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November 30, 2012

2012年11月30日(金)/十一月尽

もう十一月も終りですねぇ、そうですねぇ、一年て早いですねぇ、ほんとにそうですねぇ、終日、会う人ごとに、そんなやりとりばかりしていた。午後、栄の地下街で軽く腹ごしらえをしてから、そのままスカイルの教室へ。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「詩歌をカジュアルに楽しむ」の日だった。先週の金曜が祝日だったので、一週間スライドしての開講となる。今回は、谷川俊太郎さんの一九七〇年代の散文詩を中心に、諸ジャンルの作品を鑑賞した。

競馬で億単位の金を儲けて、脱税で起訴されている人がいるらしい。市販の競馬予想ソフトを自力で改良して儲けたというのだから凄い話だが、国税局だか検察側だかの判断では、はずれ馬券の購入金額は必要経費と認められない、のだとか。そのため、実質的に儲けた額の何倍もの課税をされているようだ。そういうものなのか。もしも競馬が職業だとしたら、はずれ馬券はもとより、競馬新聞や予想用の赤青鉛筆(今は使わないかも)の代金とか競馬場までの交通費(今は行かないかも)とか、諸々が経費に算入されるはずだ。しかし、どうやら競馬の払戻金は一時所得と決まっているみたいで、職業には認められないという。ただ、馬券を買わない私が言うのもあれだけど、払戻を受けたレースに投じた全費用については、はずれ馬券分も含めて、経費と認めてもいいのでは。だって、レースの単位よりも細かく分割したら、それはもう競馬ではないでしょう。などと、私が妙な力説をするのは、ちょうど、柄谷行人の「分割不可能な個体」についての考察を再読していたところだからである。

きょうの一首。日常のなかの情景や日常から生じた感覚を、できるだけ的確に表現しようと考えて短歌の推敲を進める。なのに、実際に一首としてまとめあげてみると、ことばで遊んでいるような印象を与えてしまうことがしばしばあるらしい。かつてニューウェーブと呼ばれていた作品もそうだったが、同じことがいまもなお続いているのだと思う。

 湯豆腐の湯気のむかうに湯気まとふ人ゐて湯気を揺らして喋る/荻原裕幸

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November 27, 2012

2012年11月27日(火)/糖菓交感

午後、新瑞橋で人を待つことになって、喫茶店に入る。珈琲を注文すると、無料でケーキが付きます、と満面の笑みで言われた。ケーキは好物だけど、そのときは別に食べたくなかったのであっさり断った。ウェイトレスさんに愕然とした表情をされた。この世界に無料のケーキを断る人がいるなんて、という感じだった。それを見てこちらも愕然とした。まさかこれまで誰一人このサービスを断らなかったのか。

十一月二十七日付の朝日新聞の朝刊、中部版総合面に、隔月連載の詩歌句の時評「東海の文芸」が掲載された。新聞の紙面構成が刷新されて、コラムが夕刊から朝刊に移動する。掲載日は奇数月の終りの火曜となり、レイアウトも微妙に変更された。分量は四百字四枚弱で微減という感じ。何も変化がないということも一つの価値だと思われるが、紙媒体の新聞をめぐる事情は、そんなことを言っていられない状況にあるのかも知れない。今回は、山崎るり子さんの詩集『雲売りがきたよっ』(思潮社)と松田宏二さんの第一句集『そして』(私家版)の二冊をとりあげた。

きょうの一首。件の喫茶店は、実は二十代の頃からときどき利用している。スタッフもメニューも店内の雰囲気もかなり変ってしまったが、一九八〇年代的な店のつくりとくせのない珈琲の味は変らない。次に行ったときは、サービスのケーキを付けてもらうことにしようと思う。

