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January 28, 2011

名古屋で文学が熱いらしい

清水良典さんからメールが届く。本日一月二十八日の午後十一時二十分から放送されるNHKラジオ第一の「ラジオ深夜便」で、「いま名古屋で文学が熱い」という特集があるそうで、清水さんが出演して名古屋の文学を熱く語るらしい。清水さんは名古屋出身ではないのだが、名古屋はすでに第二の故郷となっていて、文学はもとより名古屋の文化全般について生粋の名古屋人より詳しい人である。外から見る名古屋の文化と内から見る名古屋の文化をあわせてこれほど語れる人は他にはいないだろう。ラジオのある人は是非。

結社誌「短歌人」二月号が届く。大谷雅彦さんの書いた短歌時評「ゼロ年代の短歌を振り返る」を読む。昨年十一月に開催された、青磁社の十周年記念の同タイトルのシンポジウムについて述べたものである。私は残念ながらこのシンポジウムに行くことができなくて、ネットや歌誌でのレポートを読ませてもらっただけなので、雰囲気を間接的に理解しているに過ぎないが、それにしても、大谷さんの時評を読んで、何だろうこの静かな声は、と感じた。シニカルなわけではない。当日の議論に対して真摯に意見を述べている。しかし、その静かな声は、読ませてもらったどのレポートにもない奇妙な立ち位置を示しているように思われた。

一月二十七日の朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、武馬久仁裕さんの第三句集『玉門関』(ふらんす堂)と長谷川径子さんの第一歌集『万愚祭』(本阿弥書店)をとりあげた。いずれも昨年の秋に刊行されている。分量は四百字で四枚半弱である。詩歌句のジャンルを問わずに作品集をとりあげるこの時評を書きながらときどき思うのは、新聞紙面であるということが求めるわかりやすさと、異なるジャンルが同舟することが求めるわかりやすさとは、ほとんど違いがないのではないかということである。ジャンルという特化して閉ざされた場は、どこかぬるく、かつ、とてもあたたかい、と思う。

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January 27, 2011

雲を眺めて読者を考える

あいからわらず寒い日が続く。雪国では雪が降っているそうだ。雪国に住む友人から膝丈だと自慢された。負けた、と言うか、勝負にもなっていない。そもそも雪がどこにもない。全国的に見れば名古屋は穏やかな寒さということか。書斎の窓から雲をぼんやりと眺める。考えごとをする前の儀式のようなものの一つである。いつもと同じような、しかしたぶん一度も見たことのない雲の分布である。違いが識別できないのは、似ているところにばかり目を向けようとするからかも知れない。

短歌を書いているということを、文芸に特に強い関心はない、短歌を読んだり書いたりはしない友人や知人に話すと、やけに風流なことをしているとか、遠い世界で偉い人になったみたいな、およそ歪んだイメージを抱かれてしまう。例外はもちろんあるのだが、かなり高い確率でそうなってしまう。これはたぶん歌人の多くが体験していることだと思われるし、詩歌句の他のジャンルでもそうした現象は珍しくないのではないだろうか。理由は、短歌がマイナーなジャンルであるということに尽きるわけだが、そうは理解していても何か淋しい気分になる。

私はずっと、私自身の短歌の読者に、短歌を好んで読む人と短歌にあまり関心のない人の双方を想定して来たつもりだった。推敲の途中、この表現が読者に通じるだろうかと不安になるとき、歌人ならこのくらいのことは理解してくれる、という、信頼感に由来するような、甘えているような、そんな気分が生じると、その作品を捨ててしまうか、表現を崩して一から書き直すか、できるだけそうして来た。だが、どこかで作品をリリースするということは、誰かに対する信頼か甘えか、それらが綯い交ぜになったような地点で脱稿をするわけである。しかも私は、歌集を刊行しても、短歌にあまり関心のない友人や知人にはほとんど見せたことがない。結局のところ、私は歌人を信頼し、そして甘えて来たのだと思う。

 まず、できるだけ多くの読者にわかってもらいたいとする立場がある。好評を得たいし、歌集も売れてほしいし、あわよくば愛誦歌として後世にも残ってほしい。(中略)この無理からぬ欲求の危険性が、読者へのおもねりという点にあることはいうまでもないだろう。読者の共感を求めるあまり、自己の感性を読者の側へすり寄せることになりかねない。読者の思想、認識、感性などとの落差こそが作品の〈毒〉としてインパクトを与えるはずなのに、あらかじめそのような落差をうずめたり、突出部を削ったりするような操作がなされたのでは、作品が衝撃力をもつはずがない。/永田和宏「普遍性という病」

歌論集『解析短歌論 喩と読者』(一九八六年)に収録された一文から引用した。正論であり名論だと思う。思うが、おもねりが陥穽であると同時に、毒もまた陥穽なのではなかろうか。おもねりも毒も、作者によって自覚されてしまえば、方法論の一つに過ぎないのだから。作者の自意識の外にいるはずの読者と何らかのかたちでつながるには、私と他者とを、落差、として捉える以外の道筋が必要な気がする。

