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April 06, 2011

四月になれば日本は

震災後、自粛を求める空気があきらかに広がった。たぶんこれはパニックの一種なのだろう。現在の日本人の多くは、生命や尊厳の維持という意味で不可欠なものや、広義の生活の充実という意味で価値のあるものや、それら以外の不可欠でも価値があるわけでもないものに囲まれて暮らしていると思う。何が不可欠で何が価値があって何がそれら以外なのかは、個人によって異なるわけだし、この異なりは、個人の人格や個性や価値観などによるものだと考えられる。私が自粛の空気をパニックの一種だと感じるのは、一時的であるにせよ、あらゆることを不可欠か不可欠でないかという尺度で共同的に判断させて、人々をゆるやかな画一化に向かわせるからだ。気遣いにも個人差があるのが自然ではないだろうか。

三月二十四日の朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回は、人見邦子さんの第六歌集『春風つかむ』(六花書林)と若山紀子さんの詩集『若山紀子詩集』(新・日本現代詩文庫、土曜美術出版販売)をとりあげた。分量は四百字で四枚半弱である。冒頭、震災に関連する件から書きはじめた。詩歌句の作品は、必ずしも日常をモチーフに書かれるものではないが、作品が書かれる場所はこの日常であり、震災が起きたのと同じ空間である、ということを私のなかの誰かに言い聞かせるように書いていた。ともあれ、作品を作品としてできるかぎり丁寧に読んで、ふだん通りの批評をするためにベストを尽してみた。ふだん通りに何かをするというのは、肩の力を抜くことではなく、全力でそうあろうとすることだと再認識させられた。

三月二十八日の、砂子屋書房のホームページのコラム「日々のクオリア」で、黒瀬珂瀾さんが、第四歌集『世紀末くん!』(一九九四年)の一首を鑑賞してくれた。短歌史にダイレクトにつながるところのほとんどない作品をめぐって、こんなに自然な筆致で鑑賞を展開しているのに舌を巻いた。秋山参謀のくだりなど、無意識とも自覚的とも判断できないはずなのに、マジカルに作品の背景に定着させていてとても興味深い。黒瀬さん、どうもありがとう。この一首を書いた頃の私は、わからないと言われることにどこかで慣れはじめていた。それでも、わかる人にだけわかってもらえばいい、という心境にはどうしてもなれなくて、短歌を楽しみながらも耐えるような時間が続いた。孤独感、と言うか、孤立感を深めていた時期だったように思う。

三月十八日と四月一日、午後、栄のスカイルへ。朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」。十八日の出席者は10人。詠草は10首。題は「大」。大阪府から一字をもらった。一日の出席者は12人。詠草は12首。題は「庫」。兵庫県から一字をもらった。いつもの通り、詠草を一首ずつその場で読み解きながら、添削的な批評を進めた。一日の題の「庫」では、文庫が圧倒的多数で、倉庫、冷蔵庫、車庫がそれに続き、浜口庫之助も登場した。浜口庫之助の作者は、説明もかねて、「大人になれば」(オザケンのではない)をアカペラで歌ってくれた。各回の講座で題詠の作例として見せたのは以下の二首。二首目の、金庫の歌、ホワイトボードに書いて読みあげたらみんなに笑われてしまった。笑われるのは、しかし、悪くない気もする。

 春のひかりに紛れて見えず何かしら大きなものがそこにゐるのに/荻原裕幸
 金庫などといふものはない荻原家はるのひざしのふかみに沈む

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