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February 10, 2011

龍宮が近づいて来る春の道

先日、友人同士での定例の読書会があって、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(二〇一〇年、鬼澤忍訳)を読み進めた。終了後、年下の友人で国文学の研究者でもある歌人から、現在の短歌を考察するにあたり、安易に近代に遡るのではなく、中古中世の方法をヒントにすることを勧められた。あなたしかできる人はいないみたいに言われたので、どこから来る買いかぶりだろうかと訝しんだ。おそらくは塚本邦雄の弟子という文脈のなかでの話なのだろう。力量の問題はさておくとして、まんざら関心がないわけでもないのだが、近代近世を超えてその向うにある短歌の龍宮的な時代に深く入りこんでしまうと、かなり高い確率で現在に帰還できなくなるのではないかとも思う。悩ましい課題である。

結社誌「短歌」二月号を読む。菊池裕さんが、短歌時評「修辞としての口語/不可視の文語」のなかで、今年一月六日のこのブログのエントリ「文語濃度をめぐって」の内容を紹介かつ検討しながら、現代の口語短歌をめぐる分析を展開している。ネット上のテキスト同士がリンクでつながってゆくのも楽しいが、このようにしてブログのエントリが印刷メディアの文章と出逢うのもまた楽しいものである。菊池さん、ありがとうございました。詳細は原文にあたってもらうとして、菊池さんの考察で私がとりわけ注目したのは、表題にもなっている、文語表現を土台にしてあらわれた「修辞としての口語」をめぐって、その表現の「背後には、つよい定型意識と相俟って、文語の歴史が積み上げられている。目には見えない文語の蓄積である」と述べた箇所である。私には、そのような角度でそこまでの実感はなかったのだが、言われてみてなるほどと思ったのである。

菊池裕さんの言う「不可視の文語」は、文語表現から短歌に入門したことが文体に与える功でもあり罪でもあるのだろう。菊池さんはおそらく、この「不可視の文語」に大きな価値を見出そうとしているのだと思われる。件の文章で、私自身の短歌も例にあげられている通り、かつての私が口語表現に踏みこんだスタンスは、同時代を俯瞰したときにそのようなものとしてあったのだと考えられるが、最近の私の関心は、さらに修辞としてもう一歩踏みこみ、本格的に緩むことによって、菊池さんの言う「不可視の文語」を拭い落とすあたりにスライドしつつあると言えるかも知れない。定跡に頼らない手将棋のような、ノーガードのボクシングのような、そんな虚の匂いのする短歌の文体のなかになおも残る何か、あるいは何も残らない空白としてのありようを、いまの私は確かめてみたいのだと思う。

二月四日、立春、午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」。出席者は、見学者1人を含めて14人。詠草は14首。題は「重」。三重県から一字をもらった。いつもの通り、一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めてゆく。感覚的に言えば、私の好みや短歌観が6、近現代の短歌をめぐる一般論が3、語りながらその場ではじめて気づくことが1、そんな比率のことばで褒めたり、ときに駄目出しをしたりしながら、私自身も何かを学んでゆく。この日、講座で題詠の作例として見せたのは以下の一首。その前日の歌会で、結句八音の作品を書いた友人に、音数律の帳尻を中途半端にあわせただけのように見える無防備な緩さがどうしようもなく駄目じゃないか、という話をしていて、なぜその緩さが駄目なのかを考えながら、私なりに駄目ではないと思う緩さをめざしてみた。

 わたしと他人と別の他人とたぶんその妻が重なり春の影すすむ/荻原裕幸

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Comments

こんにちは。龍宮の亀です。先日は唐突なお話ですみませんでした。荻原さんを龍宮にお誘いした根拠は、じつはこのブログでした。前に『風雅集』や『千載集』の歌について書いてあるのを見て、すごくフラットなテンションで古典に入られるなと思いました。歌人伝や作品伝からじゃなく、そこから来る自己投影や思い入れでもなく、普通に言葉から入って作品として読むかんじでした。歌のセレクトも絶妙で、有名な歌でもわかりやすい歌でもなく、コメントも極めて感覚的、そういうことができる方をあまり知らなかったので…。それにやっぱりいま必要な視角かと思います。近代化の論理を真に受けすぎると閉塞しそうで…。
 このブログ読んでいます。どの話題も独自の感覚で切り分けてあるのに、少しもわかりやすくしないところがすごいですね。

Posted by: 佐藤晶 | February 27, 2011 at 10:04 PM

>佐藤晶さん

コメントありがとうございました。
古典へのあのような気ままな言及を
専門家に読まれていたとは冷汗が出ます。
決して古典を避けているわけではないし、
現在の短歌を考えるヒントになることも多いし、
折を見て少しずつ何か書いてみようと思います。
誤りがあるときはご指摘いただければ幸いです。

Posted by: 荻原裕幸 | March 04, 2011 at 12:22 AM

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