 ここにゐてもここにわたしがゐなくても薄日の窓と湯気と珈琲/荻原裕幸

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November 26, 2012

2012年11月26日(月)/妹的冬暁

未明からの雨が午後まで降り続く。きょうは同朋大学の講義の日だった。三連休が明けて、どことなくせわしない空気も、キャンパスには無縁のようで、そこだけが平穏なにぎやかさに満ちていた。川柳誌「川柳カード」の創刊号が届いた。十月二十七日に亡くなった石部明さんの十句が掲載されている。「鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず」。石部さんの作品には、「方法」を正面から見せるものが多いが、こうした「方法」の匂いのしない秀句もある。求め続けた新境地の一つだったのかも知れない。

二十六日付の、砂子屋書房のホームページのコラム「日々のクオリア」で、石川美南さんが、第一歌集『青年霊歌』の作品を鑑賞してくれていた。感謝。妹をモチーフにした数首等、引用された半数は、いわゆる「表現の現在」をほとんど意識せずに書いたもので、そうした作品にも触手を伸ばすあたり、いかにも石川さんらしいテイストになっていて、作者であることとはまた別に、きわめて楽しく読むことができた。短歌誌「短歌人」十二月号が届いた。この号には、生沼義朗さんの第二歌集『関係について』(北冬舎)の書評「意識の反映について」を寄稿した。四百字四枚弱。山田航さん、小島熱子さんの同書評と併載されている。書評者の視点が見事なまでにばらばらなのは、生沼さんの歌集の、幅員や奥行の大きさを証しているのではないかと思われる。

きょうの一首。アニメ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を見たとき、当の妹の高坂桐乃ではなく、後輩の黒猫こと五更瑠璃にこそ妹らしさがあるように感じた。私の妹観とはそのようなものなのだろう。石川美南さんの文章に触発されて、あらためて現在の私の妹観を一首にまとめてみた。抽象的ではあるが、こんな感じで妹に萌える、ということである。

 旅の駅舎にきのふ忘れた鈴としていもうとが鳴る冬のあかつき/荻原裕幸

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November 25, 2012

2012年11月25日(日)/1Q70

三島由紀夫忌。私には、一九七〇年十一月二十五日の、いわゆる憂国忌をめぐる一切の記憶がない。当時、私は八歳だったはずで、何か少しくらいは記憶していても良さそうなのに、一切ないのである。ふん、それがなんだ、とは思うものの、劣等感に似た何か軽い悔しさのようなものがあって、憶えていたら何か良いことがあったのではないか、などと変な気分になることがある。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(一九八二年)の冒頭に、一九七〇年十一月二十五日の記述が出て来る。わざわざ日付を明確にしたのは、三島由紀夫を意識しているからに違いないし、そこには「ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた」というくだりもある。しかし、そうまでして三島を引き寄せておきながら、語り手の「僕」は、小説の本筋とは関係のない「どうでもいいことだった」と言っている。仮に私が当時二十歳前後であったら、たぶん似たような態度をとったのではないかと思う。関心がないわけではないけど、正面から関わる気にはなれない。いや、正確に言うと、気になって仕方がないのだけど、近づきたくはない、だろうか。この奇妙な感覚は何なのだろう。

きょうの一首。読み直してみると、やはり私の居場所を明示すべきか、とも思うのだけれど、実は、それを外してはじめて一首としてそれなりに成立するような気がしてこのかたちになったのである。口語体あるいは散文体は、歴史的な蓄積がないだけに推敲で判断を誤りやすく、どうしようもない大失敗になるリスクも高い。いつも書いていてどきどきする。

 明るくてかげりがあつて十二月が近づいてゐて誰もゐなくて/荻原裕幸

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November 23, 2012

2012年11月23日(金)/由来靉靆

勤労感謝の日。国民の祝日に関する法律によると「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。」ということになる。長く好況を感じられないいまのような時代だと、いささかむなしくひびく文言か。一年あるいは季節の節目、いずれかの天皇の誕生日、確実に連休を構成する、この三つのどれにも該当しない祝日は、いまや建国記念の日と勤労感謝の日だけとなった。

