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December 31, 2012

2012年12月31日(月)/歳晩更新

大晦日。この数日、とりあえずブログを現在まで更新することに決めて、公開をはじめている。更新早々にアクセスしてくれた人もいるようで、ほんとにありがたいことである。以後の更新についてはまだ何も考えていないが、ときどきここで何かをお見せできればとは思っている。きょうの一首はきょうはお休みすることにした。かわりに、私の短歌を分析してくれた二人の文章を紹介して、ブログ的な私の二〇一二年を閉じることにしようと思う。

八月の話であるが、山田航さんが、自身のブログ「トナカイ語研究日誌」に連載している「現代歌人ファイル」の、その200、として、荻原裕幸、を、四回に渡って執筆してくれた。山田さん、ありがとう。私の過去の歌集には、あたりまえのことながら私の過去が刻まれており、私の意図したことや私自身が表面的には意識できていなかったことがほどよく混合された分析で、とても快く読むことができたのだった。以下の数字は各回へのリンクである。

 現代歌人ファイルその200・荻原裕幸()()()(

九月の話であるが、中村成志さんが、第三十回現代短歌評論賞に応募した短歌評論「湾岸戦争におけるニューウェーブの役割」を、自身のブログ「はいほー通信 短歌編」に、資料付で全文掲載した。中村さん、ありがとう。この論文は、私が、一九九一年に俳句誌「地表」に寄稿し、加筆して歌集『あるまじろん』に収録した連作「日本空爆1991」を主たる題材としてまとめたニューウェーブ論で、私自身もひさしぶりに見た初出誌の複写を資料として添えてある。一つの連作をこうして精緻に読んでもらえるのは貴重であり、歌人として冥利に尽きる。以下、リンクを掲載しておく。

 湾岸戦争におけるニューウェーブの役割()()()()(

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December 28, 2012

2012年12月28日(金)/瞼上冬日

週末の混雑とは少し違う印象の混雑を抜けて栄のスカイルへ。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「詩歌をカジュアルに楽しむ」の日だった。萩原朔太郎が『純情小曲集』の世界を抜けて『月に吠える』の世界を確立した時期、そこにある詩のことばにどんな事態が生じたのか、等々、詩史とは違うアングルからの話をする。また今回で講座の一クール目が終了するのにあたり、自作の短歌の紹介と解説などもしてみた。

短歌誌「幻桃」二〇一三年一月号が届いた。同号には連載のエッセイ「短歌のふしぎ」を寄稿している。四百字でおよそ七枚半。九回目の掲載となった。今回は、現代の題詠のことを核にまとめた。題詠の題が、私の側でコントロールできない他者のことばとして、さらに言えば、他者そのものとしてある、という件を、「題詠マラソン」において、私自身が、困惑しながら作品を書きあげてゆくプロセスの紹介とともに考察してみた。きょうのカルチャーの講座でも悩んだのだけど、自身の作品への言及を建設的なものにするのはなかなか難しい。避ける必要はないとも思うのだが、ただの自己満足になっていないかどうか、つねに内省的であることは必要だと肝に銘じておこう。

きょうの一首。十月からの、きょうの一首、をまとめて読み直してみた。計四十二首。そのまますべて完成品という感じではないけれど、日付が飛び飛びになっていて、以前のような一日一首という縛りを緩めた分だけ、これはだめだというものの数が少しは減ったようである。アベレージよりもハイスコアを問題にすべきだとは思うけれど。

 瞼をかるく冬日が撫でてセックスに溺れたあとの朝に似た朝/荻原裕幸

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December 26, 2012

2012年12月26日(水)/日録三昧

数え日となった。来週には来年がやって来る。ブログのスタイルでメモをまとめはじめてからすでに二か月が過ぎたけれど、まだリリースしていない。と言うか、リリースするかどうかを考えるのをすっかり忘れていた。情報や思考の流れを整理するトレーニングと日常で生じる何かをきっかけに短歌をまとめてゆくことで自己完結していたのだった。どうしたものか。