もう五年以上前のことになるだろうか、歌友であり親友であるひぐらしひなつさんと短歌の話をしていたとき、これから先にどんな作品を書くのかと訊かれて、そのストレートな質問に少したじろぎながら、歌集をまとめたときに、短歌にあまり関心のない友人にも手渡せるような、そんな作品を書きたい、と答えた。答えたときは、どこかまだ私自身がぴんと来ていなかったのだが、以後、その答を裏切らないようにしたいという気分がどんどん膨らんで、この数年、このブログに掲載していた「きょうの一首」は、表現上の主義的なものよりも、まずそのことを優先して来た。どんな結果になるかはまだわからないが、そのことが、私のこれまでの何かを少し変えてくれているとは思う。

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January 25, 2011

句会をめぐるエゴ分析

歌会や句会の前日、家人に、明日は会があるから、と伝えると、何の会? と訊かれる。何々々会、と答えると、えと、誰々さんが来る会? と言うので、違う、それは何々々会で、明日あるのは何々々会、と訂正する。少し考えて、わかった、誰々さんが来る会だね、と言ってやっと正解に到る。そんなやりとり(ここで伏字にしてあるところにはもちろん固有名詞が入る)がよくある。ほんとにわかっているかどうかはわからないが、家人がそうした会をジャンルではなく人で識別しているのが、私にはちょっと面白い。

私は現在、川柳と俳句の句会にそれぞれ定期的に参加している。歌人なのになぜと問われると、これは個人史にかかわる問題であり、まったくのエゴの問題だとしか答えようがない。短歌とはまったく別に、川柳と俳句をものにしたいという欲望があるのだ。いま私は「短詩型の文芸」というような、ジャンルを曖昧に踏み越えてゆく括りを信じる気になれない。言い換えると、歌人であることが、やや特権的に、ジャンルの境界を越えて、川柳や俳句の何たるかに触れさせてくれるとは思えないのだ。さらにはっきり言えば、歌人であるという自負は、川柳や俳句を書いたり考えたりする邪魔になりがちだとさえ感じている。こうしてブログを書いているときにも、私はどこまでも歌人だと自覚しているが、句会に行くときの私は、川柳作家の卵であり、俳人の卵なのである。少なくとも現在はそういう心構えで参加している。

一月十六日、雪の日曜、ねじまき句会の例会があった。午後、浄心の西生涯学習センターへ。出席者は、新しいメンバーを含めて七人。ただ、一人は雪の事情で到着が遅れて、ディスカッションにほとんど参加できなかった。残念。今回は題詠「門」と雑詠の各一句を提出。今年は門構えの漢字から題を決めることになっている。いつものように無記名の詠草で選句して、一句一句の読解と批評を進める。当日、私が句会に提出した川柳は以下の二句。欠席者を含めて十人が題詠と雑詠からそれぞれ四句を選んだ結果、題詠は五票、雑詠は八票を得た。

 門から玄関までの間に消える人/荻原裕幸
 雲を掴むのにも軍手をはめている

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January 22, 2011

夜明けのコーヒー

寒い日が続く。大寒なので、当然と言えば当然なのだが、やはり寒い。愛知県と名古屋市で、首長の選挙が近づいている。テレビに映る候補者を、誰に票を入れようかではなくて誰が多く票を得るかを考えながら眺めている自分に気づいて苦笑した。長文のエントリが続いているので、少し短めにまとめてみる。

一月の朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」は、七日と二十一日に開講された。七日の出席者は見学者1人を含む14人。受講者からのリクエストで、この日は、現代短歌についてあれこれと話をした。このブログにまとめた歌論的な文章とも内容の重なるものだが、直接的に参考にしてもらおうと、できるかぎり作品を書くためのハウツーに結びつけて話してみた。カルチャー教室のハウツー系の講座として受講する人にとっては、関心がないわけではないにせよ、現代短歌の状況がどうだこうだという情報よりも、自作の五七五七七をいかに磨きあげるかという技術的な情報の方が、やはり圧倒的に価値が高いようである。短歌総合誌の記事がハウツー系に偏りがちなのも、そうした事情を背景にしてのことかと思われる。

二十一日の出席者は14人。詠草14首。題は「知」。愛知県から一字を貰った。受講者の詠草のなかに、夜明けのコーヒーを一人で云々というフレーズがあって、非体験的なことをあまり書かない作者だったので、夜更けならともかくも夜明けは凄いですねと感想を述べてみると、実際のクラス会のときのことだと説明してくれて、夜明けのコーヒーは、先生は知らないかも知れないけど、と前置きしながら、むかしの歌謡曲で、ピンキーとキラーズの「恋の季節」に由来するものだと言う。ああそうでしたか、「恋の季節」は、一応知ってますよ、当時たしか五歳かそこらでした(調べてみると実際には七歳になる頃)、と言うと、年齢差に反応したようで、教室に苦笑が広がった。この日、講座で題詠の作例として見せたのは以下の一首。

 私の知らない顔がまだある妻と雪と雪に埋もれる山茶花を見る/荻原裕幸

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January 20, 2011

雪が消えて題詠を考える

日曜、名古屋でも雪が降った。ひとひらひとひらのかたちがはっきり見える、そんな感じの雪だった。数年分の雪が一度に降っている印象で、すべてがそのまま雪の底に沈んでゆくようにも思われた。もっとも名古屋の雪にさしたる持続力はない。数日ですっかりあとかたもなくなった。そう言えば、先週の水曜、秋期の最終回だった中京大学のオープンカレッジの講座「俳句を楽しむ」は、雪の題詠だったのだが、今回の雪は間にあわなかった。わざわざ山まで雪を見に行った人もいたというのに。

