくて欠席する。夕刻、近隣の和菓子屋で、家人と栗パフェを食べた。十一月末日までの期間限定メニューで、甘党の間ではかなり有名なものだという。ブログの更新が半月ほど遅れている。こうして毎日メモをまとめているのだから、毎日ふつうに更新すればそれで済む話ではあるのだが、書いてはみたものの、そこに何か消化できていない事項が含まれていると、つい更新を躊躇する日が続いてしまうのだった。

ミクシィもツイッターも非常にすぐれたメディアで、惹かれるところが大いにあるのだが、作品について、発表した、という感覚を重んじるとすれば、いまのところやはりブログを選ぶのが妥当だろうか。ブログには、印刷物で言えば、同人誌/個人誌にいちばん近いという印象がある。メディアについてあれこれ考えているうちに、少しブログのスタイルを変えてみたくなって来た。更新の遅れの調整もかねて、十二月を休載期間にして、一月から少しスタイルを変更して再開しようかと思う。たぶん大したことはできないし、早晩元のスタイルに戻すような気がしないでもないのだが、何事も試してみることからしかはじまらないので、とりあえず、試してみる。

きょうの一首。

 小さな節目に何をするかでそのひとが判るとか謂ふ印肉を買ふ/荻原裕幸

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November 29, 2010

2010年11月29日(月)/憂国忌のあとさき

憂国忌のあとさきには、なんとなく澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』(一九八三年)をひらいてしまう。三島由紀夫自身の作品ではなく、澁澤のエッセイに手を伸ばすのは、考えてみれば奇妙な行動だが、たぶん、三島の世界を、自分がもっとも惹かれるアングルから見ていたのが澁澤龍彦なのだと思う。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の八回目。きょうは、俳句について。まずは、季語/季題というルールの意味について概論を語った。

短歌のテーマや方法について、無自覚に書き進めることを自分は好まないが、そうは言いながら、青写真に従って何かを書くわけではなくて、いつも作品を書いた後で自覚的になろうとしているに過ぎない。むしろ自覚的になり過ぎると、テーマや方法の形骸をなぞっているだけの状態になって、作品がまとまらなくなる。一九九五年頃からしばらくは、この、自覚的になり過ぎて作品がまとまらなくなる、という状態に繰り返し悩まされた。ニューウェーブとしての何にこだわり続け、何にはもうこだわらないのかとか、何に新しい方向性を見出すのかとか、そうした外からの自分の姿を意識し過ぎたからだと思われる。自分が楽しんで書いた歌を、歌会の仲間に楽しんで読んでもらおう、という姿勢が保てるようになったとき、この悩みからはおのずと解放されることになった。自分が「場」の問題にこだわって来たのには、おそらくそうした経緯も影響しているのだろう。

きょうの一首。

 好感を抱くひとに挨拶するときのまなざしで冬の朝を見てゐる/荻原裕幸

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November 28, 2010

2010年11月28日(日)/踊ってみた

アニメのエンディングで、キャラクターが本篇の印象を中途半端に壊すような感じで踊る何とか音頭とか何とかダンスみたいなのを見かけると心底うんざりする。無用な配慮のある緩い振付が、見ていて何の楽しさにもつながらないからだろう。「ハレ晴レユカイ」と「ハートキャッチ☆パラダイス」は、その点で画期的だと思った。ニコ動の踊ってみたの若い人たちがあれを踊っているのを見ると、巧拙を超えて、楽しい感じが広がる。バブル期にもなかった純粋な無目的がそこにあるような気がする。

一九九五年の六月から翌年三月まで、岩波書店の主催で、へるめす歌会が定期的に開催された。作家の小林恭二さんと当時の編集部の川上隆志さんの企画で、一九九七年に岩波新書になった小林さんの『短歌パラダイス』は、この歌会の産物である。若年層の元気の良い歌人を集めて、短歌の価値基準のスタンダードを再認識しようとするのがこの歌会の目的だったわけだが、自分にとっては、最悪かつ最良の、不思議なタイミングでの企画だった。最悪かつ最良と言うのは、この時期、自分の短歌観を一度リセットしたいと考えていたためで、約一時間で席題による題詠三首ないし四首を求められるへるめす歌会のシステムは、当時の自分にとっては苦痛と新しい発見との連続だった。題詠しかも得票をベースにする歌会、へるめす歌会以後、自分はそうした状況のなかに好んで身を置いて来た。短歌観の相違を超えて他者に届く作品につながるヒントが、歌会をはじめとした「場」のなかにあるのではないかと考えはじめていたのだった。

きょうの一首。

 バス停前のむかしながらの金物屋を出て来る若き父のまぼろし/荻原裕幸

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November 27, 2010

2010年11月27日(土)/二つの戦争

玄関ドアのペンキの剥がれた部分は、業者さんにあらためて塗装してもらった。それにしても横着な宅配業者だった。昨日、プロバイダによる sweetswan.com のサーバの工事があったのだが、やりとりのどこかに齟齬があったようで、前月上旬あたりからのデータが消失したままになっている。掲示板などを復元するのはかなり困難なことだし、メールについても不安定な状態が続いたりして閉口している。この種のトラブル、個人で物理的にサーバを所有する以外に解消方法はないのだろうか。

一九九五年、一月に阪神淡路大震災、三月に地下鉄サリン事件があった。容赦のない天災や無差別のテロによる殺人事件を前にして、とりわけ震災については、被災地を取材する仕事を体験したせいもあってか、何か自分の内側から噴きあげて来るようなものがあった。にもかからわず、自分の短歌にはそれを書き遂げるだけの方法がないと感じていた。一九九一年の湾岸戦争のときには、無力ながらもともかく手を動かすべきだと思ったのだが、この二つの「戦争」は、歌人としての自分を、心底無力だと実感させるものだった。ノートに作品のメモを綴りながら、そのたびに絶望的な気分を味わうことになった。自分が、日常や社会や世界のなかで、他者との接点/齟齬を能動的に捉えようとしていたのがニューウェーブと呼ばれた何かだったとすれば、この時期以後の自分は、あきらかに受動的になったと思う。

きょうの一首。

 二人ゆく落葉の街路ゆつくりと詩を読みあげるやうにあなたは/荻原裕幸

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November 26, 2010

2010年11月26日(金)/一九九五年

第23期竜王戦七番勝負第四局、二日目、羽生善治名人が連勝、二勝二敗とする。羽生名人の先手ではじまった本局は、角換わり腰掛け銀の展開となる。開戦後、思う様に攻め続ける羽生名人だったが、じっと守勢を維持する渡辺竜王の入玉がちらつきはじめる。渡辺竜王の勝勢かと言われるなかで、結果的に見れば攻め急ぎの一手から状況が一変、羽生名人が逆転した。星は五分、とは言うものの、このシリーズ、総じて渡辺竜王の強さが際だっている。