日録的に文章を書いているとき、私が、重い、と感じるのは、つねに過去の私を抱えて現在の私があるように書いていることである。無意識にそうしている面もあれば意識的にそうしている面もある。日録のレベルで、過去の私と現在の私の間に整合性があるかどうかは、私をずっと見続けている人、非公開の場合であれば私一人だけが問題にしているわけだが、にもかかわらず、私はそれを棄てることができず、私は私自身を見続けている、と言うか、監視し続けているのである。整合性を失ったところで、私が私であることに何ら変化が生じるわけではなく、感覚や思考のギアシフトのようなことが起きた、というだけのことだろうし、そもそも感覚や思考は、時間の経緯とともに変化する方が自然でもある。それなのに私は、私と私と私と私と(きりがない)私の間の整合性が気になって仕方がない。

きょうの一首。蜜柑の皮を螺旋状に剥くのは私のくせで、一度これに慣れてしまうと、他の剥き方がとても億劫に感じられて、変えることができなくなってしまったのだった。他人の目があれば、そんな奇妙なくせは生じなかったのかも知れないが、残念ながら、他人と呼ぶほど親しくない人の前で、蜜柑の皮を剥く機会はほとんどなかったのである。

 みかんの皮をらせんに剥いて私からなにかを継いだ私が笑ふ/荻原裕幸

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December 24, 2012

2012年12月24日(月)/現場至上

天皇誕生日が日曜だったので、きょうは振替休日である。と言っても歳末のこの時期のことだから、カレンダーにあわせて動いている人は少ないのかも知れない。昨日の有馬記念は、鑑賞用の馬券を買ったこともあって、家人と一緒にテレビの中継を見ていた。競馬中継をきちんと見たのは、寺山修司が出演しているのを見ていたとき以来なので、三十年ぶりということになるだろうか。

現場の経験と机上の思考をめぐって、一概にどちらが大事だとか有効だとかを言うのは難しい。ただ、現場の感覚にそぐわないものは、いかなる論理であろうとも現場から拒絶されることになる。短歌について総合的な視点で何かを語るとき、短歌を書かない人の見解が得てして歌人から拒絶されるのは、現場の感覚の何らかの欠如がその見解ににじんでいるからなのだろう。同じことは詩歌句の他のジャンルにも少なからずあてはまるわけだが、短歌は、拒絶の強度において突出しているように感じる。近代現代の短歌史は、短歌否定論を梃子にして進んで来た。まず拒絶して、それから徐々に内省して、あくまでも自身の選択として何かを改革しないと気が済まない。頑固でも一徹ではないということだろうか。歌人の考えは個々に違っているのに、短歌の世界が全体としてそのような一つの人格として見えるのが不思議だ。どうにも面倒臭い御仁だと思うけれど、キャラとして嫌いなわけではない。

きょうの一首。こういう妄想が生じるのは、特撮映像やアニメにどっぷりと浸りながら大人になり、そこから抜け出せないまま齢を重ねているからなのだろうと思う。ただ、私がリアルに認識できる大きさというのは、最近の映像で言えば、庵野秀明企画の「巨神兵東京に現わる」の巨神兵のサイズくらいまでなので、ここまでの大きさとなると、何か別次元の経路で生じた妄想なのかも知れないという気もする。

 もしやあれは何か巨大な生きものの胃壁なのかとおもふ冬雲/荻原裕幸

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December 23, 2012

2012年12月23日(日)/鑑賞馬券

天皇誕生日。きのうきょう、近隣で、サンタクロースの衣装を着た男性を何回か見かけた。背の高いサンタと中背のサンタがいたけれど、いずれのサンタも痩身だった。どうやらピザ屋のデリバリーをしているらしい。すでに中旬あたりから家人が模様替えをはじめて、そろそろ本格的な大掃除モードに突入しようとしているところなのだが、分担の役割のあれこれに、まだまったく手つかずのままの私は、どうしたものかとおろおろするばかりである。

