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May 04, 2011

春の終りの石焼芋

オサマ・ビンラディン死亡というニュースが流れた。アメリカの特殊部隊による殺害だそうだ。作戦名「ジェロニモ」って、悪趣味なネーミングだと思うが、命名者の意図を超えて、この状況をわかりやすく象徴している気もする。しかし、これで、テロの被害者や遺族やアメリカ人の何かが晴れるものなのだろうか。終った感じはどこにもない。東日本大震災からすでに五十日を過ぎている。先日、原子力損害賠償法をめぐって、東京電力の社長が、免責が適用されるという理解もあり得る、とかコメントしたらしい。はじめにこの話を聞いたときは、ネットに流布する噂だとばかり思っていた。まさか実際に社長がコメントしたことだったとは。巷はゴールデンウィークである。きょうは、みどりの日。寺山修司忌。まもなく立夏だというのに、しばしば肌寒いと感じる夜がある。つい先日も、冷えるなあと思っていたところ、いーしやぁーきいもぉー、やきいもぉー、という、あの移動販売の独特の節回しが聞こえて来た。

四月十六日、青柳守音さんのお別れの会に出席するために上京。震災後、はじめて東京に出かけた。この日、関東で少し大きな余震があって、新幹線でそれを知ったときには緊張した。東京に着いてみると、照明や自販機で節電されている以外、特にこれと言うほど目に見える変化はなかった。むしろそれが不気味だった。「短歌人」のメンバーを中心とした六十人ほどの歌人が、早稲田界隈の某所で生前の青柳さんを偲んだ。青柳さんの地元から、鈴木竹志さんと大辻隆弘さんと荻原裕幸が参加した。亡くなってから半年近く過ぎているし、それぞれに故人の思い出を語りあうなかに、どこかしらほのかに明るい雰囲気はあった。これから歌人としての彼女をしっかり顕彰してゆこうという論調のなかで会は進んだ。私は、青柳さんが見ていたら何と言うのかなあとぼんやり考えていた。静かに延々と泣き続けていたHさんに、困ったような笑いを浮かべる青柳さんの表情が見える気がした。青柳守音さんをめぐっては、以下の各エントリにまとめている。各タイトルにリンクを施しておく。

 2010年11月9日(火)/青柳守音さん
 2010年11月12日(金)/すみません
 2010年11月13日(土)/次女の夫
 2010年11月19日(金)/器とか枇杷とか
 2010年11月20日(土)/牛乳と餡パン

四月十七日、千種のメルパルク名古屋へ。長谷川径子さんの第一歌集『万愚祭』(本阿弥書店)の批評会に出演する。参加者は四十人ほどだった。パネリストは、田中徹尾さんと水野直美さんと海野灯星さんと荻原裕幸。司会は杉本容子さん。いつの頃からか、歌集批評会は、テーマやモチーフの分析が主流になって、作者に対してとても手厚い展開になることが多いように思う。だったら私は少し違う角度から話をしようと考えて、十首選と以下のような簡単なメモだけをまとめて話をしてみた。「「私」がそこにいる/他者と共有している時間と空間がある/比喩のすべてに現実を投影している感触がある/口語も文語も定型への収まりの良さから選択されている/自意識の外にことばがはみ出さない/理解できないものを作品に持ちこまない/経験を経ずにものごとを認識する態度が見られない」。長谷川さんの、写実とは呼ばれない穏やかなリアリズムは、このメモにある美点と難点を同時に抱えている。それ自体は単純に是非を言えることではないのだが、このメモの範疇を逸れる作品が全く見られないのは、少し淋しいことであると思う。ときには自身の世界を抜け出すように作品をまとめてみてもいいのではないだろうか。以下、十首選から五首、引用しておく。

 消えそうな蛍光灯の点滅を誰も言わずに会議はつづく/長谷川径子
 大空に浮かぶ白雲見るほかに予定をいれぬ冬の休日
 ゆっくりとアッサムの茶葉ほぐれゆき許容範囲がすこし拡がる
 やわらかな炎だなあと見ておりぬ薬缶の底の青き瓦斯の火
 むずかしい議論ばっかりする人よ秋明菊も知らないくせに

四月の第一水曜日から、中京大学のオープンカレッジ「俳句を楽しむ」の春期の講座がはじまっている。今期の受講者は七人。少人数なので、作品の批評に加えて、概論的な話を少し多めにしている。初回はオリエンテーション的な話を中心に。以後の回は題詠。当日見せてもらった詠草について、その場で添削的な批評を進めるというスタイルはこれまでの通り。各回の題は「桜」「長閑」「五月来る」とした。俳句を語りながら、俳句には俳句を書く人にしかわからない機微がある、とあらためて強く感じる。おそらく短歌にもそうした機微があるのだろう。ジャンルの外に向かってそれを言うと、特権的な感じ、優越的な感じ、嫌味な感じを和らげることが難しい。しかし、やはりそれはあるとしか言いようがない。学問の世界でフィールドワークが必要になるのと同じことで、俳句や短歌を理解するのにも、実作というフィールドワークが必要だということなのかも知れない。

 煙草喫ふひとの逸れゆく桜かな/荻原裕幸
 ごみ箱に長閑溢れてゐたりけり
 折込のたばにまぎれて五月来る

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