ここしばらく、まとめていた原稿との関連で、一九九五年という年、あるいはその前後のことを考えていた。一九九四年の終り、第四歌集『世紀末くん!』を刊行した頃から、ニューウェーブと呼ばれていた何かが、自分のなかで決着したのをぼんやりと感じていた。完遂したのか、限界が来たのか、たぶんそのどちらの要素も少しずつ含んでいるのだろうが、これ以上同じ方向に進むのは無意味だ、と感じたのだった。作家は結局処女作に帰るとか、前衛的作家の伝統回帰とか、そうした流れのなかに自分も飲みこまれるのだろうかと考えながら、過去に縛られずに過去を捨てない、という姿勢だけは崩さないようにと心に決めていた。未刊のまま、二〇〇一年時点での全歌集『デジタル・ビスケット』に収録した第五歌集『永遠青天症』の、一九九四年から一九九五年にかけての作品に、自分としては珍しく詞書を執拗に付したのは、方法論の一つである他に、たぶんこの時期の、よりどころのない感覚が大きく作用したのではないかと思う。

きょうの一首。

 これと言つて求める何もない秋の図書館の深くまで来て戻る/荻原裕幸

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November 25, 2010

2010年11月25日(木)/ペンキ塗りたて

憂国忌。午後、玄関ドアとその周辺の塗装作業が進められる。作業中作業後、玄関ドアを開放したままで一時間ほど。業者さんも時間をずらしてくれればいいのに、玄関が向きあっているお隣りさんと同時進行だったため、互いに家のなかが見える状態が続いた。マンションの塗装工事もこれでようやく終了、と一安心していたら、某宅配業者が、何を考えているのか、ペンキ塗りたて、と貼紙してあるそのドアをがんがんとノックする。塗りたてのペンキが部分的にはげる。

きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、古島哲朗さんの短歌鑑賞集『短歌寸描』(六花書林)、青木陽子さんの第四歌集『わが春秋』(本阿弥書店)、そして武藤紀子さんの第三句集『百千鳥』(花神社)をとりあげた。分量は四百字で四枚半弱。今年は年末に年間回顧を掲載しないことになったので、対象の選択がかなりむずかしいことになった。また二か月、悩むことになりそうである。網羅的な時評だと、読んでも書かれても書いてもあまり面白いものにはならないのだが、そういう要素も必要なのかも知れない。

きょうの一首。

 私はもはやどうしようもなく私で恙なく三島由紀夫忌の午後/荻原裕幸

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November 24, 2010

2010年11月24日(水)/24パーセント

名古屋市議会のリコールをめぐる有効署名が法定数を下回ったというニュースをかなり不快な気分で聞いた。河村たかし市長が主導してのこのリコールが妥当なものなのかどうか、判断しづらい点は多々ある。ただ、署名の無効率24%という数値は、異常なもので、名古屋の行政や暮らしを考えようとする以前の問題だろう。自分は、選管が署名の動きに難癖をつけているようにしか見えないのだが、どうなんだろう。きちんとした事実が知りたい。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の十回目。きょうの題は、冬の衣類から何か自由に、ということにしてみた。出席者は10人。詠草は10句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。いまここで、あるいは、そのときそこで、こんなことがあった、という事実的な(事実である必要はない)感触が少しでも伝われば、俳句を書くという行為は報われる。そしてその感触が伝わるかどうかは、表現にリアリティがあるかどうかではなく、ことばを連ねるプロセスを読者の視界の外に置くことができるかどうかに左右されるのではないか。詠草を読みながらそんなことを考えていた。きょうの題に即して一句。

 マフラーの奥から変な声が出る/荻原裕幸

きょうの一首。

 絶対領域しづかに見えて冬ざれの向かひのホームに六本の脚/荻原裕幸

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November 23, 2010

2010年11月23日(火)/これは戦争ではない

勤労感謝の日。北朝鮮が韓国領の延坪島を砲撃し、死者が出たというニュース。韓国側も応戦したという。ただ、マスメディアからはそれほど緊迫した雰囲気が感じられず、各国の政府ならびにマスメディア的な理解は、北朝鮮の挑発的行為と韓国の当然の対応、というようなところに着地しそうな気配がある。すぐにこれ以上のことには発展しないのだろうし、させたくもない、ということなのか。それにしても、これが戦争でなければ何が戦争なのかとは思う。

ネット短歌ということばはあきらかに廃れた。既存の短歌の圏外で気ままに書かれている短歌という意味の蔑称としても、また、ネットをメディアとする短歌の新しい可能性の呼称としても。そして、短歌におけるネットの活用は、いまやさほど特殊なところのない行為として自然な感じで広がりつつある。短歌でもようやく、ネットという場に対する偏見が薄らいだのだろう。この十数年のネットと短歌との関係は、機会があればあらためてまとめてみようと思うが、さしあたり問題にしたいのは、新作を発表するメディア/場として、ネットを選択する歌人や歌人のグループがここまで少ない理由である。なぜなのか。単なる推測ではなく、少し分析して考えてみる必要はありそうだ。

きょうの一首。

 濃さすこしづつ違ふ影わたしからいくつか生えて冬の夜の街/荻原裕幸

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November 22, 2010

2010年11月22日(月)/塗装とか定義とか

小雪。マンションの外壁の塗装工事は、やっと最終段階の塗装のプロセスに入る。塗料が付着しないように、玄関周りや階段のそこここにこまごまとビニールの覆いがかけられて、映像などで見る事件現場さながらの異様な雰囲気である。午後、崩れ気味の天候のなか、同朋大学へ。文章表現の講義の七回目。伝えるべきもののある明確な目的をもったテキスト、と、文芸作品などの必ずしもそうとは限らないテキスト、との違いについて話した後、学生に具体的に文をまとめながら考えてもらう。

公的文書とか学術論文とか、ここに書かれているのは間違いなくこれこれこういう意味である、ということが明確になるように、決して曖昧にも多義的にもならないように、がちがちにことばでガードを固めると、たしかに読者を一つの意味へと促す文脈が構成されるのだが、しかしそれがわかりやすい文になるとは限らない。むしろほとんどの場合、少なからずわかりづらさが生じて来ると思う。ことばというのは、厳密さや正確さを苦手としていて、それらを強く求めようとすればするほど、大きな歪みに繋がるのだろう。そうやって考えてみると、谷川俊太郎の詩集『定義』(一九七五年)が試みているのは、公的文書や学術論文の文体のパロディで、厳密さや正確さを求める方向に記述をしながら、ことば本来の曖昧さや多義性を露呈させるという、詩のことばを含む、無用もしくは無目的なことばの楽しさについての、婉曲な存在証明なのだと思われる。