好きな名前の競走馬がいるからその名前の入った馬券を買ってみたいと家人が言う。馬券を買う、というのは、世間的にはどうってことのない話なのかも知れないけれど、ギャンブルに縁のない荻原家には高いハードルだった。競馬場はおろか場外馬券売場にも行ったことのない二人は、ウインズ名古屋の場所を調べ、どきどきしながら足を踏み入れたあと、親切な競馬ファンや淡々としたスタッフの力を借りて、やっとのことで目的の名前の記載された有馬記念の単勝馬券を買った。巷には単勝馬券専門のコレクターもいるらしいのだが、眼前の、競馬新聞とモニターを交互に見ては予想を展開している競馬ファンたちにそんな事情が知れたらどうしよう、叱られるのではないかと、場外馬券売場をあとにするまで、何となくびくびくしていたのだった。

きょうの一首。まだ一日早いのだけれども。宗教的な意味ではなく、商業的な意味でのクリスマスは、その日その夜よりも、その日に近づいてゆくプロセスのなかにこそ最たるものがあるように思う。待ち焦がれていたはずなのに、いざクリスマスになってみると、奇妙な喪失感があったりするのは、たぶん何らかのピークを過ぎてしまっているからだろう。

 どこもかしこもひかりに濡れて私の奥に雪降らせるクリスマス/荻原裕幸

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December 21, 2012

2012年12月21日(金)/大大晦日

冬至。マヤ文明の長期暦ではきょうあたりが大晦日にあたるらしい。長期暦なので大大晦日といった感じか。この暦から生じた人類滅亡説というものもあるそうだ。ネットには、新年の挨拶とか、サービス終了のお知らせとか、マヤ暦を一人称としたコメントが散見する。「人類滅亡となりましても、弊社は一切責任を負いかねます」等々。

先日、名古屋駅前にある某ビルの超高所のカフェの窓際で珈琲を飲んでいたところ、近隣のビルの屋上にあるヘリポートとおぼしきスペースに丸Hと丸Rとの二種類の表示があるのを見つけた家人に、何が違うの? と訊かれた。そう言われて見てみると、なるほどたしかに二種類ある。理由についてはまるで見当がつかない。これでLがあれば、ハイ&ローとか、ライト&レフトとか、それなりの組みあわせになるのになあ、などと頓珍漢なことを思っていた。その後、調べてみたところ、Hはやはりヘリの発着スペースの意味であるが、Rはレスキューの略だそうで、ヘリはそこに着地することができず、真上でホバリングしたまま救出する、そのためのスペースであるらしい。活用する羽目になるのは嫌だけど、ひとつ賢くなった。

きょうの一首。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」の日だった。栄のスカイルの教室で。きょうの題は「備」。題詠の作例として見せたのは以下の一首である。ほんとにおめでたいなと思いながらも、どこかそれを憎めないでいることこそが、むしろおめでたいのかも知れないけど。

 備へなけれど憂ひもあらぬおめでたきこの国の冬の夕焼のなか/荻原裕幸

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December 20, 2012

2012年12月20日(木)/八事忘年

むかしむかし、二十数年前のことになるが、私の短歌研究新人賞の受賞祝を名目に、春日井建さんと新畑美代子さんと三人で、中区の某高級割烹に行ったことがある。春日井さんと新畑さんとはそれぞれ二人で何回か食事をしたことがあるけれど、三人だけで、揃って、となると、そのときだけだったかなと思い出した。塚本邦雄の弟子である私に、春日井さんは、甥っ子に接するような感覚で接してくれていたようだ。新畑さんは、今年の五月のはじめに急逝するまで、三十年近く、弟に接するように厳しくかつ優しく、私のブレーンであり続けてくれた。きょう、十二月二十日は、その二人の誕生日である。

きょうは八事句会の日だった。講師として二回目の参加となる。午後、表山コミュニティセンターへ。兼題は「時雨」。加えて当季雑詠三句。私が出詠したのは以下の四句である。これ見よがしな修辞を一切避けて、素朴な時間空間のなかにことばを着地させるようにまとめてみた。

 ラーメン屋の軒の音する時雨かな/荻原裕幸
 年の差の縮むことなし息しろし
 秒針のあるものないもの冬座敷
 蜜柑あるところにひとの集まりぬ

きょうの一首。自失ということばはあるけれど他失ということばはない。だけど、私たちの日常において、個人差はあるにしても、自己を見失うよりは他者を見失う頻度の方が圧倒的に高いのではないだろうか。十分によく知っているはずの人が、突然少し違う人のように感じられて、何とも言えない複雑な気分になることが、私にはときどきある。