「NHK短歌」十二月号が届いている。佐藤弓生さんの選んだ「現代短歌アンソロジー〈ファンタジー〉三十首」に『永遠青天症』の一首が入っていた。選ばれる嬉しさ楽しさというのは、短歌に何年関わっていても変らないものだなとつくづく思う。佐藤さんには、先頃刊行された短歌鑑賞風掌篇集『うたう百物語』(メディアファクトリー)のなかでも、『青年霊歌』の一首を題材に選んでもらっている。重ねて、深く、感謝。テーマの決まったアンソロジーというのはなかなか難しいもので、しかもそれが、ファンタジーだとか百物語だとかいうことになると、これはもう至難のわざと言うべきだろう。選歌の面白さもさることながら、短歌観の提示のスタイルとしても、実に新鮮に感じられたのを申し添えておく。

きょうの一首。NHKのどのチャンネルだったか、自然系のテレビ番組で、動物の死骸がやがては森の養分になってゆく、というようなのを見ていたら、そう言えば、桜って人間の死体を埋めておくときれいに咲くんだよね? と家人が言った。いやいや、たぶん、それ、梶井基次郎だと思うけど、ちょっと違うから。

 幸福にもしも余りが出たら裸木の桜のしたに埋めるといいよ/荻原裕幸

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November 22, 2012

2012年11月22日(木)/猫目政党

小雪。政党から人が離れたり、政党と政党が一緒になったり、情報が数日で無効になってゆく。何で読んだのだったか、天野祐吉さんが、政党の名前を小沢組とか石原組とかにすればわかりやすいというようなことを冗談ぽく書いていたと思うが、なるほどその通りで、党名や暫定的な政策を出されても、どうにもぴんと来ない。末期的な様相である。

大西美千代さんが詩の個人誌「そして。それから」第二号を出した。私は、個人誌というものが否応なく抱えるある種の匂いが苦手で、敬遠しがちになることがある。ただ、大西さんの個人誌には、過剰なほどの切実感があって、目が離せない。詩篇「カラス」の一節「黒一色なので/ひとと自分の区別がつかない/ときどき我を忘れてひとを攻撃する」とか、後記にある「退職して3か月がたった。一日一日はそれなりにすることをみつけて楽しんでいるのだが、なんだか人生の消化試合をしているような気がして来た」とか、読んでいてこの人のそしてとそれからをじっと見つめていたい気分にさせられるのだった。

きょうの一首。荻原家では、廊下どころか、室内にも犇めいていて、しばしば足をとられて転びそうになる。無線の仕様にできるものはしなければ、と思いながら、なんとなくそのままになっている。何と何とがつながっているか、有線の方がわかりやすくはあるのだが、同じような色で束になっていて、実際のところ、ほんとにつながっているのかどうかさえ確認できない。

 寒き廊下にコード犇めくつながればわたしの脳も元気になるか/荻原裕幸

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November 20, 2012

2012年11月20日(火)/芳香凶悪

私は喫煙者なので、他人の匂いにはおのずと寛容になる。なるのだが、その限界を軽々と超えてしまう匂いというのもときどきはある。夜、矢田の星乃珈琲店にいたとき、隣りのテーブルから凄まじい香水の匂いが押し寄せて来た。見たところ二十歳前後の、小綺麗にしている女性二人だが、控えめに推定してみても、半径五メートル圏内は、誰もが飲食不能状態だったのではないか。汗をかかない冬場の香水は、素のままで、匂いがきつくなる。私はそれが嫌いではないけれど、さすがにこれはどうかなと思うレベルだった。

 つくし煮るどの時間にもつながらず/渋川京子

再び、週刊俳句編の『俳コレ』(二〇一一年)に収録された一句。単行の句集に収録されているかどうかは未確認。春の、夕暮だろうか、夕餉のための煮炊きをはじめたところ、没頭するうちに、目的に向かう意識が薄らいで、土筆を煮ることが、純粋な行為としてそこにあるといった感じか。「どの時間にもつながらず」という把握が卓抜であり、秀句だと思う。人間の意識は、体験した過去か日常的な現在か予測できる未来のいずれかにつながろうとする。無関係には生きられない。ここでは、意識と時間とのつながりがわずかに緩くなる瞬間が捉えられている。土筆を煮る人の姿が、一切の関係性を断った場所に、単独で浮かびあがるのが、何とも言えず麗しい。