きょうの一首。

 雪は空から降つて来るものだと許り思つてましたと言はれて凹む/荻原裕幸

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November 21, 2010

2010年11月21日(日)/ぱんぱぱぱぱん

インテルのテレビCMで、若い男性編集者と郊外に住む女性作家と彼女のパソコンライフとをモチーフにしたものが流れているが、女性作家を演じる井川遥さんが、自分の記憶にある印象とは全く違うイメージで登場したのを見てちょっと驚いていた。以前は好意的関心を示さなかったタレントさんに惹かれると、家人にすぐそれを指摘されるのだが、このCM、好きだよね? などと言いながらそれ以上何も指摘しない家人は、たぶん彼女が井川遥だということに気づいてないのだと思う。

先日、石原ユキオさんから電子書籍の句集が届いた。『俳句ホステス』という奇妙な書名で、どうやら句集であるらしいのだが、きわめて野放図な構成になっている。俳句よりも短歌をよく褒められるので冒頭に短歌を載せてあるとか、上手だから佐藤文香さんの句をおまけに載せてあげたとか、寝てるときに思いついて書いたメモなのだが読めないとか。しかも、そうした情報が、作品の周りに、詞書風に、手書き文字で落書きのように綴られている。それがときに、作品以上にビビッドであったりもするのだった。作品もジョークの部分も面白いし、笑わせてどつかれたいという彼女の屈折した願望があからさまなのがかわいらしい。ただ、作者の願望に添う方向で感想を述べるのも何かつまらないので、以下、惹かれた作品を生真面目に引用して感想とする。短歌と俳句と自由律俳句からそれぞれ一作品ずつ。

 キスマークつけるんですかまた会ってくれるんですか独身ですか/石原ユキオ
 靴下に幼女を詰めている聖夜
 痛すぎて手を挙げた

きょうの一首。

 めがねをとると棚もあなたも輪郭が少しやさしくなる冬の部屋/荻原裕幸

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November 20, 2010

2010年11月20日(土)/牛乳と餡パン

早朝、近所のユニクロに人だかりや駐車場待ちの車の列ができているのに驚く。何が起きているのかと家人に訊いてみたところ、創業何十何周年のセールとかで、午前六時の開店であったらしい。先着百人は牛乳と餡パンが貰えるのだとか。たぶん他にも何か特典があるのだろうけれど。サッカーのJ1で名古屋グランパスがリーグ十八年目にして初優勝を決めたという。慶祝。この十八年というのは、長い時間だったのではないかと思う。

 それはもう思いだせないほどむかし草冠はかがやいていた/青柳守音

昨日に続き、第二歌集『風ノカミ』(二〇〇三年)に収録された一首。草冠、は、意味としては、植物全般のことだと読んでおいてさほど大きな間違いはないと思う。ただ、草冠、と言うからには、個々の植物を、名前や漢字を学びながら認識して来た幼い日若い日の時間全体が背景にあるのだと考えるべきか。大人になって、植物の名前や漢字を教える側になって、学んでいたときにはたしかにあったあのかがやきが、もはや同じ草冠の漢字のどこにも見出せなくなっていることに気づいたのだろう。具体的な場面としては描かれていないが、たとえば、手紙を書きながら、挨拶文に綴る植物の名前がどうしてこんなに、ふつうのもの、になってしまっているのかと驚き、少女時代に想いを馳せている一人の女性像をイメージしてみてもいいかも知れない。以下、同歌集で好きな作品を、他にも少し引用しておく。

 磨りガラス透してはいる朝の陽が家族のいない部屋を照らした/青柳守音
 羊歯の葉のみどりがほどけだす五月ねがいはひとつ羊歯になりたい
 留守電の沈黙のなかふりだしに戻らないかと遠雷が鳴る
 じりじりと施設にむかう父の背を並木の影の葉が撫でている
 こころへと降る雨がいままなざしにあふれでるのがわかるようやく

きょうの一首。

 冬景色としてぼんやりと見てゐたがオフィスの窓にある鉄格子/荻原裕幸

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November 19, 2010

2010年11月19日(金)/器とか枇杷とか

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は13人。詠草は13首。前回の見学者に続き、また新たな見学者が1人来て、次回から正式に受講ということになるようだ。きょうの題は「器」。地下鉄駅の御器所から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。添削的な批評は、遠慮なくかつ大胆に展開しているが、表現力が平均的に向上して、全体でその量は少し減ったような気がする。

 かたちにはならない青をあおぎ見る声に枇杷の実ふくらんでゆく/青柳守音

第二歌集『風ノカミ』(二〇〇三年)に収録された一首。歌集の配列とあとがきから推して、後に亡くなった作者の父親の入院時の作品のようだ。「かたちにはならない青をあおぎ見る声」を散文的に解釈するのは難しいが、歌集からわかる情報とことばの感触とをあわせて考えると、未来や可能性に向き合いながらも具体的な展望がきかない状況における声にならない声、とでも言ったらいいだろうか。声の主体が父親であるのか私/作者であるのかはわからない。たぶんどちらでもあるのだろうし、もう一歩踏みこんで読めば、病気に限らず、そのような状況にある誰にもあてはまるものとしてこの比喩が用いられているように思う。実りであるはずの枇杷の成長が、容赦のない時間の経過を象徴しているのが何とも切ない。

きょうの一首。講座で「器」の題の作例として見せた一首。

 日本はつひに何も盛らずに澄んだまま静かに朽ちる器であるか/荻原裕幸

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November 18, 2010

2010年11月18日(木)/人形たちの午後

ショッピングモールを歩いていると、最近のマネキン人形が実に巧くできているのに感心する。店舗側の演出と相俟って、遠目には巷の男女とほとんど違いのない雰囲気が出ているし、そのまま動きはじめそうだとか言っても満更大袈裟ではない。などと思っていると、たまにほんとに動きはじめて驚いたりする。と言っても、それはもちろん、人形が動いたわけではなく、人形の演出をしていた店員さんを人形だと思いこんで見ていただけのことなのだが。

文芸誌「イリプス」第六号が刊行された。雑誌のメンバーの何人かと、先日の神戸でのシンポジウムの折にはじめて会った。会ったあとに読むと、その人の作品や文章のもたらす印象に少なからず影響がある。テキストだけを純粋に読むというのは、結局のところ、テキストしか情報がない場合にだけ可能な行為なのかも知れない。この号には「わたしがわたしに帰りゆくとき」と題して、短歌五十首を出稿した。二〇〇九年十一月から二〇一〇年四月までの「きょうの一首」を編集構成したもので、冬の章には「けふは留守です」、春の章には「朧夜をゆく」と、それぞれ小題を付した。