 どこかしらあなたがあなたであることがゆれるひるさがりの冬苺/荻原裕幸

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December 19, 2012

2012年12月19日(水)/超超天才

商売で言うそれではなく、季題の数え日とは、指を折って年の残りの日数をカウントできるようになったという感覚で言われるわけだが、十二月の中旬を過ぎて、数え日のあのぎりぎりの押し迫った感じまであとわずかになった。数え日の数え日といったところか。家人の証言によると、ごく最近、私は何か寝言を言うようになったらしい。内容ははっきりわからないという。目覚めていても寝言のようなことばかり言っているのに、このうえ寝ながら私は何を言っているのだろうか。

昨日、十八日、日本将棋連盟会長の米長邦雄さんが亡くなったという。享年六十九歳。訃報を聞いて机の前で涙があふれて来た。訃報とは言っても、私的な関係のない、著名人のそれで泣いてしまうなんて、なぜなんだろう。奇妙な感じだった。タイトルの獲得数で見ると、羽生善治、大山康晴、中原誠、谷川浩司、に次いで、米長さんは現在歴代五位の位置にいる。上の四人は、天才のなかの天才のなかの天才のなかの天才なので、米長さんは、少なくとも天才のなかの天才のなかの天才以上ということになるだろうか。それにしても、四人の誰かがつねにピークに近い状態にあるなか、十九回もタイトルを獲得し、四冠になったこともあるというのは、才能と努力と幸運と、さらにそれ以外にも何らかの力を、将棋の神様から授かっていたに違いない。文字通りユニークな棋士だったと思う。

きょうの一首。三句目をしばらく推敲していた。揺れてゐる、何となく、事もなく、等々、そこで何事も生じていない状況を表現するのに、意味として適したフレーズはいくつか見つかったのだが、むしろ意味として適してしまうことが一首を脆弱にしてしまうように思われた。ことばのひびきの加減から、音もなく、を入れてみると、微細だが意外なテイストが生じるような気がして、そこに落ち着いたのだった。

 冬のプールに冬のひかりが音もなく何も照らさぬまま揺れてゐる/荻原裕幸

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December 17, 2012

2012年12月17日(月)/詩歌俳柳

第四十六回衆議院議員総選挙は、自民党が議席数を二倍以上に増やし、二〇〇五年の郵政解散の時と同じく、自公連立で三分の二を超えた。民主党は、日本維新の会を辛うじて上回り、野党第一党にはなるのだろうが、相次ぐ議員の離党で減っていた議席数をさらにほぼ四分の一まで減らした。変化のない公明党の組織力を背景に、変化のない自民党が受け皿として機能した、ということなのだろう。日本はどこへ行くのかが問われていたはずだが、日本はどこへも行かないということになるのだろうか。

きょうは同朋大学の文章表現の講義の日だった。欧米の詩には、複数の形式があるのに、どのような形式の詩を書いてもその人は詩人と呼ばれる。一方、日本では、複数の詩の形式が、それぞれに独立した一つのジャンルを構成しているため、書く形式に偏りが出るし、形式によって、詩人、歌人、俳人、川柳作家などと違う呼び方をされる。私たちはそれをあたりまえのように感じてはいるが、考えてみれば少し妙なところがある。なぜそのような状況が生じているのか。というような話をざっくりと講義した。

きょうの一首。きのうの私をきょうの私がひきうけること、少し気取った言い方をすると、生きる、ってそういうことだと思う。目覚めにそんなことを考えながら、珈琲を淹れようとぼんやりとキッチンに立つと、あとかたづけを忘れたままのシンクがすごい状態になっている。荻原家では、キッチンのかたづけは基本的に男性の分担なのである。男性は私しかいない。

