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January 16, 2011

新しいリアルと懐かしいリアル

私にとってテレビCMの印象と言えば、何よりも化粧品である。とりわけ一九八〇年代、資生堂とカネボウが、春や夏の新製品のCMを流しはじめると、私が使うこともなければ誰かに贈ることもなかったのに、なんとなくうきうきした気分になったのを思い出す。人生の春を謳歌するようなその雰囲気が、二十代の私の、理想の恋愛のイメージにどこかでつながっていたのだろうか。現実的ではなくても、理想の正確な方向を示している気がした。それはそれとして、近頃のテレビCMと言えば、保険と対加齢商品がやたらに目につく。たとえば、アリコジャパンとか皇潤とか。それらのCMを見ない日はないと思うほど頻繁に流れているように感じる。病気や死あるいは加齢が避け難い現実であるという確認が、CMを通して何回もなされる。高齢化社会への対応を政府に求める論調の報道番組等に挟まれて、それなりの販促効果をあげてはいるのだろう。しかし、私はそうした現実を押し売りするCMの表現、ことにその執拗な繰り返しが好きではない。多数的な現実がパターン化されて、個々の現実を掻き消しているように見えるからだ。

 はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる/塚本邦雄

第三歌集『日本人霊歌』(一九五八年)に収録された一首である。生命保険のセールストークが、現実の押し売り的になるのは、現在も昭和三十年代も同じことで、個別の現実であるはずの死も、保険のシステムのなかで見ると、画一化された商品の一部のように感じられる。ここではその個別性のない嫌な感覚が「死を売りにくる」と表現されているのである。ただ、この一首の核は、そうした生命保険のシステムへの皮肉やそれでも加入しようとする私の哀愁にあるわけではないと思う。問題は「死を売りにくる」ことではなく、それが「遠き死」であることなのではないだろうか。塚本が当時三十代であったことももちろん「遠き死」という表現を促したはずだが、戦後の平和のなかで、生がぴんとはりつめたものであった戦時中に比して、ふやけた生が瀰漫するようにも見えたであろう社会の状況を、シニカルに、個々の「遠き死」として捉えているのだと私は解釈したい。死を望んでいるわけではないにせよ、死に隣接する感覚を失ったところには生のきらめきもない、という感覚が、昭和三十年代の塚本邦雄のリアルとしてここに見えているように思う。

 我々の言葉が〈リアル〉であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう。/穂村弘「〈リアル〉であるために」

歌論集『短歌の友人』(二〇〇七年)に収録された一文から引用した。現在の短歌の状況分析から出た結論の一部である。同書で穂村弘は、現在の短歌に対して、二つの観点から関心を示している。一つは「短歌的武装解除」、もう一つは「リアル」。前者は理解の範疇をはみ出る現象として、後者は表現を支えるファクターとして、それぞれ分析を加えている。詳しくは同書の記述に直にあたってもらいたいが、私はそれらが、現在の、新しいリアルと懐かしいリアル、に結びつくものではないかと考えている。引用文は後者について述べたもので、穂村が言及の対象とした作品と表現スタイルは違っても、塚本邦雄の「保険屋」の一首から見えて来る感覚とこれとはかなり近いものがあるのではないだろうか。だからこそ私は、そこに懐かしいリアルを感じるのだと思う。実際の日常のイメージとやや離れたとしても、そうあるべき何かを方向として明確に示すという意味での懐かしいリアルを。

誰もがいつかは死ぬ、人生は一回限り、やり直しはきかない、というのは、ほとんどすべての人が共有している感覚だと思うが、療養を強いられる時期をのぞけば、死のイメージがもたらす過剰な緊張が意識の表面にそのままある現在の日本人は、あまり多くはないだろう。忘れているわけではないはずなのに、死のイメージは、ふだん個人のどこかに眠っていて、時折表面化しては緊張をもたらし、落ち着けばふたたびどこかに眠りはじめるようだ。決して忘れてはいない、過敏になることもない、だがひとたび表面化するとすべてを凌駕する。死のイメージとはそのような距離にあり、現在の日本人の多くは、この距離の感覚が反映されたものごとに、実感とかリアリティとか現実味とかリアルを感じるのではないだろうか。人生はかけがえのないものであるが、そのかけがえのなさのもたらす過剰な緊張とは距離をとりながら多くの時間を過ごしているのが実状なのだ。少なくとも私はそうである。短歌(の表現)史を起点に短歌を書いていると、この現実からどこか浮いたものになりやすい。過去のすぐれた表現の多くが、過剰な緊張のなかから書かれているからだろう。現在の短歌に、穂村弘が言う「短歌的武装解除」、私なりに言い換えれば、新しいリアル、が生じているのは、短歌史ではなく、こうした現実を起点に、短歌にイノセントな状態で向かう人(無意識な人も方法的な人もいるようだ)が増えているからだと思われる。

以下、補註あるいは蛇足。以前に書いたメモを単につぎはぎしたため、何かすっきりしない部分があるのだが、一から書き直すのもつらいので、ここまま公開することにした。頑固なまでに「短歌的武装解除」を肯定しない穂村弘は、しかしながら結果としてその煽動者にもなっている。短歌にかぎらず、新しさと懐かしさとの間で揺れるのは、四十代的な属性の一つかも知れないと、歌論を少し離れたところで、彼と同い年の私は思ったりするのだった。

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