きょうの一首。以前は静電気など気にとめたこともなかったのだが、いつからかときどき、主に冬場に、物に触れた瞬間、痛みをともなったり、ほのかな火花が見えたりするようになった。年齢による体質の変化が原因とか言われると嫌だけど、やはりまあそういうことかも知れないなと思わないでもない。

 どこにでもゐるひととして短日に静電気などぱちぱちさせて/荻原裕幸

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November 19, 2012

2012年11月19日(月)/音符逍遥

きょうは同朋大学の文章表現の講義の日だった。キャンパスを出てすぐのところに、楽譜を読みながら歩いている女性がいた。たぶん、隣りの名古屋音楽大学の関係者なのだろう。専門家が楽譜を読めるのはわかるのだけれど、歩きながら読んでいる人ははじめて見た。なんか凄いなと思う。私だって歌集や句集ならそれなりに読めるが、それにしたって歩きながらは読まない。あれは、アイポッドで曲を聴いているような感覚なのだろうか。

 アマリリス涎の行方など知らぬ/渋川京子

週刊俳句編の『俳コレ』(二〇一一年)に収録された一句。単行の句集に収録されているかどうかは未確認。アマリリスが咲いている=夏、という以外の手がかりがないので、涎が誰のもので、どんな状況で生じたのか、さっぱり見当がつかない。一人称自身かも知れない。嬰児か乳児かも知れない。看護か介護を要する人かも知れない。「など知らぬ」と言うからには、本来は「行方」を気にすべき涎なのか。アマリリスとのとりあわせを思うと、生活感よりも美的な世界に結びつけたいという意識が見えるが、そうであれば、実際には生活感の強い育児や介護の一場面を思い浮かべるのが妥当か。しかし、一句にはそれだけでは解決しない何かが含まれている気もする。異端的鑑賞を好む私は、植芝理一『謎の彼女X』のような世界を連想したりもしたが、さすがにそれはないか。いや、どうかな。

きょうの一首。籠の鳥ということばを聞いて、私がまずイメージするのは檸檬色のカナリアだが、それはたぶん、映画やテレビドラマのヒロインが、この鳥に、おまえも籠から出たいのかい、などと語りかけるシーンを繰り返し見て来たからだろうと思う。物語の結末はつねに悲劇と決まっていた。

 そこを出てもつまりは空を出られないカナリア冬の籠に囀る/荻原裕幸

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November 18, 2012

2012年11月18日(日)/寒風雑記

寒い日が続いている。午後、最寄りの自販機まで煙草を買いに出たら、女性に道を尋ねられた。見た感じ六十代の、おとなしそうな人だった。目的地までの経路を説明して、タクシーに乗るのが最善だと教えると、丁寧にお礼を言ったあと、信号待ちで追い越し車線に止まっていたタクシーを見つけて勢いよく走り出した。信号が変ってすでに車の列は動きかけていたのだが、女性の勢いに押されたのか、どの車もブレーキを踏み直してじっとしていてくれた。事故にならなくてよかったよ。

日用品の価格が以前と比べてかなり下がったように感じる。量販店が価格破壊を繰り返した結果だろうか。ただ、何でも安く手に入るようになった反面、どのメーカーの、どの価格帯の商品が、どのレベルの品質なのか、という、安物買いをして損をしないための経験的知識が無効になってしまった。利用頻度の比較的高いものでは、たとえば、乾電池。メーカー品とノーブランドに近いものとでは何倍もの価格差があるのだが、安いものだとあたりはずれの差があまりにも大きい。品質表示の規制の難しい、または、緩い商品のいくつかは、決まってそんな籤引きのような買い物になってしまう。

きょうの一首。いや、たぶん、理由はそうではないと思う。渦の動きが不可解だったり、ときどきエラーが出たりするのは、そろそろ買い替えどきだというサインに違いない。あらぬ妄想に耽っている暇があったら、家電屋に行くべきだ。と、もう一人の、現実的な方の私はそう言っているのだが。