 けふをきのふとゆるく繋いでここにある葱をきざんだままの包丁/荻原裕幸

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December 14, 2012

2012年12月14日(金)/行人絢爛

今年もあと二週間余りとなった。午後の栄はいつにもまして賑やかで、派手な身なりで楽しそうに歩いている人が多かった。私もなんとなく浮かれた感じでスカイルへ。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「詩歌をカジュアルに楽しむ」の日だった。井上陽水とかさだまさしとか、一九七〇年代のポップスについて、非音楽的なアングルから話をする。著作権の関係で、歌詞をめぐってテキストを参照しながら話せる場所は少ない。幸いこの講座では許諾を得ているので、こころおきなく喋りまくった。

早矢仕典子さんの詩の個人誌「no-no-me」第十五号、この号は、早矢仕さんの小詩集と、ゲストの久谷雉さん、中神英子さんの作品で誌面が構成されている。私はこの三人の詩がそれぞれに好きなので、多少贔屓目に見ているのかも知れないが、純粋感のあるコラボが実現できている気がした。ところで、そこに掲載された久谷さんの「生活」は、歴史的仮名遣いの作品だった。久谷さんは、どうやら最近、歴史仮名にスライドしたらしい。もともと、歴史仮名にしたときの文字面の質感のようなものがきわだつ部分を平仮名書きにしていた久谷さんにとって、この選択は、たぶん正解の一つだろう。歴史仮名が、久谷さんの久谷さんらしさを強化している印象があって楽しい。

きょうの一首。ふだんは寒いのが嫌だの何だのと言って家にこもりがちな家人が、双子座流星群を見るのだと言ってマンションの中庭で星空を眺めていてなかなか家に戻らない。私も星を眺めるのは大好きで、流星群はぜひとも見たいのだけれど、私まで夢中になっていては二人で風邪をもらうだけなので、しかたなく家に戻るのをうながす役目となる。

 鶴にもならず塩にもならず冬星をずつと見てゐる妻を見てゐる/荻原裕幸

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December 12, 2012

2012年12月12日(水)/B紙領域

西暦二千十二年十二月十二日。同じ数字が三つならんで、語呂のいい日付である。何かの記念日にするのに最適と考える人も多いことだろう。朝っぱらからそんな暢気なことを思っていたら、北朝鮮が例のミサイルを発射したとニュースが流れた。恒常的な瀬戸際外交の一環なのか。こうした他国を狙うための技術や核兵器の技術があるレベルに達する前に、戦争以外の何らかの方法で北朝鮮を抑えることがほんとに可能なのだろうか。嫌な感じが続いている。

先日、コメダ珈琲店で珈琲を飲んでいたとき、家人が、びーしって方言なんだよ、知ってた? と言った。びーし? うん、びーし、ネットのともだちにぜんぜん通じなかったよ。ああ、B紙か、模造紙ね。そうそう。あれ、方言なのか、業界用語みたいなものだと思ってたんだけど……。和紙でつくられていたのを外国がパルプで模造してそれを逆輸入したという話は全国的だと思う。サイズがほぼB全サイズなのでB紙と呼ぶとそのむかし誰かに聞いた。説得力のある呼称だし、小中学校の先生がふつうに使っていたので、なんとなく学校関係者の使う隠語のようなものだとばかり思っていた。まあたとえそうだとしても方言の一種ではあるのだが、まさかこの地方の方言だったとは。

きょうの一首。珍しいなと思った。私はこの時期には見たことがない。ところが本文も添付画像もどこにもない。それだけを伝えたかったのか、写真を添付し忘れたのか。困惑したけれど、しかしまあそれはそれで歌の種になるような奇妙な感覚を味わうことはできたのだった。しばらく問いあわせるのはやめておこうか。

 凍蝶をいまファミマの前で見たといふ題なのにメールは空白で/荻原裕幸

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December 11, 2012

2012年12月11日(火)/南北抱擁

一昨日の初雪はそのまま間断的に降り続いて、昨朝、マンションの窓からの風景は一瞬銀世界という感じに見えた。これはすごいと思っていたところ、名古屋の積雪はわずか二センチだったという。しかも午後になると雪のなごりを探すのに苦労するほどだった。同朋大学の講義で出かけた折、移動しながら気づいたのだが、名古屋市内でも、瑞穂区昭和区などと比較して、中村区中川区などはあきらかに残雪が多い。気候に微差があるようだ。丸五十年住んでいていまさら気づいたのだった。