私がはじめて歌会に参加したのは一九八五年だった。以後、数年のブランクの時期を除けば、平均して月に一回以上は何らかの歌会に参加している。ブランクの時期というのは、短歌から離れていたわけではなく、むしろ四六時中短歌のことばかりを考えていて、研究会なども含めたすべての場とテンポが噛みあわなかった時期だったように思う。それはまた別の話として、参加をはじめた当時、歌会で最も大きな違和感をおぼえたのは、毎回テーマがあったり題が出たりすることだった。当時も現在も歌会のスタイルとしてはスタンダードなものだが、私にとって、題詠の感触は、この四半世紀であきらかに変化している。当時の私は、作者の専権事項であるはずのモチーフに他者が介入するというのは、どう考えてもおかしいと感じていた。

短歌は基本的に一人称での記述文体となるので、客観的に記述しているつもりでも主観的なものになりやすい。名古屋の雪はたちまち消える、という七七をもつ作品があるとして、それがただの事実なのだとしても、上句との関連によって、雪を怖れることなくどこかしら雪を惜しむ人の姿が見えて来たりする。私にとっての外的な事実であることが、たやすく内面化されてしまうのだ。作者の実感に即したものならば、まあそれはそれで問題ないとも言えるが、私が自発的に書きたいこととかかわりなく出題される題詠の場合、思ってもいないようなことが、前々から思っていたようなこととしてそこにあらわれて来たりする。そしてしばしばそれが紋切型の抒情のパターンに陥っていたりする。この感触がたまらなく嫌だったのである。

題詠が心底楽しめるようになったのは、三十代の半ばあたりからで、慣れたということもあるのだろうが、何よりも私のなかから、私自身を他者にこう見せたいというような若さから来るこだわりが消えたことによるのではないかと思う。こだわりが私に定着したのか、それともこだわらなくなったのか、そのあたりは自覚できていないのだが、題詠や題詠の場に媒介されて、私や私をとりまく世界が、自覚的なこだわりの及ばない領域からたちあがって来ることに快さをおぼえるようになったのだ。もちろんそこに、それまで認識していなかった外的な事実を、あらかじめあった内面の感覚として描いてしまう危険が消えたわけではない。ただ、それを含めても、題詠歌会という場は、現在の私にとって、魅力的なものであり続けている。

一月十三日に東桜歌会の例会があった。葉書とメールで届いた詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。参加者は十人。題詠「歩」と自由詠と各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進めた。毎月、詠草の総数その他を考慮して選歌数を決めている。今月は題詠十首と自由詠十首からそれぞれ四首ずつ選歌してもらった。おのずと選歌はゆるい感じになるわけだが、得票の多少が相対的にはっきりと映し出されるので、選歌数を絞ったときとは別種の緊張感が生じていると思う。また、選歌者には、作品を詳細に読むことと選んだ作品の良さをきちんと説明することを執拗に求めているので、選歌数の多さはむしろきびしいものとして作用していることだろう。私が歌会に提出した作品は以下の二首。題詠は六票、自由詠は八票を得た。題詠の「ひかりの裏」について、是非の意見が鮮やかに割れて、作者としては興味深かった。

 雪晴のこんなしづかな午後なのにひかりの裏をあなたは歩く/荻原裕幸
 私はあなたをたぶんあなたは犬の尾を犬は霊など見て冬の朝

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January 16, 2011

新しいリアルと懐かしいリアル

私にとってテレビCMの印象と言えば、何よりも化粧品である。とりわけ一九八〇年代、資生堂とカネボウが、春や夏の新製品のCMを流しはじめると、私が使うこともなければ誰かに贈ることもなかったのに、なんとなくうきうきした気分になったのを思い出す。人生の春を謳歌するようなその雰囲気が、二十代の私の、理想の恋愛のイメージにどこかでつながっていたのだろうか。現実的ではなくても、理想の正確な方向を示している気がした。それはそれとして、近頃のテレビCMと言えば、保険と対加齢商品がやたらに目につく。たとえば、アリコジャパンとか皇潤とか。それらのCMを見ない日はないと思うほど頻繁に流れているように感じる。病気や死あるいは加齢が避け難い現実であるという確認が、CMを通して何回もなされる。高齢化社会への対応を政府に求める論調の報道番組等に挟まれて、それなりの販促効果をあげてはいるのだろう。しかし、私はそうした現実を押し売りするCMの表現、ことにその執拗な繰り返しが好きではない。多数的な現実がパターン化されて、個々の現実を掻き消しているように見えるからだ。

 はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる/塚本邦雄

第三歌集『日本人霊歌』(一九五八年)に収録された一首である。生命保険のセールストークが、現実の押し売り的になるのは、現在も昭和三十年代も同じことで、個別の現実であるはずの死も、保険のシステムのなかで見ると、画一化された商品の一部のように感じられる。ここではその個別性のない嫌な感覚が「死を売りにくる」と表現されているのである。ただ、この一首の核は、そうした生命保険のシステムへの皮肉やそれでも加入しようとする私の哀愁にあるわけではないと思う。問題は「死を売りにくる」ことではなく、それが「遠き死」であることなのではないだろうか。塚本が当時三十代であったことももちろん「遠き死」という表現を促したはずだが、戦後の平和のなかで、生がぴんとはりつめたものであった戦時中に比して、ふやけた生が瀰漫するようにも見えたであろう社会の状況を、シニカルに、個々の「遠き死」として捉えているのだと私は解釈したい。死を望んでいるわけではないにせよ、死に隣接する感覚を失ったところには生のきらめきもない、という感覚が、昭和三十年代の塚本邦雄のリアルとしてここに見えているように思う。

 我々の言葉が〈リアル〉であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう。/穂村弘「〈リアル〉であるために」

歌論集『短歌の友人』(二〇〇七年)に収録された一文から引用した。現在の短歌の状況分析から出た結論の一部である。同書で穂村弘は、現在の短歌に対して、二つの観点から関心を示している。一つは「短歌的武装解除」、もう一つは「リアル」。前者は理解の範疇をはみ出る現象として、後者は表現を支えるファクターとして、それぞれ分析を加えている。詳しくは同書の記述に直にあたってもらいたいが、私はそれらが、現在の、新しいリアルと懐かしいリアル、に結びつくものではないかと考えている。引用文は後者について述べたもので、穂村が言及の対象とした作品と表現スタイルは違っても、塚本邦雄の「保険屋」の一首から見えて来る感覚とこれとはかなり近いものがあるのではないだろうか。だからこそ私は、そこに懐かしいリアルを感じるのだと思う。実際の日常のイメージとやや離れたとしても、そうあるべき何かを方向として明確に示すという意味での懐かしいリアルを。

誰もがいつかは死ぬ、人生は一回限り、やり直しはきかない、というのは、ほとんどすべての人が共有している感覚だと思うが、療養を強いられる時期をのぞけば、死のイメージがもたらす過剰な緊張が意識の表面にそのままある現在の日本人は、あまり多くはないだろう。忘れているわけではないはずなのに、死のイメージは、ふだん個人のどこかに眠っていて、時折表面化しては緊張をもたらし、落ち着けばふたたびどこかに眠りはじめるようだ。決して忘れてはいない、過敏になることもない、だがひとたび表面化するとすべてを凌駕する。死のイメージとはそのような距離にあり、現在の日本人の多くは、この距離の感覚が反映されたものごとに、実感とかリアリティとか現実味とかリアルを感じるのではないだろうか。人生はかけがえのないものであるが、そのかけがえのなさのもたらす過剰な緊張とは距離をとりながら多くの時間を過ごしているのが実状なのだ。少なくとも私はそうである。短歌(の表現)史を起点に短歌を書いていると、この現実からどこか浮いたものになりやすい。過去のすぐれた表現の多くが、過剰な緊張のなかから書かれているからだろう。現在の短歌に、穂村弘が言う「短歌的武装解除」、私なりに言い換えれば、新しいリアル、が生じているのは、短歌史ではなく、こうした現実を起点に、短歌にイノセントな状態で向かう人(無意識な人も方法的な人もいるようだ)が増えているからだと思われる。

以下、補註あるいは蛇足。以前に書いたメモを単につぎはぎしたため、何かすっきりしない部分があるのだが、一から書き直すのもつらいので、ここまま公開することにした。頑固なまでに「短歌的武装解除」を肯定しない穂村弘は、しかしながら結果としてその煽動者にもなっている。短歌にかぎらず、新しさと懐かしさとの間で揺れるのは、四十代的な属性の一つかも知れないと、歌論を少し離れたところで、彼と同い年の私は思ったりするのだった。

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January 12, 2011

明星の氷る朝の雑記

寒い朝が続く。金星の氷りついたひかりが美しい。先日、秋の終りにうけた健康診断の細かな結果が出た。矯正視力があまりよくないので、要経過観察。それと問診のときにも言われたことで、禁煙して下さい。その他はすべて、異常なし、だった。それなりにすっきりとした気分になる。むかし、健康にまつわる話を父にすると、うれしそうな表情を浮かべて、臍が曲がってると言われなかったかとかしょうもないことを言われたのを思い出した。たぶん父はいまでも同じことを言うだろう。

短歌誌「井泉」一月号(第三十七号)が届いた。リレー評論の外部寄稿として「短歌の『修辞レベルでの武装解除』を考える/95年以降の表現の変質について」というテーマで評論を出稿した。個別のタイトルは「私と口語とレトリック」。四百字で約十一枚の分量である。寺山修司の、私をめぐる表現論のあたりから出発して、一九八〇年代の女歌のこと、ライトヴァースのこと、一九九〇年代に入ってのニューウェーブのこと、そしてゼロ年代までを、大雑把にスケッチして、個々の事象に関する私の考えを簡単にまとめてみた。紙幅があって、二倍ほどの量のメモを書いて短くしたために、具体的な作品に触れることができたのは永井祐さんの二首だけとなったが、私見としての見取図的なものにまとまったのではないかと思う。同時代の短歌を考えるにあたって、参照してもらえれば幸いである。