 見えない服も雑ざつてゐるか冬ざれの洗濯機うつろな渦を巻く/荻原裕幸

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November 16, 2012

2012年11月16日(金)/調査解散

まじかよと言いたくなるような衆議院の解散だった。懸案が山のようにあるのは常のこととしても、各政党の輪郭がこれだけはっきりしないなかで、選挙で何を問おうとしているのか。政界の編成をめぐって、人々の関心がしばし政治に向くかも知れないけれど、どうなんだろう。世論調査じゃないんだから。

政治家を名指しで、誰々死ね、とか書いてあって、やがて、どうかご安心下さい、誰々は私がすみやかに抹殺しておきました、などと書かれる。もちろん抹殺が実践されたわけではないのだが、何かが解消されたり昇華されたりする類のユーモアではあった。むかしの「落書き」の話である。現在では、大規模匿名掲示板やツイッターが、それに似たジャンルのようなものを構成しているわけで、ときどき爽快に感じるものもあるのだけれど、いかんせん、実際の犯罪予告にも利用されたりしていて、ユーモアのあまり感じられない、ネガティブなことばの渦も、しばしば生じてしまうようだ。

きょうの一首。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」の日だった。栄のスカイルの教室で。きょうの題は「離」。題詠の作例として見せたのは以下の一首である。私自身のことを含めた世情の上っ面をなぞるような書き方はどうなんだろうとも思う。しかしそう書かずにはいられないときもあるとも思う。

 ひとりひとりに日向小さくできてゐて誰も離れぬこの国の冬/荻原裕幸

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November 15, 2012

2012年11月15日(木)/八事好日

きょうは八事句会の日だった。昨年まで中京大学のオープンカレッジで俳句の講座を担当していたのだが、そのときの受講生さんのなかで、気のあった人同士が、自主的に開いている句会だ。もう二十回を超えているという。私が参加するのは飛び飛びで三回目になる。今回からは、一参加者兼講師というスタイルで関わることになった。メンバーが培って来たものを大切にしながら、それなりの舵取りをしたいと思っている。

八事句会の兼題は「神の留守」。加えて当季雑詠三句。進行は、無記名のプリントで選をして相互に批評をするオーソドックスな様式である。私が出詠したのは以下の四句。ひさしぶりの句会だったせいか、ともすればことばが力みがちだったので、できるかぎり抑えてまとめてみた。あるいは抑え過ぎだったかも知れない。

 爪切りの佳き音ひびく神の留守/荻原裕幸
 昼深し母のかたさに蕪煮えて
 ふらふらと来て冬枯に出口なし
 小春日のこんなところに回送バス

きょうの一首。地下鉄がそれなりに充実して、主役の座を譲りつつある名古屋の市バスだが、路線のややこしさは相変わらずである。路線図を見ていると目が回りそうだ。ちなみに、この一首は、「回送バス」の一句をまとめていたとき、副産物的にできたものである。短歌と俳句が、私のなかでどのように書きわけられているのか、それが見えるような、見えないような。

 路線図のやうに絡まることもない市バスに乗つて小春日をゆく/荻原裕幸

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November 13, 2012

2012年11月13日(火)/喧喧諤諤

午後、義母と家人と三人でコメダ珈琲店本店に行く。軽食を二人前注文し、それぞれを四等分して、二対二対四の比率で食べる。もちろん食欲旺盛な私が四である、と念のため申し添えておく。きょうの話題の中心は、義姉の飼猫のことだった。猫も飼主もいないところで、ああでもないこうでもないと、三人で好き勝手な理屈をならべては、納得したり溜息をついたりしていた。もしも猫と飼主が聞いていたら、さぞや呆れたことであろう。小一時間ばかりの平和なひとときであった。

わかりやすい日常的な語法や感性のなかで詩歌句の作品を書こうとする立場がある。一方、それでは詩歌句の存在意義がないとして、ジャンル特有の語法や価値を求めようとする立場がある。前者はジャンルに変化をもたらし、後者はジャンルに蓄積をもたらすが、是非はともかくとして、全体がどちらかの立場に大きく傾くと、ジャンルの存続を危うくするような状況が訪れるのは、誰の目にもあきらかだろう。右顧左眄していい。偏りは禁物だ。座の文芸/場の文芸と呼ぶときの座や場は、時に自在に、臆面もなく、狭くしたり広くしたりすればいいのではないだろうか。