家人が買い揃えた来年のカレンダーのなかに、ペンギンと白熊が抱擁しているイラストのものがあった。かわいいでしょ? と言われてみると、なるほどかわいい絵柄である。そうか、ペンギンと白熊か、遠距離恋愛なんだね、と呟いたところ、家人が怪訝そうな表情をするので、南極のペンギンと北極の白熊だから、と説明すると、吃驚した様子で、だってどっちも寒いところに棲んでいるんじゃないの、と言う。たしかに寒いところではあるけれど、私の記憶のなかでは、と言うか、たぶんふつうの地球では、ペンギンは南半球に白熊は北半球に棲んでいるはずである。イラストのご両人(人じゃないか)はやはり超遠距離恋愛ということになるのではないだろうか(無駄な力説)。

きょうの一首。そうしたものはたぶん他にいくらでもあるだろうけれど、私の場合、冬のこの時期、とりわけその二つに惹かれてしまうようである。細かいことを言えば、その一つは、よく似ているがアクティブな印象を欠いたタイプのものでは魅力が半減し、もう一つは、絶対的に移動販売によるものでなければならない(ふたたび無駄な力説だったか)。

 それを買ひに行きはしないがついでならつい買ふロト6と焼芋/荻原裕幸

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December 09, 2012

2012年12月9日(日)/初雪日和

寒い。名古屋ももういつ初雪が降ってもおかしくない寒さだ。日曜のしんとした午後、留守番をしながら、待っていることがあって、かなり落ち着かない気分でいる。食事もする気になれないとか思っていたが、それでもやはりお腹は空くので、パンを齧りながら机に向かっている。と書いていたところで電話が鳴った。待っていた電話だった。気分がすうっと落ち着くとともに、猛烈に空腹を感じはじめる。これからがっつり食べようと思う。(追記。その後、日が暮れてから、名古屋でほんとに初雪が降った。)

短歌誌「未来」十二月号に、岡井隆さんと野口あや子さんの対談が掲載されている。結社の全国大会の折のものらしい。その中で、歌会をめぐるやりとりがあって、互選の点数について、他人に負けるのは嫌という岡井さんと気にならないという野口さんが対照的で興味深かった。発言には建前が含まれているのかも知れないが、二人のふだんの言動からして、本音にかなり近いのではないかと思われる。私は、点数の多いときはやはり点数は重要と考え、少ないときにはあまり重視するのもどうかと考える御都合主義者だが、詠草をまとめるときは必ず、満点をとりにゆく気構えでいる。私も含めて、選歌者は選歌時に自身の価値観を曲げることはない。と言うか、価値観というのは曲げることができないからこそ価値観なのである。その頑固な価値観が、参加する人の数だけ揃っている歌会の場で、それらすべてを突き抜けてゆくような作品をめざすのは楽しい。結果がともなうことはほとんどないわけだが、私の感じる歌会の醍醐味はつねにそこにある。

きょうの一首。意識して見るたびに微妙に違う印象である。それが気分によるものなのか、あるいは季節や技術や行先や流行に左右されているのか、私にはさっぱり見当がつかない。直に訊けばそれで済むことなのに、なんとなく訊かないままでいる。

 なめらかにうねらせにぶくとがらせて雪のなかゆく妻の眉引/荻原裕幸

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December 08, 2012

2012年12月8日(土)/余震延延

昨日、東北から関東にかけてのかなり広い範囲で、震度五弱におよぶ大きな地震があったという。昨年の震災の余震なのだろうか。津波の警報が解除されたと報道されるまで、名古屋にいても動悸がしずまらなかった。私の周辺は静かである。私の日常も穏やかである。それでも、昨春からずっと私のなかのどこかで何かが揺れ続けているのだろう。