きょうの一首。

 情緒的でも論理的でもなく揺れる鯛焼を食べながらふたりは/荻原裕幸

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November 17, 2010

2010年11月17日(水)/十一月

連日、朝の気温が五度前後まで下がった。巷ではすでにクリスマスソングが流れはじめている。ただ、十一月に聞くそれは、浮かれた感じをもたらすよりも、むしろ、商戦のきびしいさまを連想させて、どこか哀愁をともなった印象さえある。さすがにまだサンタクロースの身なりをした店員さんは見かけないが、間もなくそうした風景もあらわれるのだろう。そう言えば、家人から、今年のクリスマスはどうするの? と訊かれていたのだった。まだ何も考えていない。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の九回目。きょうの題は「十一月」。出席者は11人。詠草13句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。十一月は冬の題でありながら、初旬の半ばが晩秋である。しかも、中旬から下旬にかけてのどこかで、初冬から本格的な冬へと踏みこむ断層のようなものがあらわれたりもする。そうした変化のある時期としてのイメージははっきりしているのだが、時間の一点を捉えてゆくことの多い俳句の場合、あたまのなかだけで構成しようとするとかなり苦しい。嘱目的な発想が必要になる題の典型か。きょうの題に即して一句。

 鈴の音して何か行く十一月/荻原裕幸

きょうの一首。

 煙突も猫もアンテナも積もる雪もなく十一月の屋根はしづまる/荻原裕幸

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November 16, 2010

2010年11月16日(火)/純粋に近い状態

むかし聴いた曲のカバーを聴きたくなるのは、自分が若くなくなっているから、という気がしていたのだが、どうもそればかりでもないみたいで、よく聴いた曲のカバーは、曲そのものを少し離れて、その人の声を純粋に近い状態で楽しめる、という要素も大きく影響しているようだ。植村花菜さんの「やさしさに包まれたなら」のカバーは、短歌のモチーフにしてしまうほど楽しめるのに、他の曲がなぜか彼女の声に集中できない感じをもたらすのは、そのあたりと関係あるのかも知れない。

 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの/俵万智

『チョコレート語訳みだれ髪』(一九九八年)に収録された一首。詞書のように引用されている原典は、与謝野晶子「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」である。翻訳として巧いと感じる。そして、何よりも、翻訳であるにもかかわらず、俵万智らしさ、というものが、真っ直ぐに溢れ出ているように見えるのが凄いと思う。第一歌集『サラダ記念日』(一九八八年)以後、モチーフのその「なんてことない」感じが、一部の人たちにずっと侮られ続けているが、何と言うこともないわたしを生きながら、何と言うこともない感覚を語るように記述する文体を、あきらかな個性へと昇華したその方法は、どこからどう見ても何と言うこともないことはない。この一首をはじめとした「翻訳」された歌群には、その個性が純粋に近い状態であらわれていると思われるし、俵万智の文体/方法がどんな構造を有するのか、考察を深めるための恰好の素材でもあるだろう。

きょうの一首。

 あなたの指を見るわたくしをどこかから見てゐる冬の瞳を思ふ/荻原裕幸

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November 15, 2010

2010年11月15日(月)/七五三

七五三。だが、この日に祝いをするのは少数派であるらしいし、以前はよく聞いた十五日の前後の週末というのでもなくて、最近では暦にこだわらない人が増えているのだとか。毎月七五三の祝いに来る人がいる、と神社の人が言っていたのを、ニュースか何かで少し前に聞いた。まあ、そういうご時世なのだろう。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の六回目。前回にひきつづき、散文詩の作品を、ことばの感触をたしかめながら、できるかぎり丁寧に読み進める。

現代詩の行分けを考えるには、五音/七音による音数律と行分けとによってある種の定型を構成していた近代の詩の、行、の概念を考えるところからはじめる必要があると思うし、それがどのように現在につながる自由詩の、行、へと推移したのかを知る必要もあるのだろう。ただ、そうした歴史をたどる行為は別にして、われわれ(と言うべきか、少なくとも自分に)は、自由詩の、自然な改行、というものを了解しているという感覚はある。そして、現代詩の作品においては、その自然な改行をしばしば逸脱するように行分けがなされているのも了解できる。強引に短歌に結びつけて考えると、自然な改行による行分けを正調、逸脱するような行分けを破調、だと言ってもそれほど大きな間違いではないと思われる。こうした観点から考えてみると、散文詩とは、行分け詩における破調の極端なスタイルだと見えなくもない。講義後、市バスや地下鉄に揺られながら、つらつらとそんなことを考えていた。

きょうの一首。

 このさきに何が待つかを言ひたげに枝揺らすひかりの冬木立/荻原裕幸

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November 14, 2010

2010年11月14日(日)/巷を走る

大相撲九州場所がはじまって白鵬が初日白星で六十三連勝したとか、バレーボール世界選手権で日本女子が三十数年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得したとか、その他もろもろスポーツ関連のニュースがやけによく流れる日だった。映像を見ていて自分も少しからだを動かしたい気分になる。そう言えば、このところ、巷を走る人、いわゆるジョガーを頻繁に見かける。みんなかなりのスピードで走っている。以前は誰もがもっとゆっくり走っていたような気がするのだが。

 そしてわたしは言ったのだ
 あなたの伏せられた長い睫毛に向かって
 あなたのために何もしてあげられなかった日々の記憶が
 わたしを蝕み泣かせるときにも
 わたしたちのかなえられなかった願いをその木に託し
 いつまでも覚えていられるように
 わたしたちの別離のためなどでなく
 わたしたちの出逢いのその尊さのために
 その尊さのためだけに
 声を出さずに言ったのだ
 帰還せよ 静かに未知に 帰還せよ…/渡辺めぐみ

第三詩集『内在地』(思潮社)に収録された「未済」の末尾。「未済」は「スパイラル」と題された、九篇で構成される連作詩の最後に位置する作品である。ここだけを読むと、あなた、と、わたし、との関係が、見えそうで見えない。しかし、見えそうで見えないのは、ここだけの話ではない。この連作、全体を読み終えても、二人がどのような社会的関係にあるのかがはっきりしないのである。あなた、は、恋人や配偶者のようでもあり、男親もしくは息子のようでもあり、アングルによってはわたし自身であるようにも読める。あるいは、そうした複数の表情すべてを含んだ存在だと考えて読むのが妥当なのか。誰なのかと問おうとする感覚そのものがここでは否定されているのかも知れない。やや饒舌でややリリカルな文体であるが、そうしたことばの流れを一気に堰き止める最終行の「帰還せよ 静かな未知に」が、狂おしげな余韻を残すなかで、あなた、はまた別の新しい誰かとなる機会をうかがいながら、混沌のなかに姿を消してゆく。