きょうの一首。作品の是非の判断とは別に、たとえば、この一首に見られるような、平仮名の「く」が飛び飛びに四つ並んでいるのが、意図していなかっただけになんとなくおもしろい、という判断が生じることがある。つまるところ自己満足の類ではあるけれど。

 初冬なのにまだ咲く薄く淡く咲くコスモスの件ではあるけれど/荻原裕幸

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November 10, 2012

2012年11月10日(土)/土曜小景

午後、マンションの中庭から、うーえかしーたかまんなかか、という女の子たちの掛声が聞こえはじめた。上か下か真ん中か。書斎の窓からは姿が見えないので、どんな遊びだったか、思い出すのに時間がかかった。途中から女の子たちの声のなかに一人だけ男の子の声が混ざる。小一時間ばかり続いていたろうか。やがて、誰もいなくなったようで、しんとした土曜の午後の感じが戻って来た。書斎のパソコン、時計の秒針、換気扇、近隣の鳥の声、大通りの自動車の音が、ほぼ同じ音量で、静けさを構成していた。

詩と詩論を核とした文芸誌「イリプス」第十号が刊行された。年二回刊の雑誌なので、すでに五年が過ぎたことになる。私は、第八号までは毎号、このブログの「きょうの一首」を選んで構成した緩やかな連作を出稿していた。第九号と第十号には、短歌ではない作品を出稿した。前号には「私ではない何かに献ずる五十句」と題した川柳を、今号には「わたしを遮断するための五十句」と題した俳句を。いずれも近年の作品から選んで五十句を構成したものだ。まだまだ青臭い感じだが、印刷物による発表が、私自身のステップになることをあてにしているのである。次号にはまた短歌を出稿するつもりでいる。

きょうの一首。ちなみに私は、大根おろしが嫌いなわけではない。むしろ好物に入る。ことに焼魚ととりあわせて食べるのが好きだ。荻原家ではなぜか、大根をおろすのは私の分担で、その点でも親しみのある食材なのである。こんな比喩に使用してもうしわけないなどと感じながら。

 懸案どれも半透明のぐちやぐちやに大根おろしに似て週終る/荻原裕幸

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November 09, 2012

2012年11月9日(金)/小春妖艶

きょうは朝日カルチャーセンターの新講座「詩歌をカジュアルに楽しむ」の日だった。栄のスカイルの教室で。先月からはじめた講座で、ジャンルを特定せず、ポップスの歌詞なども含めた詩歌全般の鑑賞を楽しんでもらっている。とりあえず三か月というつもりだったが、さらに三か月開講する方向で企画が進んでいる。ジャンルの比較や越境は、私のきわめて好むところで、しばらく資料づくりなども楽しみながら講座が進められそうである。

「ルパン三世」がアニメ化されて四十年が過ぎているという。私は、年齢的なこともあってか、第一シリーズにだけは手放しでのめりこんでいた。リアルタイムの視聴者には、第一シリーズだけを推す声、ことに大隅正秋の演出する前半だけを強く推す声もあるようだが、私はたぶん、第一シリーズ全体にしみこんだ、一九七〇年代はじめのあの匂いが好きなんだろうと思う。エンディングに流れる、峰不二子がバイクでどこか荒野のような場所を疾走する映像と、主題歌をうたうチャーリー・コーセイの声に、当時まだ十歳にもなっていない私は、説明しがたい陶酔感を味わっていた。退廃やニヒルや倦怠やデラシネや哀愁やその他一九七〇年代はじめのエッセンスの全てを混ぜあわせた風なイメージは、その後の私の世界観に大きな影響を与えたようだ。

きょうの一首。戯歌。あの妖艶な感じは、超弩級の悪女であってはじめて成立するものなのだろう。気立てのいい妖艶さ、などというものはあり得ない。と言うか、仮にそんなものがこの世にあったら、男性はもう破滅するしかないではないか(無駄な力説)。