私がはじめてビートルズの曲をそれと意識して聴いたのは、たしか一九七五年だったと思う。解散後すでに五年が経っていたわけだが、その年の曲を聴くような感覚で聴いていた。友人から赤盤と青盤の録音テープを借りて、その後はドーナツ盤やアルバムを何枚か買った。友人の兄たちには熱狂的なファンが多かった。なかの一人はほぼすべてのレコードを揃えていた。その友人宅によく遊びに行った。将棋や麻雀に耽っていた背後で、つねにビートルズの曲が流れていた。私は熱狂はしなかったが、できなかったが、好きではあった。名曲の数々がいまもカバーされているのを聴くと、懐かしく、鼻の奥につんとした感じがたちあがることもある。それから十数年後、いまから二十数年前、こんな一首を書いた。「友に来る悲しみわれに来ざること悲しまむけふジョン・レノンの忌」。第二歌集『甘藍派宣言』に収録している。

きょうの一首。風邪をひくときは、あっと言う間で、風邪気味とか風邪っぽいと感じるときは、ほとんど風邪にはならず、気味のままで終ることが多い。本格化するのを警戒して体調に留意するからだろうか。先日も、風邪っぽいなと思う瞬間があったのだが、幸いなことに、っぽいだけで済んだようである。からだのしくみというのは不思議なものだなといまさらながら思う。

 んに濁点があるやうな妙な声がでて鏡の奥の風邪気味ののど/荻原裕幸

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December 07, 2012

2012年12月7日(金)/戦国大笑

大雪(おおゆき、ではない、念のため)。冬至まであと半月である。昨夜は東桜歌会の忘年会だった。栄の繁華街のフランス料理店で。アルコールと食事とデザートと仲間に囲まれて三時間ほど歓談する。男女比が極端で、女子会に顔を出しているような感じだった。来年もよろしくお願いします、と言い交しながら、ああ、もうそういう時期なんだなと実感する。

モバゲー「戦国コレクション」のテレビCMで、平原綾香の熱唱している曲の歌詞がもうどうしようもないくらい可笑しい。豊臣秀吉篇では、織田信長の草履を懐に入れて温めたエピソード、上杉謙信篇では、武田信玄に塩を送ったエピソードがそれぞれパロってあるのだが、強引なまでに恋愛設定につなげてことばの綾のような落ちをつけるあたり、どうしたらそんなにナンセンスかつセンス良くまとめられるのかと感心しながらげらげら笑った。小技も随所にきかせてあって、秀吉篇のバックで、どぉんとこぉーるみぃさぁるー、などとコーラスが入る箇所では、もう腹が痛くて倒れそうだった。この半月ほど、思い出すたびに笑っている。作詞は誰なんだろう。見事なまでの才能の無駄遣い、と絶賛しておきたい。

きょうの一首。きょうは朝日カルチャーセンターの講座「はじめての短歌」の日だった。栄のスカイルの教室で。きょうの題は「飾」。題詠の作例として見せたのは以下の一首である。あたりがたのしげになればなるほど、むしろさびしげなものが目にとまるようになる。とりわけ十二月は。

 飾るにはなにかさびしきいろどりの花束棄ててある冬の街/荻原裕幸

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December 05, 2012

2012年12月5日(水)/極月五日

早朝、日々更新される「新・増殖する俳句歳時記」を開いてみると、私の俳句が紹介されていた。感謝。きょうの筆者は八木忠栄さん。ちょっと浮かれた気分になる。夜、ひさしぶりに伏見周辺を歩く。しばらく見ない間に、街の表情がかなり変っていた。そのむかし、朝日新聞名古屋本社でアルバイトをしていた頃、この界隈で飲みかつ遊び歩いていたのを思い出す。そう言えば、湾岸戦争がはじまったときも、伏見の居酒屋でそれを知ったのだった。

 ぐちやぐちやつと咲いとけば大丈夫なんだつて顔ほぐしゆく朝顔に云ふ/藪内亮輔

短歌同人誌「率」第二号に掲載された連作「適当な世界の適当なわたし」三十九首のなかの一首。書くという行為に対するメタ意識を見せながら書く、そんな屈折したパッションのようなものが漲っている興味深い連作で、そこから推し量ると、これは、一首まるごとメタファかアレゴリーとして書かれた作品かも知れない。しかし、この一首は、単独で読んでもおもしろい。私には、初秋の未明、咲きかけた朝顔に向かって、口調はちゃらいが真顔で語りかける人物のリアルな姿が目に浮かんだ。朝顔への語りかけは、つまりは自身への語りかけなのだろう。私の内面が私の内側ではない場所にあり得る奇妙な事態を巧みに捉えていると言えようか。日常的な情景や感覚をこれだけ活写できる力があれば、それ以上の主題が直接的に作品の表面に出ていなくても、十分に世界を相手にできる、という好例かと思う。

