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January 27, 2011

雲を眺めて読者を考える

あいからわらず寒い日が続く。雪国では雪が降っているそうだ。雪国に住む友人から膝丈だと自慢された。負けた、と言うか、勝負にもなっていない。そもそも雪がどこにもない。全国的に見れば名古屋は穏やかな寒さということか。書斎の窓から雲をぼんやりと眺める。考えごとをする前の儀式のようなものの一つである。いつもと同じような、しかしたぶん一度も見たことのない雲の分布である。違いが識別できないのは、似ているところにばかり目を向けようとするからかも知れない。

短歌を書いているということを、文芸に特に強い関心はない、短歌を読んだり書いたりはしない友人や知人に話すと、やけに風流なことをしているとか、遠い世界で偉い人になったみたいな、およそ歪んだイメージを抱かれてしまう。例外はもちろんあるのだが、かなり高い確率でそうなってしまう。これはたぶん歌人の多くが体験していることだと思われるし、詩歌句の他のジャンルでもそうした現象は珍しくないのではないだろうか。理由は、短歌がマイナーなジャンルであるということに尽きるわけだが、そうは理解していても何か淋しい気分になる。

私はずっと、私自身の短歌の読者に、短歌を好んで読む人と短歌にあまり関心のない人の双方を想定して来たつもりだった。推敲の途中、この表現が読者に通じるだろうかと不安になるとき、歌人ならこのくらいのことは理解してくれる、という、信頼感に由来するような、甘えているような、そんな気分が生じると、その作品を捨ててしまうか、表現を崩して一から書き直すか、できるだけそうして来た。だが、どこかで作品をリリースするということは、誰かに対する信頼か甘えか、それらが綯い交ぜになったような地点で脱稿をするわけである。しかも私は、歌集を刊行しても、短歌にあまり関心のない友人や知人にはほとんど見せたことがない。結局のところ、私は歌人を信頼し、そして甘えて来たのだと思う。

 まず、できるだけ多くの読者にわかってもらいたいとする立場がある。好評を得たいし、歌集も売れてほしいし、あわよくば愛誦歌として後世にも残ってほしい。(中略)この無理からぬ欲求の危険性が、読者へのおもねりという点にあることはいうまでもないだろう。読者の共感を求めるあまり、自己の感性を読者の側へすり寄せることになりかねない。読者の思想、認識、感性などとの落差こそが作品の〈毒〉としてインパクトを与えるはずなのに、あらかじめそのような落差をうずめたり、突出部を削ったりするような操作がなされたのでは、作品が衝撃力をもつはずがない。/永田和宏「普遍性という病」

歌論集『解析短歌論 喩と読者』(一九八六年)に収録された一文から引用した。正論であり名論だと思う。思うが、おもねりが陥穽であると同時に、毒もまた陥穽なのではなかろうか。おもねりも毒も、作者によって自覚されてしまえば、方法論の一つに過ぎないのだから。作者の自意識の外にいるはずの読者と何らかのかたちでつながるには、私と他者とを、落差、として捉える以外の道筋が必要な気がする。

もう五年以上前のことになるだろうか、歌友であり親友であるひぐらしひなつさんと短歌の話をしていたとき、これから先にどんな作品を書くのかと訊かれて、そのストレートな質問に少したじろぎながら、歌集をまとめたときに、短歌にあまり関心のない友人にも手渡せるような、そんな作品を書きたい、と答えた。答えたときは、どこかまだ私自身がぴんと来ていなかったのだが、以後、その答を裏切らないようにしたいという気分がどんどん膨らんで、この数年、このブログに掲載していた「きょうの一首」は、表現上の主義的なものよりも、まずそのことを優先して来た。どんな結果になるかはまだわからないが、そのことが、私のこれまでの何かを少し変えてくれているとは思う。

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