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February 23, 2011

とある言語の超修辞法

先日、地下鉄のホームにとある青年がいた。見たところ二十代で、休日のサラリーマン風な印象だった。彼は、誰に話しかけるという風でもなく、眼前一メートルあたりの何もない空間に向けてずっと何かを喋り続けていた。何となく気になったので、彼の近くで列車を待ちながら、それとなく耳を傾けてみた。内容はこんな感じ。新瑞橋には左回りよりも右回りがはやく着く、右回りに乗ろう、と私は考えている。混雑するのは嫌だ、坐りたい、と疲れたきょうの私は思う。どうやら彼は、いま自分が何をしているか、何を考えているかを、次々と声にしていたようだ。ホームビデオの撮影をする人が、きょうは家族みんなで東京ディズニーランドに来ています、とかナレーションを入れている、ちょうどあんな調子だった。行動の記録を録音しているのかとも思ったが、それらしい機器は見あたらなかった。リアルのツイートなのか?

短歌誌「レ・パピエ・シアン」二月号で、「時代のキーワードを詠む」という特集が組まれていた。同人が同時代的なことばを軸に、短いエッセイと作品一首とを寄稿している。大辻隆弘さんの「なんて言うんだろ」を読んで爆笑する。エッセイの冒頭の一行は「年を取るというのは嫌なもので、最近、若い者の言葉づかいがいちいち気にさわる」。大辻さんは、若い人が自己言及をするときに、自己愛的な溜めのある感触で繰り出される「なんて言うんだろ」がかなり気にさわるらしい。保身感の薄い毒舌の楽しい文章である。しかし、文章の楽しさはともかくとして、なんて言うんだろ的な、省察的なことばの溜めというのは、私もかなり頻繁に用いる。断言すると障りが出そうな何かを、それでも読む人や聞く人に手渡したいときの、止むに止まれぬことばの歪みのようなものだと思う。溜めがなければ独善的になりそうなのでそれを回避しようとしているわけだが、溜めたら溜めたでそれがどこか自己陶酔的な調子になるということだろうか。

大辻隆弘さんの文章を読みながら、村上春樹の『風の歌を聴け』(一九七九年)のことを思い浮かべた。『風の歌を聴け』をはじめて読んだとき、読みながらずっと、語り手である「僕」が何を言いたいのかがわからなくて、かなりうんざりしていた。私が二十代の半ばの頃だったと思う。僕の勿体ぶった感じが、何かとても気にさわったのである。どこがどうとははっきり言えないが(という言い回しも考えてみれば省察的なことば溜めの一つであるが)、大辻さんの「なんて言うんだろ」が気にさわる感覚につながるものがあるような気がした。清水良典さんの分析によれば、『風の歌を聴け』は「うまく語れない、ということを語るための小説」(朝日新書『村上春樹はくせになる』)なのである。爾後、何回か読み直しているうちに、その口調に親しみがわくようにはなったのだが、言い淀むのが好きになったわけではなく、その不可避性が理解できるようになったということだと思う。

「NHK短歌」3月号、東直子さんの「言葉の不思議 フィクションを楽しむ」のなかで、第三歌集『あるまじろん』(一九九二年)の「ビジネスマンの疲労とわれの倦怠とαの麒麟を詰めて電車は」がとりあげられている。東さん、どうもありがとうございました。「そんなことは現実ではありえないことだと思いますが、想像することはできます」等、テレビ講座のテキスト風な語りのなかにさらっと自身の短歌観を滑りこませる、東さんならではの爽快な筆致による解説的な鑑賞がふるっていた。二十年も経てば、この一首が、この比喩が、このように語られるんだなあと、何かタイムマシンでいきなり未来にやって来たような不思議な気分を味わった。ニューウェーブはすでに時間の彼方にあるわけだが、ニューウェーブからこちら側に流れた短歌の時間がわかりやすく可視化されていないためか、私自身当事者の一人でありながら、時間の経過をうまく実感できていないのかも知れない。

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