きょうの一首。

 けふのわたしは誰であるのか店先のポインセチアの濃く澄んだ赤/荻原裕幸

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November 13, 2010

2010年11月13日(土)/次女の夫

薄曇りが続く。夕刻、帰国している義父を囲んで、義母と義姉と家人と五人で食事をした。義父は、話す機会が少ないせいか、次女の夫である自分と話すことを、どことなく苦手にしているような印象がある。ただ、きょうはなぜか話が弾んでいた。男親にとって次女の夫というのがどんな存在なのか、自分には想像する手がかりがほとんどないわけだが、とりたてて嫌う理由はないとしても、好ましい存在である可能性はあまり高くない気がする。

 まだ部屋のどこかを泳ぐたましいのあかい金魚に水槽を買う/青柳守音

昨日に続き、第一歌集『眠りの森』(一九九八年)に収録された一首。縁日か何かで手に入れた金魚を、ありあわせの器に入れて飼っていたのだろうか。それがすぐに死んでしまって、成仏できず、魂がいつまでも部屋のなかをただよっている感覚が去らない。そこで、いまさらながらその金魚のための水槽を買った。そんなエピソードを思い浮かべながら読んだ。しばしば詩歌句のモチーフとなる、そこに棲むべき主の居なくなってしまった空間、たとえば、鳥の居ない鳥籠などは、哀しさや淋しさのなかにも、過去が永遠化されたかのようなかすかな明るさを含むこともあるが、この水槽はどこまでもひたすらに切ないと思う。以下、同歌集で好きな作品を、他にも少し引用しておく。

 不法駐車廃棄車両の砕かれたフロントガラスを出入りする猫/青柳守音
 金輪際逢わぬと決めて背を向けるはずみに骨の鳴る音を聞く
 静かなる肩をならべて紅茶飲む篠宮夫妻にそれぞれの匙
 てがみには余白があって逢うときの気温は摂氏三十六度
 真夜中に湯ぶねのしたのほそい管つたって消える水音を聞く

きょうの一首。

 何を植ゑてあるのかがよくわからない鉢ならぶ暮早きベランダ/荻原裕幸

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November 12, 2010

2010年11月12日(金)/すみません

どんな業種の店でも、店員さんに、お客様何々いたしましょうか? と言われて、すみません、ではお願いします、と答えると、当然のことながら、そのサービスを受けることができる。ところが、ありがとう、ではお願いします、と答えると、そこそこ高い確率で店員さんにスルーされてしまう。以前は、え? と思ったりもしたが、どうやら、ありがとう、の部分が、結構です、の意味だと誤解されやすいらしい。ありがとう、ではなく、すみません、が現在の感謝のことばのスタンダードなのか。

 街路樹にもし足あればいずこへと駈けぬけるその冷たい足で/青柳守音

第一歌集『眠りの森』(一九九八年)に収録された一首。街路樹は、来る日も来る日もあのように立たされっぱなしで、もし仮に足があったら、ずいぶん冷たくなっているに違いないその足で、どこかに逃げ出してしまうのではないか、と、非現実的な仮想を展開しているわけだが、そこには、意外にはっきりと、一人称の現実的な意識が投影されているようだ。駈けぬけると想像したり、冷たいと感じるのは、そう語る自身の日常を街路樹に重ねて考えているからだろう。足が冷たいのもどこかに駈けぬけたいのも、語る自身の感覚に他ならない。よく似たモチーフで「深夜こそ木は目覚めるかそののちをいかなる声で話すのだろう」という一首もあるが、比較すると、掲出の一首がいかに現実的な日常の感覚をにじませているかがわかると思う。

きょうの一首。昨日の東桜歌会に自由詠として提出した一首、を少し推敲した。初案は三句目が「あるといふ」だったが、落ち着きが悪いように感じたので、実体験に即した記述にしてみた。

 月極のコインロッカーがすみにあるが用途を思ひつかぬ冬の日/荻原裕幸

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November 11, 2010

2010年11月11日(木)/島国感覚

第23期竜王戦七番勝負第三局、二日目、羽生善治名人が雪辱、一勝二敗とする。渡辺明竜王の先手ではじまった本局は、横歩取りの将棋となる。自信に満ちた指し回しに見える渡辺竜王とやや強引な攻めを強いられたかに見える羽生名人。中盤までは渡辺竜王の三連勝の気配が濃厚だったように思うが、終盤、劣勢から紛れのある難解な展開にもちこんだ羽生名人が徐々に差を詰めて逆転した。第二局に続き、名局に近い将棋だったのではないかと思う。

午後、葉書とファックスとメールの詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。東桜歌会の例会。きょうの参加者は十人。題詠「島」と自由詠各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。きょうの詠草で、空間の表現にひっかかるところを感じた一首をめぐって、その部分についてかなり批判的に意見を出した。後で、某小説の邦訳名に典拠があるのだとわかった。in が「の中の」と訳されているものを、「の中に」と転じて引用していたのだが、「の真ん中に」の意味に近いそれが、一首の意味としては紛れることがなくても、どこか「の内側に」に見えてしまうのが瑕に思われたのだった。典拠を優先するならば自然な語法なので、もうしわけない批判になってしまったか。

きょうの一首。「島」の題詠として歌会に提出した一首。

 島のひとつも見えない冬のうすぐもり海を出口としてゐる国の/荻原裕幸

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November 10, 2010

2010年11月10日(水)/見たことのない光

早朝、かなり冷えこんだ。例のマンションの工事の音は、うるさくなったり少ししずかになったりを繰り返している。AKB48のシングル「Beginner」がミリオンセラーになったという。秋元康さんの詞は、若い世代に自由や未来へ向かう昂揚感をもたらすわかりやすいものだし、曲もなじみやすいのだが、自分は、AKB48の個々のメンバーがはっきり認識できていないので、映像で視聴すると、カメラのアングルの意味がほとんど理解できなくて酔いそうになったりするのだった。

午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の八回目。先週が文化の日で休みだったため、半月ぶりとなる。きょうの題は「立冬」。出席者は9人。詠草11句。いつもの通り、読解を中心に添削的な批評をする。ところで、分析したわけではなく、ただの印象に過ぎないが、俳句に名詞を楽しむ傾向を見るとすれば、川柳には動詞を楽しむ傾向が見られると思う。川柳が俳句に比較して、明るく自由にふるまっているように見える理由の一つはそのあたりにあるのかも知れない。また、このことと、自由律俳句が動詞を楽しんでいるように見えることとは、どこかで何かつながりがありそうな気もする。講座後、そんなことをつらつらと考えていた。きょうの題に即して一句。