きょうの一首。わさびがききすぎといったような身体的な刺激を除けば、私の流す涙のほとんどは、瞬時には整理できない感情の束のようなものがひきがねになっている気がする。人の死をめぐって泣くときも、悲しいとか淋しいとか感情がはっきりしたかたちになると、不思議に、涙がとまる。

 枯菊をどこか近くで焚いてゐるのかこの涙どこから来るか/荻原裕幸

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December 03, 2012

2012年12月3日(月)/名歌明快

中央自動車道、笹子トンネルでの惨事で、助けを求める悲鳴を聞いたという人が、テレビの報道の質問に答えていた。無表情に近いように見えた。責任感の強い人なんだろうなと思う。悲鳴の重さに自身が潰されないよう、興奮状態で変に明るい饒舌になるか、しばらく他人とは口を利かないか、そうなってもしかたないほどの状況なのに。天井の崩落の原因は劣化によるものらしい。管理会社は早々に検査の不備を認めているという。

きょうは同朋大学の文章表現の講義の日だった。先々週からの流れで、定型詩についての簡単なまとめをしてから、短歌の解釈ないしは鑑賞をしてもらうことにした。栗木京子さんの、例の「観覧車」の一首を、ほとんど何の説明もないまま見せて、自由に書いてもらったところ、それぞれに個性的な解釈や鑑賞ではあったが、すべての学生が、恋愛をめぐる感覚について、要点をきちんと読めていた。けだし名歌とはそのようなものなのだろう。短歌においては、明快である、ということに、私はいまだに抵抗感がある。どれほど明快であろうとしても、その抵抗感が、何かしら私のことばを曇らせる。日のひかりを正面から浴びているような文体にはならない。難儀な資質である。

きょうの一首。恋人は要らないの、ともその人は言った。であれば、二番目であることにはそれなりの価値もあったのだろう。すべてかゼロかで考える必要はなかったのかも知れない。しかし、それを価値だと感じられるほど私は大人ではなかった。もちろんいまだってそういう意味での大人ではない。

 二番目に好きよだなんてたぶんもうどうにもならぬ冬の夕焼/荻原裕幸

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December 02, 2012

2012年12月2日(日)/史努比的

早々と、と言うべきか、あるいはもうそういう時期なのか、マンションのお隣りさんが、クリスマスリースを玄関に飾った。例年かなりシックな感じのものを選んでいたと記憶するが、今年はスヌーピーがサンタクロースの衣装で愛想をふりまいている。そう言えば、ハロウィンのときの飾りも例年と少し傾向が違っていたような気がする。他人の家庭の事情を憶測するのもあれだけど、この種のことの主導権が、奥さんからお嬢さんたちに移行したのかな。

短歌の作品にフィクションを入れることを嫌う人がいる。フィクションを入れるとは言っても、それは、私の体験した要素の再構成であったり、ある仮定や仮想のなかで私がどうふるまうかを描いたりするケースが多く、作品の是非に直接影響することはないように思う。ただし、たぶん作者個人の感覚を裏切るフィクションはだめだろう。日常や仕事や住む社会や時代など、私の、広義での環境を作中において変えることは可能だが、人格を変えることは無理、と言うか、それでは作品にならないようだ。「私の視点」を活用することで成立している短歌の、現在のところのフィクション的限界は、おそらくそのあたりにあるのではないかと思われる。

きょうの一首。辞書的に考えれば、独身と未婚は同じことを意味しない。私がそれを同じように使ってしまうのは、結婚や離婚が小事化してしまう前に使い慣れたことばの感覚をそのまま引きずっているからだろうと思う。それにしても、家人からこの種のことを言われるとどきっとする。べつだん深い意味はないようなのだけれど、そもそもは他人と他人なのだから。

 独身と未婚とは少し違ふんぢやないのと妻に言はれて師走/荻原裕幸

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