一月四日に東西句会の例会があった。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。今回の出席者は、ゲストの中村正幸さんと加藤哲也さんを含めて七人。雑詠五句を提出。新年句会ということで、まずは食事と歓談をしてから句会へと入る。いつものように無記名での互選と合評が進められてゆく。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店で、引き続き俳句についてあれこれと話す。句会に提出した俳句は以下の五句。欠席者一名の選句もあわせると、順に、四票、一票、二票、一票、一票だった。七句選としたので、私以外の票の総数が三十五票。票の占有率は二割五分七厘だった。

 二階から氷りますかと声がする/荻原裕幸
 ☆のある岩波文庫とマフラーと
 風に影ゆれて新年おめでたう
 窓にすこし脂の残る去年今年
 いつの間にこんな処に冬木立

備忘録的に。詳細などはあらためて。三月、愛知県立大学の国文学会で、永井陽子さんの短歌について講演をする。四月、青柳守音さんを追悼する集会に出演者的に参加する。また某氏の歌集批評会のパネリストの依頼があって承諾の返信をこれから書くところ。七月、某短歌結社の記念の大会のシンポジウムに出演する。九月、某川柳誌の企画するシンポジウムへの出演依頼があって承諾の返信をこれから書くところ。一年がこうして徐々に構成されてゆくんだなあと、私自身をどこからか見ているもう一人の私が、不思議そうな表情を浮かべて眺めている。

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January 10, 2011

定型の余白について

私が短歌を一首として成立させるために最低限必要だと考えているのは、この現実世界の空間の一角の感触のようなものである。眼前の風景でも構わないし、マスメディアなどを通して知る未知の場所でも構わない。仮に空想の産物であってもその空間がどこかにあると知覚できるならそれでいい。私がいて、時間が流れていて、具体的な何かがどこかに存在する、というあたりまえのこと、世界がたしかにここにあるのだという感覚が伝われば、十分に一首の短歌は成立すると思う。それだけでは面白味がないと言う人もいようが、面白味が面白味として機能するためには、何よりも作者と読者とが同じこの世界のどこかにいるのだという共有の感覚が必要だろう。すべてはまずそこからはじまるのではないか。

ところで、では仮にそのような感触を核に短歌を書くとする。五七五七七を基本にしたわずかなスペースの定型はそれだけで簡単に埋められてしまう。しかし、短歌を書くたびに私は、その感触の表現だけでは埋め尽くせない、不可視の余白が存在していることに気づかされる。具体的に言えば、この題材はもっと少ないことばでもまとめられる、まだ余白があるという感覚なのだが、単なる音数の問題ではなく、短歌の定型が発する誘惑や強制の声として感じられるのだ。あなたはその感触をどのような意図で読者に手渡そうとしているのですか、何も意図がないわけではないでしょう、意図を述べなさい、この余白はそのためにあるのです、と、短歌の定型から促されているような気分になる。そして推敲をしていると、意図があってもなくても強引に意図を引きずり出させられる感じがやって来るのだ。確たるテーマをもって短歌を書いている人に、この余白は好都合なのだろう。実際、少なくとも前衛短歌時代以後、この余白は、テーマのためとか作者の世界観を積極的にそこに刻むために費やされることがスタンダードになったと思う。けれど、いつからか私は、この短歌の定型が発する声をいささか煩わしく感じはじめている。テーマなどないままに短歌を書き続けているからだろうか。

 ライターもて紫陽花の屍(し)に火を放つ一度も死んだことなききみら/塚本邦雄

第五歌集『緑色研究』(一九六五年)に収録された一首である。上句と下句とが連句的な構成になっていて、先に述べたこの現実世界の空間の一角の感触と余白に世界観を刻んだ手際とが、偶然にも可視化されている。こんなにわかりやすい作品も珍しいので例に引いた。上句の鮮烈なイメージがあって、その行為主体を明確化するだけで十分に一首は成立すると思われるのだが、行為主体を「一度も死んだことなき」と規定することで、私が私よりも若い世代に対して抱いている印象を詳らかにし、まだ戦後であったその時代の空気を映すとともに、枯れた紫陽花に火をつける行為に、事実以上の象徴性をもたせていると言えようか。たぶんこの事実以上のという部分に何らかの岐路があって、私の好みの範疇に入る一首ではあるのだが、何もそこまで言ってしまわずとも、若者の無頼なふるまいの事実性を見せるだけでも秀抜な一首になるではないかと思わなくもない。初読時に比較して、読むたびにだんだんと、何もそこまで言ってしまわずとも感が深くなる。たぶんそれは、塚本邦雄のこの一首に対しての私の読解や評価の変化にとどまらず、余白を埋め尽くさせようとする短歌の定型に対する反撥から来るものなのだと思う。