 板野友美はどの子かと訊く冬に入る/荻原裕幸

きょうの一首。

 メール打つとき改行をするやうな気分で小春の辻折れてゆく/荻原裕幸

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November 09, 2010

2010年11月9日(火)/青柳守音さん

来年、永井陽子さんについて講演をすることになって、詳細が決まったら青柳守音さんに電話を入れておこうかなとメモを書いた。そのときなぜかにわかに彼女の歌集を読み直してみようと思い立ち、初読のときに見落としていた佳い作品があるなと気づいて付箋を入れはじめたのが先週のこと。その青柳さんが四日の日に亡くなったという話を聞いて愕然とした。はっきりと年齢を聞いたことはなかったが、荻原さんとは十歳くらい違う、と言って笑っていた。まだ五十代だったのだと思う。

青柳守音さんとはじめて会ったときのことはほとんど憶えていないし、いつのことなのかも記憶がさだかではない。たぶん一九九〇年代のどこかの短歌のイベントでのことだったと思う。互いに縁の浅くない歌人が重なっていたことだけはしっかり記憶に残ったが、以後親しい交流が生じるということにはならなかった。それが、黒衣(企画を進めながらその企画の表にはほとんど顔を出さないという意味での黒衣)同士として話をするようになったのは、永井陽子さんの死後に刊行されることになった永井さんの三冊の本のことがきっかけだったと思う。荻原さんにこういう相談の仕方をするのはもうしわけないけど、と言いながら話をはじめる彼女の、永井さんをはじめとした特定の人々に対する異常なまでの情熱に圧倒されて、そのコンセプトや方法が対象を顕彰することにきちんとつながるか、貶めることにはならないか、しばしば事細かなチェックをすることになった。友人とこちらから呼べるほどに親しいわけではなく、所属する集団などが重なることもなかったのに、何か不思議な縁だった。数々の対話のなかで、彼女が、藤原龍一郎さんを会社の頼れる上司のように、宇田川寛之さんを同じ部署の親しい同僚のように語るのは印象的なことの一つだったが、ならば自分はどんなポジションにいる存在だったのだろうか。

きょうの一首。瀬戸電は名鉄瀬戸線。以前、仕事で某所に通うときに利用していたことがある。混む時間帯は混むのだが。

 無人よりもむしろしづかに揺れながら冬日ひろがる瀬戸電の床/荻原裕幸

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November 08, 2010

2010年11月8日(月)/神戸交感

昨夜、帰名。日本シリーズでの中日ドラゴンズの敗戦を知る。ナゴヤドームでの二試合はかなりな激戦だったようで、見逃して惜しいことをした。来年にもう一度期待しよう。きょうは少し疲れをとる日にするつもりでいたが、朝から例の工事の騒音に悩まされる。午後、同朋大学へ。文章表現の講義の五回目。あたまのなかがすっかり現代詩になっていたので、きょうは現代詩の概論と、やや実験的な要素のある散文詩の作品を緻密に読み進めてみた。

「現代詩セミナー in 神戸2010」の二日目、の続き。二日目の午後は、吉増剛造さんの「沼澤地方(朔太郎)から新潟(金時鐘)へ」と題された講演からはじまる。講演と言っても、吉増さんのことであるから、一般的な意味での講演にはならないだろうと予想されたが、はたして予想通り、どこか古文書めいた自身の原稿を朗読するというパフォーマンス的な講演であった。その後、今野和代さんのコーディネートによる詩歌句の朗読イベントへと進む。企画サイドからは残念なことかも知れないが、朗読は好きじゃないからとか関心がないからとか、吉増さんの講演の直後に帰途についた人が何人かいて、現代詩をめぐる朗読事情の一端がそこに見えるような気がした。朗読したメンバーは、今野和代さん、細見和之さん、中堂けいこさん、高谷和幸さん、彦坂美喜子さん、三井喬子さん、杉本真維子さん、荻原裕幸、藤原安紀子さん、野村喜和夫さん、黒瀬珂瀾さん、夏石番矢さん、宇多喜代子さん、吉増剛造さん、金時鐘さん。列記した順に朗読が進められた。

朗読された作品はそれぞれ楽しめるものだったが、個人的に、朗読そのものが強く印象に残ったのは、高谷和幸さん(素朴だったが、妙にキャラがたっていた)、藤原安紀子さん(読めるところまで読みます、とコメントしてから朗読をはじめて、途中ほんとにもうことばが出ないんじゃないかとはらはらするような、ぎりぎりのところで声を出している印象があった)、野村喜和夫さん(文字のままだったら失礼ながら少し読み飛ばしてしまいそうなそのテキストが、からだに沁みて来るような何かに転じた感じ)、黒瀬珂瀾さん(これまでの彼の短歌朗読のなかで一番楽しめた、自身の声を聞きながら、意味の伝達に不安のあるところに即興での解説を入れていたのだけれど、その自註的な思考の流れが反映されたリアルな朗読だった)、そして吉増剛造さん(圧倒的、洗濯用のハンガーがラブリー)だった。自分は、文芸誌「イリプス」第五号に載せた「あらゆる場所でわたしがひびく」五十首を朗読した。朗読する自分の方を見ていてほしかったので、テキストは会場に配布せず、時間の都合があったので繰り返すことなく一度だけさらっと読んだ。途中で何回か笑い声が漏れるかも知れないと予想した箇所でその通りに笑い声が聞こえたので、ああ何かが伝わっているんだなと安心した。

きょうの一首。

 まひるまのたそがれせまるあかつきのことばをたたむ冬の一日/荻原裕幸

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November 07, 2010

2010年11月7日(日)/神戸好日

立冬。午前、昨日にひきつづき、三宮の神戸女子大学教育センターへ。「現代詩セミナー in 神戸2010」の二日目。初日の講演を受けて、三つのグループが別室に分かれ、同時にディスカッションが進められた。いわゆる分科会の方式である。ただ、分科会とは違って三室がまったく同じテーマなのに、他室での話を聞けないのがこの方式の残念なところではある。限られた時間で盛り沢山のプログラムをこなすには有効ということなのだろう。自分は、野村喜和夫さん、岩成達也さん、季村敏夫さん、中塚鞠子さん(司会)、荻原裕幸、というグループに入ってディスカッションをした。参加者は三十数人。どのグループの話を聞くのも自由なのだが、聞く側の人数は不思議に三等分されるものらしい。