 あんな女に誰がしたんだ小春日のからきし殺気なき峰不二子/荻原裕幸

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November 07, 2012

2012年11月7日(水)/立冬不変

立冬。アメリカのオバマ大統領の再選が確実になったという。アメリカの政治と言えば、どうしてもまず、軍事政策ないしは安全保障政策のことが気にかかる。敗れたロムニー候補は、国防費の削減に反対するなど、オバマ氏よりもきな臭い印象だったので、そこはまあ良かったのかも知れないが、一方で、沖縄等の米軍基地をめぐって、日本の経済的負担が緩む可能性がなくなったということにもなるのかな。何とも皮肉な話である。

二十代や三十代と比較して、現在の私の短歌は、若さや無謀さから生じる力をあきらかに失っている。歌人として、あがり、とならないようにするには、何らかのかたちで若い日々の私自身を超えてゆくしかない。その意味で、四十代以後、短歌を書くときにはつねに背水感がつきまとっている。まだまだ覚束無い俳句や川柳を楽しめているのは、この背水感から解放される快さにも後押しされているのだろうと思う。ただ、それでも、短歌を書きはじめた十代から現在までを考えたとき、現在がもっとも短歌を楽しめているのも事実だ。不思議なものだなと感じながら、短歌との新たな蜜月を過ごしている。

きょうの一首。奥何々というひびきが好きになったのは最近のことで、むかしはむしろその名のひびきに親しめなくて、観光を考えることもなかった。ちなみにこの「奥」の用法は、説明なしでもわかるけれど、手元の辞書では具体的な用例として載っていないようだ。

 奥三河の冬を旅するプラン練るどこにも奥のないひるさがり/荻原裕幸

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November 05, 2012

2012年11月5日(月)/家鴨訛言

きょうは同朋大学の文章表現の講義の日だった。午後から夕刻にかけての講義なので、この時期、講義中に日没が来る。しかも、壁の一面全面が窓になった教室なので、明るさの変化がはっきりしていて、講義のたび、日没の時刻が少しずつ早くなってゆくのがわかる。学生に作文をしてもらっている間、私自身も同じテーマで作文をしながら、時折、窓の空を眺めて、行く秋のさびしげな表情を楽しんでいた。

私はいま、遠近両用眼鏡を使用している。いわゆる老眼鏡である。もともと使用していた近視と乱視の矯正用の眼鏡を新調する折に、少し気になりはじめた老眼の矯正もしてもらったのである。老眼は、四十歳を過ぎたあたりで、はっきりそれと認識できていたのだが、まったく支障がなかったので、十年近く放置していた。たぶん老化を実感するようなことは避けたいという意識もはたらいていたのだろう。昨年あたりから、細かい文字を読むときに眼鏡を外す頻度が増えたため、そろそろ年貢の納めどきだと観念したわけである。見た目は従来の眼鏡と何も変らないし、眼鏡を外す頻度が減ったため、老眼を自覚することがむしろ少なくなった。何とも便利な世の中である。

きょうの一首。ベッドがベット、バッグがバック、になるといった、濁音が清音に訛るのは気になるのだけど、その逆はあまり気にならないようで、うっかり訛ってしまうことがある。言った瞬間に気づいて、訂正するほどでもないかとは思うものの、しばらくしてじんわりと気恥ずかしさがやって来る。

 北京ダックのダックをなぜか無意識にダッグと発音して肌寒し/荻原裕幸

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November 04, 2012

2012年11月4日(日)/飛行少年

昨日、父を送って護国神社に行く。軍人、細かく言えば、陸軍少年飛行兵出身の下士官だった父は、同じ少飛出身の戦没者の慰霊の集会につねづね出席している。慰霊のためではあるが、実質的には飛行学校の同窓会でもあり、そこにイデオロギーの匂いはしない。折角の機会なので、父たちが建立した慰霊碑を見せてもらった。少飛の一人が所有していた、戦闘機のプロペラの一部をあしらったデザインは、不思議なことに、戦中や戦後の印象からは程遠く、建立した一九八〇年代の何かを象徴しているように見えた。