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり/斎藤茂吉

第一歌集『赤光』(大正二年/一九一三年)に収録された一首である。私には斎藤茂吉の短歌観をうまく説明することはできないが、この一首についてはよくわかる気がする。この一首から私が読むのは、この現実世界の空間の一角の感触と、その余白を余白のまま維持しようとする意志である。余白に何かが入りこんでしまうのを断固として拒絶しようとする意志だと言い換えてもいい。夏の日の、トマト畑なのかその他の場所なのか、熟れ過ぎて腐ってしまったトマトが放置されているのを、散歩か何かそんな折に見たという、詠嘆か事実報告かもはっきりしない、およそ無愛想な文体ではあるが、短歌の定型が余白を埋めさせようと迫って来るのを、凛として拒んでいる感じがある。それだけなのだ、ただそれだけのことなのだ、と。茂吉と茂吉ファンには失礼ながら、不覚にも、この箸にも棒にもかからない題材の一首が、美しいと感じられることがときどきあって、しかも現在の私の求めようとしている何かに、書く姿勢としては近いようにも思われて、不思議な気分になる。端的に言えば、掲出した作品に限らず、総じて塚本邦雄の短歌は好みであるが、斎藤茂吉の短歌はあまり好みではないのだ。個人の短歌観が、好みの問題を超えたところでかたちづくられるなどということがほんとにあるのだろうか。

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January 07, 2011

十三月から見る十二月

早朝、名古屋としてはただならぬ寒さで、書斎のオイルストーブに毛布をかけて、そのなかにからだを半分入れて机に向かっていた。新年が明けてはや七日となるが、年の瀬から気忙しい日々が続いて、正月や一月ではなくて、どこかまだ十三月という感じだ。ただ、ふだんよりもカロリーの高い食事が続いたので、体重やら体脂肪率やらが悩ましい数字を見せている。皮肉にもこれは正月らしい気がする。記録的なことはあらためてまとめるつもりだが、四日は東西句会の新年句会だった。きょう七日からは朝日カルチャーセンターの短歌講座がはじまった。

すでに去年のことになってしまったが、週刊読書人の十二月十七日号、特集「36人へのアンケート二〇一〇年の収穫」に出稿した。その一年の収穫だったと感じた三冊をとりあげて四百字で紹介する恒例の企画である。今回は短歌から一冊、川柳から一冊、現代詩から一冊を選んだ。メディアファクトリーの刊行する「幽」という怪談の専門誌(!)に、佐藤弓生さんが「短歌百物語」なるコラムを執筆している。短歌一首に、怪談風味の鑑賞文を添えるユニークなものだが、十二月中旬に刊行された14号で、第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)の一首「恋人と怪獣映画見て冬の街へここでは何も起きない」を鑑賞してもらった。佐藤さん、ありがとうございました。他作の鑑賞とともに楽しく読みました。NHK短歌の十二月十二日放送分で、加藤治郎さんに、第一歌集『青年霊歌』の一首「街といふ虚しき楽器踏み鳴らすハンバーガーをほほばりながら」を紹介してもらった。これはオンエアを見逃したので、録画をあらためて見る予定。加藤さん、ありがとうございました。

十二月九日に東桜歌会の例会があった。午後、葉書とファックスとメールで届いた詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。参加者は九人。題詠「野」と自由詠と各一首を提出。二〇一〇年は大阪市の区の名前から一字を貰って毎回の題を決めていた。二〇一一年の題はどうしようかという話になって、杉森多佳子さんの提案で、将棋の駒の名前から一字を貰って決めることになった。歌会はいつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進めた。私の進行もいつも通りで、参加者の短歌観をあれこれと擽ったり、コメントのなかで自信なさそうに小声になるような部分を弄ったりしながら、可能なかぎり詳しく細かく作品を読んでもらう方向へと場を動かす。生真面目に読解を進めてくれるメンバーばかりなので、進行はずいぶん楽をさせてもらっている。年内最後の歌会も無事に終了できたことに遅ればせながら感謝したい。歌会に提出した作品は以下の二首。題詠は四票、自由詠は六票を得た。題詠の花野と枯野のとりあわせがわざとらしいとの意見もあったが、秋の花野のイメージが伝わった人には比較的好評だったようだ。

 昨夜しづかな花野であつたリビングがただ一言で枯野にかはる/荻原裕幸
 なにげなく零したことばの面積をはかられてゐる師走の電話

十二月の朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」は、三日と十七日に開講された。三日の出席者は11人、詠草12首。題は「吹」。地下鉄駅の吹上から一字を貰った。十七日の出席者は13人、詠草14首。題は「通」、この一字を含む地下鉄の駅名はいくつもあるが、妙音通などから一字を貰った。新年のはじめの回は、現代短歌についての話をすることになって、その次の回からは全国の都道府県名から一字を貰っての題詠をはじめる。この講座、はじめてから四年が過ぎた。二〇一一年から五年目に突入する。短歌の添削というのは、作品でラディカルな試行を楽しんでいるときにはやりにくいものだし、かと言って、何も変化を求めない添削者に魅力があるとも思えない。安定と変化を同時に求められるという、何か不思議な場がそこにあるのを感じている。講座で題詠の作例として見せたのは以下の二首。二首目の「中区錦三丁目」は必然的なものかどうかと質問が出た。他にも作品として成立する場所はあるだろうと思うが、私が地名を認識して行ったことのある名古屋の場所のなかではこれがふさわしいと感じるし、実際の錦三がモデルになっている。