ディスカッションでは、一応あれこれと話をしたが、基本的にはずっと一つのことに考えをめぐらせていた。ほとんどの歌人や俳人にとって、定型とは、五七五七七/五七五内外のあのスタイルそのもののことを指していて、五音と七音とで構成された音数律全般のことを指してはいない。歌人や俳人にとっての定型は、作者が積極的に選んだものではあっても創り出したものではない。つまり、あらかじめ存在しているスタイル=他者から与えられたスタイルである。少し抽象的に言い換えると、定型は他者そのものであって、定型に近づいたり、定型を通過したり、あるいは、定型の内部から定型をデザインしたりすることではじめて私があらわれる。平たく言えば、所与のものである短歌や俳句の音数律は、作者である私の個性を構成しないのである。だから、昨日、野村喜和夫さんが語ったような、定型=音数律を、直に作品のリズムにつなげて考えるということを現在の多くの歌人や俳人はしていない。短歌という定型あるいは俳句という定型のなかで、同じ音数律でありながらいかにして自分なりのリズムをそこに生み出すかということが、定型の作者にとっての作品のリズムの問題なのである。

前述の件は、こうして文章にまとめるほどはっきりと発言しているわけではないせいもあってか、詩人たちにとってはさほどぴんと来る問題ではなかったようで、ディスカッションのとき、異文化の風習を珍しそうに聞くような表情をしている人が多く見られた。そこで以下のような話をしてみた。自分は、十代のとき、まず自由詩を書きはじめた。詩を書いていると一行一行を楽しく書くことはできるのだが、たとえばそれが三十行ほどのまとまりになったとき、さらに一行あるいはもっと追加して書くべきなのか、それともそこで完成とすべきなのか、依拠するものがどこにもなくて、きわめて不安定な感じがつねにあった。その後、短歌を書きはじめて感じたのは、スタイルを制約されて書きづらいのに、これで完成した書きあがったという感覚がしばしば生じるということだった。現代詩と短歌との間にある何らかの差異、定型をめぐる差異は、具体的に書くプロセスではそんな風にあらわれるのかも知れない。この話には、笑いや苦笑なども含めて、参加者のはっきり反応した表情が見られた、何かそれなりに伝わるものがあったようだ。

きょうの一首。

 オリオンが変なところに見えてゐてわたしの位置が変だと気づく/荻原裕幸

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November 06, 2010

2010年11月6日(土)/神戸なう

午後、三宮の神戸女子大学教育センターへ。明日まで二日間開催される「現代詩セミナー in 神戸2010詳細pdf)」に参加/出演するため。新神戸までは新幹線で、そこから三宮まで地下鉄に乗って、にしむら珈琲店で珈琲を飲んでから会場へ。セミナーのテーマは「詩のことばと定型のことば〜定型から何を学ぶか」である。こうしたテーマが詩人たちにとって魅力的なものなのかどうかはわからないが、そこには何か揶揄するようなあるいは冒涜するようなひびきがあって、少なくとも刺激的ではある気がした。セミナーの参加者は、出演者とスタッフを含めて、優に百人を超えていたらしい。現代詩の集まりとしては異例の数だそうだ。

初日のプログラムは、二日目のディスカッションに向けての講演と鼎談。総合的な進行は細見和之さん。講演は、野村喜和夫さんが「定型から遠く離れて」、夏石番矢さんが「究極の詩とは何か?」と題して。鼎談は講演者二人に樋口覚さんを交えて。詳細はいずれどこかに記録のかたちで出るだろうと思われるので、気になった点だけを少しメモしておく。野村喜和夫さんは、定型から学ぶものはとりあえず何もない、と語りはじめた。それはそうだ。学ぶものがはっきりとしていれば、現代詩の最前線でのセミナーのテーマになどならないだろう。しかし、ひっかかったのは、野村さんがここで「定型」と呼んでいる概念が、五音と七音とから構成される音数律/狭義の詩的リズムだったことだ。あ、と思った。考えてみれば、現代詩の現場では、しばしば俳句と短歌とは一緒くたなのである。五音と七音とを作者が任意に構成する可変的な詩の様態と、俳句と、短歌との間に大きな差異はないのだった。後に会場からの発言を求められた黒瀬珂瀾さんもどうやらこの点にひっかかっていたようで、定型を捉えるアングルについて語っていた。二日目に自分が出演するディスカッションでは、何か一つのことだけに絞って意見を出そうと考えていたのだが、ここに絞るべきだろうと感じて、夜の神戸のホテルでメモをまとめる。

きょうの一首。スケジュールの都合で、観光的要素の入る余地がない。

 ノートにも意識にもまた胃腸にも文字をならべて神戸を歩く/荻原裕幸

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November 05, 2010

2010年11月5日(金)/騒音天国

きのうきょうと早朝はかなり冷えこんだ。朝寒、と言うか、すでに冬に踏みこんだような感じだ。マンションの外壁の塗装工事がいよいよ本格化して、朝から騒音が鳴りひびく。こんな日に限って電話が多かったり、宅配便があれこれ届いて呼鈴が鳴ったり、おまけに玄関のピッキング対策用のアラームが、工事の震動に反応して高らかに鳴りひびいたりもした。音という音がまとめてやって来るなかを、右往左往しながら過ごす自分の姿が何だか滑稽で、声をあげて笑ってしまう。

午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンター「はじめての短歌」。きょうの出席者は11人。詠草は10首。見学者が1人来て、そのまま受講することになった。どの部分なのかははっきりわからないが、何かが気に入ってもらえたらしい。きょうの題は「所」。地下鉄駅の瑞穂区役所から一字を貰った。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。そう言えば、この頃、即時的な批評をすることに、以前にも増して奇妙な快さを感じるようになって来ている。短歌ホリックがさらに進行しているのかも知れない。

きょうの一首。講座で「所」の題の作例として見せた一首、の副案だった一首。初案は初句が「誰も来ない」で、かなり凡庸な感じだった。講座で副案について話をしたところ、何か妙に反応があって、にわかに副案の方にきもちが傾いた。

 妻の来ない場所がわたしのなかにある真つ暗で明るくて静かな/荻原裕幸

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November 04, 2010

2010年11月4日(木)/青龍劣勢

日本シリーズ第五戦。きのうは延長戦を制して二勝二敗のタイスコアに戻したドラゴンズだが、きょうは先発の中田投手が不調で大敗。三敗目を喫した。先発投手に誤算が多過ぎて、これではどうにもならないという感じがどんどんひろがっている。ナゴヤドームであと二試合。うまく力を出してほしい。日本一の決まる試合くらいはテレビ中継を見たいとも思うのだが、週末は二日続きのイベントに出ることになっているので、どうやらそれも果たせそうにない。

