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January 10, 2011

定型の余白について

私が短歌を一首として成立させるために最低限必要だと考えているのは、この現実世界の空間の一角の感触のようなものである。眼前の風景でも構わないし、マスメディアなどを通して知る未知の場所でも構わない。仮に空想の産物であってもその空間がどこかにあると知覚できるならそれでいい。私がいて、時間が流れていて、具体的な何かがどこかに存在する、というあたりまえのこと、世界がたしかにここにあるのだという感覚が伝われば、十分に一首の短歌は成立すると思う。それだけでは面白味がないと言う人もいようが、面白味が面白味として機能するためには、何よりも作者と読者とが同じこの世界のどこかにいるのだという共有の感覚が必要だろう。すべてはまずそこからはじまるのではないか。

ところで、では仮にそのような感触を核に短歌を書くとする。五七五七七を基本にしたわずかなスペースの定型はそれだけで簡単に埋められてしまう。しかし、短歌を書くたびに私は、その感触の表現だけでは埋め尽くせない、不可視の余白が存在していることに気づかされる。具体的に言えば、この題材はもっと少ないことばでもまとめられる、まだ余白があるという感覚なのだが、単なる音数の問題ではなく、短歌の定型が発する誘惑や強制の声として感じられるのだ。あなたはその感触をどのような意図で読者に手渡そうとしているのですか、何も意図がないわけではないでしょう、意図を述べなさい、この余白はそのためにあるのです、と、短歌の定型から促されているような気分になる。そして推敲をしていると、意図があってもなくても強引に意図を引きずり出させられる感じがやって来るのだ。確たるテーマをもって短歌を書いている人に、この余白は好都合なのだろう。実際、少なくとも前衛短歌時代以後、この余白は、テーマのためとか作者の世界観を積極的にそこに刻むために費やされることがスタンダードになったと思う。けれど、いつからか私は、この短歌の定型が発する声をいささか煩わしく感じはじめている。テーマなどないままに短歌を書き続けているからだろうか。

 ライターもて紫陽花の屍(し)に火を放つ一度も死んだことなききみら/塚本邦雄

第五歌集『緑色研究』(一九六五年)に収録された一首である。上句と下句とが連句的な構成になっていて、先に述べたこの現実世界の空間の一角の感触と余白に世界観を刻んだ手際とが、偶然にも可視化されている。こんなにわかりやすい作品も珍しいので例に引いた。上句の鮮烈なイメージがあって、その行為主体を明確化するだけで十分に一首は成立すると思われるのだが、行為主体を「一度も死んだことなき」と規定することで、私が私よりも若い世代に対して抱いている印象を詳らかにし、まだ戦後であったその時代の空気を映すとともに、枯れた紫陽花に火をつける行為に、事実以上の象徴性をもたせていると言えようか。たぶんこの事実以上のという部分に何らかの岐路があって、私の好みの範疇に入る一首ではあるのだが、何もそこまで言ってしまわずとも、若者の無頼なふるまいの事実性を見せるだけでも秀抜な一首になるではないかと思わなくもない。初読時に比較して、読むたびにだんだんと、何もそこまで言ってしまわずとも感が深くなる。たぶんそれは、塚本邦雄のこの一首に対しての私の読解や評価の変化にとどまらず、余白を埋め尽くさせようとする短歌の定型に対する反撥から来るものなのだと思う。

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり/斎藤茂吉

第一歌集『赤光』(大正二年/一九一三年)に収録された一首である。私には斎藤茂吉の短歌観をうまく説明することはできないが、この一首についてはよくわかる気がする。この一首から私が読むのは、この現実世界の空間の一角の感触と、その余白を余白のまま維持しようとする意志である。余白に何かが入りこんでしまうのを断固として拒絶しようとする意志だと言い換えてもいい。夏の日の、トマト畑なのかその他の場所なのか、熟れ過ぎて腐ってしまったトマトが放置されているのを、散歩か何かそんな折に見たという、詠嘆か事実報告かもはっきりしない、およそ無愛想な文体ではあるが、短歌の定型が余白を埋めさせようと迫って来るのを、凛として拒んでいる感じがある。それだけなのだ、ただそれだけのことなのだ、と。茂吉と茂吉ファンには失礼ながら、不覚にも、この箸にも棒にもかからない題材の一首が、美しいと感じられることがときどきあって、しかも現在の私の求めようとしている何かに、書く姿勢としては近いようにも思われて、不思議な気分になる。端的に言えば、掲出した作品に限らず、総じて塚本邦雄の短歌は好みであるが、斎藤茂吉の短歌はあまり好みではないのだ。個人の短歌観が、好みの問題を超えたところでかたちづくられるなどということがほんとにあるのだろうか。

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Comments

こんにちは。

塚本邦雄と斎藤茂吉の一首それぞれを読んで浮かんだことから書きます。

 ライターもて紫陽花の屍(し)に火を放つ一度も死んだことなききみら/塚本邦雄

まず、「一度も死んだことなききみら」は、そこまでいう? という、
つよいメッセージ性をもちつつ、それが「きみら」だけで終わらないような
イメージがあります。なぜならば、「一度も死んだことなき」は、観察者をふくめていえることだからです。
この下句は、「きみら」から自分をふくんだ全存在へも返ってくるようなメッセージ
ととることができる。

また、「一度も死んだことなききみら」が最も、説得力をもつのは、これが死者の側から語られたとき
であるとも感じます。そういうふうに、この首を
死からみた、生から死への入口の描写
ととることができるとすれば、それはこの下句があってのことでしょう。


 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり/斎藤茂吉


この首は、さきほどの尺度でいえば、
「赤茄子の腐れてゐたるところ」という死からの
「幾程(いくほど)もなき歩み」という生の道のり
もっといえば、死からの出口(または再出発点)としての生
を、描いているような感触があります。
もっとも、その生の道のりに行くほどの価値があるのか、
または腐った赤茄子にすでに価値はないのか、といえばそれらを決めることはままならない。
人間が食べごろと思う日照を超えたところに、赤茄子にとっての至福があるかもしれない。

それを決めていないところに、茂吉のこの一首の魅力があろうし、
塚本の一首も、新しい手つきを下句に見せることで、
それがまた別の解釈を導くことになっています。

この二首に共通する、好き嫌い、好奇心とはまた別の、
素通りできない感覚とでもいうような
怖いもの(手を付けられそうにないもの)、またはそうあるべきものを、
触るかさわらないかまで近づき、
そこからの距離をはかってその都度見たいような衝動、またはそうさせる惰性(圧力ではなく)が
もしかしたら短歌を眺める(書く)ときに働くのか、と思います。


まとまらない文章で恐縮です。失礼いたします。


Posted by: 山本剛 | January 11, 2011 at 03:25 AM

>山本剛さん

いつもコメントありがとうございます。
私には、話を単純化してしまうためか、
狭く絞りこんで一首を解釈してしまう、
そういう傾向があるように思います。
山本さんの、生と死とを対峙させる解釈、
たいへんおもしろく思いますし、
考える上での参考にもなりました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 荻原裕幸 | January 12, 2011 at 09:04 AM

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