 未来の冬だと知らずにここを見つめつつ写真の私が蝋燭を吹く/荻原裕幸
 わたしの影をだれかが通り過ぎてゆくこがらしの中区錦三丁目

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January 06, 2011

文語濃度をめぐって

私が短歌を書きはじめたとき、短歌は基本的に文語で書くものだと考えていた。一九七〇年代、十代のときのことである。短歌にのめりこむきっかけとなった寺山修司と春日井建、もっとも大きな影響をうけた塚本邦雄、ちょっとした反撥を感じつつ読まずには過ごせなかった岡井隆らが、どこか口語的な表現を含みながらも、ほとんど例外なく文語をベースに短歌を書いていたからだ。ところが、実際に文語で短歌を書きはじめてみると、ところどころ、とりわけ動詞と助動詞において、古めかしくてとても使えないと感じるものがあらわれて来た。何を古めかしいと感じるかは、たぶんそれまでの私的な生活環境や読書体験によるものだと思われるが、たとえば、動詞の駈ける、が、駈く、駈くる、であったり、べし、が、べけれ、と活用されるのは、他者の作品にあらわれてもさほど気にならなかったのに、私の作品にそれを使うことには大きな抵抗感が生じた。そして、短歌のかたちで何かを書くという感覚を身につけるなかで、一部を少し現代語風にアレンジして、私なりに思考や感情をクリアに表現できるスタイルを模索することになった。短歌のかたちが身についたのがいつだとは明確にできないが、このあたりのプロセスで、私の短歌における、文語濃度、とでも呼ぶべきもの、古語としての文語をどの程度まで使うか使えるかという私なりの水準あるいは限界、がいったん決まったのではないかと思う。

一九八〇年代の半ば、口語の表現が現代短歌に浸透しはじめた。そのはじまりがどこにあってどのように浸透していったのか、いまではもう詳らかにできないが、新しい表現に関心をもつ歌人は、誰もが例外なく一度は口語の表現を試している、と言ってもさして大袈裟ではないだろう。私自身もおっかなびっくり試しはじめた。

 まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す/荻原裕幸

第一歌集『青年霊歌』(一九八七年)に収録した作品である。以前どこかに書いたような気がするが、「まだ何もしてゐないのに」という、たかだかこの程度の現代語の感触のフレーズを書くのに、かなりの勇気が必要だった。現在の感覚からすれば、この勇気は滑稽なものだ。滑稽さがどこから来るのかと言えば、それはたぶん、歌人の個々の文語濃度の平均が薄まっていて、この程度のフレーズが用いられることに対する抵抗感が見えづらいからだろう。しかし、私的な文語濃度とのギャップのなかで口語のフレーズを使うというのは、当時も現在も、私には重要なことであって、仮に口語が百パーセントを占める状態であっても、口語を用いる部分は、私なりに思考や感情をダイレクトに表現できる、直接話法のようなレトリックとして意識している。興味のある人はそういう目で見てもらうとわかるかも知れないが、第四歌集『世紀末くん!』(一九九四年)では皆無だった文語表現が、第五歌集『永遠青天症』(二〇〇一年)で復活しているのは、私的な文語濃度を自然に露呈しただけのものだ。いまでも無意識的に短歌をまとめると、思い浮かぶフレーズの多くは文語で、初期に構築したスタイルの余波と言うか呪縛の深さというものを思い知らされる。

現代短歌の口語表現が話題になってゆくなかで、口語表現を含んでいても、私の作品が、口語表現として、新しい、と言われることはほとんどなかった。俵万智や加藤治郎や穂村弘と、私のそれとでは、同じ口語表現でも何かが違うと、どちらかと言えば批判のニュアンスに傾く口調で、仲間たちから繰り返し指摘されていた。そうした指摘に何か解せないものを感じる日々もあったが、考えてみれば、レトリックとして口語表現を意識しているというのは、たしかにいかにもクラシカルで、文語濃度のぐんと薄まった位置から書いている俵万智や穂村弘、文語濃度を意識的にスライドする姿勢から書いている加藤治郎の口語表現のもたらす新鮮さに、新しさとして拮抗するのは、およそ無理なことだったのだろう。クラシカル上等とか思いながら、嬉々として口語表現を楽しむようになったのはこの数年のことで、口語の導入などという話もいつしか昔話になってしまっている。いまや、口語が短歌にすっかり浸透して、文語濃度がほぼゼロという歌人も珍しくなくなっているようだし、どちらかと言えば、いかにしてふるきよき文語表現を成立させるかという問題の方が深刻になりつつあるようだ。