短歌誌「幻桃」十一月号が届いた。昨夏から同誌に「短歌のふしぎ」と題したエッセイを連載している。今回で八回目の掲載となった。各回四百字七枚半ほどの分量で、短歌について、私の気の向くままに雑談的な文章をまとめさせてもらっている。読みやすいものを、ただし、あくまでも短歌について、という編集サイドのリクエストに応じて、それなりに楽しみながら書いている。短歌のしくみ、と呼べるほど論理的に書き切れないので、短歌のふしぎ、とタイトルを付けた。今回は、岡井隆さんと小池光さんの各一首をめぐって、短歌が作品として成立する要件について言及している。

きょうの一首。父は、話すと饒舌で声の大きい人なのだが、対面したまま長時間対話がなくても平気な人である。一般に、沈黙は不安をかきたてるので、その間を埋めるように、人は、不自然なまでに饒舌になるものだ。私も、相手が他ならぬ父でなければ、この沈黙の間は苦しいだろうなと思ったりする。

 卓の上の葡萄の声が聞きとれる静けさに包まれてしばらく/荻原裕幸

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November 02, 2012

2012年11月2日(金)/冬隣昏迷

きょうの名古屋の最低気温は十度未満だったらしい。この程度でこの時期から寒いとか騒いでいたら、もうどうにもならない気がするけど、やはり寒いものは寒いとしか言いようがないよなあ、などと思いながらリビングに入ると、何やら不思議なほど暖かい。喫煙のため換気している書斎が寒いだけか。しかしそれにしても暖か過ぎやしないかと首を傾げる。実は、家人が、着る毛布、に加えて、ストーブを使いはじめていたのだった。

田中真紀子文科相が、申請されていた三大学の新設を不認可としたそうだ。大学の多さが質の低下につながって就職難にもつながっているとか、しばらく新設を認めないとか、理解できないこともない理由があるようだが、私たちが知ることのできる事情で判断すれば、今回の三大学の認可を区切りとして、今後しばらくは認可を見合わせる、とすればいいことではないのかな。それとも私たちが知ることのできない、知れば納得できる事情があるのかな。

きょうの一首。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」の日だった。栄のスカイルの教室で。きょうの題は「触」。題詠の作例として見せたのは以下の一首である。冬隣、の身体的な感覚を描いただけで、それ以上にも以下にもならないようにまとめてみた。

 触れられないはずの何かに触れてゐるやうな感じのする冬隣/荻原裕幸

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November 01, 2012

2012年11月1日(木)/鹿目暁美

きょうから十一月。「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版をいまのところまだ観ていない。テレビ版の第十話を観て、ここで終ればいいのに、と思ったまま最終話を観たら、悪い冗談のように感じられたからだ。そんなにきれいにまとめなくてもいいのに。結末ではなく可能性として物語を閉じればいいのに。仮にゲーム的状況が現実である世界があるとしたら、そこではゲーム的状況こそがリアルであるはずなのに。

この五年ほどの私の短歌、とりわけブログの、きょうの一首、にあらわれている傾向を、何かネーミングしておきたいと考えて、その質感から、エアリズムというのはどうだろうかと思った。空気のようにあってなきがごとしという意味で空気主義、あるいは、ふわふわとして足が地に着いていないという意味で空中主義、そのあたりを片仮名で一括りにまとめてみたのである。しかし、念のためにググってみたところ、某アパレル系のブランド名に同じものがあるではないか。気にするほどでもないのかどうか、迷うところである。

きょうの一首。きょうは東桜歌会の例会の日だった。平井照敏の俳句「秋の夜の足音もみなフランス語」を題とする変則的な題詠。私が出詠したのは以下の一首である。スペインは、西班牙、と表記するのが私の好みなのだが、この場合、どこかそぐわない気がして片仮名にした。

 スペイン語のやうにあかるく晩秋をかきみだす足音が近づく/荻原裕幸

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