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February 08, 2011

不埒に春の虹を楽しむ

 虹があらわれたら、人はただその美しさを茫然とみつめているだけであるべきなのであって、それを指さしたり(指さすのは命名の行為のはじまりである)、「あれ」とか「それ」とか呼んだりしてはいけないものなのだ。虹は、どんなかたちであれ、じぶんが限定されるのを極端に嫌うからである。それはじぶんを限定し、しかるべき場所に封じこめておこうとするいっさいの力にあらがって、いまようやく空高くあらわれることができたのである。どんな住所、どんな範疇、どんな共同体にも、押し込められるのはごめんだ、と思っている。/中沢新一「作庭家の手記」

『虹の理論』(一九八七年)に収録された一文から引用した。ここだけを引用するのは誤解を生じさせそうでフェアじゃない気もする。ただ、前後の文脈はさておき、強烈なインパクトのある箇所なので、つい出来心で引用してしまった。世に「新人」と呼ばれる人たちの一部には、この虹に気分がシンクロする人もいよう。いや、いて欲しい。そう言っている端から、私は、住所をさだめ、範疇をさだめ、何らかの共同体に虹を押しこめようとする悪い癖があったりもするのだが、ともあれ、私は、そんな虹のデラシネ感が好きだ。

短歌同人誌「かばん」の新人特集号が刊行されている。恒例の新人特集号もこれで五巻目になるそうだ。編集後記に名を列ねている、オカザキなをさん、石井浩さん、陣崎草子さん、は、彼等自身が特集される対象の新人でもある。同号が、新人の新人性もしくは虹の虹性に貫かれた誌面になっている大きな理由の一つだろう。たっぷりとボリュームがあって、どうやって紹介したらいいのか少し迷うので、公式のブログの記事をリンクしておく。一覧にあるように、私もゲスト評者として山田航さんの連作三十首「珈琲牛乳綺譚(ミルク増量Ver.)」の評を出稿している。分量は四百字で五枚。山田さんの連作は、西田政史の文体のパスティシュを軸に、ニューウェーブの継承的な実験を展開してみせるという、マニアックで懐かしい意欲作だった。ちなみに山田さんは、短歌の連作の他に、自由作品として回文も出稿している。「山田の回文集」。こちらはこちらでまたやたらに面白い。たとえば、短いものでは「地球覆う諭吉」「消えたか博多駅」等。長いものでは「抱いたし綺麗な襟足だしありえない轢死体だ」等。絶品。

二月三日に東桜歌会の例会があった。葉書とメールで届いた詠草をとりまとめてプリントを作成。夕刻、栄の愛知芸術文化センターへ。詠草は十一首。参加者は十人。題詠「香」と自由詠と各一首を提出。いつもの通り、無記名で互いに選をして、読解を中心に合評を進める。今月は題詠十一首と自由詠十一首からそれぞれ四首ずつを選歌してもらった。例会は今回で百四十九回目である。年数回の休みをとりながら、この歌会の歩みも足掛で十七年となった。はじめた頃の場の雰囲気といまの雰囲気とではまるで違うものであるが、短歌への探究心以外、これと言った旗印がない、というスタイルには変化がない。スタイルのないスタイルだけが、さながら歌会そのものの意志であるかのように継続されている。私が歌会に提出した作品は以下の二首。題詠は八票、自由詠は四票を得た。今回の個人的な課題は、緩む、ことだった。それなりに緩んでいるとは思うが、望ましく緩んだかどうかはさだかではない。

 だめだ思ひ出せない冬のまんなかにむざむざ消えてゆくこの香り/荻原裕幸
 若き日の母に似てゐるやうな気がして雪だるまつくづくと見る

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