昨年末、と言うか、先日、田中槐さんのブログ「槐の塊魂」に、ガルマン歌会に参加した折、あえて旧仮名遣いで文語の詠草を出したら得票がゼロだった、きもちわるいとまで言われた、というエピソードが出ていた。田中さんはこの話を「たしかに、あの歌たちのなかでは出色の古めかしさだった。まだまだ修行よのう」と結んでいるのだが、それが「修行」の問題、つまり、努力によって将来的な解決が見込める問題なのかどうかが、文語濃度のことを考えていた私には気にかかった。口語の表現が主流になっている歌会で、あえて文語の表現の可能性を問うという姿勢には、ふるきよき文語表現を口語世代に知らしめたいといった意識があきらかに感じられる。これには私も共感する。しかしそれを自身の作品を通して問うのは、微妙な歪みをはらんでしまうのではないかとも感じる。田中さんには田中さんが短歌とともに身につけた文語濃度があるはずだが、「あえて旧かな文語の歌を出したら」の「あえて」は、私のスタンダードではないという意味だろうから、つまりは、個人の文語濃度をはっきりと超えた位置で文語的な表現をしようとしているのではないだろうか。文語表現の見直しというのは、もう二十年余り続いていることだし、口語表現のためにも文語表現のためにも繰り返されるべきことではある。だが、短歌のかたちを身につけたとき身についてしまった個人の文語濃度は、それを現在の生きたことばの方へとスライドさせること薄めることはできても、濃くすることができるだろうか。作家が伝統回帰をすることはあっても、それは初学の位置にまで遡るだけのことである。文語濃度はその人の水準であると同時に限界でもあると思う。

 旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る/吉川宏志

第三歌集『海雨』(二〇〇五年)に収録された一首である。口語の表現があらわに見えているにもかかわらず、個人の文語濃度をあきらかに文語の方に向かって超えた位置でことばを繰り出しているように見える。以前にもこのブログに少し書いたことがあるが、三句目の「なり」がそう感じさせるのだろう。その違和感が一首の不思議な魅力になり得ているのはわかるものの、どこか無理なことば遣いではある。反復可能な文体ではなく、一回性の試行だと言えようか。はっきりしているのは、この歌の魅力と所謂文語表現の魅力とは別のものだということである。

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January 02, 2011

正月の薔薇、歌壇の時代

年の瀬、正月の話をしているとき、玄関に飾る花を薔薇にしてもいい? と家人が訊いた。薔薇? うん、薔薇の花。ちょっと考えて、同意した。ふつうに正月らしい花を飾るのが私の好みなのだが、意表を突かれたためか、新年に薔薇の花を飾るのが何かとても楽しいことのように思われて来た。そんなわけで、二〇一一年の正月、荻原家の玄関では、色とりどりの、十数輪の薔薇が咲いている。あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

世紀があらたまって十年が過ぎた。しかし、前世紀、一九九五年あたりから、短歌の時間は先に進まなくなっているように見える。盛んに書かれかつ読まれながらも、何か肝心なものが薄らいでしまった印象があるのだ。うまく言えないが、短歌には不可視の法則があり、不可知の秘密があり、よくわからないながらもそれにアプローチすることで、生きることをめぐる確かな触感が得られるような、ジャンルとしての厳然とした存在感が薄らいでいるのではないだろうか。歌人が何をしようと、揺るぎないものとしてそこにあったかつての短歌の姿は、もはやどこにも見られない。

一九九五年以降の短歌について、私はこれまでその多くを「場」の問題として捉えて語って来た。過剰なまでに多様化した現在の短歌の様相を、一つのキーワードで括るとすればそれ以外にはないと考えていたからだ。この時期に表面化した事象のいくつかをあらためて列記してみよう。まずは、題詠の時代。必然的なテーマではなく任意の題材のレベルで何かを共有するのがスタンダードになったこと。ネット短歌。この呼称が出て来たことで、結社に所属して短歌を書く行為の意味も再認識されて、活動するメディアの種類によって何らかの共有がなされているとみなされたこと。後の若い世代による同人誌の創刊のブームにも影響したようだ。さらには、アンソロジーや短歌辞典の相次ぐ刊行。続いて生じた短歌史再考や歌人論歌人伝の盛況。つまり、短歌がどこからやって来てどこにいるのかという自己規定や自己確認が繰り返し起きたこと。また、短歌朗読の活況。これは、作者の声が、聴くために集まる者の鼓膜を直にふるわすという、物理的な直接性のイメージとしてあったように思う。個々の事象は個々の理由があって生じたのだろうが、共通するのは、積極的に短歌の「場」を構築しようとする姿勢である。この十数年間に見られたのは、短歌のあるべき「場」をどう構築してゆくか、が、短歌が作品としてどうあるべきか、にやや先行して展開されてゆく風景だったと言ってもいいだろう。広義に、短歌を書く人たちの社会の意味で歌壇ということばを用いれば、歌論よりも歌壇が短歌の中心にあったわけだ。その是非はともかくも、短歌の現在は、歌壇の時代なのである。

むろん、歌壇の時代だろうが何だろうが、短歌が作品としてどうあるべきかは、つねに歌人の鼻先にある問題である。また、短歌が、混迷をともなう現在の状況に到ったもっとも大きな原因が、一九八〇年代から一九九〇年代にかけての、ライトヴァースやニューウェーブといった現象あるいは方法を、当事者たちも批判者たちも、歌論的にすっきり消化できていないことにあるのは、多くの人の目にあきらかなことではないだろうか。何を考えてゆくべきかは、はっきりしているのだ。このブログで、また機会があれば他のメディアで、今年は少し、踏みこんで考えてみたい。更新のサイクルは不定期になるだろうし、これまでのように気ままな内容のエントリも続ける予定である。また、記事をめぐるコメントがあれば、今年はできるだけレスポンスさせてもらおうと思っている。以上、とりあえず、新年の挨拶がわりに。

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