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March 10, 2011

ブエノスアイレスは午後

夜の闇が苦手だった。小学生の頃、一九七〇年前後、珠算塾に通う時間帯が、級が上がるにつれて徐々に遅くなってゆくと、冬の帰り道は真っ暗だった。コンビニなどなかった時代で、店の類はすべて閉ざされていて、その道には自販機もなかった。公衆電話のボックスが一つ、淋しい光を発していた。街灯や家々の外灯があるにはあったのだが、水銀灯などはなくて、仄暗い蛍光灯か傘のついただけの白熱電球が、ところどころ、その周囲の闇をいくらか緩和する程度で、実家から歩いて十分もかからない道のりが、やけに長く感じられた。灯りのまったくない難所は、俯いたり目を瞑ったりして足早にやり過ごした。昼ならば私の庭だと言ってもいいほど知り尽くした場所なのに、得体の知れない不安に襲われた。当時、夜道は物騒でもなかったし、霊の類が怖かったというのでもない。危険に対する敏感さも霊感もない私には、むしろ、不審者も霊もその他も見あたらない、夜の闇としてどこまでもひろがる、そこに何も存在しない感じが苦手だったのだと思う。

苦手が解消されたわけではないが、十歳を少し過ぎた頃からの私は、いわゆる夜型の生活スタイルにゆっくりと傾きはじめた。きっかけはラジオだった。中波や短波の放送は、昼に比べると夜の受信状況が格段に良好になる。北海道、九州、沖縄など、国内の遠方からの放送、あるいは海外からの日本語放送を受信することにのめりこんでいた。父母から早く寝なさいと言われるのもお構いなしで、午前零時を過ぎてもラジオの前を離れることはなかった。BCLのブームもあって、学校の友人とサークルをつくったりもした。名称は「梟の会」。私のなかで夜のイメージがあきらかに変質していた。周囲のみんなが眠りに就いてもこの世界のどこかで誰かは必ず覚めているのだと、名古屋は真夜中でもブエノスアイレスは真昼間なのだと、そんな風に考えるようになっていた。早寝早起きという健康的な生活スタイルを尊いものだとは思いながらも、夜という時間や空間に含まれている、必ずしも不健康ではない何か、常識の外で育まれる何かに惹かれはじめていたのだった。

むかしの私を書きつらねたのは、先日、私自身の歌集を読み直す必要があって、第一歌集『青年霊歌』(一九八八年)のなかに、以下のような、夜の時間をめぐる作品を収めていたのを思い出したからである。列べてしまうと書割的な印象もあるが、私にとっては生活上の実感から生じた作品だった。さらに思い出したのは、島内景二さんが、講談社現代新書『読む技法・書く技法』(一九九五年)のなかで、これらの作品をめぐって「一般常識人(社会人)が寝たり働いたりしている時間を数字で明示することで、その時間帯にあやしく生息している「青年」という自由人の孤独と悲しみが強調される」と分析してくれたことだった。たしかに怪しく生息していたし、内実に多少の変化はあっても、怪しく生息しているという点では、当時も現在も大差はないのかも知れない。ちなみにこのテキストを書いている現在の時刻は、午前二時を少し過ぎたところである。

 二十五は午前零時の街路にてバス停ひきずり倒すさびしさ/荻原裕幸
 暴走族も去りたり午前二時の街星の怒りをあびてしづまる
 オリオン座高し初秋の午前四時誰か覚めたりわれは眠らむ
 午前五時燕タクシー泥酔のわれを拒みてつと過ぎゆけり

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