 家族とふ単位で数ふる幸せもあらむ五合の米とぎ終へつ/大口玲子

昨日に続き、第一歌集『海量(ハイリャン)』(一九九八年)に収録された一首。幸せは単に一人/個人のものとしてあるばかりではない。家族の幸せのためならば、さまざまなことに耐えられるだろうし、嫌だと感じていることが、ときに楽しいことに転じたりもする。家事をしながらそんな風に思った場面なのだろう。五合の米という具体的な数量から家族のシルエットがやわらかに浮かんで来るのが佳い。ただ、この種の犠牲的なファクターを含む幸福論は、それだけにはとどまらない。親戚とか町内とか職場とか、もう少し拡げれば民族とか国家とか世界とか、対象を拡げて考えると妙な雰囲気も生じはじめることになる。家族の単位を超えた集団の幸せを考える是非も含んで、あれこれと考えさせられる一首だ。以下、同歌集から他にも好きな作品を引用しておく。

 つつまれて線香花火の先にある火薬の量を思ひつつ行く/大口玲子
 献血はさびしきものか献血の手帳にさびしき日付を溜めつ
 腹の上にテレビのリモコンのせてゐる昼寝の妹またぎ家出づ
 花嫁の父日本より来て今宵ウイグルの帽子ななめにかぶる
 逢ひたさうな素振りしたるか樹木医が樹木見るやうな目に見られゐる

きょうの一首。

 薄紅葉を見はじめたのがゆふぐれでうちとけて終バスに遅れて/荻原裕幸

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November 03, 2010

2010年11月3日(水)/富士山

文化の日。先日、何の週刊誌だったか、四コママンガで、日本と中国との領土問題をねたにしたものがあって、いつの日か、中国が、富士山は中国固有の領土、だと言い出すんじゃないかが心配だという落ちがついていた。笑って読んだのだが、笑えない気もした。現在の中国は、日本の感覚ではとても全うだとは思えない文脈を抱えているようだし、われわれ日本人の多くは、富士山ほどにはっきりとした場所じゃないかぎり、領土の問題が存在すると心の底では感じていないようでもあるからだ。

 話題となることの少なき年頃の内親王にわれは惹かるる/大口玲子

第一歌集『海量(ハイリャン)』(一九九八年)に収録された一首。詞書に一九九三年の日付を含むものが、歌集の同じ一連にある。その年に書かれたものだろう。文脈は二様にとれるが、話題となることの少なき年頃を迎えている、のではなく、話題となることの少なき且つ年頃の、内親王、だと思う。黒田清子さんのことか。人物の特定についてはともかく、数々の社会問題をモチーフとして、人と人との摩擦と融和が大きなテーマになっているこの歌集だが、自分が佳いなと感じる作品の多くは、こうしてテーマからやや逸れてゆく印象のものだった。たとえ内親王であろうが誰であろうが、全うに生きてゆくかぎりは他者の干渉から自由にはなれない。ところが、注目されて当然のはずの内親王が、意外に静かな状況に置かれている。そこに何か一瞬の安息感のようなものを見出しているようだ。いま読むと、その後の報道の過熱ぶりを予見していたかにも思われる。

きょうの一首。

 初恋のことなど疾うにわすれたが冬の匂ひのするパラフィン紙/荻原裕幸

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November 02, 2010

2010年11月2日(火)/看板

午後、東別院へ。地下鉄を出て大通りに沿いに行くと、中央分離帯の柵に、土性家葬儀場、と記された看板が立てられていた。見てすぐに意味が理解できず、中国語なんだろうかとか思考の迷路をさまよう。土性さんという名字を知らなかった。名古屋市女性会館で、東西句会の月例句会。参加者は四人。題詠「貝割菜」一句と雑詠四句のあわせて五句を提出。いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。少人数だったせいか、誰もがずっと発言し続けていたような感じだった。

句会に提出した俳句は以下の五句。商業的空間が多くモチーフになっているのは、外を歩きながら句材を拾ったからだと思う。机上だけで構成した方が、自身で楽しめる修辞を見つけやすいのだが、そうしたことば探しをしている様子が句から透けて見えるのが何か気になっていて、嘱目的にまとめてみた。これはこれで、何か別のものが透けて見えるような気もするが。

 研修につき休業します鵙日和/荻原裕幸
 サロンパス一気に剥がす葉鶏頭
 宇野ピアノ教室横のゐのこづち
 冬近し輪ゴムが二三掛けてある
 貝割菜またひとつコメダ珈琲店

きょうの一首。ほんとうに切ない場所は、スクリーンやモニターの向うなのかこちらなのか、ときどきそんなことを考える。

 柴咲コウのあの眼に映ることのない秋が逝く画面のこちら側/荻原裕幸

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November 01, 2010

2010年11月1日(月)/大学祭

きょうから十一月。昨日の日本シリーズ第二戦は、先発のチェン投手が好投、初戦とはうってかわって、投打の歯車のしっかり噛みあったドラゴンズが快勝。一勝一敗となる。しかし、好調のチェン投手を第二戦に先発させたのは、かなり意外だった。これがシリーズの勝因か敗因のどちらかになるのかも。同朋大学は、きのうきょうが大学祭で、きょうは全学が休講。大学祭を覗いてみようかと思っていたが、結局行きそびれてしまった。

 空き地となればこんなものかと眺めいる八百屋のありしあたりの広さ/沖ななも

昨日に続き、第六歌集『三つ栗』(二〇〇七年)に収録された一首。廃業によるものなのか、八百屋だった建物が取り壊されて、空地となったその空間を見ながらの、意外に狭いけれどまあこんなものか、といった寸感をリズミカルにまとめている。店舗というのは、実際の面積よりも広く見えるようにレイアウトされるのが常で、まして八百屋ともなれば、道路に迫り出すように商品を並べてもいたのだろう。その八百屋に直に縁のない人からすれば、何と言うこともない街角の風景であるが、往時の繁盛ぶりが目に浮かんで来るようで、ふわっとやって来るほろ苦い感じが、奥行のある味わいを一首に与えている。以下、同歌集から他にも好きな作品を引用しておく。

 孤りですかと言わんばかりに郭公はしばらく啼きてふっとしずまる/沖ななも
 フォーク持つ仲間から一本はずされて帆のごとく立つ小指というは
 一月はつかみどころもなく過(よ)ぎり掴みそこねて二月となるか
 無用なる長物として帰途の日傘護身用にもならずひきずる

きょうの一首。

 怒りしづめて笑つたあとの沈黙がふくむほろ苦さを飲むスタバ/荻原裕幸

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